11.30.2019

[film] Jay and Silent Bob Reboot (2019)

27日、水曜日の晩、小津の『晩春』を見た後に続けて同じシアターで見ました。小津のUniverseからKevin SmithのUniverseへ。
公開前のプレビューで、チケットはあっという間に売り切れ、翌日もPrince Charles Cinemaでも同様の集いがある。 『晩春』を見終えて外に出ると、廊下で囲まれたKevin Smithがサインしていて、その周りに彼とかJayのコスプレ(っていうの?)をした連中がうじゃうじゃ歩いている。英国で彼(ら)がこんなに人気があるなんて誰が想像できようか。

前作 - “Jay and Silent Bob Strike Back” (2001)から18年ぶりの続き、最初に話を聞いたときは、前作なんてもう憶えてねーよ、ていうのと、憶えてなくても、ま、かんけーねえよな、というのが同時に来て、でも見た後で、まったく予測していなかったのだがこれってひょっとして傑作って言ってよいできではないか、とか。(..と書いておいて少し自信なくなり)傑作と言わないまでも、Kevin Smithの25年間が凝縮されたスケールのでっかいやつで、”Reboot”の名に相応しいやつ、というか。

でもにっぽんに、Kevin SmithとかView Askewniverseのことを書いてうんうん喜んでくれる人って何人くらいいるのだろう? 
100人くらい?

映画館でのKevin Smithの上映前挨拶 - これまで彼の挨拶はSkypeで何度か見たことあったのだが実物は初めてだったかも。どっちにしてもものすごい勢いでべらべらべらべら。これまで米国での公開では初日から後ろに座って客の反応をずっと見てきたので今度のは最高だって十分確信している、みんな見ろ! これが90’s だ!!(大拍手)。 はいはい。

Kevin Smithが現れただけで熱狂する観客、場面ごとで登場するひとりひとりにおおー、とかわー、とかいちいち拍手してばかり、そんな観客が喜ぶネタ満載なので、どこまで書いてよいのか悩ましいのだが、これはMarvel Universeと同じような(一応Stan Leeも出てくるの。ほんとはちゃんとした役があったらしいのだが..)、View Askewniverseていう世界の話で、冒頭は“Clerks” (1994)のあれだし、Mallrats (1995)もあるし、更にびっくりしたことには”Chasing Amy”(1997) まで..

大筋は権利関係でだまされてJay and Silent Bobの名前を使えなくなったふたりが勝手に使われるのを阻止すべくNJからLAで開かれるコンベンション- Chronic-Conに向かおうとして、その途中に立ち寄ったシカゴで、Jay (Jason Mewes)は前の彼女からMillennium Faulken (Harley Quinn Smith – Kevinの実娘)ていう娘がいることを知らされ、その娘(彼女はJayが父であることを知らない)からは彼女の友達 – みんな父親を知らない女の子たちで移民の子だったり – も一緒にLAに行くようにせがまれてみんなで一緒にLAに。

で、この流れにView Askewniverseの面々、誰がCameoなのかそうじゃないのかなんてどうでもいいかんじで、Ben AffleckにMatt Damonはもちろん、Method Man and Redman, Craig Robinson,  Justin Long, Chris Hemsworth, Val Kilmer, Rosario Dawson, Fred Armisen, Molly Shannon, Jason Biggsなどなど、90’sオールスターみたいにゴージャス(見るひとが見れば)なお祭りが。

映画で語られるキャラクター(スーパーヒーロー)とか善悪の彼岸がクロニクルとかサーガといったでっかい物語単位とその数年おきのRebootで回転する仕組み(& マーケティングの場としてのコンベンション)になっているここ数年と、足下におけるレイシズムやヘイト、カルトや移民の問題の顕在化はどこかで繋がっているのではないか、て思ったりしていたら見事にその辺をぜんぶ盛ってきて、そこに既に亡霊なのかもしれない90’sのオタクのメンタリティをしらーっとぶつけてみる、と。(彼のホラー”Red State” (2011)で既にそういう方向性はあったけど)

音楽は基本90’sの、でも思いだせる出せないの境目にあるものすごく微妙なのががんがん流れてきて、あーこれ何だったっけ、て呻いていると次に行ってしまう。ラストに流れるPearl Jamの”Daughter” (1993)がとっても生々しくてよくて。

上映後のKevin SmithとのQ&Aはひとつの質問について10分くらいべらべら喋りまくり、結果的に で、質問はなんだっけ? になってしまうのが3回くらい。

とにかく最初は”Clerks III”を作ろうとして、更に”Mallrats 2”も作ろうとしたのだがどっちも頓挫したのでこれを作ったのだ、と(その経緯が森のようにこんがらがっててものすごい)。なので冒頭のシーンとかは”Clerks III”に使うはずのものだったそう。 でも次はぜったい”Clerks III”だから、それから”Mallrats 2”もやるから、とのこと。

昨年の春にHeart Attackをくらってveganになって体重も減らして、いまは蘇って絶好調らしいのでがんがん行ってほしいわ。

今年はもうあと1ヶ月でいってしまうのねえ。

[film] 晩春 (1949)

27日、水曜日の夕方、BFIで見ました。英語題は”Late Spring”。
ここではたまに、思いだしたように『秋刀魚の味』(1962)とかをやっていて、大きいシアターがほぼいっぱいだったりするので人気はあるみたい。 イントロでKings Collegeの先生から紹介があった。 これ、"Noriko Trilogy"っていうのかー。

小津の映画を見るのって、溝口や成瀬を見るのとは全く違う経験で、そんなのあたり前じゃんか、なのかも知れないが、小津のはテーマとか題材の取り方置き方とは別の、表面に近いところの、なんでここにこんなものが映っているのか、とかなんでこの場面の次にこれが来るのか、それはどう繋がるのか(沢庵の皮)、とかそういうレベルの感覚に来るやつで、だからまったく油断ならなくて緊張感にまみれてしまうの。

ただ一見はものすごく静かな、禅なかんじだから寝ちゃう人だっているだろうし、若者だったらスマホを弄ってしまうのだろうし、でもこの回のお客はそんな寝ていなくて、笑いもいっぱい起こっていた。

大学教授の曾宮周吉(笠智衆)と娘の紀子(原節子)は妻/母がいない状態でふたりでずっとやってきて、周囲は紀子の婚期(もうそろそろ)が気掛かりなのだが本人はへっちゃらよ、このままでいい、というのだがそうはいかなくなってきて..  太古からあって現在も謎の呪縛のように刷り込まれている早く結婚しないと、とか、結婚したら子供つくらないと、とか。その圧力強制力がどんなふうに機能して、そこでひとが泣いたり笑ったり怒ったりする、それってなんなのかしら、って本当にいろいろ自分にもあったこと - 親だけじゃなくて親戚とか友人とか、社会ぜんぶから(礼儀に近いかんじで)わらわら来るやつ - として考えさせられること津波のよう。

おばさん(杉村春子)は、みんなあんたのことが心配なのよ、と繰り返すのだが、「みんな」って誰なのか、「心配」ってなにがどうだから心配だというのか、じゃあその逆と思われる「安心」とはどういう状態をいうのか? あるいは、紀子が後妻をもらった父の友人小野寺(三島雅夫)に対していう「不潔よ」(英語字幕では”impure”)でも、友人のアヤ(月丘夢路)が紀子をせっついて言う「だいじょうぶよ」でも、そうではないパーフェクトな結婚・夫婦を中心とした関係のありよう、ってどんなやつなの? とか。春が晩いからってなんだっていうのか? とか。 これって戦前戦後から続く日本の家族(観)を考えるのに丁度よいやりとりの温度で、その流れの中に挟みこまれる木々とか海とか駅とかのぺったんこな、波風のたたない風景のありようがこれまた。てめーらてきとーに凪いだりそよいだりしてんじゃねえよ、って。

イントロで先生も言っていたが、こういうテーマを映画のなかで示した小津も原節子も生涯独身を通した、というのはおもしろいことです、って。そうだねえ。

あと、こんなの気にしてもしょうがないのだろうけど、映画のなかの能の場面とかも含めて、英国の観客にはどんなふうに見えて、咀嚼されるのだろうか、って。日本人でもうーむなんだろこれ、ってなったり、考えたりするようなシーンとかあるのに。こういうの、読書会じゃないけど見た後にいろいろ言いあう会があったら入ってみたいな。

笠智衆、この映画の役の上では56歳って言ってるけど、映画に出た時点では45歳だったのね..

11.28.2019

[log] Saint Petersburg

22日の朝7時発の電車で11時に着いた。外が明るい夏だったらすばらしい車窓になったであろうに。 モスクワよりもほんの少し暖かい。それでもマイナス3℃くらいだけど。

Hermitage Museum

絵を見るのが好きであれば、それも自分の目で直に見つめるのが好きなのであれば、エルミタージュ美術館というのはたとえ浦島太郎になっても最後の約束の地であり向かうべき御殿であったので、どれだけ体調を崩していようが目が開いててなんか見えるのだったら行く、だったの。 散々並ぶだの混むだの聞かされていたのでオンラインで -  1日ではぜったい見切れるわけないと思ったので、2日券を取った(実際そうだった。2日あってもぜんぶは見れない)。

ネットでチケット買ったひとの入り口は別の裏口みたいなとこで、列なんて欠片もなくて、プリントした紙のバーコードかざすだけですぐに入れてしまう。そこから倉庫みたいなところを抜けて遠足の児童みたいな連中の間を抜けるとばーん、てでっかい宮殿みたいな(いや、宮殿だったんだけど)階段が現れて、こいつかぁー、になる。

むかし見たソクーロフの『エルミタージュ幻想』(2002)で、美術館なのになんで絵を見ないでぐるぐるやっているんだろ?  と思ったが、通ってみてなんとなく理由がわかった。ここのなだらかな回廊の、迷宮というほど混みいっていない導線のありようはおもしろくて、絵を見ていく快楽とは別の気持ちよさが湧いてくる。視界のすべてをアートに囲まれて塞がれて、そこを抜けていく快感と抜けられない誘惑のせめぎ合い。建物を作ったひとが偉いのかも。

新しいホールや部屋に入るたびにわぁ、廊下を抜けてはうぅ、ばかりで、ウィーンのシェーンブルン宮殿に行ったときのようで、あの宮殿仕様にすばらしい古典の絵画がいっぱい付いてくる、みたいな。 部屋に入ると天井みて窓とその向こう側を見て、装飾品とかみて、最後に絵(落ち着け)、になるので慌しいのと、部屋の調光はもうちょっと絵に優しいのにしてほしいなー。反射して見難いのがいっぱいあったし。

でもとにかく、絵はすばらし。 ダヴィンチは例のルーブルのに行ってしまっていたし(まってろ)、ラファエロの”The Conestabile Madonna”も貸し出されていたし(まってろ)、でも替わりにUffizi Galleryからボッティチェリの”Madonna Della Loggia”が来ていた。
あと、ユベール・ロベールもいっぱいあった。

Alexander Pushkin Museum and Memorial Apartment

暗くなるまでずっとエルミタージュにいるのもあれなかんじだったので、そこの近所のプーキシンが決闘の後に亡くなるまで住んでいたアパートに行った。そこがそのまま博物館になっているの。 オーディオガイドをもれなく持たされ、ヘッドセットを付けて部屋ごとに回っていく。

妻と子供との生活以上に、決闘の前後とやがて訪れる死までが、結構生々しく説明されて部屋とか家具とか日用品と一緒に説明されるとなかなかしんみりしてしまうのだった。でも彼の書斎はとても居心地よさそうで、いいなー、って。

晩はプーキシンが決闘前に食事したLiterary Café にも行った(明るくてちょっとイメージちがう)ので、数時間でプーキシンがとっても身近になった。

Saint Isaac's Cathedral

23日の午前に行った。聖イサク聖堂。 今も普通に使われている聖堂で、入った時もお祈りの時間だった。でっかいお堂に天井までびっちり、は同じなのだがやや端正でモダンなかんじも。お堂の天辺に昇っていくチケットも買っていて、寒いのにバカ、だったのだが段数は180くらいでベルリンやフィレンツェのやばさはなかった。 眺めはよかったけどやっぱり寒かった。

Dostoevsky

サンクトペテルブルクには猫のいるドーナツ屋 –Pyshechnaya - があって、猫もドーナツもどちらも好きなので行ってみたのだが、その近辺に『罪と罰』のK橋とかラスコーリニコフの家とかソーニャのアパートとかいろいろあったので、ざーっと歩いてみた。あまりぱっとしない川があって、川辺で鴨が震えてて、ここ、天気が悪かったら滅滅してあんなふうになるよね、のかんじは十分。

猫には会えなかったのだが、リングドーナツ1種類しかないここのドーナツは劇物で、これ、Café du Mondeのベニエよかやばいやつかもしれない。昔の揚げパンのかんじ。 子供とかみんな10個くらい粉砂糖まみれになって食べていて、確かにこれなら.. だった。

Church of the Savior on Blood


午後に『血の上の救世主教会』。外側が修復中で玉ねぎが隠されてロケットみたいになっていたが中は普通に見れた。 光が十分に入ってこないせいもあったのか、血の上のかんじがなかなか。ここ、夜にひとりでいたらぜったいこわい。

Hermitage Museum


別ビルディングにある近代絵画たちを見ていなかったので、再び戻る。
こちらの建物はややモダンで、見れたのは3フロアのうち、これらが固まっている1フロアだけ。

カンディンスキーがあって、マレーヴィチの『黒の正方形』(1915)があって、大量のマティスがあって、ナヴィ派もいて、ドガもルノワールもたっぷりなのと、セザンヌの静物の時期を隔てた4点は、とってもおもしろかった。 あと5時間だっていられたかも。

この後はバレエだったので、観光はここまで。 ペテルゴーフもエカテリーナ宮殿(TVドラマ “Catherine The Great”、おもしろい)も行けなかったので、また来るしかない。

翌日は朝9:00の電車でモスクワに戻って、モスクワ着いたら空港にそのまま向かった。

電車の窓からの光景は半凍りの河と枯れ木のコントラストがタルコフスキーの世界になっていて、痺れた。

[dance] Bolshoi - Mariinsky

Giselle
21日の晩、Bolshoi Theaterで見ました。

そもそも今回の旅の目的はマイリンスキー劇場に行きたいな、だったのでこれのチケットが取れた時点で準備は止めにすればよかったのに、モスクワの晩にはなんかないか、モスクワにきたらボリショイにはお参りすべきじゃないの、って見ていたら丁度これをやるのがわかった。

でもAlexei Ratmanskyによる新振付の初日、ということでずっとsold-outしてて取れそうにない。でもなー、なんかなーって未練たらたらたまにサイトを見に行ったりしていたら上演の一週間前、空きがあるのを見っけて、取った。ドバイからスマホでロシアのチケットを取る、ってやればできてしまうもんなのね。

劇場内部は昨年のスカラ座に匹敵するくらいぎんぎんのお城みたいなやつでボックスのセンターの王様席なんてすごいし、それ以上にお客たちときたら.. (省略)。帰りのクロークルームなんて過敏なわんわんがいたら即死したであろうくらい多様な濃い匂いが充満していた。

Giselle役はOlga Smirnova、Albrecht役はArtemy Belyakov。

ABTのGiselle(振付はJean Coralli - Jules Perrot - Marius Petipa)との対比でいうと、1幕の背景、遠くのお城がある山が雪景色になっていたり(ABTのは緑の夏山)、貴族がぞろぞろ登場するところで、ABTは高級犬2匹だったのにこっちはでっかい白馬(もちろん生もの)2頭だったり、村人もいっぱい出てきて背後でわーわー騒いでいる。一番違ったのは2幕のエンディングのところだろうか。衣装はふたりの配色 - 緑と赤茶 - は同じだったかも。

どっちが正しい/すごい、なんてものはないとして、ABTのが二人の愛の破綻とその後の思慕にずっと寄り添っていたのに対して、こっちのは村人や猟師の描写も含めてややソーシャルとかリアリズムも盛ってみた、かんじかしら。

ふたりのダンサーのダイナミックな動きと安定感 - 他のみんなも同様 - はボリショイとしか言いようがない。

あと、ここからあの“Giselle”を生み出したAkram Khanてすごいな、って。
(たぶん、このふたりはなんであんなにかわいそうなんだろうか、って考えていくと..)

Chopiniana - Le Spectre de la rose - The Swan - Le Carnaval

23日の晩、Mariinsky Theatreで見ました。

今は Mariinsky Balletで、今も毎年やっているのかどうかは知らないが90年代の中頃は春になるとMETでABTの公演があり、それが終わると続けてKirov Balletの公演があって、そんなに数を見れるわけではないのだがABTとどれくらい違うのかしら、ってたまに見て、あーこんなに違うものなんだねえおもしろいなー、っていうのがバレエを見るようになったきっかけ(のひとつ)。

ボリショイの建物が街の真ん中にでーんて聳えているのと比べるとこっちのは街中にそうっと佇んでいるふう(ちょっとBAMみたいな)で、外側は地味なのだが扉が開いて中に進んでいくと目の前に巨大な鵞鳥だかなんだかの羽みたいな緞帳が広がっていておうおう、ってなる。ホールの調度は色彩も含めて穏やかで上品で、かわいいかんじ。 週末だったので客の装いもボリショイほどぎんぎんではなかったかも。

Saint Petersburg が生んだ偉大なダンサー/振付師であるMichel Fokine (1880 – 1942)を讃えるプログラムで、30分の中編がふたつ(Chopiniana, Le Carnaval)、5-10分の短編がふたつ(Le Spectre de la rose, The Swan)。休憩ふたつ。

群舞が多かったせいもあってボリショイとの単純な比較はできないが、どこまでも繊細で丁寧で特に腕先の動きの滑らかさときたらすばらしいのと、衣装の色合いも素敵で、それらを総合した結果としてバレエってすごい芸術よねえ、としみじみする。小さい子供たちもいっぱい来ていたが、あの子たち、ぜったいバレエ好きになるよね。 

“The Swan”(これが”The Dying Swan”のオリジナルなのね)のソロはOxana Skorikさんで、自分がみた”The Swan”としてはMaya Plisetskaya - Nina Ananiashvili に続く3人目なのだが白鳥いろいろだなー、なんであんなに鳥になれてしまうのかねえ、って。

薄汚れた俗世界を切り裂く光としてのバレエを見せてくれたBolshoi、たったひとりでもふたりでも、それ自体でひとつの世界を現出させてしまうMariinsky、たまたまに決まっているのだが、きれいな対照を描いていてよかった。

終わったら建物の前の車寄せの混雑ぶりがありえないくらいにごちゃごちゃで見ていて飽きないこと。

[log] Moscow

まだ11月初めの頃の書いていないやつがいっぱいなのだが、19日火曜日の晩から休暇でモスクワとサンクトペテルブルクに行ってきて、日曜日の晩に戻ってきて、まだだるくて眠くてしょうがないのだが、これが元に戻るとさっぱり流れて忘れてしまうので書けるところまで書いておく。

もともとモスクワは仕事で何度か行っていて、でもいつも2~3日で、ホテル近辺からほぼ出ないで終わってしまうし、もともとサンクトペテルブルクはずっと行ってみたい憧れの地で、でも夏は混雑がひどいと聞いていたのでじゃあ秋頃に、と思っていたら後ろに後ろに倒れていってほぼ冬、みたいになってしまった。でも気分としてはあくまで夏休みの続き、なの。

ぜったい行きたい(行きたかった)のはエルミタージュ美術館とマイリンスキー劇場で、飛行機はモスクワ往復しかないからモスクワとサンクトの間は4時間の電車移動になる、その辺の時間を考慮していくとモスクワ2日、サンクト1.5日、くらいが現実的かなあ… などなど。

水曜日の朝に飛ぶと夕方16時くらいにモスクワに着く(飛んでいるのは3時間、時差は3時間)。のだが、モスクワでぜったい見るべし、と言われていたArmoury Chamber(武器庫)とDiamond Fund(ダイアモンド庫)を含むクレムリンぜんぶ木曜日が休みであることがわかり、がーん、てなった。

気を取り直してBAのサイトを見たら前日火曜日の21時過ぎに飛ぶ便に乗れば水曜の朝4:20に着くことがわかったので、これよこれ、ってチケットを替えて火曜日に会社から戻って支度して空港に向かい、機内で3時間も寝れるわけないけど目をつむり、UK時間だと午前1時半、マイナス3度で真っ暗のモスクワに着いた。

市内のホテルに着いても入れてくれるわけないので荷物だけ置かせてもらって24時間やっているウクライナ料理店(だーれもいない)に入ってボルシチとか食べて、でもぜんぜん時間余ってて寒くて眠くて、できることといえば(凍死かな..)と周囲を見渡してみたら地下鉄の入り口らしきものがあったのでそこに潜っていくつかの駅をまわることにする。

モスクワの地下鉄、というと4月に帰国した際にシネマヴェーラで見た『私はモスクワを歩く』(1963)がじんわり蘇ってきて、あの夏の爽やかなイメージとは真逆なのだが、とにかく天井が高くてでっかくて荘厳でかっこいいの。 ゴミが吹きすさぶ掘っ立て小屋のようなNYの地下鉄、もぐって埋まって獣穴としか言いようのないロンドンの地下鉄、ゴミ広告と痴漢と圧しかないにっぽんの地下鉄、これまでに乗ったいろんな都市の地下鉄と比べてもぜんぜん違って、見あげて見まわしてひー、ばっかりだった。電車に乗ってひと駅ふた駅行って降りると装飾もその意匠もまったく違っていたりするのでぜーんぜん飽きないの。朝のラッシュ時のごじゃごじゃをすり抜けながら遊んでいるうちに午前は簡単につぶれた。

ここから先は20-21日に見た美術館系を。

Architectural ensemble of the Moscow Kremlin

クレムリンの敷地内に散らばっているいろんな古い建物たちの総称で、教会とか聖堂とかいろんなのがあるのだが(少しは知っている、気がする)キリスト教のそれらとは明らかに違うかんじで、でもとにかく天井までびっちり埋め尽くしてあるフレスコだったりモザイクだったりがいくら眺めていても飽きないの。こんな寒いところでこれらの建物に籠って吊ったり吊るされたりして隅から隅まで描いて祈っていたんだねえ。

Armoury Chamber(武器庫)

おなじクレムリンの敷地内にあるのだがここは↑とはチケットが別で、展示も博物館式にロシア帝政の頃から(?)のいろんなのが飾ってあって、三の丸尚蔵館、かしら。

ドレスに宝飾に武器に馬車に橇に陶器に.. ヨーロッパの王家のカラフルな華々しさや洗練はそんなにないのだが、例えば馬車とか山のようにでっかい。これをひっぱる馬って象よりでっかくないと、とか。

Diamond Fund(ダイヤモンド庫)

武器庫とおなじ建物内にあるのだがこれもチケットは別で、しかもネットでは売っていないので寒いなか1時間くらい前から並んで、セキュリティも厳重で荷物チェックでも延々並んで、写真も当然だめで。

なかにあるのは大粒小粒のダイヤモンドの群れとでっかい金塊と赤とか緑のいろんな宝石と宝飾品、ありえない分量のがじゃらじゃらざくざく並べられていて、あんたお金持ちだったのね、としか言いようがないの。宝石に目が眩む、という経験をしたことがあまりないのだが、このひと粒ふた粒くれないかな、そしたら本とかレコードいっぱい買えるのにな、くらいは思った。

あと、“Mission: Impossible – Ghost Protocol” (2011) でクレムリンに赴いたTomのチームはなんでここを狙わなかったのだろうか、とか。

Pushkin Museum of Fine Arts

20日の朝の彷徨いが悪寒と体調不良をよんで、翌朝は10時くらいまで立ちあがれず、でもとにかく這うようにしてプーシキン美術館に向かった。気温はマイナス8度で、こんなのNYの冬でも割とあったから、と初めは思っていたのだが、NYは道路から湯気でているし人もいっぱいいて道路も狭いし、クリスマスの音楽も流れているし、でもモスクワの路上は風と氷粒がちらちらぴーぷー舞っていてとにかく寒いの。

本館には彫刻とか遺跡関係と絵画は18世紀くらいまで。あるはずのボッティチェッリがなかったり、ロシアにあるヨルダーンスの絵を網羅した”Russian Jordaens. Paintings and Drawings by Jacob Jordaens from Russian Collections”ていう特別展をやっていて、これはこれですごくおもしろかったのだが、この展示のせいかあるはずのルーベンスがなかったり。でも全体としてはとても見易くて、角を曲がるたびにいちいち圧倒される、そういう構成になっていた。

19世紀以降の絵画はGalleyていう離れの別館にあって、入り口にでっかいボナールが2点 – “Early Spring in the Country” (1912) と”Autumn. Picking Fruit” (1912) があり(館内には彼のもう少し小さい’Summer. The Dance” (1912)も)、マティスの『金魚』があり、セザンヌの部屋があり、ヴァロットンの部屋があり、印象派が節操なくどかどか置いてあって、なかなか至福だった。

Tretyakov Gallery

プーシキンを出たら16時少し前で既に薄暗くなりはじめていて、地下鉄でトレチャコフ美術館に。

今年の初め、Bunkamuraでやっていた『ロマンティック・ロシア』展はここから来たやつで、あの女性の絵(忘れえぬ女)はまだ日本に滞在してて戻っていないのだった。ものすごい量のロシア絵画(近代寄り)がいっぱいあって、おもしろいのもあるのだが個々に見ていく時間があまりなくて、ここで見たかったのはカンディンスキーとマレーヴィチで、でも聞いてみたらそれらは別の建物だよ、と言われてしまったのであきらめた。

またこんどな、って(できたらもう少し暖かい頃に)。

11.26.2019

[film] Desolation Center (2018)

16日、土曜日の夕方、CurzonのSOHOで見ました。Doc’nRoll Film Festivalからの1本。
これがLondonプレミアで、上映後には監督のStuart Swezey, Mark Stewart (Pop Group), Jack SargeantとのQ&Aがあった。 LA~西海岸パンクの隆盛に関わる結構重要なドキュメンタリーではないかしらん。

80年代初のLAパンク – Black Flag – Ramones – Minutemenのライブが規模の大きな警察沙汰になり、その火がワシントンDCに飛んで燃え広がり、等は教科書的な知識として知っていたのだが、LAでは警察が寄ってこないような形態の自由なライブをやりたいと、この映画の監督たちがLAダウンタウンの廃墟になっているようなスペースを安価に借りてゲリラ的にライブをやっていく団体としてDesolation Centerを立ちあげ、チラシやzineを駆使してライブの場を作っていくのだが、その流れで、例えばなんもない砂漠でライブをやってみるのはどうだろうか? と思いつき、場所を探して(なんにもないところなら場所代不要だし)、交通手段(スクールバス - 週末なら空いているし)を確保して、口コミとかチラシで呼びかけ、昼間に集まって遠足みたいにみんなでわいわい会場=砂漠に向かう。

第1回がSavage RepublicとMinutemen、2回めがEinstürzendeNeubautenと爆破系のパフォーマンスアート(Mark Paulineとか)、3回目が(これが西海岸デビューとなった)Sonic YouthとMeat Puppetsと Redd Kross。(いまも見たいやつばかりだわ)

企画する方も、客として参加する方も、ミュージシャンたちも、砂漠にたどり着いたら何が待っていてどんなことが起こるのかあんま予測しておらず、でも実際やってみたらなんか気持ちいいし自由でクスリとかやり放題だし楽しいし画期的かも、になる。 3回それぞれ場所を変えてやってみても楽しかったので、これってひょっとしたら..

こうしてここから2回めの砂漠に参加していたPerry FarrellはLollapaloozaを思いつき、Coachella の創業者のひとりは2回目の実施会場のすぐ北にあるCoachella砂漠 – もはや一大産業になりつつある – でのライブを構想し、ライブとはちょっと違うけど今や世界的な狂乱火祭りになっているBurning Manも、みんなここから派生してきた。

こうやって草の根で始めたイベントも結局は産業化されていっちゃうんだわ、ていう冷めた見方もできるのだろうが、この映画が映しだす写真や少量のフッテージが吹きつける生々しい空気感は、なにかとてつもないことが起こっているという緊張感とその反対側の、砂漠なんだからどうもなんねえよな、ていう適当さのバランスがすばらしくよく出ていて、そんなのパンクとか音楽に関係あるのか? と問われればたぶんあるのだ、と言おう。たとえばそんなふうに危うく適当な生の突端で弾けとぶ音とか衝撃波こそがパンクなのではないか、とか。

ライブのSonic Youth(Thurston Mooreがコメントしている)は、この時点で既にじゅうぶんSonic Youthの音になっていて、Kim Gordonさまのかっこよさにも痺れる。

Einstürzende Neubautenはなつかしー(浅草)、しかないのだが、コメントしている現在の各メンバーを見るとみんな年とるよねー(おまえもな)、としか言いようないなか、BlixaはFrancis Baconみたいになっていて驚いたり。

上映後のトークは、なんでそこにMark Stewart氏がいるのか、が謎だったのだが、監督のStuart Swezey氏がLAでやっている独立系出版社 - Amok Booksにお世話になったし、ということらしい。Mark Stewart、とにかく落ち着きのないおっさんで、客席の方に移動して勝手にコメントしたりいちゃもんつけたりおもしろかった。映画にも登場する語り部としてのMike WattとFugaziのメンバーにはきちんとRespectをしてて、彼の口からそういう名前が出てきたので、へー、とか。

団体としてのDesolation Centerはまだ細々と活動を続けているらしく、グッズとかも売っていた。

11.19.2019

[film] Ford v Ferrari (2019)

16日、土曜日の午後、Picturehouse Centralで見ました。

UKでのタイトルは”Le Mans '66”なの。米国は”Ford”の名前を出したかったんだろうな。
James Mangold監督による66年の24時間耐久レースでFordがFerrariを破った実話の映画化。

車とスポーツ(特にゴルフ)はまーったくわかんないし興味ゼロなのだが、それでも十分おもしろかった。 けど、RPMとかトルクとかそういうのをわかっていた方がもっとおもしろいのかも(見てから一応調べた。よくわかんなかった)。Le Mansていうのがフランスの土地の名前、っていうのも初めて知った。香水かなんかだと思っていた。過去にこんな対決があったことだってもちろん知らない。

Carroll Shelby (Matt Damon)は元レーサーで引退してから、地元のレースで自分の車を持ちこんで参加していたKen Miles (Christian Bale)と知り合う。Ford社は戦後に生まれた子供たちが大きくなって車に乗るようになった時に、車にはスピードとかかっこよさが求められるのだから変わらねば!って、経営が苦しくなっているFerrari社に行って買収話をしたらふん、て蹴られて、Henry Ford II (Tracy Letts)は、なめんじゃねえぞ、ってレースでFerrariをぶち負かしたるって宣言して、そこでShelbyが呼ばれてShelbyがMilesに声をかけて、お金使い放題のプロジェクト(いいなー)がスタートする。ふたりともレーサーで車の構造もよく知っているから、どこをどうすればどうなるからこうすべき、がわかっている、ので早い(速い)の。

のだが、結構荒っぽいMilesの振る舞いを見た重役のLeo Beebe (Josh Lucas)からいちゃもんがついたり(それはレースが始まってからも延々続く。そういう奴いるよね)、いろいろあって、でも最後には爆音でぶっとばして、やったぜ!ってなる熱い男たちのドラマなの。

ギアをがしがしやって踏み込むと車がぐぁーんて加速して視界が変わっていく、その一連の動作が快感を呼ぶことは映像からなんとなくわかるのだが、熱で車輪が火を噴いて大火事とかスピンとか車とかその破片が事故でびゅんびゅん飛んできたりとかおっかないのもいっぱいあるし、そうやって走ったり壊れたりするのをみんなでわいわい見て楽しむ24時間て、お祭りなんだろうけどやっぱしあんまわかんないわ。CO2問題だってあるし、こういうのやめちゃえばいいのに、とか。

そういうスピード狂のところとは別に、ShelbyとMilesのべたべたしない関係とか、そこに挟まってくるFordの幹部とか、Milesの家族 - 夫人役のCaitriona Balfeすてき - のこと、客席のFerrari一族とのにらみ合いとか、人と人のやり合いがおもしろい。一旦契約を切られたMilesのところにShelbyが戻ってきて路上で取っ組み合いの喧嘩するところとか、最高なの。

BatmanとJason Bourneが組むのだから強いに決まっている、のだが、ぜんぜんそんなふうではなくて、ひとりは金持ちの気前よさそうなおっさんで、もうひとり - Christian Baleの薄汚れてちょっと猫背ですたこらしたかんじ(耳にタバコとか挟んでる)の、でも妙な殺気があって、ああいうおっさん、そこらに歩いていそうな。

音楽は結構きもちよいのだが、こういうのの音楽は気持ちいいに決まっているので、あんまし言わない。 でっかい画面で、でっかい音でどうぞ。

11.18.2019

[film] The Report (2019)

17日、日曜日の昼間、CurzonのSOHOで見ました。 LFFでも上映されていた1本。

監督はScott Z. Burns、製作にはSteven Soderberghの名前があって、レビュー書くのを忘れてしまったが、彼の監督最新作”The Laundromat” (2019) - パナマ文書あれこれを庶民の側から描いた政治モノ:地味だけどキャストはMeryl Streep, Gary Oldman, Antonio Banderasとか豪華でおもしろ  – でScott Z. Burnsは脚本と製作を手掛けているの。

“The Report” – これのポスターには”The”と”Report”の間に黒塗りされた箇所があって、よく見ると黒塗りされている単語は”Torture”であることがわかる。 この間見た”Official Secrets”が911後の派兵にまつわる英国政府の隠蔽を暴くドラマだったのに対し、これはやはり911後、CIAがテロ容疑者に対して正式手続きなしに拷問を続けていた事実を暴いたもの。

Daniel Jones (Adam Driver)は上院議員Dianne Feinstein(Annette Bening)の命を受けてUnited States Senate Select Committee on Intelligence (SSCI)の調査スタッフとしてビルの地下の一室に数名のスタッフ(最初6人だったのが最後には2人に)と籠り、CIAのサーバーとメールにアクセスして(アクセスする権限がある)、5年に渡っていろいろ掘り続けて明らかになった拷問の実態と巧妙かつ腐った工作の全貌。

911後、再び攻撃される危険性があるなか自国民を守るため、という誰も反論できないような名目の元、ビン・ラディンの居場所を突きとめることと新たなテロの発生を食い止めるために、怪しいと思われるイスラム系容疑者を片っ端から拘束して、EIT - Enhanced Interrogation Techniques – という「科学的」な”Reverse-Engineering”により自白を強要する仕掛け – その様子は映画のなかにも出てくるが本当に怖い – を開発し、というか開発してその精度を上げるのも込みで組織ぐるみで虐待と拷問が行われていた。

なんでそんな怖ろしいことを何年も続けていたかというと、実際にこれによってテロを防止できた、とか、重要人物捕捉に繋がった、とか実績を作りたかったから。なにしろ「科学的に」開発したプログラムなので確実な結果が出る(はず)と信じていたから。結果さえ出てくれればそのレポートは胸張って誇れるものになる、でも出なかったら… 

司法省の許可もなしになんでCIAが単独でそんなことができたのか? については、「White Houseが…」くらいしか言及がないのだが、”Vice” (2018)を見ていれば出処はなんとなくわかるよね。

で、とにかく、彼の作成したレポートは6,700ページ(脚注38,000)で、サマリでも525ページで、でも公開にあたってはCIAの検閲が入って黒塗りだらけになってしまった(どっかの国と一緒)。

組織の保身と権威の維持のために収拾がつかなくなってほうらやっぱり、のぼろを出してしまう、というのは昔からあることなのだろうが、拷問で亡くなった人たちのことを考えると本当にきつい。拷問でクチを割るやり方なんて無理、というのは映画の中でも言われているように虐待される側にも家族や仲間がいるんだからそんな簡単に行くわけないの。そんなの科学いぜんの想像力の問題。

アクションらしいアクションというと時折挿入される容疑者へのひどい拷問シーンばかりで、主人公のDanielは地下のオフィスに出入りしてPCで作業したり図を書いたり、会議で憮然と座っているばかりで、でも彼の表情の裏側でめらめらしているエモだの何だのをじゅうぶん、ものすごく感じることができる。という点で、これはAdam Driverファンにとってたまらない1本であるかもしれない。丁度同じタイミングで公開が始まった”Marriage Story”は必須としても。

2001年のテロによって連鎖的に引き起こされた当時の国家が決して犯罪と認めようとしなかった犯罪、その裏側が今になって英国、米国で続けて映画化されて明るみに出てきているのはおもしろい。 ていうかおもしろがることでは全くないのだが、全てが捩れて繋がってTrumpだのBrexitだの最悪の結果というか終わりの始まりを生んでしまった反省が出てきているのではないか。

そして日本は .. 入国管理局による長期の拘束と虐待が、これだけ明確な証拠も証言も出てきているのにメディアはちっとも告発しようとしない。 なにが美しい国だよじゅうぶん世界最低だよ。

Adam Driver人気があるので日本でも公開されてほしい。できれば”Official Secrets”も一緒に。

[film] Last Christmas (2019)

17日、日曜日の夕方、Picturehouse Centralで見ました。
UKでは公開直後のこの週末、”Ford v Ferrari”を破って興行収入1位になったそうで、よかったねえ。

Paul Feigの新作で、脚本をEmma Thompsonさんが書いている(彼女は出演も)。 この季節のクラシック - Wham! – George Michaelの同名曲をベースにしたロマンティック・コメディ .. ?

冒頭、前世紀末のユーゴスラヴィアで、教会で歌っている少女とそれを見ている両親と少女がいて、彼ら4人は家族であることがなんとなくわかる。

そこから2017年の英国-ロンドンで、クリスマスグッズを売るお店の店員をしているKate (Emilia Clarke)はダメ店員で店長のMichelle Yeohに怒られてばかりで、住むところも定まらず、なんで定まらないかというと間借り先でトラブル起こして追い出されを繰り返しているからで、要は(昔から漫画にある)典型的なドジばっかりのダメな女の子、なの。当然ママのEmma Thompsonは心配して電話ばかりしてくるので、家には近寄れなくて、うううってどうしようもなくなっていると、店先でTom (Henry Golding)っていう若者と出会って、得体が知れないんだけど話を聞いてくれるのでなんか安心できる。でも彼はいつもどこからかふらりと現れて、数日間いなかったりすることもあってなんなのかしら? って気になってだんだんにKateはTomの姿を探し求めるようになっていって。

というふたりのお話に、ロンドンに暮らすKateの家族の暮らし – 移ってくる前はLawyerだったが今はMini-Cabのドライバーをしているパパと、Kateとは衝突してばかりのできる姉と、心配症で壊れそうなママと、Brexitで移民に対して厳しくなりつつある英国、Tomがボランティアをしていたというホームレスシェルターの人たち、いろいろと絡んでくるの。

本筋に関してはこれ以上書かないほうがいい内容なので書かないけど、ちょっとびっくりしたかも。監督の前作”A Simple Favor” (2018)はサスペンスだったのである程度予測したりする余地もあったのだが、これは無防備にただのほっこりコメディと思っていたら…   後ろの列の子たちはみんなしくしく泣いてて、でもとってもよいお話なので見たほうがいいよ。 あの歌そのままのー

Kateがいつも着ている服はヒョウ柄のコートと、店員のときは緑のElfの衣装で。今の若い子は知らないかもしれないが、Will Ferrellが主演した”Elf” (2003) っていうクリスマス映画史上に残る大名作があって、Elfは自分の国を離れてマンハッタンにやってきた移民なの。いろいろ衝突もあるけど心をひとつにすることの大切さがクリスマスを背景に歌われるの。だから..

というわけで、このお話が2017年のロンドンを舞台にしているのは必然のようなもので、今こそElfを! Last Christmasを! なの。 いくつかのロケ場所はわかったけど、夜の路地とかのひっそり暗いかんじとか、よく描けている、素敵なクリスマスのロンドン映画でもあると思う。

主演のふたりの相性もとてもよくて、ふたりがじゃれ合うところとか、TomがめそめそするKateに”Look Up”ってやるとことか、ずうっと残っている。そういえばEmilia Clarkeさんって、”Me Before You” (2016)でも..

Wham! – George Michaelの音楽の持つ独特の湿り気もとてもよいかんじに馴染んでいる。Wham!の音って、自分のなかではHaircut One Hundredが萎んじゃった後に出てきた連中、ていう位置づけで、"Club Tropicana"の12inchとか、よく聴いてたし、今も聴けると思うし。

問題なのは、こんご”Last Christmas”を聴くたびに泣いちゃうかもしれなくなることだ。既に泣いちゃうようにセットされてしまっている人はいっぱいいるのかもだけど、これはなかなかこまるかも。

[film] Du Barry Was a Lady (1943)

10月22日、火曜日の晩、BFIのMusicals! 特集で見ました。(もう、ぜんぜん行けてないの)
邦題は『デュバリイは貴婦人』。1939年のブロードウェイ(この後ウェストエンドにも行った)

ミュージカルの映画版。音楽はCole Porter。上映は35mmのTechnicolor dye transfer printというやつで、技術的にどういうのかはわかんないのだが、簡単にいうと、40-50年代のVogueとかHarper’sとかファッション誌のカラーグラビアの色味と豊かさがそのままスクリーンで絵巻物のように動き出すマジック。 見ているだけでため息、てやつ。 今のデジタル技術の限界って、こういうのを見たときに、デジタルだったらこうなるだろう、ていうのが容易に想像できてしまうことよね。

上映前にBBCが制作した5分くらいのショート“Busby Berkeleyland”が流れる。今回の”Musicals!”特集のプログラマーRobin Baker氏(彼、いろんな上映の前にいっぱい出てきて前説している)がガイドするBusby Berkeleyの世界。”42nd Street” (1933),  “Footlight Parade”(1933), “Gold Diggers of 1933” (1933)を中心にスペクタクルとセックスの導入でいかにミュージカルの世界に革新をもたらしたか、後世の作品 - “The Big Lebowski” (1998)とかを例に加えながら解説してくれる。

ナイトクラブの歌姫May(Lucille Ball)がいて、Tommy Dorsey(本人)のオーケストラで歌いまくり、前半はそこのナイトクラブの芸人たちの演芸大会で、Alec (Gene Kelly)の歌と踊りとかMayに想いを寄せるクラークの受付のLouis (Red Skelton)の紹介がある。 で、Louisが突然宝くじに大当たりして、お金持ちに弱いMayはそっちになびくようなのでAlecは、ちぇっ、てなると舞台は突然18世紀のフランスにスリップしてLouisはルイ15世に、MayはMadame Du Barryに、AlecはThe Black Arrowっていう盗賊頭みたいのになっていて、どんちゃかがあって..

ほんとたわいないすっとこラブストーリーなのだが、そっちよりもお正月映画(←死語)みたいなハリボテ感満載の豪華絢爛さがたまんなかった。 Gene Kellyも若さたっぷりでくるくるだし。

I Love Melvin (1953)

10月29日、火曜日の晩、これもBFIのMusicals!特集で。これも35mmのTechnicolor dye transfer printでの上映。
“I Love Melvins” だったらわかるけどな。

この前の年、”Singin' in the Rain” (1952)を当てたMGMが、あそこのトリオのうちの2人を使ったミュージカル。

駆け出しで端役しか貰えない女優のJudy (Debbie Reynolds)は将来はきらきらの大スターを夢見ているのだが、実際にはフットボールのお芝居でフットボールの役をさせられてよってたかって蹴られたり飛ばされたりひどい扱い(今ならぜったい上演不可)を受けてて、ある日公園でMelvin (Donald O'Connor)とぶつかって、Look magazineのカメラのアシスタントをしている彼はJudyに近寄りたいばっかりに雑誌の表紙にするから、って撮影デートに誘って(これも今ならコンプラ..)仲良くなっていくのだが、やがてその嘘がばれて.. 。

ストーリーは勿論ハッピーエンドでなかなか無理があるかんじなのだが、原田治の描いた50年代アメリカンのボーイズ&ガールズそのままみたいなふたりが歌って踊るのはとっても楽しくて、それだけでいかった。

11.15.2019

[film] À Nos Amours (1983)

10月18日、金曜日の晩、BFIのMaurice Pialat特集で見ました。英語題は”To Our Loves”、邦題は『愛の記念に』。 同年のルイ・デリュック賞、翌年のセザール賞を受賞している。 これ、かつてどこかで見たことがあったようななかったような..

パリに住む15歳のSuzanne (Sandrine Bonnaire)は洋裁屋(?)を営む家族 – 母(Evelyne Ker)、父(Maurice Pialat)、作家の兄(Dominique Besnehard)と暮らしているのだが、なんか家にはいたくないので外で仲間とつるんだり、いろんな男と寝たり、それで朝帰りしたら父に殴られて、それを見た母が泣き叫び、そんな父が家を出てしまうと母は精神的に不安定になり、兄がおまえのせいだってSuzanneをひっぱたき、そんなふうに彼女のここはあたしの居場所じゃない – こんなところにはいたくない – が延々続いていって、そうやって家から逃げるように婚約するのだが、それでもなんか..

長編デビュー作の”L'enfance nue” (1968) でも、TVシリーズの”La maison des bois” (1971)でも、まだ書いていないけど”Passe ton bac d'abord…” (1978)でも、Pialatは子供や若者を得体の知れないなにをしでかすかわからない動物のように描いていて、そこに彼自身も教師とか父親として出演しているところを見ると、彼らを指導したり教育したりする役割の人として自らを置いているように見えるのだが、実際には彼はなんもしない(”La maison des bois”ではちょっといい役だったけど)どころかろくでなしで、もちろん子供たちもなんかひどいのだが、動物なのであればあんなもんだと思うし。

でもそんなふうに描いているからといって彼らが地獄に堕ちたり処分されちゃったりするかというとそうはならずに、間違いなく彼らはノラとして野に闇に散ったり潜んだりこちらに背を向け、たまに寄ってきて一緒にご飯食べたり、そうやって生きている。はじめの方でSuzanneの背中にKlaus Nomi (& Henry Purcell) による“The Cold Song”の”Let Me.. Let Me.. Let Me..”が被さってくるとなんかたまんないの。

でもそれにしても、家族ってこんなもんだよね、こうあるべき、という姿とか「絆」とかいうわけのわかんないやつとか、「絆」さえあれば「幸福」もやがて、みたいな意味不明の論理は決して振りかざさず、とっ散らかって誰かが泣いたり叫んだりが延々続くのできつくて、でもだからといって家族ってそう簡単になくなるものではなくて。わからないからと言ってわかるように都合よく描かない、それならまだ話の通じない動物として描いたほうが...  ていう視点で彼らを見つめるそういう目が必要で、そういう目を保つためにはまず自分が。

そしてその目線が注がれるその先に生きている、まさに生きているように生きているSandrine Bonnaireの輝きと輪郭のつよいことかっこいいこと。これがきちんとクレジットされたデビュー作で、デビュー作とかで脱いだり絡んだりすると日本のメディアはすぐ「体当たり」とか「捨て身」とかしょうもないことを書いてきたものだが、ああいうのまだやっているのかしら? で、とにかく、この作品のラストに旅立っていった彼女が、“Vagabond” (1985) -『冬の旅』として田舎の寒い荒野に再登場するのはちっとも不思議ではなくて、あっさり繋がっているねえ、と思った。

[music] The Raincoats

10日、日曜日の晩、HackneyのEartHっていうとこで見ました。前回ここに来たのはRussian Circlesのライブで、あのときはスタンディングのフロアだったが、こんどのはその上の階のシアターみたいなところで椅子がある。指定ではなく早いものがちの。

ライブの数日前にチケット買ったところからメールがきて、タイムテーブルは、20:00-20:45 The Raincoats, 21:00-21:30 Special Guests, 21:30-22:00 The Raincoats、とあって、通常のライブとは違うみたいなので少し早めに行った。

彼女たちを見るのは94年、NYでのLiz Phairのオープニングの時以来で、この時のドラムスはSteve Shelleyで、今思いだすとものすごく元気がなかった、のはその日の午後、Kurt Cobainの遺体が発見されたというニュースがあったからで、ライブの音よりもAnaの「Kurt、ほんとうにありがとう」の辛そうな言葉の方が耳に残っている。あれから25年、25年、25年…(呪文)

この日の昼間にTracey Thornさんが、今晩はMarine GirlsのGinaと一緒に行くよ、とかTweetしているのでおおーってなる。同窓会かよ、と。実際前方の席は”Reserved”ばっかりだったし。

今回のライブは英国で4か所くらいをツアーする、1stの”The Raincoats”のリリース40周年のお祝いで、1st と2ndは色盤のプリント付きで再発されて(会場で買っちゃった。トートも)、最初にShirley O'Loughlinさん(たぶん)が出てきて再発盤の宣伝(後でサインもするからねー)と、Jenn Perryさんによる“The Raincoats' The Raincoats (33 1/3)”の一節を読みあげて(この本、本当にバンドに気に入られているらしい)、サポートアクトとして出てくるのはGreen Gartside(!!)とBig Joanieです!とアナウンスがあり、バンドが登場して、"Fairytale in the Supermarket”がどかどか鳴りだす。(変わらず)おっそろしくへたくそなのだが、でもこれがThe Raincoatsなのだ、としか言いようがない錯綜ぶりで混乱してて、でもキュートでパンクで、たまんないの。なんで40年前の曲をそんなふうにそんなままに再現できちゃうのへたくそなのに? って。曲が終わると、Anaが、この曲はわたしたちの最初のEPので、LPには入れなかったのだけど、後で(94年?)再発したときにここに入っていないのも変よね、って入れたのだと。近年だと”20th Century Women” (2016) で少し流れたよね。

数曲やって”Black and White”の前にこのアルバムを手伝ってくれた人を紹介します、と言って(もうその途中で誰だかわかって、隣に座っていたおばさんなんて床に向かって小さな声で「きゃぁぁー」て絶叫していた。 とてもよくわかる)、サックスを抱えたLora Logicさんが登場してAnaの横で吹くの。こんな夢のようなことがあってよいのか、と。彼女はこの1曲で引っ込むのだが、次の”Lola”では誘われてバックコーラスを(Loraが“Lola”を、ね)。

Anaがサポートアクトを紹介する。”The Raincoats”の最初のプレスが出たとき、レコードに”The Construction and Deconstruction of Myths and Melodies”って彫ったのが彼 - Green Gartsideだったのよ、って。 彼女たちのライブが始まってみんながじーんとしている時に、ステージ前の通路をリュック背負ったふつーのおじさんがしらーっと横切って、それは見てすぐGreenだ! ってわかるのだったが、幕間のサポートも催事場の演芸みたいにすっとぼけたかんじ。 ぼくらScritti Polittiの50%でーす(ステージ上にはGreenともうひとり)、とか言って"The "Sweetest Girl"”を始める。終わって、これはRobert Wyattに手伝ってもらった曲で、リリースは… (客席から81年よ、って助けてもらう)そう、81年。次のは僕らの最初のレコードで、これは78年、こっちは憶えてるよ、と”Skank Bloc Bologna"を。

昔話ばかりになってしまうのだが、81年にRough Tradeが日本に紹介された時のラインナップの中に”Clear Cut”っていう日本で編まれたオムニバス盤があって、それは輸入盤の7inchなんていちいち買えるわけがない高校生にとっては夢のような一枚で、Joseph Kに始まってThe Fallがあって、Orange Juiceがあって、Girls at Our Best!の”Politics”があって、A面の最後はThe Raincoatsの”In Love”(この曲が自分にとってのLove Songの永遠のNo.1なの)で、B面の頭がDelta 5の”You”で、続いてThis Heatの”Health and Efficiency”があって、Lora LogicのEssential Logicの “Music Is A Better Noise”があって、Scritti Polittiの"Skank Bloc Bologna"があって、最後はRobert Wyattだった(たしか)。その擦り切れるくらい聴いた一枚から2曲が聴けて、3アーティストがでてきた。しかも客席にはMarine Girlsまでいる。これってありえないくらいすごいことなの。個人的には。

Greenはこの後"The Word Girl" (1985)をやって、"Wood Beez (Pray Like Aretha Franklin)"(1984)をやって去っていった。(終演後もそこらをふらふらしてた)

この後そんなに間を置かずにBig Joanieの3人がアンプラグド形式で数曲やって、この人たち、Bikini Killのサポートの時にも思ったけど、なんか生々しさが残って、よいの。なんだろ。

The Raincoatsの後半のセットは、前半よりも更にどたばたして、何度もやり直したりとっ散らかったり、AnaとGinaのふたり漫才になったりしていて、でも音自体は奔放に跳ね回ることを止めないので、みんな前方に押し寄せてぴょんぴょこ80年代踊り大会をやっていた。初期のパンクが怒りと衝動にまかせた愚直に一直線をやっていた頃に登場した彼女たちは、それらの前後にやってくる困惑とか倦怠とか諦念とか痺れとか眠気とか、足下のどうでもよいけどどうしようもない何かをぐにゃぐにゃした毛玉として、混沌のままにぶちまけて(路地裏からスーパーマーケットへ)、でもちょっと甘苦くて笑えたりもして、その手編みの手触り(ちくちく)は永遠で、永遠がすごいのではなくて、永遠を永遠たらしめている彼女たちがすごいんだってば。っていうのと、そんな彼女たちのやり口をフェミニズムと呼ぶことになんの異議もないの。

終わったら23時で、ライブの後に電車に向かって走るとまた転んで流血するので、ゆっくり帰った。

11.14.2019

[film] The Aeronauts (2019)

9日の土曜日、”The Irishman”を見たあと、PicturehouseCentralに移動して見ました。完全にいちにち潰れてしまったのだが、どうせ天気ひどいしいいや、って。

ここのシアターではDigitalと70mmプリントの両方のバージョンで交互に上映していて、当然70mm上映のにした。夜の光とか雪のちらちらとか柔らかくて優しくて、やっぱりきれいだよね。

監督はTom Harper。LFFでもプレミアされていた。

19世紀のロンドンで、気象学者のJames Glaisher (Eddie Redmayne)がパイロットのAmelia (Felicity Jones)と共に熱気球で空に昇ってうんと高くまでいく記録をつくって、でも散々危ない思いして死にそうになって降りてくるの。それだけなの。

Jamesがこの気球による観測飛行の企画を立てて、いくら気象予測の重要性を説いても、当時の学会では指示を得られずお金が集まらなくて、パイロットもいなくて、そのうちAmeliaにぶつかるのだが、彼女は前の飛行で夫を失って情熱も失って飛ぶことすら怖くて、いったんは引き受けるのだがやっぱりやめる、っていって、でも当日になると犬を連れてじゃらじゃらやってくるの。

高いところがダメな人は見ないほうがよさそうな、ダメじゃない人が見てもありえないような気球のまんまると悪天候を使ったサーカス芸みたいな見せ場がてんこ盛りなのだが、それ以上にぼろぼろのへろへろ、鼻血に切り傷、擦り傷だらけになってもされても死なずにがんばるEddie Redmayneと、何が起ころうととにかく歯をくいしばって運命に立ち向かおうとするFelicity “Rogue One” Jonesの組み合わせが素敵なので、見ていられる。このふたりの組み合わせなら絶対死にそうにないような安心感、って、よいことなのかわるいことなのか。

自然を相手に信念をもって困難に向かっていく男と過去を乗り越えて前に進もうとする女、って“Twister” (1996)にあったのとおなじ設定かしら(Bill PaxtonとHelen Hunt)。

“Inspired by True Event”で、James Glaisherは実在の学者なのだが、史実上のパイロットは男性で、Ameliaは架空の - プロファイルは実在したフランスの女性パイロットから持ってきているのだそう。でもこれはこれで十分におもしろいからよいの。男女の役割設定が逆だったらつまんないな、って思うかもだけど。

あと、ふたりの(だけじゃないけど)衣装(by Alexandra Byrne)がとってもすてきなの。

あと、舞踏会の場面、こないだOpen Houseで見にいったLancaster Houseで撮っているのがわかった。

あと、またろくでもない邦題が来そうな予感。

[film] The Irishman (2019)

8日、土曜日の午後、CurzonのBloomsburyのでっかい画面で見ました。 上映時間3時間半なので午後だいたいぜんぶ潰れた。

NYFFではOpeningピースとしてプレミア上映され、LFFではClosingピースとして上映され、前評判も上映後のレビューも熱狂的でチケットがとんでもない速さでなくなってしまったので上映日には一般上映館でも急遽追加で上映されたりしていた。Martin Scorseseの久々のギャングもの、とかDe NiroとPacinoとPesciの競演とかいろいろあるのだろうが、なんでかすごい人気なの。

冒頭、カメラは病院と思われる建物の奥にぬいぬい進んでいって、音楽はゆったり甘いDoo-wopで、車椅子に座っているよぼよぼの老人に近づくと、彼 - Frank (Robert De Niro)が彼のここまで直近40-50年の人生を語り始める。

最初はステーキ用の肉塊の調達配送でズルとかしてバレても堂々と口を割らなかったのでマフィアのボスのRussell ( Joe Pesci) に認められていろんな仕事 – だいたい人殺しとかのお掃除 - を任されるようになり、やがて当時の組合の大物でスターのJimmy Hoffa (Al Pacino)の側近をすることになるのだが、こいつが手のつけられない傲慢野郎でどうしたものか、になっていって.. というのが現代の車椅子の彼の語りと、ドラマの本筋であるJimmy Hoffaをなんとかする車~飛行機の旅と、そこに至るまでの彼の経緯や経験と、時間の前後がとりとめなく繋がっていって、だいたいよぼよぼのFrank、貫禄がでてきたFrank、脂ぎったFrankの3種類の顔と佇まいでどの時代の動きなのかを知ることができるのだが、いろいろおもしろい。

3時間半は確かに余り長く感じない。物語は別の物語を呼びこんだり挿入したりの2階3階建て構造になってはおらず、時代の3点をFrankの語りで繋ぎながらもどこまでもフラットに横に滑っていって来るべきクライマックスや大円団に寄ったりそこを中心に廻っていったりすることはないし、そんな山も波もないし、そもそもFrankには苦悩や葛藤のようなものがぜんぜんなくて、その結果対峙したり乗り越えたりするなにかもちっとも現れないものだからドラマになる要素が希薄なの。とても軽い、けど考えるところはいっぱいある。

Frankはただ頼まれればはいはいさくさくとパーフェクトに仕事をして、それで生き延びてきた。人殺しでもなんでも、頼まれたことをただこなしただけなので、それで罪に問われてもはあ? なにが悪いの? しかないの。あまりに空っぽで中味がなくて悩みもなくて、それでいいの? と問われてもその問い自体の意味も理解できないだろう。ボスや周囲の人から認められて仕事を任される、それをただ実行する、これのどこが悪いのか? って。

ここにアメリカの60-70年代の実際の出来事や世相が被さることで見えてくるのは、当時の(おそらく今も)大多数のアメリカ人の心象とか志向が割とそうなのかも、みんなそうやってきたのかも、ということ。(これのどこが悪いんだ?  ってじじいが偉そうに居直るのってまさに今のにっぽんもな)

今年のもうひとつの話題作 – “Once Upon A Time… in Hollywood”との比較でいうと、あれがありえたかも知れないオルタナ出来事を中心に(映画の)世界と歴史を再構成しようとしたのに対し、こっちのは実際に起こったきな臭い出来事を軸に(ギャングの)世界と歴史にいろんな線と面を引いてみる。ものすごくいろんな顔と声と、その向こうに可能性が拡がっているのがわかる。どちらもだいたい50年前のアメリカ。

もういっこ、ここはとにかく男しかいない男の世界で、というのもFrankの視界にはそれしか入ってこなかったから(なにが悪いんだよ?いろいろ守ってきたんだよ)で、唯一、棘として刺さってくるのが彼の娘のPeggy (Anna Paquin)で、なぜなら彼女だけが彼のやってきたことを察知して最後まで彼を許そうとしないから。このギャップもまたアメリカが辿ってきた道だよね。(そしてにっぽんはまだまだ..)

俳優陣は誰も彼も申し分なくすばらしく、久々に“Son of A Bitch!”を連発しながら暴走していくAl Pacinoを見れたのがよかった。なんでか昔(2003年頃?)に小さな小屋で見た彼の芝居- “Salomé”を思いだす。このときSaloméを演じたのはMarisa Tomeiだった。

老人ばかり、というところで、例えばここにClint Eastwoodがいたらどう? とかちょっと夢想したり。彼が”The Mule” (2018)で演じた運び屋ってFrankに近い - Frankのが十分自覚的ではあるものの – やはり忌々しい棘にイラつくばかりの空っぽな老人の姿だった。

音楽は甘めのDoo-Wap - "In the Still of the Night" - とか、とRobbie Robertsonのノワールの世界がすばらしい光と闇のバランスを見せる。

これを見ると、ScorseseがなんでMarvelの世界を批判したのか、なんとなくわかる気がするのだが、その辺は、もうちょっと考えを転がしていたいかも。

11.11.2019

[film] A Dog Called Money (2019)

1日、金曜日の晩、Barbicanで見ました。
毎年この時期の音楽系ドキュメンタリー映画祭 - Doc'n Roll Film Festivalからの、これがLondonプレミア上映で、今はもうMUBIで配信もされているのかしら?

この映画祭、毎年行けないやつばかりなのだが、今年はThe RaincoatsのGina Birchさん - この会場にも来ていたみたい - のとか、SWANSのとか(これは巡回していくって)、でもいっつもなにかとぶつかるのよねー。

フォトジャーナリストのSeamus Murphyの監督作品で、彼とPJ Harveyは2015年に“The Hollow of the Hand”という、これは彼の写真と彼女の詩文が載った本 - どちらが先、というよりも両者がコラージュのようなかたちで並存している - を出していて、この映画はその映像版、というよりもあの本はこうして作られていったというその過程と、もうひとつはPJ Harveyの9枚目の作品“The Hope Six Demolition Project” (2015)がどのように作られていったのか、を記録したものにもなっている。

具体的にはSeamus Murphyが紛争の傷がまだ生々しいアフガニスタン、コソボ、貧しいアフリカン・アメリカンを中心としたコミュニティがあるワシントン DCの姿を記録していく旅にPJ Harveyが同行して、現地の人たちと会ったり、通りを歩いたり街角に佇んでメモを取ったり(映像に彼女の言葉が被さったり)する姿と、“The Hope Six Demolition Project”のレコーディング風景 - ロンドンのSomerset House(普段はアートギャラリーとかイベントとかスケートリンクとかをやっているとこ)の地下にガラス張りのスタジオを作って、レコーディングの模様をアート・インスタレーションとして公開した - がランダムに行ったり来たりする。

“The Hope Six..”のタイトル自体が、ワシントンDCの地域再開発プロジェクトから来ているものだし、個々の曲の詩も管楽器を多用した(これまでの彼女の作品と比べると)ラフで隙間だらけで雑多な構成の楽曲も、ここでのふたりの旅がもたらしたものであることがわかる。のだがそれだけ、と言ってしまえばそれだけの、本とレコードのメイキング映像、でしかないかんじになってしまったのはしょうがないか。

こういうのって、短期間安全なかたちで滞在しただけで現地の何がわかるというのか、とかよく言われるけど、たとえ数時間でもその場所に行ってある時間を過ごすっていうのはとても大事なことだと思うし、廃墟や通りの隅にひとりで立っているPJの表情が伝えてくるものは確かにある。そしてこれとは対照的にリラックスした、しかし力のこもったレコーディングの場で歌ったりいろんな楽器を弾いたりする姿 - それは自分はなぜ音楽をやるのか、を改めて発見した歓びに溢れているようで素敵ったらなくて、2017年1月31日 - 英国に赴任する前日 - に見たライブが圧倒的だった理由もこれを見ればわかると思う。

その人が出ているというだけで見に行ってしまう映画があるように、PJが映っていて歌ったり演奏したりしている、それだけで見にいくべき、これはそういうやつなので、行くべし。

上映後のSeamus Murphy氏とのトークで印象に残ったのは、この映画で訪れた各地域で最も身の危険を感じたのはワシントンDCだった、というところ。

PJにサインしてもらった“The Hollow of the Hand”が棚のどこかにあるはずで、3日くらいずっと探しているのに出てきてくれない。

11.09.2019

[film] Terminator: Dark Fate (2019)

10月27日、日曜日の午後、Picturehouse Centralで、見ました。 ネタバレしてるけどべつに。
このお話が成立しているってだけで半分くらいはどういうことかわかるよね。

最初のT1とT2から繋がる本流本筋、みたいに言われているけど、ああいう物語の構造上、なんでもありの世界のはずだから本流もくそもないと思う。

T2から少し経ってからの世界 - メキシコでJohn Connorは殺されて、それ以降の未来でやはりなにかが起こったらしく、今回狙われるのはDani (Natalia Reyes) で、狙うのはREV-9 (Gabriel Luna)ってやつで、彼女を守るために未来からやってくるのはGrace (Mackenzie Davis)で、でも彼女はロボットではなくて改造人間みたいなやつで、そこに未来からなんか来るのを待ち構えていたSarah Connor (Linda Hamilton)が加わって、なんとか刺客をかわしてアメリカに渡り、ロボットなのに老人になっている(なりたいんだって)何台目かのT-800 (Arnold Schwarzenegger)も加わってどんぱちするの。それだけなの。

このシリーズのそもそもの発想 - 過去に遡って反乱軍の指導者の母親を消してしまえばきっと安泰 - が余りにガサツでこれをAIが考えたのだとしたらそんなAIを開発した未来に未来はないよ、ていう揺り戻しとか反省もあったのか、今度のはぜんぶ女性が強くて彼女たちががんばってT-800は大型犬のように後ろにいる。男性よりも女性、しかもなんかをただ産むだけの存在として扱われていないし、シニアの活用もしっかり、ってそれはそれでなんかやらしいし、ここにDaniがキメ台詞のようにぶち上げる「Dark fateなんてあるもんか、運命は自分たちが作るんだ!」まで加えてみると余りに優等生すぎてがんばってね、くらいしか言えない(そしていろんな意味であまりにバカすぎるあの邦題)。AIみたいに優等生が作ろうとする未来に対しては絵に描かれたような優等生の絵で対抗するしかないのだろうか。 そしてこういう正論をいう優等生が出て来ていたのにあんな未来になってしまったというのはどういうわけ? ていうぐるぐるが。

なにがあっても政権の命令に従うこと、ってプログラムされた頭だけはよさげな官僚どもにどうやって立ち向かうのか。ろくにアートに接したことも「アートとはなにか?」を考えたこともないようなロボットに、なぜ表現の自由は尊重されなければならないのか、を説くことの難しさと徒労感。優等生の正攻法でどうにかできるレベルではない、とかそういうことを考えたり。 「アート」を「人権」とか「倫理」とかに置き換えてみてもいい。けどもう、ほーんとにあほらしいのでみんな滅んじゃえ、くらいは思う。思った。

Mackenzie Davisさんは、”Tully” (2018)のTullyに続いてなんでも解決してしまう夢のような人だったねえ。

Daniを演じたNatalia Reyesさんは、”Pájaros de verano* (2018) - Birds of Passage - でも素敵だったのだが、この機にこの映画も日本で公開されますように。彼女、真剣になったときの表情とか、ちょっとAOCに似ていたりしない?

11.08.2019

[film] De bruit et de fureur (1988)

10月15日、火曜日の晩、BFIのMaurice Pialat特集から、これはJean-Claude Brisseauの監督作。 タイトルはフォークナーと関係あるのかないのか。英語題は”Sound and Fury”。

13歳のBruno (Vincent Gasperitsch)は母の暮らす団地に籠入りのカナリアと一緒に移ってくるのだが仕事が忙しいらしい母親はママっぽい台詞をメモ書き伝言しているだけで最後まで姿を現さず、転校生として学校に入るものの学年レベルは下だし、だいたいの時間は同じ団地の同じ棟の悪ガキ- 家族揃ってろくでなし - のJean-Roger (François Négret)  とつるんで悪いことしたり、でも少しだけ目にかけてくれる学校の女の先生に放課後に補講して貰ったりする。

Bruno自身もなにがしたいのか、これからどうしたいのかどうなりたいのかよくわかっていない半透明な状態でいつもぼーっとしていて、Jean-Rogerの仲間や家族がもたらす悪い世界と、学校の先生が教えてくれる遠くの広い世界と、いつも不在のママが示す空っぽと、たまに部屋の奥に現れる女神みたいな天使みたいな不気味なやつが投げやりに交錯していって、最後に世界の終わりというか世界が終わるというのはこういうことだ、みたいなことが一瞬で沸騰したかのように起こる。「響きと怒り」と共に。

最近のフランス映画にもよく出てくる郊外の団地に住む若者たちの焦燥とか野蛮とか荒廃がわかりやすく- 本人たちが何を考えているのか全くわからないという形で示されるわかりやすさ - 描かれていて、これって日本でも世界のどこでもある傾向だと思うのだが、やっぱりフランスのが強いねえ、と思ってしまうのは”Les Quatre Cents Coups” (1959) - 『大人は判ってくれない』があるからだろうか?


L’Enfance nue (1968)

2日、土曜日の午後、BFIのPilalat特集で見ました。 これがPialatの長編デビュー監督作。
英語題は”Naked Childhood” - 邦題は『裸の幼年時代』。プロデューサーにはFrançois TruffautやClaude Berriの名前がある。

10歳のFrançois (Michel Terrazon)は養子に出されていた家で黒猫を階段から落としたり(あれはやめようね)悪いことをしたので斡旋所に返品されて、今度はより年寄りの夫婦と少し年上のRaoulがいるThierry家に引き取られて、そこでは細めに面倒を見て貰ったりおばあちゃんのNanaがいるので少しはよいこになったかに見えたのだが、でもやっぱりだめでー。

親がいない - 捨てられたり戻って来なかったりの - 放置されてきた少年が(おそらくは)善悪の見分けのつかない状態で悪いことをしてしまう - 本人にはどこがどうしていけないのかわからないので悪びれることもなくて、困った子として孤立して、本人もどうせひとりだし、と向こうに行ってしまう。というありそうな物語は本当にそういうものなのか? っていう問いがここにはあって、そのレベルで納得したりさせたりって、映画がやってはいけないことではないか?  と、Pialatの映画は問うている気がする。子供は天使ではないし悪魔でもないし(女性もね)、ひとりひとり名前があるし気にかけている人は必ずいるし、そういう目で家族のありようを見つめることから始まったPialatの映画、いいな。

[film] Loulou (1980)

10月14日、月曜日の晩、BFIのMaurice Pialat特集で見ました。これがPialat特集の最初の1本。
7月のBarbicanでの特集- ”After the Wave: Young French Cinema in the 1970s”でも上映されていて、でもその時は見れなかったの。

Nelly (Isabelle Huppert)は代理店に勤務するAndré (Guy Marchand)と結婚して広いアパートに住んで経済的にはまったく問題なさそうなのだが、ディスコで出会ったどうみてもチンピラのLoulou (Gérard Depardieu)と仲良くなって彼のところで暮らし始めて、更に自分ひとりで部屋を借りてLoulouとその仲間もそこに出入りするようになり、やがてNellyは妊娠して..

堅気のAndréがいてやくざのLoulouがいて、ふたりの間にいるNellyの愛はAndré → Loulouへゆっくりと移っていくのだが、そこに明確な理由はないかんじだし、Loulouはやくざですぐ怒ったりするし、彼と一緒にいることですれすれの怖い思いもするのだが、なんだか離れられない。幸せとか愛とか、それらのスパークとか中毒とか、そういうのとは(たぶん)別の次元で互いに離れられなくなってしまうふたりのありようがとても生々しいし放っておいてくれ、だし。それってふたりの俳優のとんでもなさ故、なのかも知れないが、この映画が捕えようとしているのは悲劇でも喜劇でもない、その中間に吊るされた振り子の魂の行ったり来たりで、わかるわからないは別としてとても近しく親しく感じさせるなにかだよね、と思った。

Nous ne vieillirons pas ensemble (1972)​​​

10月29日、火曜日の晩、BFIのPialat特集で見ました。英語題は”We Won't Grow Old Together”。

Catherine (Marlène Jobert)とJean (Jean Yanne)のカップルがいて、一緒に暮らしているのか彼のところに彼女が来て泊まったりしているだけなのかわからないのだが、付き合い始めて長い時間が経っているらしいふたりの今は余り仲がよくないようで、彼は彼女にすぐキレて悪態ついて引っ叩いたりするし、彼女は彼に一緒にいても楽しくない、ってはっきり言うし、彼の暴力を知っている彼女の両親も明らかに彼を嫌っているし、彼も彼女のことを諦めて昔の彼女とよりを戻したりしているし、でもやっぱりCatherineと結婚したいようで指輪を持っていったりすると当然受け取って貰えず、じわじわストーカーみたいになっていって、そんなでも彼女は彼に誘われたりすると一緒に海に行ったりするので、だらだら続いていく互いにとってたいへんよくない関係 - 人生相談に行ったら即座にやめなさい、って言われるような - の見本、みたいのが極めて細密かつリアルに描かれていて、その皮膚レベルで本当にありそうなずるずる感がすごい。どうしろっていうの? とか。

“Loulou”もそういうやつだと思うのだが、作劇として破局とか破滅とかを持ち込むことが簡単なところなのに敢えてそうせずに、どこまでもその関係を泳がせて漂わせておく、そうすることで彼らの表情や息遣いがすぐそこにあるものとしてずっと残って、それってどういうことなのだろう、そこに普遍性のようなものを見いだせるとして ... ?

永遠の愛とか、愛の普遍性、みたいのは割とドラマになるけど、ここで描かれているようなどこまでも救われない関係のような、剥がれにくいかさぶたみたいなのも、十分にそういう生きて呼吸しているなにかで、そういうところにだって愛はあるんだから、とか。

[film] The King (2019)

10月13日、日曜日の夕方、CurzonのVictoriaで見ました。LFFでも上映されて、Netflixのだけど映画館でも少しだけかかっていた。

どうでもよいけど、昨年まったく同名のドキュメンタリーフィルムがあって、そこでの”The King”はElvis Presleyだったのね。アメリカでは、やはりそうなるか。
史実で、シェイクスピアの作品をベースにしている、と。そうなの?

Henry Prince of Wales (Timothée Chalamet) は父のKing Henry IV (Ben Mendelsohn)からお前は後継ぎではないよ、と言われて本人もべつにそんならいいよ、って思っていたのだが、後継のはずだったThomas of Lancasterが戦いであっさり亡くなり、父も病気で死んでしまったのでKing Henry Vになるの。

で、隣のフランスが戴冠祝いにボール(ほんとただのボール)を送ってきたり暗殺者を送りこんできたり、なめてんのかおら、って気に食わないのでFalstaff (Joel Edgerton)とみんなで乗りこんでいって、Dauphin of France (Robert Pattinson)とぶつかって勝って、Catherine (Lily-Rose Depp)を貰うの。それだけなの。2時間超の上映時間とは思えない薄さ。

野望とか徳とか民を思うこころ、みたいな“The King”に求められる像からは遠く離れて、ここでのHenry Vはひたすら不機嫌にいきがる不良のガキで、最初の方のHotspur (Tom Glynn-Carney)の取っ組み合いもDauphinとの決闘も原っぱでガキとか犬とかが喧嘩するみたいなかんじのおらおらしたやつでしかない。別にいいけど。

戦闘シーンは”Game of Thrones”を意識したらしいのだが泥まみれのぐじゃぐじゃなだけで、でもリアリティとかいうなら『湖のランスロ』(1974)を見てからこい、と言いたいし、Timothée ChalametとRobert Pattinsonの対決のとこは、場内みんなで吹いてしまうようなあれで。ギャグかよ。 みんながわあわあ言ってるあの髪型にしてもさー。

あと、Falstaffってあんなかっこよいかんじにしていいの?(Joel Edgertonが脚本も書いている)

Laurence OlivierがHenry Vを演じた”Henry V” (1944)を見たいなー、と思ったら今週Southbankでオーケストラ伴奏付きででっかくやるのね。でも仕事で行けないや。


Maleficent: Mistress of Evil (2019)

10月19日、土曜日の夕方、Picturehouse Centralで見ました。族対決という同じようなカテゴリ、かしら。

前作から時間が経って、Princess Aurora (Elle Fanning)はThe Moors(ってポルトガルにあるあれ?)のQueenとしていろんな化け物とか妖精とかに慕われていて、Maleficent(Angelina Jolie)とDiaval (Sam Riley)はそれを背後から見守っていて、隣の国UlsteadのPrince Phillip (Harris Dickinson)が求婚してきたので受けて、彼の父と母- Queen Ingrith (Michelle Pfeiffer)のところにMaleficentを連れて挨拶に行ったらQueen Ingrithはなにか気に食わなかったのか癇癪おこしてMaleficentをぼろぼろにして招きいれたMoorsのいろんな連中を一網打尽にして、Maleficentは鳥人族みたいなのに救われて充電してみんなして反撃するの。それだけなの。

気に食わないのならふつうに喧嘩ふっかけてふたりでぼかすかやりあえばいいのに間に結婚とか挟むもんだからみんな大騒ぎになって怒りが膨らんでそれが民族間に飛び火して、でもこれってただの嫁姑問題みたいなやつじゃないのか、そんなの犬も食わないからヤギに、とか。

前作の方がまだ解る気がしたのは古典的な愛と裏切りの線上に物語が転がっていったからだと思うが、今度のはそこらの化け物みんな憎し、でそんなのだめに決まっているからなんか乗れない。ディズニーならなんでそれがだめなのか、ちゃんと説明すべきだと思うし、Ingrithひとりの性悪とかヘイト騒ぎにしちゃっているふう(女ってこわいわ~で終わり)なのもどうなのか、って。

あとね、彼はカラスなのかクマなのか。

11.04.2019

[film] La Maison des bois (1971)

先月からBFI Southbankで始まった特集 “Maurice Pialat and the New French Realism”は、Pialatの作品だけでなくて彼の周辺のJean-Claude Brisseau, Claire Denis, Cyril Collard, Olivier Assayas, Arnaud Desplechinといった作家の作品もカバーしていて、見始めたらどれもおもしろくてたまんなくて、とにかくPialatの初期作品とかものすごくて、自分の中ではJohn Cassavetesくらいのところまで来ていて、できる限り見たい。 けど時間が...

これは10月26日の土曜日に上映があって、でもぜんぶ見たら364分で一日なくなってしまうので、まず午後に、part1-3まで(156分)を見て、それでおもしろかったら後のも見ることにしようと思ったら、あまりに感動して、これは残りのも絶対見なきゃだめでしょ、になって、part4-5を29日-火曜日の晩に、part6-7を31日-木曜日の晩に見た。 こんなのがTVで流れていたなんて。 TVシリーズとしてはR. W. Fassbinderの”Berlin Alexanderplatz” (1980)に匹敵するくらい歴史に残る、歴史を描いたドラマだと思う。

英語題は”The House in the Woods”。 Pialatが46歳の時に撮った全7話からなるTVシリーズ。 それまで彼が撮った劇場用作品は”L’Enfance nue” (1968)のみ。

第一次対戦時のフランスの田舎で、小さな子供たちの学校があって(Pialatが先生役をしている)、そこから3人の子供達がお家に帰って、母というほど若くはなく祖母というほど老いていない女性からおやつを貰う。やがて彼ら3人は大戦でこの地に疎開してきている子供達であることがわかって、物語は3人の中でもいろんないたずらを含めて元気いっぱいで家族から特に注意を払われているHervé (Hervé Levy) - 他の2人には定期的に訪ねてくる母親がいるのにHervé にはいないの - を中心にいろんなエピソードが重ねられていく。

家には猟師をしているパパAlbert (Pierre Doris)とやさしいママJeanne (Jacqueline Dufranne) と息子のMarcelと娘のMargueriteがいて、やがてMarcelは兵隊として前線に向かい還らぬ人となるのだが、戦争は終わり、子供たちは実親の元に引き取られて、Hervéも再婚した父 - 義母にはHervé と同じくらいの齢の娘がいる - が暮らすパリに越していく。

パリでのHervéには新しい家族の元で当然のようにいろいろあったりして、お別れしてきた昔の家ではMarcelを喪い、大好きだったHervéもいなくなってしまったJeanneが寂しさのあまり病の床について、Hervéは家出してお見舞いに向かうの。

パパが再婚することを知ったHervéが癇癪おこして手紙をぜんぶ捨ててしまったので子供に会いにきたのに会えずに途方に暮れるふたりのママと楽しくピクニックしていた家族のすれ違いとか、子供たちがフランスとドイツの戦闘機の空中戦で落ちてきたドイツ機の操縦席にあるドイツ兵の遺体をこわごわ見るところとか、土地のお屋敷に住む侯爵とHervéとの交流とか、大好きなシーン(これから何度でも見返したくなる)がいっぱい。

カメラはHervéを多く映すけれど、彼の辛さや想いを決して代弁したり語ろうとしたりしない。それはかわいそうなJeanneに対しても誰についてもそうで、そうすることで距離感が際立って、車や列車で遠ざかっていくシーンがどこまでも目の奥に残るの。布をかけられたドイツ兵の遺体とその傍らに立っているフランス兵の間の距離とか、Marcelの幽霊とか。それらのカメラの置き方とかゆっくりしたズームとか。 今からだいたい100年前の人々の暮らしがこんなふうにどこまでも忘れがたいものに。

あとはフランスの田舎の美しい風景や人々で、これはNew Yorked誌のRichard Brody氏も書いているように、ルノワール - オーギュストとジャンの両方 - がたっぷり入っていて、どこを切ってもそんなふうに見えてしまう。

毎回のエンディングに流れるのはラヴェルの声楽曲 ”Trois beaux oiseaux du paradis” -『3羽の美しい極楽鳥』で、大好きな曲になった。

11.02.2019

[film] The Last Black Man in San Francisco (2019)

10月27日、日曜日の昼にPicturehouse Centralで見ました。
これも前日に見た”Monos”と同様、今年のSundanceでとっても話題になり、LFFでも上映されていた。配給はA24。 
原作はJimmie FailsとJoe Talbotのふたり、Joeが監督して、Jimmieが主演している。

San Franciscoのベイエリアに暮らすJimmie (Jimmie Faills)と友達のMont (Jonathan Majors)がいて、Montは祖父(Danny Glover)の世話をしたり介護士をしたりしながら絵を描いたり芝居の脚本を書いたり、JimmieはMontの家でごろごろしたりスケートボードで街を滑っていったり、どちらも忙しく仕事をしているかんじはなくて、ぼーっとしながら街の人々や世の中の成り行きを眺めたりしている。

Jimmieの自慢はFillmore地区の道路沿いに建つヴィクトリア様式の館で、それは界隈に日本人コミュニティがあった頃、彼の祖父が1946年に建てたものだという( 彼は"The First Black Man in San Francisco"だったんだぜ)。Jimmieが子供の頃に過ごしたこの家に今は白人の夫婦が住んでいて寄っていくと追い払われたりしていたのだが、ある日彼らが出ていってしまったので、地元の不動産屋に聞いてみると、あれは市の管理下に置かれるのではないか、と。

それを聞いたJimmieは叔母のところにあった昔の家具とかを勝手に運びこみ、かつて住んでいた家の内装を再現して暮らし始める。のだがそういう幸せな状態もそんなに続くものではなく …

地代が高騰して中心部にはとても住めなくなり、かつてあったコミュニティは得体の知れない汚染の懸念いっぱいの海岸沿いに追いやられ、職もなくうだうだしている若者もいっぱいいて - 一人は突然殺されてしまったり、どっちを向いてもしょうもない世の中、なにを拠り所にしてどんなふうに渡っていけばいいのか、ていう問いに対する例えばこんなの..

タイトルの”The Last Black Man in San Francisco”は、立退くことになった彼らの館で最後に一回だけMontが上演するひとり芝居のタイトルで、それもあんまし..   これ、自分こそが最後の一人なりー!、って大見得切って飛び込んでいく、というよりもどこに居たって行ったって自分は最後の一人になるしかないのだな、という決意と覚醒が語られるはずだったのだが...

むかし、若い頃ってどこでもどんなふうにでも生きていけると思ったりしたものだが、長いこと住んでいたりずっと眺めていたりしていた建物とか景色が失われることの重み、のようなものがわかるようになってきて、それって2010年代に入って失われた何かと関係のあることではないか、と思ったり。
この映画でのふたりの土地や建物に対する想いや目線って、単なる郷土愛とか思い出作りとかそういうのとは違う、もっと切実で彼らの生に直結した何かなのではないか。

そういう点から今年に入ってノートルダム寺院が焼け落ちて首里城が焼け落ちて、台風や大雨で沢山の家がなくなり(ホームレスが排除され)、San Franciscoの山火事では..   そういう年に作られた映画として記憶されるべき、なのかもしれない。

ヒップホップががんがん流れてもおかしくない世界かもしれないのに、音楽はJoni Mitchellの”Blue”だったり、みんなが知っている”San Francisco (Be Sure to Wear Flowers in Your Hair)“ - 歌うのはMichael Marshall - だったりするの。

昔の映画との参照関係、でいうと”Ghost World” (2001)は間違いなくあって、Ghostがバスに乗って導く世界は、まだあるのだと。 生者はなにもしてくれないし、生者が設定する家賃で暮らせる場所はもうどこにもないんだ。

何度か行って、大好きなSan Francisco、という場所について思うところもいろいろあったけど、いいや。 そうそう、Jello Biafraさんがセグウェイに乗った街ツアーのガイドとして出てくるの。あれ、本当にやってくれたらなー。

11.01.2019

[film] Monos (2019)

10月26日の土曜日の晩、Picturehouse Centralで見ました。

今年のSundanceをはじめ、各国でいろんな賞を獲りまくっていて、LFFでも(そういうのあったの知らなかったけど)”Best Film”ていうのを受賞している。 ブラジル人監督Alejandro Landesによるコロンビア – アメリカ映画。

コロンビアの山奥の高地で”Monos”と呼ばれる若い男女8人くらいの小隊が、小さい筋肉ムキムキの男から厳しく激しい軍事訓練(取っ組み合いとか)を受けている。隊のひとりひとりは”Wolf”とか”Lady”とか”Rambo”とか”Bigfoot”とか呼ばれていて、中にひとりだけ様子の違う”Doctora”と呼ばれる年長の女性がいて、やがて彼女は人質のように囚われていることがわかる。あとホルスタイン牛を一頭あてがわれてこいつも守って連れていくように、と。

上からの命令は絶対服従のようなのだが、それがいなくなるとみんなハメを外して、夜明けにハイになって機関銃をばりばりやっていたら牛に当たって死んじゃって、それで責任を感じたりいろいろ考えこんだりしていたリーダーのWolfが自殺して、連帯とかそんななにかが崩れていくかんじになり、死んだ牛の肉でバーベキューをしてそこらに生えていたキノコを食べたら(食べちゃうんだ..)みんな楽しくなって…  でもそうしていると敵(誰だかどこからかしらんが)から襲撃にあったり、Doctoraに逃げられたり、突然上官が現れたりいろいろ大変で、白目で見たり見られたり仲間割れしたり、それぞれが必死のサバイバル合戦になっていく。

彼らがどこに属するどういう組織の軍なのか、なんの目的でどうやって集められた連中なのかが明らかにされないまま、中高生くらいの若者たちで構成された小隊が任務を遂行していく途中で直面する困難とか乗り越えとか、そういうところ以上に集団行動の規範(縛り)とそこからの逸脱を繰り返しながら野生とか本性(みたいなもの)を貪る快楽(?)に目覚めていく若者たちの姿が生々しく捉えられていて、それはMonos – サル としか言いようがない剥きかた剥かれかたで、悪くないかも。

都会とかスラムの隅で凶暴かつ無軌道な若者が暴れまわる、というありがちなドラマとも違って、ジャングルで武器はひと揃い持っているけど、持っているが故に敵味方の見分けはだいじで、いろんなのが隣り合わせなのだがどっちみち暴れて騒がないと殺されてしまう可能性が高い、そういう状況下のドラマとして、誰かが評していたように”Apocalypse Now on shrooms” - キノコ入りの地獄の黙示録 – というのは余り外れていないかも。『闇の奥』ならぬ『極彩色の彼方』とか。
いまやどこまでも人の手は入っているし追ってくるので、「黙示録」なんてありえなくなった世界のー。

若者たちひとりひとりの顔がとても真剣でよくて、彼らにとってもほぼノンフィクションに近い状態のドラマとしてあったのではないか。 自分としてはぜったい関わりたくない、遠くから見ているだけで十分の世界だけど。

あと、Mica Leviの音楽がすごい。鳥の声や個々の息遣いと同期しながら可聴帯域の周辺を暴れまくっていて、“Jackie” (2016)ではちょっとおとなしくなったかな、だったけど、”Under the Skin” (2014)のやばいかんじが全開で、この音楽のためだけにシアターで見たほうがよいかも。

自分は“The Breakfast Club” (1985) でじゅうぶんだわ。