10.07.2022

[film] L'accompagnatrice (1992)

9月29日、木曜日の晩、シネマカリテのクロード・ミレール特集で見ました。
邦題は『伴奏者』、英語題は”The Accompanist”。原作はロシアに生まれて西ヨーロッパを経由して1950年にアメリカに移住したNina Berberovaの同名小説 (1935)、脚色はLuc BéraudとClaude Miller。

ナチスドイツの占領下にあった40年代のパリ、ステージでスポットライトを浴びてソロで歌って輝いているIrène Brice (Yelena Safonova)を見つめるSophie (Romane Bohringer) がいて、その後にSophieはIrèneの伴奏者となるべく会いにいって弾いてみて、採用される。

どこに行っても人を惹きつけるオーラと笑顔と歌声を放つIrèneとは対照的に客には背を向け、彼女の歌声に寄り添って音楽に集中し、ステージ上で彼女の歌の魅力を最大限に引き出すことがSophieの使命で、Irèneが夫や周囲の人たちに注ぐ目線と彼女に対するそれは明らかに違う(どちらかというと家政婦に対するそれ)のだが、音楽の伴奏については信頼してくれるので、それでいいか、くらいで、母と暮らしていたアパートを出て、Irèneの邸宅に越して、伴奏だけでなく身の回りの世話もしていくようになる。

Irèneの夫のCharles (Richard Bohringer)はヴィシー政権に近いドイツ関係者と商売をしているので生活には困らないものの世間の目に曝されてぶち切れたりしてて、Irèneには夫以外の恋人がいることもSophieは知ってしまうのだが、もちろん誰に言うこともない。戦争が来ようが家が荒れようがIrèneの歌に寄り添って弾いていくだけ。

戦局が厳しくなればなるほどドイツ寄りフランス人に対する風当たりは増して、商売への影響も出てきたのでCharlesとIrèneとSophieはポルトガル経由で英国に渡ることにするのだが、英国側の入管でCharlesとIrèneは対独協力者として拘束されて、英語もできないSophieは取り残されてどうしよう、になったところで拘束直前にIrèneのかけた1本の電話(たぶんパリで会っていたIrèneの彼への)であっさり釈放されて、3人はロンドンに向かって、新たな生活を始めて…

戦時下のドラマ、というのもあるが、戦時の波にもまれていく(本来であれば)ヒロイン(Irène)、の方ではなく、「伴奏者」として彼女のレールに並走していくことを選んだ女性の成長と目覚めを描く、というか。 もうひとつは、SophieがIrèneを見つめ、IrèneがSophieを見つめ返す、そこに愛はあったのかなかったのか、それは「伴奏」によって満たされるなにかだったのだろうか?

“L'effrontée” (1985) - 『なまいきシャルロット』で主人公のCharlotteが少女ピアニストClara Baumanに憧れて彼女についていきたい! と思うようになるのと同様の少女ドラマ、のようでいて、こちらのSophieはCharlotteよりもずっと静かで、自分の考えや思いを外に出そう、自分を彼女の目線に絡ませよう、とする意思は(ラストを除けば)なくて、それって時代とか自分の仕事をもつ前と後、の違いによるものなのかというとそれだけではなくて、Sophieは自分は伴奏者 - 歌曲の伴奏をすることが使命 - で、伴奏というのは楽譜と歌手(歌唱)の間に立って、双方からのインストラクションや制約の間をぬって渡っていくものなので、そういうところに縛られて生きる人なのだ、という内側の厳格な掟と、そのありようが戦時下のドイツとフランス、Irèneの夫と恋人、の対立の構図によってさらに複雑な縛りや絡みをもたらすようになり、全てを振りほどくかのようにいいかげんにしなさいよあんた!(Sophieの内の声)になってしまう様が描かれている。

前半の伴奏者として仕事を始めた頃のSophieの歓びが、Irèneの恋人 - 彼の目を見たこと、彼女の夫との距離を知ってしまったこと、自分もすれ違った男性に言い寄られたこと、などによって微妙に変化し、それでも「伴奏者」としてあることで何かを保とうとする、劇中、殆ど何かを吐きだそうとしない彼女は内側に何を抱えこんでいたのか。そしてラストの、船で出会った彼との再会した後の表情 ー 。

主演がCharlotte GainsbourgではなくRomane Bohringerだったのは、これでよかったのかも。

あと、Irèneの家にいたすごくかわいい猫はどうなったのか、誰か教えてほしい。

10.06.2022

[theatre] The Glass Menagerie

9月30日の昼、新国立劇場で見ました。Tennessee Williamsの最初にヒットした劇『ガラスの動物園』(1944)。

これの舞台だと、2005年にBroadwayのEthel Barrymore TheatreでAmanda - Jessica Lange、Laura - Sarah Paulson、Tom - Christian Slater、Jim - Josh Lucas というキャストのを見ていて、これもすばらしかった。

今回のは、Internationaal Theater Amsterdam/Théâtre de l'Odéonで上演されてきたIvo van Hove演出、Jan Versweyveld舞台デザイン、Isabelle Huppert主演による舞台劇。

ロンドンでは、2年くらい前にBarbicanで上演される予定だったのの、ものすごくよい席のチケット – Isabelle様のトーク付き - が取れていたのに、コロナ禍でたしか2回延期されて、泣きながら諦めて帰国したのが漸く来るって。いろいろつのるものもあり、こんなの当然会社やすんで行く。

始めにTom Wingfield (Antoine Reinartz)が舞台の縁、客席の前のほうに歩いてきて、客の手を借りて棒に紐とスカーフをぐるぐる絡ませたのを、えいっ、って一瞬で解いてみせる。こんがらかった糸も布もすらりと。すべてはマジックのように。(バナナブレッドのプディング、か..)

1930年代のセントルイスの下町、うっすら光っているようにも見える茶色-黄金色の壁に囲われた半地下のような穴倉のような住居にAmanda (Isabelle Huppert)と娘のLaura (Justine Bachelet)がいて、そこにTomが戻ってきて、その会話を通してこの家族が紹介されていく。Lauraははっきりそうは見えないけど足が不自由で、それを気にして学校にも行かなくなっていて、家の隅に転がって蹲り、本を読んだり音楽を聴いたり、壁に埋め込まれた戸棚の奥に自分だけのガラスの動物たちが暮らす動物園を隠している。

Amandaはそんな娘の日々のことをすごく心配してあれこれかまってしまうのだが、彼女もまた追憶のなか - 華やかで楽しかった過去の記憶の向こう側に生きている。そんな彼女たちを避けるかのようにあまり家に近寄ってこない語り部のTomは、配送会社で仕事をしながら詩を諳んじたり - 「シェイクスピア」って呼ばれる - ここからいつか出ていくことを夢見つつ、なかなか進めなくて燻っている。

Tomの高校の頃の友人で同じ配送会社に勤める – Tomより少しだけ収入はよい - アイリッシュのJim (Cyril Gueï)を家に呼んだから来るよ、と聞いたAmandaは(Lauraによい話だと思って)狂喜して、でもLauraにとっては卒業アルバムで見たりしていた憧れの人でもあったのでパニックでぐんにゃり転がってしまい、Amandaはフリルの、Lauraはややぴっちりめの衣装(by An D'Huys)でおめかしして、やってきたJimは気さくでLauraと高校の頃の思い出話をして盛りあがって、Amandaとも彼女の昔話とか料理で盛りあがって、Lauraは自分のガラスの動物園を見せてあげたり、踊ろうよ! ってArcade Fire “Neighborhood #1”に合わせてダンスをする – すばらしい高揚と解放 - のだが、そんなパーフェクトなJimには婚約者がいることがあっさりわかってしまい …

お話しの向かう先やそにに待っているであろう悲痛なトーン - ユニコーンの角は折れてただの馬になる – については十分に予測がつくのだが、それでも落ちぶれた敗者のかわいそうなドラマ、になることは断固拒否して、マジックではない、ガラスの動物園だっていい、そこにある生を抱きしめてとにかく生きようとする。同情なんていらない。

Tennessee Williamsどまんなかのエモまるだしの登場人物たちをIvo van Hoveがものすごくシンプルに清らかに造形して演出していて、彼が権力や欲望や悪徳を扱うドラマに見られるマシーン・歯車・筒抜け・ミラー、などの大仰な仕掛けから遠く離れた舞台セットも色味とか穴倉のどん詰まり感がよくて、どん詰まりなのに爽やかなかんじすら漂って、これが「愛」というものだったりするのか、とか。

そして、どこか壊れていて半分夢の世界に足を漬けてぺらぺらすごいスピードで喋って、おもしろい身振り手振りで相手の周りを飛び回って痺れさせるIsabelle Huppertの軽妙さと怖さの紙一重な演技のすばらしさ。どこかにいそうで、でも絶対いない気もする、でも彼女は間違いなくそこに生きている。そんなふうに脚や肘をつっぱって立つその姿。改めてライブで見れてよかった。

音楽だと遠く彼方で鳴っているものの他では、ダンスシーンでかかったArcade Fireのと、Barbaraの”L' aigle noir”が希望と絶望の狭間をブルースのように流れていく。

終演後のトーク - Ivo van HoveさんとJan Versweyveldさん – は時間が短すぎて、そこに通訳が入るので、ものすごく浅いものにならざるを得なかった – のはしょうがないのかー。


New York Film Festivalは佳境で、London Film Festivalも始まった。あーあーあー、しかない。なんだこの天気。

10.05.2022

[film] Passion (1982)

9月25日、日曜日の午後、映画館Strangerのゴダール80/90年代セレクションで見ました。
どうでもいいけど、「Passion 映画」でぐぐると、濱口竜介の『PASSION』がまずくるのね。

『勝手に逃げろ/人生』(1980)に続く、ゴダールの商業映画復帰第二弾。最初に見たのは日本公開時のシネヴィヴァン六本木で、この時点で見ていたゴダール作品というと『気狂いピエロ』くらい – 確か自由が丘で見た – で、あれは変なの.. 程度の感想しかなかったのだが、こちらは震えるくらいにびっくりした。 なにこのかっこいいのは! って震えた。ゴダールで戦慄した最初の1本。 撮影はRaoul Coutard。音響にはFrançois Musy。

冒頭の上に向かって線を描いて伸びていく飛行機雲にラヴェルの『左手のためのピアノ協奏曲 ニ長調』が被さっていくとこ、これだけでおおー、ってなる。ロンドンに暮らしてみてなにが素敵だったってああいう雲とか光をいくらでも見ることができることだったの。

スイスの湖のほとりの村に近い町にポーランド人の監督Jerzy (Jerzy Radziwilowicz)がやかましいプロデューサーLászló (László Szabó)と言い合いながらTV用のフィルムシリーズで活人画(tableaux vivants)を制作していく(でもうまくいかない)のと、そのJerzyの恋人で工場を解雇されたIsabelle (Isabelle Huppert)が工場主のMichel (Michel Piccoli)相手に抗議行動を起こしていくのと、制作スタッフが滞在するホテルのオーナーで工場主の妻のHanna (Hanna Schygulla)がJerzyと近くなっていくのと。 そんな4人の仕事と愛をめぐる四角関係が古典絵画の再構築の試行錯誤 - シリーズのタイトルが”Passion” – のなかで火花を散らして、そこに彼方からポーランドの連帯と戒厳令が聞こえてきて..

制作の現場で再構成されようとしている名画は、レンブラントの『夜警』とかゴヤとかアングルとかドラクロアとか、誰もが知っているような古典ので、これは現代社会のあれこれからすれば、隔絶されたひとつの世界とその像を形成している - そうやって対照される、例えば、絵画のなかに射す光と工場や周囲の山の中にある光、絵画で描かれた女性の形象と現場で浮かびあがらせようとする女性のヌード - 絵画のなかのモティーフとIsabelleやHannaの像が微かに重なっていったり、そしてなによりも「現場」がさらけ出してしまうongoingの現場感と、画家のアトリエの密室感との、そもそものギャップ等。『勝手に逃げろ/人生』における「地獄」の反対側に置かれているかのように永遠に静止している絵画の世界と。

『勝手に逃げろ/人生』との対比でいうと、はっきりと主人公Paul Godardから勝手に逃げたり散ったりしようとしていた女性たち、に比べるとこちらはまだ少しだけ愛したり見つめたり歩み寄ろうとしている – でもまだ後ろ向きで – かのような。それでもそれは(絵画の世界との対比においてなのか)”Passion” – 「受難」と呼ばれてしまうのだが。

絵画作品 – 特に主に西欧絵画 - への言及や参照はゴダールの映画のなかで常にあったもので、それは色彩であったり光であったり常に自分の作っている(いま作っている)映画との対比のなかで(or もっと大きな対象のとらえ方のようなところで)語られてきた気がするのだが、この作品ではもっとストレートに絵画作品のなかに入ってなにかを捕まえようとして、それはうまくいっているようで(悪くないし完成形が見たい - Myriem Rousselが出ているところとか)、でもここを通過して、やはり映画と絵画とは違うものだ、ということがよりはっきりしたのではないか。(この後のゴダールのデジタルへの寄り方を見ていると、なんとなく)

大好きなシーンでいうと、Isabelleが木の枝に片腕をひっかけてゆらーんてしているとこ。ここと冒頭の雲だけでー。 あとHanna、かっこよすぎてやや浮いてる。

『勝手に逃げろ/人生』のPaul Godardは車に轢かれて、今作のJerzy (JLG)は革命に身を投じるべく彼方に消えて、お前ら生ぬるいわ、って監督本人がゴダール本人のように登場して散逸していた光を束ねてライブ・ミュージックで固めたのがこのしばらく後の『右側に気をつけろ』(1987)で、最後に『ひとつの場所を Une place 地上に sur la terre』って、シンプルなところに落ちるの。『右側に..』も大好きなのだが今回の特集ではもう見ている時間がない…

もう始まっているNYFFの会場では、7日まで、ゴダール追悼で”The Image Book” (2018)をタダでループで流して続けているって、いいな。(『映画史』でもよかったのにな)

10.04.2022

[film] Bucking Broadway (1917)

9月27日、火曜日の晩、シネマヴェーラのジョン・フォード特集で見ました。

邦題は『鄙より都会へ』(読み:ひなよりとかいへ)。サイレントで、失われたものとされていたが2002年にフランスのアーカイブで発見されたものだそう。

ワイオミングのカウボーイ、Cheyenne Harry (Harry Carey)が牧場主の娘Helen (Molly Malone)と恋におちて、義父となる牧場主(L. M. Wells)からも認められて、彼女にお守りみたいのも渡してにぎにぎしていたら都会から馬の買い付けに現れたThornton (Vester Pegg)がHelenに近寄って、都会人が.. ってバカにしていたら暴れ馬とかも軽く乗りこなしちゃったりしたのでHelenはぽーっとなって、いきなり置手紙をして彼とNYに駆け落ちしてしまう。

あーあ、ってしょんぼりするHarryと義父のふたりだったが、ある日Helenからの手紙に渡したお守りの半欠けが同封されているのを発見し、これはヘルプを必要としているにちがいないぞ! ってひとりでNYに乗りこんでいって、これの裏で並行して馬の受け渡しにNYに向かう牧童たちがいて…

最初から展開は見え見えなのだが、パーティ会場に潜入して見るからに楽しんでいないHelenと地元に戻るなり傲慢で乱暴な本性を露わにしたThorntonを見るなりHarryの拳がうなりをあげて、でもひとりなので返り討ちのぼこぼこに… ってなったところでブロードウェイを馬で疾走してくる牧童たちの雄姿が!(弁士がいたら壇上でバシバシ引っ叩きまくって壇をこわすとこ)彼らがブロードウェイを北上してくるのを正面からとらえていてかっこいい。

で、連中が一斉に帽子をぶん投げてから始まる狂乱の乱闘シーンは遠近とかめちゃくちゃなのだが、そのダイナミックさ込みで沸騰していくかんじで、とにかく都会野郎なんてやっつけちまえ! なので異議なし。

それにしても、わかんないのはなんでHelenは見るからに怪しくて胡散臭いあんなのにぽーっとなって付いていっちゃったのか、って。そういうもんかしらー。

あと、ついていた伴奏音楽がややじゃんじゃかやかましすぎて、そこだけ。


Steamboat Round the Bend (1935)

9月27日の晩、↑ のに続けて見ました。問答無用の『周遊する蒸気船』

上映前に蓮實重彥さんのトークつき。今回の特集で彼のお話しを聞いたのはこれが初めて。チケットなんて取れないし。

Will Rogersの話、フォードにおける船の映画の話、当たり前かもだけど完成された話芸としか言いようがない面白さ。淀川長治さんと蓮實さんが最初に出会ったのはフィルムセンターでのこの作品の上映の時だったと聞いて、そういえばお二人が並んでいるのを見た最初って、シネセゾン渋谷で『生きるべきか死ぬべきか』(1942)の一回きりの上映があった時だったなー、とか懐かしく思い出した。でもそこよりも、あの晩は『生きるべきか死ぬべきか』の底抜けのすばらしさに唖然として、自分のなかで何かが変わったことははっきりと記憶している。

『周遊する蒸気船』。前にも一回見ていて、めちゃくちゃすごい(変な)ことはわかっていたので、淡々と余裕で入って、タコの足みたいに蒸気船が自分で自分を燃やしながらぶっとばし始めるあたりから前のめりになる。お酒を手放すことができないFrancis Fordが怪しげなお酒「ポカホンタス」(実際にあるのか少し調べてみたけど、なさそう)をボイラーにひゅん、て投げこんだらどかん!って爆発する一連の動作がキートンの映画みたいにおかしくて最高で、画面の向こうでもたまんねえなこれ、ってかんじでどかんどかんやりだして止まらなくなる。そもそもは、殺人の冤罪を着せられた甥を絞首台から救うために預言者のNewモーゼ(Berton Churchill)- 超うさんくさ - を探せ! ってなんだか思い出すのもどうだってよい適当でいいかげんなホラ話みたいなやつで、最後には絞首刑と結婚式が紙一重で交錯する。そこになんでぼろぼろの蒸気船(ぴーっ)で突撃してしまうのか、っていうばかばかしさ(とっても褒めてる)。

あと、出てくるのは変で狂った男(老人)とか蝋人形(燃料)とかばかりなのだが、婚約者のAnne Shirleyだけ浮きあがったように可憐で、そこの奇妙な非現実感もすてきだった。 こういうのに想像しただけで吐きそうな「国葬」の日に浸かることができてよかったなあ。

10.03.2022

[film] Peppermint Frappé (1967)

9月26日、月曜日の晩、Criterion ChannelでやっていたCarlos Saura特集で見ました。

邦題は『ペパーミント・フラッペ』。Carlos Sauraの監督デビュー作で、68年のベルリン国際映画祭の銀熊(Best Director)を受賞している(翌年のカンヌは68年のあれで、つぶれている)。見た理由はなんとなくー。

冒頭、ファッション誌を切り抜いて女性の目とかいろんなフィギュアを丁寧にスクラップをしている手があって、放射線医のJulián (José Luis López Vázquez) - 中年/独身/ハゲ - と地味で内気でおとなしそうな看護婦のAna (Geraldine Chaplin)が規模の大きそうな病院で仕事をしている。

それからJuliánはおめかしをして幼馴染で友人のPablo (Alfredo Mayo)の家に出かけて、作って貰ったお気に入りのペパーミント・フラッペを舐めながら結婚したばかりだという彼の若い妻 – Elena (Geraldine Chaplin)を紹介されると、彼女が彼の長年のオブセッションの対象だったCalandaという村のお祭りで太鼓をどんどこしていた女性(これもGeraldine Chaplin、計3役)にそっくりだったのではっとする。(そのことをElenaに確認しても、当然そんなの知らないと言われる)

いつも明るくご機嫌でやさしくて奔放そうなElenaにJuliánはやられてしまい、夫婦と会う度に裏でこそこそElenaと二人きりになれそうな機会を作って近づこう親密になろうとして、Elenaもそれに合わせて相手をしてくれるのだが、最後のところでいつもうふふ、とかはぐらかされて、そのうち彼の誘惑仕草がPabloとElenaの間で笑いのネタになっていることを知って、Elenaのことを諦める。

次に目をつけたのが自分の勤務先にいる静かで従順そうなAnaで、Juliánは彼女に自分のスクラップのコレクションを見せてモダン・ファッションに関する講釈を垂れ、つけまつげやウィッグをさせて日々の装いを変えさせたり、Elenaががんがん踊っていたちょっとガレージっぽいご機嫌なダンス曲(Los Canariosの” Peppermint Frappé”)をかけてみたりするのだが、Anaは言われるままされるがままのよいこである分、なんだかもの足りない、けどがんばってくれるのでよいか、ってじっとり調教していく - この辺、ぜんたいとしてものすごくやらしくて気持ちわるいんですけど。

で、こんなふうにAnaが傍にいてくれるのでそれなら次は、ってPabloとElenaのとこに行って彼らのペパーミント・フラッペになにかを仕込んで、へろへろの状態になったところで車に乗せて..

医者をなめたり怒らせたりしたらあかん、っていう典型的な教訓話のようであり、サイコっぽさを隠しているようで実はぜんぶ見えてしまっているサイコホラーであり、あれこれなかなかしょうもないかんじだった。ファッション雑誌やグラビア切り抜きの妄想の世界に生きてきた男が、同じような容姿の女性たちに出会って過去の記憶と実物と妄想を混濁させておかしくなっていくお話し。そして、そんなふうにおかしくなっても彼自身は痛い目にあうことなくそのままのさばっていく。

もてないさえない脂でねっちりした中年男が夢に見ていたような美しい女性と出会って、それまで培ってきたフェチとか萌えとかの嗜好妄想を爆発させて止まらなくなっていく不条理 – というほどのことでもない変態の条理の起源て、そもそもどこら辺にあったのか? などを考えさせるような内容になっているかも。一見趣味にいきる鑑賞者として人畜無害のようで、一線を越えてしまう怖さがあって、そういう猟奇もののように作ることもできただろうし、それって例えばこんなふうにもー。 そしてここに出てくるElenaもAnaも太鼓を叩く女性も、実はだれも悪くないんだけど、彼女たちがあんなふうに現れたから(自分にあんな仕打ちをしたから)に見せようとしているように見えるの、やっぱしひどくないか、って。

というようなことをクールな冷たいトーンの画面 - Peppermint Frappéもまた - のなかで淡々と捉えていて、怖かったかも。

あと、これって5月革命のあれこれの空気とは関係あったのかしら? とか。 政治と関係なさそう - あまりに関係なさそうなところがまたなんかー。

10.02.2022

[film] Sauve qui peut (la vie) (1980)

9月24日、土曜日の午後、菊川というとってもStrangerな土地に新しくできた映画館 - Strangerという - での『J=L・ゴダール 80/90年代 セレクション』という特集で見ました。

突然、ではないにしてもJean-Luc Godardが亡くなってしまったことについて、既にいろんな人々がいろんなことを書いているし、そりゃ書くだろう - 彼の映画は、それを受けて書かれたり自分が書いたり更に撮られたり撮ったりすることを狙うように、映画や映像がもたらすもの/もたらされる世界まるごとにでっかく揺さぶりをかけ続けるものだったのであり、その震源がすっかり無くなってしまったのだからー。

邦題は『勝手に逃げろ/人生』。英語題は”Every Man for Himself” - 「猫も杓子も」?。このタイトルについては邦題も英語題も、元のも(なんの括弧なの? あれ、等)よくわかんないかも。

シナリオは、Anne-Marie MiévilleとJean-Claude Carrièreのふたり。単独監督作としては13年ぶりの「商業映画」であり、Godard自身が「第二のデビュー作」と呼んだ、と。なぜこの作品はそう位置づけられるのか、を考えることが、この時代とこの作品とこの頃のGodardを語ることにそのまま直結する。自分が最初にこれを見たのは90年代のFilm Forumだった。

四部構成(1. 想像界 - 2. 不安 - 3. 商売 - 4. 音楽)で、三つの場所(「中間」 - 「かなた」 - 「地獄」、実際にはホテル、スタジオ、街中、田園地帯、など)を三人の登場人物が行ったり来たりする、悲劇でも喜劇でもない、物語のかたちをぎりぎりで維持しているかのようで実は何も語ろうとしない - 語ることを頑なに拒むかのように、なんだこれ? と、あーあー、の間を行ったり来たりとにかく落ち着かない。この落ち着きのない変則リズムが全編の音と光を統御している。

冒頭、Paul Godard (Jacques Dutronc)がホテルの一室にいてオペラ歌手(?)がオペラの練習をしている傍でヒゲを剃って電話でやりとりをしてて(歌手にうるさいーって怒鳴る)、荷物を抱えて慌しく部屋を出てホテルを抜けて車で仕事(?)に向かうまで。忙しいオトコの朝のあれこれ - ここのシーンにこの映画のモティーフがほぼ入っているような。

それから田園の緑のなかを自転車で滑るように走っていくDenise (Nathalie Baye) - ここすごく好き - がいて、彼女は妻子があるPaulと付き合っていて、彼は一緒にいたいようなのだが、彼女はそうでもなさそうなのと、娼婦の仕事を淡々としながらすべてがどうでもよさそうに見えるIsabelle (Isabelle Huppert)がいる。

TV局のディレクターかなにかでずっと忙しそうなPaulの他には、やくざっぽい大企業の幹部とかなにをしているのか不明だけど走り回って渡したり渡されたり、やはり忙しそうな男達がいて、B級犯罪映画のようなネタを散らしつつやばい方に向かっていくかに見えて、もちろんそちらには行かないし、行けないし - Sauve qui peut (la vie)。

見どころみたいなところで言えば、それはもう最初からDeniseの自転車と牛と、Isabelleの拗ねたような横顔くらいしかなくて、Paulなんてほんとどうでもよくていい気味で - 「勝手に逃げろ」/ やれるもんなら - な中で地点Aから地点Bへと向かう彼女たちの動き - Isabelleの金持ちとのホテルでの変てこ3Pとか - 感情も情動も一切排除するようにして描かれていて(それはなぜなのか?)、あと500回でも見ていられる。

これが80/90年代のGodardがやろうとしたスラップスティックなあれこれ - 映画ってやっぱしこういう音と動きの - の最初にあるやつで、物語の基本元素とかがブイヨン(二番だしとか煮凝りとか)のようにぜんぶ入っているような。でも一番、たまんなく好きなのは物語っぽさがどうしようもなく滲み出てしまっているような”Prénom Carmen” (1983) と”King Lear” (1987)、かなあ。

新しい映画館は、ぱりっと小さいけど見やすくてよかった。もし自分が富豪だったらどんな映画館をつくるか、よく夢想する - いまんとこ一番はNYのMetrographだろうか - のだが、ここはその点でも結構よいかんじかも。場所がちょっとだけ面倒だけど、通えたらよいなー。

10.01.2022

[film] Babi Yar. Context (2021)

9月24日、土曜日の昼、イメージフォーラムで見ました。初日の初回だったせいか満員だった。邦題は『バビ・ヤール』。

監督のSergey Loznitsaのドキュメンタリーはこないだまで上映していた『ドンバス』(2018)も『国葬』(2019)も見たかったのだが、とても重そうだし時間も取れなかったので、配信でなんとかして見たい。

監督がカメラを回しているわけではなく、制作チームがドイツ側、ロシア側から掘りおこしてきた当時のアーカイブ映像を全編で使用して繋いで作ったもの(音声のみ後付け)。

1941年9月29日と30日(81年前の今日か..)の2日間で、キエフに住む33,771名のユダヤ人が一箇所 - Babi Yarはその土地(”Babi”は窪地、”Yar”は女性の俗称だそう)の名前 - に集められ、一編に射殺された『バビ・ヤール大虐殺』を扱ったもの。ナレーションはなく、日付のついた簡単な事実の説明、通達などの文書、映像の中で語られる言葉、そしてアーカイブ映像が映し出されるのみ。

虐殺の事実関係や時系列を追う、それがどういう組織集団や人々の間でどのようにして起こったのかを掘り下げる、というだけでなく、タイトルに”Context”とあるように、これが起こる前からあって、現代にも続いていて、今もそこに(ひょっとしたらここにも)あるかもしれない”Context” - 文脈 - を見ようとする。 当たり前のことかもだけど、その視座に立っていろいろ置いてみて初めて、今のウクライナ「問題」にも繋がるなにか、として見えてくるものもあるはず。 アウシュビッツだって原爆だって慰安婦問題だってそうやって見る(べき)。もちろん、”Context”それ自体が「事実」の集積と歴史分析のなかで形成されていくものなのでその恣意性については注意する必要があるが、この作品に関しては”Context”的な - 今に連なるなにかは十分抽出されているように思われた。だから過去の映像や資料を破棄してはいけないの。

最初に街が爆撃されて燃えたり崩れたりしている映像。1941年6月、ナチス・ドイツ軍が独ソ不可侵条約を破棄してソ連に侵攻してウクライナ ~ キエフを占領する。同年9月、キエフの街で更に大規模な爆発と破壊があって、これはソ連側が撤退前に仕掛けたのだが、そこに現地のユダヤ人たちが関与したような証拠を意図的に残して、それを見たドイツ側はキエフに暮らす全ユダヤ人 - 大人も子供も老人もぜんぶ - の出頭を命じる。「貴重品を持参するように」という指示つきで。

ドイツに侵攻されたキエフ側は軍に花束を渡したり友好印たっぷりだし、その次にソ連側が反撃に出るとそちらの方にも声援を贈ったり、おそらくそれぞれの軍の視点からの記録映像なのだろうし、ああやって右から左から戦車で来られて建物を壊されている状態で抵抗してもしょうがないのだろうけど、そんなどちらを向いても権力と暴力やり放題の不条理としか言いようのない事態が続くところで、なにかがなにかを押しだすように想像もつかない規模の大虐殺があっさりと実行されてしまう。「あっさり」と見えてしまうのは、記録としてきちんとして残されていなかったり、残そうとする積極的な姿勢も罪や犯罪や殺された人々に対する意識も希薄だったから(としか言いようがない)。

最後の方に出てくる虐殺の現場にいて、死体の海に埋もれながら生き残った女性の証言なんて凄まじくて、それに続いて大群衆に囲まれるなかで処刑されるナチス高官たちの姿は “Voskhozhdeniye” (1977) - 『処刑の丘』での同シーンとそっくりだったりする、その恐ろしく無意味で空っぽなかんじ - 軍幹部を処刑したところで何も変わらないような - ときたら。

そして虐殺の現場となったバビ・ヤールはソ連当局によって、何事も起こらなかったかのようにきれいに埋め立てられてしまう。(保護と継承は、本作にも関わっているThe Babyn Yar Holocaust Memorial Centerが行っているようだが)

この時のこういう態度 - 「やろうと思えばどうとでもすることができるのだ」という権力者側の領土や民族に対する傲慢さ、国や領土に対する意識のありようなどは、今の、ここ数日のウクライナ情勢にもふつーに露呈しているし、うちの国のお粗末「国葬」のそれだってもろだし、要はものすごくみっともなく恥ずかしい田舎じじいのロジック(というより思いあがり)なのだが、取り巻きも含めたあの連中にどうしたら、というのはいつも思う。痛覚とか、なさそうだし。

ここから数十年が過ぎて、今作と同じようにアーカイブ映像で日本のこの十年を追ってみようとした時、先週の「国葬」がどれだけださくて恥ずかしいものだったか、思い知るのだわ。映像が消されていなければ。

もう10月だってさ...