9月に見たその他のあれこれのうちいくつかを。
Stanley Kubrick: The Exhibition
1日、日曜日の午前にDesign Museumで。終わりに近づいているせいか時間制のチケットもほぼ売り切れ状態だった。
最初の方が映画の企画からリリースまでの流れをざーっと追うようにカメラとか編集台とかポスターとか、おもしろかったのはボツとなった”Napoleon”の準備で用意した大量の文献とかお買い物リストとかの物量。 Jack NicholsonのNapoleonとAudrey Hepburnの Josephine、見てみたかったねえ。
その後は”2001: A Space Odyssey” (1968)のラストのサイケなあれ(所謂"Star Gate" sequence)のスクリプトチャート?みたいなやつ(by Douglas Trumbull) あんな緻密に作り込んだものだとは思わなかった。その先は個々の作品毎に製作に関わるいろんな物が並べられていて、テーマはもちろん、常に新しい技術やデザインに取り組んでいたことがわかる。
挙げていけばきりがないのだが、”2001..” でHAL9000のデザインをIBMに依頼したらぜんぜんいけていなかった(うん、見るとたしかに)のでがっかりを伝える手紙、とか、”Barry Lyndon” (1975)で蝋燭の光だけで撮影するための特殊レンズを装着したカメラとか、そのための特製蝋燭とか、”Eyes Wide Shut” (1999)でNYのヴィレッジの街並みをLondonの街中に再現して撮影するために書き込まれた地図とか、でも”The Shining” (1980)のステディカムは置いてなかったかも。
彼の映画が好きで、ほんとうに愛しているひとが見たらたまんない内容だろうなー、って思いながら見てて、なんでそんなにのれないのかな? とか。 たぶん、映画を通して世界(観)を創造する構築する - そういうのに感動するとか、そういう方にあんま興味ないのかも、って。
21~22日の週末に、毎年恒例のOpen House Londonがあった。初夏のOpen Gardenに続くイベントで、普段はなかなか入れないような新旧なじみの建物に入れてくれる。昨年は意気込んだものの週末が両日とも大雨のひどい天気だったので諦めて、今年こそ、だったのに、予約開始の日 - 首相官邸(10 Downing Street)とか人気のところは事前予約とか抽選になる - をすっかり忘れてて、気づいたときはもう.. だった。 なので予約不要なところを観光客気分で少しだけ。
Foreign & Commonwealth Office
21日の土曜日に見たもの。外務省の建物。割と有名なやつなので、オープン前に並ぶ列も結構長かった。 ふつうにかっこよくて、こういうところで仕事したいなー(ワークスタイル云々よりも)、しかない。ダイバーシティにフォーカスしたパネルとかかっこよくて見入ってしまったり、建物よりオフィス見学みたいになる。 猫さんには会えなかったので、絵葉書買った。
Lancaster House
外務省からSt James's Parkを抜けていったところにある外務省管轄の官邸で、予約ツアーのみだったらしいのだが、なんとか入れてもらえた。ガイドの人によると、バッキンガム宮殿で撮影されているっぽいTVや映画のセットはだいたいここなのだそう。 TVだと”The Crown”も”Downton Abbey”もここ。 映画だと”King’s Speech”とか” The Young Victoria” (2009)とか、バカ映画なので皆さんはご覧になっていないかもしれませんが(そんな言わなくても..)、“National Treasure: Book of Secrets” (2007)でNicolas Cageが女王陛下の机をひっかきまわすシーンはここで撮られているのです、とか。
装飾とか全体に金ぴかなのだが映画のセットで使われそうなはりぼて感もあっておもしろかった。Queenが来た際に使われるトイレ、が隠し扉のような壁の奥にあって、へぇー だった - 結構狭くて小さいの。
Alexandra Road Estate
22日、日曜日のOpen Houseは天気もあまりよくなくて、午後は映画とかもあったので一箇所だけ、78年にNeave Brownがデザインした集合住宅に行った。同潤会アパートみたいなものかしら。
壁面が斜めに切られた昔の長屋のようなアパートが長くどこまでも続いていて昔の遺跡みたい。 既に誰も住んでおらず朽ちたようになっている部屋もあればまだ普通に人が住んでいるところもあって、Applyすれば住めるみたいだった。こういうの、Barbicanもそうだけど、機会があったら(まあ100%ないだろうけど)住んでみたいなー。エレベーターもちゃんとあるし、うちよりは楽だろうなー。
あと、ふらふら歩いているだけで猫3匹と会った。1匹は明らかに飼われている子で、2匹は不明。あんなふうに猫がいるならいいなー。
来年のOpen Houseは(まだいたら、だけど)、事前にちゃんとリサーチして、きちんと予約して臨みたい。
Pieter Bruegel the Elder: Two Monkeys, 1562
月の真ん中くらいにドイツに出張していて、19日、ベルリンの空港に向かう途中で時間があいたのでGemäldegalerie(絵画館)に寄った。 特に大きな企画展はやっていなかったのだが、この1枚だけ特別展示のような形で。 今年はブリューゲルの没後450年で、これは亡くなる7年前に描かれたもの。 鎖に繋がれた2匹の猿と、その向こうにアントワープの港が見えて、そこに込められた諺とか風刺があるらしいのだが、X線解析とかいろいろやって、どういう順番でどこがどう塗られていったのか、等を示している。400年前のお猿もびっくり、よね。
この絵画館に来るのは2回目で、やっぱりよいなー、だった。古典中心だけど、最近はどんな絵も見れば見るほど楽しくてしょうがない(のはなんでかしら?)。
Tate BritainのWilliam Blake展は、あと1~2回行ってからちゃんと書きたい。書く時間あれば。
明後日からLondon Film Festivalが始まる。 変なのが入りませんようにー。
9.30.2019
[dance] Akram Khan’s Giselle
23日、月曜の晩、Sadler's Wellsで見ました。English National BalletによるAkram Khanの”Giselle“ (2016)の再演。
いろんな点で見たかったし行きたかったやつにようやく。会場のSadler’s Wellsはダンスを中心に上演しているシアターで(ちなみにThe Fallの”I Am Kurious Oranj”の元となったMichael Clark & Companyのバレエが披露されたのもここ)、そのうちいかなきゃ、と思いつつなぜか機会がなかったところにようやく行けた、ので嬉しかった。(ここ、NYだとThe Joyce Theater、にあたるのかしら?)
この秋はどういうわけかロンドン近辺だけでも3つのGiselleがかかるそう - Birmingham Royal Balletのクラシックと、South AfricaのDada Masiloのと、Akram Khanのこれ- で、恋を妨害されて狂気に落ちて亡くなって(殺されて)、黄泉の世界まで追いかけてその恋に殉じようとする(けどそれすらも許されない)若い恋人たちの物語がなぜいま、普遍的ななにかを纏っているかのように見えるのか? というのは考えてみる価値あるかも。 なぜGiselleは死ななければならなかったのか、なぜGiselleはAlbrechtを救おうとしたのか、そういった局面で「ダンス」はどんな意味を持ちうるのか、などなどなど。
ふたりの恋を踏みつけるのはクラシック版ではのどかな荘園を管理する支配階級の貴族だったが、ここでは高い壁に覆われて囲われた工場のような隔絶・隔離された空間で、そこで奴隷のように働いているのは移民たち - 冒頭はすさまじい轟音と共にでっかい壁が降りてきて、その表面には無数の手のひらの血痕が刻まれていて、監視の網がどこまでも張られていて逃げようがない。
そこでAlbrecht (Isaac Hernández)とGiselle (Alina Cojocaru)が出会って、見るからに壊れそうな愛が生まれてGiselleは妊娠までするのだが、すぐにそれは集団と個の力学のなかで軋轢と制裁を呼んですり潰されて、という第一幕と、Giselleを追って現れたAlbrechtが精霊たちによってたかってリンチされ、Giselleによって命だけは救われるものの、どっちにしても壁の向こうに逃げることはできずに捨てられて、という第二幕と。
クラシックのプティパ版と比べると、設定からしてモダンで、それもディストピア方面に向かったモダンで、それを通してモダンのあれこれ紙一重の野蛮さ、残酷さがくっきり浮かびあがる。精霊の持っていた魔法のスティックは腹部を貫く槍となり、愛撫は常にその槍(ペニス)をかわしたり受けとめたり撫でたりの動作と紙一重で、どちらに転ぶかわからない、あと数ミリずれたらという刹那 - 生きるか死ぬか - とともにあり、誰もその原則から外れることは許されない。そしてダンスとはそもそもそういうものだったのではないか、という原理・原始への回帰。 モダンの抱えた野蛮、モダンこそが野蛮の極みではないか .. という視点は1月に見たKhanの”Until The Lions”にもあった気がする。 そしてそれを転覆する可能性は。
Vincenzo Lamagnaの音響と音楽は場内の隅々まででっかく響いて荒れまくって圧巻で、特に太鼓の音がものすごいので休憩時間にピットをのぞいてみたら、ほぼぜんぶ生楽器なのだった。そしてオリジナルのAdolphe Adamの旋律がところどころきれぎれに、霞の向こうから聴こえてきて泣きそうになったり。
来年4月にここで上演される彼の”Mary Shelley’s Frankenstein”がものすごく楽しみだねえ。
いろんな点で見たかったし行きたかったやつにようやく。会場のSadler’s Wellsはダンスを中心に上演しているシアターで(ちなみにThe Fallの”I Am Kurious Oranj”の元となったMichael Clark & Companyのバレエが披露されたのもここ)、そのうちいかなきゃ、と思いつつなぜか機会がなかったところにようやく行けた、ので嬉しかった。(ここ、NYだとThe Joyce Theater、にあたるのかしら?)
この秋はどういうわけかロンドン近辺だけでも3つのGiselleがかかるそう - Birmingham Royal Balletのクラシックと、South AfricaのDada Masiloのと、Akram Khanのこれ- で、恋を妨害されて狂気に落ちて亡くなって(殺されて)、黄泉の世界まで追いかけてその恋に殉じようとする(けどそれすらも許されない)若い恋人たちの物語がなぜいま、普遍的ななにかを纏っているかのように見えるのか? というのは考えてみる価値あるかも。 なぜGiselleは死ななければならなかったのか、なぜGiselleはAlbrechtを救おうとしたのか、そういった局面で「ダンス」はどんな意味を持ちうるのか、などなどなど。
ふたりの恋を踏みつけるのはクラシック版ではのどかな荘園を管理する支配階級の貴族だったが、ここでは高い壁に覆われて囲われた工場のような隔絶・隔離された空間で、そこで奴隷のように働いているのは移民たち - 冒頭はすさまじい轟音と共にでっかい壁が降りてきて、その表面には無数の手のひらの血痕が刻まれていて、監視の網がどこまでも張られていて逃げようがない。
そこでAlbrecht (Isaac Hernández)とGiselle (Alina Cojocaru)が出会って、見るからに壊れそうな愛が生まれてGiselleは妊娠までするのだが、すぐにそれは集団と個の力学のなかで軋轢と制裁を呼んですり潰されて、という第一幕と、Giselleを追って現れたAlbrechtが精霊たちによってたかってリンチされ、Giselleによって命だけは救われるものの、どっちにしても壁の向こうに逃げることはできずに捨てられて、という第二幕と。
クラシックのプティパ版と比べると、設定からしてモダンで、それもディストピア方面に向かったモダンで、それを通してモダンのあれこれ紙一重の野蛮さ、残酷さがくっきり浮かびあがる。精霊の持っていた魔法のスティックは腹部を貫く槍となり、愛撫は常にその槍(ペニス)をかわしたり受けとめたり撫でたりの動作と紙一重で、どちらに転ぶかわからない、あと数ミリずれたらという刹那 - 生きるか死ぬか - とともにあり、誰もその原則から外れることは許されない。そしてダンスとはそもそもそういうものだったのではないか、という原理・原始への回帰。 モダンの抱えた野蛮、モダンこそが野蛮の極みではないか .. という視点は1月に見たKhanの”Until The Lions”にもあった気がする。 そしてそれを転覆する可能性は。
Vincenzo Lamagnaの音響と音楽は場内の隅々まででっかく響いて荒れまくって圧巻で、特に太鼓の音がものすごいので休憩時間にピットをのぞいてみたら、ほぼぜんぶ生楽器なのだった。そしてオリジナルのAdolphe Adamの旋律がところどころきれぎれに、霞の向こうから聴こえてきて泣きそうになったり。
来年4月にここで上演される彼の”Mary Shelley’s Frankenstein”がものすごく楽しみだねえ。
9.28.2019
[film] For Sama (2019)
22日、日曜日の午後、”Le Fantôme du Moulin-Rouge”が終わった直後にBFI内を走り抜けて別のシアターで見ました。ぎりぎり始まったところだった。
シリアのドキュメンタリーというと、2017年の”City of Ghosts”があり、あれはRaqqaの町を追われて欧州に移り住んだジャーナリスト達の話だったが、これの舞台はAleppoの町で、2012年~2017年迄のシリア内戦下で最後まで逃げずにカメラを回し続けた女性 - Waad al-Kateab(ともうひとりの監督Edward Watts)の話。
”City of Ghosts”は、遠隔で細々と入ってくる情報から懸命に現地の惨状、自分たちに迫ってくる危機を伝えようとするものだったが、こちらは現地のどまんなか、日々の砲撃にさらされながら目の前に広がり、崩れ、人が殺されていく惨状を可能な限りカメラでとらえようとする。
2012年の学生デモの頃から政権に対する抗議が始まって、そこで医師のHamzaと出会って結婚して娘のSamaができて、更にもう一人できて、でも2016年にはアサド政権が町を制圧してしまったので家族でAleppoを追われてしまうまで。 とにかく見ていて本当に悲しくてつらくて、周りもみんな泣いてべそをかきながら見ていた。でも目をそむけてはいけない。
病院には次々に怪我人や遺体が運び込まれて、床はずっと血まみれ、赤ペンキで塗られたよう(塗るのは引き摺られる傷ついた身体)になってて、壁は穴、どころかごっそりなくて、被害者の多くは子供たちで、みんな泣き叫んでいて、その声に被さるように爆撃の轟音や振動はずっと続いて昼も夜も止まない。そうして子供を失って泣き叫ぶ母親にもカメラは向けられて容赦ない。
なんでそこまでしてカメラを回し続けるのかというと、この進行中の、独裁政権による人為的な地獄がどれだけひどい底なしの地獄であるかを正確に記録し世界に伝える必要があって、それができるのはカメラを持った彼女だけだから。そして我々は数年前からこの地獄が続いていること、それを国際社会は認識していながら放置(放置は支援と同じ)し、あるものは金目当てで支援し、結果延々長期化させていることを知っていて、それに関して(自分は)はっきりと責任があるので、これを見て刻んで、断固Noと言う必要がある。 ロシアと経済面でパートナーになり、お金をじゃぶじゃぶ落としまくってご機嫌とってばかりの日本はこれに関しては明確に加担者で、悔しくてたまらない。なんでそんなに企業とお金のことばっかりなの?くそじじい共、頭の芯から腐っているとしか思えない。Gretaさんじゃなくても地団駄ふむくらいに頭にくるし。世界の片隅かもしれないけど、これは今、今も進行形の地獄なのだ。
そんな世界の唯一の希望としてSama(アラビア語で空 – そらっていう意味。怖い飛行機が飛んでこないような空になればいいね、って)が生まれて、彼女は本当に美しいったらなくて、彼女が生まれて最初に対面するときも、ママは笑いかけることができずに泣いてしまう。でもSamaのために彼女はなんとしても生き延びねば、って決意して、実際にそれに沿った決断(Aleppoから出ること)をする。 今の性根の腐った連中ばかりのにっぽんではそんな状況下でなんで子供を作るんだ(ふたりも)とか平気で言うのだろうが、この映像を見てから言え。子供はなんかの目的のために生まれてくるんじゃないんだ。 そんなに高みの見物は楽しいか卑怯者。
感情に訴えすぎ、という人がいるかしら? そうは思わなくて、今は感情だろうが政治だろうが経済だろうが文化だろうが、いかなる手段を使ってもこの虐殺と暴虐を止めなければいけないの。 数千人はいるであろうSamaのために。
最後のAleppoからの脱出のシーンはずっと拳を握って祈っていて、関所を抜けたらみんなでふーっ、て言う。 同様に爆撃にあって倒れた9ヶ月の妊婦から赤ん坊を救いだして、諦めずにずっとさすったり叩いたりして、真っ白だったその子の目が開いた瞬間 - なんか映画みたいだった - も、みんなでふーっ、だった。
あと、隣に暮らすおばちゃん(彼女と子供たちがまた素敵でさー)が柿をひとつ貰って大はしゃぎするところとか、猫が出てくるところとか、ほっとするところもあるの。
お願いだから、こないだの”Gaza”と並べて、日本でも公開されてほしい。
シリアのドキュメンタリーというと、2017年の”City of Ghosts”があり、あれはRaqqaの町を追われて欧州に移り住んだジャーナリスト達の話だったが、これの舞台はAleppoの町で、2012年~2017年迄のシリア内戦下で最後まで逃げずにカメラを回し続けた女性 - Waad al-Kateab(ともうひとりの監督Edward Watts)の話。
”City of Ghosts”は、遠隔で細々と入ってくる情報から懸命に現地の惨状、自分たちに迫ってくる危機を伝えようとするものだったが、こちらは現地のどまんなか、日々の砲撃にさらされながら目の前に広がり、崩れ、人が殺されていく惨状を可能な限りカメラでとらえようとする。
2012年の学生デモの頃から政権に対する抗議が始まって、そこで医師のHamzaと出会って結婚して娘のSamaができて、更にもう一人できて、でも2016年にはアサド政権が町を制圧してしまったので家族でAleppoを追われてしまうまで。 とにかく見ていて本当に悲しくてつらくて、周りもみんな泣いてべそをかきながら見ていた。でも目をそむけてはいけない。
病院には次々に怪我人や遺体が運び込まれて、床はずっと血まみれ、赤ペンキで塗られたよう(塗るのは引き摺られる傷ついた身体)になってて、壁は穴、どころかごっそりなくて、被害者の多くは子供たちで、みんな泣き叫んでいて、その声に被さるように爆撃の轟音や振動はずっと続いて昼も夜も止まない。そうして子供を失って泣き叫ぶ母親にもカメラは向けられて容赦ない。
なんでそこまでしてカメラを回し続けるのかというと、この進行中の、独裁政権による人為的な地獄がどれだけひどい底なしの地獄であるかを正確に記録し世界に伝える必要があって、それができるのはカメラを持った彼女だけだから。そして我々は数年前からこの地獄が続いていること、それを国際社会は認識していながら放置(放置は支援と同じ)し、あるものは金目当てで支援し、結果延々長期化させていることを知っていて、それに関して(自分は)はっきりと責任があるので、これを見て刻んで、断固Noと言う必要がある。 ロシアと経済面でパートナーになり、お金をじゃぶじゃぶ落としまくってご機嫌とってばかりの日本はこれに関しては明確に加担者で、悔しくてたまらない。なんでそんなに企業とお金のことばっかりなの?くそじじい共、頭の芯から腐っているとしか思えない。Gretaさんじゃなくても地団駄ふむくらいに頭にくるし。世界の片隅かもしれないけど、これは今、今も進行形の地獄なのだ。
そんな世界の唯一の希望としてSama(アラビア語で空 – そらっていう意味。怖い飛行機が飛んでこないような空になればいいね、って)が生まれて、彼女は本当に美しいったらなくて、彼女が生まれて最初に対面するときも、ママは笑いかけることができずに泣いてしまう。でもSamaのために彼女はなんとしても生き延びねば、って決意して、実際にそれに沿った決断(Aleppoから出ること)をする。 今の性根の腐った連中ばかりのにっぽんではそんな状況下でなんで子供を作るんだ(ふたりも)とか平気で言うのだろうが、この映像を見てから言え。子供はなんかの目的のために生まれてくるんじゃないんだ。 そんなに高みの見物は楽しいか卑怯者。
感情に訴えすぎ、という人がいるかしら? そうは思わなくて、今は感情だろうが政治だろうが経済だろうが文化だろうが、いかなる手段を使ってもこの虐殺と暴虐を止めなければいけないの。 数千人はいるであろうSamaのために。
最後のAleppoからの脱出のシーンはずっと拳を握って祈っていて、関所を抜けたらみんなでふーっ、て言う。 同様に爆撃にあって倒れた9ヶ月の妊婦から赤ん坊を救いだして、諦めずにずっとさすったり叩いたりして、真っ白だったその子の目が開いた瞬間 - なんか映画みたいだった - も、みんなでふーっ、だった。
あと、隣に暮らすおばちゃん(彼女と子供たちがまた素敵でさー)が柿をひとつ貰って大はしゃぎするところとか、猫が出てくるところとか、ほっとするところもあるの。
お願いだから、こないだの”Gaza”と並べて、日本でも公開されてほしい。
9.27.2019
[film] Le Fantôme du Moulin-Rouge (1925)
22日、日曜日の昼、BFIの日曜日サイレントのお時間に見ました。ひさびさのサイレント。
英語題は”The Phantom of the Moulin-Rouge” (1925)。日本公開はされていない? ライブピアノはNeil Brand氏。
大好きな『奥様は魔女』(1942) のRené Clairの作品で、ついこの間Lobster FilmsとCinémathèque Françaiseによるデジタル修復を終え、英国の観客には2回目(1回目はどこかの映画祭)のお披露目となるのだそう。で、この修復版は従来知られてきた90分版に紛失したり散逸したりしていたパーツを繋いで103分のバージョンになっていて、BFIの古典映画の先生 - Bryony Dixon氏によると昔自分がみた90分版よりも相当おもしろくなっているから楽しんでって、と。
タイトルだけだと怪奇ホラーもののようだが、どたばたコメディ活劇、のようなやつだった。
パリのビジネスマンで、新聞に記事が載るくらいそこそこ成功しているJulien (Georges Vaultier)にはYvonne (Sandra Milovanoff)ていう恋人がいて結婚するつもりなのに彼女の父は昔の仕事のことで悪ゴシップ紙の偉いじじいから娘と結婚させろさもなくば過去のあれを暴露してお家取り潰しにしてやるぞ、って脅されて、娘にJulienと一緒になることは許さん、て告げる。 YvonneもそうだがJulienも納得いかなくてどんよりしてしまい、いとこに誘われてムーラン・ルージュでぱーっと、やろうと思っても浮上できずにしけた顔をしていると怪しげな男が声をかけてきて、自分は医者で、そういう気分を軽くできる画期的な術を知っているが試してみないか、と(これってふつうに覚醒剤を誘う手口よね?)。
その翌日からJulienの姿がどこかに消えてしまい、パリのところどころで変な現象が観測されるようになり、なにが起こったのかというと、医者が彼になんかを施して、Julienの魂は亡霊のように彼の身体から遊離して自由になって飛び回っているのだった(彼の姿は半透明で宙に浮いていて、人には見えない。でも物を運ぶことはできるらしい)。Julienも現世のことを忘れて自由に飛び回れるこの姿を気に入って自分の身体は医者宅に置いたまましばらく勝手に過ごすことにする。
他方、現世ではゴシップ紙のじじいが Yvonneにやらしくにじり寄って、同じゴシップ紙でJulienに付きまとっていた若い記者が医師宅に転がっている彼の身体を発見して警察を呼ぶ大騒ぎになり、医者は収監されてJulienの身体は検死解剖を、になるのだがそれをやってしまうとJulienの魂は元に戻れなくなるので、どうするどうなる? Yvonneとの恋の行方は? って。
割と古典的な透明人間ものかしらと思っていると最後の方はらはらどきどきで、ちょっと爽快なところもあったりして、すばらしかった。René Clairだねえ。
あの医者、クスリも機械も使わずに念で出したり入れたりしているみたいだったのだが、あれはなかなかやばいのではないか。 あれ、間に合わなかったらどうなっていたのか、解剖の途中で戻ったらやっぱり痛いよね、とか。
英語題は”The Phantom of the Moulin-Rouge” (1925)。日本公開はされていない? ライブピアノはNeil Brand氏。
大好きな『奥様は魔女』(1942) のRené Clairの作品で、ついこの間Lobster FilmsとCinémathèque Françaiseによるデジタル修復を終え、英国の観客には2回目(1回目はどこかの映画祭)のお披露目となるのだそう。で、この修復版は従来知られてきた90分版に紛失したり散逸したりしていたパーツを繋いで103分のバージョンになっていて、BFIの古典映画の先生 - Bryony Dixon氏によると昔自分がみた90分版よりも相当おもしろくなっているから楽しんでって、と。
タイトルだけだと怪奇ホラーもののようだが、どたばたコメディ活劇、のようなやつだった。
パリのビジネスマンで、新聞に記事が載るくらいそこそこ成功しているJulien (Georges Vaultier)にはYvonne (Sandra Milovanoff)ていう恋人がいて結婚するつもりなのに彼女の父は昔の仕事のことで悪ゴシップ紙の偉いじじいから娘と結婚させろさもなくば過去のあれを暴露してお家取り潰しにしてやるぞ、って脅されて、娘にJulienと一緒になることは許さん、て告げる。 YvonneもそうだがJulienも納得いかなくてどんよりしてしまい、いとこに誘われてムーラン・ルージュでぱーっと、やろうと思っても浮上できずにしけた顔をしていると怪しげな男が声をかけてきて、自分は医者で、そういう気分を軽くできる画期的な術を知っているが試してみないか、と(これってふつうに覚醒剤を誘う手口よね?)。
その翌日からJulienの姿がどこかに消えてしまい、パリのところどころで変な現象が観測されるようになり、なにが起こったのかというと、医者が彼になんかを施して、Julienの魂は亡霊のように彼の身体から遊離して自由になって飛び回っているのだった(彼の姿は半透明で宙に浮いていて、人には見えない。でも物を運ぶことはできるらしい)。Julienも現世のことを忘れて自由に飛び回れるこの姿を気に入って自分の身体は医者宅に置いたまましばらく勝手に過ごすことにする。
他方、現世ではゴシップ紙のじじいが Yvonneにやらしくにじり寄って、同じゴシップ紙でJulienに付きまとっていた若い記者が医師宅に転がっている彼の身体を発見して警察を呼ぶ大騒ぎになり、医者は収監されてJulienの身体は検死解剖を、になるのだがそれをやってしまうとJulienの魂は元に戻れなくなるので、どうするどうなる? Yvonneとの恋の行方は? って。
割と古典的な透明人間ものかしらと思っていると最後の方はらはらどきどきで、ちょっと爽快なところもあったりして、すばらしかった。René Clairだねえ。
あの医者、クスリも機械も使わずに念で出したり入れたりしているみたいだったのだが、あれはなかなかやばいのではないか。 あれ、間に合わなかったらどうなっていたのか、解剖の途中で戻ったらやっぱり痛いよね、とか。
9.26.2019
[film] The Rutles: All You Need Is Cash (1978)
20日、金曜日の晩、BFI SouthbankのMonty Python特集で見ました。
最初にJohn役&音楽担当のNeil InnesさんとのQ&Aがあった。
出てくるなり「いやーBeatlesが存在しなかったってすばらしいアイデアだよね!」とか言い出し、「いやそれは別の映画(注 – 映画”Yesterday”ね)のことですから」と突っ込まれてて楽しい。
これの発端はEric Idleとふたりで音楽をネタにしたスキットをやりたくて、そしたらEricがTV局を攻めればちょろいぞ(TV局のひとごめん)、て言うのでITV→BBC2に持っていったら簡単に採用された、って。とにかくとっても簡単だった、と。
The Rutlesのこれは、Saturday Night Live(SNL) のLorne Michaelsの方が当時まじで(そういうのの専門家を雇って)Beatlesの再結成をすごい金額で画策していて – それでタイトルが”All You Need is Cash”、その流れでアイデアを出していったらSNLの枠とメンバーを提供してくれることになり、他方で来週までに20曲用意してきて、って言われて死ぬかと思った、と(作ったけど)。
内容はThe Beatlesのバイオグラフィを鏡のようになぞりつつ、The Rutlesのメンバーや曲や映画の紹介とバンドの変遷~レコード会社設立~解散〜その後、などなどをレポーターや関係者の証言を交えて綴っていく。出てくる人たちがまたムダに豪勢で、Mick JaggerとPaul Simonは繰り返し出てきて大真面目に適当なコメントしまくるし、George Harrison はレポーターをやっているし、Bianca Jaggerは花嫁しているし、Ron Woodもいる。 SNLのメンバーだとLorne Michaels も一瞬出てくるし、John BelushiもDan AykroydもBill Murrayもまだぴちぴちで怪しさ全開、最後の方にはGilda Radnerさんが街角インタビューで出てきて、The Rutles? そんなの知らないわよ聞いたことないわ、って素人のように返しているのだが、しつこく突っ込まれるとものすごい早口で彼らのバイオを語りだす、という素敵な役だし、屋上の演奏シーンではまだ子供のKim Wildeが座っていたりする。とにかく賑やかでみんなでいじりまくって楽しくて、本当に存在したバンドのことにしか見えない。いや本当に存在したんだけど、ああいうかたちで。
しかし78年、この世界にはPunkなんかまるで存在していなかったかのような。
音楽面ではNeil InnesさんのほかにKevin AyersのバンドにいたOllie Halsallさんがいて、あー彼のギターの音だねえ、としんみりする。 Q&Aでは録音テープに関する相当マニアックな質問も飛んでいたのだが、割とへーきな顔ですらすら応えていた。
「この分野では”Spinal Tap” (1984)がやはりすごいと思うけど、我々もよくやってる方でしょ? 」てNeil Innes氏はお茶目に聞いていたが、いや、まだ十分おもしろいから。
Rutland Weekend Television (1976)
“All You Need is Cash”上映の後に、これの2年前にBBC2用に作られた30分のコメディプログラムがおまけとして上映された。ふつうのスキットの合間に未確認なんとか、のようにちゃっかり挟まっていて、ジョージ役の人は78年の彼とは違うのだが、既に怪しく異様な、なんだあれ?モード満載で、これが↑に繋がっていったのは納得なの。
最初にJohn役&音楽担当のNeil InnesさんとのQ&Aがあった。
出てくるなり「いやーBeatlesが存在しなかったってすばらしいアイデアだよね!」とか言い出し、「いやそれは別の映画(注 – 映画”Yesterday”ね)のことですから」と突っ込まれてて楽しい。
これの発端はEric Idleとふたりで音楽をネタにしたスキットをやりたくて、そしたらEricがTV局を攻めればちょろいぞ(TV局のひとごめん)、て言うのでITV→BBC2に持っていったら簡単に採用された、って。とにかくとっても簡単だった、と。
The Rutlesのこれは、Saturday Night Live(SNL) のLorne Michaelsの方が当時まじで(そういうのの専門家を雇って)Beatlesの再結成をすごい金額で画策していて – それでタイトルが”All You Need is Cash”、その流れでアイデアを出していったらSNLの枠とメンバーを提供してくれることになり、他方で来週までに20曲用意してきて、って言われて死ぬかと思った、と(作ったけど)。
内容はThe Beatlesのバイオグラフィを鏡のようになぞりつつ、The Rutlesのメンバーや曲や映画の紹介とバンドの変遷~レコード会社設立~解散〜その後、などなどをレポーターや関係者の証言を交えて綴っていく。出てくる人たちがまたムダに豪勢で、Mick JaggerとPaul Simonは繰り返し出てきて大真面目に適当なコメントしまくるし、George Harrison はレポーターをやっているし、Bianca Jaggerは花嫁しているし、Ron Woodもいる。 SNLのメンバーだとLorne Michaels も一瞬出てくるし、John BelushiもDan AykroydもBill Murrayもまだぴちぴちで怪しさ全開、最後の方にはGilda Radnerさんが街角インタビューで出てきて、The Rutles? そんなの知らないわよ聞いたことないわ、って素人のように返しているのだが、しつこく突っ込まれるとものすごい早口で彼らのバイオを語りだす、という素敵な役だし、屋上の演奏シーンではまだ子供のKim Wildeが座っていたりする。とにかく賑やかでみんなでいじりまくって楽しくて、本当に存在したバンドのことにしか見えない。いや本当に存在したんだけど、ああいうかたちで。
しかし78年、この世界にはPunkなんかまるで存在していなかったかのような。
音楽面ではNeil InnesさんのほかにKevin AyersのバンドにいたOllie Halsallさんがいて、あー彼のギターの音だねえ、としんみりする。 Q&Aでは録音テープに関する相当マニアックな質問も飛んでいたのだが、割とへーきな顔ですらすら応えていた。
「この分野では”Spinal Tap” (1984)がやはりすごいと思うけど、我々もよくやってる方でしょ? 」てNeil Innes氏はお茶目に聞いていたが、いや、まだ十分おもしろいから。
Rutland Weekend Television (1976)
“All You Need is Cash”上映の後に、これの2年前にBBC2用に作られた30分のコメディプログラムがおまけとして上映された。ふつうのスキットの合間に未確認なんとか、のようにちゃっかり挟まっていて、ジョージ役の人は78年の彼とは違うのだが、既に怪しく異様な、なんだあれ?モード満載で、これが↑に繋がっていったのは納得なの。
9.25.2019
[film] Ad Astra (2019)
21日、土曜日の晩、”Hustlers”の後、Picturehouse Centralで見ました。
待望のJames Grayの新作。これがScience Fictionであると聞いたのは5月初のBFIで、丁度これの音楽を終えたばかりだったMax Richterさんから。主演がBrad Pittだと日本公開も早い – 前作の”The Lost City of Z” (2016)だってBrad Pittは企画段階から関わっていたんだけど - なんかやらしいよね。
とてつもない何かが起こる、とかうんうん考えれば見えてくるものがある、とかそういう映画ではない - ネタばれするようなネタはない - のだがSFとして期待しているなにかをお抱えの方はここから先は読まないほうがよいかも。
宇宙飛行士であるRoy McBride (Brad Pitt)が軌道に近いところで仕事をしていると電磁障害みたいので宙に放り出されて怪我をして、ここのところずっとその障害が頻発して世界中がパニックになっている、と。で、偉い人に呼び出されて、これの要因をたぐっていくと彼の父 - H. Clifford McBride (Tommy Lee Jones)が率いていた”Lima Project” - 16年前に海王星で消息が途絶えたまま – に行き当たった、彼はどうも生きているみたいなのだが、行ってみてきてくれないか、と。優秀な宇宙飛行士だった父の背中を見て育ち、自身も優秀な宇宙飛行士となったRoyはそれを引き受けて、ものすごく影の薄い妻 Eve (Liv Tyler)を置いてまず月に飛び立つ。月- 火星 – 海王星って三段跳び。
ここまでくらいは筋として事前に知っていて、”Space Cowboys” (2000)で月面まで吹っ飛ばされたTommy Leeがあの後も生きていたのかー、とか、それも”The Martian” (2015)みたいにこつこつサバイバルしていた、ていう話なのか、“Interstellar” (2014)みたいにぐるりと回って何かを伝えようとしているのか、たどり着いてみれば船内は”High Life” (2018) 状態になっていた、とか、あるいは着いてみたらソラリス的なあれが現れた、とか、いくらでも妄想は膨らんでいくのだったが、そのどれでもないしどれでもあるような、シンプルで、でもスケールのでっかい父と息子のお話だった。
別にこれ、ブルックリン近辺で、優秀な警官だった父が消息を絶ち、ブルックリン奥地のギャング組織となにかやっているらしい、と聞いた息子が捜査に乗りだし、困難を乗り越えてアジトを急襲してみると.. - “We Own the Night” (2007) みたいなかんじ - でもよくて、でもそれを宇宙に持ってきた意味はたぶんあって、顔と頭しかなくなってしまう、というあたりではないかしら。宇宙服で覆われて無重力で自由もなにもなくて、できることといったら彼方へ吹っ飛ばされるか自分が吹っ飛んでしまうか、至近距離での暴力か対話か、それくらいしかない。あとはAlien(s) になんかやってもらうか、だけどそれはなくて(ないという確信はあった)、だがしかし、未知の何かが突然現れることへの絶え間ない恐れ、は今作にも”The Lost City of Z”にもその底にあった。 父はこれらを恐れずに常に前を進む(よくもわるくも)、っていうのはあるか。
とにかく会いたくてもずっと会えなかった父と再会して、話をして、戻る、それだけなのだが、それぞれの表情、仕草とか顔の皺に頭の丸みとか、それを見つめる眼差しが軌跡としてずっと残る – それは親のいる誰もが経験するかもしれない物語で – ほんと残っているのはそこだけで、海王星まで行ってその像を摑まえる、残すというのがよいの。 そういう骨組みのせいか、宇宙船の内外も宇宙服も昭和くらいのクラシックなかんじ(未来感ゼロ)で、そこに来るまでに銃撃とか裏切りとかいろいろあるし、戻り方なんてほんとかよ、みたいなあれで、せっかく生還してもLiv Tylerはちっとも嬉しそうには見えないけど、でもいろいろ決着はついた、のだろうか。
Brad Pittの、”Once Upon .. “と比べたらカケラもない威勢のなさ、診断AIでかろうじて正気を保つしょぼくれたわんこの目、Tommy Lee Jonesの更にしおしおに枯れた修道士の姿、彼の仕事仲間だったというDonald Sutherlandの貫禄だけあるけど空っぽの胡散臭さ、こんな(オトコ)連中がのさばる宇宙に未来なんてあるもんか。
それにしても月のステーションにはVirgin Atlanticが就航していて、SubwayがあってYoshinoyaがあってHudson Newsまであるんだねえ。TSAはここでも偉そうなのかしら?(地続き)
そして、またしても彼方に飛んでいってしまったTommy Lee Jonesは、やはり同じように宇宙を彷徨っていたGeorge Clooneyとどこかでぶつかって、ふたりでコーヒーを飲むんだよ。
待望のJames Grayの新作。これがScience Fictionであると聞いたのは5月初のBFIで、丁度これの音楽を終えたばかりだったMax Richterさんから。主演がBrad Pittだと日本公開も早い – 前作の”The Lost City of Z” (2016)だってBrad Pittは企画段階から関わっていたんだけど - なんかやらしいよね。
とてつもない何かが起こる、とかうんうん考えれば見えてくるものがある、とかそういう映画ではない - ネタばれするようなネタはない - のだがSFとして期待しているなにかをお抱えの方はここから先は読まないほうがよいかも。
宇宙飛行士であるRoy McBride (Brad Pitt)が軌道に近いところで仕事をしていると電磁障害みたいので宙に放り出されて怪我をして、ここのところずっとその障害が頻発して世界中がパニックになっている、と。で、偉い人に呼び出されて、これの要因をたぐっていくと彼の父 - H. Clifford McBride (Tommy Lee Jones)が率いていた”Lima Project” - 16年前に海王星で消息が途絶えたまま – に行き当たった、彼はどうも生きているみたいなのだが、行ってみてきてくれないか、と。優秀な宇宙飛行士だった父の背中を見て育ち、自身も優秀な宇宙飛行士となったRoyはそれを引き受けて、ものすごく影の薄い妻 Eve (Liv Tyler)を置いてまず月に飛び立つ。月- 火星 – 海王星って三段跳び。
ここまでくらいは筋として事前に知っていて、”Space Cowboys” (2000)で月面まで吹っ飛ばされたTommy Leeがあの後も生きていたのかー、とか、それも”The Martian” (2015)みたいにこつこつサバイバルしていた、ていう話なのか、“Interstellar” (2014)みたいにぐるりと回って何かを伝えようとしているのか、たどり着いてみれば船内は”High Life” (2018) 状態になっていた、とか、あるいは着いてみたらソラリス的なあれが現れた、とか、いくらでも妄想は膨らんでいくのだったが、そのどれでもないしどれでもあるような、シンプルで、でもスケールのでっかい父と息子のお話だった。
別にこれ、ブルックリン近辺で、優秀な警官だった父が消息を絶ち、ブルックリン奥地のギャング組織となにかやっているらしい、と聞いた息子が捜査に乗りだし、困難を乗り越えてアジトを急襲してみると.. - “We Own the Night” (2007) みたいなかんじ - でもよくて、でもそれを宇宙に持ってきた意味はたぶんあって、顔と頭しかなくなってしまう、というあたりではないかしら。宇宙服で覆われて無重力で自由もなにもなくて、できることといったら彼方へ吹っ飛ばされるか自分が吹っ飛んでしまうか、至近距離での暴力か対話か、それくらいしかない。あとはAlien(s) になんかやってもらうか、だけどそれはなくて(ないという確信はあった)、だがしかし、未知の何かが突然現れることへの絶え間ない恐れ、は今作にも”The Lost City of Z”にもその底にあった。 父はこれらを恐れずに常に前を進む(よくもわるくも)、っていうのはあるか。
とにかく会いたくてもずっと会えなかった父と再会して、話をして、戻る、それだけなのだが、それぞれの表情、仕草とか顔の皺に頭の丸みとか、それを見つめる眼差しが軌跡としてずっと残る – それは親のいる誰もが経験するかもしれない物語で – ほんと残っているのはそこだけで、海王星まで行ってその像を摑まえる、残すというのがよいの。 そういう骨組みのせいか、宇宙船の内外も宇宙服も昭和くらいのクラシックなかんじ(未来感ゼロ)で、そこに来るまでに銃撃とか裏切りとかいろいろあるし、戻り方なんてほんとかよ、みたいなあれで、せっかく生還してもLiv Tylerはちっとも嬉しそうには見えないけど、でもいろいろ決着はついた、のだろうか。
Brad Pittの、”Once Upon .. “と比べたらカケラもない威勢のなさ、診断AIでかろうじて正気を保つしょぼくれたわんこの目、Tommy Lee Jonesの更にしおしおに枯れた修道士の姿、彼の仕事仲間だったというDonald Sutherlandの貫禄だけあるけど空っぽの胡散臭さ、こんな(オトコ)連中がのさばる宇宙に未来なんてあるもんか。
それにしても月のステーションにはVirgin Atlanticが就航していて、SubwayがあってYoshinoyaがあってHudson Newsまであるんだねえ。TSAはここでも偉そうなのかしら?(地続き)
そして、またしても彼方に飛んでいってしまったTommy Lee Jonesは、やはり同じように宇宙を彷徨っていたGeorge Clooneyとどこかでぶつかって、ふたりでコーヒーを飲むんだよ。
9.24.2019
[film] Hustlers (2019)
21日、土曜日の夕方、CurzonのAldgateで見ました。新しい映画みるの久しぶり。
予告を見たときは”Widows” (2018)みたいな女性たちの復讐譚、集団犯罪モノかと思ったのだが、ちょっと違った。2015年にNew York Magazineに掲載された記事 - "The Hustlers at Scores" by Jessica Presslerが元になっている、と。
2007年、NYのストリップクラブで働くDestiny - Dorothy (Constance Wu)がいて、あからさまなアジア人蔑視とか上前撥ねに耐えながら、一緒に暮らしている祖母と娘を養うためにがんばっていて、ある日Fiona Appleの“Criminal”にあわせて踊って札束まみれになっているRamona (Jennifer Lopez)を見て、なんてかっこいい(実際かっこいいし)、ってぽーっとなっていると向こうから声をかけてくれて、話を聞いてくれたり踊りを教えてくれたり、買い物にまで一緒に行って、仲がよくなっていく。
と、そこから2014年に飛んで、素面のDorothyはひとりElizabeth (Julia Stiles)と対面で話しをしていて、机にはレコーダーがあるので取材かもしれない。話は2007年と2014年の間をピンポンしながら、Destinyはなぜそこでそうしていろいろ話しているのか、Ramonaとの間に何があったのか、を追っていく。
Ramonaの舎弟のようになってふたりで営業していると客の羽振りもよくお金もいっぱい入ってきたのだが、リーマンのあれでWall St. 方面からの客が途絶えるとしょっぱくなり、しょうがないのでカモ男を見つけて酔っ払わせてちょっとクスリ(記憶をなくすやつとハイになるやつの混合)も盛って、れろれろのところでクレジットカードをすいっ… てやるとおもしろいように儲かって、職場のMercedes (Keke Palmer)とかAnnabelle (Lili Reinhart)もシスターに加えて、繁盛繁盛って更にcraiglistで仲間を募って広げていくと当然あれこれ起こるようになりー。
カウンターでカモ野郎を釣ってふたりで盛りあがってきたところで、「あ、シスターズがきたわ」って言うと奥から3人がじゃーんて登場して寄ってたかって乱痴気に、そういうシーンが何度か繰り返されるところがおかしくて。やられた人からするとおもしろくもなんともないのだろうが、本当にああいうことが繰り返されていたってことよね。ああいう世界、どこかにまだあるんだろうねえ。
この場合、被害者は男性だけど、やっぱりクスリ盛られるようなスキだらけの態度で来たほうが悪いんだよね? ね? 叩くのがすきな人たち?
“The Wolf of Wall Street” (2013)が男の側から見たあの時代の狂騒を描いていたのに対して、こちらはあの狂騒の波をひっかぶった女性たちを描いている、のだが犯罪そのものの動機やありよう、を掘りさげるというよりはその軸になったセックス産業に生きる女性たちのSisterhoodを描いた、という方が正しいのかしら。 金とか名誉とか見栄とかそういうことではなくて、彼女(Ramona)がそこにいて、一緒にやろうって言ったから、って。なので、なんか肉々しさがなくて、爽やかなかんじすら漂ってしまったりして、そこはよかったかも。 (プロデューサーにはWill FerrellとAdam McKayの名前もあって、つまりは) でも爽やかとは言っても、”Magic Mike” (2012)のそれともちょっと違う。 土地の違いもあるのだろうか。
Constance Wuが時折浮かべる頼りない子犬みたいな表情と対照的にJennifer Lopezは女王としかいいようのない貫禄で踏ん張って立ってて、すばらしいったらないの。”Out of Sight” (1998)の彼女とか大好きだったのだが、ここの彼女もかっこいいよう。
音楽はさっき書いた”Criminal”の他にJanet Jacksonの”Contorol”とかLordeの”Royals”とか、Scott Walkerの”Next” - 監督が好きなんだって - なんかも。
予告を見たときは”Widows” (2018)みたいな女性たちの復讐譚、集団犯罪モノかと思ったのだが、ちょっと違った。2015年にNew York Magazineに掲載された記事 - "The Hustlers at Scores" by Jessica Presslerが元になっている、と。
2007年、NYのストリップクラブで働くDestiny - Dorothy (Constance Wu)がいて、あからさまなアジア人蔑視とか上前撥ねに耐えながら、一緒に暮らしている祖母と娘を養うためにがんばっていて、ある日Fiona Appleの“Criminal”にあわせて踊って札束まみれになっているRamona (Jennifer Lopez)を見て、なんてかっこいい(実際かっこいいし)、ってぽーっとなっていると向こうから声をかけてくれて、話を聞いてくれたり踊りを教えてくれたり、買い物にまで一緒に行って、仲がよくなっていく。
と、そこから2014年に飛んで、素面のDorothyはひとりElizabeth (Julia Stiles)と対面で話しをしていて、机にはレコーダーがあるので取材かもしれない。話は2007年と2014年の間をピンポンしながら、Destinyはなぜそこでそうしていろいろ話しているのか、Ramonaとの間に何があったのか、を追っていく。
Ramonaの舎弟のようになってふたりで営業していると客の羽振りもよくお金もいっぱい入ってきたのだが、リーマンのあれでWall St. 方面からの客が途絶えるとしょっぱくなり、しょうがないのでカモ男を見つけて酔っ払わせてちょっとクスリ(記憶をなくすやつとハイになるやつの混合)も盛って、れろれろのところでクレジットカードをすいっ… てやるとおもしろいように儲かって、職場のMercedes (Keke Palmer)とかAnnabelle (Lili Reinhart)もシスターに加えて、繁盛繁盛って更にcraiglistで仲間を募って広げていくと当然あれこれ起こるようになりー。
カウンターでカモ野郎を釣ってふたりで盛りあがってきたところで、「あ、シスターズがきたわ」って言うと奥から3人がじゃーんて登場して寄ってたかって乱痴気に、そういうシーンが何度か繰り返されるところがおかしくて。やられた人からするとおもしろくもなんともないのだろうが、本当にああいうことが繰り返されていたってことよね。ああいう世界、どこかにまだあるんだろうねえ。
この場合、被害者は男性だけど、やっぱりクスリ盛られるようなスキだらけの態度で来たほうが悪いんだよね? ね? 叩くのがすきな人たち?
“The Wolf of Wall Street” (2013)が男の側から見たあの時代の狂騒を描いていたのに対して、こちらはあの狂騒の波をひっかぶった女性たちを描いている、のだが犯罪そのものの動機やありよう、を掘りさげるというよりはその軸になったセックス産業に生きる女性たちのSisterhoodを描いた、という方が正しいのかしら。 金とか名誉とか見栄とかそういうことではなくて、彼女(Ramona)がそこにいて、一緒にやろうって言ったから、って。なので、なんか肉々しさがなくて、爽やかなかんじすら漂ってしまったりして、そこはよかったかも。 (プロデューサーにはWill FerrellとAdam McKayの名前もあって、つまりは) でも爽やかとは言っても、”Magic Mike” (2012)のそれともちょっと違う。 土地の違いもあるのだろうか。
Constance Wuが時折浮かべる頼りない子犬みたいな表情と対照的にJennifer Lopezは女王としかいいようのない貫禄で踏ん張って立ってて、すばらしいったらないの。”Out of Sight” (1998)の彼女とか大好きだったのだが、ここの彼女もかっこいいよう。
音楽はさっき書いた”Criminal”の他にJanet Jacksonの”Contorol”とかLordeの”Royals”とか、Scott Walkerの”Next” - 監督が好きなんだって - なんかも。
9.23.2019
[film] Mr. Blandings Builds His Dream House (1948)
Cary Grantのをもう一本。 13日の金曜日の晩 - その晩の2本目で見ました。
日本では劇場未公開で、TV放映された際の邦題は『ウチの亭主と夢の宿』だって。
Eric Hodginsの同名小説が原作 - イラストを描いたのは”Shrek”のWilliam Steig - で、それはほぼ作者の実体験に基づくものだという。 Tom Hanksの出ていた”The Money Pit” (1986)はこれのリメイドだって。
広告代理店に勤めていてハムのコピーを作るのに頭を悩ませているJim Blandings (Cary Grant)は、妻Muriel (Myrna Loy)とふたりの娘がいて、マンハッタンのアパートが手狭で(ちょっとまて - 2ベッドルーム以上あってメイドもいるのに手狭ってなんだ?)リフォームするにもすごくお金が掛かる($7000。10倍すると今の相場だって)というので、コネティカットの方に一軒家を探すことにして、中古で手直しすれば手頃かな、ていうのを見つけたので買うことにして、でも契約したら建物棟はぜんぶ取り壊さないとだめなくらい芯から傷んでいることがわかり、他に掘っても井戸がぜんぜん見つからなかったり、財務面でもお金使うことばかり出て、ものすごく想定外のことがいっぱい起こり、更に引越し荷物を整理していると高校時代からの親友で家族みんなと仲のよい法律家のBill (Melvyn Douglas)とMurielが仲良くしている写真が見つかり、ひょっとして今も.. の疑惑が持ちあがり..
冒頭が当時のマンハッタンの朝の通勤風景からそこに暮らす家族の朝の光景 – 起きてバスローブに着替えて髭剃って歯磨いて、これらを家族横並びでやる煩雑さや混乱が描写されて、そこから抜け出すために今度はお家を建てることにするものの、設計図の段階であれこれ要望が膨れあがってぎすぎすして、建てていくところでも問題だらけで、夢と現実のギャップがものすごいのだが、でもなんとか家はできあがり引越しするところまで。
どたばたホーム・コメディとしてよくできていておもしろいのだが、家を守ったり作ったりするときのアメリカ人の雨が降ろうが槍が降ろうが負けないポジティブなことったらないよね、って思って、これが例えばイギリス人だったら全く違ったかんじ - ぶつぶつ文句悪態つきながら庭を育てるみたいに辛抱強く果てなく何十年でもいじってる - になるんだろうな、って。たぶんそういう英国映画、どこかにありそうだけど。
アメリカでもイギリスでも割と家を建てたり造ったりするのを趣味にしている人って珍しくもなくて、週末何してた? とか聞くとずっと地下室作ってる、とかいう人って結構いた。 偉いよねえ。なんか積む前に床貼れ、ってことだよねえ。
Myrma LoyとCary Grantのコンビはこれで3作目とのことで申しぶんないのだが、この話はIrene Dunneさんと共演する案もあったのだという。 それはそれで見たかったかも。 Cary Grantの映画にしては人間関係が大きく変わったり壊れたりすることがない - パパとしてもふつうに機能している。 だからどうした? だけど。
BFI Southbankの10月〜来年1月までの特集 - “Musicals!”(そのまま)の予告が流れ始めている。↓このページにあるの。
https://www.bfi.org.uk/musicals
『鴛鴦歌合戦』 (1939)までやるんだよ。
しかし、すごく見たいやつとぜんぜん見たくないやつの差が激しいわ。
日本では劇場未公開で、TV放映された際の邦題は『ウチの亭主と夢の宿』だって。
Eric Hodginsの同名小説が原作 - イラストを描いたのは”Shrek”のWilliam Steig - で、それはほぼ作者の実体験に基づくものだという。 Tom Hanksの出ていた”The Money Pit” (1986)はこれのリメイドだって。
広告代理店に勤めていてハムのコピーを作るのに頭を悩ませているJim Blandings (Cary Grant)は、妻Muriel (Myrna Loy)とふたりの娘がいて、マンハッタンのアパートが手狭で(ちょっとまて - 2ベッドルーム以上あってメイドもいるのに手狭ってなんだ?)リフォームするにもすごくお金が掛かる($7000。10倍すると今の相場だって)というので、コネティカットの方に一軒家を探すことにして、中古で手直しすれば手頃かな、ていうのを見つけたので買うことにして、でも契約したら建物棟はぜんぶ取り壊さないとだめなくらい芯から傷んでいることがわかり、他に掘っても井戸がぜんぜん見つからなかったり、財務面でもお金使うことばかり出て、ものすごく想定外のことがいっぱい起こり、更に引越し荷物を整理していると高校時代からの親友で家族みんなと仲のよい法律家のBill (Melvyn Douglas)とMurielが仲良くしている写真が見つかり、ひょっとして今も.. の疑惑が持ちあがり..
冒頭が当時のマンハッタンの朝の通勤風景からそこに暮らす家族の朝の光景 – 起きてバスローブに着替えて髭剃って歯磨いて、これらを家族横並びでやる煩雑さや混乱が描写されて、そこから抜け出すために今度はお家を建てることにするものの、設計図の段階であれこれ要望が膨れあがってぎすぎすして、建てていくところでも問題だらけで、夢と現実のギャップがものすごいのだが、でもなんとか家はできあがり引越しするところまで。
どたばたホーム・コメディとしてよくできていておもしろいのだが、家を守ったり作ったりするときのアメリカ人の雨が降ろうが槍が降ろうが負けないポジティブなことったらないよね、って思って、これが例えばイギリス人だったら全く違ったかんじ - ぶつぶつ文句悪態つきながら庭を育てるみたいに辛抱強く果てなく何十年でもいじってる - になるんだろうな、って。たぶんそういう英国映画、どこかにありそうだけど。
アメリカでもイギリスでも割と家を建てたり造ったりするのを趣味にしている人って珍しくもなくて、週末何してた? とか聞くとずっと地下室作ってる、とかいう人って結構いた。 偉いよねえ。なんか積む前に床貼れ、ってことだよねえ。
Myrma LoyとCary Grantのコンビはこれで3作目とのことで申しぶんないのだが、この話はIrene Dunneさんと共演する案もあったのだという。 それはそれで見たかったかも。 Cary Grantの映画にしては人間関係が大きく変わったり壊れたりすることがない - パパとしてもふつうに機能している。 だからどうした? だけど。
BFI Southbankの10月〜来年1月までの特集 - “Musicals!”(そのまま)の予告が流れ始めている。↓このページにあるの。
https://www.bfi.org.uk/musicals
『鴛鴦歌合戦』 (1939)までやるんだよ。
しかし、すごく見たいやつとぜんぜん見たくないやつの差が激しいわ。
9.22.2019
[film] I Was a Male War Bride (1949)
15日、日曜日の午後、BFIのCary Grant特集で見ました。 原作はベルギー人のHenri Rochardによる伝記 - ”I Was an Alien Spouse of Female Military Personnel Enroute to the United States Under Public Law 271 of the Congress” ていうことは実話なのかしら?
邦題は『僕は戦争花嫁』。
連合国軍の統治下にあったドイツで、フランス軍のオフィサー Henri (Cary Grant)が任務のためにアメリカ軍を訪れて少尉のCatherine (Ann Sheridan)に嫌味ったらしく彼女の洗濯ものを渡したり(クリーニング屋が置いていったって)、ふたりは前からいろいろあって仲悪そうなのだが、任務に向かう運転手をCatherineがやることになり、しかも適当な車がなくてあるのはサイドカー付きのバイクで、しかも米軍が運転しなければいけないのでHenriはサイドの方で、かっこ悪くて居心地悪くて、道中も喧嘩ばかりしているのだが、任務がとってもうまくいって、バイクで藁の山に突っ込んでキスしたら止まらなくなったので結婚することにする(なんだそれ)。
お話はまだ続いて、ふたりが結婚することになっても異なる国の軍人同士の結婚だからか書類だのサインだの手続きがやたら面倒で、ようやくクリアしてアメリカに戻ろう、ということになってもアメリカ軍兵士の配偶者はWar Bride - 戦争花嫁 - としてしか扱われないことがわかり、つまりWar Brideってオレのことかよ、ってなるのだが、問題なのはWar Brideのために用意された施設には男性は入れない、とこれが英国での公開タイトルの”You Can't Sleep Here” になっている。 どこにたらい回されてもこの文句で追い出されてしまうのでアっタマきたHenriとCatherineは..
“Bringing Up Baby” (1938)ではプライドから衣服までなにからなにまで身ぐるみ剥がされてしまったCary Grantは、今回設定上とはいえ、イギリス人(生まれた国)でもアメリカ人(仕事する国)でもないフランス人にされ、あげくの果てにはジェンダーまで奪われてしまってどうしろというのか、と。
Howard HawksはなんでここまでCary Grantをいじめていじめて、その自由を奪おうとするのか? - Gary CooperやHumphrey Bogartに対して、ここまでのことはしないよね?
今回もいちいちのまわりくどい窓口対応やなんだこいつ? みたいな向こうの扱いにぶち切れてぐだぐだいう奴らを皆殺しにする(「皆殺しの戦争花嫁」、とか)ことだってできたかもしれないのに、絶対そうはせず、ちょっと困ったなあ、って苦々した笑いを浮かべて曲芸やスタントをこなすみたいにひょい、って乗り越えて向こうに渡ってしまう(Catherine の方も一緒になって怒るのではなく、そっちの方に加担してしまう) 。 その機転と身の軽さ - コメディって、こういうもんだよねえ、って。
この設定が現代だったら、え〜 とか言ってもトランスしてどかしゃかじゃん! してよかったねえ、ていうハートウォーミングなかんじになってしまう(「幸せの戦争花嫁」、とか)、のかしらん。 でもそれは別にCary Grantじゃなくてもー。
で、このあと幸せになってHyde Parkに向かったの。
邦題は『僕は戦争花嫁』。
連合国軍の統治下にあったドイツで、フランス軍のオフィサー Henri (Cary Grant)が任務のためにアメリカ軍を訪れて少尉のCatherine (Ann Sheridan)に嫌味ったらしく彼女の洗濯ものを渡したり(クリーニング屋が置いていったって)、ふたりは前からいろいろあって仲悪そうなのだが、任務に向かう運転手をCatherineがやることになり、しかも適当な車がなくてあるのはサイドカー付きのバイクで、しかも米軍が運転しなければいけないのでHenriはサイドの方で、かっこ悪くて居心地悪くて、道中も喧嘩ばかりしているのだが、任務がとってもうまくいって、バイクで藁の山に突っ込んでキスしたら止まらなくなったので結婚することにする(なんだそれ)。
お話はまだ続いて、ふたりが結婚することになっても異なる国の軍人同士の結婚だからか書類だのサインだの手続きがやたら面倒で、ようやくクリアしてアメリカに戻ろう、ということになってもアメリカ軍兵士の配偶者はWar Bride - 戦争花嫁 - としてしか扱われないことがわかり、つまりWar Brideってオレのことかよ、ってなるのだが、問題なのはWar Brideのために用意された施設には男性は入れない、とこれが英国での公開タイトルの”You Can't Sleep Here” になっている。 どこにたらい回されてもこの文句で追い出されてしまうのでアっタマきたHenriとCatherineは..
“Bringing Up Baby” (1938)ではプライドから衣服までなにからなにまで身ぐるみ剥がされてしまったCary Grantは、今回設定上とはいえ、イギリス人(生まれた国)でもアメリカ人(仕事する国)でもないフランス人にされ、あげくの果てにはジェンダーまで奪われてしまってどうしろというのか、と。
Howard HawksはなんでここまでCary Grantをいじめていじめて、その自由を奪おうとするのか? - Gary CooperやHumphrey Bogartに対して、ここまでのことはしないよね?
今回もいちいちのまわりくどい窓口対応やなんだこいつ? みたいな向こうの扱いにぶち切れてぐだぐだいう奴らを皆殺しにする(「皆殺しの戦争花嫁」、とか)ことだってできたかもしれないのに、絶対そうはせず、ちょっと困ったなあ、って苦々した笑いを浮かべて曲芸やスタントをこなすみたいにひょい、って乗り越えて向こうに渡ってしまう(Catherine の方も一緒になって怒るのではなく、そっちの方に加担してしまう) 。 その機転と身の軽さ - コメディって、こういうもんだよねえ、って。
この設定が現代だったら、え〜 とか言ってもトランスしてどかしゃかじゃん! してよかったねえ、ていうハートウォーミングなかんじになってしまう(「幸せの戦争花嫁」、とか)、のかしらん。 でもそれは別にCary Grantじゃなくてもー。
で、このあと幸せになってHyde Parkに向かったの。
9.20.2019
[film] Bringing Up Baby (1938)
3日、火曜日の晩にBFIのCary Grant特集で見ました。 邦題は『赤ちゃん教育』 - “Baby”ていうのは豹の名前で赤ちゃんも育児もちっとも出てこないの。ふざけてるわ。
このお話しは大好きで、LDも持っていた。大好きだけど、改めてめちゃくちゃな話だよね、って。
David Huxley (Cary Grant)は礼儀正しくまじめな古生物学者で、ブロントザウルスの骨格標本の最後の1ピースを手に入れて完成させること、もうじきのAlice (Virginia Walker)との結婚をどうするのか - 彼女はてきぱきうるさい - ていうのと、支援者の御機嫌をとって博物館への巨額寄付をとりつけることとかそういうのが関心事で、Aliceとの結婚を翌日に控えたある日、パトロン候補との大事なゴルフできりきりしているとぜんぜん他人のSusan Vance (Katharine Hepburn) がDavidのボールを勝手に打ったり、車をぶつけてきたり、あんた誰? なに? て唐突に絡んできて、しかもまったく、おそろしいくらいに悪びれないし自分のどこが問題かわかっていないし、だから話が通じない。
彼女はその後のバーラウンジでもなんだかんだ勝手に絡んできて、兄がブラジルから送ってきた豹の”Baby” - "I Can't Give You Anything But Love"が子守歌なの - をコネティカットまで送るのに付きあってくれ(動物得意でしょ?)、といい、DavidとBabyと車に乗って、そんなことやっているうちに彼を好きになっちゃって離れたくなくなったので彼の服を隠して、彼がずっと待っていた骨片も犬のGeorgeがどこかに隠しちゃって、Babyはどこかに行っちゃって、サーカスから逃げた凶暴な豹もいてどっちがどっちだかわかんなくなり、そのうちふたりは牢屋に入れられて、いろんなことがあれこれ錯綜してなにがなんだかわからなくなっていくのだが、単純にぜんぶSusanのせいで、でも何度でも言うけど彼女はどこのなにが悪いのかまったくわかっていないのでどこまで行っても収拾がつかない。 Davidにしてみればその救いようのなさときたらホラーのそれとか、カフカとか、そういうのだと思う。出口なし。
でもこれはDavidがうろつく豹を横目に身ぐるみ剥がされて結婚までぶち壊されて、それでも最後には空中ブランコみたいにSusanの片手を捕まえる(と同時に恐竜 - 過去はきれいに崩れ落ちる)、そういう曲芸 - スクリューボールというより曲芸コメディで、ふたりがあの後幸せになるかどうかなんてどうでもよくて、曲芸は得意なんだからきっと、たぶんだいじょうぶだよ、っていうの。
これってニンゲンの恋というよりは動物の求愛行動みたいな、つっかかってなんか隠して探してまたつっかかってそれを繰り返して、反射とか反応しかなくて反省もなくて、満足とか充足とかもなくて、でもおもしろいからいいの。 おもしろけりゃいいの? いいんだ。
それくらいKatharine HepburnとCary Grantのコンビの阿吽は完成されていて、見ているだけで楽しいの。Cary Grantはどんなひどいめにあっても決して怒らないし怒りを露わにしない。 それは男らしいからとかそういうのとは別の次元で、そうすることで生まれてくるなにかがあることを知っているかのような態度。 そこがこのひとの魅力なのかも、って改めて。
HitchcockとGrantの関係はこないだなんとなくわかったのだが、Howard HawksはなんでいっつもCary Grantをあんなに痛めつけるのか、これはこれでおもしろいテーマになるかも。
どうでもいいけど、大事な骨を隠してしまうわんわんのSkippyは、”The Awful Truth” (1937)にもMr. Smithとして出てくるのだが、こっちでは隠すのの名犬で、あっちでは探すのの名犬なの。 どうでもいいけど。
このお話しは大好きで、LDも持っていた。大好きだけど、改めてめちゃくちゃな話だよね、って。
David Huxley (Cary Grant)は礼儀正しくまじめな古生物学者で、ブロントザウルスの骨格標本の最後の1ピースを手に入れて完成させること、もうじきのAlice (Virginia Walker)との結婚をどうするのか - 彼女はてきぱきうるさい - ていうのと、支援者の御機嫌をとって博物館への巨額寄付をとりつけることとかそういうのが関心事で、Aliceとの結婚を翌日に控えたある日、パトロン候補との大事なゴルフできりきりしているとぜんぜん他人のSusan Vance (Katharine Hepburn) がDavidのボールを勝手に打ったり、車をぶつけてきたり、あんた誰? なに? て唐突に絡んできて、しかもまったく、おそろしいくらいに悪びれないし自分のどこが問題かわかっていないし、だから話が通じない。
彼女はその後のバーラウンジでもなんだかんだ勝手に絡んできて、兄がブラジルから送ってきた豹の”Baby” - "I Can't Give You Anything But Love"が子守歌なの - をコネティカットまで送るのに付きあってくれ(動物得意でしょ?)、といい、DavidとBabyと車に乗って、そんなことやっているうちに彼を好きになっちゃって離れたくなくなったので彼の服を隠して、彼がずっと待っていた骨片も犬のGeorgeがどこかに隠しちゃって、Babyはどこかに行っちゃって、サーカスから逃げた凶暴な豹もいてどっちがどっちだかわかんなくなり、そのうちふたりは牢屋に入れられて、いろんなことがあれこれ錯綜してなにがなんだかわからなくなっていくのだが、単純にぜんぶSusanのせいで、でも何度でも言うけど彼女はどこのなにが悪いのかまったくわかっていないのでどこまで行っても収拾がつかない。 Davidにしてみればその救いようのなさときたらホラーのそれとか、カフカとか、そういうのだと思う。出口なし。
でもこれはDavidがうろつく豹を横目に身ぐるみ剥がされて結婚までぶち壊されて、それでも最後には空中ブランコみたいにSusanの片手を捕まえる(と同時に恐竜 - 過去はきれいに崩れ落ちる)、そういう曲芸 - スクリューボールというより曲芸コメディで、ふたりがあの後幸せになるかどうかなんてどうでもよくて、曲芸は得意なんだからきっと、たぶんだいじょうぶだよ、っていうの。
これってニンゲンの恋というよりは動物の求愛行動みたいな、つっかかってなんか隠して探してまたつっかかってそれを繰り返して、反射とか反応しかなくて反省もなくて、満足とか充足とかもなくて、でもおもしろいからいいの。 おもしろけりゃいいの? いいんだ。
それくらいKatharine HepburnとCary Grantのコンビの阿吽は完成されていて、見ているだけで楽しいの。Cary Grantはどんなひどいめにあっても決して怒らないし怒りを露わにしない。 それは男らしいからとかそういうのとは別の次元で、そうすることで生まれてくるなにかがあることを知っているかのような態度。 そこがこのひとの魅力なのかも、って改めて。
HitchcockとGrantの関係はこないだなんとなくわかったのだが、Howard HawksはなんでいっつもCary Grantをあんなに痛めつけるのか、これはこれでおもしろいテーマになるかも。
どうでもいいけど、大事な骨を隠してしまうわんわんのSkippyは、”The Awful Truth” (1937)にもMr. Smithとして出てくるのだが、こっちでは隠すのの名犬で、あっちでは探すのの名犬なの。 どうでもいいけど。
9.19.2019
[music] Pet Shop Boys
15日、日曜日の夕方にHyde Parkでみました。
夏のHyde Parkのライブシリーズはとっくに終わっているのだが、これはBBC Radio 2から2週間前くらいにアナウンスされて、チケットもそんな高くなかったので夏の終わりの盆踊り大会、というかんじで取ってみた。
のだが、前日に残暑厳しいパリをいちにち走り回っていたので全身ものすごくだるくて足も痛くて、でもオープンしたWilliam Blake展は見たいし(すごかったようー)、BFIでは『僕は戦争花嫁』を見たりしないといけなくて(なんとしても)、公園の入り口に着いたのは17:30くらい、そこからぐるううぅっと回って中に入れたのは18時過ぎだった。
あー、Simply RedとかBananaramaとか見たかったなー。
入ってみるとみんなシートとか椅子だして家族でピクニックして寛いでいて、ライブはStatus Quoが遠くでがんがんやっている。あーあ、40年前の自分にやがてあんたはロンドンで老人たちと一緒にStatus Quo(現状)とか見たりするんだよ、とか言ってやりたいもんだわ。 踊りたいけど体が思うように動かないのか、けっか太極拳みたいになってて、でも心から楽しそうに笑っている老人たちはともかく、Status Quoのバンドとしての音はまだじゅうぶんに活きていて悪くなかった。最後なんて”Rockin' All Over the World” だよ。
あと、夏の終わりの夕暮れとしてほんとに気持ちよくて、夕陽もきれいで、寝転がってそれを眺めているだけでよかったくらい。
続いてはWestlifeで、よく知らない - 要はそういう世界にいるのであろう方々で、20年ぶりの再結成だとかいってる。 あーあ、20年前の自分に..(以下略)。 Status Quoのファンより年齢層は下がって女性が増えて、Billy Joelの”Uptown Girl”を始めたときにみんな揃ってミュージカルみたいな踊りを始めたのがおもしろかった。
PSBが始まるまではDJさんがダンスクラシックとか”One More Time”を延々回してて、それ、まだ始まってないのにOne More Timeもないよね、だった。
PSBが出てきたのは周囲が十分暗くなった20時過ぎで、盆踊りとしかいいようがない楽しさ。彼らのライブを見るのは初めてで、最近のは追えていないけど音楽は後になんも残らない砂糖菓子 - 落雁とか - みたいなものとしていいな、って思ってきた。ライブも客の方ににじにじ寄ってくるわけでも高いところから見下ろすかんじでもない距離感で、前の方でしゃんしゃんくるくる回ってて、みんな猫になって一緒にまわされる。
途中から横で裸足になって踊っていた同年代と思われる女性3人組が突然、変てこ踊りコンテスト - 「これはどうだ?」「こっちのほうがすごいぞ!」「ちょっとまてこれを見ろ」 - とか始めたのでおかしくて集中できなくなる。昔みんなやってたよねえ?
ゲストとしてOlly AlxanderとBeverley Knightが出てきた(よくしらない)し、*Left to My Own Devices* あたりからカラフルなぶよぶよを纏った集団が現れて着ぐるみダンスを披露していたのだが、後ろのほうではちっとも注目されていないようで、ひと通り踊ったらシートとかを畳んで帰る人たちも沢山いた。
全部で1時間半やらなかったかも、そんなかるーい聴いて踊って、がなんかよいな、って。
翌日は会社だしね。
夏のHyde Parkのライブシリーズはとっくに終わっているのだが、これはBBC Radio 2から2週間前くらいにアナウンスされて、チケットもそんな高くなかったので夏の終わりの盆踊り大会、というかんじで取ってみた。
のだが、前日に残暑厳しいパリをいちにち走り回っていたので全身ものすごくだるくて足も痛くて、でもオープンしたWilliam Blake展は見たいし(すごかったようー)、BFIでは『僕は戦争花嫁』を見たりしないといけなくて(なんとしても)、公園の入り口に着いたのは17:30くらい、そこからぐるううぅっと回って中に入れたのは18時過ぎだった。
あー、Simply RedとかBananaramaとか見たかったなー。
入ってみるとみんなシートとか椅子だして家族でピクニックして寛いでいて、ライブはStatus Quoが遠くでがんがんやっている。あーあ、40年前の自分にやがてあんたはロンドンで老人たちと一緒にStatus Quo(現状)とか見たりするんだよ、とか言ってやりたいもんだわ。 踊りたいけど体が思うように動かないのか、けっか太極拳みたいになってて、でも心から楽しそうに笑っている老人たちはともかく、Status Quoのバンドとしての音はまだじゅうぶんに活きていて悪くなかった。最後なんて”Rockin' All Over the World” だよ。
あと、夏の終わりの夕暮れとしてほんとに気持ちよくて、夕陽もきれいで、寝転がってそれを眺めているだけでよかったくらい。
続いてはWestlifeで、よく知らない - 要はそういう世界にいるのであろう方々で、20年ぶりの再結成だとかいってる。 あーあ、20年前の自分に..(以下略)。 Status Quoのファンより年齢層は下がって女性が増えて、Billy Joelの”Uptown Girl”を始めたときにみんな揃ってミュージカルみたいな踊りを始めたのがおもしろかった。
PSBが始まるまではDJさんがダンスクラシックとか”One More Time”を延々回してて、それ、まだ始まってないのにOne More Timeもないよね、だった。
PSBが出てきたのは周囲が十分暗くなった20時過ぎで、盆踊りとしかいいようがない楽しさ。彼らのライブを見るのは初めてで、最近のは追えていないけど音楽は後になんも残らない砂糖菓子 - 落雁とか - みたいなものとしていいな、って思ってきた。ライブも客の方ににじにじ寄ってくるわけでも高いところから見下ろすかんじでもない距離感で、前の方でしゃんしゃんくるくる回ってて、みんな猫になって一緒にまわされる。
途中から横で裸足になって踊っていた同年代と思われる女性3人組が突然、変てこ踊りコンテスト - 「これはどうだ?」「こっちのほうがすごいぞ!」「ちょっとまてこれを見ろ」 - とか始めたのでおかしくて集中できなくなる。昔みんなやってたよねえ?
ゲストとしてOlly AlxanderとBeverley Knightが出てきた(よくしらない)し、*Left to My Own Devices* あたりからカラフルなぶよぶよを纏った集団が現れて着ぐるみダンスを披露していたのだが、後ろのほうではちっとも注目されていないようで、ひと通り踊ったらシートとかを畳んで帰る人たちも沢山いた。
全部で1時間半やらなかったかも、そんなかるーい聴いて踊って、がなんかよいな、って。
翌日は会社だしね。
[log] Paris (2)
The figurative Mondrian
Piet Mondrianがばりばりの抽象に移行してしまう前の具象、形象を追っていた時代を中心とした作品たち。 入り口のところに彼の最初期の野ウサギの絵 (1891) - デューラーの「野ウサギ」が逆立ちしたみたいなやつで、技術的にはすでに申しぶんないの - と最初にみんなが知っている格子を描いた1914年の”Composition N° IV”。 ウサギが檻のむこうに消えていくまでの変遷を追う。
まず、風景画にしても人物像にしてもとにかく完成されていて、線も面も色彩もそれらの置かれ方もかっこよくて、そこでの揺るがない形象がだんだんに揺れたりぶれたり滲んだりしてくる - これらはなんでここにこんなふうになければいけないのか、のような問いと共に。
素朴な風景画から抽象へのジャンプ、というと青騎士から抽象に跳ねてしまったカンディンスキーが思い浮かぶけど、彼ほど理論ドリブンの頭でっかちなかんじはなくて、「近代化」のような外界からの要請もないようで、自分の見つめている風景にどこかからいつのまにか網がかけられて徐々にその地軸や外郭が変容していく、その過程がよくわかるスリリングな展示だった。
企画展の上のフロアにはMorisotの常設コレクションがあるので、これも覗いた。オルセーの展示に合わせたのかいつもよか軽くて明るめの作品が多かったかも。 あとここにはManetが描いた妻Morisotの肖像画があって、そこでの彼女は自身の描く絵のタッチとはかけ離れた、Manetの絵の世界の住人になって少し微笑んでいて、どう? って。
ここまでで15時くらい。さてどうしようか、だったのだが、メトロでCentre Pompidouに行ってベーコン展を見ることにした。 前に来た時も思ったがここの来客対応ってなんかさー。荷物チェックでものすごく並んで、チケット買うのに更に並んで、なのにベーコンのはオンライン購入のみ、とか言われたのでその場でスマホだしてカードだして買った。ばかみたい。
Bacon: Books and Paintings
ベーコンが92年に亡くなるまでの最期の20年間に制作された作品たちにフォーカスした展示。”Books and Paintings”とあるのでタイトルとかモチーフを注意深く見ていけば文学や哲学に関連したものもあったのだろうが、目が疲れていて細かい文字を追う気にはなれず、とにかくでっかい3連の絵画がこれでもかの勢いでぶらさがっていて、精肉工場にいるみたいでおもしろいったらないの。きもちわるいことってなんてかっこいいことなのかしら、って、彼の捩れた肉塊・迸る血潮をみるといつも思う。
カタログはロンドンの本屋で売っていた彼のcatalogue raisonnéのことがまだ頭から離れてくれないので、がまんした。
気がつけば16時半近くて、今回もまた泣く泣くBerkeley Booksに行くのは諦めて、いつものLa Grande Epicerieに行って塩とかバターとかヨーグルトとか引っ掴んでカゴに投げ入れ、果物のところでぼーっと見ているうちに我慢できなくなり、ちょっと力を入れたら潰れてしまううれうれのイチジクとカラバッジョの黄金色に輝くマスカット - 房を持ったときのじゃらじゃら連なってくるかんじがたまらない - をカゴに入れて(投げ込み不可)しまう。
イチジクは耐えられなくなって(耐えろそれくらい)帰りの電車内で食べてしまったのだが、皮を隔てた向こうの果肉はそのままジャムとしかいいようがないぐちゃぐちゃねっとりでうっとり。 こういうイチジクを食べるたびにベンヤミンのことを思いだす。会ったこともないのにね。
あと、どうでもよいのだけどここのヨーグルト売り場、いつ来ても関西弁しゃべる女性のみなさんが、「あ、これやこれや」とかやっているのはなに? なぜ? フランスのヨーグルトがすごい - なんでなのかしら? - はわかるし、だから買うのだけど(高いけどね)。
あとユーロスターの駅にあるAlain Ducasseのチョコレート屋にピーナツバターが出ていたので買った。まだ食べていないが、すごくやばいやつかとてもがっかりかのどっちかだと思われる。
全体としてはやっぱり時間足らなくて、行ってからSally Mannをやっているのを知ったり、あれこれ残念すぎ。
おうちに着いたのは21:30くらいでした。
Piet Mondrianがばりばりの抽象に移行してしまう前の具象、形象を追っていた時代を中心とした作品たち。 入り口のところに彼の最初期の野ウサギの絵 (1891) - デューラーの「野ウサギ」が逆立ちしたみたいなやつで、技術的にはすでに申しぶんないの - と最初にみんなが知っている格子を描いた1914年の”Composition N° IV”。 ウサギが檻のむこうに消えていくまでの変遷を追う。
まず、風景画にしても人物像にしてもとにかく完成されていて、線も面も色彩もそれらの置かれ方もかっこよくて、そこでの揺るがない形象がだんだんに揺れたりぶれたり滲んだりしてくる - これらはなんでここにこんなふうになければいけないのか、のような問いと共に。
素朴な風景画から抽象へのジャンプ、というと青騎士から抽象に跳ねてしまったカンディンスキーが思い浮かぶけど、彼ほど理論ドリブンの頭でっかちなかんじはなくて、「近代化」のような外界からの要請もないようで、自分の見つめている風景にどこかからいつのまにか網がかけられて徐々にその地軸や外郭が変容していく、その過程がよくわかるスリリングな展示だった。
企画展の上のフロアにはMorisotの常設コレクションがあるので、これも覗いた。オルセーの展示に合わせたのかいつもよか軽くて明るめの作品が多かったかも。 あとここにはManetが描いた妻Morisotの肖像画があって、そこでの彼女は自身の描く絵のタッチとはかけ離れた、Manetの絵の世界の住人になって少し微笑んでいて、どう? って。
ここまでで15時くらい。さてどうしようか、だったのだが、メトロでCentre Pompidouに行ってベーコン展を見ることにした。 前に来た時も思ったがここの来客対応ってなんかさー。荷物チェックでものすごく並んで、チケット買うのに更に並んで、なのにベーコンのはオンライン購入のみ、とか言われたのでその場でスマホだしてカードだして買った。ばかみたい。
Bacon: Books and Paintings
ベーコンが92年に亡くなるまでの最期の20年間に制作された作品たちにフォーカスした展示。”Books and Paintings”とあるのでタイトルとかモチーフを注意深く見ていけば文学や哲学に関連したものもあったのだろうが、目が疲れていて細かい文字を追う気にはなれず、とにかくでっかい3連の絵画がこれでもかの勢いでぶらさがっていて、精肉工場にいるみたいでおもしろいったらないの。きもちわるいことってなんてかっこいいことなのかしら、って、彼の捩れた肉塊・迸る血潮をみるといつも思う。
カタログはロンドンの本屋で売っていた彼のcatalogue raisonnéのことがまだ頭から離れてくれないので、がまんした。
気がつけば16時半近くて、今回もまた泣く泣くBerkeley Booksに行くのは諦めて、いつものLa Grande Epicerieに行って塩とかバターとかヨーグルトとか引っ掴んでカゴに投げ入れ、果物のところでぼーっと見ているうちに我慢できなくなり、ちょっと力を入れたら潰れてしまううれうれのイチジクとカラバッジョの黄金色に輝くマスカット - 房を持ったときのじゃらじゃら連なってくるかんじがたまらない - をカゴに入れて(投げ込み不可)しまう。
イチジクは耐えられなくなって(耐えろそれくらい)帰りの電車内で食べてしまったのだが、皮を隔てた向こうの果肉はそのままジャムとしかいいようがないぐちゃぐちゃねっとりでうっとり。 こういうイチジクを食べるたびにベンヤミンのことを思いだす。会ったこともないのにね。
あと、どうでもよいのだけどここのヨーグルト売り場、いつ来ても関西弁しゃべる女性のみなさんが、「あ、これやこれや」とかやっているのはなに? なぜ? フランスのヨーグルトがすごい - なんでなのかしら? - はわかるし、だから買うのだけど(高いけどね)。
あとユーロスターの駅にあるAlain Ducasseのチョコレート屋にピーナツバターが出ていたので買った。まだ食べていないが、すごくやばいやつかとてもがっかりかのどっちかだと思われる。
全体としてはやっぱり時間足らなくて、行ってからSally Mannをやっているのを知ったり、あれこれ残念すぎ。
おうちに着いたのは21:30くらいでした。
[log] Paris (1)
14日の土曜日、日帰りでパリに行ってきた。オルセーでのBerthe Morisot展がもうじき終わってしまうから。 ほんとうはもう少し前に行くべきだったのだがこの夏のパリは半端なく暑そうだったし、自分の夏休みとかも入れてしまっていたし、消去法でこの日にちになって、ここがだめだったら平日に会社休むか、くらいになっていた(なんだかずっと時間がなさすぎ)。
いつもは電車で行くのだが週末朝のユーロスターは結構値段が高いので行きは飛行機にした(半額くらい)。でも帰りは瓶だの液体だの生ものだの買いこんだ荷物がいろいろあるので電車にするの。
飛行機でパリに渡ったのは初めてだったのだが、フランス入国(スタンプ)の待ちの列、パリ市内行きの電車のチケットを買う列が結構長くて時間くって、思っていたほど楽ではなかったかも。どっちもどっちかなあ。
朝5時過ぎに家をでて、オルセーの列に並んだのが11時少し前。飛行機に乗っていたのは正味1時間ちょっとだけだったのに。 天気はかんかん照りで気温は25℃くらい。 ぜったいまだ夏のまま。
Berthe Morisot
終わってしまう1週間前のMorisot展は結構混んでいた。 前回来たときはRenoir展 - “Renoir père et fils: Peinture et cinéma” - をやっていたスペース。女性(たち)、女性と子供、子供(たち)を描いたものが殆ど、風景画が少しだけ。 明るい光の元、軽くブラッシュしたタッチの油彩が多くて、人物たちは向こう側が透けて見えるくらい透明でこちらを向いていたとしても表情のはっきり確認できないものもあったりして、その数の多さと、この透度ってなんなのだろう、と。
例えばこれと同じような透明さ儚さを感じさせる絵画って、自分にとってはムンクだったりするのだが、彼とはまったく正反対の場所から真逆の眼差しや想いで存在の希薄さを見つめている気がする。その対象がほんとうにそういうものだったとしても。
そしてその希薄さって当時の印象派の連中が印象の名の下に押しやる素ぶりをしつつ、実はくろぐろと浮かびあがらせようとしたむっちりとした輪郭の実存たちとは明らかに異なる、本質的に透明ななにかで、これらに「印象」のラベルを貼って、しかもそこにわざわざ「女性の」なんてつけてしまうことは冒瀆に近いのではないか、って。むかし、ドイツ(確かフランクフルト)で、印象派の女性たち、のような展覧会があって、そこにはMorisotの絵も入っていたのだが、そこで感じた微妙な違和感がこうした単独の展示を見ると、そんなに間違っていなかったのではないか、って。
The Fear of Loving. Orsay through the eyes of Tracey Emin
Tracey Eminさんの個展は今年の2月にWhite Cubeで見た”A Fortnight of Tears”がなかなか重かった(よい意味)のでどうしよう、だったのだがMorisot展の真下でやっていたので見る。彼女のシンプルなドローイングと詩と彼女がオルセーのコレクションから選んだ古今のドローイングを。ドガのエロチックなのとか、Théophile Steinlenの猫(数匹)とか。
“I have no fear to be alone - My Fear of loving is losing you.” ていう壁の一節がしみる。
日帰りでもランチくらいはきちんと食べたい、ということで小走りでLa Fontaine de Marsっていうビストロに向かい、かたつむりとカスレ戴いてお腹いっぱいになって次のMusée Marmottan Monetに。
いったん切りましょう。
いつもは電車で行くのだが週末朝のユーロスターは結構値段が高いので行きは飛行機にした(半額くらい)。でも帰りは瓶だの液体だの生ものだの買いこんだ荷物がいろいろあるので電車にするの。
飛行機でパリに渡ったのは初めてだったのだが、フランス入国(スタンプ)の待ちの列、パリ市内行きの電車のチケットを買う列が結構長くて時間くって、思っていたほど楽ではなかったかも。どっちもどっちかなあ。
朝5時過ぎに家をでて、オルセーの列に並んだのが11時少し前。飛行機に乗っていたのは正味1時間ちょっとだけだったのに。 天気はかんかん照りで気温は25℃くらい。 ぜったいまだ夏のまま。
Berthe Morisot
終わってしまう1週間前のMorisot展は結構混んでいた。 前回来たときはRenoir展 - “Renoir père et fils: Peinture et cinéma” - をやっていたスペース。女性(たち)、女性と子供、子供(たち)を描いたものが殆ど、風景画が少しだけ。 明るい光の元、軽くブラッシュしたタッチの油彩が多くて、人物たちは向こう側が透けて見えるくらい透明でこちらを向いていたとしても表情のはっきり確認できないものもあったりして、その数の多さと、この透度ってなんなのだろう、と。
例えばこれと同じような透明さ儚さを感じさせる絵画って、自分にとってはムンクだったりするのだが、彼とはまったく正反対の場所から真逆の眼差しや想いで存在の希薄さを見つめている気がする。その対象がほんとうにそういうものだったとしても。
そしてその希薄さって当時の印象派の連中が印象の名の下に押しやる素ぶりをしつつ、実はくろぐろと浮かびあがらせようとしたむっちりとした輪郭の実存たちとは明らかに異なる、本質的に透明ななにかで、これらに「印象」のラベルを貼って、しかもそこにわざわざ「女性の」なんてつけてしまうことは冒瀆に近いのではないか、って。むかし、ドイツ(確かフランクフルト)で、印象派の女性たち、のような展覧会があって、そこにはMorisotの絵も入っていたのだが、そこで感じた微妙な違和感がこうした単独の展示を見ると、そんなに間違っていなかったのではないか、って。
The Fear of Loving. Orsay through the eyes of Tracey Emin
Tracey Eminさんの個展は今年の2月にWhite Cubeで見た”A Fortnight of Tears”がなかなか重かった(よい意味)のでどうしよう、だったのだがMorisot展の真下でやっていたので見る。彼女のシンプルなドローイングと詩と彼女がオルセーのコレクションから選んだ古今のドローイングを。ドガのエロチックなのとか、Théophile Steinlenの猫(数匹)とか。
“I have no fear to be alone - My Fear of loving is losing you.” ていう壁の一節がしみる。
日帰りでもランチくらいはきちんと食べたい、ということで小走りでLa Fontaine de Marsっていうビストロに向かい、かたつむりとカスレ戴いてお腹いっぱいになって次のMusée Marmottan Monetに。
いったん切りましょう。
9.16.2019
[film] To Catch a Thief (1955)
2日月曜日の晩、BFIのCary Grant特集で見ました。 邦題は『泥棒成金』- このタイトル、よくわかんないよね。泥棒と成金、どっちがどう、それがどうした? ってのと、これって別に成金がどーしたって話じゃないし。
リヴィエラのリゾート地でお金持ちの宝石を狙った強盗事件が多発し、その手口から既に引退している元強盗 - John "The Cat" Robie (Cary Grant)の犯行が疑われて、”The Cat”は自身の潔白を示すことと、自分の手口をコピーされたことへのふざけんな、があって、その途上でぴかぴかのお嬢さまのFrances (Grace Kelly)とも仲良くなるのだが、彼女の母親の宝石も狙われて。
それまでの”Suspicion” (1941)や”Notorious” (1946)の主人公が湛えていた得体の知れない黒さ不気味さはやや後ろにいって、どちらかというと彼自身が自身の影のような、得体の知れない何かを追うはめになる – それも昼間の、リヴィエラの陽光のなかで、という眩しいおもしろさはあるのだが、どちらかというと軽めのRom-comみたいのを狙ったのかしら、って。
Cary GrantとGrace Kellyの相性もカラーのせいもあるのかもしれないが、なんか互いの色みを向こう側に弾いているように見えてしまうところがあって、くっついてもくっつかなくても景色がきれいで絵になればどっちでもいいや、みたいなかんじが漂う。 最初に車でドライブして高台でチキン食べて、チキン食べてそのままキスしちゃうのかー、とかね。 リヴィエラはふたりにとってこの後ずっと忘れられない土地になったようだからよかったのかもだけど。
Shadows and Light: Alfred Hitchcock and Cary Grant
2日の月曜日、”To Catch a Thief”の前に1時間強、Queen Mary University of Londonで映画史を担当しているMark Glancy教授からこのタイトルでのレクチャーとQ&Aがあった。
この方はLAまで飛んで、HitchcockとCary Grantの現存する全ての手紙のやりとりを調査したことがあるそうで、それを見る限りではふたりは本当に仲がよかった – 仕事に関するやりとりはあまりなくて、心をこめた季節のグリーティングや誕生日おめでとう、ばかりで、本当に敬愛しあっていたそう。 撮影の現場でもGrantのコメントだけはHitchcockはきちんと聞いて対応していた、と。
Hitchcockは1899年、Grantは1904年、共にイギリスの地方のあまり裕福でない商家に生まれて、ハリウッドに渡ってからも苦労して、なのでいろいろ通じ合うところもあったみたい。
そんなふたりは1939年に出会って、Hitchcockは最初に”Mr. & Mrs. Smith” (1941)の主演を持ちかけたのだが、Grantはコメディではなく悪役をやりたがったので、この役はRobert Montgomeryに行ったのだそう。(あー見たかったなー)
で、実際のところ”Rope” (1948)も”I Confess” (1953)も”Dial M for Murder” (1954)もぜんぶGrantに主演して貰いたかったそうなのだが、その頃にはGrantは大スターで手が届かなくて、”The Bird” (1963)にも誘ったのだが、鳥? 冗談でしょ、みたいなかんじだったって。
一番ううー、て思ったのは、”Notorious” (1946)の後に企画されて、プレスリリースまでされたという”Hamlet”だよね。 想像しただけでなんかむずむずするわ。
R.I.P. Rick Ocasek - はもちろんなのだが、マンハッタンのボタン屋 - Tender Buttonsの閉店が悲しい。
昔住んでいた頃、近所だったのでよく行った(ほとんど買わなかったけど、ごめんなさい)。
ボタンてほんと不思議なやつだねえ、ってしみじみ思った。 閉店すること知っていたらこないだ行けばよかったー。
リヴィエラのリゾート地でお金持ちの宝石を狙った強盗事件が多発し、その手口から既に引退している元強盗 - John "The Cat" Robie (Cary Grant)の犯行が疑われて、”The Cat”は自身の潔白を示すことと、自分の手口をコピーされたことへのふざけんな、があって、その途上でぴかぴかのお嬢さまのFrances (Grace Kelly)とも仲良くなるのだが、彼女の母親の宝石も狙われて。
それまでの”Suspicion” (1941)や”Notorious” (1946)の主人公が湛えていた得体の知れない黒さ不気味さはやや後ろにいって、どちらかというと彼自身が自身の影のような、得体の知れない何かを追うはめになる – それも昼間の、リヴィエラの陽光のなかで、という眩しいおもしろさはあるのだが、どちらかというと軽めのRom-comみたいのを狙ったのかしら、って。
Cary GrantとGrace Kellyの相性もカラーのせいもあるのかもしれないが、なんか互いの色みを向こう側に弾いているように見えてしまうところがあって、くっついてもくっつかなくても景色がきれいで絵になればどっちでもいいや、みたいなかんじが漂う。 最初に車でドライブして高台でチキン食べて、チキン食べてそのままキスしちゃうのかー、とかね。 リヴィエラはふたりにとってこの後ずっと忘れられない土地になったようだからよかったのかもだけど。
Shadows and Light: Alfred Hitchcock and Cary Grant
2日の月曜日、”To Catch a Thief”の前に1時間強、Queen Mary University of Londonで映画史を担当しているMark Glancy教授からこのタイトルでのレクチャーとQ&Aがあった。
この方はLAまで飛んで、HitchcockとCary Grantの現存する全ての手紙のやりとりを調査したことがあるそうで、それを見る限りではふたりは本当に仲がよかった – 仕事に関するやりとりはあまりなくて、心をこめた季節のグリーティングや誕生日おめでとう、ばかりで、本当に敬愛しあっていたそう。 撮影の現場でもGrantのコメントだけはHitchcockはきちんと聞いて対応していた、と。
Hitchcockは1899年、Grantは1904年、共にイギリスの地方のあまり裕福でない商家に生まれて、ハリウッドに渡ってからも苦労して、なのでいろいろ通じ合うところもあったみたい。
そんなふたりは1939年に出会って、Hitchcockは最初に”Mr. & Mrs. Smith” (1941)の主演を持ちかけたのだが、Grantはコメディではなく悪役をやりたがったので、この役はRobert Montgomeryに行ったのだそう。(あー見たかったなー)
で、実際のところ”Rope” (1948)も”I Confess” (1953)も”Dial M for Murder” (1954)もぜんぶGrantに主演して貰いたかったそうなのだが、その頃にはGrantは大スターで手が届かなくて、”The Bird” (1963)にも誘ったのだが、鳥? 冗談でしょ、みたいなかんじだったって。
一番ううー、て思ったのは、”Notorious” (1946)の後に企画されて、プレスリリースまでされたという”Hamlet”だよね。 想像しただけでなんかむずむずするわ。
R.I.P. Rick Ocasek - はもちろんなのだが、マンハッタンのボタン屋 - Tender Buttonsの閉店が悲しい。
昔住んでいた頃、近所だったのでよく行った(ほとんど買わなかったけど、ごめんなさい)。
ボタンてほんと不思議なやつだねえ、ってしみじみ思った。 閉店すること知っていたらこないだ行けばよかったー。
[film] And Now for Something Completely Different (1971)
少し戻って、1日、日曜日の午後、”Tinker Tailor Soldier Spy” (1979)の後にBFIで見ました。(どちらも英国の”Circus”に関わるお話だね) この9月はMonty Pythonの50周年を記念した特集が組まれていて、初期の珍品からなにからいろいろ掘りだして起こして、Michael Palinは来れないけどTerry Gilliam やNeil Innesはゲストでちょっとだけ顔出すみたいだし、14-15の週末はFlying Circusの全エピソードマラソン上映とかやっていた。 そりゃ見たいけど他にもいろいろあって難しくてさー(泣)。
“And Now for Something Completely Different”はMonty Pythonチームが米国進出を試みようとした71年、プロモーション用に当時のスケッチをリテイクして束ねて作ったオムニバスみたいなやつで、米国進出は結果的に失敗してしまった- 認知されるようになったのはこの映画ではなく74年にPBS(TV)がオリジナルを放映し始めてから - のだが、イントロでは進出のきっかけを作った英国Playboy誌の家族の方とか米国側のマネージャーだった女性の話があり、予算はたった£80,000だったとか提示された条件もきつくて、まあ難しかったんだろうなー、って。 Monty PythonのギャグもSNLのもどっちも好きだけどなー。
最初に99年の30周年記念の際に作られたドキュメンタリー”Pythonland”。 Michael Palinがロンドン各地のMonty Pythonゆかりの地を訪れて、Blue Plaque(公認の偉人が生まれたり住んだりしていた場所に貼られる青丸の石版 – でもここのは冗談なので厚紙)を貼っていく、というもので、そこで活躍するのが日本で出版された『モンティ・パイソン大全』(あったねえー)に載っている日本のファンが作ってくれたというロンドンマップで、そういうのも含めたもったいぶった重箱の隅感がMonty Pythonとしか言いようがないの。
“And Now..”の方は見たことがあるやつも随分あって、どれがどんなふうにおもしろいのかを書くのは難しいので書かないけど(見ればいっぱつだよ)、興味があるひとはネットとかで見てみて。 既に確立されたなにか(例えば権威)に全力で(or 骨抜き脱力で)タックルしてぐじゃぐじゃにかき混ぜて、でも互いになんもなかったかのように平然としてて、それを最後に改めてふっとばして、でもそれらは何度でも蘇って襲ってくるので止まらない。 そういうのをアニメーション(by Terry Gilliam)も含めて執拗に仕掛けてくるのが彼らのギャグで、中毒性が高いし実際に劇物だし、でも古典落語みたいに100年経っても愛されていく気がする。
Michael Palin & John Cleese’s Pick of Python Influences
4日、金曜日の晩にBFIのMonty Python特集で見ました。
Michael PalinとJohn Cleeseのセレクションによる、Monty Pythonに影響を与えた60年代のTVコメディから3本分を紹介。 スケジュールした際には Michael Palinに来て喋ってもらう予定だったのだが、彼が心臓外科手術を受けたりしたのでできなくなってしまった、とのこと。
上映されたのは”The Goon Show: Tales of Men’s Shirts”(1968), “Q5” (1969), “Not Only... But Also” (1965)で、どのプログラムも30~45分くらいのプログラムで、最初の2つはラジオ向けのコメディを手掛けていたSpike Milliganによるスケッチで、無責任に転嫁して延焼して転がって収拾つかなくなるギャグのかんじは近いかも。 最後のはPeter CookとDudley Mooreのコンビで、Dudley Mooreトリオが演奏するシーンもあるのだが、それがかっこいいったらなくて、ギャグがやや霞んでしまったかも。
これとは別の特集(確か昨年のコメディ特集)で60年代のTVのコメディプログラムもいくつか見たのだが、とてもレベルが高くて、これだけじゃなくてドラマも当時のを今見ても十分におもしろい。
演劇の舞台できっちり演技をやってきた人達がいて、それを活かせるようにTV製作でのドラマ作りのノウハウがきちんとできてて、それらがベースにあるので英国映画ってあんなふうなんだなー。昔はそれを「よくもわるくも」って思っていたのだが、よいことなのではないか、と昔のウェルメイドな英国映画を見るたびに思う。
“And Now for Something Completely Different”はMonty Pythonチームが米国進出を試みようとした71年、プロモーション用に当時のスケッチをリテイクして束ねて作ったオムニバスみたいなやつで、米国進出は結果的に失敗してしまった- 認知されるようになったのはこの映画ではなく74年にPBS(TV)がオリジナルを放映し始めてから - のだが、イントロでは進出のきっかけを作った英国Playboy誌の家族の方とか米国側のマネージャーだった女性の話があり、予算はたった£80,000だったとか提示された条件もきつくて、まあ難しかったんだろうなー、って。 Monty PythonのギャグもSNLのもどっちも好きだけどなー。
最初に99年の30周年記念の際に作られたドキュメンタリー”Pythonland”。 Michael Palinがロンドン各地のMonty Pythonゆかりの地を訪れて、Blue Plaque(公認の偉人が生まれたり住んだりしていた場所に貼られる青丸の石版 – でもここのは冗談なので厚紙)を貼っていく、というもので、そこで活躍するのが日本で出版された『モンティ・パイソン大全』(あったねえー)に載っている日本のファンが作ってくれたというロンドンマップで、そういうのも含めたもったいぶった重箱の隅感がMonty Pythonとしか言いようがないの。
“And Now..”の方は見たことがあるやつも随分あって、どれがどんなふうにおもしろいのかを書くのは難しいので書かないけど(見ればいっぱつだよ)、興味があるひとはネットとかで見てみて。 既に確立されたなにか(例えば権威)に全力で(or 骨抜き脱力で)タックルしてぐじゃぐじゃにかき混ぜて、でも互いになんもなかったかのように平然としてて、それを最後に改めてふっとばして、でもそれらは何度でも蘇って襲ってくるので止まらない。 そういうのをアニメーション(by Terry Gilliam)も含めて執拗に仕掛けてくるのが彼らのギャグで、中毒性が高いし実際に劇物だし、でも古典落語みたいに100年経っても愛されていく気がする。
Michael Palin & John Cleese’s Pick of Python Influences
4日、金曜日の晩にBFIのMonty Python特集で見ました。
Michael PalinとJohn Cleeseのセレクションによる、Monty Pythonに影響を与えた60年代のTVコメディから3本分を紹介。 スケジュールした際には Michael Palinに来て喋ってもらう予定だったのだが、彼が心臓外科手術を受けたりしたのでできなくなってしまった、とのこと。
上映されたのは”The Goon Show: Tales of Men’s Shirts”(1968), “Q5” (1969), “Not Only... But Also” (1965)で、どのプログラムも30~45分くらいのプログラムで、最初の2つはラジオ向けのコメディを手掛けていたSpike Milliganによるスケッチで、無責任に転嫁して延焼して転がって収拾つかなくなるギャグのかんじは近いかも。 最後のはPeter CookとDudley Mooreのコンビで、Dudley Mooreトリオが演奏するシーンもあるのだが、それがかっこいいったらなくて、ギャグがやや霞んでしまったかも。
これとは別の特集(確か昨年のコメディ特集)で60年代のTVのコメディプログラムもいくつか見たのだが、とてもレベルが高くて、これだけじゃなくてドラマも当時のを今見ても十分におもしろい。
演劇の舞台できっちり演技をやってきた人達がいて、それを活かせるようにTV製作でのドラマ作りのノウハウがきちんとできてて、それらがベースにあるので英国映画ってあんなふうなんだなー。昔はそれを「よくもわるくも」って思っていたのだが、よいことなのではないか、と昔のウェルメイドな英国映画を見るたびに思う。
9.13.2019
[music] Jonny Greenwood
10日の晩、Royal Albert HallでのBBC Promの#70。これはLate Night Promで、開始が22:15、休憩なしで終わるのが23:45くらい。ご飯ゆっくり食べてから行けるのでこの時間のがいいなー。
この回はJonny Greenwood特集で、彼の作品3曲 – うち1曲は世界初演 - と彼自身のキュレーションによるバロックから現代音楽まで。 全6曲。
時間帯のせいかチケットあるよの宣伝がずっと来ていて、でもだいたい埋まっている。今回はなんとなくステージの真裏の席を取ってみた。
最初がバロック音楽の作曲家Heinrich Ignaz Franz von Biber (1644-1704) による”Mystery (Rosary) Sonata No.16” (1674?)、Daniel Pioroによるヴァイオリンのソロで、間を置かずにPenderecki (b. 1933)の”Sinfonietta for Strings”(1992) の世界に入るとこっちはヴァイオリン34台で、300年以上の隔たりがあり、30倍になった人数構成、にも関わらず、そのギャップのなさに驚く。
続く2曲がJonny Greenwood作ので、彼はでっかいタンブラを抱えて登場し、もう一人のタンブラのひとと床に座ってびょーんびょーんと鳴らしてから”Three Miniatures from ‘Water’ (2018) No.3” というピースを。Philip Larkinの同名の詩にインスパイアされたもので、彼らの他にはピアノとヴァイオリンソロと弦が16台。
続く”88 (No.1)” (2015)は、Katherine Tinkerさんによるピアノソロで、インストラクションには”Like Thelonius Monk copying Glenn Gould playing Bach”とあるのだが、モンクぽかったけど、グールドはどうかしら? この曲の演奏中、彼は前の曲を演奏した場所のステージ床上に体育館座りで膝の間に頭を埋めて動かなくて、曲が終わるとちらっと頭をあげてピアニストの方をみてにっこりした。ピアニストの背中側にいたのでそれが見えた。まるで映画みたいだった。
続くSteve Reichの”Pulse” (2015)が一番ふつうのクラシックぽく、聴きやすいやつに聴こえてしまう不思議。 Jonnyはエレクトリックベースを地味にぶんぶん押さえて、あとはピアノと弦6、菅4。
最後がJonny Greenwood作、BBCから委託された世界初演作 - Horror vacuum for solo violin and 68 strings。この作品になるとJonnyは舞台上から消えて、いるのはオーケストラのみ。
全7楽章で、それぞれには、”Palme Speaker”とか”Digital Delay”とか”Spring Reverb”とか”Tape Echo”とか”AMS Pitch Shift/Reverb Delay”とかインストラクション(?)がついていて、Daniel Pioroのソロが端でひっかきだした最初の音が位相を変えながら横方向に、全体を揺らしたり浸みていったり反響しあったりする百態を描いて、楽章によってはヴァイオリンのボディの穴から息を吹きこんだり楽器の側面を叩いたり床をどかどかしたり多彩で。
全体としては弦楽器への愛を込めつつその可能性を掘りまくる90分で、彼の曲がもつテンションもダイナミズムも弦の張力がもたらすそれで、そこからエモーションが立ちあがるんだなー、って改めて。
彼の映画音楽、“Phantom Thread” (2017)のサントラは好きでよくかけていて(”There Will Be Blood” (2007)はうーむ、だったけど)これも弦 – Thread - がよいのよね。
(さっき帰ってきたらBBC4でこれの収録映像を放映していた。BiberからPendereckiに切り替わる瞬間がとってもかっこいいの)
BBC Prom 63: Yuja Wang plays Rachmaninov
5日 - NYに渡る前の晩にRoyal Albert Hallで見ました。Promの63。
Yuja Wangは昨年もここで見て、クラシック・ピアノ界のSt. Vincentだわかっこいいー(という言い方はどっちにも失礼よね)、だったのでまた見たくて、でも今年もチケットは早々になくなり、公演数日前になんとか取れた。
最初がSergey RachmaninovのPiano Concerto No 3 in D minor(1909)。休憩を挟んでJohannes BrahmsのSymphony No 2 in D major(1877)。 Yuja Wangさんが入るのは前半のみ。
ピアノ協奏曲第3番は、みんなたぶん聴いたことがあるやつ。スラブの抒情とロマンたっぷりでピアノがあんまり見えないようで気がつけばひたひたと背後についていた狼が牙をむいて襲いかかってきて、エンディングはうおおおりゃーってピアノを客席に投げこむかのような勢いと共に終わった。見ているこっちまで肩で息をしてしまうかんじ。
全体の半分なのだがアンコールを求める拍手が止まなくて、3回出てきて、最後は”Tea for Two”をしゃらりふんわか、気持ちよくやった。 彼女、NYのThe Carlyleとか、昔のSupper Clubみたいなところでライブやってくれないかしら。もちろん衣装はそのままで。
続くBrahmsは弦の鳴りがものすごく厚くてよくて、このひとたち誰? と思ったらStaatskapelle Dresdenなのだった。 昔Carnegie Hallで聴いたなー。指揮はシノポリだったなー。
今年のPromsはたぶんこれでおわり。これが終わると秋のいろんなのが始まる。
この回はJonny Greenwood特集で、彼の作品3曲 – うち1曲は世界初演 - と彼自身のキュレーションによるバロックから現代音楽まで。 全6曲。
時間帯のせいかチケットあるよの宣伝がずっと来ていて、でもだいたい埋まっている。今回はなんとなくステージの真裏の席を取ってみた。
最初がバロック音楽の作曲家Heinrich Ignaz Franz von Biber (1644-1704) による”Mystery (Rosary) Sonata No.16” (1674?)、Daniel Pioroによるヴァイオリンのソロで、間を置かずにPenderecki (b. 1933)の”Sinfonietta for Strings”(1992) の世界に入るとこっちはヴァイオリン34台で、300年以上の隔たりがあり、30倍になった人数構成、にも関わらず、そのギャップのなさに驚く。
続く2曲がJonny Greenwood作ので、彼はでっかいタンブラを抱えて登場し、もう一人のタンブラのひとと床に座ってびょーんびょーんと鳴らしてから”Three Miniatures from ‘Water’ (2018) No.3” というピースを。Philip Larkinの同名の詩にインスパイアされたもので、彼らの他にはピアノとヴァイオリンソロと弦が16台。
続く”88 (No.1)” (2015)は、Katherine Tinkerさんによるピアノソロで、インストラクションには”Like Thelonius Monk copying Glenn Gould playing Bach”とあるのだが、モンクぽかったけど、グールドはどうかしら? この曲の演奏中、彼は前の曲を演奏した場所のステージ床上に体育館座りで膝の間に頭を埋めて動かなくて、曲が終わるとちらっと頭をあげてピアニストの方をみてにっこりした。ピアニストの背中側にいたのでそれが見えた。まるで映画みたいだった。
続くSteve Reichの”Pulse” (2015)が一番ふつうのクラシックぽく、聴きやすいやつに聴こえてしまう不思議。 Jonnyはエレクトリックベースを地味にぶんぶん押さえて、あとはピアノと弦6、菅4。
最後がJonny Greenwood作、BBCから委託された世界初演作 - Horror vacuum for solo violin and 68 strings。この作品になるとJonnyは舞台上から消えて、いるのはオーケストラのみ。
全7楽章で、それぞれには、”Palme Speaker”とか”Digital Delay”とか”Spring Reverb”とか”Tape Echo”とか”AMS Pitch Shift/Reverb Delay”とかインストラクション(?)がついていて、Daniel Pioroのソロが端でひっかきだした最初の音が位相を変えながら横方向に、全体を揺らしたり浸みていったり反響しあったりする百態を描いて、楽章によってはヴァイオリンのボディの穴から息を吹きこんだり楽器の側面を叩いたり床をどかどかしたり多彩で。
全体としては弦楽器への愛を込めつつその可能性を掘りまくる90分で、彼の曲がもつテンションもダイナミズムも弦の張力がもたらすそれで、そこからエモーションが立ちあがるんだなー、って改めて。
彼の映画音楽、“Phantom Thread” (2017)のサントラは好きでよくかけていて(”There Will Be Blood” (2007)はうーむ、だったけど)これも弦 – Thread - がよいのよね。
(さっき帰ってきたらBBC4でこれの収録映像を放映していた。BiberからPendereckiに切り替わる瞬間がとってもかっこいいの)
BBC Prom 63: Yuja Wang plays Rachmaninov
5日 - NYに渡る前の晩にRoyal Albert Hallで見ました。Promの63。
Yuja Wangは昨年もここで見て、クラシック・ピアノ界のSt. Vincentだわかっこいいー(という言い方はどっちにも失礼よね)、だったのでまた見たくて、でも今年もチケットは早々になくなり、公演数日前になんとか取れた。
最初がSergey RachmaninovのPiano Concerto No 3 in D minor(1909)。休憩を挟んでJohannes BrahmsのSymphony No 2 in D major(1877)。 Yuja Wangさんが入るのは前半のみ。
ピアノ協奏曲第3番は、みんなたぶん聴いたことがあるやつ。スラブの抒情とロマンたっぷりでピアノがあんまり見えないようで気がつけばひたひたと背後についていた狼が牙をむいて襲いかかってきて、エンディングはうおおおりゃーってピアノを客席に投げこむかのような勢いと共に終わった。見ているこっちまで肩で息をしてしまうかんじ。
全体の半分なのだがアンコールを求める拍手が止まなくて、3回出てきて、最後は”Tea for Two”をしゃらりふんわか、気持ちよくやった。 彼女、NYのThe Carlyleとか、昔のSupper Clubみたいなところでライブやってくれないかしら。もちろん衣装はそのままで。
続くBrahmsは弦の鳴りがものすごく厚くてよくて、このひとたち誰? と思ったらStaatskapelle Dresdenなのだった。 昔Carnegie Hallで聴いたなー。指揮はシノポリだったなー。
今年のPromsはたぶんこれでおわり。これが終わると秋のいろんなのが始まる。
[film] Brittany Runs a Marathon (2019)
8日の日曜日、夕方には戻りの飛行機に乗らねばだったのだが、なんか映画見たいかも、になって、飲茶のあとにAngelika Film Centerに行って、見ました。
ここではほかにRichard Linklaterの新作もやっていたのだが、これはそのうち英国にも来るじゃろ、ていうのと、なんか軽くて楽しいのがいいな、って。 他の映画館だと、Film Forumで”Mr. Klein” (1976)とかLinda Ronstadtのドキュメンタリーとか、Metrograph – 今回行けなかった.. ではShaw Sisters特集とか。
ここのシアターもとても久しぶりで、びっくりしたことに座席が指定制になっていた。でも地下鉄のがたごと音はまだ聞こえてくるし、上映前のクレジット映像なんかも変わらないし。
今年のSundanceでドラマ部門のAudience Awardを受賞している。
Brittany (Jillian Bell)はNYに暮らす20代後半で、目標も野望もなく、振り返りも反省もなく仕事はてきとーに舐めてて、日々楽しければそれでいいや、って動物のように暮らしていると、それらが適正に容赦なく反映されてしまった彼女のボディは、なんとかしないといろんな数値がやばいよ知らないよ、と医者から言われる。
隣人のCatherine (Michaela Watkins)が走っているのを見て、誘われたりしても初めはけっ、だったのだが、ジムとかに通うのはばかみたいに高くつくし、じゃあ軽く走ってみようか、って渋々やってみると初めはきつくてこんなの冗談じゃない、になり、でもだんだんずるずるとはまっていく。
仕事も友人関係も恋愛関係もてきとーにやってきた結果、緩やかな負のスパイラルにはまっていたBrittanyが走り始めてからなんとなく変わって、走るのがおもしろくなって、NYマラソンに出ようとがんばり始めて(そしたら途端に疲労骨折、とか)。
運動したら体重おちて(彼女実際に40lb痩せたって)健康になりました! よかったねー、とか、ビッチがよいこになりました、っていうポジティブなだけの話ならじゅうぶん間に合ってます、なのだが、そこに至るまでの迷いとか混迷とか彷徨いのあれこれが走ること、健康になること、そういうのにはまることへの迷いや懐疑 - それはよくないことにはまっていくときの後ろめたさと等価なよう - まで含めてとってもこまこま具体的に描かれていて、おもしろい。
ダメだった(ダメだと思っていた)女子がなにかのきっかけで変わっていく映画として、例えば、”Trainwreck” (2015)とか”I Feel Pretty” (2018) があったが、ここのBrittany がいちばん「健全」で、だからなに? ではあるのだが、その描き方がマラソンが変えてくれたから、ではなくてとにかくなんとか自分で変えた変わった、になっているところが爽やかさをもたらしていて、それゆえなのかなんなのか最後はちょっと感動してしまったりもする (NYマラソンの本番でドキュメンタリーじゃない映画のロケをしたのは初めてだったという)
そんなにすばらしいのならマラソンでもやってみようじゃないか、にならないところもよくて、しばらくしたら元に戻り、次のなにかに手を付ける、っていう、さすらいのBrittany ものとしてシリーズ化してほしい。Jillian Bellさん、すばらしいし。
NYマラソンて、走ってみたいかも、って昔調べたりしてみたことがあって、でもエントリーまでの手続き関係の面倒さで諦めた。なのであそこで走っているだけでみんなあれらを乗り越えてきたすごい人達なんだわ、って尊敬してしまうの。
ここではほかにRichard Linklaterの新作もやっていたのだが、これはそのうち英国にも来るじゃろ、ていうのと、なんか軽くて楽しいのがいいな、って。 他の映画館だと、Film Forumで”Mr. Klein” (1976)とかLinda Ronstadtのドキュメンタリーとか、Metrograph – 今回行けなかった.. ではShaw Sisters特集とか。
ここのシアターもとても久しぶりで、びっくりしたことに座席が指定制になっていた。でも地下鉄のがたごと音はまだ聞こえてくるし、上映前のクレジット映像なんかも変わらないし。
今年のSundanceでドラマ部門のAudience Awardを受賞している。
Brittany (Jillian Bell)はNYに暮らす20代後半で、目標も野望もなく、振り返りも反省もなく仕事はてきとーに舐めてて、日々楽しければそれでいいや、って動物のように暮らしていると、それらが適正に容赦なく反映されてしまった彼女のボディは、なんとかしないといろんな数値がやばいよ知らないよ、と医者から言われる。
隣人のCatherine (Michaela Watkins)が走っているのを見て、誘われたりしても初めはけっ、だったのだが、ジムとかに通うのはばかみたいに高くつくし、じゃあ軽く走ってみようか、って渋々やってみると初めはきつくてこんなの冗談じゃない、になり、でもだんだんずるずるとはまっていく。
仕事も友人関係も恋愛関係もてきとーにやってきた結果、緩やかな負のスパイラルにはまっていたBrittanyが走り始めてからなんとなく変わって、走るのがおもしろくなって、NYマラソンに出ようとがんばり始めて(そしたら途端に疲労骨折、とか)。
運動したら体重おちて(彼女実際に40lb痩せたって)健康になりました! よかったねー、とか、ビッチがよいこになりました、っていうポジティブなだけの話ならじゅうぶん間に合ってます、なのだが、そこに至るまでの迷いとか混迷とか彷徨いのあれこれが走ること、健康になること、そういうのにはまることへの迷いや懐疑 - それはよくないことにはまっていくときの後ろめたさと等価なよう - まで含めてとってもこまこま具体的に描かれていて、おもしろい。
ダメだった(ダメだと思っていた)女子がなにかのきっかけで変わっていく映画として、例えば、”Trainwreck” (2015)とか”I Feel Pretty” (2018) があったが、ここのBrittany がいちばん「健全」で、だからなに? ではあるのだが、その描き方がマラソンが変えてくれたから、ではなくてとにかくなんとか自分で変えた変わった、になっているところが爽やかさをもたらしていて、それゆえなのかなんなのか最後はちょっと感動してしまったりもする (NYマラソンの本番でドキュメンタリーじゃない映画のロケをしたのは初めてだったという)
そんなにすばらしいのならマラソンでもやってみようじゃないか、にならないところもよくて、しばらくしたら元に戻り、次のなにかに手を付ける、っていう、さすらいのBrittany ものとしてシリーズ化してほしい。Jillian Bellさん、すばらしいし。
NYマラソンて、走ってみたいかも、って昔調べたりしてみたことがあって、でもエントリーまでの手続き関係の面倒さで諦めた。なのであそこで走っているだけでみんなあれらを乗り越えてきたすごい人達なんだわ、って尊敬してしまうの。
9.11.2019
[log] NY (2)
7日土曜日のごごを中心に。 美術館を終えて、買い物&食べ物編 –そんなにないけど。
ずっと通っているロンドンの古書店 - Second ShelfのA. N. DeversさんがBrooklyn Antiquarian Book Fairていうのに出店するよ、と言ってて(この人はこの前日にSmithsonianで講演とかしていた)、丁度日にちが合うので顔だしてみようか- 場所はどの辺かしら、と探してみたら、GreenpointのAcademy Records Annexの真裏だったのでのけぞって、なんかの神様がおまえはこの地帯で散財しろって言っているんだわ、って。
Academy Recordsはこの場所に来る前はWilliamsburgにあって、その前はEast Village (いまの12th stのとは別の場所)にあって、その頃からここには通っているので軽く15年くらい。あの頃はここがあって、そのまま歩いてOther Musicにも行けて、充実していたなー。
あと、Academy Records Annexって、日本でも公開された映画”Hearts Beat Loud” (2018)で、Nick Offermanのパパがやっていたレコ屋のセット、はこのお店、なの。
Book Fairはロンドンのにいくつか行き始めた程度の素人なのだが、ロンドンのと比べると敷居が低くて縁日の屋台・露店感が強くて、まわってて楽しかったかも。見るからに古文書みたいなプロ向けのはあまりなくて、かわりにスクラップとかチラシ系がいっぱいあるような気がした。 ここだけじゃなんとも、だろうけど。
Second Shelfはあらあらまあまあ、あなたこのために来たの?( - まさかー)とかそういう会話をして、おみあげに一冊買った。 隣に出店していたLeft Bank Booksもとてもよいセレクションで、うーって唸ったのだが、後で調べたらここは昔お店に行ったことがあったのだった。
他の店でも魅力的な、ほしいのはいっぱい出てきたのだが、このあとAcademyも行くし、Wordも行くし、Rough Tradeも行くし、Mast Booksも行くし、McNallyも行くし、Housing Worksも行くし、Strandの3階も行くし、あとでなにかのけぞるくらいすごいのに出くわして後悔したって知らないからな、ってクビの後ろでなにかが囁くので、えいっ、て振りきってそこを出た。
その裏のAcademy Recordsはレア盤も含めた全体の量がすごくなっていて(アナログの流通量が増しているから?)、普通に攻めたら軽く2時間くらいかかりそうだったので7inchだけにした。7inchなら持ち運びも簡単だし。The Theの"Controversial Subject" (1980)とか見つけた。
ここから先は、何を求めて何に押されているのか何が押しているのか引いているのか、自分でもよくわからない彷徨いが始まり、これはどこの街に行っても起こることなのでどうしようもないのだが、NYのは体が勝手に動いていくかんじがあって、やっぱり楽しい。たぶんあと数年したら老人の徘徊になってしまうのだろうな。
ものすごい掘り出しものはなくて、でもそれなりにあれこれ買えたのでよかったかな、と。
新刊本で最後まで買おうかどうしようか悩んでいたのはこないだRizzoliから出た”Ray Gun: The Bible of Music and Style”で、Liz PhairやWayne Coyneが文章を寄せている。どっしりかっちりした90年代のエディトリアル集大成本だったが、やっぱりあれを雑誌でやった、雑誌だからやった、ところがすごかったのよねー、と思って留まった。 しばらくは古雑誌漁りを続けよう。
話は逸れるけど、古雑誌もおもしろくて、こないだ買った30年代の文芸誌、Gertrude Stein、Ezra Pound、Jean Cocteau、E.E. Cummings、Henry Millerなんかがふつうに載ってるの。
お食事 – 晩2つ、昼2つ。
最初の晩は数年ぶりにRoman’sを訪れ、暗くてよくわからないのだがとにかくものすごくおいしいイタリアンを食べて、土曜日の昼はGreenpointのChez Ma TanteでAbsoluteのリストに入っていたパンケーキ – シンプルなふっくら系ではない、たぶん賛否ありそうな - を食べて、その晩はいつものようにPruneで、牡蠣フライとラムのT-Bone(なんてはじめて)を食べて、日曜日の昼はチャイナタウンで飲茶をした。
チャイナタウンの飲茶は久々で、ロンドンのチャイナタウンにもあるけどやはりぜんぜん違うのよねー。
入口からごった返して紛争状態で、やっと相席の丸テーブルにつくとお皿を乗っけたカートが巡ってくるのをひたすら念じて待って、来ても英語通じないので中味がなんなのかわかんないのもあったり、今回は粽と豆腐花があったのでうれしかった。 チャイナタウン、無くなったお店もあるけど、まだ残っているのもいっぱいあって、残っているのってどうやって維持しているのだろう、だって20年以上レイアウトもなんも変えていないとことかあるし。
今年も911が来ました。 18年が経った、と。起こった当時、18年後がくる/あるなんて思ってもみなかったが、ひとつだけ強く思ったのはこれが起こったことを今後なにがあってもぜったい忘れてはいけないのだ、と。 そして実際に忘れることはない。
忘れないと強く念じているから、というよりも傷のようにどうしようもなく強く残ってしまって消えない。ある人々にとっての戦争も原爆も地震も津波もおそらくそういうもので、その記憶と共に生きるというのはこういうことなのか、と18年も経ったのならそう言ってみても許されるだろうか? ていうのと、それはそうと世界はあれからちっとも良くなっていないんじゃないか、テロ防止の名目で人々を排除して分断して憎悪と絶望を煽ってそれを上から押さえこんで、ほんとなにやってるのさ、ていうのと。
下から上にまっすぐ昇っていく2本の光に祈る。
ああ、Daniel Johnstonまで…
ずっと通っているロンドンの古書店 - Second ShelfのA. N. DeversさんがBrooklyn Antiquarian Book Fairていうのに出店するよ、と言ってて(この人はこの前日にSmithsonianで講演とかしていた)、丁度日にちが合うので顔だしてみようか- 場所はどの辺かしら、と探してみたら、GreenpointのAcademy Records Annexの真裏だったのでのけぞって、なんかの神様がおまえはこの地帯で散財しろって言っているんだわ、って。
Academy Recordsはこの場所に来る前はWilliamsburgにあって、その前はEast Village (いまの12th stのとは別の場所)にあって、その頃からここには通っているので軽く15年くらい。あの頃はここがあって、そのまま歩いてOther Musicにも行けて、充実していたなー。
あと、Academy Records Annexって、日本でも公開された映画”Hearts Beat Loud” (2018)で、Nick Offermanのパパがやっていたレコ屋のセット、はこのお店、なの。
Book Fairはロンドンのにいくつか行き始めた程度の素人なのだが、ロンドンのと比べると敷居が低くて縁日の屋台・露店感が強くて、まわってて楽しかったかも。見るからに古文書みたいなプロ向けのはあまりなくて、かわりにスクラップとかチラシ系がいっぱいあるような気がした。 ここだけじゃなんとも、だろうけど。
Second Shelfはあらあらまあまあ、あなたこのために来たの?( - まさかー)とかそういう会話をして、おみあげに一冊買った。 隣に出店していたLeft Bank Booksもとてもよいセレクションで、うーって唸ったのだが、後で調べたらここは昔お店に行ったことがあったのだった。
他の店でも魅力的な、ほしいのはいっぱい出てきたのだが、このあとAcademyも行くし、Wordも行くし、Rough Tradeも行くし、Mast Booksも行くし、McNallyも行くし、Housing Worksも行くし、Strandの3階も行くし、あとでなにかのけぞるくらいすごいのに出くわして後悔したって知らないからな、ってクビの後ろでなにかが囁くので、えいっ、て振りきってそこを出た。
その裏のAcademy Recordsはレア盤も含めた全体の量がすごくなっていて(アナログの流通量が増しているから?)、普通に攻めたら軽く2時間くらいかかりそうだったので7inchだけにした。7inchなら持ち運びも簡単だし。The Theの"Controversial Subject" (1980)とか見つけた。
ここから先は、何を求めて何に押されているのか何が押しているのか引いているのか、自分でもよくわからない彷徨いが始まり、これはどこの街に行っても起こることなのでどうしようもないのだが、NYのは体が勝手に動いていくかんじがあって、やっぱり楽しい。たぶんあと数年したら老人の徘徊になってしまうのだろうな。
ものすごい掘り出しものはなくて、でもそれなりにあれこれ買えたのでよかったかな、と。
新刊本で最後まで買おうかどうしようか悩んでいたのはこないだRizzoliから出た”Ray Gun: The Bible of Music and Style”で、Liz PhairやWayne Coyneが文章を寄せている。どっしりかっちりした90年代のエディトリアル集大成本だったが、やっぱりあれを雑誌でやった、雑誌だからやった、ところがすごかったのよねー、と思って留まった。 しばらくは古雑誌漁りを続けよう。
話は逸れるけど、古雑誌もおもしろくて、こないだ買った30年代の文芸誌、Gertrude Stein、Ezra Pound、Jean Cocteau、E.E. Cummings、Henry Millerなんかがふつうに載ってるの。
お食事 – 晩2つ、昼2つ。
最初の晩は数年ぶりにRoman’sを訪れ、暗くてよくわからないのだがとにかくものすごくおいしいイタリアンを食べて、土曜日の昼はGreenpointのChez Ma TanteでAbsoluteのリストに入っていたパンケーキ – シンプルなふっくら系ではない、たぶん賛否ありそうな - を食べて、その晩はいつものようにPruneで、牡蠣フライとラムのT-Bone(なんてはじめて)を食べて、日曜日の昼はチャイナタウンで飲茶をした。
チャイナタウンの飲茶は久々で、ロンドンのチャイナタウンにもあるけどやはりぜんぜん違うのよねー。
入口からごった返して紛争状態で、やっと相席の丸テーブルにつくとお皿を乗っけたカートが巡ってくるのをひたすら念じて待って、来ても英語通じないので中味がなんなのかわかんないのもあったり、今回は粽と豆腐花があったのでうれしかった。 チャイナタウン、無くなったお店もあるけど、まだ残っているのもいっぱいあって、残っているのってどうやって維持しているのだろう、だって20年以上レイアウトもなんも変えていないとことかあるし。
今年も911が来ました。 18年が経った、と。起こった当時、18年後がくる/あるなんて思ってもみなかったが、ひとつだけ強く思ったのはこれが起こったことを今後なにがあってもぜったい忘れてはいけないのだ、と。 そして実際に忘れることはない。
忘れないと強く念じているから、というよりも傷のようにどうしようもなく強く残ってしまって消えない。ある人々にとっての戦争も原爆も地震も津波もおそらくそういうもので、その記憶と共に生きるというのはこういうことなのか、と18年も経ったのならそう言ってみても許されるだろうか? ていうのと、それはそうと世界はあれからちっとも良くなっていないんじゃないか、テロ防止の名目で人々を排除して分断して憎悪と絶望を煽ってそれを上から押さえこんで、ほんとなにやってるのさ、ていうのと。
下から上にまっすぐ昇っていく2本の光に祈る。
ああ、Daniel Johnstonまで…
9.10.2019
[log] NY (1)
6日金曜日の朝にNew Yorkに飛んで、9日月曜日の朝に戻ってきました。忘れてしまわないうちにメモを(ってやっているうちにその前のやつらを忘れてしまうこのごろ)。
今回の旅は5月初に出張で来たとき、日曜日の自由時間が雨で寒くてどこ行っても全壊だったことのリベンジで、MetのCampのも終わりそうだし、でも時間ないし、でもとにかく行くんだろ行きたいんだろ、って、現地2泊機中1泊で。
Neue Galerieは狭間、MoMAは改装で休み、BowaryのICPはなくなっていて、ライブはThe Raconteursに行きたかったけどSold outで、それでも。
6日、昼過ぎにJFKに降りたち、入管で少し時間がかかり(ESTAではなくVISAなので)、地下鉄でダウンタウンに入ったときは15時くらいで雨ざあざあ、既にじゅうぶんしょうもないかんじだった。
こんな程度でなんかへの愛を試そうとしているのだとしたら、試されてやろうじゃないか(←典型的なストーカーの回路)。
最初にMorgan Library & Museumに。
Walt Whitman: Bard of Democracy
生誕200年を記念した展示で、『草の葉』は版の違いも含めてたっぷり、草稿に原稿にOscar Wildeとの、Ralph Waldo Emersonとの交流とか、Brooklyn - NYの都市生活者としての視線や側面も盛りこみ、更に現代へのEchoとしてAllen Ginsbergと、Hockneyの”Adhesiveness” (1960)が展示されている。彼の本の紹介として、”Democracy” - “Sex Lust” - “The worship of the body” ってあって、これって今の時代のだよね、って。
Drawing the Curtain: Maurice Sendak’s Designs for Opera and Ballet
Whitmanの反対側でSendakの、彼の舞台アートを中心に、彼が手掛けた舞台の被り物とかセットデザイン、スケッチとか、『魔笛』にヤナーチェクの『利口な女狐の物語』に『くるみ割り人形』にプロコイエフの『三つのオレンジへの恋』に、『かいじゅうたちのいるところ』のナッセンによるオペラ版とか、どいつもこいつも、としか言いようのないかわいさ –でもぜったい爪とか牙とか一癖ある – に溢れていてたまんない。 彼の絵本からそのまま飛びだしてこっちに向かってくるような活きた勢いがあるの。
Hogarth: Cruelty and Humor
英国のWilliam Hogarth (1697–1764)によるエッチング - ”Beer Street and Gin Lane” (1751)と”The Four Stages of Cruelty” (1751)の展示。犬がげろげろしていたり臓物がびろびろしていたり、全体としては酔っぱらい戯画のお茶目さがあって、いくらでも見ていられる。
土曜日に雨はあがって、朝いちでMetropolitan Museumに並ぶ。
Camp: Notes on Fashion
最初に言葉としてのCampの起源とか概念の説明が当時の絵文化説明つきであって、続けてOscar Wildeがあり、Christopher Isherwoodがあり、Susan Sontagがあり、そこから先はそれらを体現するファッションいろいろ見本市、みたいな。そもそもが形容詞だったり副詞だったり状態だったり態度だったり振る舞いだったり、その遷移や受容の線だったり、ものすごく漠として曖昧で、その曖昧さの境界を踏みだしてみる、みたいなところまで含んでなんでもありのやつ、それがCampというものなので、展示としてはあんなもんなのかしら。 水族館の水槽みたいなのに並べて展示、も一案だとは思うけど、もっと過剰にでたらめにごちゃごちゃしていてもよかったかも。 被りモノの人がその辺に突っ立っているとか。
あと、タイトルからしてオトナのおしゃれさん・ツウ好み向けの展示だと思った。子供にもCampって楽しくて素敵なんだよ、ってわかるような配慮があってもよかったのではないかしら。
あと、前日にWhitman – Wildeコネクションを見ていたので、Whitmanを出してもよかったのでは、とか。
Epic Abstraction: Pollock to Herrera
Campの横でやっていたのでそのまま流れて。Pollockの”Autumn Rhythm” (1950)を見てああ秋だわ、って思って、その次のMark Rothkoで更にしんみりする。でっかい抽象画がどかどか並んで、彫刻・オブジェがすこしだけ。Joan Mitchellの“La Vie en Rose” (1979)とかCy Twomblyとか、Lee Krasnerも。
この大きさ、この面(めん)、によって表象されなければいけなかった何か、とは一体なんだったのか。
Apollo's Muse: The Moon in the Age of Photography
月面着陸50周年記念で、月面写真だけでなく、昔から続く月面アートも含めて展示している。
ばたばたと駆け抜けてしまったのだが、ひょっとしてウサギとかいた?
Play It Loud: Instruments of Rock and Roll
なんでMetがR&Rを? と思ったのだがMetには古代からの楽器の展示コーナーもあって、ここではRock and Rollで使われてきた楽器を展示しているのだった。当然のようにRock & Roll Hall of Fameとかが横にいる。
なので有名なミュージシャンが使ってきた歴代の名器(うぅ恥ずかし)がずらーり並んでいて、それらが使われているであろうロック・クラシックスがゲーセンのBGMのようにじゃんじゃか流れていて、それらを前に感極まって得意満面で説明する(だいたい)男性とそれをはいはいって聞き流す(だいたい)女性の絵が至るところに展開されている。ギターとか、実際に引っかいたときの音が聴けるわけではないので、ふーん、でどちらかというとKeith Emersonがナイフ突きたてた鍵盤とか、Ray ManzarekのオルガンとかDepeche ModeのARPとか、そういうほうに惹かれた。あとはギア再現コーナーで、Van HelenとかJimmy PageとかTom Morrelloのペダルとか - でもマニアはみんな既に知っていそうな。
Joe Strummerの傷だらけのテレキャスとか、こんなところで展示されると思っていただろうか。
あと、Stonesのギターはツアーで持っていかれてしまいました、って貼紙があった。どうでもいい。
Leonardo da Vinci's Saint Jerome
ダヴィンチの没後500年記念で、ヴァチカンから”Saint Jerome” - 『荒野の聖ヒエロニムス』(1480)が来ているのだった。
場所が隅っこで、人が殆どいなかった。未完だけどほんと絵であることの驚異が溢れかえった作品。 もったいないったら。
そこから久々にSolomon R. Guggenheim Museumへ。
Artistic License: Six Takes on the Guggenheim Collection
6人のアーティスト - Cai Guo-Qiang, Paul Chan, Jenny Holzer, Julie Mehretu, Richard Prince, Carrie Mae Weems - にGuggenheimのコレクションから自由にキュレーションして貰って並べてみる、ていう(キュレーターにとっては)お手軽企画で、見たい企画展示は別にあったのだが、そこに行くにはカタツムリをぐるぐる登らなければいけない。見たことあるのも結構あったけどCai Guo-QiangのとJenny Holzerのがおもしろかったかも。
Implicit Tensions: Mapplethorpe Now
この展示はフェーズが2つあって、最初のは既に終わっていて、2つめのこれは6人のアーティスト - Rotimi Fani-Kayode, Lyle Ashton Harris, Glenn Ligon, Zanele Muholi, Catherine Opie, Paul Mpagi Sepuya - がMapplethorpeから受けた影響 – 内在する張力 - について彼の作品を選んで置いたり自分の作品を並べてみたりして語っている。 でもどれだけ語ってみても、Mapplethorpeの写真そのものが持つTensionには届いていないかも。 彼の作品て、ギリシャ彫刻のようなフォロワー不要、不動不変(普遍)の神話になってしまっているかのような。
Basquiat’s “Defacement”: The Untold Story
一番上のフロアでやっていた展示。”The Death of Michael Stewart” (1983) - “Defacement”と呼ばれるその絵は、Keith Haringのスタジオの壁に描かれていたものをひっぺがしたもので、若いアーティストのMichael Stewartが警官に暴行されて死亡した事件をきっかけに描かれたもの。当時の現場写真やその頃に描かれたものも展示されていて、じっと見ているとそこにいた/いられなかった彼自身の痛みと怒りがひりひり伝わってくる。
美術館まわりはここまで。 いったん切る。
今回の旅は5月初に出張で来たとき、日曜日の自由時間が雨で寒くてどこ行っても全壊だったことのリベンジで、MetのCampのも終わりそうだし、でも時間ないし、でもとにかく行くんだろ行きたいんだろ、って、現地2泊機中1泊で。
Neue Galerieは狭間、MoMAは改装で休み、BowaryのICPはなくなっていて、ライブはThe Raconteursに行きたかったけどSold outで、それでも。
6日、昼過ぎにJFKに降りたち、入管で少し時間がかかり(ESTAではなくVISAなので)、地下鉄でダウンタウンに入ったときは15時くらいで雨ざあざあ、既にじゅうぶんしょうもないかんじだった。
こんな程度でなんかへの愛を試そうとしているのだとしたら、試されてやろうじゃないか(←典型的なストーカーの回路)。
最初にMorgan Library & Museumに。
Walt Whitman: Bard of Democracy
生誕200年を記念した展示で、『草の葉』は版の違いも含めてたっぷり、草稿に原稿にOscar Wildeとの、Ralph Waldo Emersonとの交流とか、Brooklyn - NYの都市生活者としての視線や側面も盛りこみ、更に現代へのEchoとしてAllen Ginsbergと、Hockneyの”Adhesiveness” (1960)が展示されている。彼の本の紹介として、”Democracy” - “Sex Lust” - “The worship of the body” ってあって、これって今の時代のだよね、って。
Drawing the Curtain: Maurice Sendak’s Designs for Opera and Ballet
Whitmanの反対側でSendakの、彼の舞台アートを中心に、彼が手掛けた舞台の被り物とかセットデザイン、スケッチとか、『魔笛』にヤナーチェクの『利口な女狐の物語』に『くるみ割り人形』にプロコイエフの『三つのオレンジへの恋』に、『かいじゅうたちのいるところ』のナッセンによるオペラ版とか、どいつもこいつも、としか言いようのないかわいさ –でもぜったい爪とか牙とか一癖ある – に溢れていてたまんない。 彼の絵本からそのまま飛びだしてこっちに向かってくるような活きた勢いがあるの。
Hogarth: Cruelty and Humor
英国のWilliam Hogarth (1697–1764)によるエッチング - ”Beer Street and Gin Lane” (1751)と”The Four Stages of Cruelty” (1751)の展示。犬がげろげろしていたり臓物がびろびろしていたり、全体としては酔っぱらい戯画のお茶目さがあって、いくらでも見ていられる。
土曜日に雨はあがって、朝いちでMetropolitan Museumに並ぶ。
Camp: Notes on Fashion
最初に言葉としてのCampの起源とか概念の説明が当時の絵文化説明つきであって、続けてOscar Wildeがあり、Christopher Isherwoodがあり、Susan Sontagがあり、そこから先はそれらを体現するファッションいろいろ見本市、みたいな。そもそもが形容詞だったり副詞だったり状態だったり態度だったり振る舞いだったり、その遷移や受容の線だったり、ものすごく漠として曖昧で、その曖昧さの境界を踏みだしてみる、みたいなところまで含んでなんでもありのやつ、それがCampというものなので、展示としてはあんなもんなのかしら。 水族館の水槽みたいなのに並べて展示、も一案だとは思うけど、もっと過剰にでたらめにごちゃごちゃしていてもよかったかも。 被りモノの人がその辺に突っ立っているとか。
あと、タイトルからしてオトナのおしゃれさん・ツウ好み向けの展示だと思った。子供にもCampって楽しくて素敵なんだよ、ってわかるような配慮があってもよかったのではないかしら。
あと、前日にWhitman – Wildeコネクションを見ていたので、Whitmanを出してもよかったのでは、とか。
Epic Abstraction: Pollock to Herrera
Campの横でやっていたのでそのまま流れて。Pollockの”Autumn Rhythm” (1950)を見てああ秋だわ、って思って、その次のMark Rothkoで更にしんみりする。でっかい抽象画がどかどか並んで、彫刻・オブジェがすこしだけ。Joan Mitchellの“La Vie en Rose” (1979)とかCy Twomblyとか、Lee Krasnerも。
この大きさ、この面(めん)、によって表象されなければいけなかった何か、とは一体なんだったのか。
Apollo's Muse: The Moon in the Age of Photography
月面着陸50周年記念で、月面写真だけでなく、昔から続く月面アートも含めて展示している。
ばたばたと駆け抜けてしまったのだが、ひょっとしてウサギとかいた?
Play It Loud: Instruments of Rock and Roll
なんでMetがR&Rを? と思ったのだがMetには古代からの楽器の展示コーナーもあって、ここではRock and Rollで使われてきた楽器を展示しているのだった。当然のようにRock & Roll Hall of Fameとかが横にいる。
なので有名なミュージシャンが使ってきた歴代の名器(うぅ恥ずかし)がずらーり並んでいて、それらが使われているであろうロック・クラシックスがゲーセンのBGMのようにじゃんじゃか流れていて、それらを前に感極まって得意満面で説明する(だいたい)男性とそれをはいはいって聞き流す(だいたい)女性の絵が至るところに展開されている。ギターとか、実際に引っかいたときの音が聴けるわけではないので、ふーん、でどちらかというとKeith Emersonがナイフ突きたてた鍵盤とか、Ray ManzarekのオルガンとかDepeche ModeのARPとか、そういうほうに惹かれた。あとはギア再現コーナーで、Van HelenとかJimmy PageとかTom Morrelloのペダルとか - でもマニアはみんな既に知っていそうな。
Joe Strummerの傷だらけのテレキャスとか、こんなところで展示されると思っていただろうか。
あと、Stonesのギターはツアーで持っていかれてしまいました、って貼紙があった。どうでもいい。
Leonardo da Vinci's Saint Jerome
ダヴィンチの没後500年記念で、ヴァチカンから”Saint Jerome” - 『荒野の聖ヒエロニムス』(1480)が来ているのだった。
場所が隅っこで、人が殆どいなかった。未完だけどほんと絵であることの驚異が溢れかえった作品。 もったいないったら。
そこから久々にSolomon R. Guggenheim Museumへ。
Artistic License: Six Takes on the Guggenheim Collection
6人のアーティスト - Cai Guo-Qiang, Paul Chan, Jenny Holzer, Julie Mehretu, Richard Prince, Carrie Mae Weems - にGuggenheimのコレクションから自由にキュレーションして貰って並べてみる、ていう(キュレーターにとっては)お手軽企画で、見たい企画展示は別にあったのだが、そこに行くにはカタツムリをぐるぐる登らなければいけない。見たことあるのも結構あったけどCai Guo-QiangのとJenny Holzerのがおもしろかったかも。
Implicit Tensions: Mapplethorpe Now
この展示はフェーズが2つあって、最初のは既に終わっていて、2つめのこれは6人のアーティスト - Rotimi Fani-Kayode, Lyle Ashton Harris, Glenn Ligon, Zanele Muholi, Catherine Opie, Paul Mpagi Sepuya - がMapplethorpeから受けた影響 – 内在する張力 - について彼の作品を選んで置いたり自分の作品を並べてみたりして語っている。 でもどれだけ語ってみても、Mapplethorpeの写真そのものが持つTensionには届いていないかも。 彼の作品て、ギリシャ彫刻のようなフォロワー不要、不動不変(普遍)の神話になってしまっているかのような。
Basquiat’s “Defacement”: The Untold Story
一番上のフロアでやっていた展示。”The Death of Michael Stewart” (1983) - “Defacement”と呼ばれるその絵は、Keith Haringのスタジオの壁に描かれていたものをひっぺがしたもので、若いアーティストのMichael Stewartが警官に暴行されて死亡した事件をきっかけに描かれたもの。当時の現場写真やその頃に描かれたものも展示されていて、じっと見ているとそこにいた/いられなかった彼自身の痛みと怒りがひりひり伝わってくる。
美術館まわりはここまで。 いったん切る。
9.05.2019
[film] Tinker Tailor Soldier Spy (1979)
1日、日曜日の午後、BFIで見ました。 2011年の映画版 - 『裏切りのサーカス』 - ではない、79年のTVシリーズが40周年でブルーレイで再リリース(この翌日に)されるのを記念して、最初のエピソードの上映と監督のJohn IrvinとPeter Guillam役のMichael Jaystonによるトークがあった。
小説(翻訳)を読んだ最初の頃(何年前だか考えたくもない)からGeorge SmileyをAlec Guinnessが – Obi-Wan Kenobiを演じたAlec Guinnessが、演じたのがある、というのは知っていて、ずううーっと見たかったやつ。
冒頭、サーカスの小さな会議室に主要人物全員が集まるところから。誰が先に来て待っているか、どんな服を着ているか、どうやってドアを開けて入ってくるか、何を手にしているか、座ってから何をどうするか、など登場の仕方に各キャラクターの性格や仕様がぜんぶ出ているので、この時点から十分におかしい。
そこからControl (Alexander Knox)より組織内のもぐらを探すように指令を受けたJim Prideaux (Ian Bannen)がチェコに飛んではめられて大騒動の末に捕まり、引退したばかりの萎れたSmileyの様子が描かれ、そんな彼をPeter Guillam (Michael Jayston)が迎えに行って、郊外のsafe houseに向かうとOliver Lacon (Anthony Bate)とRicki Tarr (Hywel Bennett)がいて、Ricki Tarrが喋るはじめる … とこで終わっちゃったのでみんな溜息ついた(もっと見たいぜんぶ見たいよう)。
とにかくAlec GuinnessのSmileyがすばらしくて、ああこれだわ、って。役作りにあたりJohn le CarréからMI6のほんものを紹介して貰って話をしながら学んだらしいが、それ以上に頭のなかでイメージしていたSmiley - ホームズやポアロと同じように誰もの頭にある、一見しょぼくれて冴えなくて、でも時折研ぎ澄まされた凄みを見せる - そのもの(ちょっと細いかんじはあるけど、少なくとも映画版のGary Oldmanよかぜんぜん)なの。
そしてAlec Guinness自身が人選をしたという主要キャストも(表面をなぞったくらいだけど)見事にはまっていて、Michael Jaystonさんは役のオファーを貰ったときは嬉しくてなにがなんでもやるぜったいやる! って即答だったのだと。
16mmで撮影されたという画面は人物の陰影もカット割りも含めてぜんぜんTVぽくなくて、グラスゴーで撮影されたというチェコのシーンもとてもそれっぽくて、映画の縦横比だったらすばらしいものになっていただろうなー。
組織の奥にまで潜り込んだもぐらを探す、そこには単純に裏切りの一言で片付けられないこみいった歴史と倫理と友情と背徳のドラマがあって、結果を暴くことでとてつもない代償を登場人物全員が負うことになって、しかもそれは報復という形で連鎖しくものだから、なにひとつとしていいことはない。というのがスパイ稼業の背負った業というもので、だから俳優さんも業を体現した風貌がすべてで、ここに出ている連中はとにかくよいの。
“Smiley's People” (1982) - 『スマイリーと仲間たち』も見たいなー。 でもDVD買うのはなー。
LFFのチケット、ぎりぎりでだいたい取れた。 まだいくつか悩んでいるのもあるけど。
明日の朝から2泊でNYいってきます。 今回はライブはなし。 美術館と本屋とレコ屋のみ。
小説(翻訳)を読んだ最初の頃(何年前だか考えたくもない)からGeorge SmileyをAlec Guinnessが – Obi-Wan Kenobiを演じたAlec Guinnessが、演じたのがある、というのは知っていて、ずううーっと見たかったやつ。
冒頭、サーカスの小さな会議室に主要人物全員が集まるところから。誰が先に来て待っているか、どんな服を着ているか、どうやってドアを開けて入ってくるか、何を手にしているか、座ってから何をどうするか、など登場の仕方に各キャラクターの性格や仕様がぜんぶ出ているので、この時点から十分におかしい。
そこからControl (Alexander Knox)より組織内のもぐらを探すように指令を受けたJim Prideaux (Ian Bannen)がチェコに飛んではめられて大騒動の末に捕まり、引退したばかりの萎れたSmileyの様子が描かれ、そんな彼をPeter Guillam (Michael Jayston)が迎えに行って、郊外のsafe houseに向かうとOliver Lacon (Anthony Bate)とRicki Tarr (Hywel Bennett)がいて、Ricki Tarrが喋るはじめる … とこで終わっちゃったのでみんな溜息ついた(もっと見たいぜんぶ見たいよう)。
とにかくAlec GuinnessのSmileyがすばらしくて、ああこれだわ、って。役作りにあたりJohn le CarréからMI6のほんものを紹介して貰って話をしながら学んだらしいが、それ以上に頭のなかでイメージしていたSmiley - ホームズやポアロと同じように誰もの頭にある、一見しょぼくれて冴えなくて、でも時折研ぎ澄まされた凄みを見せる - そのもの(ちょっと細いかんじはあるけど、少なくとも映画版のGary Oldmanよかぜんぜん)なの。
そしてAlec Guinness自身が人選をしたという主要キャストも(表面をなぞったくらいだけど)見事にはまっていて、Michael Jaystonさんは役のオファーを貰ったときは嬉しくてなにがなんでもやるぜったいやる! って即答だったのだと。
16mmで撮影されたという画面は人物の陰影もカット割りも含めてぜんぜんTVぽくなくて、グラスゴーで撮影されたというチェコのシーンもとてもそれっぽくて、映画の縦横比だったらすばらしいものになっていただろうなー。
組織の奥にまで潜り込んだもぐらを探す、そこには単純に裏切りの一言で片付けられないこみいった歴史と倫理と友情と背徳のドラマがあって、結果を暴くことでとてつもない代償を登場人物全員が負うことになって、しかもそれは報復という形で連鎖しくものだから、なにひとつとしていいことはない。というのがスパイ稼業の背負った業というもので、だから俳優さんも業を体現した風貌がすべてで、ここに出ている連中はとにかくよいの。
“Smiley's People” (1982) - 『スマイリーと仲間たち』も見たいなー。 でもDVD買うのはなー。
LFFのチケット、ぎりぎりでだいたい取れた。 まだいくつか悩んでいるのもあるけど。
明日の朝から2泊でNYいってきます。 今回はライブはなし。 美術館と本屋とレコ屋のみ。
9.04.2019
[film] Gaza (2019)
8月20日、火曜日の晩、CurzonのDocHouse(ドキュメンタリーフィルム専門のシアター)で見ました。
イスラエルとエジプトの間に挟まれ海辺に面した帯状(25mile)の街に暮らす人々の日々の暮らしや眼差しをとらえたもの。
父親が3人の妻との間につくった40人の子供たちのうちのひとりの少年とか、チェロを習っている少女とか、タクシーの運転手とか、救急隊員の人とか、さまざまな階層の人々が家族と共に暮らしていて、これ自体は珍しいものではないのだが、この地帯から一切外に出ることが許されていない、という点はやはり特殊で、海に向かって叫んでも、外海に出たとしてもそこには境界があって、ちょっとでも離れて怪しい動きをするとすぐに警備隊がやってくるので、地域自体がまるごと牢獄のようになっている。
ふつうに大きくなったら漁船の船長になりたいという14歳の少年がいて、いつか壁を超えて世界を知ることを夢みて音楽を学ぶ少女がいて、彼女のような女性を輝かせようとがんばるファッションデザイナーのおばさんがいて、すべてを諦めて海を見つめてばかりのおじさんがいて、ずっと仕事はないしすることもないので、一日中壁の方に向かって石を投げ続け、その仕返しで撃たれたりする(でも懲りない)若者たちがいて、撃たれた彼らを病人に運ぶのに忙しくて家に帰っていない救急隊のおじさんがいて、海は痩せていて小魚しか捕れなくて、それをまとめて網(小さくて網目から落ちそう)で焼いてみんなでつまんで食べたり、希望があって絶望があって諦念があって、これを我々と一緒だよね、って括ってしまうのはやはりガサツというもので、彼らをそんなふうにさせてしまっているおおもとはなんなのか、どこまでも出口はないものなのか、外側からなにかできることはないのだろうか、等は考えていかないし目をそらしてはいけないよね。
だってこれって単に地理的な条件や動かしようのない何かがもたらしたものではなく、純粋に今の政治と地勢がもたらしたもので、それは変えられるし変えなければいけないものだと思うから。人が人を追いだす、閉じこめる、差別する、弾圧する、これって今や世界中でドミノのように(数やなんかの力が強いところから弱いところに向かって)起こっていて、それは絶対に間違っていることだから。
そういうのとは別に、夕暮れ時の海辺とか、海で水浴びする馬たちとか、深い水の色とか、どれも鮮やかに切り取られていて、でもそこに美はあると - これらを美しいと言ってしまってよいのだろうか、という問いと共に並べられてしまう風景たち。ここの風景を”Gaza”と呼ぶとき、その横に悲しみや苦しみの記憶がくっついてしまうのはとても悲しい。
最後の方ではイスラエル軍の爆撃で死者も出てしまったりするのだが、それはずっと起こり続けていることで、今もごくふつうにあって、それってやはり異常すぎるよ、って。
これを見たから何かをわかったようにはなりたくないけど、でも見ること(読むこと)くらいしかできないや、ていうもやもやの中にずっといる。 シリアの”For Sama”も見ないと。
イスラエルとエジプトの間に挟まれ海辺に面した帯状(25mile)の街に暮らす人々の日々の暮らしや眼差しをとらえたもの。
父親が3人の妻との間につくった40人の子供たちのうちのひとりの少年とか、チェロを習っている少女とか、タクシーの運転手とか、救急隊員の人とか、さまざまな階層の人々が家族と共に暮らしていて、これ自体は珍しいものではないのだが、この地帯から一切外に出ることが許されていない、という点はやはり特殊で、海に向かって叫んでも、外海に出たとしてもそこには境界があって、ちょっとでも離れて怪しい動きをするとすぐに警備隊がやってくるので、地域自体がまるごと牢獄のようになっている。
ふつうに大きくなったら漁船の船長になりたいという14歳の少年がいて、いつか壁を超えて世界を知ることを夢みて音楽を学ぶ少女がいて、彼女のような女性を輝かせようとがんばるファッションデザイナーのおばさんがいて、すべてを諦めて海を見つめてばかりのおじさんがいて、ずっと仕事はないしすることもないので、一日中壁の方に向かって石を投げ続け、その仕返しで撃たれたりする(でも懲りない)若者たちがいて、撃たれた彼らを病人に運ぶのに忙しくて家に帰っていない救急隊のおじさんがいて、海は痩せていて小魚しか捕れなくて、それをまとめて網(小さくて網目から落ちそう)で焼いてみんなでつまんで食べたり、希望があって絶望があって諦念があって、これを我々と一緒だよね、って括ってしまうのはやはりガサツというもので、彼らをそんなふうにさせてしまっているおおもとはなんなのか、どこまでも出口はないものなのか、外側からなにかできることはないのだろうか、等は考えていかないし目をそらしてはいけないよね。
だってこれって単に地理的な条件や動かしようのない何かがもたらしたものではなく、純粋に今の政治と地勢がもたらしたもので、それは変えられるし変えなければいけないものだと思うから。人が人を追いだす、閉じこめる、差別する、弾圧する、これって今や世界中でドミノのように(数やなんかの力が強いところから弱いところに向かって)起こっていて、それは絶対に間違っていることだから。
そういうのとは別に、夕暮れ時の海辺とか、海で水浴びする馬たちとか、深い水の色とか、どれも鮮やかに切り取られていて、でもそこに美はあると - これらを美しいと言ってしまってよいのだろうか、という問いと共に並べられてしまう風景たち。ここの風景を”Gaza”と呼ぶとき、その横に悲しみや苦しみの記憶がくっついてしまうのはとても悲しい。
最後の方ではイスラエル軍の爆撃で死者も出てしまったりするのだが、それはずっと起こり続けていることで、今もごくふつうにあって、それってやはり異常すぎるよ、って。
これを見たから何かをわかったようにはなりたくないけど、でも見ること(読むこと)くらいしかできないや、ていうもやもやの中にずっといる。 シリアの”For Sama”も見ないと。
9.03.2019
[film] The Souvenir (2019)
8月31日の夕方、”Pain and Glory”に続けてCurzonのBloomsburyで見ました。ここの一番でっかいスクリーン(Renoirっていう名前)がとにかくゆったりできて好きで、一日じゅうでもいられる。
Joanna Hoggによる自身の80年代を題材にした作品で、今年のサンダンスではWorld Cinema Dramatic部門でGrand Jury Prizeを受賞、アメリカではA24が配給し、Executive ProducerにはMartin Scorseseの名前もある。
なのだが大作の感じがまったくないものすごく地味な120分間で、でもめちゃくちゃおもしろいのでこれはなんなのだろう、というのをまだ考えている。できればもう一回見たい。
映画学校に通うJulie (Honor Swinton Byrne) は、母と小さな男の子と寂れていく町をテーマにしたドキュメンタリーを撮りたいと企画を転がしていて、彼女のKnightsbridgeのフラット - 監督がかつて住んでいた部屋を忠実に再現したものだそう – には恋人のAnthony (Tom Burke)も暮らしていて、外交の仕事をしていると言う彼は、いつもよい服を着てよいレストランで食事して音楽の趣味はオペラで、Julieにはよいアドバイス(たぶん)をくれて、彼女は少し背伸びしながら彼についていく。
Norfolkの田舎にはJulieの母のRosalind (Tilda Swinton - Honor Swinton Byrneの実の母)がいて、映画製作のプロジェクトで機材を買ったりする(たぶんうそ)のでお金貸して、という相談の電話をして、母はあれこれ心配してくれつつとてもやさしい。
タイトルになっている”The Souvenir” (1776 -1778) はロンドンのWallace Collectionにあるフラゴナールの小さな絵で、AnthonyがJulieにこの絵のことを教えて、Julieは彼女なんか悲しそうね.. ていう。 (ここにあるフラゴナールの絵はどれもほんとによいの)
映画学校での実習や撮影のところ、実家に行っての母とのやりとりの他は、ほぼJulieのフラットで進んでいって、タイプを叩いていたり、友人たちを呼んで議論していたり、Anthonyとじゃれたり議論したり喧嘩したり、お茶の間で進行していくやりとり、その窓から見える風景、聞こえる音がすべてのような。
あとはふたりでヴェネツィアに旅行に行ったり(Ernest Temple Thurstonの”The City of Beautiful Nonsense” (1909)のページをめくるシーン)、公園でピクニックしたり、これらのシーンの絵画のような美しさ。
そして映画撮影のシーンのいくつかときたらまるで”Passion” (1982)のような、Derek Jarmanのような – と言ったら誉めすぎだろうか。
これらの反対側でAnthonyは明らかにドラッグにはまって荒れていって、帰ると部屋に変なヒトがいたり、夜中に血まみれで叫んでいたり、ずっと帰ってこなかったり、何度かの議論ともう出ていって! の離別 が繰り返されて、やがて。
でもこれは悲劇を乗り越える話でも少し大人になる話でも無垢を貫く話でもなく、他者が置いていったもの (The Souvenir)を慈しみを込めて見つめる、それを通して自分のいまいる場所と時間を認識する、どこまでもそういう態度を貫こうとする宣言、というか。 「結ぼれ」の反対側にあるなにか、というか。
Anthonyは階級意識まるだしの傲慢な高慢ちきで、どこがよいのかちっともわからない典型的な英国のヤな野郎なのだが、例えば彼を『嵐が丘』とか『ジェイン・エア』とか、あるいはオースティンのいくつかにでてくるような野蛮なバカ男共に並べることもできるだろうし、あるいは80年代初に(東京にも)掃いて捨てるほどいた、でかいことばかり言ってなにもしないあほんだら共、と比べることもできるのだろうが、肝心なのは彼ら – JulieとAnthonyが - そうやって過ごしていた日々がほんとうに的確に誠実に(言ってよければ)美しく切り取られていることで、そこで初めて”The Souvenir”というタイトル、あの絵、そしてラストのこちらに向けられたJulieの眼差しが迫ってくる。
少なくとも自分にとってはそう - 衝撃的なくらいにそうで、これが80年代を当時の我々が60年代に対して思っていたように思っているであろうもう少し若い世代の子達にどう見えるのか、はわからない。べつにわからなくていいのか。(ここで岡崎京子の名前をだそうかどうしようか)
音楽はJulieの聴いていた当時のやつとAnthonyの聴くオペラが混在していて、The FallやJoe Jacksonが聴こえてくるし、Robert Wyattの”Shipbuilding”がかかり、The Pretendersの"2000 Miles"がかかる – 83年のクリスマスだねえ.. (嘆)- 窓辺にいたJulieがびっくりする突然の爆発音は83年12月のIRAによるHarrods爆破事件のものなのか。
(爆破は別として、83年頃、英国にどれだけ憧れていたか行きたかったことか)
監督のJoanna HoggさんとTilda Swintonさんは10代の頃からの親友だそうで、監督のQ&Aとか行っておけばよかったなー。
エンドロールの最後に”The Souvenir: 2”がくるよ(2020年)、と出て場内がざわめく。いったい何をするつもりなのか...
Joanna Hoggによる自身の80年代を題材にした作品で、今年のサンダンスではWorld Cinema Dramatic部門でGrand Jury Prizeを受賞、アメリカではA24が配給し、Executive ProducerにはMartin Scorseseの名前もある。
なのだが大作の感じがまったくないものすごく地味な120分間で、でもめちゃくちゃおもしろいのでこれはなんなのだろう、というのをまだ考えている。できればもう一回見たい。
映画学校に通うJulie (Honor Swinton Byrne) は、母と小さな男の子と寂れていく町をテーマにしたドキュメンタリーを撮りたいと企画を転がしていて、彼女のKnightsbridgeのフラット - 監督がかつて住んでいた部屋を忠実に再現したものだそう – には恋人のAnthony (Tom Burke)も暮らしていて、外交の仕事をしていると言う彼は、いつもよい服を着てよいレストランで食事して音楽の趣味はオペラで、Julieにはよいアドバイス(たぶん)をくれて、彼女は少し背伸びしながら彼についていく。
Norfolkの田舎にはJulieの母のRosalind (Tilda Swinton - Honor Swinton Byrneの実の母)がいて、映画製作のプロジェクトで機材を買ったりする(たぶんうそ)のでお金貸して、という相談の電話をして、母はあれこれ心配してくれつつとてもやさしい。
タイトルになっている”The Souvenir” (1776 -1778) はロンドンのWallace Collectionにあるフラゴナールの小さな絵で、AnthonyがJulieにこの絵のことを教えて、Julieは彼女なんか悲しそうね.. ていう。 (ここにあるフラゴナールの絵はどれもほんとによいの)
映画学校での実習や撮影のところ、実家に行っての母とのやりとりの他は、ほぼJulieのフラットで進んでいって、タイプを叩いていたり、友人たちを呼んで議論していたり、Anthonyとじゃれたり議論したり喧嘩したり、お茶の間で進行していくやりとり、その窓から見える風景、聞こえる音がすべてのような。
あとはふたりでヴェネツィアに旅行に行ったり(Ernest Temple Thurstonの”The City of Beautiful Nonsense” (1909)のページをめくるシーン)、公園でピクニックしたり、これらのシーンの絵画のような美しさ。
そして映画撮影のシーンのいくつかときたらまるで”Passion” (1982)のような、Derek Jarmanのような – と言ったら誉めすぎだろうか。
これらの反対側でAnthonyは明らかにドラッグにはまって荒れていって、帰ると部屋に変なヒトがいたり、夜中に血まみれで叫んでいたり、ずっと帰ってこなかったり、何度かの議論ともう出ていって! の離別 が繰り返されて、やがて。
でもこれは悲劇を乗り越える話でも少し大人になる話でも無垢を貫く話でもなく、他者が置いていったもの (The Souvenir)を慈しみを込めて見つめる、それを通して自分のいまいる場所と時間を認識する、どこまでもそういう態度を貫こうとする宣言、というか。 「結ぼれ」の反対側にあるなにか、というか。
Anthonyは階級意識まるだしの傲慢な高慢ちきで、どこがよいのかちっともわからない典型的な英国のヤな野郎なのだが、例えば彼を『嵐が丘』とか『ジェイン・エア』とか、あるいはオースティンのいくつかにでてくるような野蛮なバカ男共に並べることもできるだろうし、あるいは80年代初に(東京にも)掃いて捨てるほどいた、でかいことばかり言ってなにもしないあほんだら共、と比べることもできるのだろうが、肝心なのは彼ら – JulieとAnthonyが - そうやって過ごしていた日々がほんとうに的確に誠実に(言ってよければ)美しく切り取られていることで、そこで初めて”The Souvenir”というタイトル、あの絵、そしてラストのこちらに向けられたJulieの眼差しが迫ってくる。
少なくとも自分にとってはそう - 衝撃的なくらいにそうで、これが80年代を当時の我々が60年代に対して思っていたように思っているであろうもう少し若い世代の子達にどう見えるのか、はわからない。べつにわからなくていいのか。(ここで岡崎京子の名前をだそうかどうしようか)
音楽はJulieの聴いていた当時のやつとAnthonyの聴くオペラが混在していて、The FallやJoe Jacksonが聴こえてくるし、Robert Wyattの”Shipbuilding”がかかり、The Pretendersの"2000 Miles"がかかる – 83年のクリスマスだねえ.. (嘆)- 窓辺にいたJulieがびっくりする突然の爆発音は83年12月のIRAによるHarrods爆破事件のものなのか。
(爆破は別として、83年頃、英国にどれだけ憧れていたか行きたかったことか)
監督のJoanna HoggさんとTilda Swintonさんは10代の頃からの親友だそうで、監督のQ&Aとか行っておけばよかったなー。
エンドロールの最後に”The Souvenir: 2”がくるよ(2020年)、と出て場内がざわめく。いったい何をするつもりなのか...
9.02.2019
[film] It Started in Paradise (1952)
8月27日、火曜日の晩、BFIで見ました。日本公開はされていない模様。
今年の1月に97歳で亡くなられた英国人女優Muriel Pavlowさんへのトリビュートで、上映前にBFIのキュレーターから簡単なイントロがあった。
30年代の終わりのロンドン - メイフェアでオートクチュールハウスをやっているマダムAlice (Jane Hylton)がいて、彼女の意匠はクラッシィすぎてもう時代の流れにはついていけなくなっていることを彼女のすぐ下でデザインを指揮しているMartha (Jane Hylton)はしみじみ感じていて、あれこれ相手するのもうざくなってきたのでマダム(&わんわん)には地中海の方に休暇に出て貰い、その隙に好き放題やっていたら突然マダムが戻ってきて気まずくなるのだが、マダムは事情を察して引退して、ハウスはMarthaのものになる。
他方でMarthaの元でお針子のようなことをして働いているAlison (Muriel Pavlow)もMarthaがマダムに感じていたのと同様のフラストレーションを抱えていて、実際にアイデアを出しているのは自分だし、励ましてくれる同僚たちや彼との恋愛あれこれも交えつつ知恵と技術を駆使してがんばっていくの。
筋書としてはどこにでもありそうなお仕事精進ドラマ(かなり直球)なのだが、時代的には”Phantom Thread” (2017)の少し前くらい、ロンドンがまだファッションの中心にあったからありえたカーテンの奥の貴族のクチュールの世界で、大戦を前にファッションに対する意識や感覚が変わっていったこと、それがより若いデザイナーの間から立ちあがって上を押したこと、などがわかっておもしろい。この構造自体は今もそんなに変わっていないのかしらん? ファッションにお金をじゃぶじゃぶ落とせる人達を中心にまわっている変てこな世界。
というのとは別に、Jack Cardiffの撮影によるテクニカラーが浮かびあがらせる隅々までゴージャスな陰影を湛えたファッションのあれこれは溜息ものの美術品で、衣装(の色彩とひらひら)がすばらしかったテクニカラーの映画というと“The Pajama Game” (1957)なんかが思い浮かぶが、あれとはちょっと違ってつーんと揺るがない別世界。 上映35mmプリントはBFIアーカイブのが傷んで見れなかったのでPark Circusから借りてきた、現存する最後の1本かも、とのこと。
London Film Festival (LFF) の詳細が発表になり、プログラム冊子を広げてタイムテーブルに記しを付けたりしている(このあたりの時間がいちばん幸せ)。今年はリバイバルものと、Pedro CostaとCédric KahnとChristophe Honoréくらいでいいや。でもやっぱり”Marriage Story*は見たいかなあ、とか。 取れるかわかんないし、出張とか入ったらおじゃんだし。
今年の1月に97歳で亡くなられた英国人女優Muriel Pavlowさんへのトリビュートで、上映前にBFIのキュレーターから簡単なイントロがあった。
30年代の終わりのロンドン - メイフェアでオートクチュールハウスをやっているマダムAlice (Jane Hylton)がいて、彼女の意匠はクラッシィすぎてもう時代の流れにはついていけなくなっていることを彼女のすぐ下でデザインを指揮しているMartha (Jane Hylton)はしみじみ感じていて、あれこれ相手するのもうざくなってきたのでマダム(&わんわん)には地中海の方に休暇に出て貰い、その隙に好き放題やっていたら突然マダムが戻ってきて気まずくなるのだが、マダムは事情を察して引退して、ハウスはMarthaのものになる。
他方でMarthaの元でお針子のようなことをして働いているAlison (Muriel Pavlow)もMarthaがマダムに感じていたのと同様のフラストレーションを抱えていて、実際にアイデアを出しているのは自分だし、励ましてくれる同僚たちや彼との恋愛あれこれも交えつつ知恵と技術を駆使してがんばっていくの。
筋書としてはどこにでもありそうなお仕事精進ドラマ(かなり直球)なのだが、時代的には”Phantom Thread” (2017)の少し前くらい、ロンドンがまだファッションの中心にあったからありえたカーテンの奥の貴族のクチュールの世界で、大戦を前にファッションに対する意識や感覚が変わっていったこと、それがより若いデザイナーの間から立ちあがって上を押したこと、などがわかっておもしろい。この構造自体は今もそんなに変わっていないのかしらん? ファッションにお金をじゃぶじゃぶ落とせる人達を中心にまわっている変てこな世界。
というのとは別に、Jack Cardiffの撮影によるテクニカラーが浮かびあがらせる隅々までゴージャスな陰影を湛えたファッションのあれこれは溜息ものの美術品で、衣装(の色彩とひらひら)がすばらしかったテクニカラーの映画というと“The Pajama Game” (1957)なんかが思い浮かぶが、あれとはちょっと違ってつーんと揺るがない別世界。 上映35mmプリントはBFIアーカイブのが傷んで見れなかったのでPark Circusから借りてきた、現存する最後の1本かも、とのこと。
London Film Festival (LFF) の詳細が発表になり、プログラム冊子を広げてタイムテーブルに記しを付けたりしている(このあたりの時間がいちばん幸せ)。今年はリバイバルものと、Pedro CostaとCédric KahnとChristophe Honoréくらいでいいや。でもやっぱり”Marriage Story*は見たいかなあ、とか。 取れるかわかんないし、出張とか入ったらおじゃんだし。
[film] Dolor y gloria (2019)
仕事で南アフリカに行っていて、8月31日の朝に戻ったその午後、CurzonのBloomsburyで見ました。
(デモやるのわかっていたらそっちに行ったのになー)
英語題は”Pain and Glory”。 Pedro Almodóvarの新作で、こないだのカンヌではAntonio BanderasがBest Actorを、Alberto IglesiasがBest Composerを受賞している。
BFIやCurzonでは3ヶ月くらい前からこれの予告がずうーっとかかっていたので、潜在意識のやろうがとにかく見ろって言っている。
監督の前作の”Julieta” (2016)が喪失や離別をきっかけに自身の過去を追いかけていく女性のお話 - 原作はAlice Munro - だったのと同様に、行き場を失ってどうしようもなくなっている映画監督が周囲の人やドラッグの助けを借りて自身を発見していく旅。 自伝的な要素もあるのだと思うが、そこは掘ってもしょうがないか。
Madridに暮らす映画監督のSalvador Mallo (Antonio Banderas)は、80年代頃に活躍したものの頭痛持ちで腰痛持ちであらゆる痛みと病気を抱えて生きていて、数年前に背中の手術をしたものの調子はよくなくて、業界では過去の人になっている。でも最近になって80年代の彼の出世作の”Sabor”がリストアされ、再評価に繋がりそうな気運もあり、上映イベントに出てくれないか、という依頼が来たりしているので、同作の主演男優で、その後袂を分かっていたAlberto (Asier Etxeandia)の元を訪ねると、最初は過去の恨みから敵意まるだしだったAlbertoもヘロインを一緒にやって打ち解けて仲直りをして、それでもイベントのQ&Aをドタキャンしたりしょうもないのだが、ヘロインの鎮静効果はなかなか捨てがたく、らりらりしながら子供時代の母(Penélope Cruz)とのことを思い出したり、しかもそれがよかったりしたのでだんだんにヤクが手放せなくなっていって。
こうして話は彼の子供時代の回想 - 洞窟のような家に住んでいたこと、読み書きを教えてあげた青年とのほんのりした恋とか - と、亡くなる少し前の母(Julieta Serrano)とのやりとりと、Albertoに渡した昔に書いた台本が呼びこんだかつて一緒に旅をした恋人Federico (Leonardo Sbaraglia)との再会と、もうひとつの思いがけない再会と、これらを巡りつつ、彼がなんとかやりすごし、同時に彼を支えてきた痛みの向こう側にあった様々な過去が再び彼を前方に押しやるまで。
撮れなくなっていた映画監督が回復するまでのお話、と言ってしまえばそれまでなのだが、ここで紡がれて過去から現在に向かってくるエピソードはどこまでも甘く切なく、でも軽い。 それを軽くしているのはAntonio Banderasの疲れて気だるげな笑顔で、自分の痛みはなにをどうしたって他者に伝わるもんでもないから、ていうその諦念が彼の背骨を縦に開いて、その傷口から一挙にいろんなものが入ってきたかのような。
皮膚(肌)の表面を伝っていく快楽とその皮膚を一枚隔てた裏側で蠢く他者には知り得ないいろんなものとの攻防、そしてそのありよう(例えば子宮とか母乳とか)を最初に教えてくれたママの思い出、というのはAlmodóvarの映画を貫くテーマだと思うのだが、今回のはそれがもっともわかり易く、普遍的なかたちで現れているのではないか。他方で、彼のもうひとつのテーマとしてある「罪」とか後ろめたさ、みたいのはあまりないかも。
Antonio Banderas、昨年の“Life Itself” (2018)でもすごくよかったねえ。これから藤竜也みたいになっていくのかしら。
Salvadorの家の至るところにあるモダンアートの絵画、大量の本棚の本、これらも含めて彼の内面(回想)がドライブしていくお話しで、頭痛持ちとしてはとても納得できるのだったが、歳とるとでっかい本て重くてしんどくなってくるよね。(なにを言いたいのか)
Federicoが家に来たとき、テーブルの上に置いてあるフラン(プリン)がおいしそうでさあ。
回想シーンの川で洗濯をする女性たちがみんなで歌う歌と、メインテーマの万華鏡の電子音が不思議に同調して頭のなかで回って止まらなくなる、そういう映画でもあるの。
(デモやるのわかっていたらそっちに行ったのになー)
英語題は”Pain and Glory”。 Pedro Almodóvarの新作で、こないだのカンヌではAntonio BanderasがBest Actorを、Alberto IglesiasがBest Composerを受賞している。
BFIやCurzonでは3ヶ月くらい前からこれの予告がずうーっとかかっていたので、潜在意識のやろうがとにかく見ろって言っている。
監督の前作の”Julieta” (2016)が喪失や離別をきっかけに自身の過去を追いかけていく女性のお話 - 原作はAlice Munro - だったのと同様に、行き場を失ってどうしようもなくなっている映画監督が周囲の人やドラッグの助けを借りて自身を発見していく旅。 自伝的な要素もあるのだと思うが、そこは掘ってもしょうがないか。
Madridに暮らす映画監督のSalvador Mallo (Antonio Banderas)は、80年代頃に活躍したものの頭痛持ちで腰痛持ちであらゆる痛みと病気を抱えて生きていて、数年前に背中の手術をしたものの調子はよくなくて、業界では過去の人になっている。でも最近になって80年代の彼の出世作の”Sabor”がリストアされ、再評価に繋がりそうな気運もあり、上映イベントに出てくれないか、という依頼が来たりしているので、同作の主演男優で、その後袂を分かっていたAlberto (Asier Etxeandia)の元を訪ねると、最初は過去の恨みから敵意まるだしだったAlbertoもヘロインを一緒にやって打ち解けて仲直りをして、それでもイベントのQ&Aをドタキャンしたりしょうもないのだが、ヘロインの鎮静効果はなかなか捨てがたく、らりらりしながら子供時代の母(Penélope Cruz)とのことを思い出したり、しかもそれがよかったりしたのでだんだんにヤクが手放せなくなっていって。
こうして話は彼の子供時代の回想 - 洞窟のような家に住んでいたこと、読み書きを教えてあげた青年とのほんのりした恋とか - と、亡くなる少し前の母(Julieta Serrano)とのやりとりと、Albertoに渡した昔に書いた台本が呼びこんだかつて一緒に旅をした恋人Federico (Leonardo Sbaraglia)との再会と、もうひとつの思いがけない再会と、これらを巡りつつ、彼がなんとかやりすごし、同時に彼を支えてきた痛みの向こう側にあった様々な過去が再び彼を前方に押しやるまで。
撮れなくなっていた映画監督が回復するまでのお話、と言ってしまえばそれまでなのだが、ここで紡がれて過去から現在に向かってくるエピソードはどこまでも甘く切なく、でも軽い。 それを軽くしているのはAntonio Banderasの疲れて気だるげな笑顔で、自分の痛みはなにをどうしたって他者に伝わるもんでもないから、ていうその諦念が彼の背骨を縦に開いて、その傷口から一挙にいろんなものが入ってきたかのような。
皮膚(肌)の表面を伝っていく快楽とその皮膚を一枚隔てた裏側で蠢く他者には知り得ないいろんなものとの攻防、そしてそのありよう(例えば子宮とか母乳とか)を最初に教えてくれたママの思い出、というのはAlmodóvarの映画を貫くテーマだと思うのだが、今回のはそれがもっともわかり易く、普遍的なかたちで現れているのではないか。他方で、彼のもうひとつのテーマとしてある「罪」とか後ろめたさ、みたいのはあまりないかも。
Antonio Banderas、昨年の“Life Itself” (2018)でもすごくよかったねえ。これから藤竜也みたいになっていくのかしら。
Salvadorの家の至るところにあるモダンアートの絵画、大量の本棚の本、これらも含めて彼の内面(回想)がドライブしていくお話しで、頭痛持ちとしてはとても納得できるのだったが、歳とるとでっかい本て重くてしんどくなってくるよね。(なにを言いたいのか)
Federicoが家に来たとき、テーブルの上に置いてあるフラン(プリン)がおいしそうでさあ。
回想シーンの川で洗濯をする女性たちがみんなで歌う歌と、メインテーマの万華鏡の電子音が不思議に同調して頭のなかで回って止まらなくなる、そういう映画でもあるの。
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