8月20日、火曜日の晩、CurzonのDocHouse(ドキュメンタリーフィルム専門のシアター)で見ました。
イスラエルとエジプトの間に挟まれ海辺に面した帯状(25mile)の街に暮らす人々の日々の暮らしや眼差しをとらえたもの。
父親が3人の妻との間につくった40人の子供たちのうちのひとりの少年とか、チェロを習っている少女とか、タクシーの運転手とか、救急隊員の人とか、さまざまな階層の人々が家族と共に暮らしていて、これ自体は珍しいものではないのだが、この地帯から一切外に出ることが許されていない、という点はやはり特殊で、海に向かって叫んでも、外海に出たとしてもそこには境界があって、ちょっとでも離れて怪しい動きをするとすぐに警備隊がやってくるので、地域自体がまるごと牢獄のようになっている。
ふつうに大きくなったら漁船の船長になりたいという14歳の少年がいて、いつか壁を超えて世界を知ることを夢みて音楽を学ぶ少女がいて、彼女のような女性を輝かせようとがんばるファッションデザイナーのおばさんがいて、すべてを諦めて海を見つめてばかりのおじさんがいて、ずっと仕事はないしすることもないので、一日中壁の方に向かって石を投げ続け、その仕返しで撃たれたりする(でも懲りない)若者たちがいて、撃たれた彼らを病人に運ぶのに忙しくて家に帰っていない救急隊のおじさんがいて、海は痩せていて小魚しか捕れなくて、それをまとめて網(小さくて網目から落ちそう)で焼いてみんなでつまんで食べたり、希望があって絶望があって諦念があって、これを我々と一緒だよね、って括ってしまうのはやはりガサツというもので、彼らをそんなふうにさせてしまっているおおもとはなんなのか、どこまでも出口はないものなのか、外側からなにかできることはないのだろうか、等は考えていかないし目をそらしてはいけないよね。
だってこれって単に地理的な条件や動かしようのない何かがもたらしたものではなく、純粋に今の政治と地勢がもたらしたもので、それは変えられるし変えなければいけないものだと思うから。人が人を追いだす、閉じこめる、差別する、弾圧する、これって今や世界中でドミノのように(数やなんかの力が強いところから弱いところに向かって)起こっていて、それは絶対に間違っていることだから。
そういうのとは別に、夕暮れ時の海辺とか、海で水浴びする馬たちとか、深い水の色とか、どれも鮮やかに切り取られていて、でもそこに美はあると - これらを美しいと言ってしまってよいのだろうか、という問いと共に並べられてしまう風景たち。ここの風景を”Gaza”と呼ぶとき、その横に悲しみや苦しみの記憶がくっついてしまうのはとても悲しい。
最後の方ではイスラエル軍の爆撃で死者も出てしまったりするのだが、それはずっと起こり続けていることで、今もごくふつうにあって、それってやはり異常すぎるよ、って。
これを見たから何かをわかったようにはなりたくないけど、でも見ること(読むこと)くらいしかできないや、ていうもやもやの中にずっといる。 シリアの”For Sama”も見ないと。
9.04.2019
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