12.31.2022

[log] 年のおわりに

というわけで2022年はもう終わろうとしていて、でも今年についてはウクライナで戦争が始まってしまったので、もうそれだけでなにやってもなに見ても、そもそもやるきなしでどうでもいいし仕事のほうだって、そのまままったくぜんぜんだめで - ずっとだめだけど - 言い訳だろうがなんだろうがなんでもいいさ、ってやけくその状態が続いている。 とにかく戦争はだめ。

映画館とか美術館とか本屋に行くのも、こういうのを書くのも完全に逃避で、それで構うもんか、くらい。
年が明けたらすこしはよくなったりするのだろうか? (しーん)

午後に積みあがった本のお片付けに着手して、約3時間で挫折する。 山を崩れない状態にするのと埋もれていた本たちを並べ替えるのは両立しないのよ。いっつも思い知ったあとですぐ忘れる。

今月に見たので書けていないのもいっぱいあったので、少しだけ下に並べておく。長めに書きたいのはまた別で。

年が変わったら2022年のベストに着手しなければー。


The Bee Gees: How Can You Mend a Broken Heart (2020) 12月8日 @ ヒューマントラストシネマ渋谷

The Bee Geesの評伝ドキュメンタリー。自分にとってのThe Bee Gees体験は、まず『小さな恋のメロディ』があったのでThe BeatlesやBowieよりもふるくて、子供の頃に初めて買ってもらったラジカセで最初にテープに録ったのも当時ヒットしていた”How Deep is Your Love”だったりするのだが、”Melody Fair”からどうしてああいうディスコの方に行ってしまったのかの謎が少し解けた気がしたのでよかった。あと、Andy Gibbのこととかも。

最後に出てくるBarry Gibbの2017年のGlastonburyのライブ、ただでさえ感動的なのだが、この映画を見た後だとものすごくしみてきた。


Thirteen Women (1932) 12月13日 @ アテネフランセ文化センターの「中原昌也への白紙委任状」より。

筋だけ聞くとB級のジャンクで適当なノリのやつに思えたのだが、ものすごくファウンデーションとスケールの整った文芸作品のように見える。あんまり怖くないのはそれでよいの? というのはあるけど、でもぜったいこちら側の世界と繋がる(ことを狙った)作品だなあ、って。


Rachel, Rachel (1968)  12月14日@ アテネフランセ文化センターの「中原昌也への白紙委任状」より。

Paul Newmanの初監督作、原作はMargaret Laurenceの小説 “A Jest of God”。Rachelを演じたJoanne Woodwardはゴールデングローブのドラマ部門で主演女優賞を、監督は監督賞を獲っている。

Paul Newmanがこれの次に撮った木こりのお話 - “Sometimes a Great Notion” (1971)も素敵なのだが、こちらもすばらしい。亡父の強い擦り込み影響の下、教師として働きつつずっと母親の面倒を見てきたRachelのほんの少しの、危なっかしい目覚め - それはよいことなのかわるいことなのか - たぶんだいじょうぶかも、くらいの軽さとそれが浮き彫りにする彼女の強さ、がよいの。


Harry & Son (1984)   12月22日@ 下高井戸シネマの「年末映画祭り!”ほぼ”アメリカ映画傑作選」より。

これもPaul Newmanの、最後から2番目の監督作。作家志望だけどぷらぷらサーフィンとかしているわかものHoward (Robby Benson)と解体屋だったが体の調子がよくなくて失業者となった父 (Paul Newman)、父子ふたりとご近所の彷徨いをそんなに深刻じゃなく描く。骨相占いをしながら大量のオウムを飼っているJoanne Woodwardとのやり合いとか、Paul Newmanが犬みたいにころんと死んでるとことか、素敵。80年代の映画の間に置いたら結構異質なかんじもするのだが、どうかしら?

あと、スター俳優が監督する映画として、Clint Eastwoodとの比較もあるのだろうが、わたしはClint映画のどの辺がすごいのかあんまりよくわかんないので、ここでのPaul Newmanの柔らかくてきとーに撮っている(ようにみえる)ところが好き。

Ethan Hawkeによるドキュメンタリー “The Last Movie Stars” (2022‑ )も見なきゃ。


Get Crazy (1983)  12月15日 @ 菊川のStranger

1983年の大晦日のYear Endライブを行う小屋(というかホール)でいろんな雑多な演者によるライブが進行していく裏で、小屋の乗っ取りを企む富豪とオーナー側がわけわかんないめちゃくちゃな争いを繰り広げていくの。音楽はブルースにレゲエにハードロックにパンクに西海岸のらりらりの雑多でいろんなのが流れていって演奏もギャグも煽りも極めて雑だし外しててもお構いなしで、だけどこんなもんでよいのだ、って堂々としている。

主題歌はSparksでMalcolm McDowell の役はRussell Maelがやるはずだったとか。Malcolm McDowellとDaniel Sternが絡んでいるだけで嬉しいのと、ぜんぶが終わって廃墟となったステージでひとりお呼びでなかった? みたいな顔で弾き語りをするLou Reedったら…


Tomorrow Morning (2022)  12月17日 @ 恵比寿の(ついガーデンシネマと書きたくなる)ユナイテッドシネマ。

30歳で幸せな結婚をして10年後の40歳でやむなしの離婚をしようとしている夫婦の結婚/離婚前日前夜の様子を歌と踊りで綴るミュージカル。そうなんでしょうね〜 としか言いようのない双方の言い分が巧みな歌と構成によって重ねられて、どちらの言い分とか語りも説得力は十分なので披露宴とかで(フルで)流すとよいのかも、とか。 これの10年後にもう一回振り返ってみるのも楽しいかも、とか。映画よりは舞台の方が切実に訴えてきそうな気はする。

でもやっぱりこういう夫婦の葛藤ものって、今日の昼にみたサッシャ・ギトリの『毒薬』(1951) とか『ローズ家の戦争』(1989) みたいなぐさぐさになるのがいいなー、とか。

あと、主人公夫婦の住んでいるところは『MEN 同じ顔の男たち』の夫婦が住んでいたエリアでもあるので、オルタナの展開を期待してしまうのは避けられずー。


空の大怪獣 ラドン (1956)  12月18日、Tohoシネマズ日本橋で。4Kリストア版。

わたしの一番古い映画の記憶は『怪獣総進撃』でラドンがビルを突き破るシーンなのだし、鳴き声(でいいの?)もゴジラよりラドンの方が先にあった記憶があるので、これは見ないわけにはいかなかった。

誰もが驚嘆しているように、画面はものすごく、かつて見たこともなかったような澄んだ明るさで、これが正しいのだ、と言われたら黙るしかないのだが、坑道の奥で蠢くヤゴがあんなにクリアに見えてしまってよいのか、とか。

あと、東京都現代美術館での井上泰幸展にあったセットが吹き飛ばされるシーンはたまらなかった。
それにしても、この映画のラドン(たち)って出てきただけで攻撃されて駆除されてしまうのほんとにかわいそうでならない。いまだったらぜったいやっちゃだめだからね。


The School for Good and Evil (2022)
  12月18日 @ Netflix

Paul Feigなので見る。事情は知らんが善悪の戦いをずっと繰り広げていた双子の兄弟が造った善と悪で隣り合う学園にそれぞれあたしこっちじゃないんですけどー って送り込まれてしまった幼馴染ふたりの葛藤とやがて迫りくる戦いと。

(善悪の境界とか並びようとか)なるほどなー、って勉強になることも多いのだが、あともう少しだけ、善と悪について掘り下げてみたら、Forceのダークサイドとかハリポタのあれとかも絡めてみたら学園ものとしてもっと深く考えさせるおもしろいものになったのではないか。悪はなんでいっつも悪として循環して再生産されるのか、など。


Never Goin' Back (2018)  12月20日 @ Tohoシネマズ日比谷シャンテ

作・監督のAugustine FrizzellさんのだんなはDavid Loweryなので彼がExecutive Producerに入っている。中世糞尿趣味は共通している.. のかしら。

親友女子ふたりがダイナーでウェイトレスのバイトをして誕生日のリゾートビーチへのバカンスを夢見て計画していたら肉親とか隣人が日々の借金だのドラッグ関係のあれこれでやらしく絡んで邪魔してどうしようもなくなっていくものの、最後にとてつもない逆転技を繰り出して勝利する。最後の最後で「好き」な方に転んだ。


貸間あり (1959)  12月21日 @ 国立映画アーカイブ

原作は井伏鱒二、脚本は藤本義一と川島雄三、監督は川島雄三。
大阪の川の近くの少しの高台に、お人好しで博覧強記のフランキー堺とその他いろんな人々が同居している家に貸間を求めて淡島千景の陶芸家がやってきて、他の変人ばかりの同居人たちとの間に巻き起こるいろんな騒動にどたばた。ポジティヴなのもネガティヴなのも含め、もうなるようにしかならないじゃろ、みたいな危険域に突入して、そうなったところでぜんぜんクビが回らないかんじがやってくるのだが、へへーんうるせえ! って最後っ屁とか立ちションとか。(川島&フランキーの魔法) 現実はこうはいか.. (略)


La boum (1980)  12月23日 @ シネマカリテ

『ラ・ブーム』は高校卒業する直前の卒業旅行(というものだとは思わなかったが世間的にはそうなのか)に出ていく晩に銀座の東劇で封切りされたばかりのを見たのだった。内容はきれいさっぱり忘れていたのか見なかったことにしたかったのか。Sophie Marceauがかわいい、とかそういうの以前にこの映画に描かれていることすべてが異次元・異世界のなんかとしか思えないのだった。

いま見返してもそんなに印象は変わらなくて、日々恋愛があんなふうにまわっていくのであれば(以下略)。 彼女の部屋にAndy Gibbのポスターが、くらい。

自分のことだけど、旅の直前にテープに落としてWalkmanで再生したXTCの”Ball and Chain”が夜の銀座に見事にはまって、その光景だけは鮮やかに憶えている、ことなどを思い出したり。


Glass Onion: A Knives Out Mystery (2022)  12月23日 @ Netflix

イノベーターの富豪(Edward Norton) からのからくり箱で招待を受け取ったディスラプターの不良分子(ろくでなし)たちが彼の島に集まって「彼」の殺人の謎を解くはずが..

“Menu”のやなかんじとか、下ネタのない”Never Goin' Back”とか、いろいろ思い浮かぶなか、「探偵」とはとても呼べないようなDaniel Craigの態度とストーリーテリングは画期的ではないか。ハイバジェットのB級に正面から取り組んでいて、なんじゃこれ? になるのだが、これがグラス・オニオンだ! と。 そしてそれもまた、だからなに? ではある。ぼんくらの出し方とか、タランティーノ以降、と言ってよいのではないか。

それにしても、昨今のSNS周辺のうさんくさいのってぜんぶこういうかんじよね、って(腐臭)。


こだまは呼んでいる (1959)  12月25日 @ 国立映画アーカイブ

監督は本多猪四郎 。
山梨の麓から奥地に向かう定期バスの運転手/池部良と車掌/雪村いづみはずっとコンビでバスの仕事をしていて、仲良しというよりはツンケンした職場関係なのだが仕事はうまく淡々とこなしていて、でもふたりの近隣一帯には尋常でない結婚しなきゃ圧の嵐が吹き荒れていて、雪村いづみは地元の有力者で本屋を営む藤木悠 - 沢村貞子の親子のところに花嫁修行&トライアルに出されることになって.. というこてこての - でもわかりやすく筋が通ってちゃんとしたRom-comで、よかった。 本多猪四郎、『大怪獣バラン』(1958)の次でもさらりとこんなのを撮れてしまうのってすごい。


Cats' Apartment (2022)  12月25日 @ ユーロスペース

邦題は『猫たちのアパートメント』。猫が見れるのであればなんでも。
韓国でかつて最大規模だった団地が廃れて取り壊されることになって、そこで暮らして猫ママたちにたっぷり餌を貰って堂々歩き回っているノラさんたちを計画的に去勢/移住/移動させるプロジェクトが始まることになる、そのドキュメンタリー。

と言っても相手はほぼ半野生動物だし、そんなにかっちりとした計画を作ったところでうまくいくわけもなくて、結局はノラ猫いいなー、っていろんな猫の面構えとかにうっとりして終わってしまう(やるほうも見るほうも)。それでぜんぜんよい気がしたの。


12.27.2022

[film] Argentina, 1985 (2022)

12月18日、日曜日の昼、ラテンビート映画祭(土日の二日間しかやらないの短すぎー)をやっているヒューマントラストシネマ渋谷で見ました。邦題は『アルゼンチン1985 歴史を変えた裁判』。
今年のヴェネツィアに出品されて、オスカーの外国語映画賞部門にアルゼンチンからエントリーされている実話 - 歴史的な実話 - をベースにしたドラマ。

1976年から1983年まで続いたアルゼンチンの軍事独裁政権下に国家警察が国民に対して行っていった弾圧 - 誘拐 - 拷問 - 大量虐殺を裁く法廷 - Trial of the Juntas -が突然軍事ではなく民事のほうに下りてきて、裁かれる軍の側は民事なんてちょろいのでどうとでもできる、って余裕のなか誰もやりたくない検事正に任命されたJulio Strassera (Ricardo Darin)は限られた時間のなか、チームを編成しようとするのだが、知っているベテラン検事はみんな軍政寄りでふさわしくなくて、ようやく見つけた副検事は大学で教えていたけど法廷での経験はないLuis Moreno Ocampo (Peter Lanzani)で、あとはほぼ若手の、正義感だけはありそうな連中が集まってきて、時間もないのでそれで始める。

国民の誰もが起こっていることを知っていた、けど密告や監視〜粛正を恐れて口を噤んでいた事実の証拠を各地に散って掘って集めていく苦労と、チームに対して堂々とかつ頻繁に繰り返される脅迫 - Julioの娘に近づいてきた男は妻子持ちの軍関係者だったり - でもそれを追っかけるのがませた弟だったり、ふつうに銃弾とか送られてくるし、副検事の親族には軍関係者がいたり、あれこれ容易には進まなくて、イタリアのマフィアの裁判を通して起こった血みどろの報復劇を思い起こしてはらはらしたりもするのだが、このドラマはゆったりとしたペースとところどころすっとぼけたホーム(&チーム)コメディのノリで140分を一気に見せてしまう。

6人の裁判官で構成される法廷での証言の数々はあまりに陰惨なものが多くて証人たちも苦しみながら必死で語り、それらのひとつひとつが明らかにされるにつれ静観していた世論もこれは有罪しかないだろう、にゆっくりと傾いていって、非常時での一部関係者の止むない暴走としていた軍側の主張は通用しなくなっていって..

最後のJulioによる論告は数日前から彼がいろんな人たちに会って話や意見を聞いたり頭を抱えながら推敲していったもので、映画ではその全文(おそらく)がそのまま語られる。それは当時の法廷でのアーカイブ映像にもあるようにスタンディングオベーションを巻き起こす鳥肌ものだった。 この場面を見て聞くためだけでもこの映画みて。

Julioと彼のチームの強さや不敵さ、その秘密は最後まで明らかにはされないのだが、それでも彼らがどうして、なんのために戦ってあの結末に持ちこんだのか、持ちこまなければならなかったのか、その思いは、例えば子供を殺された母親たちが被る白いスカーフなどから十分にうかがうことができるのだった。

もっと的を絞って緊迫した法廷ドラマにすることもできたのかも知れないが、それよりももっと広い視野で、1985年という年にアルゼンチンに、あの国の正義のありかたにどういうことが起こったのか、それは国にとってどういう意味をもったものだったのかを正面から見据えて、改めて問いかけるものになっているように思った。もっといろんなエピソードや困難もあったに違いないのでTVシリーズとかにした方がよかったのかも。

チリのもそうだけど、これらはほんの40-50年前に起こった暴力的な悲劇で、要因は単純に括って総括できるものではないのだろうが、国(軍)が強権発動して国民を黙らせようと言論統制して運動を弾圧して大量虐殺をして、それを指揮した連中はそのまま軽く逃げ切ろうとした、そういうやつで、これと同様のムーブや気配は今のこの国にもいくらでも見ることができる。 デモに対する風当たりとか、政治家や警察なら犯罪を犯してもちっとも起訴も逮捕もされないとか。過去のひとごと、じゃないから。

昼間にこういう映画を見てしまったので、その深夜の蹴り玉ワールドカップはアルゼンチンがんばれ、にならざるを得ないのだった。楽勝だよね、とか鼻歌してたらあんなに拗れるなんて。たまにスポーツ観戦とかするとこうなるの。

12.26.2022

[film] The Eternal Daughter (2022)

12月16日、金曜日の午後、米国のYouTubeで見ました。

年末に向かって、まだ見れていなくてここから見ることができる作品をできるだけ見ておこうシリーズ。来年3月とか5月とかのリリースまで待つとかありえない。国内の洋画のアワードリストとか見ててさー、日本の「映画評論家」、「ライター」のひとたちは欧米と見ているものがあまりに違うこと、そのギャップに嫌になんないの? まるで鎖国してるみたいじゃん? 文句いうと干されるからなんも言わないの? なんかあれだよねー。

日本で公開されないのが信じられない”The Souvenir” (2019) / “The Souvenir Part II” (2021)のJoanna Hoggによる新作。配給はA24、Executive Producerには(前2作と同じく)Martin Scorsese。(今作の公開にあわせてMetrographで行われたふたりの対話がものすごくおもしろい)

https://metrograph.com/hogg-scorsese/

Julie (Tilda Swinton)とRosalind (Tilda Swinton - 二役) の母娘と犬のルイ(たぶんTildaが飼ってる子だ)が深い森を抜けて(そこへの旅とそこに絡まる音楽もすばらし)その奥の方にある古いお屋敷にやってくる。タクシーの運転手は窓のところに女の子が.. とか言う。

その館はホテルでひとり応対したレセプショニスト(Carly-Sophia Davies)は無愛想で不機嫌で予約が見当たらないとか散々言って、でもなんとか部屋に入る。母のRosalindは疲れているからとすぐに寝るのだがJulieは寝付けない。他の宿泊客はいないはずなのに部屋の、館のたてる音、外の風の音、鳥だか獣の声? 子供の声(まさか)? 自分の頭の中で鳴っているのか外にあるものなのか、すごくリアルにわかる。

やがてJulieは映画作家で、次作を書いたり構想を練るために来ているらしいこと、この館は母が戦時中に暮らしていた館でもあること - なので喜んで貰えると思って静養に連れてきたこと、などがわかってくる。母は小さな薬入れからいつも薬を指に取って飲んでいてとても弱っている。 そしてこのJulieとRosalindというのは”The Souvenir”のあの母娘 - Honor Swinton ByrneとTulsa Swintonに他ならないことに気付く。

Julieは母が過去について語ることを遺しておこうとメモを用意したりするものの母が嫌がるので、母が喋り始めるとそっとスマホのVoiceメモをonにしたりする。やがて母がこの館に纏わる悲しい思い出を語り始めて涙をこぼしたりするとJulieは取り乱してお母さんに悲しい思いをさせるために連れてきたわけじゃないのごめんなさい、って嘆いて許しを請う。

無愛想なレセプショ二ストは食事の注文をとりに来るときにもつんけん無愛想で、仕事を終えて帰るときには彼(?)の運転するクラブ系の音楽をぶんぶん撒き散らす小型車に乗って消える。携帯は外に出て場所を変えたりしてようやく繋がる程度、他には愛想のよい庭師のBill (Joseph Mydell)がいて、彼との会話だけが少しの安らぎとなる。

母はかつてこの館に暮らして、自分の知らない娘時代を送り、それを(伝えられるかどうかは別として)抱えこんだままここで消え去りそうなかんじで横たわり、そうしてあるのが母で、母になったことのないJulieには到達できないところにいて - 自分はどこまで行っても彼女の永遠の娘であることしかできない。

それ故に湧きあがってくる愛おしさとやりきれなさが、ふたりの切り返し(同じ画面にふたりが一緒に入っているとこは最後までこない)と共に波のように寄せては返しを繰り返していって、やがてメインイベントとなる母の誕生日がやってくる。なんで彼女は痛ましくなるほど必死に母にここで幸せな時間を過ごしてほしいと願ってきたのか、その理由が..  

ホラーではなくて、でも途中でJulieがキップリングの『彼等』を読んでいる場面が出てきたりするのでそういうことか、というのはわかって、とてもせつない - 辛くて悲しいかんじにはならないけど。Jack Claytonの”The Innocents” (1961)とかも。

Joanna Hoggの画面作りは初期の”Archipelago’ (2010)の頃からずっと、ある場所/ある建物のなかで誰かと共に過ごす時間の、そうやって大切なひとと一緒にいること、起こったこと、その記憶を刻印することにずっと注力している。今回の撮影はウェールズのSoughton Hallで行われたそうだが、行ったことのないこの館で彼女たちと過ごした時間とか響き渡る音の余韻がいつまでも残る。

こないだの”Aftersun”にもそのかんじはあって(ちなみに両作品で音響は同じひと - Jovan Ajder)、そこからTildaの出演作や彼女の薦めていた英国の映画などを思い起こしたりー。

12.25.2022

[film] Meet Me in the Bathroom (2022)

12月16日、金曜日の晩、ShowTimeの7日間無料トライアルに入って見て抜けた。ずっと見たかったやつ。

もととなったLizzy Goodmanによるオーラルヒストリー本 “Meet Me in the Bathroom: Rebirth and Rock and Roll in New York City 2001–2011” (2017)は出てすぐ買ったのだが、いまは部屋内山のどこかに埋もれていていったいどこにあるのやらー。

1999年くらいからのNYのダウンタウンの音楽シーン - 特に9/11以降に火がついて何が出てきてもなんだかおもしろいことになっていたあれらとはなんだったのか、を関係者インタビューやアーカイブ映像から追う。 ここのシーンについてはお客としてだけどそれなりに中にいたかんじはあるので。

冒頭にホイットマンの『草の葉』から”Give me the Splendid, Silent Sun” (1900)の一節が朗読される。こんなような;
Manhattan streets, with their powerful throbs, with the beating drums, as now;
The endless and noisy chorus, the rustle and clank of muskets, (even the sight of the wounded;
Manhattan crowds, with their turbulent musical chorus—with varied chorus, and light of the sparkling eyes
Manhattan faces and eyes forever for me.

NYのダウンタウンのアパートで、最初に出てくるのがThe Moldy PeachesのAdam GreenとKonya Dawsonで、彼らが煽りたてて引っ掻きまわさなかったらThe Strokesもシーンもなかったと思うので、これは正しい。 そこから先はStrokesが爆発していくさまとYeah Yeah YeahsとかInterpolとかの若き日々が描かれて、そこからなんのイントロもなく9/11のあの日の映像にー。

道路に射す日の光でもうあの日のそれとわかる、まだ怖くて目を逸らしてしまうところはある(現地での上映の際はだいじょうぶだったのだろうか?)のだが、映像はなんとか見ることはできて、音楽シーンの方は大きな声で復興! とか言わなくてもそこここで勝手に鳴り出したかんじになる(直後は音楽なんてぜんぜん聴く気になれなくて、どこかのタイミングからいてもたってもいられなくなったような)

より具体的にはThe Strokesがおらよ、ってかんじでHammerstein Ballroomでぶちあげて、InterpolのBowery Ballroomの一週間連続があっというまにSold outした辺りから燃え広がっていって、でもこれらのおおどころよりも、LiarとかRadio4とかOut Hudとか!!!とかGang Gand Danceとか、どこのヴェニューに行ってもそういう連中が必ずなんかやっている、そんなかんじで、退屈はしなかった。ライブが終わってもどこそこでパーティーやるから、とかはしごも普通だったし。

ベースはだいたいベースがうねって踊れるリズムの上に不機嫌なじゃきじゃきギターを重ねて、その上になげやりなThe Fallふうか、John Lydonの断末魔ふうの声や叫びが乗る(だけ) - 要は、英国の80年代初にポストパンクと呼ばれていたカテゴリーのにとても近い - PILによるCANやクラウトロックへの参照も含めて。そしてそこにはべたべたうっとおしい系のエモへの反動というのもあった気がする。

そういう流れのなかでESGやLiquid Liquidもライブをやってくれたり。
これだけじゃなくて、エレクトロ寄りでBlack DiceとかAnimal Collective(はボルチモアだけど)も出てきたし、もうちょっと跳ねる系だとLe TigreとかThe FaintとかLes Savy Favがいたし、エモ - ハードコア系だと、CursiveとかDeath CabとかRival Schoolsがでてきたし、とにかくどこかでなんかやっていた。毎日でもライブ行けたと思う。(行けなかったのは映画も見始めていたのと、他にもダンスとか演劇とかいっぱいあったのと、あと日々の仕事もな…)

で、それらのバンドが雑誌のように日々リリースしていく大量の音源を無節操に(ではないか、それなりの権威づけをしたりしつつ)リリースして下支えしていたのが、Other Musicっていう、あのドキュメンタリー映画になったレコード屋だったの。ミュージシャンもヴェニューもレコ屋も観客も、すべてが奇跡的に幸せな円の循環をなして繋がっていた気がする。そして、そういうのを「シーン」と呼ぶのだろうな、って。

映画の話に戻ると、当時あそこから出てきたビッグネームを中心に取りあげてすごかったんだぞ! って語るのはこのテーマに関していうとちょっとずれていたかも。それだけには止まらなかった”Meet Me in the Bathroom”のごちゃごちゃした喧騒こそ描かれるべきだったのに。

映画のなかでいっこ気になったのは、The Raptureの"House of Jealous Lovers”〜”Echos”のリリースをめぐる疲弊と絶望のなかでJames MurphyがLCD Soundsystemをたちあげた、みたいになっているのだが、LCDって、ふつうにRaptureの前座とかやっていたんだけどな..

行きたいなー。The WalkmenもThe Moldy Peachesもまたライブやるしなー。


クリスマスはほーんとに腑抜けのまま終わってしまった。仕事も納めてしまったので年末にかけては向こうの見てない映画を漁っていくくらいしかないのかー。なんももりあがらないー。

12.22.2022

[film] Aftersun (2022)

12月14日、水曜日の昼、A24のScreening Roomで見ました。

作・監督はこれが長編デビュー作となるスコットランド出身のCharlotte Wells。プロデューサーのリストにはBarry Jenkinsの名前がある。既にいろんな賞を受賞しているしSight and Sound誌では今年のNo.1を獲っている作品。(これを描いている時点でまだ発表になっていないが、おそらくGuardian紙のUK, USでもNo.1になる。UKのNo.2は”The Quiet Girl” だよ!)

冒頭、DV-Camの電源オンオフのジージーしたノイズが頻繁に鳴って動作確認しているようで、11歳のSophie (Frankie Corio)とパパのCalum (Paul Mescal)が夏の休暇でトルコのリゾート地(変な名前)に出かけようとしている。時代は1990年代の後半、パパとママは既に離婚しているらしいことがやがてわかる(電話しているのでシリアスなケースではない)。

ホテルに着いても部屋にベッドがふたつないとか細かいことがあったりの緊張を孕みつつも、旅の、バカンスの冒険、トラブルやダメージにそれらの顛末を描こうとするものではないことがわかってくる。Videoに撮っている映像、再生された映像、頭に残っている風景や交わされた会話などを注意深く並べて、起こった出来事よりもその時のトーンや色、温度を掘りおこしてその触感を確かめようとしているかのような。

Calumはとても優しい、というより大人っぽくてスマートなSophieをどう扱うべきなのかを注意深く考えながら、父娘ふたりでいることをとにかく楽しもう、って常に行動しているようで、そうしている背景も – 彼のそもそも危うそうで暴力に向かいがちなかんじ – 動きの端々から伺うことができる。(この辺、Paul Mescal - "Normal People"の彼だよ - ってすばらしい俳優だなと改めて)

こんなだから最初のうちはいつこのバカンスとふたりの間柄が唐突に引き裂かれて暗転してしまうのか、がひりひり忍び寄ってくるようで少し怖いのだが、落ち着いたクレバーなSophieの動きによって心地よく裏切られていくのがよいの。プールサイドでのこと、シュノーケリングに行ったときのこと、ゲームセンターでバイクレースのゲームをやるとき、絨毯を見にいって値段を聞いたとき、そして休暇の締めにくる"Under Pressure"でのダンス.. などなど。あんな優しい(優しくなった?)パパいないかも、って思いつつも、その裏でCalumがひとり必死に自分の中のなにかをコントロールしようとしている - 傍らに自己啓発本や太極拳の本がある – ことも見える。

もうひとつ、トルコの青空と対比するかのように数回に渡って断片的に挿入される、暗く明滅するクラブのフロアで踊り狂うCalumが手を伸ばしてくる映像、これらが指し示すのはー。

ここにママが一緒にいたらいいな、も、このままパパとずっと一緒にいたいな、もあまりなくて、あの時がこうだった – から/けど、今はこう - というのを感傷を脱色して重ねて並べて、上から(もう戻ってこないように)踏みしめている - Aftersun/日焼けの後 – かのよう。それがなんでなのか、は明らかにされないし、する必要もない。でもあの時、CalumとSophieは一緒にいたんだよね、と。

どうしてなのだろう? というのが最後のほうになって現れる大人になったSophie(Celia Rowlson-Hall)によって明らかになる – いや、はっきりと明らかにはならないのだが、だからああいう構成であり色味だったのか、というのが見えてきて、そのかんじは誰にも思い当たるところがあるのではないか。感傷でも惜別でも後悔でもなく、あったあった(… )くらい。そしてしばらくしてからああいうことだったのかな、って水泡のように浮かんできて、暫く残って消えるような。(このまま消えてくれていいような)

人によってはSofia Coppolaの”Somewhere” (2010)を思い出す、のかもしれない。あれも11歳の娘と空虚な日々を送る父親の、どこか遠いところでの短い出会いを描いたものだったが、この”Aftersun”は場所(somewhere)ではなく、かつてあった時間を描いたもので、幼年期に通り過ぎていったそんな時間の描き方はとても英国的(かつ女性的?)な、Margaret TaitやLynne Ramsayが描いた幼年期のそれに近いと思った。

12.21.2022

[film] Siebzehn (2017)

12月10日、土曜日に『Gucchi's Free School × DVD&動画配信でーた 現代未公開映画特集! with Stranger』という一日イベント(?)から菊川で3本見ました。

英国にいた時にしみじみ思ったものだが、向こうではメジャーリリースされないいろんな小品が2週間くらいの単位でふつうにじゃんじゃか映画館でやっていて、ぜんぶ追えるわけではないものの、おもしろいのもすごくあって、日本に紹介されるのって本当にその一部で、もちろんそれは日本でリリースされるインディー系の小品でも事情は全く同じなのだからもっと日本のを見れば? なのかもしれない。けど、小さい頃からずっと洋画を見て洋楽を聴いて海外文学を読んできたのと同じで、そう簡単に行くものではない(し、そんなの大きなお世話だし)。

今回紹介された3本は、どれもそれぞれに違っていてよくて、配信でも見れるやつなのだろうけど、映画館で見るのってやはり違うし。以下、見た順で。


Lingua Franca (2019)


作・監督・主演をIsabel Sandovalがひとりでやっている。
Olivia (Isabel Sandoval)はフィリピン系移民でロングアイランドのブライトンビーチの近辺に住んで、仕事は高齢で認知症の気があるOrga (Lynn Cohen)のケアを住みこみでしながらフィリピンの母親に仕送りをしていて、でも不法滞在状態なので、グリーンカードを取るための結婚相手を斡旋する業者ともコンタクトをとって、でも外れてがっかりしたり。

Orgaの孫のAlex (Eamon Farren)はちょっと不良で、酒でトラブルを起こして叔父のやっている屠殺〜精肉工場でバイトを始めたところで、Oliviaと出会って互いになんとなく惹かれていくのだが、Oliviaは自分の置かれた状況もあるから踏み出すことはできなくて、でもAlexのガラの悪い飲み友達が彼のところに泊まりに来た時、Oliviaの部屋にあった金を盗んで、さらに彼女のフィリピンのパスポートを見ると、昔の男性の写真だったのでおい!ってAlexにいう。 Alexは少し動揺するものの既にOliviaのことを好きになっていたので、後でOliviaが不法滞在でトランスでもあることを告げても、黙って聞いていて..

ふたりはハッピーエンディングを迎えたのかどうか、明確には示されなくて、最後の画はOrgaの姿 - 自分が誰であるのか、すべてを忘れてしまってもそこに居場所のある彼女と、自分が誰であるかの輪郭はくっきりとあるのに居場所のないOliviaとの対照が。


Siebzehn (2017)

英語題は”Seventeen”。オーストリア映画で、2017年のMax Ophüls Awardを受賞している。
作・監督はMonja Artは1984年生まれのオーストリアの人。

オーストリアの原っぱや湖のある田園地帯に暮らす17歳のPaula (Elisabeth Wabitsch)は高校最後の年にきて、教室で日々つるんでいる仲間もいるのだが、斜め前に座っているCharlotte (Anaelle Dézsy)のことをぼんやりいいなー、と想っていて、でもCharlotteにはいつも忠犬の彼が横についているので、自分も手近にいるTim (Alexander Wychodil)なんかと付きあい始めてみたりするものの、やはりちょっと違うなってなったり、そんな彼女をみて興味をもったLilli (Alexandra Schmidt)が声を掛けてきて(それは遊びだったことがわかり)でもやっぱり自分はCharlotteがいいなー、ってなって..

都会生活とか大学生活への憧れもないことはないけど、父親に障害があるので家を出ていくことはできそうにないし、シリアスに考えてもしょうがないしー、ってぼんやりなのだが、その誰のせいとも言えないいたたまれないかんじがとても生々しく伝わってくる。

高校生の、授業の合間にぼんやり夢想してどこまでも止まらなくなる妄想(たまに実映像としてでてくる)をいくらでも好き放題に野放しで走らせていくと、こんなふうになる。カミングアウトをするしない、とか虐めや抑圧の軽さ重さなんてどこにも見当たらず、どこまでも真っすぐな平面の上で、自分はだれを好きになってだれとどっちに向かっていくのだろう、を延々自問していく、そのシンプルな軽さがなんか素敵で。

あと、フランス語のコンクールで、Paulaがプルーストについて話すところ、よかった。


Das merkwürdige Kätzchen (2013)


英語題は“The Strange Little Cat”。作・監督のRamon Zurcherの長編監督デビュー作で、彼はこの後に”The Girl and the Spider” (2021) - 未見 - を撮ることになる。72分で、カフカの『変身』を大雑把にベースとしている、というのだが、カフカよりもなんだか変、って思った。

ベルリンの、ごくふつうの中流そうな家に家族+親戚が集合する。まんなかにいる父母とまだ小さい兄と妹、犬と猫、そこにおばあちゃんが運ばれてきて、あまり顔をだしたことのない叔父夫婦もやってくる。 起こる起こらない話でいうと、洗濯機を直したりはするけど喧嘩も事故もパニックも起こらないで、映画は食事その他の仕度を始めようとしている母から始まって、時間的にもほぼそこに留まったままー。

たったこれだけ、なにが起こるというわけでもないのに、家族という集団の、あるいはその活動(行ったり来たり、おしゃべり、睨み合い、たまにどつく、など)の変てこで変態なことときたらとてつもない(ように見えてしまう)ことに息を吸うのも憚られてしまってこれは何? になる。

かんじとしては”The Humans” (2021)にちょっと似ている、でも”The Humans”のがまだ人間ぽいかー。

12.20.2022

[film] Decision to Leave (2022)

12月9日、金曜日の晩、MUBIで見ました。
この日はMUBIでこれが見れる初日、だったので夜遅かったけど見る。邦題は『別れる決心』。
今年のカンヌのコンペティション部門に出品されてPark Chan-wookは監督賞を受賞している。

欧米でのPark Chan-wookに対する評価はなかなかびっくりなところがあって、”The Handmaiden” (2016) - 『お嬢さん』なんか、英国ではものすごくロングランされていた。たぶんだけど、彼の映画が表象するアジアンぽいエロとか湿気が欧米のはまる人にははまってしまうのではないか。で、この作品もそういう – Asian femme fataleもの、として受けたかんじがあるようなー。最初に見たポスターの、真横を向いてぼやけたPark Hae-ilの奥でこちらをまっすぐ見つめてくるTang Weiの目の力だけで。

釜山の刑事ヘジュン (Park Hae-il)と相棒のスワン (Go Kyung-pyo)は、退職した入国管理局員キ・ドス (Yoo Seung-mok)がよく登っていた山の麓で死体となって発見された事件を担当する。ヘジュンはずっと不眠症で、妻のジョンアン (Lee Jung-hyun)とは週に一度しか会わないくらい疎遠になっている。ふたりはキの若い妻ソレSong Seo-rae (Tang Wei) - 中国から移住してきて、韓国の言葉や会話にあまり馴染めていなくて、高齢者介護の仕事をしている – を聴取するのだが、彼女の手には引っかき傷が、足と胴体にはあざがあったりしたので、ふつうに彼女は第一の容疑者になる。

こうしてヘジュンはソレのアパートの前で張り込みをして、彼女を監視していくのだが、それに呼応するかのように彼女もへーきな顔で彼のことを追っかけるようになる。調べていくなか、ソレはヘジュンに不正な入国で韓国に来ていること、中国では彼女の母親が病の末期で頼まれて薬殺していること、母が亡くなる前に、満州で独立運動をしていた韓国の祖父が残した山を引き取りに行くよう言われたこと(だからここに来た)、などを語る。キがソレの不法入国に関わったことと、遺書と思われる手紙が発見されたことからキの件は自殺で、ソレは容疑者でなくなった、とヘジュンはソレに伝える。

こうしてヘジュンとソレは捜査員と容疑者の関係から離れてデートしたり密会したりしながら親しくなっていくのだが、そうやって近くになってみると、新たに隠滅された証拠とか、新たにわかってきた事実とかが見えてきたり、もともと不眠症で鬱の気もあったヘジュンは彼女への愛(誘惑?)と不信の間でへろへろの骨抜きにされていって…

事件の真相や真犯人や絡みあった謎を解いていくサスペンス、という(見方もできるが)よりも、それを口実に互いの真意や好意を探るほうに思惑が少しづつずれていったかと思ったらそれを利用するかのように証拠の隠滅や目くらましが為され、並行して新たな事実も見つかり、それでもいいや愛してしまったのだから、ってまぬけに突っ走ろうとする。 宿命の女にやられる典型的なダメ男のケースなのだが、女性の側に見え隠れしてもおかしくない悪意や好意があまりよく見えず、目をこらしてそこを見ようとすると別のものが見えてしまう、という所謂どつぼに嵌った、ってやつだと思うのだが、これでふたりが幸せになれたか、未来の幸せが見えるか、というとそんなでもなく.. というすべてにおいて中途半端でどこにも行きようのない中間状態のバランスの悪さ - 不信、猜疑心、誘惑、惑い、抱擁ときどき暴力、などが見事なカメラとか焦点とか明暗とか距離感のなかで浮かびあがってくるのがおもしろい。 ノワールに行けたらまだ楽なのかも。

“Decision to Leave”の”Leave”は単に「別れる」というより別れられなくてぐだぐだになってしまっている状態から逃れる、そんな関係から立ち去る、ようなかんじもあって、ヘジュンとソレは別れるのだが、やがてソレの新たな夫となった投資家の男がプールで死んでいるのが発見されて..  

こんなふうに近づけは近づくほど止まらずに「真相」から遠のいていくかのような拗れようが劇的とはとても呼べない冷たいトーンと、どこまでも熱くならない/なれないまんなかのふたりの不均衡によって延々切り返されていって、最後の最後に”Decision”の重みが残って、それはとても苦く痛ましい。古い民話に触れたときに感じるなんともいえない哀しみのような。

主演のふたりは文句なしで、特にヘジュンの方のなんにもできないまぬけ男のかんじ、成瀬の森雅之みたいなー。

12.19.2022

[film] Men (2022)

12月9日、金曜日の晩、Tohoシネマズ日本橋で見ました。
邦題は『MEN 同じ顔の男たち』。A24による英国の、とってもシンプルで英国なフォーク・ホラー。作・監督は”Ex Machina” (2014)のAlex Garland。音楽も”Ex Machina”と同じBen Salisbury + Geoff Barrow。

ロンドンのドックランズあたりのアパートに暮らすHarper (Jessie Buckley)は夫のJames (Paapa Essiedu)との口論(+ 被虐)の末に彼が飛び降り自殺するのを見て(窓の外を落ちていく彼と目があう)、あれこれ疲れ切ってしまったのでハートフォードシャーの村のカントリーハウスにひとりで滞在しようと車で訪れる。田舎の空気を吸ってしばらくは嫌だったことも忘れよう、っていっぱい落ちていたリンゴを齧る。

滞在する家屋の説明に来た管理人のGeoffrey (Rory Kinnear)はよく言えば親切で世話好きで悪く言えばおせっかいでうざくて、典型的な田舎のおじさんだけどまあしょうがないか、くらい。

滞在するところには満足した(インテリアとかすごくよいのでもっとちゃんと映して)ので付近を散歩でもしてみよう、って庭を抜けて廃れたトンネルを抜けて原っぱから古い家の写真を撮ったりしていると、緑の家をバックに禿げて全裸の中年男が突っ立っているのを見て、なんだこれは? にちょっとなる。

宿に戻って友人のRiley (Gayle Rankin)と話しているとさっきの裸男が頭から血を流した状態で外をうろついていて、郵便受けに手を入れてきたりしたので警察に通報して逮捕して貰ったり、教会があったので落ち着いてみようと、そこにいた神父と夫Jamesの自殺について話してみると、あなたの方にも悪いところはなかったですか? とか言うのでムカついてパブで飲んでいるとさっきの警官がいたので犯人のことを聞いてみると何もしていなかったので釈放した、とかいうのではああぁ? ってなるとか、とにかく会う男ぜんぶ何なんなのおまえ? の言動と動きに終始していて、しかもその顔はぜんぶGeoffreyの、Rory Kinnearの顔をしているように見える。

どういう顔かというと、ベースはにこやかだし暖かそうだし人あたりもよいのだが、眉とか口先をほんの数ミリ動かすだけで冷笑/侮蔑したような顔に、そこから更に数ミリで不機嫌で威圧的な顔相に簡単に着脱・トランスフォームしうる、日本人でも営業一筋の中 ~ 壮年パワハラ男が伝統の顔芸のように誇示してくる典型的なあれで、たぶんHarperにそう見えてしまうだけ、なのかもしれないがなにしろ”Ex Machina”を作った人なので、そういうロボを一式揃えて村外の人のおもてなしをしているのかもしれないし。

起点となるのは亡くなった夫Jamesのことで、彼女を殴っておいてそんなことをさせたのは彼女だっ、て呪いながらアパートの上から落ちて肘から手首ぐらいまでを柵でぐっさり股割きして死んでいた彼のイメージがあって、それ以来男なんてみんな自分を誇示して構ってもらいたがるあんなんばっかり現れる、ってその通りに終盤、改めてドアのところにぬめぬめ何度も何度も変態しながら産みだされる(生産的な)なめくじみたいな”Men”にしまいには呆れてあーあ、になる。実際にそれは笑っちゃうくらいなあれなのだが、果たしてあの対応でよかったのかどうか。 ほんとうは親友Rileyも呼び寄せて、Geoffrey の群れと“The Shining” (1980)のShelley DuvallとJack Nicholsonくらいの死闘をすべきだったのではないか、とか。でもそんなののために体力使うのムダなのよね、あほくさ – なんだけど執拗につきまとってくるあれらはいったい(怒)! って。

テーマ(敵)が空気とか制度に近いところにあって蚊みたいにいくらでも湧いてくる(しかもリラックスしたい田舎の方に行ったときに限ってそこにでる)奴らにどう対峙すべきか、というお話でコンパクトにまとまってて悪くないのだが、結局あーあ、しかないところがどうにももやもやしてしまう。

日本でも同様の - 過疎の山奥に一軒家を買ってリフォームして静かに暮らそうとした女性を村の男女がよってたかって – これはまじでぜんぜん笑えないかー。日本の俳優でGeoffreyの増殖顔をあてるとしたら誰になるのかしら?

この作品のように静かにスタイリッシュに笑えないどうしようもなさを追求するのもあるのだろうが、どうせなら思いっきりB〜C級の方に振って、サメ映画のようにいろんな”Men”を量産していくのもありなのではないか。続編は山で、オフィスで、宇宙で、スポーツイベントで、同じ顔のオトコたちが暴走して端から勝手に自滅していくやつを。

音楽はもうちょっと凶暴でもよかったかも。Mica Leviが”Under the Skin” (2014) でやったようなくらい。そういえば”Under the Skin”て、Scarlett Johanssonが”Men”を捕食していくお話だったねえ。

12.18.2022

[film] Persian Lessons (2020)

12月5日、月曜日の晩、立川高島屋のkino cinemaで見ました。
本来であればこんなのぜったい岩波ホールがやってくれたはずの作品だったのに、会社を早く抜けて立川まで遠出しなくてはならなくなる。こんなによい映画なのにさ。

邦題は『ペルシャン・レッスン 戦場の教室』。監督はウクライナのVadim Perelman、原作はドイツのWolfgang Kohlhaaseによる短編"Erfindung einer Sprache” - 直訳すると「言葉の発明」) - 本当に起こったことなのかどうかは諸説 - によるロシア/ドイツ/ベラルーシ映画で、ベラルーシからオスカーにエントリーされたがベラルーシの人がそんなに関わっていないから、という理由で却下されている。

ユダヤ人のGilles (Nahuel Pérez Biscayart)が大勢のユダヤ人と一緒に車に押し込まれてどこかに運ばれている途中、隣にいた男にペルシャ語で書かれた本を高価なものだし役に立つかもしれんから持っとけ、と渡される。

それはナチスの収容所に向かう車で、途中丘の上で降ろされ並べられた彼らは一斉に掃射されて「処理」されて、でもGillesだけは早いタイミングで倒れて死んだふりしたので弾が当たらず、それを見抜いていたナチスの兵にふざけんな、って立たされるとGillesは咄嗟に自分はユダヤ人じゃないペルシャ人なのだ、と先程貰った本を見せ、兵士はぜったいこれ嘘だと思いつつ上官にペルシャ語を喋る奴を連れてきたら肉の缶詰をやる、と言われていたので彼を収容所に連れて帰る。

連れてこられた「ペルシャ人」Gillesと相対したナチスドイツの大尉Klaus Koch (Lars Eidinger)は、彼に簡単なテストをして、ここでKlausに数単語でもペルシャ語の知識があればアウトだったのだろうが、まったく知らなかったのでGillesがでまかせでてきとーに変換する単語で納得して、Gillesは収容所の台所で働きつつ晩にKlausのレッスンの相手をしていくことになる。

でも、いくら適当と言ったってそれなりの語彙は揃えなければならないし、学習意欲たっぷりの敵はきちんと学んで復習してレッスンに臨んでくるのでGillesのほうでもそれなりに準備しないといけなくて、ちょうど捕虜の名簿を作る仕事を貰ったので各行にある名前の最初の数文字を切って単語を作って意味を添えて、これを(メモなしで)頭の中に蓄積していくGillesも相当な記憶力の持ち主だった、と。

そしてそんなGillesを偽者と信じて付け狙う兵士とかその隣で待遇に不満を抱く女性兵士とか収容所を運営する側にもいろいろあるし、GillesはGillesで裏で陰口を叩かれたからといって引くわけにはいかない - バレたら即死刑だから。教師として強くなっていくのがおもしろい。

という大尉と上層部を除けば全員が一触即発の緊張感の只中にずっとあり、いろいろあってぼろぼろになったGillesがもうこれ以上持ちこたえるのはムリだ、ってなったところで大戦でのドイツの形勢が悪くなり、収容所ぜんぶを畳んで移動することになる。でももうGillesは擦り切れて生きるパワーをなくしていて…

Klausは戦争が終わったら絶縁していた兄のところに行ってペルシャ料理の店を開くのが夢で、そのためにペルシャ語を習おうとしていた。戦争の後を夢見る敵 - 自分を殺そうと思えば軽く殺せる敵が勝手に描いている夢のために、そこから逃れて(周りの同胞は虫ケラのように殺されている傍で)どうにか生き延びるために、ありもしない言語を作って紡いで与えることの虚しさについて考える .. ぜったいに無理だ。

最後に描かれるふたりのエピソードはあまりに対照的、というか薄氷で、痛快さとは程遠い痛ましさがあって、そこに収容所での、基礎も応用もないふたりの間でしか通用しない言語のレッスンを重ねてみる。でも、戦争における敵味方というのもそんな汎用性にも根拠にも欠ける架空の言語のやりとり(のようなもの)に終始するなにかなのかもしれない、とか。でもでも、そんなところで数百万の人間が簡単に殺されてしまった、その恐ろしさにはやはり震えてしまう。

Gillesを演じたNahuel Pérez BiscayartさんはBPM (2017)に出ていた人かー。ぼこぼこにされてぼろぼろに擦りきれていく様がほんとうにリアルで怖くてすごいの。

12.16.2022

[film] Adventureland (2009)

12月4日、日曜日の昼、東京写真美術館の『『甘い夏』公開記念 青春映画祭』ていうのから2本見ました。ここに2週連続で通うことになろうとは。

邦題は『アドベンチャーランドへようこそ』。前に英国のTVで見た。日本では劇場未公開だったなんて。
監督は”Superbad” (2007)の、そしてこの後に名作”Paul” (2011)を撮るGreg Mottola。音楽はYo La Tengoで、彼ら以外の挿入曲もたまんないのが多すぎ。

1987年の夏、大学卒業後にヨーロッパを旅する計画を立てていたJames (Jesse Eisenberg)は、親から家計がやばくてそれどころじゃない、と言われて計画を取りやめ、ピッツバーグのテーマパーク – という程のもんではないローカル遊園地 - Adventurelandでのバイトをせざるを得なくなる。

Adventurelandには管理人にBill HaderとKristen Wiigとか、同僚にMartin Starrとか変なのばかりだし、客のほうもろくでもないのだらけで、おもちゃの馬を走らせるゲームの担当になった彼は客の呼び込みもなんもできなくてうんざりぐったりなのだが、同じゲーム担当の大人っぽいEm (Kristen Stewart)の佇まいにぼーっとなる。けど、彼女の後ろにはパークのメンテナンス担当のMike (Ryan Reynolds) – いまの百倍おとなしくかっこつけてる - の影がちらついていたり。

大人になった(公開当時には40を過ぎているであろう)Jamesが振り返ってみれば甘酸っぱい、でも当時としては相当にばかばかしかったなあー、のひと夏のあれこれ、どたばたじたばたを追っていって、歯ぎしりするというよりはなんだったんだろ.. ってぼんやりして、そこに”Adventureland”っていう寂れ具合もたまんない「遊園」地の名前が映画のように被さってくる - 例えばこんなふうに。

メインになるのはおそらく当時童貞でおどおどしたJamesと(彼 - 男性目線からすれば)すべてが謎めいててわけわかんないが故に猫のように狂おしいEmとのやりとりで、過去数千の青春映画で繰り返されてきた悶々した描写 vs, 短絡クラッシュばかりなのだが、とにかくこの後に”American Ultra” (2015)で再び競演することになるふたりの相性は悪くないので文句はないの。

“Superbad”からブレなくスムーズに移行してきたガキ(オトコ)目線ははっきりとあり、それはそれでよいのだが、こういうの昔ほど楽しめなくなっているような。それはたぶん自分のせいなのだろうな、って(青春映画)。でもこういうジャンルはもうなくなってよいのかも。

音楽は1987年 – レイブもグランジもサブカルも来ていないので、まだあけっぴろげで無邪気でこっ恥ずかしいのが多い。そういうこてこての間にLou ReedとかBig StarとかHüsker DüとかThe ReplacementsとかViolent Femmesとかがわらわら聴こえてきて正気に返るような。 どうでもいいけど、The Cureの”Just Like Heaven”のリリースはもっと後ろだったんじゃ? と思ったら87年10月だった。全体の流れ方としてはまったく異議なし。


Breathless (1983)

↑ に続けて見ました。監督はJim McBride、音楽はJack Nitzsche。

Jean-Luc Godardの長編デビュー作 – “À bout de souffle” (1960) -『勝手にしやがれ』の英語題をそのままタイトルにもってきて『大胆にリメイク!』(宣伝コピー)したものであると。

ラスヴェガスのちんぴらで車泥棒とかをしていて、Silver SurferのコミックとJerry Lee Lewisのロケンロールをこよなく愛するあんちゃんのJesse (Richard Gere)は、休暇でヴェガスを訪れていたときに一晩を共にしたMonica (Valérie Kaprisky) - UCLAで建築を学んでいるという - のことが忘れられなくて、ポルシェを盗んで彼女のいるロスに向かって突っ走るのだが途中で警官に止められて、追いつめられて車のなかにあった拳銃を手にとったら弾がとんで警官に当たって、ロスに着いたJesseは警官殺しで新聞に載っていた。それでもMonicaのことが好きでたまんなくて単細胞の一直線なので彼女を追っかけて、昔の仲間から金を受け取ってメキシコに逃れて結婚しようとするのだがー。

JLGのオリジナル(原作はFrançois Truffaut & Claude Chabrol)がやろうとしたことにはどちらが近いのか、っていうのは(ほんの少し)ある気がして、でも脚本がわるいのかもしれないが、後半のJesseとMonicaのやりとりは結構ぐだぐだでしょうもなくて、そういう「なにやってんのこいつら? - 勝手にやってればー」みたいなのを絵として撮りたかったのかなあ、と思っていたらラストのあのショットですべて腑に落ちる、というかこれを撮りたかったのかー、と。

あと、こういう純朴なバッドガイをやらせたときのRichard Gereの殺気とわけわかんないぎらぎら具合はなかなか素敵なのだが、やはり“Days of Heaven” (1978)の彼にはかなわないかも。

こちらも挿入される音楽はすばらしくて、Mink DeVille、Brian Eno、Philip Glass、Link Wray、主題歌ともいえるJerry Lee Lewisの(そしてエンディングではXの)"Breathless"とか、どんぱちが始まる前に流れるThe Pretendersの"Message of Love"とか、たまんなく盛りあがってよいの。


原則見られればよい、し関係ないはず、なのではあるが、この特集でかかったやつ、やっぱり初夏くらいに見たかったかも。

12.15.2022

[film] The Electrical Life of Louis Wain (2021)

12月3日、土曜日の晩、Tohoシネマズ六本木で見ました。
朝から”Mad God” - “Mr. Landsbergis”と見て、しみじみ世の中が嫌になっていたのを救えるのは猫しかいないわ、と。 邦題は『ルイス・ウェイン 生涯愛した妻とネコ』。

監督は英国の変てこやくざ映画”Giri/Haji” (2019)に俳優として出ていたWill Sharpe、古典のキャラクターを任せると異様に入り込んでしまうBenedict Cumberbatchが主演と製作にも入って、ナレーションはOlivia Colman。他にもTaika Waititiとかあ-らこんな人が! みたいなのがいっぱい、英米の猫好きがよってたかって入り込んでいるかのよう。

Louis Wainというアーティストは、子供の頃に読んだ教科書ではSéraphine Louisなどと並ぶシュールレアリズム系のアウトサイダー・アートの人で、そこでの猫はぐるぐる模様のなかにあったりしたのだが、あんなかわいい猫たちも描いていたのかー、と。

ヴィクトリア朝の頃の英国で、貴族の端くれのLouis Wain (Benedict Cumberbatch)は未亡人の母と5人の妹たち(うちひとりは精神を病んでしまう)を養うために絵を描いたり - 右手と左手を同時に動かしてあっという間に描きあげるとか - どんなことでもやってせかせかと働き続けるのだが、誰も助けてくれないし彼自身の金銭感覚もてきとーだったので生活はどん詰まりのままどうしようもなくて、でも妹の家庭教師としてやってきたEmily (Claire Foy)と恋におちて天上に舞いあがって、彼女のが年上だし階級も下なので家族の反対もあって、でも結婚したふたりは幸せで、それなのに彼女が癌と診断されて真っ暗になったそんな時、庭先に現れた白黒の野良子猫にふたりは魅せられてしまう。

Peterと名付けられたその猫をふたりはネコ可愛がりして、Emilyが猫って私たちと同じよね、と言うのでLouisはいろんな活動をしているPeterの絵をいっぱい描いて、それは友人の実業家Sir William Ingram (Toby Jones)の手によって描く端から売れて大人気作家になるのだが、いくら描いても描いてもLouisのところに殆どお金は入ってこない仕組みになっているのだった。

やがてEmilyが亡くなり(彼女と別れるところ、悲しすぎる)、Peterも亡くなって、すべての生きるパワーと支えを失ったLouisは精神病院に送られてひとりぼろぼろに…

猫ともEmilyとも出会う以前にLouisは彼の頭の中だか外だかを稲妻のように走る電流(のようなにか)にも魅せられていて、そういう電気ショック(の源)が彼の周りにはいっぱいあって、その電撃のひとつはEmilyで、もうひとつのは猫で、EmilyはいなくなりPeterもいなくなってしまったけど、そういえば猫はそこらじゅうにいるなあー、って気が付くと(びりびり)。

LouisがDoctor StrangeだったらEmilyにもPeterにも会わずに忘れて済ませるバースを呼びだすのかもしれないが、猫に魅せられて、猫のなかに没入しているElectricalなLifeって - そういえばCumberbatchは”The Current War” (2017)でエジソンを演じていたし”The Imitation Game” (2014)ではAlan Turingだったし、電気/電流系なのかも - どんな雲のなかにあって彼には何が見えていたのか、なぜ彼はそこまでして猫に、猫描きに没入していったのか、その辺のどうしようもなく狂おしいかんじがもうちょっと描けていればー、というのは少しだけ。

でもそうすると今度は、なんで君はそんなにかわいいのかゴロゴロにゃー、っていつもの猫好き忍法にやられるだけになってずるい。(なんで猫なのか? ただの4本足の毛玉獣なのに? をきちんと説明させることを許さないのがElectrical猫のおそろしいところ)

これと同様のノリで『The Electrical Life of 内田百閒』って誰かやらないかしら。『ノラや』のあの世界を。

あと、猫を救おう!ってH.G. Wellsに扮したNick Caveが出てきてラジオで喋ったりするのだが、これがいつものふつうのただのNick Caveがラジオで喋っているのにしか見えなかったりするのがおかしい。

最近は映画以外は、猫動画しか見ていない。映画でも猫が出てくるとよい映画になってしまう。なんかよくない。

12.13.2022

[film] Mr. Landsbergis (2021)

12月3日、土曜日の昼、イメージフォーラムで見ました。

“Mad God” (2021)を見たあとに歩いて向かって、向こうに”I’m donut?”のながーい列が見えたので少し並んでみたのだが上映に間に合わなかったので諦めた。くやしい。

Sergey Loznitsaのドキュメンタリー、邦題は『ミスター・ランズベルギス』。248分で間に10分休憩が入る。彼のドキュメンタリーとしてはこないだ見た“Babi Yar. Context” (2021) - 『バビ・ヤール』 に続くもの。

ソ連のペレストロイカの流れを受けるかたちで1989年から1991年にかけて起きたリトアニア(他のバルト三国も同様)の独立運動をリードしたVytautas Landsbergis(ヴィータウタス・ランズベルギス)。当時の生々しいアーカイブ映像と現在の氏へのインタビューを通して、あの運動はなんだったのか、どうして非暴力で- 死者は出ているが – この革命は実現されたのかを追っていく。 ナレーションもなく、最小限の字幕以外は入れないかたちで、映像とそこに出てくる人々に語らせていくスタイル。 放映用の素材を「わかりやすくする」ために字幕やテロップを入れまくり、インタビューにはわざとらしい吹替えや効果音をへーきでいれてしまう現代のニュース映像ではたぶん無理なやつ(あれほんとなんとかして)。

リトアニアの主権とソ連からの独立を訴えて実現しようとする政治組織サユディスが国内で立ち上がり、そこに当時国立音楽院の教授だったランズベルギス氏が加わって指導者となり、Mikhail Gorbachev(ゴルバチョフ)の施策に一見乗っかるかのようにここまでならやっていいよね?ほんとはあそこまでいけるよね?とかやっているうち、はじめのうちは余裕でにこにこしていたゴルビーから笑みが消えて、そんなことをしたら大変なことになるぞ、って警告のあと、実際に経済制裁とか官僚の更迭とか嫌がらせが始まるのだがリトアニアの民の勢いは止まることなく意思も固いままで、1990年3月11日、第一回リトアニア最高会議で議⻑に選ばれたランズベルギス氏がソ連に対して独立を宣言すると、向こうはいいかげんにしろよ、って首都ヴィリニュスに軍の戦車一式を派遣してきて閉鎖して占拠しようとして…

この辺の流れは革命の怒涛の勢いと熱情で一気に一挙に進んだわけではなくて、サユディスとか最高会議の場でもいろんな意見があるしでるし – 絶対にあったであろう修羅場での議論はあまり出てこないが - でもおそらくランズベルギス氏が揺るがずオーケストラの指揮者よろしく全体をまとめてあげて、ソ連側に対する態度も要求もきれいにシンプルに一貫していた。 ソ連は飼い犬がここまで激しく、しかし整然と歯向かってくるとは思わなかったに違いない。

現在の映像のなかで当時のことを振り返るランズベルギス氏の様子が素敵で、くしゃくしゃっていうかんじで笑いながら、でもやったのは自分じゃないよ(みんなでやったんだよ)、みたいな余裕。 インタビューで、ランズベルギス氏のことは文化と教養があるから信頼している、っていう市民の言葉があるのだが、ほんとにそうだと思った。政治家に文化と教養がない(あまりになさすぎ。なにあれ?)国はほんとに滅ぶよな、ってどこかの国をみて。

そしてランズベルギス氏だけではなく、最後まで抵抗の姿勢を貫いて崩さなかった/崩れなかった市民もすばらしく、丁度”Andor” (2022)のS1の最終エピソードを見たあとだと、これだ! って思うよ。 革命っていうのは通りの静かな音楽から始まってひとりひとりが立ちあがることなのだ、って。いまは穏やかな氏も物陰ではLuthen Raelみたいなことをどっしりと語っていたのかも知れない。

連邦国家が施策に織りこんでイメージしていた「解放」or 「緩和」がかつて強制編入された共和国の側からは全く異なるものとして受けとられていた、というのと、いったんそこで露わになった両者の溝は後からどちらがどうこうしようとしても決して埋められるようなものではなかった(そこを無理やり埋めようとするやり方にも違いはでて)その決定的な段差こそが文化であり歌となって溢れて、だからランズベルギス氏が音楽の先生だというのはとても象徴的なことだなあー、って。

そしてもちろん、このドキュメンタリーはウクライナの昨年から今までのありようも逆照射してはいないだろうか(ロシアという国の、国境に対して頑迷でどうしようもないところも)。 もし当時のゴルバチョフが今のプーチンだったら.. いや、当時のゴルバチョフを見ていたからプーチンはあんなんなっちゃったのか、とか。 でも最近、ほんとに国ってなんなの? いる? とか思うことばかり。利益権益を握った個人や企業が自身を維持するためにあるとしか思えないんだけど? 国。

初日だったからか映画とは別で撮られた直近のランズベルギス氏のインタビューと、チュルリョーニスのピアノ曲を演奏する姿の動画がおまけで上映された。

時代は異なるけど、Jonas Mekasがいて(亡命したけど)、Vytautas Landsbergisがいた国 – リトアニア、やはり行ってみたい。

12.12.2022

[film] Mad God (2021)

12月3日、土曜日の午前、ヒューマントラストシネマ渋谷で見ました。ぜんぜん「ヒューマントラスト」してない作品といえよう。

Guillermo del Toroをはじめ多くの映画人が「神」とか「マスター」とか崇めてやまないPhil Tippettが原作、脚本、造形、作画、など約30年をかけて、ほぼひとりでこつこつ作りあげたストップアニメーション。途中で頓挫してクラウドファンディングで繋いだり、完成一年前に監督が精神病院に入ることになったり、いろんなことがあった、らしい。30年かけたのだったらそれくらいはありそう。

70年代の終わりくらいから洋画を見始めた人にとって、Phil Tippett、という名前は特別なブランド名、というより、変なモンスターとか動物とかが動きだしたりスクリーンを横切ったりする都度に無意識に摺りこまれてきた刻印とか紋章のようななにかで、なので彼の名前があると痺れて拝み倒す、というよりも気が付けば手が勝手に動いてお菓子の缶を開けて頬張ったりしてしまうあの感覚、そういうやばい方の符号になっていて、だから今回も気が付いたらチケットを取って映画館に座っていたりする。それはそれでこわいったら。

タイトルの「狂った神」はお狂いになられた神さまが主人公となって暴れて壊しまくる、大魔神みたいなやつではなくて、狂ってしまった神(ひとつであれ複数であれ、どんな形でも)が下痢のようにもたらすであろう世界ってこんなんではないか、くらいのかんじ – それが指し示すその先にPhil Tippettそのひと、を置いてみてもそんなに違和感はない。いっそのこと見ているこちらを引きずり込んで狂わせてくれ、くらいのものを期待してしまう。

暗くおどろおどろした世界にバベルの塔のような建物が見えて、その上方から潜水服のようなものに身を包んでスーツケースを抱えた男がワイヤー(蜘蛛の糸)を伝って地底に降りていく。男は地図のようなものも携えていて、立ち止まる都度それを広げるのだが、その紙もぼろぼろと朽ちて欠けて小さくなっていく。男が誰なのか、どこに向かおうとしているのか、その目的は、など、ナレーションも台詞も字幕も一切ない。見ていればわかる、極めてシンプルな地獄巡り絵巻。昔のガロにあったようなどす暗い画の世界。

降りていった地底なのか何かの底なのか - はどろどろ汁気と湿気たっぷりで薄暗くて空も見えない、変な魔物や怪物がうろうろしていて蹴とばされたり食べられたり潰されたりが茶飯事で、顔のない軍隊がいるボッシュやブリューゲルの世界。 男がスーツケースに仕込んだ爆弾を仕掛けようとしてもうまくいかずに診察台に縛りつけられて解剖されて、男の体内から出てきた赤ん坊をどうするとか、その男のあたまに記録されていた映像を吸いあげた別の男がバイクでやけくそのようにして走り出すとか、そんなゴスゴスした描写 – ぜんぶ人形なのでそんなに気持ち悪くはない – が延々続いていく。

蜂の子が延々弧を描いて飛んで(火にいる)爆発と消滅を繰り返しながら自らの死体の上に蜂蜜とか黄金を練りだしていく、海の底や地の底でこれまでも繰り返されてきた虫レベルの錬金術の営為を虫レベルのViewと視野 - 狭いのか広いのか/低速なのか高速なのか - で描きだす。誰にも止めることなんてできやしない。

こういう神が、Phil Tippettの創作の底には常に見えて寝っ転がって閉塞していた – それも30年 - というのはなかなかすばらしくないだろうか? ビッグバジェットの大作であっても、少なくとも極楽浄土のハッピーなお花畑ではなかったことが確認できただけでもなんか嬉しくなる。

“Guillermo del Toro's Pinocchio” (2022)との比較でいうと、どちらも生の普遍と世界の果てを巡って火花を散らしていくところは似ているのだが、こっちのはひたすら下降するのに対して、”Pinocchio”はどこまでも横滑りしていくとことはやや異なるかも。どちらの創造主もちょっと「狂っている」とこはおなじかも。

あと、音楽だけはちょっと残念だったかも。こんなにゴスで”Downward spiral”映えするネタはないのになー。

12.10.2022

[film] Black Adam (2022)

12月2日、金曜日の晩、109シネマズの二子玉川、IMAXレーザーで見ました。
監督は”Jungle Cruise” (2021)のJaume Collet-Serra。

DCについては、Wonder Woman 3のニュースを聞いてはらわた煮えくりかえって頭きているとこなので、まともに書けないかもしれないけど。 これはヒーローがどうした以前にDwayne Johnsonが現世でいかに最強であるかを示す(しかない)ものなので、ネタばばれもくそもない、はじめからこたつみかんモードで。

BC2600年、古代都市のカーンダックで王のAhk-Tonが圧政を敷いているなか、魔法の石”Eternium”の採掘現場の奴隷の子が魔法だか呪いだかの力を授かって救世主Teth-Adam となって(という辺りは終盤にきちんと説明されて、えっ..?ってなる)王を倒して、という伝説だか神話だかが描かれる。

現代のカーンダックは無国籍ギャングが支配する国際無法都市になっていて、そこで考古学者のAdrianna Tomaz (Sarah Shahi)と彼女のチーム(+ 息子)はカーンダックの行方不明の宝物とその謎を追って砂漠の岩山の奥に入っていって、なんか見つけたと思ったら大勢の武装した連中に囲まれてて、じたばたしているうちに岩戸の奥からTeth-Adam (Dwayne Johnson)を蘇らせてしまう。寝起きで機嫌悪かったのかいろんなのをぶち壊しつつ悪い連中を一掃してくれたものの、ちゃんと英語を喋るこいつは善玉なのか悪玉なのか。

彼の出現に気づいて懸念を示したのがSuicide Squad を統括していたAmanda Waller (Viola Davis) で、彼女は”Justice Society (≠ League) of America”っていうチームのHawkman (Aldis Hodge) - 羽野郎だけどFalconほどいけてない。ほんとうはWill Smithの担当枠 - とDoctor Fate (Pierce Brosnan) - お金持ちのシニアで金兜をなでなでする - に指令を出して、Atom Smasher (Noah Centineo) - でっかくなる。Ant-Man + Deadpool - おしゃべり大好き白人男性 - とCyclone (Quintessa Swindell) - お天気を操る。Halle BerryのStormとほぼ同じ - の若い男女もここに加わって正体不明で不敵なTeth-Adamを退治しようと出陣する - けど当然歯が立たない。

とりあえず最初の波をひと通り蹴散らした後で自分の役目は終わったから、って自ら頼んで海底に凍結して貰ったらこの後でやばい本丸のSabbac (Marwan Kenzari)が蘇り、どうする? になるのだが、どっちみちぎんぎんに蘇らせて我こそがBlack Adamなりー、って覚醒するのは誰がどう見たってわかるし。

どちらかと言うと地球のヒーローを名乗って登場するJSなんとかの方が雑にうざくて、普段の町の治安悪化は放置しているくせにこういう時だけ現れるなー、って町衆にヤジられていた通りだし、”…of America”って付いてるのになんで国外に干渉してくるのか、だし、終わりの方でDoctor Fateがなにやらかっこつけてみたりするけどもう遅いし、どっちにしても町をぼこぼこにぶっ壊すだけじゃんか。

宣伝では「ダークヒーロー」とか言っていたが、奴隷解放の突端で”Shazam!” ってやって登場したBlack Adamが正統派ヒーローでなくてなんなのか(ひょっとして既存体制を破壊したらダークになっちゃうの? まじ?)、JSAの決断とか動きの方がよっぽどダークでブラックで怪しくて、それは今の大国の動勢とも繋がっていない? あと、同じ地元の希少鉱物によって発展への道が開けたワカンダとカーンダックの違いとか。ワカンダは技術も含めて発展したけどずっと権力集中型の王制で、カーンダックは奴隷制が破壊された後は混乱が続いて、この辺の設計というか考え方って、あんなんでいいの?

この辺の事情とか背景はどう描いたって(現代社会がそうだから)ぐだぐだになるに決まっているので、ぜんぶBlack Adamの覚醒を起点としたなにもかも巻き込まれ型のパニック・アクション  - 要はモンスター・ムーヴィー - にしちゃえば痛快で軽くなってよかったのに、なんか笑えない微妙なふうに薄まってしまったような。HawkmanとDoctor Fate (運命博士)の絡みなんてどーでもええし、別枠でやってくれ。

あと、今後もし彼とSupermanと喧嘩するならどこか別の星でやるように、JLもJSAも全力で説得してほしい。

あーそれにしてもWonder Woman 3がなー。MCUとトレードとかできればいいのに。

12.09.2022

[film] Salesman (1969)

11月27日、日曜日の午後、イメージフォーラムで見ました。
ダイレクト・シネマ・ドキュメンタリーの先駆とか古典とか言われている作品。
監督はAlbert MayslesとDavid Mayslesの兄弟にCharlotte Zwerinの3人。

シカゴに本拠を置くMid-American Bible Companyから派遣されて、車で住居を一軒一軒回って聖書を販売していく4人のセールスマンの姿を追っていく。

4人はネクタイを締めたスーツ姿で、"The Badger"、"The Gipper"、"The Rabbit"、"The Bull"と呼ばれて、みんなでモーテルに寝泊まりして、その日の営業成績についてうだうだ言い合いながらニューイングランドからフロリダまで売り子の旅を続けていく。

ターゲットになるのは低所得層が暮らす地域のぺったんこの一戸建てが並ぶ一角で、ベルを鳴らしても出てこないか、出てきてもどんよりだったり、家に入れてくれて話をさせて貰っても買う気なしお金なしやる気なしだったり当然いろいろあって、売る側は仕込まれた売る技術を駆使してがんばるのだがうまくいかないことの方が当然多い。

各家庭の訪問時には撮影する許可を貰ってからAlbertがカメラを、Davidが録音を担当して、持ち帰った膨大な量のフィルムをDavidとCharlotteが編集した、と。

4人の朝から晩まで、売り子である彼らの表情や発する言葉に受ける言葉、訪問される家の様子や愚痴や倦怠、それらを見ていると神の聖なるメディアであるバイブルが取引される場のそれには到底見えなくて、この「商品」がゴム紐や切手であっても変わらないし、この場で突然ちゃぶ台がひっくり返されて凄惨な銃撃戦や殴りあいが勃発しても驚かない、そんな微妙なテンションで描かれる訪問販売の現場が、実は作り物でもなんでもない - と思わせるところが肝なのだが - そういう世界は、こんなところにこんなふうに転がっているのだ、21世紀を生きる我々のまわりにも。

ストーリー的にはアイリッシュ系で”The Badger”のPaulがどこまでも諦めずにいろんな技を駆使して売り込もうとするも、地獄におちろ!としか言いようのない仕打ちを受けてずたずたぼろぼろにされていく - でもそれを見てもそんなにかわいそうには見えなくて笑ってしまったりして、どっちみち全員地獄に堕ちるんだわ、みたいなところにはまっていく -その辺がおもしろい。なんでこれがおもしろいんだろ? と考えさせるような世界の重箱の隅。

このおもしろさは半分捏造である、としたPauline Kaelとの論争もあったくらい。映画批評の足場も揺るがしてきそうなやつ。

同様におもしろくてやめられないとまらないのドキュメンタリー作家、Frederic Wisemanとの違い。どちらも膨大な量の素材を撮り貯めて、それを時間をかけて編集して練りあげていく、というスタイルは同じでも、Maysles兄弟の指向と対象はダイレクトに個人に向かうのに対し、Wisemanの関心はそれを覆う森 - 組織とか集団とか場所 - に向かう。同じ社会科学でも心理学と社会学の違い、くらいはあるかも。 だからMayslesのって、撮られている対象に自分が興味をもてないと、どうしても乗れないところがあったりするかも。

そして、その被写体が、映画だなんだ以上に最高におもしろくてたまんないのが ↓


Grey Gardens (1975)

↑ のに続けて同じ日に同じ場所で見ました。

むかしTVで見た(米国ではとてもポピュラーな作品)けど、映画館では初めて。
監督にはMaysles兄弟に加えてEllen HovdeとMuffie Meyerが加わって全部で4名。

Jacqueline Kennedy Onassisの叔母 - 要するにアメリカの旧家で名家で貴族の”Big Edie" と呼ばれるEdith Ewing Bouvier Bealeとその長女でLittle Edie" と呼ばれるEdith Bouvier Beale のふたりがイーストハンプトンのゴミ&ネコ&アライグマの屋敷で優雅に暮らしていて、そんな彼女たちの歌ったり悪態ついたりの堂々とした日々を追って揺るがない。

彼女たちは元はマンハッタンの76th & MadisonのThe Carlyle Hotel(ここの前のバス停で降りることが多かった。なつかしい)になるところに暮らしていて、一家は1923年にGrey Gardenを買って、Big Edieの結婚が破綻した後もそこに住んで、そこにLittle Edieが越してきて、とにかく”Salesman”がずっと渡ったり移動したりして暮らしているのと対照的に彼女たちはずーっとこの屋敷にいて、動かない。

世を捨てた没落貴族の母と娘の生活がどんなふうなのか、悲惨さなんて欠片もない痛快さがある。どれだけゴミに囲まれていても誇りと歌とユーモアがあれば生きていけるんだから、っていうのをべらんめえのNY英語で目の当たりにすると、どんなことだって怖くなくなる。

このふたりに関しては、ダイレクト・シネマがどうの、は通用しなくて(というかどうでもよくて)、誰がどう撮ったってああなってしまうのではないか。それくらい彼女たちは存在として飛び抜けていて、チャーミングで、強い。

あの名曲、Rufus Wainwrightの”Grey Gardens”の冒頭で引用されているライン;
"It's very difficult to keep the line between the past and the present. You know what I mean?"
線なんて引く必要があるのだろうか、って。

そして、着実にゴミ屋敷化している自分の部屋をこの年末にかけてどうにかしないと、本当にだめだ。英国からの箱でまだ開けていないのだってあるのだ(威張んな)。

12.08.2022

[film] Guillermo del Toro's Pinocchio (2022)

11月26日、土曜日の晩、ヒューマントラストシネマ渋谷で見ました。
どうでもいいけど、「ヒューマントラスト」ぽいお話かも(嘘)。

Netflixでは9日から見れるようだが、これは映画館で見ないと、なやつだと思った。Guillermo del ToroとMark Gustafson- “Fantastic Mr. Fox” (2009) -の共同監督 + Jim Henson Companyによるストップアニメーション & ミュージカル。音楽はAlexandre Desplat(歌詞はRoeben KatzとGuillermo del Toroの共同)。

実写で多くのクリーチャー(のどちらかというと悲劇)を創造してきたGuillermo del Toroにとってこれが悲願の待望のプロジェクトだったこと、子供に向けられた教訓もの - 嘘をついたら鼻が伸びちゃうよとか – ではないことははじめから明白なのだった。約2時間はちょっと長いかもだけど。

原作はCarlo Collodiの”The Adventures of Pinocchio” (1883)で、舞台を(19世紀ではなく)ファシズム台頭期の1930年代のイタリアにしている。ついこないだ公開されたDisney - Robert Zemeckis – Tom Hanksの実写版の方は見ていない。

勤勉な大工のGeppetto (David Bradley)は息子のCarloと幸せに暮らしていたが、Carloは教会に「完璧な」松ぼっくりを取りに行ったところで空爆で亡くなってしまい、Geppettoが悲しみに暮れて酔っ払うなか、何かに取り憑かれたようにCarloの墓の傍らにあったでっかい松の樹から木彫りの人形を作って、これがPinocchio (Gregory Mann)になって、その一代記を旅するコオロギであるSebastian J. Cricket (Ewan McGregor)が弁士のように歌ったりナレーションしたりしていく。

やがて木彫りの人形は、翼をもった樹の精(Tilda Swinton)から命を貰って自分で勝手に動くようになり、同様にその姉であるDeath (やはりTilda Swinton)からはいくら死んでも死なないやり方を教わって、善悪の区別もなんにも知らないのでサーカス団のCount Volpe (Christoph Waltz)と手下のお猿(Cate Blanchett)の言われるままに騙されて地の果て海の底まで旅していく。

命を授かったPinocchioはテリブルな野生のガキで誰にも制御できなくて、周囲から変な目で見られてサーカスでサルと同列扱いになるのだが、ここに厳格な役人のPodesta (Ron Perlman)と忠実な息子のCandlewick (Finn Wolfhard)のきちんとした父子、更にその頂点に立つMussolini (Tom Kenny)が対比される(日本の戦時のにもそのまま適用可)。そんなPinocchioの上には爆撃された教会の木彫りのキリストがあって見下ろす。 これらの宗教や家族のありようの対置も、最後には生と死のそれに織り重ねられていく。

もうひとつは魂のこと。Geppettoの抜け殻になった魂を埋めるかのように樹人形の中に組み込まれる魂 – 更にPinocchioの中にはコオロギが住み込み、Pinocchioをのみこむ大魚(すてき)とかの果てのない命の入れ子構造 - があり、無垢と残酷さと狡猾さの間を何度も生きて死んでを繰り返し簡単には死なせてくれない。でもその反対側でGeppettoは亡くなって…

父子愛の話、というより、過剰な愛とその崩落が生みだした手製のモンスター/クリーチャーのお話、彼らは人の手によって、その欲望を満たすために造られたので死ぬことができない、でも造りだした本人(ここではGeppetto)は人間なので死ぬ、という決定的な溝と倒錯とそこに横たわるしょうもなさと、でもそれ故にそんな腐った人間どもは怪物となった君たちを愛するし必要とするのだ - ここにいてほしいよ、っていう。Guillermo del Toroの創作に向かうにあたっての宣言のような生真面目さ - よくもわるくも。

思い浮かべたのはやはりスピルバーグの“AI: Artificial Intelligence” (2001)だろうか。子を亡くした夫婦の愛の穴埋めとして持ってこられた機械がその持ち主から捨てられた後にたどる運命と孤独 – ずっと氷の底にひとり沈められていた彼にとっての「孤独」とは。

父と子、生と死、世界の果て、クリーチャーの呪縛に呪い(伸びる鼻)、こんなふうにいろんなテーマが盛大にぶち込まれ過ぎて魚のおなかの中みたいなカオスになっているところが賛否なのかもしれないが、これをクラシックの原作を使って木の人形劇にしたところはすばらしい。Pinocchioの木の造形と質感とかGeppettoの顔とか、あれ以外考えられないようなはまりようではないか。これが操り人形劇だったら.. ? とか少し考えている。

そしていつものようにちっとも売れそうにないけどよく聴くと実は名曲ばっかりのAlexandre Desplat の音楽と、それに乗って楽しそうに朗々と歌いまくるEwan McGregor – “Moulin Rouge!” (2001)以来では? - もとてもよい。Forceを使うコオロギにしてもよかったのに。

あと、海で巨大な海獣でもだしてくれたらよかったのになー。


12.07.2022

[film] EO (2022)

11月26日、土曜日の午後、東京都写真美術館のポーランド映画祭で見ました。

この日は裏でJonas Mekasの特集上映もあったのだが、どうしてもロバ映画を見たかった。

今年のカンヌでJury Prizeを獲って、来年のオスカーの国際長編映画部門でポーランド代表にもエントリーされていて、NY Times紙の今年のCritics Pollの一位にもなってしまったJerzy Skolimowskiの新作。脚本は彼の妻のEwa Piaskowskaとの共同、撮影は”Cold War” (2018)が印象的だったMichal Dymek。

“Au hasard Balthazar” (1966)-『バルタザールどこへ行く』を誰もが思い浮かべるだろうし、作る側も十分意識はしているのだろうが、あそこまでかなしーかんじはないので安心して。でもだからといって”Babe” (1995)のように見終わってかわいー! って満ち満ちてしまうようなものではもちろんなく、人間界の都合とか気ままな暴力に翻弄されて不条理に彷徨うロバの、そして誰にもちゃんと守ってもらえないロバの – つまりこれは力を持たない我々の物語としても見ることができて、“Essential Killing” (2010)の世界とも繋がっている。そもそもSkolimowskiがただのロバかわいー映画を撮るわけがないし、でもそういうとこにあんなロバを持ってくるなんてじじい〜 くらいは言いたくなる。

改めて「ロバ」って、馬や犬ほど人の友達になってくれないし(檻に入れられたEOの外を軽快に走っていく美しい馬の描写がある)、猫ほどアナーキーでもないし、食肉にもならないし、タフでスローな重労働に向いてて、鳴き声がそのまま名前になるくらいどうでもよくて、すべてが人間の都合でいいように利用されてきて、でも暴動もストもしない。 そんな彼らの孤独な目とキュートさが前面に出てくる。

冒頭、サーカスで真っ赤なばちばちのライティング(冒頭にWarningがでる)のなか、少女Kasandra (Sandra Drzymalska)と一緒に舞台で喝采をあびるEO(ぜんぶで6頭のロバが演じているらしいのだが、メインはTakoっていうロバだって。Takoと呼ばれるロバ..)は、彼女と一緒で幸せそうだったのに突然やってきた動物愛護団体から虐待容疑があるし虐待されてるから、って強制的に連れ出されて、そこから彼の放浪が始まる。

カメラはEOのクローズアップ(目と顔半分)が多いしロバ目線もあったりするのだが、使命感を抱いたロバが苦難の果てにKasandraの元に戻ったり終の棲み処を見出したり、そういうお話ではないの。むしろロバがそんなこと考えるわけないし、運命なんて信じてないし、とか、そのへんは一貫して徹底しているような。

ひとつは野生のも含めたいろんな動物たち - フクロウとかキツネとかカエルとかいろんな獣がうごめく夜の森の描写のなかに押し入ってくる軍の描写とか – との対比があり、もうひとつは先の見えない彷徨いのなかでEOが知り合ういろんな人間たちがいる。よい人もいれば危ない人もいてはらはらするのだが、印象的だったのは草サッカーをしているふたつの陣営があって、そこに立ち寄ったEOがたまたま勝った一方のチームに祭りあげられて、でもその晩、祝勝しているパブに殴りこんできた猛り狂う敵チームに言いがかりでぼこぼこにされてしまうとこ。 ほんと、ワールドカップもオリンピックも、あんなのいらないし早くなくなってほしい、って改めて思うし。 で、ここまで来ても、EOがそういう事態に嵌ってしまったのって、EOのせいだと思う? EOがロバだから? EOの努力が足らないとか? いう? (いろいろ)

で、そうやっていろんな人を見たり会ったり、暗い淵を覗いたりして、ポーランドからイタリアまで流れ着いた果てに、ようやくまともそうな修道院のひとに拾われたようで、今度こそああよかったねえ、となったところでそこにいきなりIsabelle Huppertが現れるので動揺する。 え? なに? くらい。

ここでどんなことが起こったのかについては書きませんけど、Isabelle HuppertはIsabelle Huppertっていう固有種か、宇宙人か、くらいのことは思って、映画としてのスケールもここで別の次元に突入したかのように見える – それが全体の構成とかバランスから見たらどうか、という議論はおそらく、あるのだろうが。

ああ我々もEOくらいの(不)器量と偶然でなんとかこの世を渡っていけますように、とか。

あと、ロバってやはり素敵で、パーフェクトなシェイプで、ロバが橋の上にただ立っているだけで見事な絵になるなー、って。


Chopin. Nie boję się ciemności (2021)

“EO”の前にみた58分の中編ドキュメンタリー。 
邦題は『ショパン 暗闇に囚われることなく』。英語題は”Chopin. A tale of three pianos” (でも画面上に表示されたタイトルはこれじゃなかった気が)

3人– シリアの、韓国の、ポーランドの、それぞれの事情や背景をもつピアニストが、レバノンのベイルートで、韓国では北朝鮮との国境付近の橋で、ポーランドではアウシュビッツの跡地で、ショパンを演奏するまで。各ピアニストの過去とその土地に対する思い、そしてショパンとピアノ演奏にかけるそれぞれの思いを語る。

そうだねえ、しかないのだが、できればもうちょっと、なんでショパンなのか?(スクリャービンとかジェフスキーとかではだめ?)とかを聞きたかったのと、演奏を切らないでもっときかせて! って思った。
 

12.05.2022

[film] All the Streets Are Silent: The Convergence of Hip Hop and Skateboarding (1987-1997) (2021)

11月23日、勤労感謝の日の晩、ヒューマントラストシネマ渋谷で見ました。
邦題は『All the Streets Are Silent:ニューヨーク(1987-1997)ヒップホップとスケートボードの融合』。 2021年のTribeca Film Festivalでも上映されたドキュメンタリー。

80年代から90年代にかけての10年間くらい、NYのアンダーグラウンド・カルチャー(サブカルとか、そういう呼称はなかったような)がどんなふうに組成され、それが所謂「文化」のようなものとして認知されるに至ったのか。 WarholとかJean Michel Basquiatといった固有名ではなく”Downtown”とか“Street”で括らざるを得ない事態となっていた、そのありようをアーカイブ映像を中心に追っていく。

映画だと”Beats, Rhymes & Life: The Travels of A Tribe Called Quest” (2012)とか”mid90s” (2018)とか、New Museumでの2013年の展示 - “NYC 1993: Experimental Jet Set, Trash and No Star”(展示のカタログ)とか、参考資料のようなのが割とあるのと、自分が98年まであそこに住んでいたので、あんなところでー、のような関心は当然ある。

監督はJeremy Elkin、音楽はLarge Professor、ナレーションはEli Gesner。

話題の軸になるのは10th Ave.にあったナイトクラブ - Mars Barとコロンビア大学の地下で放送されていたラジオ番組 “The Stretch Armstrong and Bobbito Show”、これらに集まってたむろしにきたヒップホップ界隈の人たちとスケーターの人たちがなんとなく寄って「融合」して、そこから映画が生まれたりファッションブランドが生まれたりセレブが(以下略)

ヒップホップという粗い、ジャンルにもなっていなかったようなジャンルと、スケート、っていうそこらの道路を走っていくだけのスポーツにもなっていないようなジャンル - 明確な集団は形成されていないよう - がどうやったら「融合」しうるのか、それって、カリフォルニア・ミュージックとサーフィンがどう、とかロックと革ジャンバイク集団がどう、のようなのと同じなのか違うのか(単なるイメージの接合、なのかもしれないし)。

ここにはナレーションを担当したEli Gesnerたちが撮りためていた膨大なアーカイブ映像があって、モノクロだったり粗いカラーだったりする中にはこんな人が映っていた、あんな彼こんな彼女がこんなところに、という驚きがあり、それを当時の関係者の証言 - Yuki WatanabeとかMobyとか - が補完して、歴史的にすげえだろ、みたいなのまで示されているのだが、果たしてそれがなんだったのか、というところにまでは到達していない気が。

市長がEd KochからDavid Dinkinsだった時代、荒れ放題で荒廃したNYの治安に乗っかるのか隠れるのか、夜中にたむろして騒げる場所を探していた若者たちがばらばら集まってきて、そこでいきなりライムして名をあげるBusta RhymesやWu-Tang Clanなど - が出てきたり、Larry Clark/ Harmony Korineが映画”Kids” (1995)を撮ったらそれが当たってRosario Dawsonが出てきたり、そうやって集まった連中がTシャツを売ったりするようになってそこからブランドのSupremeがうまれたり。 ただこれって自然発生的に集まったり溜まったりしていったもので、「融合」をドライブする力とか特別な場とか人とか焦点があったようには、あんま見えないところがなー。いやそれでも、そうやってNYのヒップホップやスケートボード・カルチャーは生まれたのだ、と言われたらそうなんですねー、としか言いようがないけど。

荒れ放題になった次に、政権がクリントンになり、市長がRudy Giulianiになって警察を大量投入した街の浄化とかダウンタウンのgentrificationとかビジネス活性化がなされて、そこにうまくのることができた、というシナリオが個人的にはしっくりくるのだが、そこらへんの話はやはり出てこないし。

“All the Streets Are Silent”というタイトルはうまいなー、と思って。実際にこの「融合」(があったとしたら)は一般市民にはぜんぜん聞こえてこない遠くのどこかで起こっているようだった。Mars Barは名前は聞いていたけど、10th Aveの方もHouston st.より南も近寄ってはいけないエリア、と(駐在員には)強く言われていた。ので、音楽のライブに行くときには手ぶらで財布は持たず、ポケットにIDとカードと現金を分散して入れて、逃げられるようにしていたし、ブルックリンに行くのはBAM (Brooklyn Academy of Music)に行くときだけ、マンハッタンからの行き帰りは地下鉄ではなくてBAMBusっていう予約制のバスを使っていた(あーなつかし)。そういうのの裏でこんなのが、というのはわかるけど、それだけの、どこかの外国の話のようだし。

なーんか、かっこつけすぎだよね。みんな今はブランドでお金持ちになってよかったよかった、ってだけだし。

でもスケートはやってみたいな。もう20年くらいの片思いだけど。

12.03.2022

[film] 永遠に答えず (1957-58)

11月23日、勤労感謝の日にシネマヴェーラの特集『月丘夢路生誕100年記念 美しい人』で『青春篇』(1957)と『完結篇』(1958)を続けて見ました。

この特集では『月蝕』(1958)、『東京の人 前後篇』(1956)、これ、『夜の牙』 (1958)と見て、どれもおもしろくて「美しい人」しかない。『乳房よ永遠なれ』(1955)もこの作品群の間に置いて改めて見たかったなー。

斎藤豊吉の全国主要民放二十二局連続ラジオドラマが原作で、監督は西河克己。この特集で見た『東京の人』もそうだったけど、長尺で波乱万丈かき混ぜられメリーゴーランド式メロドラマの原型のようで、そういうののヒロインをやるときの月丘夢路の輝き具合ときたらとんでもない。

青春篇(1957)

伊豆の方をハイキングしていて足を痛めた由美子(月丘夢路)と出会った小峰(葉山良二)が東京に戻っても仲良くなって仲良くなりすぎてやばい交際をしていたら小峰に学徒出陣の招集がかかって駅のホームでのお別れの後、由美子は妊娠していることがわかり、小峰の子を産むのだが彼の戦死の報を聞いた叔母(小夜福子)はこの先大変になるから、と子供は亡くなったことにして裏で養子に出してしまう。

戦争が終わって、闇市の長屋で叔母とお汁粉屋をやりながら隣でおでん屋を営む源吉(大坂志郎)に助けられていると、叔母は地元のやくざの嫌がらせで痛めつけられて亡くなってしまう(亡くなる直前にあんたの子は実は生きている.. その子はいま… って(言わない)。そしてその子の素性は隠されたまま源吉のところに)。

由美子は旧友に請われてヘルプで通っていた日舞の稽古で小峰の戦友で家元の井崎(安井昌二)に惚れられて、でも彼には許嫁のあかね(浅丘ルリ子)がいて、それでも一緒に大舞台を踏んで恋仲になりそうになったところで実は生きていた小峰の名を聞き、まさかそんな、って死ぬ思いで彼の実家の塩釜にとんでいくと、彼と地元の市会議員の娘の結婚式が行われようとしていて、がーん、て。確かに衝撃だろうなー。

ここまでで、とにかくぜんぶのタイミングがぎりぎりのところ外れたり外されたり、これでもまだ序の口だから、って因果の泥沼が暗示されているのがたまんない。

あと、月丘夢路さまの舞いがとてつもなく美しいのでびっくりして、いちころで惚れる(のはわかった)。


完結篇(1958) - 「青春」が終わったらもう「完結」か、と。

井崎の許嫁のパパで洋画家の山根(小杉勇)が舞台での由美子の舞いが忘れられなくて彼女の消息を追ってみるとでっかいキャバレーの女給をやっているので、自分の絵のモデルとして彼女を自宅に招いて、そこからあかねの劇団の代役(また代役)で舞台出演の誘いが来て、劇の原作者で演出家の西島(水島道太郎)の劇団と九州公演に発って、そこで西島と近づいて彼の連れ子と遊んでいたら足を怪我して二度と踊れなくなってしまうのだが、それでもういいや、って西島と結婚することにする。

おでん屋から工場に転職していた源吉も怪我をして、彼の母親からいいかげんに所帯もてと言われて一緒になることにしたみつ子(稲垣美穂子)の実家に由美子の娘を預けることになるのだが、その娘が由美子の実の娘であること、青春篇の終わりで小峰があの後結婚しなかったことを知ると由美子に知らしめるべく九州に向かって…

ストーリー的にはどうなっちゃうのか? の嵐がぼうぼう吹き荒れて山場を迎えるその反対側で、だいたい同じような顔の男たちの間を玉突きのように行ったり来たり翻弄されるのに疲れちゃったでしょもう楽になっていいのよ、と見ているこちらも思うようになって、ああそれにしてもかわいそうな源吉 … って。

とにかく最後には雪の積もる塩釜で、ようやく本当の親子3人が会うことができて、ここまでの事情を娘にわかってもらうのは大変そうだな、って思いつつもああよかったよかったねえ、って涙を浮かべてしみじみするでしょ。でもこの先にあぜんぼーぜんの華厳の滝みたいのがあるんだよ。そして『永遠に答えず』の意味がはっきりするわけさ - なあ神さま、あんなの永遠に答えらんないわよね。

12.02.2022

[film] Les cinq diables (2022)

11月21日、月曜日の夕方、ヒューマントラストシネマ有楽町で見ました。英語題は”The Five Devils” - 邦題は『ファイブ・デビルズ』。

新作ばかりを見るのが続くと、その慌しいかんじとか疲れ具合とか、って名画座で旧作を見るのと全く異なる気がするのは自分だけだろうか?

監督はArnaud Desplechinの”Ismael's Ghosts” (2017)やJacques Audiardの”Paris, 13th District” (2021)の脚本を書いていたLéa Mysius。 ポスターにある火柱に向かう女性たちとタイトルから魔女狩りみたいな話かと思ったが違った(いや、ひょっとしたらそんなに違わないのかも)。

山間にあるファイブ・デビルズという小さな町で水泳の先生をしているJoanne (Adèle Exarchopoulos)がいて、その横に小学生くらいの彼女の娘Vicky (Sally Dramé)がいる。教室が終わるとJoanneは湖に向かいVickyに脂のようなものを全身に塗ってもらってから20分経ったら教えて、と告げて湖に入っていって泳ぐ(ひー。冬っぽいのに)。Vickyはその脂の瓶にMom2とかラベルを貼っていて、家に戻ると彼女はいろんな匂いを瓶に詰めてコレクションしていて、ママが匂い当てクイズとかすると百発百中なのですごい嗅覚の持ち主であることがわかる。学校での彼女は髪の毛のことを「トイレブラシ」とか周りの子供たちから寄ってたかって虐められたり、ひとりぼっちなのでそんなことをしているのか/虐められたからそうなっちゃったのか、とにかくVickyはママの傍にずっと張りついている。

こんなふうにJoanneとVickyは仲良しだが彼女の夫でVickyの父Jimmy (Moustapha Mbengue)との関係はもう冷めていて、ある日彼が妹のJulia (Swala Emati)を連れてきて数日泊めると聞くと様子が更に変わって「やめて」と言っている。Juliaは刑務所から出てきて、しかも精神の病を患っていたようでJoanneとも過去になにかあったらしい。

やってきたJuliaはちょっとミステリアスで怖いかんじで、Vickyを見る目も少し変なかんじで、でもVickyがいつものようにJuliaの持ち物を寄せ集めて匂い瓶を作って嗅いでみると、そのままばたん、て昏倒して、気が付くと今とは違うどこか別の時間と場所にいるらしい。そこでVickyは明らかに若い頃のママとJuliaの姿を見て、若い頃のパパもそこにいたりして、JuliaはそこにVickyの姿を見ると驚いて声をあげたりする。

若い頃のJoanneとJuliaになにがあったのだろう? と興味をもったVickyが何度か匂いによって過去に潜るようなことを続けていくのと並行して、少し時間が経った今ではJoanneとJuliaは再会した時のとげとげしたかんじはなくなって少し近寄ってきたように見えるのと。

なぜVickyは叔母であるJuliaの匂いを嗅ぐと時間を遡って自分が生まれる前の世界に行ってしまうのか、なぜその場所でその時代なのか? なぜJuliaはVickyを見ると慄いてしまうのか? それらの問いは、自分はなんで生まれてきちゃったのか? はたして自分は生まれてきちゃってよかったのか? という問いになんとなく繋がっていくようなのがとても切ない。

JoanneとJuliaは愛しあっていた。それは誰にも自分たちにも止めることができないどうしようもないやつで、でもそれ故に孤立してしまって周囲に軋轢を生んで – "Love will tear us apart"のドラマが数年を経て家族にまで波及して、でもそれでも"Love"はなんとかそこに踏みとどまって手を延ばして再生しようとする。その鍵は大好きなあなたの匂いだったのか、って。くんくん。

偶然かもしれないけど、“Petite maman” (2021)-『秘密の森の、その向こう』で起こった不思議にとても近いような。ママの深い悲しみを感じ取った娘に見えてしまう、いや見えてしまうだけではなく、それに応えるかのように向こうからもやってくる何かがいる/ある。

フィルムで撮っているそうだが、画面の質感がとても素敵で、湖の冷たさ、Vickyのもしゃもしゃ髪、人が人を見つめて(嗅いで)ああその人だと思う、その場面場面が絵のように残る。撮影のPaul Guilhaumeさんて、脚本の方にも名前が入っているのだが、あまりそういうのってないような。でも言葉以上に表情の変遷がとても印象に残ることは確かかも。


12.01.2022

[film] The Menu (2022)

11月20日、日曜日の午後、シネクイントで見ました。

孤島にあるイノベーティヴ系のガストロノミーにがんばって予約を入れたり会社の経費で入れたりフード・クリティックだったりの人々が船に乗ってディナーに訪れて、そこで経験するめくるめく饗宴と狂乱と。 ホラー、なのかもしれないが、コメディのようにも見ることができる。 プロデューサーにはAdam McKayとWill Ferrellの名前があるので、なるほどー、って。

ディナーに臨むほうは、軽くひとり$2000くらいかかるやつなのでぜったいにすごい経験にしようと気合をいれてやってくるし、ディナーを供するほうは、これまでに培った評判と名声と期待に応えるべく、パーフェクトでラグジュアリーな経験とサービスを惜しみなく一糸乱れぬフォーメーションでこれでもか、って見せつけようってがんばる。

この全体の絵図がなんとなく変なものであること、しかもその両者を挟んだ中心にあるのが、すごい色だったり形だったり煙を吐いていたり膨らんだり縮んだりスポイトや実験器具で食べたり、「イノベーテイヴ」だったり「フュージョン」だったり「バイオ」なんとかだったりの想像をはるかに超えた「プレゼンテーション」とか「味覚体験」だったりして、それを戴いたからといって角だの羽だのが生えたりするわけでもなく、お腹はたぶんいっぱいになるけど、翌日にはそれもへっこんで、なんか慣れないもの食べたなー ってお茶漬けをかっこんでいそうな - ネガティブに見てしまえば。

さらにシニカルに見てしまうと、ここでの「美食」とサービス体験のためにあちこちにものすごいストレスが掛かったり統制がしかれているはずで、それらは実際のレストランなどでも既に報告されていたりするし、こないだの”Boiling Point” (2021)にも描かれていたとても不健康なやつだと思うし。 そこまでしてやる?.. というものではないか。人によっては。

映画は、レストラン”Hawthorne”を仕切るオーナーシェフ – 多くの部下を従えた絶対的権力者 - Julian (Ralph Fiennes)のところにお食事にきたTyler (Nicholas Hoult)とMargot (Anya Taylor-Joy) - 彼女は当初予定していた相手ではなかったことが明らかになる - カップル、その他、俳優とか批評家とかビジネスマンとか一癖二癖の客たちがアミューズブーシュから始まるコースのひとつひとつを戴きながら想像もしていなかったとんでもない目にあっていく、痛そうなのもあるのだがそれがあんまし怖くはなくてどこかおかしいのはどういうことなのだろう。

なんか、そういうところに来るひとは主-従関係に浸りにくる、というのもあるのではないか。 医者とおなじでシェフはさじ加減ひとつで簡単に人を殺すことができる、そういうパワーをもった人に高いお金を払って船に乗って会いに行く、その滑稽さがまずあって、そこで変なの、って笑ってしまうとRalph Fiennesの挙動ひとつひとつがおかしくてたまんなくなって、「おいしくないから帰るわ」ってたったひとり彼と対峙するAnya Taylor-Joyの不良っぽさが素敵に光ってしまうのと、最後は思ったとおりのあーあーになってしまうのと。

欲をいえば料理一皿一皿をもっとちゃんと見せてほしかったかも。イノベーテイヴだなんだと能書きたっぷりであるからには、どんな食材(or 非食材)をどんな器具だの装置だので加工したりフュージョンさせたりして、なにが/だから/どうしておいしいと言えるのか、を説明してほしいしそこにシェフの圧が加わると道端の馬糞だっておいしくなるよな、って(昔のスネークマン・ショウのネタにあったむしゃむしゃ食べるあれを映像でやってほしかった)

終盤にでてくる、作っているところが見れるチーズバーガー、どうしても”Chef” (2014)のグリルドチーズサンドが浮かんできてしまう。映画の方向としては正反対の両者であるが、後者の方がよりおいしそうに見えたかも。

(料理のコンサルタントはDominique Crenn - 彼女はSFのLuceにいた人なのね)

ああいう(イノベーティブな)のって本当においしいのか、(広義の)味覚の未知の/無意識の領域を開拓しているのかもだけど、確証は持てないし開拓したからなんぼのもんやねんー、って。結局肥えた貴族の道楽にしかならなくて、そう思ってしまえばあの結末はあれでよいのかも。
 
こんなふうにものすごくあれこれ広げていけそうなネタはいっぱいあるのにちょっと変てこなサスペンスホラーのようなとこで終わってしまったのは勿体なかったかもー。

自分の経験したレストランでの恐怖、というと90年代のDanielとかBouleyでの延々終わらないデザート攻め、というのがあって、もうお腹いっぱいなのに次々と、5皿とか7皿とか出てくるの。負けたくない(なにに?)しおいしいので食べてしまうのだが、Danielのときは食べ終わったら午前1時過ぎてお腹ぱんぱんで動けなかった。 あんなのもうできないわ。
 

[film] November (2017)

もう行ってしまった11月。 11月20日、日曜日の昼、イメージフォーラムで見ました。
これの前に見た『恋人はアンバー』からのギャップ.. はないこともないけど、いいの。

原作はAndrus Kivirähkの2000年の小説”Rehepapp ehk November” - 英訳すると"Old Barny aka November"、監督はエストニアの69年生まれのRainer Sarnet。2018年のアカデミー賞の外国語映画部門のエストニア代表に選ばれている。

きれいなモノクロで、このあいだ見た”Marketa Lazarová” (1967)のように雪と狼が出てきて、また寒くて暗くて人の顔とかよくわかんない世界か、と思っていると傘の骨みたいなのが勝手に動いてチェーンを引き摺りながらヘリコプターのようにゆっくり飛んでいって、牛小屋に入って牛と向き合い - 牛を殺さないでー と思ったらその牛をぶら下げて飛んで村人? のところに連れて戻ると、そいつは「仕事をくれ」とかいう。

これが“Kraat” – クラット – 使い魔と呼ばれるジャンクな精霊みたいなので、人々にこき使われているなにかのお使いのようなやつで、これを操るためには悪魔と取引が必要とか。あとは11月は死者が戻ってくる月なのでみんなで着飾って待っていると真っ白い人たちが大量に現れてそれぞれの家の中に入ってみんなで食事をして、家の宝がきちんと保管されているかを確認したりする。結構ずうずうしそうな死者たちで、こちらのお盆にやってくる方々とはやはり違う。

村の娘Lina (Rea Lest)もその晩、そうやって亡くなった母と会う。彼女は村の青年Hans (Jörgen Liik)を好きなのだが、Hansは村外れの丘の上の邸宅に暮らすドイツ男爵の娘(Katariina Unt)のことが好きで、LinaはHansにこっちを見てもらうために床下の家宝を盗んで悪魔と取引したり、館からドレスを盗んできたり、でもLinaのところにはでっかい年をとった髭男が求婚してきてぐへへ、とか言っていて、Linaは男爵の娘を殺そうと思うのだが月夜の彼女が美しすぎてできなくて…

ストーリーとしてはこれくらい。メカニカルにぎくしゃくしたクラットを動かしているなにか、先祖や精霊や伝染病がどこかからかわるがわるやってきて人々は雪とか泥にまみれて祈ったり沈んだりしながらその相手をしていて、丘の上のお屋敷に暮らす貴族は召使いたちも含めてどこかしら狂っていて、登場人物たちはこれくらい。

どちらかというとエストニアの神話が元になっているらしいクラットとか死者や災厄や悪魔がふつうにそこらにいて取引したりする、そんな民間伝承のようなところが映像として展開されていて、その世界まるごとのおどろおどろの暗く禍々しい確かさ(スローで冷たい怖さ)などを見渡して異教の地だ異世界だあ、になればよいのかと思われる程度、できればそこにLinaとHansの11月の恋物語 - 悲恋とまではいかない - が絡まって人間と魔界との、あるいは人の世界の身分を超えた情念が絡まってスパークしてくれたら申し分なかったのだが、そこまでは行かずにひとつの村世界、そこの11月のエピソードのようなところに留まってしまったのはややもったいなかったかも。魔法を使ったり化け物を出して、とまでは言わないけど。

それでも、ゲゲゲの鬼太郎がいなくても水木しげるの世界が十分魅力的なのと同じように、テリー・ギリアムとかブラザーズ・クエイとかヤン・シュヴァンクマイエルの世界がストーリーどうこうよりまず事物の動きなどが楽しかったりするのと同じように、モノクロでやや湿っぽい11月の村は魅力的なのだった。モノクロの明彩は少しきれいすぎる気もするけど、CG使っていなさそうなのはよいかんじだし。

でもあえて言うなら、この隔絶された異界に対する異物感とか、これはなに?なにが起こっているの? の混沌に対する恐怖や混乱がもう少し滲んだりじわじわ来てもよかったのではないか。ちょっと魔物に言われたり宣言された通り円滑にコトが運びすぎる気がして、見て追っていけばわかるのだがそういうものなのかなあ、って。撮ったのを見ているこちら側には絶対に来ない、そういう安心感の元で作られている気がして、もっとめちゃくちゃでわけわかんなくした方が盛りあがると思ったのだった。