11月6日、土曜日の午後、『朧夜の女』に続けて五所平之助特集で見ました。
最初に短編『あこがれ』(1935) - [スタヂオF版] 。
五所平之助の『あこがれ』(1935)のロケ現場でアマチュア映画作家の川喜田壮太郎が撮影・編集した10分のメイキング映像のようなやつで、佐分利信(これが松竹入社第一作だそう)の扮する画家が東京に上京してしまうところと彼に憧れているらしい女性の淡い思いが字幕で綴られていって、編集がよいのだろうか、なかなか生々しくてよいの。
続いて『人生のお荷物』。
50代後半の省三(斎藤達雄)とたま子(吉川満子)の夫婦の間には上から高子(坪内美子)逸子(田中絹代)町子(水島光代 )の三人娘とまだ9歳くらいの長男 寛一(葉山正雄)がいて、長女は医者(大山健二)と、次女は画家(小林十九二)と結婚していて、次女んちは浪費が激しくお金を苦労しているようだがまあ楽しそうにやってて、三女は軍人(佐分利信)と結婚しようとしているところで、その結婚式を終えて夜遅くに帰ってきた省三とたま子はやれやれ片付いたなーふう、っていうのだが、隣の部屋で寝ている寛一の姿を見ると省三は顔を曇らせる。そういえばまだこいつがいたわ - こいつは大変だぞ、って愚痴を言い始める。
「人生のお荷物」とはこの寛一のことで、寝ている自分の子を前に「失敗した」とか「こいつは大変なことになる」とか「女の子は売っちまえばいいけど男はそうはいかないし」とか「考えただけで飯がまずくなる」とか、あとで酔っ払っていたので、と言い訳するに違いないけど、とにかく出てくる発言の毒と臭気がものすごくてあきれる。50代の男親の小学生の実子に対する発言としてこれを録音してたら(.. 映画になっているけど)軽く訴訟起こせそうなやつで、当然のように怒ったたま子は逸子のところに寛一を連れて出ていってしまい、その結果として「お荷物」は省三自身じゃないのか、いうのが明らかになってしまう騒動なのだが、そんな時代の絵としてわかりやすく家族のありようが明かされているかんじ。
小津でも成瀬でも、昭和の20~30年代の家族を描いた映画にはこんなふうな、子供は親の所有物(時間が経てば「お荷物」) - 子供 - 特に娘は結婚して出ていくもの - 結婚したら子供はできてあたりまえ離縁なんてもってのほか - それらができない子は親不孝もの - よい結婚は家の慶事 - そこに家族全員を持っていくのが親(特に男親)の使命であり裁量 - 以下延々 - という発言や描写が満載で、そういう発言や価値観のおやじ連中を中心とした蓄積と連なり - 家父長制ってことでよいの? - に対する若い女性たちを中心とした反発や摩擦がドラマを動かしていったりして、この作品もそのひとつだと思うのだが、こういう形で表に出た、というだけでもよいことなのかも。
そして、少なくとも今の我々は家族のかたち(だけでなく我々ひとりひとりだって)は変わっていくし変わってきた、ということを知っている。他方で親戚近所のおじちゃんおばちゃんの価値観の地盤とか拠って立つところは自民党支配と同じくしぶとく根を張って変っていないし、メディアにも映画産業にも相も変わらず根拠不明な「絆」を強要して縛りにくる邪悪な勢力があることもわかっている。こんな千年戦争の日々の火種はこの頃からこんなふうにあったのだ、ということをわかりやすく示す。そもそも人類なんて地球にとってのお荷物だし害虫だし、人生なんてそれ自体がお荷物以外のなにものでもねえよ! ぶつぶつ。
俳優に関していうと、斎藤達雄の嫌でダメなかんじは絶品としか言いようがないし、田中絹代と小林十九二の夫婦の軽やかさと、そこに「お荷物」たちが寄ってくるというのはなんか素敵な流れだねえ、と思った。
11.15.2021
[film] 人生のお荷物 (1935)
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