1日、日曜日の晩、BFIのElia Kazan特集で見ました。この日、60年代初からの彼の作品3本立ての3本目。 168分。それまでのがおもしろかったので頭はとっても覚めているのだが翌日からがこわい。 モノクロの35mmプリントはUCLA Film & Television Archiveから持ってきたもの。
19世紀末、Kazanの家族(特に叔父)から聞いた話を元にKazan自身が自分のルーツを確かめるかのように書いた小説がベースで、脚本も製作も自分でやっている、そういう点ではとてもパーソナルな映画。 先に見た2本とはトーンもテンポもテーマもぜんぜん違う。
まだオスマン帝国(トルコ)があった頃、ギリシャ系移民の若者Stavros (Giallelis)がいて、一緒に仕事をしているアルメニア人の男から「アメリカはいいぞー、いつか行こうな」って言われていて、でも彼は国から迫害を受けて殺されてしまい、ギリシャ系の彼も彼の家族も同様に迫害を受け続けているので危なくて、家族からコンスタンティノープルにいる父のいとこのカーペット屋のところで働くように言われたので、胸の奥に「アメリカ」を秘めつつ、旅に出る。
コンスタンティノープルへの道中は悪い男に絡まれて無一文になったり(ブチ切れてそいつを殺してしまったり)散々で、ようやくアメリカ行きの船が出ている波止場の町で下働きをしながらようやく金持ち一家に潜りこんで将来を見込まれて、そこの娘との結婚、というところまで漕ぎつけて、それで十分じゃないか、なのだが彼はやっぱり「アメリカ」に行きたくて、彼女を残してひとり船に乗りこんで。
書いていくと地味でシリアスなかんじになるけど、全体は手に汗握る冒険譚で、一難去ってまた一難、彼の運命や如何に(ででん!)っていうのが紙芝居調、というかサイレント映画のような画面構成(撮影はHaskell Wexler)とクローズアップの嵐で転がっていくのがたまんない。そして主人公のStavrosのどこまでも暗い(笑わない・笑えない)顔とその周りの一筋縄ではいかなそうな強烈な人相の人々。 なにも知らない人に音をいれずに見せたらとても63年の映画には見えない、っていうのではないか。
このお話を通して見えてくるのはStavrosが若者の情熱と一途さで求めた理想郷としての「アメリカ」の当時のありようと、彼だけじゃなくてイタリアからもアイルランドからも同様に(逃げるにせよ目指すにせよ)渡っていった人々は大勢いたのだろうな、ということ。そして「アメリカ」のある部分はそういう志をもった人々によって形作らていったのだわかってるよな、って。
なので、船のなかで(またしても)散々な目に遭いつつもようやく彼の地にたどり着いて、入管で名前を貰って中に入った時の解放感と達成感はよくわかるし、そんな彼らの次の世代が”Wild River” (1960)や”Splendor in the Grass” (1961)のアメリカを作っていった、というのもなんとなくわかる。いや、そんな簡単にわかってしまうようなものではないことは百も承知の上で、だからこそKazanはこれをなんとしても作りたかったのではないか。
というKazanの振り返りと、この後にScorseseやCassavetesのようなよりパーソナルな、新しいアメリカ映画を目指す若者たちが出てきたことは無縁ではない気がする。
そして自分もまた、いまの政権がどうしようもないしぜんぜん見通しよくないことを十分承知のうえで、“America America”って呟き続けている。もう30年くらい。なんかの呪文なのかあたまの病気なのか。
3.11.2020
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