12月18日、日曜日の昼、ラテンビート映画祭(土日の二日間しかやらないの短すぎー)をやっているヒューマントラストシネマ渋谷で見ました。邦題は『アルゼンチン1985 歴史を変えた裁判』。
今年のヴェネツィアに出品されて、オスカーの外国語映画賞部門にアルゼンチンからエントリーされている実話 - 歴史的な実話 - をベースにしたドラマ。
1976年から1983年まで続いたアルゼンチンの軍事独裁政権下に国家警察が国民に対して行っていった弾圧 - 誘拐 - 拷問 - 大量虐殺を裁く法廷 - Trial of the Juntas -が突然軍事ではなく民事のほうに下りてきて、裁かれる軍の側は民事なんてちょろいのでどうとでもできる、って余裕のなか誰もやりたくない検事正に任命されたJulio Strassera (Ricardo Darin)は限られた時間のなか、チームを編成しようとするのだが、知っているベテラン検事はみんな軍政寄りでふさわしくなくて、ようやく見つけた副検事は大学で教えていたけど法廷での経験はないLuis Moreno Ocampo (Peter Lanzani)で、あとはほぼ若手の、正義感だけはありそうな連中が集まってきて、時間もないのでそれで始める。
国民の誰もが起こっていることを知っていた、けど密告や監視〜粛正を恐れて口を噤んでいた事実の証拠を各地に散って掘って集めていく苦労と、チームに対して堂々とかつ頻繁に繰り返される脅迫 - Julioの娘に近づいてきた男は妻子持ちの軍関係者だったり - でもそれを追っかけるのがませた弟だったり、ふつうに銃弾とか送られてくるし、副検事の親族には軍関係者がいたり、あれこれ容易には進まなくて、イタリアのマフィアの裁判を通して起こった血みどろの報復劇を思い起こしてはらはらしたりもするのだが、このドラマはゆったりとしたペースとところどころすっとぼけたホーム(&チーム)コメディのノリで140分を一気に見せてしまう。
6人の裁判官で構成される法廷での証言の数々はあまりに陰惨なものが多くて証人たちも苦しみながら必死で語り、それらのひとつひとつが明らかにされるにつれ静観していた世論もこれは有罪しかないだろう、にゆっくりと傾いていって、非常時での一部関係者の止むない暴走としていた軍側の主張は通用しなくなっていって..
最後のJulioによる論告は数日前から彼がいろんな人たちに会って話や意見を聞いたり頭を抱えながら推敲していったもので、映画ではその全文(おそらく)がそのまま語られる。それは当時の法廷でのアーカイブ映像にもあるようにスタンディングオベーションを巻き起こす鳥肌ものだった。 この場面を見て聞くためだけでもこの映画みて。
Julioと彼のチームの強さや不敵さ、その秘密は最後まで明らかにはされないのだが、それでも彼らがどうして、なんのために戦ってあの結末に持ちこんだのか、持ちこまなければならなかったのか、その思いは、例えば子供を殺された母親たちが被る白いスカーフなどから十分にうかがうことができるのだった。
もっと的を絞って緊迫した法廷ドラマにすることもできたのかも知れないが、それよりももっと広い視野で、1985年という年にアルゼンチンに、あの国の正義のありかたにどういうことが起こったのか、それは国にとってどういう意味をもったものだったのかを正面から見据えて、改めて問いかけるものになっているように思った。もっといろんなエピソードや困難もあったに違いないのでTVシリーズとかにした方がよかったのかも。
チリのもそうだけど、これらはほんの40-50年前に起こった暴力的な悲劇で、要因は単純に括って総括できるものではないのだろうが、国(軍)が強権発動して国民を黙らせようと言論統制して運動を弾圧して大量虐殺をして、それを指揮した連中はそのまま軽く逃げ切ろうとした、そういうやつで、これと同様のムーブや気配は今のこの国にもいくらでも見ることができる。 デモに対する風当たりとか、政治家や警察なら犯罪を犯してもちっとも起訴も逮捕もされないとか。過去のひとごと、じゃないから。
昼間にこういう映画を見てしまったので、その深夜の蹴り玉ワールドカップはアルゼンチンがんばれ、にならざるを得ないのだった。楽勝だよね、とか鼻歌してたらあんなに拗れるなんて。たまにスポーツ観戦とかするとこうなるの。
12.27.2022
[film] Argentina, 1985 (2022)
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