2.10.2025

[film] Chantal Akerman par Chantal Akerman (1997)

2月1日、土曜日の晩、BFI Southbankで見ました。

2月〜3月は、ここを中心にChantal Akermanの大規模な回顧特集 - “Chantal Akerman: Adventures in Perception”があって、その最初の上映。

BFIの大看板は本特集のChantal - 基調色はJeanne Dielmanのガウンとカーディガンと部屋の色 - になるわ、Sight and Sound誌のChantal特集号は過去のインタビューやレビュー(J. HobermanがVillage Voiceに寄稿したのとかJonathan Rosenbaumの過去の論考とか)を網羅して大充実だわ、Soho のマガジンスタンドのウィンドウが一面これの表紙で埋まっているわ、”Jeanne Dielman, 23, quai du Commerce, 1080 Bruxelles” (1975)は公開50周年記念で全英でリバイバルされるは、このBFIの特集もフルではないが英国をツアーするそう。 この裏で何が進行しているのか(しねーよ)知らんが、ありがたく見ていきたい。

でもこの初回の上映も含めてあまり盛況とはいえない - Sold-outしたのはないかも - という客の入りで、それはそれで納得かも(満員だったらちょっと変)。

コロナでロックダウンしていた頃、Chantal(とAgnesの)は配信で結構見たので今回はそんなに行かなくてもよいか、と思っていたのだが、中編〜2時間いかない作品の上映にはおまけのようにTV放映されただけの短編作品などの併映がついていて、これらって見ていたかしら? というのも多くて、結局見てしまうことになるのだった。 以下、上映された順番で。


Akerman – Examen d’entrée INSAS – Knokke 1967 (Films 1-2)
Akerman – Examen d’entrée INSAS – Bruxelles 1967 (Films 1-2)

Chantal Akermanが国立の映画学校(INSAS)の入学用にモノクロの8mmフィルムで撮って提出してAcceptされた作品、というか全部で4つ、ぜんぶ足しても14分程の断片。Chantalの友人の女性が夏の町を歩いたり靴屋に入ったり花火を眺めたり、の昔のアルバム。一瞬だけ写っているのはChantalのお母さんなの?


Saute ma ville (1968)

↑で入学した学校をさっさと中退して、18歳のとき、いきなり撮りたいんだ!と思いたち35mmで一気に撮ってしまった彼女のデビュー作 - 13分。 英語題は”Blow Up my Town”。

しゃかしゃかしゃかどっどっどぅーとか口の中でせわしなく音をたてたり呟いたりしながらChantalがアパートらしき建物に駆けこんで、そのままリフトで上にあがって(おそらく)自分の部屋に入って入り口をテープでとめて、花を飾ってスパゲッティを食べて靴を磨いて掃除をして、ガス栓を開いてどっかーん。

世界で最初かつもっともパンクな〜 パンクなんてなかった頃だけど、こういうもん、ということを示した映画だと思う。ゴダールみたいに臭くないし。 最初にこうして自分を粉みじんに吹っ飛ばしてしまったので、この後の彼女(たち)はどこにだって行ける、現れるようになった。


Chantal Akerman par Chantal Akerman (1997)

↑から更に30年が過ぎて、Janine BazinとAndré S. Labartheによる”Cinema of Our Times”というTVシリーズ?の要請を受けて彼女が自分で自分を紹介していく。(このシリーズ、すごい面々が出てくるのね)。

最初にカメラに向きあったChantalが自己紹介をして、そこから自身で編集したと思われる自作品を繋いでいく。

改めて彼女の作品の主人公たちのカメラとの距離について - カメラはあくまでChantalの目とボディとなって、その距離を保ちつつ被写体に接していく。その距離のルール、法則のようなものはずっと維持されているような。あとは光に対する/向かう態度 ~ いろんなスイッチのオンオフとか、窓を開ける動作とか。

抜粋映像集でおもしろかったのは、”Les Années 80”(1983)でブースで歌うAurore Clémentの前で腕をぶんぶん振りまわしながら指揮(?)をしている姿と、”Jeanne Dielman”の靴磨きのシーンと”Saute ma ville”のそれを繋いでみせたところ、とか。 なんでそれが - それをどうしておもしろいとおもってしまうのか、を考えさせてくれる、自分はそういう映画を好きなのだな、と改めて思った。 のと、それと関係しているのかもしれないが、何度でも見たくなる。それは記憶の答え合わせをする、というよりも、別の新たな出会いがあることを期待しているかのような。そしてそれは間違いなくやってくるの。

あと、彼女のどの映画にも共通したやかましさ - 絶えず落ち着かずにがちゃがちゃなんか鳴っていたり騒がしかったり、それは彼女自身がそういう人だったから - という辺りはじっくりと見ていきたい - もう見てる。

2.07.2025

[theatre] The Years

2月1日、土曜日のマチネをHarold Pinter Theatreで見ました。 
昨年Almeida theatreで上演されて、Guardian紙の2024年演劇ベストとなった作品のリバイバル(?)。

原作は2022年にノーベル文学賞を受賞したAnnie Ernauxの小説、”Les Années” (2008) - 「歳月」(未訳?) - マルグリット・デュラス賞、フランソワ・モーリアック賞を受賞している。脚色・演出はオランダのEline Arboで初演もオランダ。彼女はこれの前にはMichael Cunninghamの”The Hours” (1998)の劇作もしている(見たい…)。 

小説では「彼女」とされているErnaux自身を世代の異なる5人の女優が演じていて、各自が名前で呼ばれることはない。第二次大戦の少女時代から00年代初まで、約70年間を彼女(たち)はどんな顔、貌で過ごして、生きてきたのか。彼女たち全員、ずっとステージ上にいて、男優はひとりも出てこない。

時代の切れ目には白いシーツを背景にその時代の主人公となる「彼女」の肖像写真を撮るシーンがはさまる。彼女はどんな表情、姿勢で世界に向かっていったのか - そして、その背後にある世界は大戦後の混乱期から、アルジェリア紛争、60年代の学生運動、ヒッピーの自由、新しい技術、バブル、結婚、倦怠、など、激動ではないが変わるものは変わる - 時代時代の空気を反映して、当然年齢と共に彼女(たち)の服装も態度も表情も変わっていく。 その時代の纏い方、文化や音楽の使い方、その相互に変わっていく姿に違和感はなくて、それが彼女(たち)の像と歳月(The Years)と共にどう変わっていったのか、変わらないもの、忘れられたもの、忘れられなかったものはなんだったのか、彼女(たち)はどう向かいあっていったのか、など。 肖像写真の背景となった白いシーツはドラマのなかで汚れたり汚されたり落書きされたりして、それらは時代ごとに幟のように掲げられ、あるいは壁の落書きのように貼られてそこにずっとある。

これのひとつ前に見た映画”Here” (2024)も、こんなふうに描かれるべきものだったのかも知れない。(タイトルは”There”、かな)

Annie Ernauxの別の小説 -『事件』を映画化した”L'evénement” (2021) -『あのこと』でも描かれた(当時違法だったので闇で実行した)堕胎のシーンはこの舞台にも出てきて、やはり怖くて凄惨で、気分が悪くなってしまった客がでた、ということで急遽15分くらいの中断があった。それくらい血まみれの息がとまる場面で、中断後に止まったところからすんなりそのまま再開したのを見て俳優さんってすごいな、って改めて思ったり。

それぞれの時代における彼女(たち)の「生きざま」を問うようなものではないの(そんなの問うてどうする?あんた誰?だれが何の資格があってよいとかわるいとかいうの?)。 彼女は例えばこんなふうにしてあった、ということ、人間関係や社会や歴史がどうあろうと、数十年かけて、彼女は自分の足で立って歩いて舞って、こんなふうに生きたのだ、わかるか? って。 最後、汚れてくたびれた布に、彼女たちひとりひとりの顔がモノクロで投影され、それがステージ上をゆっくりと回っていく。そうやって語られる”The Years”。 個人史と社会史は、例えばこんなふうに交錯しうるし、影響を与えあうのだ、と。20世紀の真ん中から21世紀にかけて、だけじゃなくて、実はずっとそうだったんだよ、何を恐れることがあろうか、って。 日本でも上演されてほしい。とても強く、でもぜったい正しい - 時間が流れていく、その正しさとは例えばどうやって示されるのか、を考えさせる舞台。

ラスト、主演の5人の表情と立ち姿がすばらしくよくて、もう一回見たい。

2.06.2025

[film] Here (2024)

2月1日、土曜日の昼、IslingtonのVueっていうシネコンで見ました。

英国の公開日は1/17だったのに、もうロンドンの中心部ではない少し外れたシネコンで朝と晩の2回くらいしかやっていないのだった。

監督はRobert Zemeckis、共同脚本にEric Roth、原作はRichard McGuireの同名グラフィック・ノベル(2014)。原作本は出てすぐの頃にNYで買って転がして遊んだりした。

ううむやはりそうか(ちょっと安易すぎない?)、というかんじで、画面(スクリーン)はひとつの家のリビングの窓に向かって固定で、最後までほぼ動かない(最後の最後に少し..)。その固定の枠のなかに小さな窓ができたり開いたり、その窓が広がって画面全体を覆ったり縮んで消えたり、でも視野の枠はあくまで変えず変わらず。その枠のなかで先史の、古生物や恐竜がいて、隕石が降ってきて焼き尽くして氷河期がきて、原始人が現れて、ネイティブ・アメリカンがきて、独立戦争の時代になって、正面に邸宅ができて、大きなリビングをもつこの家が建って、リニアだとこんな流れになっていく景色を伸縮自在の小窓経由でランダムに行ったり来たりしていく。 恐竜や原始人の家族までカバーするわけにはいかない(なんでか?)ので、飛行士とその妻、リクライニングチェアを発明した男と陽気なその妻、主人公の2世帯の後に入居するアフリカン・アメリカンの家族(コロナが来て家族が亡くなる)、そしてメインに来るのは戦後、この家を買ったAl Young (Paul Bettany)とRose (Kelly Reilly)の夫婦と、その息子のRichard (Tom Hanks)、大きくなったRichardが連れてくる妻Margaret (Robin Wright)、間を置いてよぼよぼになったRichardが家を買い戻しにやってくるシーン、同様に老いてすべてを忘れてしまったMargaretを連れてくるシーンもあったりして、彼らがCGなのか特殊メイクなのか(… AIなんだって)、若い頃から老いた頃まで演じ分けて、でも別にこんなのを見せたいわけじゃないよね。

Alも息子のRichardも、家族のために自分の夢を捨てて、ふたりの妻たちはそんな夫たちに泣いたり振り回されたり、典型的な戦後のメロドラマ、家族ドラマのテンプレが展開される - その背景には不眠不屈のアメリカン・リビングがあり、そのリビングではサンクスギビングで家族親族が集まるディナーが懲りずに繰り返され、そういう最大公約数のようなところに集約されるアメリカの”Here”。みんなの記憶が集積される想い出アルバムのような造りで、でもそうやって懐かしまれる、あったあったねえー、ではなく、そういうページ、レイアウトされた歴史のありように気付く → 自分の”Now”に思いあたる、ということが原作本のコアにあったはずで、それは映像で説くのは難しいから、こっちのわかりやすい方に落としたのか、とか。

この導線ってやはり物理的な、キューブみたいな本だったからおおー、ってなったのではないか。

これが日本のだったら、溝口の格子模様(畳と障子)のなかに展開される、家父長制がちがちの金太郎飴的に明白なのができあがったはず(見たくない)。
これがイギリスのだったら、“Here”に幽霊から妖精からいろんなのが湧いてきてわけのわかんない、でも300年くらいそのまま同じ景色になるのではないか(見えるわ)。

Christopher Nolanがやったらどうなっただろう? まちがいなくあの本棚が”Here”になって、過去と未来は繋がっているので、いつまでどこまでいっても“Here”のままで止まってしまうの。でも本がいっぱいあるならずっとそこで過ごせるよ。

Tom Hanksのおうちネタといったら”The Money Pit”(1986)で、あれと同じことをやってくれるかと思ったのにー。

2.04.2025

[film] Saturday Night (2024)

1月31日、金曜日の晩、Picturehouse Centralで見ました。

この作品は、昨年のLFFのシークレット上映(直前までタイトルが発表されない)枠で公開されて、発表直後にはみんなわーってなったのだが、その後に急に静かになったので、あれかな.. と思ったらやっぱり評判は散々なのだった。監督はJason Reitman。

でも、Saturday Night Live (SNL) ~当初は”Saturday Night” - は大好きでずっと見てきたので、公開初日に見る。 予告を見るまでもなく、つまんなくなるのはわかっていたのだが…

1975年の10月11日、土曜日の晩、生放送のコメディーショウの本番の数時間前の、プロデューサーLorne Michaels (Gabriel LaBelle)の経験した地獄のような底なしの混沌をライブで追っていく。ロックフェラーセンターの下で(Finn Wolfhardが)客寄せをしても客はちっとも寄ってこない、局の重役(Willem Dafoe)はがみがみうるさい、リハーサルはできているのかいないかぐじゃぐじゃ、John Belushi (Matt Wood)は契約書にサインすらしないでぼーっとしている、等、いろいろどうしようもない状態で本番の時が近づいて... をじりじり逐次で追っていく。

この日が失敗に終わっていたら、現在のSNLは存在していないのだが、番組もLorne Michaelsもいまだに健在なので、この晩はどうにか切り抜けたのだ、ということはわかっている - だとしたらそこにどんな魔法や奇跡があったのか起こったのか。この映画を見る限り、魔法なんて起こらなくて、ごちゃごちゃの中、なし崩しで放映が始まって、そのまま50年間続いてしまった、ということになる。それはそれで痛快なことのだろうが、映画としてこの描き方はどうなのか。

映画を見る前から感じていた、つまんないだろうな、というのは、この番組の、何が起こるのか飛びだしてくるのかわからない、そのはらはらをうまく再現できるとは思えないし、それらはアドリブ芸しかないような神経と瞬発力を持ったコメディアンたちが綱渡りの曲芸で渡ってきた - そんなライブの醍醐味を後付けで再現しようとしても… ということ。70年代の伝説のライブを、「伝説」だから、って別のミュージシャンを連れてきてカバーして見せてもしらーってなるであろうのと同じで。

わたしがSNLにはまったのは90年代初のNYで、Chris FarleyがいてAdam SandlerがいてDavid SpadeがいてNorm Macdonaldがいて、次のは00年代のはじめのWill FerrellがいてJimmy FallonがいてTina FeyがいてMaya Rudolphがいて、そういう頃で、どのスケッチも英語なんてわかんなくても異様におもしろくて、それでもやはりこういったスタイルと構成を編みだした初代メンバーの恐ろしさとリスペクトはあちこちに感じることができたし、いまアーカイブを見てもすごいな、ってなるし。

でもこの映画では、本番開始前なんてそんなもん、なのかもしれないけど、John Belushiはただのむっつりした変人だし、Andy Kaufmanはどこがおもしろいのかちっともわからないし、Chevy ChaseもDan AykroydもGilda Radnerもいるかいないか、ものすごく薄いし、現場がパニックになっていくなか、Lorne Michaelsはひとり涙目になったり開き直ったり、そんな程度で、なんでどうして本番にGoを出せたのかぜんぜんわからないただの修羅場、しかないの。

なにか新しいことを始める時って、だいたいそんなものだ、なんてしたり顔の言い草は聞きたくないしー。いや、そんなことよりも何よりも、SNLへの愛をあまり感じることができないのがどうにもしんどい。

SNLがどういうサークルだったのか、だったらこないだリリースされたドキュメンタリー“Will & Harper” (2024)のがよりよくわかるかも。


建物の前の人工の小さい池に落ちて、膝を切った。ライブハウスに行く時に転んだ時の膝の反対側。あれこれダメすぎる。

[film] A Warm December (1973)

1月30日、木曜日の晩、BFI Southbankの特集 – “Sidney Poitier: His Own Person”で見ました。

もう1月は終わってしまったので、この特集からは2本しか見れなかったことになる。残念。 上映後に主演女優のEsther Andersonとのトークつき。

Sidney Poitierは主演のほかに、監督 – これが初の単独監督 - もしている。 邦題は『12月の熱い涙』。

アメリカで、Dr.と呼ばれているのでなにかの医者と思われるMatt (Sidney Poitier)は、一人娘のStefanie (Yvette Curtis)とモーターバイクと一緒にイギリスに長めの休暇に出る。現地で友人とも楽しく再会したあたりで、怪しげな男たちに追われて困っている女性を体で隠して助けたあたりから彼女のことが気になり始めて、そしたら行く先々で何度も怪しい連中こみで見かけたり会ったりすることになって、きちんとした形で会ってみると彼女はCatherine (Esther Anderson)という名の、アフリカのどこかの国の大使の姪で、彼女を追っかけていたのは彼女の御付きの連中であったことがわかる。

Catherineは語学に堪能で、特にアフリカの文化には造詣が深くて、一緒にパーティなどに出たり楽しく過ごしていくと、早くに妻を亡くしているMattはあっという間(あんなあっさり簡単でよいのか)にCatherineと寝てしまい、彼女付きの連中に睨まれながらも馴染んでいって、Stefanieとも一緒に出かけたりするのだが、ヘリコプターに乗った時にCatherineの様子がおかしくなったことに気付いて、医師なので更に細かく調べてみると難病であることがわかって…

そうか難病モノだったか、と思ったのだが、ここでの難病のありようは、ふたりで楽しく過ごそうとしていた時間を壊してしまってどうしよう.. ってあたふたするその繰り返しが主で、それって子供の頃にTVでやっていた山口百恵主演のシリーズ(親に見せて貰えなかったけど)と似た70年代テイストの、いなくなったら辛くて死んじゃう、というよりも、とにかくなんとかしなきゃ、という焦りが前に後ろにつんのめっていくような類のやつで、そんなに怖くなくて悲しくもならなくて、国にとって大切な王妃のようなお嬢さまがそんなふうに野放しでよいのか、って最初の問いに戻ったりするものの、とにかく大変そうなかんじは伝わってきて、でもそこまでなの。

『ローマの休日』 (1953)+『ある愛の詩』 (1970)から影響を受けた、とあって、このふたつの映画の合成となると、どっちにしてもすごく大変な事態(当事者たちにとって)だと思うのだが、真ん中のふたり - Sidney PoitierもEsther Andersonも - それらをなんか、なぜか超然と受けとめていて、最後も無事を祈る、みたいに飛行機でふわっと飛んで帰っていっちゃうので、見ている側としてもとにかく無事を祈る、しかないのだった…  

あと、これはこの映画に限った話ではないのだが、70~80年代のロンドンが舞台だったりすると、これどこだろ?ってきょろきょろして落ち着いて見ていられなくなるのはよくない。

上映後のEsther Andersonさんのトークは、映画のCatherineがそのまま活動していったら、と思わせるようなエピソードだらけでびっくりした。

1943年のジャマイカに生まれてChris Blackwellと共にIsland Recordsの設立に関わり、Bob MarleyやJimmy Cliffといったレゲエ・ミュージシャンの紹介をして彼らの写真を撮って.. えーとつまり、この人がいなかったらジャマイカの音楽がイギリスのパンクとぶつかってあんなふうになったりすることもなかったかも… とか? あと3時間くらい話を聞きたかったかも。

Sidney Poitierの撮影現場はとても楽しくて、彼はあのイメージ通りのすてきな人だった、っていやそんな知ってることよりもー。

トークが終わって、彼女のところに挨拶に来た人に「ラスタファーライ」ってものすごくナチュラルに挨拶してて、おお! っていちいち。

2.03.2025

[theatre] The Little Foxes

1月29日、水曜日の晩、Young Vicで見ました。

原作 (1939)はLillian Hellman。彼女の戯曲が上演され、俳優の声と共に演じられるとどんな形になるのかを見たい - 演劇を見始めておもしろいと思うようになったのはこの辺で、原作の(今の時代における)位置づけ以上に、そこには演出家による解釈があり、過去からの上演の歴史があり、主演俳優(の選定)による重みづけがあり、時代の要請のようなものもあり、それらの交点として、今ここの舞台ってあるのか、など。演出はLyndsey Turner。

過去の舞台で主人公のReginaは、Anne Bancroft、Geraldine Page、Tallulah Bankhead、Elizabeth Taylor、Stockard Channingといった錚々たる女優たちによって演じられてきたのね。

あと、1941年にはWilliam Wylerによって映画版も制作され、Lillian Hellmanはその脚本も書いている(一部でDorothy Parkerが協力)。映画版でReginaを演じたのはBette Davis、夫のHorace 役はHerbert Marshall、撮影はGregg Toland … ものすごく見たい(1930〜40年代のWilliam Wyler監督作品はぜんぶ見たい)。IMDbにはリリース直後の『市民ケーン』が当たらなかったので、これと二本立てで再リリースされた、なんて書いてある…

舞台は横に長くのびているリビング、奥にスライドするドアがありその向こうにもう一つの部屋があって、その中で男たちがひそひそ打合せ(悪だくみ)などをしたりしている。

20世紀初めのアラバマ、南部の裕福な家庭に生まれながらも、その富や栄誉を享受しているのは Regina (Anne-Marie Duff)の兄たち - Ben (Mark Bonnar)とOscar (Steffan Rhodri)で、彼らが特に腹黒いわけではないのだが、Reginaからすれば彼女がどれだけがんばっても得られないものを、男性であるというだけで当然のものとして手にして/手にできるものと何の迷いもなく信じていて、彼女は自分の言いなりにできそうな脚が不自由で車椅子のHorace (John Light)と結婚して歯を食いしばって耐え、株の買い占め、政略結婚などによる強引な財産(だけでなく精神的なところも含め)の寡占に抵抗すべく、誰にも頼らずひとり策謀を練って実行しようとする。親族にはBenの妻であるBirdie (Anna Madeley)や自分の娘Alexandra (Eleanor Worthington-Cox)といった女性たちもいるが、もはや自分しか信用できなくなっている。

Anne-Marie Duffの演技は十分にふてぶてしく邪悪で力強いのだが、なんで彼女がそうなって、そこまで酷い仕打ち - 夫の心臓発作を放置とか - をするまでになってしまったのか、の背景 - アメリカ南部の男性中心社会の(相続なども含めた)圧倒的な理不尽・不均衡 - がきちんとかつ十分に語られないので、ただのぺったりした悪女もので終わってしまっているようなー。積もり積もった愛の不在と無意識的なところも含めた集団的な女性卑下・蔑視がずっとあったから、という女性の入り込めない土壌をはっきりと示して、その上で/それでもー というところに繋げないとReginaの悪は生きたものにならない、よね。

Lillian Hellmanの原作が戦後の復興期に出されたこと、それを善悪の境界を突き抜けた強さ・存在感をもつ女優たちが演じてきたことには意味があったし、それがいま(だけじゃなく)再演されることにもはっきりと意味はある、はずなんだけどー。というような難しさを抱えた舞台になってしまうのだなー、というのはわかったかも。


2.01.2025

[film] A Complete Unknown (2024)

1月27日、月曜日の晩、Picturehouse Centralで見ました。

帰英したら真っ先に見ようと思っていたのだが、いまこちらの映画館で一番に掛かっているのは“The Brutalist”で、他には”Maria”とか”Emilia Pérez”とか、オスカーに向けて横並び状態なので、そんなに騒がれていないかも。

監督はJames Mangold、脚本は彼とJay Cocksの共同、原作はElijah Waldによる2015年のBob Dylanの評伝本 - ”Dylan Goes Electric!”。 あの邦題はよくわかんない。これは断じて「名前」や名声を巡る話ではない(そこもひっくるめての、なのか)と思う。

Dylanを演じるTimothée Chalametについては、先のSNLのパフォーマンスで嫌になり、その後の彼の露出の仕方、売り方を見て、あーこういう人なのか、と距離を置くようになった。

1961年にNYにやってきたBob Dylan (は、まず病院でほぼ寝たきりのWoody Guthrie (Scoot McNairy)と彼の面倒を見ているPete Seeger (Edward Norton)と会って、ギターで一曲弾いて聞かせて、それからNYのフォークシーンに出入りするようになって、いろんな人々と出会って、そこから我々の知るいろんな伝説が渦を巻いていくわけだが、それらすべては、まず彼が手にするギターと歌によって導かれて、まずは彼の音楽を起点とする、というルールが場面を貫いて掟のようにある、という点でこれは紛れもない音楽映画で、音楽が途中でぶちっと切られて次のシーンへ、のようなのが殆どないのはよかった。いい曲だねえ、って首を振っているうちに140分経っている。

最初のガールフレンドが、あのジャケット写真で有名なSylvie Russo (Elle Fanning) - 実際の名前から変えてある –で、そこから既にシーンのスターになっていたJoan Baez (Monica Barbaro)のところにも入り浸って行ったり来たり。あとはManagerとなるAlbert Grossman (Dan Fogler)がいて、Johnny Cash (Boyd Holbrook)がいて、Bob Neuwirth (Will Harrison)、Al Kooper、Mike Bloomfield、などが順番に現れる。 テープレコーダーをいじっているAlan Lomax (Norbert Leo Butz)が映ったのがうれしかった。 朝ドラの枠(15分)で、一日一曲、彼らとの出会いをずっと繰りひろげていくのが見たい。

こんなふうに彼を求めて周囲にいろんな人物がひしめいていく反対側で、Dylan本人はほぼ何も語らず、思わせぶりに微笑んだり殴られたり、いつの間にかできあがっているような曲を場面場面で歌って去っていくだけ。もちろん、歌うことで何かが明らかになったり解決したりするわけではなく、聴かされた人々はその場で痺れて動けなくなる、それはそれで恐いと思うが、そういうかたちで伝説が練られていった - Dylan本人に対する謎と、その重ね着と、その上に積もっていく人気と売り上げ、これらに埋もれてどんどん見えなくなっていく彼 – これが”A Complete Unknown”というもので、彼に恋をした女性たちからすれば地獄だと思うが、それらも含めて”A Complete Unknown”で、かっこよくて、曲がよければよいの? など、そういう形で示されていく彼の周囲の文化のありよう、その蓄積? 変容? のようなもの。

Newport Folk FestivalでDylanがエレクトリックを鳴らすかもしれない、となった時の周囲の混乱と困惑がクライマックスで描かれて、ずっと父親のように彼を見てきたPete Seegerは、これまでのフェスが培ってきたよき「伝統」が壊されてしまう懸念を表明するのだが、結果はみんな知っているとおり。 この音楽映画に欠けているものがあるとすれば、そんな全方位からの抵抗に抗ってもなお、彼をエレクトリックに向かわせたものは - 苛立ちなのか懐疑なのか嫌悪なのか、単なる好奇なのか - 何だったのか、を彼の視野 - 彼が当時見たり聞いたりしたもの – から拾いあげることで、それがないので、これらはぜんぶ彼の勝手で、それは彼が天才だったから、で終わってしまう。それは事実なのかもしれないけど、そうでもないことも知っている。 だって当時の音楽はフォークもエレクトリックもとんでもなく豊かだったのだから。

もっとエレクトリックのビリビリしたかんじ、スネアの炸裂があったら、なぜフォークの人たちはあんなにもこういうのを忌み嫌ったのか、などもわかったかも。

この映画のTimothée Chalametは確かにかっこよいのかもしれないが、当時の実物のDylanはこれを遥かに上回って素敵だった(はず)、ってこれは年寄りが言い続けるしかないのか。というか若い子にDylanを聞かせるにはこうすればよいの、って。

これを見ておおー、ってなった人は3月のCat Powerの来日公演、行ったほうがいいよ!