9.19.2019

[log] Paris (1)

14日の土曜日、日帰りでパリに行ってきた。オルセーでのBerthe Morisot展がもうじき終わってしまうから。 ほんとうはもう少し前に行くべきだったのだがこの夏のパリは半端なく暑そうだったし、自分の夏休みとかも入れてしまっていたし、消去法でこの日にちになって、ここがだめだったら平日に会社休むか、くらいになっていた(なんだかずっと時間がなさすぎ)。

いつもは電車で行くのだが週末朝のユーロスターは結構値段が高いので行きは飛行機にした(半額くらい)。でも帰りは瓶だの液体だの生ものだの買いこんだ荷物がいろいろあるので電車にするの。
飛行機でパリに渡ったのは初めてだったのだが、フランス入国(スタンプ)の待ちの列、パリ市内行きの電車のチケットを買う列が結構長くて時間くって、思っていたほど楽ではなかったかも。どっちもどっちかなあ。

朝5時過ぎに家をでて、オルセーの列に並んだのが11時少し前。飛行機に乗っていたのは正味1時間ちょっとだけだったのに。 天気はかんかん照りで気温は25℃くらい。 ぜったいまだ夏のまま。

Berthe Morisot

終わってしまう1週間前のMorisot展は結構混んでいた。 前回来たときはRenoir展 - “Renoir père et fils:  Peinture et cinéma” - をやっていたスペース。女性(たち)、女性と子供、子供(たち)を描いたものが殆ど、風景画が少しだけ。 明るい光の元、軽くブラッシュしたタッチの油彩が多くて、人物たちは向こう側が透けて見えるくらい透明でこちらを向いていたとしても表情のはっきり確認できないものもあったりして、その数の多さと、この透度ってなんなのだろう、と。

例えばこれと同じような透明さ儚さを感じさせる絵画って、自分にとってはムンクだったりするのだが、彼とはまったく正反対の場所から真逆の眼差しや想いで存在の希薄さを見つめている気がする。その対象がほんとうにそういうものだったとしても。

そしてその希薄さって当時の印象派の連中が印象の名の下に押しやる素ぶりをしつつ、実はくろぐろと浮かびあがらせようとしたむっちりとした輪郭の実存たちとは明らかに異なる、本質的に透明ななにかで、これらに「印象」のラベルを貼って、しかもそこにわざわざ「女性の」なんてつけてしまうことは冒瀆に近いのではないか、って。むかし、ドイツ(確かフランクフルト)で、印象派の女性たち、のような展覧会があって、そこにはMorisotの絵も入っていたのだが、そこで感じた微妙な違和感がこうした単独の展示を見ると、そんなに間違っていなかったのではないか、って。

The Fear of Loving. Orsay through the eyes of Tracey Emin

Tracey Eminさんの個展は今年の2月にWhite Cubeで見た”A Fortnight of Tears”がなかなか重かった(よい意味)のでどうしよう、だったのだがMorisot展の真下でやっていたので見る。彼女のシンプルなドローイングと詩と彼女がオルセーのコレクションから選んだ古今のドローイングを。ドガのエロチックなのとか、Théophile Steinlenの猫(数匹)とか。
“I have no fear to be alone - My Fear of loving is losing you.” ていう壁の一節がしみる。

日帰りでもランチくらいはきちんと食べたい、ということで小走りでLa Fontaine de Marsっていうビストロに向かい、かたつむりとカスレ戴いてお腹いっぱいになって次のMusée Marmottan Monetに。

いったん切りましょう。

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