11.03.2021

[film] Memoria (2021)

11月1日、月曜日の午後、東京国際映画祭が行われているよみうりホールで見ました。

チケット発売日の10月23日には発売開始10分後にやっと中に入れたら売り切れていたので大変あったまきたことは既に書いた。チケットはそのままずっと売り切れ状態だったが当日は一応会社休んで、朝の9:30に再びアクセスしてみたら5つくらい空いていたので取った。サイトにあった『前売で完売したチケットは、当日券の発売はございません。』とか嘘つき! → いろいろ文句あるので下の方にまとめて書いた。

よみうりホールと言えばTom Verlaineの来日公演であるが、そんなのもうだれも知らないか。 
スクリーンはそんなに大きくないのと、音がもうちょっとよくてよい音だったらなー。

Apichatpong Weerasethakulの新作で、今年のカンヌでJury Prizeを受賞して、来年のオスカーのインターナショナル部門にコロンビア映画としてエントリーしているそう。

冒頭、まだ暗い室内でぼんやりした人影が見えるところで突然「どんっ」ていう異様な音が響いて、飛び起きたのが主人公のJessica Holland (Tilda Swinton)で、彼女は英国からコロンビアのメデジンに蘭とかガーデニング関係のビジネスのために長期滞在しているらしい。

映画は冒頭の音の件をはじめ、突然駐車場の車のアラームが複数台同時に鳴り出したり、街中で銃声が響いたり、いつも同じ犬が現れたり、ものすごい雨が降ったり、いつものApichatpong Weerasethakul世界の、画面になにが映り込んでいても何が鳴りだしても当たり前の世界が展開していって、Jessicaはその事態を受け容れるしかなくて、そのなかでどうしていくのか。

彼女の妹で原因不明の呼吸器系の病気で入院している妹のKaren (Agnes Brekke)を見舞い、彼女の夫のJuan (Daniel Giménez Cacho)に紹介してもらったレコーディング・エンジニアのHernán (Juan Pablo Urrego)にあの暴発音 - 布団をでっかい球でぶっ叩いたような - をコンソール上で再現してもらって、エレクトロパンクのバンド(バンド名はThe Depth of Delusion)をやっているという彼にその音を元にした曲を聴かせてもらったり、でも後で彼を訪ねていくとそんな男はここにはいないよ、と言われたり。

他には工事現場から発掘で出てきた頭蓋骨に開けられた穴のこととか、音の件で眠れないので薬を貰いにいくこととか、農村の方に行ったら赤い魚を捌いて干物(あんなところで干物?)をつくっているいる別のHernán (Elkin Díaz)という男と出会い、これまでに起こったすべてのことを記憶しているという彼とJessicaの間に起こったこと語られたことなどがすごいのだが、それは実際に画面で見てほしい。

我々はなにがどうなって我々であることを維持して保っていて、それは我々でない「異なるなにか - 他者」とどこがどう違うからそうだと言えるのか、それはずっと同じなのか時間と共に移ろっていくものなのか、その移ろいはどんな形で表出してくるもので、そこにおいて「記憶」はどんな役割を果たすものなのか、といったApichatpongのおなじみのテーマ(だった気がする)が、彼の映画としては初めてアジア圏以外の地域 - 南米の奥地 - で、英語/スペイン語をベースに、所謂スター俳優を使って展開されるのだが、無理をしている様子はまったく感じられない。それは彼のこれまでの作品を日本の我々が我々の物語として「わかってしまう」のと同じようにすんなりと、民話の「解釈」なんかとはまるで異なるレベルですらすらと語り、鼓膜の奥に「どんっ」って注入されてしまう。というか彼にそんなふうに語らせてしまうコロンビアの奥地の凄み、というか。

その世界にまったく異なる星雲系から迷い込んでしまったTilda Swintonさんの寄る方ない、でもそこにある歩みの確かさ。彼女の役名 - Jessica HollandはJacques Tourneurの“I Walked with a Zombie” (1943) - 『私はゾンビと歩いた!』- で呪いをかけられてゾンビ状態にされてしまった女性から持ってきていて、この原作が“Jane Eyre”のブードゥーへの移植展開であることを思うと、なーるほど、なのだが、Tildaの揺るぎなさときたらとんでもないし、ここに更にこないだの”The Dead Don't Die” (2019)での彼女の役柄と合わせてみると唸るしかない。映画体験とは旅をしていくようなもの、と我々を常に旅へと誘い続けてきた彼女ならではのありようというか生き様を晒してくれている。

この映画のためにコロンビアに滞在していた際のApichatpongの滞在記録 - スクラップ? - が本になってリリースされていたので、取り寄せている。おもしろそう。

あとはもう一度、でっかいスクリーンとboidの爆音仕様(ぜったい必須)で再訪するしかない。


この映画祭に対する文句;
当時朝の9:30まで車椅子席以外はぱんぱんだったはずの客席は開いてみれば真ん中エリアにもぽつぽつ、軽く20-30席は空いていた。「普通の」映画祭なら開演時間を少し後ろに倒してもStand-byのラインに並んだ見たい客を入れてくれるもんなのに、ほんとにもったいない。新しい映画を一人でも多くの人に見てもらってそれぞれに発見してもらうのが映画祭の使命ってもんじゃないの? 始まってからもドアの向こうでは市場みたいな誘導の声が響いているし、ガラ・セレクションだというのに主催者からはなぜこの作品を選んだのか、どこを見てほしいと思うのか、なんの紹介もコメントもなく、ただ始まるだけ。

ここまで観客不在のプレスと関係者重視でオレのセレクションはこんなにすごいんだ自慢をしたいのなら映画祭じゃなくて内輪の学会みたいので(それこそクラウドファンディングで)どこか地の果てで思う存分やっててほしい。 各国の映画祭で話題になった作品たちを各国の連中が騒いでいるのと同じタイミングで(日本の百年遅れてださい映画宣伝の泥にまみれてしまう前に)楽しみたい。それだけなんだけど、そんなことすら許されないのか。

六本木が、渋谷がよかった、日比谷はどう?の場所議論も興味ない。東京はシンガポールのような薄っぺらいメガ経済シティになりたいようだし、ちゃんと映画を上映できる施設はもはやシネコンにしかないし、この都市は「国際」映画祭をできる環境にはなっていないと思うし、なるつもりがあるとも思えない。スポンサーの宣伝CMも映画とは全く関係のない、オリンピックでの吐き気がしたあれらと大差ないし、こういうのぜんぶ、主催者側の映画関係者が使いたがりそうな「映画に対して失礼」なんじゃないの?

単に集客を狙うのであればフィルメックスと国際映画祭の二本立てとか(海外の人から見れば特に)謎なことやってないでアニメと怪獣とヤクザ映画に特化したコミコンみたいな「祭典」にしちゃえばいいんだ(もうじきやるみたいだけど)。 以下えんえん。

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