7月20日、土曜日の晩、BFIで見ました。
この作品を今年の2月、ベルリン国際映画祭で披露した1カ月後にAgnès Vardaは旅立ってしまったので、これが彼女の遺作で、BFIではこれの予告がずっと(今もたまに)流れていてちょっと辛かったのだが、見ればああ見てよかった、ありがとうAgnès、ってとてもあったかくなる。
昨年秋、”Visages Villages” (2017) - 『顔たち、ところどころ』のプロモーションでJRと一緒にお喋りしている時はなんてお茶目な、と思ったり、別のアート系短編上映に伴うトークではなんて真面目な、と思ったりしたのだが、この作品を見ているとその見た目通りの柔らかい貌とアポロチョコ頭がふんわか浮かんでくる。
どこかのオペラハウスに集まった客たちに向かって自身の作品やなぜ、どうしてそれを撮ったのか、なにが肝心なのか、等を喋っていくところが中心で、それは我々の目の前に彼女がいて対面で説明を聞いているかんじ – わかりやすく、ユーモアと親密さに溢れていて、時間が経つのを忘れる。彼女はここでこうして自分にとっての映画というもの、更に表現というものを全て語ってしまおうとしていて、それには1時間55分は短すぎるのではないか、って。
大事にしていることは3つ –“inspiration”、“creation”、“sharing”である、と。ところどころこの3つに立ち返り三角ベースをしたりしながら主要作品を彼女自身が説明していく。
こうして“Cléo from 5 to 7” (1962)では時間の経過(映画が捕まえようとする時間と現実のそれとの違い)を、“Vagabond” (1985) - 『冬の旅』では当時17歳だったSandrine Bonnaireさんとの思い出話(水膨れができてしんどかったのに監督は冷たかった)とか移動ショットについて、”La Pointe Courte” (1955)では人が生活する土地について、”Le Bonheur” (1965) - 『幸福』では色彩について。 そして彼女のキャリアの起点としてあった写真(を撮ること)について語り、そこからは後年のドキュメンタリーにも言及していくのだが、写真もフィクションもドキュメンタリーもアートインスタレーションもすべては横並びの次元のこととして – なぜ(撮られる)あなたはそこに、そんなふうにそこにいるの?っていう問いに導かれたGleaners - 落穂ひろいをする野良(決して高みにはいない)としての洞察と、それを撒いて散らしてshareしようとする、やさしさに溢れた目線と共にある。
これってやはり従来のイメージにある映画作家とは違って、どちらかというと拾って育てる活動家としてのそれで、だからなんだ? なのかもだけど、今の世の中に必要なのは彼女みたいなひと(いや、みんな必要だけど)なのにな、彼女はもういないんだな、って改めて。
今作の上映にあわせてBFIでは、通路の隅っこに浜辺に向かう彼女の椅子(”Varda”って書いてある)とそれに座ってその向こうの海も一緒に撮影できるスペースがあるの。 カモメがナマじゃないのが残念だけど。
Daguerréotypes (1976)
7月27日、土曜日の晩、BFI で見ました。邦題は『ダゲール街の人々』。
“Varda par Agnès”の公開にあわせて、彼女の作品いくつかがプチリバイバルされていて、そのなかの1本(他に上映されるのは”Cléo from 5 to 7”と”Vagabond”)。
70年代に彼女が住んでいたパリのRue Daguerre – なんてことのない一本道の商店街なのだが、そこで暮すいろんな人々の日々を追ったもの。タイトルは写真のダゲレオタイプとダゲール街をひっかけているのだろうが、なんか洒落にならないはまりっぷりにびっくりする(映画をみればわかる)。
後のほうに出てくる流しの手品芸人がバナナ売りの口上みたいに映画のスタッフの名を連呼して(William Lubtchanskyの名前とか)、気づけばどこかのウィンドウに全員映り込んでいる、というのが冒頭。
香水&雑貨屋、パン屋、肉屋、美容院、金物屋、などなどの開店からそこにやってくるいろんな客とのいろんなやりとり、店が閉まって帰って、昭和の子ならとってもわかる商店街のそれぞれのお店にいたおじちゃんおばちゃんたちの顔と物腰、彼ら自身の言葉で語られる彼らの歴史。
特にウィンドウの並びを15年くらい変えていない香水屋の老夫婦の素敵なことったらない。 そこでいつも買うというAgnèsの娘さんがプレゼント用に、ってジャスミン水を買うやりとりなんてなんだこれ、って陶然とする。昔はこんなふうに店に来ると世間話してゆっくり会計して、後から来た客もそれをゆったり待っていた。 なんで、いつからみんなそんなに待てなくなっちゃったんだろう?
Frederick Wisemanのドキュメンタリーとなにが違うのか、とか。 彼の映画に出てくるのもふつうの市民たちで、でも特定の活動に従事していることが多くて、あ、こないだの”Monrovia, Indiana” (2018)は土地の話だ、でもやはり、Monroviaの人たちが自分の動きや喋りで自分のことを明らかにしていくのに対して、ダゲール街の彼らはそこにいるだけで、ダゲレオタイプの写真のように全てを語ってしまう、というか。Wisemanの映画の人たちにはがんばって、って思うけど、この作品の人たちにはそこにいて、死なないで、って強く思う。
もうこの頃には戻れないのかな。どうしようもないのかな、って。
こんどパリに行ったら、Rue Daguerre、行ってみよう。
8.01.2019
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿
注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。