3.05.2020

[film] Splendor in the Grass (1961)

1日、日曜日の午後、BFIのElia Kazan特集からの2本め。『草原の輝き』。永遠の名作って言われているやつ。
前の”Wild River”はデジタルだったが、これは35mm上映だった。

大恐慌の少し前、とても潤っていた1928年の Kansasで、ハイスクールの人気者Bud (Warren Beatty)とDeanie (Natalie Wood)は評判のカップルで、昼も夜もところ構わずいちゃいちゃしているのだが、Deanieはママから結婚するまではやってはだめよ、と言われているのでBudはいつもちぇ、って不満そうで、でも基本は愛しあっているので問題ない。Deanieのママはあれこれどうでもいいことにうるさいし、地元の石油掘り商売で成功しているBudの父Ace (Pat Hingle)も息子をパーフェクトだと信じていて、他方で娘でBudの姉のGinny (Barbara Loden)はフラッパーでいつもぐでんぐでんに酔っ払っていて煙たがられててしょうもなくて。

アクの強い親たちから期待という名の抑圧を受けまくってきたふたりが、大学とか互いの将来のことを考えはじめた時にちょっと窮屈に感じて、軽いかんじで別の女の子に手をだし始めたBudとそれを許すことができないDeanieの間に溝ができ、それを一途ゆえの意地が掘って広げて、そこに(余計なお世話の)親がぐるりと一巡してきて悪化させ、なにがなんだかわからなくなったDeanieは糸が切れて秋津温泉みたいな方に行ってしまう。

やがて病院に入ったDeanieは少し落ち着いてそこでそこそこよい人を見つけて、Yaleに進んだBudは悶々としながらピザ屋の女の子と仲良くなって、それって自分らの期待とはぜんぜん違うんだけど、って戸惑い始めた親たちを大恐慌という津波が襲う。

前作の“Wild River” (1960)もそうだったが大きな変化を前にした世界のありようが世代の縦線と男女の横線を揺らしてどうした/どうなった、ていう様が描かれる。こんなふうに60年代の頭に20年代末~30年代初のアメリカを捕らえる、というのにはどんな意味があったのだろうか。  アメリカが最も豊かで、大恐慌で突然急降下して、そのうち戦争に向かっていく、そんな時期の家族の風景って今のそれとどれくらい違うのか違わないのか。

ていうのと、タイトルの元になったワーズワースの詩で詠われる、典型的なハイスクールラブ顛末の普遍性。永遠の絆を信じて疑わないところに親がうざくプレスしてきて、危うくバランスを取りながらもちょっとしたことで崩れるともう元に戻れない、戻れると強く信じているのに戻れないまま時間が過ぎて、誰のせいにもしないできないうちに壁に貼ってあった写真の跡だけが残る。あれって何だったのか、インフルエンザみたいなもの? 誰にでも残るインフルエンザの記憶。 割と最近見たやつだと”On Chesil Beach” (2017)もそんなかんじのだったかも。

それは甘いでも苦いでもなくて、そんなふうに言えるものではなくぜんぶあって、しかも確かにあって、そこで生きていたのだとしか言えない、そういう時間。 “A Streetcar Named Desire” (1951)から10年でここまで来る、そういう旅、でもある。

撮影のBoris Kaufmanの色彩とか遠近とかすごくて、まったく古くなくて生々しい。
そこに生えるWarren Beatty(これが映画デビュー)とNatalie Woodのアメリカの若者の貌。

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