15日、日曜日の晩、BFIのElia Kazan特集 – 結局十分に見れないままだったなあ – で見ました。
原作はF. Scott Fitzgeraldの未完の遺作、脚本はHarold Pinter(完成まで2年かけたという)、Elia Kazanにとってもこれが最後の作品で、いろいろな意味で最後の大物(Tycoon)ロマンのかんじ - あくまでかんじ - が満載で、悪くなかった、どころかすばらしかった。
Monroe Stahr (Robert De Niro)は黄金期ハリウッドの若手の敏腕プロデューサーで年寄りのお偉方からも俳優たちからも信頼されていて問題が出てきてもばりばりに指示をだしててかっこいいのだが、映画の世界に完璧を求めまくっている本人はやや疲れているようにも見える。
映画は撮影の現場 - Didi (Jeanne Moreau)とRodriguez (Tony Curtis)がメロドラマかなんかを撮っている - と、Monroeの上にいるPat Brady (Robert Mitchum)の繰り出すアッパーな謀議密命対応と、俳優とかライターたちからのロウアーな愚痴お頼み対応との間を回っていくMonroeの日々が、大地震の直後に仏像の頭に乗って流れてきたKathleen (Ingrid Boulting)と出会って変わってしまう。
この俺様が誘っているのになんでぜんぜん乗ってこないのか、ナメてんのか、のKathleenをなんとか誘い出してパーフェクトなセッティングで迫っても乗ってこなくて、最後に彼が建築中 - まだ骨組みしかない - マリブの海辺の家に連れていってようやくふたりは仲良くなっていろんなことを話すのだが、彼女にはやっぱり彼がいて…
終盤は映画会社にとっては面白くない組合のBrimmer (Jack Nicholson)がこれからの交渉のためにやってきて、周囲は気をつけろ、っていうのだがKathleenのこともあってむしゃくしゃしていたMonroeは殴り合いして、結果的には映画界を追われることになって..
実在したプロデューサーのIrving Thalbergをモデルにして、スタジオの絶対王政による製作システムがゆっくりと崩壊していった過程を価値判断は別として、もう失われてしまった取り戻せないものとして郷愁たっぷりに描く。 そこにKathleenも被ってくるので、あーあ、なの。
製作側にも新旧の大物を並べてその割にはというかそれ故にというか豪華なだけで大味になってしまった(って言われているらしい)この作品自体がプロダクションシステム崩壊の残念な事例なのかもしれないが、でも、MonroeとKathleenのやりとりのとこだけは別の映画のようにすばらしいと思う。劇中の見事なものになったに決まっているJeanne MoreauとTony Curtisが撮っていたメロドラマのように。
Kathleenがこの方がいい、という最終形からはほど遠いむき出しの家屋で彼女は裸になってふたりは夜を過ごして、その夢のような余韻があのラストまでさざ波のように押し寄せていて、この恋が終わったことでMonroeには完成されたなにかなんて、に、そんなのどうでもいいや、になってしまったのだろう。 まるで学生みたいにあおい、のかも知れないけどいいじゃん。
ここでのRobert De Niroの演技は、やがてでてくるDe Niro臭みたいのがぜんぜんなくて、抑えられた透明なかんじがとてもよいの。これもKazanの演出だったのだろうか。
今日は金曜日で、金曜日って、あと3時間で週末!(だからもうなんもしないよ)とかそういうのが好きなのに自宅で仕事だとそのかんじが来なくて、つまんない(そればっかり)から夕方Kensington Gardenに行った。桜にモクレン、あと地上のいろんな花がいっぱい咲いていて、先週比でリスも大量に湧いている。春なんだねえ。
“Stay Home”なのに人もいっぱいいる。ここはHomeの延長なのだな、って改めて。 子連れ、犬連れ、ソロ、デュオ、あとベンチ(ひとりいちベンチ)で読書をしている老人たち。 プライベートの公園でもみんな読書していて、いいなー、だった。 日本の、だれのものでもない公園、みたいなのって、なんであんなんなっちゃったのだろうねえ、とか。
3.28.2020
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