22日から26日までポルトガルのリスボンとポルトに行っていた。夏休みそのいち。
リスボンは2017年の5月にも行っているのだが、この時はロンドンに赴任して最初のヨーロッパ観光で、今にして思えば興奮してじたばたしてちっともスマートではなかった。のでそのリベンジで、前回行かなかったシントラとポルトにも行ってみよう、と。
以下かんたんに。
◾️National Museum of the Azulejo
国立タイル博物館。後のポルトでもしみじみ思ったのだが、古いタイルってなんであんなに素敵なのか。陽に照らされて表面が光り、その光に滲むように浸みるように青や赤や黄の線が浮かんでいると、それが古ければ古いほどたまんなくて、レンガの壁とかなにかが彫ってある壁とかよりじっと見入ってしまう。それがどんな変な模様とか線描であっても。
◾️Sintra
ここにはいろんな遺跡とかがあるらしく、ぜんぶ見ていると一日かかりそうだったので3箇所だけ。ムーア人の城堡とペーナ宮殿とシントラ宮殿。朝の電車で約40分。バスで山の上に向かってすごい渋滞のなかを昇っていく。 歴史のなにがどうしたとかわかんなくても、なんでこんな山奥にこれらの原材料を運んで積みあげたの? 感がじわじわくる。 ムーア人のなんて、ふだん運動しないひとにとっては地獄のエクササイズで、そりゃ眺めはよかったけど、ムーア人のやろー… になってきて、こういうのを通して歴史を学ぶことになるのよ。
ペーナ宮殿も同様になんで山の上にこんなファンシーなやつが、ていうのと、これとは全く異なるかんじのシントラ宮殿のタイルと木を組み合せた実用に寄った洗練も、宮殿いろいろだねえ、て思った。
◾️Cabo da Roca
Sintraの後にバスで移動した。 去年の夏はアメリカ大陸の東の端(Montauk)で海に向かって叫んだので、今年の夏はヨーロッパ大陸の西の端 – ロカ岬 - で海に向かって叫んだ。誰でもくぐれる柵の下は崖になっていて、飛び降りるのもサスペンスごっこをして泣くのも慄くのも自由で、びゅんびゅん吹いてくる風も含めて気持ちよいったらなかった。
24日の土曜日の朝に電車でPortoに移動して、でっかい河があって橋があって坂だらけでタイル張りの古い建物とそれらが寂れた廃屋がいっぱい、好きな要素があまりにありすぎて始めからずっと泣きそうで、負けずにカモメもどこでもがーがー鳴いていて、ああこのまま一ヶ月いられたらなー、って。
◾️São Bento railway station
最初にみたタイル張りの駅。ここの真ん中がへっこんでそのまま銭湯になったらな ... とか夢想する。Mary Poppins おねがい。
◾️Fundação de Serralves
町の中心から少し西に外れた現代美術館に来たのはManoel de OliveiraのCasa do Cinemaを見るためで、他にはJoan Jonasの展示もあった(Tateの時のとは違うやつ?)のだが、とにかくシネマの家を見たかったの。通常の展示スペースを出て、庭園を抜けてぐるっと回って隅っこにある白い一軒家(元は農家の倉庫だったらしい)。入り口の白とお花のコントラストが既にOliveriraぽくて、右側の棟が企画展 - 今は開館記念展示 - をやっていて、左側の棟が常設展をやるところで、企画展の方では複数のプロジェクターで彼の作品(オープニングということもあり時間や過去をテーマにしたもの - リストを数えたら12本あった)をずっと流している。常設の方はシナリオとか出版物とかいろいろ。 もっと時間があればさー。
◾️Livraria Lello
「世界一美しい本屋」として訪れてあたりまえ、みたいに言われているので本屋好きとしては行かないわけにはいかなかった。 たっぷり並んで5€のチケット買ってから更に別の列に並んで中に入ると中は記念撮影をする人々でごった返していて、本屋さんに罪はないのだろうし、来ている人たちはみんな本が好きなのだと思いたいが、ゆっくり落ち着いて本棚を見て回ることができない、という時点で残念ながらこれは本屋ではないわ。確かにおもしろそうな本もいくつかあったのだが、ロンドンで見たことあるやつだったし、稀覯本のコーナーは鍵が掛かっていて遠くからしか見えないし。ざんねん。 自分がこれまで入った中で一番美しいと思った本屋はマンハッタンの57th stにあったRizzoli、かなあ。
25日の昼に電車でリスボンに戻り、前回行くのを逃したThe House · Casa Fernando Pessoaに行ってみると改装のため休館中でまた泣きそうになり、続けてそのままバスでLer Devagarていう本屋に向かう。空中に自転車が浮いている本屋。リスボンにはよい本屋がいっぱいあるのだがここはまだだったの。 天井近くまで本いっぱいで、英語の本もいっぱい、新刊だけじゃなくて古本もいっぱい。まだPessoaに未練たらたら状態だったのでPessoaの個人蔵書の一冊一冊を写真に撮って並べたばかでかい古本を買おうかどうするか延々悩んで、余りにでかくて重いので諦めた。ひとつ買ったのはリスボンの市議会が数年前に出したリスボンにある歴史あるいろんなお店の写真とかロゴとかチラシを集めて並べた本 - “Historic Shops Lisbon”。めくっていくだけでほんとによくてさあ、これに比べると、なんで日本は... (いつもの)。
食べもの方面は問答無用のが、だん、だん、だん、だん、て続いていったのでいちいち書かない。
失敗だったのは、まだ夏休みシーズンで狙っていたお店がほぼ全てお休みしていたことくらい。
そんな状態でもイワシ(青)とタコ(赤)とタラ(白)は浴びるように猫のように食べたし、海鮮ライスも鮟鱇ライスも食べたし、カキもイカもエビも食べたし、TravesseirosもBola de Berlimもエクレアもプリンも食べた - カスタードは数年分を飲むようになめた - し、Oliveira も通ったMajestic Cafeでフレンチトースト&ポルトワインも食べたし。全体として甘く柔らかくとろける雲のなか右から左に来るものみんな流しこみ、満腹になったときの地を這うような気だるい重みは坂の上り下りばかりやっていたせいか最後まで来なかった。 気がした(そして戻ったとたんにそいつは ... )。
食べものがおいしくてよい本屋があって坂と高台がいっぱいですばらしい風が吹いて、夕暮れ時はいつまでもふらふらできて、というとSan Franciscoのことも頭に浮かぶのだが、向こうは海でこっちは河(口)だし、あー、いや、やっぱりぜんぜん違うし、でもどっちも本当に好きだなあ、SFもLAも遠くなっちまったよう、って。
こうして8月はもう行ってしまうのね〜。
8.31.2019
[film] Notorious (1946)
16日の金曜日の晩、BFIのCary Grant特集で見ました。誰もが知っている『汚名』。
今回のCary Grant特集の前半の目玉、BFIやMOMAのアーカイブプリントから4Kリストアされたゴージャスな陰影を湛えた決定版。ほんとにどこを見ても切ってもきれい。うっとり。
父がドイツのスパイ疑惑をかけられてなによあの娘、の目で見られていて、なにもかもどうでもよくなってしまったAlicia (Ingrid Bergman)に得体の知れないアメリカの諜報員T. R. Devlin (Cary Grant)が近づき、彼女の父の友人で闇の武器取引で儲けているらしいAlexander Sebastian (Claude Rains)に寄っていって身辺を探るように指示をする。こうしてSebastianを追ってふたりはブラジルに飛び、その過程でAliciaはDevlinのことを好きになって、SebastianはAliciaのことを好きになって、AliciaはいきなりSebastianから求婚されてしまい、想定外だったのでええーってDevlinの方を向いても、彼はそれで有益な情報が得られるかもだしがんばれ、ってつれなくて、仕方なく求婚を受けいれて、いやらしい姑のねちねちとぜんぜん好きになれないおやじ共の餌食になりつつもなんとか証拠らしきものを掴んだところで連中に感づかれ、コーヒーにクスリを仕込まれて動けなくなって絶体絶命..
Aliciaついてないかわいそうー、ってずっと思いつつ見てしまうのだが、追うべきはここに恋というものがあるとしてそれはどっちの方に転がっていくのか、っていうのと、DevlinはSebastianの尻尾を掴んでひったてることができるのか、っていう螺旋状に絡まったふたつのサスペンスの行方で、そこにはでなどんぱちとか殴り合いとか修羅場はなく、互いに自分が最高の男であるとそれぞれが(たぶん)思いこんでいるナルシスト同士のつーんとした駆け引き(睨みあい)がすべてなの。そしてそれがぎりぎりの睨みあいのまま、静かに、しかし堂々とドアの向こうに消えていくエンディングは溜息がでるくらい素敵。
でもやっぱしそんな変態男(どっちも、ぜったいそう)共の間に挟まれてすり減っていくAlicia、かわいそうだよね。最初のほうで酔っ払ってやけくそドライブしたときも、終わりのとこでクスリで体動けなくなったときもDevlinに救われてよい顔されて、きっとこの後も好き放題にやられちゃうかもしれないのに、そんなんでもいいの? ちゃんと彼の給与明細とか見といたほうがいいよ。
ここでのCary Grantはなかなか真意を見せない正体不明の怪しい男で、ひょっとしたら結婚詐欺師なのかも知れないし、”Suspicion” (1941) - 『断崖』みたいに一緒になってみたら実はどうしようもない博打野郎だったりしそうで、”Notorious”っていうタイトルも実は後々になって振り返ってみたDevlinのことなのかもしれない、とか。
でもやっぱしこれはIngrid Bergmanがどこまでもすばらしい映画で、突然はらりと涙をこぼしたり、酔っ払って制御できなくなったり、ワインセラーの鍵を外すだけなのにものすごい力こぶいれていたり、クールネスと酩酊状態の間でなにをやっても素敵なのだが、なかでもCary Grantとのキスシーンの生々しさときたらほんとにとんでもない。
これをコメディにするとしたら、やはりつれないDevlinに愛想つかしたAliciaがSebastianの方に傾いて、あんたの捜査なんて知ったこっちゃないわ、って言った途端にDevlinに火がついていろんな嫌がらせと奪還工作をはじめる、ていう”His Girl Friday”方式、になるのだろうか。でもその場合、Alicia役はIngrid Bergman ではなくてCarole Lombardだよねえ – (そういえば割と似た設定の“To Be or Not to Be” (1942)があったね)。
どうでもよいけど、”Notorious”ていうタイトルを見ただけで(たいして好きでもないのに)「の」♪「の」♪「の」♪ ..って勝手に頭の奥で鳴りだしてしまう人はお友だち。
今回のCary Grant特集の前半の目玉、BFIやMOMAのアーカイブプリントから4Kリストアされたゴージャスな陰影を湛えた決定版。ほんとにどこを見ても切ってもきれい。うっとり。
父がドイツのスパイ疑惑をかけられてなによあの娘、の目で見られていて、なにもかもどうでもよくなってしまったAlicia (Ingrid Bergman)に得体の知れないアメリカの諜報員T. R. Devlin (Cary Grant)が近づき、彼女の父の友人で闇の武器取引で儲けているらしいAlexander Sebastian (Claude Rains)に寄っていって身辺を探るように指示をする。こうしてSebastianを追ってふたりはブラジルに飛び、その過程でAliciaはDevlinのことを好きになって、SebastianはAliciaのことを好きになって、AliciaはいきなりSebastianから求婚されてしまい、想定外だったのでええーってDevlinの方を向いても、彼はそれで有益な情報が得られるかもだしがんばれ、ってつれなくて、仕方なく求婚を受けいれて、いやらしい姑のねちねちとぜんぜん好きになれないおやじ共の餌食になりつつもなんとか証拠らしきものを掴んだところで連中に感づかれ、コーヒーにクスリを仕込まれて動けなくなって絶体絶命..
Aliciaついてないかわいそうー、ってずっと思いつつ見てしまうのだが、追うべきはここに恋というものがあるとしてそれはどっちの方に転がっていくのか、っていうのと、DevlinはSebastianの尻尾を掴んでひったてることができるのか、っていう螺旋状に絡まったふたつのサスペンスの行方で、そこにはでなどんぱちとか殴り合いとか修羅場はなく、互いに自分が最高の男であるとそれぞれが(たぶん)思いこんでいるナルシスト同士のつーんとした駆け引き(睨みあい)がすべてなの。そしてそれがぎりぎりの睨みあいのまま、静かに、しかし堂々とドアの向こうに消えていくエンディングは溜息がでるくらい素敵。
でもやっぱしそんな変態男(どっちも、ぜったいそう)共の間に挟まれてすり減っていくAlicia、かわいそうだよね。最初のほうで酔っ払ってやけくそドライブしたときも、終わりのとこでクスリで体動けなくなったときもDevlinに救われてよい顔されて、きっとこの後も好き放題にやられちゃうかもしれないのに、そんなんでもいいの? ちゃんと彼の給与明細とか見といたほうがいいよ。
ここでのCary Grantはなかなか真意を見せない正体不明の怪しい男で、ひょっとしたら結婚詐欺師なのかも知れないし、”Suspicion” (1941) - 『断崖』みたいに一緒になってみたら実はどうしようもない博打野郎だったりしそうで、”Notorious”っていうタイトルも実は後々になって振り返ってみたDevlinのことなのかもしれない、とか。
でもやっぱしこれはIngrid Bergmanがどこまでもすばらしい映画で、突然はらりと涙をこぼしたり、酔っ払って制御できなくなったり、ワインセラーの鍵を外すだけなのにものすごい力こぶいれていたり、クールネスと酩酊状態の間でなにをやっても素敵なのだが、なかでもCary Grantとのキスシーンの生々しさときたらほんとにとんでもない。
これをコメディにするとしたら、やはりつれないDevlinに愛想つかしたAliciaがSebastianの方に傾いて、あんたの捜査なんて知ったこっちゃないわ、って言った途端にDevlinに火がついていろんな嫌がらせと奪還工作をはじめる、ていう”His Girl Friday”方式、になるのだろうか。でもその場合、Alicia役はIngrid Bergman ではなくてCarole Lombardだよねえ – (そういえば割と似た設定の“To Be or Not to Be” (1942)があったね)。
どうでもよいけど、”Notorious”ていうタイトルを見ただけで(たいして好きでもないのに)「の」♪「の」♪「の」♪ ..って勝手に頭の奥で鳴りだしてしまう人はお友だち。
[film] Good Boys (2019)
18日、日曜日の午後、”Once Upon a Time… in Hollywood”を見たあと、ああオトナの世界はやだやだ、と思って、Curzon Aldgateに行って見ました。 邦題は『よいこ』しかないね。
4月に見た”Mid90s” (2018)はJonah Hillによる13歳の男の子たちのお話 - 90年代の昔のこと - だったが、こっちのプロデュースにはSeth Rogenが関わっていて(あ、Jonah Hillの名前もエグゼクティブ・プロデューサーにあった)、現代のガキ- Sixth Grade - のお話。 ”Mid90s”が作家性のようなものすら感じさせるまじめなComing-of-Ageものだったのに対して、こっちは安定のお下劣・バカコメディになっている(←ほめてる)。
Max (Jacob Tremblay)とLucas (Keith L. Williams)とThor (Brady Noon)の3人は幼馴染で一緒に大きくなって、いろいろ背伸びしたくてでもできなくて、でもできないことを認めたくないので踏んばってがんばればがんばるほどドツボにはまっていく、そのあがきっぷりがひたすらおかしい。 よくある「性の目覚め」ぽい要素もないことはないのだがそこにはその言葉が呼びこむような甘さも感傷も微塵もない、身も蓋もないお下劣感はSeth Rogenとしか言いようがない。
MaxはクラスメートのBrixleeのことが気になっていて、呼ばれたパーティで彼女とキスすることができるかもしれない、というので、ならキスのやり方を勉強しなきゃと近所のティーンの女子Hannah (Molly Gordon)がキスするところを探ってみよう、とパパ(Will Forte)のドローンを飛ばして寄ってみたらHannahとその友人に軽く叩き落とされ、でもどさくさで彼女のドラッグ(エクスタシー)を奪って、ガキ3人と女子2人の知恵をしぼった駆けひきと追っかけっこが始まって、”Neighbors 2” (2016)にもあったような女子 vs. 男子の仁義なき戦いが繰り広げられていくの。それに加えて、果たしてMaxはパーティでBrixieeとキスすることができるのか、壊されたパパのドローンを元に戻すことができるのか、ていうはらはらがあり、更にはLucasは両親が離婚をするというので心細くて揺れているし、学校のミュージカルのオーディションに応募したいThorももやもやしているし、錯綜して混乱して自分でなにがどうなっているのかわからず近視眼でいっぱいいっぱいの子供たちの頭の中そのもの、みたいなどたばたで、映像も含めて落ち着かないったらないのだが、こんなもんよ、てな軽さはなかなかよいの。
日本でもようやく公開される”Eighth Grade”も、いまだにロングラン上映されている ”Booksmart”- ほんと傑作だよこれ - にしてもこれにしても、最近の子供たちを描いた映画ってなんでこんなにおもしろいのかしら? 昔からこういうのはあったはずだし、子供たちは真剣なのだからおもしろがってはいけないのかもだけど、このSNSの時代に(だからこそ?)彼らの切実な真剣さはなんだか貴重で、最後の砦(なんの?)ではないかという気がする。彼らを思いっきり泣かせたり笑わせたり絶叫させたり、その声と眼差しを野に放たなければ、って。(あと、”Eighth Grade”もこれもパパがよいのね)
“Room” (2015)ではひどい目にあっていたJacob Tremblayくんが元気いっぱいに走り回っているのも素敵で、あそこから繋がってぶれていないかんじも少ししたり。
4月に見た”Mid90s” (2018)はJonah Hillによる13歳の男の子たちのお話 - 90年代の昔のこと - だったが、こっちのプロデュースにはSeth Rogenが関わっていて(あ、Jonah Hillの名前もエグゼクティブ・プロデューサーにあった)、現代のガキ- Sixth Grade - のお話。 ”Mid90s”が作家性のようなものすら感じさせるまじめなComing-of-Ageものだったのに対して、こっちは安定のお下劣・バカコメディになっている(←ほめてる)。
Max (Jacob Tremblay)とLucas (Keith L. Williams)とThor (Brady Noon)の3人は幼馴染で一緒に大きくなって、いろいろ背伸びしたくてでもできなくて、でもできないことを認めたくないので踏んばってがんばればがんばるほどドツボにはまっていく、そのあがきっぷりがひたすらおかしい。 よくある「性の目覚め」ぽい要素もないことはないのだがそこにはその言葉が呼びこむような甘さも感傷も微塵もない、身も蓋もないお下劣感はSeth Rogenとしか言いようがない。
MaxはクラスメートのBrixleeのことが気になっていて、呼ばれたパーティで彼女とキスすることができるかもしれない、というので、ならキスのやり方を勉強しなきゃと近所のティーンの女子Hannah (Molly Gordon)がキスするところを探ってみよう、とパパ(Will Forte)のドローンを飛ばして寄ってみたらHannahとその友人に軽く叩き落とされ、でもどさくさで彼女のドラッグ(エクスタシー)を奪って、ガキ3人と女子2人の知恵をしぼった駆けひきと追っかけっこが始まって、”Neighbors 2” (2016)にもあったような女子 vs. 男子の仁義なき戦いが繰り広げられていくの。それに加えて、果たしてMaxはパーティでBrixieeとキスすることができるのか、壊されたパパのドローンを元に戻すことができるのか、ていうはらはらがあり、更にはLucasは両親が離婚をするというので心細くて揺れているし、学校のミュージカルのオーディションに応募したいThorももやもやしているし、錯綜して混乱して自分でなにがどうなっているのかわからず近視眼でいっぱいいっぱいの子供たちの頭の中そのもの、みたいなどたばたで、映像も含めて落ち着かないったらないのだが、こんなもんよ、てな軽さはなかなかよいの。
日本でもようやく公開される”Eighth Grade”も、いまだにロングラン上映されている ”Booksmart”- ほんと傑作だよこれ - にしてもこれにしても、最近の子供たちを描いた映画ってなんでこんなにおもしろいのかしら? 昔からこういうのはあったはずだし、子供たちは真剣なのだからおもしろがってはいけないのかもだけど、このSNSの時代に(だからこそ?)彼らの切実な真剣さはなんだか貴重で、最後の砦(なんの?)ではないかという気がする。彼らを思いっきり泣かせたり笑わせたり絶叫させたり、その声と眼差しを野に放たなければ、って。(あと、”Eighth Grade”もこれもパパがよいのね)
“Room” (2015)ではひどい目にあっていたJacob Tremblayくんが元気いっぱいに走り回っているのも素敵で、あそこから繋がってぶれていないかんじも少ししたり。
8.26.2019
[film] Once Upon a Time... in Hollywood (2019)
18日、日曜日のお昼にPicturehouse Centralで見ました。 ここでは雰囲気の35mmかくっきりしゃっきりの4Kデジタルかの2種類の版で上映していて(70mmもどこかでやっているのかしら?)、35mmの方にした。
予告CMでもしつこいくらいに謳われている”The 9th Film by Quentin Tarantino”で、つまり確立されたブランドの新作なんだから見なさいよ、見て当然でしょ、って迫ってくる。
わたしはもともとバイオレンス描写が苦手で、Tarantinoのは特にいつもとっても痛そうなので恐くて、でもそれは彼が映画における痛みや傷の表現・描写を歴史をきちんと踏まえて勉強した成果でもあるのだし、それがあるからこそ最後に悪玉がやられるところで(快感とは呼びたくない)ある種の到達感が得られるのだし、彼が取り上げる題材がそもそも善/悪や快/痛や欲望/復讐の境界を彷徨う個人と組織のせめぎ合いの只中にあり、そこには泣いても笑っても生きるか死ぬかの暴力しかなかった - 歴史は暴力によって作られてきたのだからしょうがない、だからとにかく見ろ、と。
長さは161分、眠くならず長さも感じずに見れたのでおもしろかったのだと思う。 「のだと思う」になってしまうのは、見ながらそれぞれの場面やエピソードや人物像に「これはどこそこにあったあれよ」とか「このキャラは誰それを模したものを誰それにあんなふうに演じさせているのよ」を匂わせる付箋のようなものがいっぱい貼ってあるのを感じて、それらを知っていればもっとおもしろくなること確実なことがわかる、というやや面倒なおもしろ構造になっているためで、だから底の底までこのテーマをわかっておもしろがりたい人は映画秘宝かなんかの攻略特集でも読めばよいのだろうが、そこまでしておもしろがる意味を感じない、というか。自分はそこまで映画を愛していないんだわ。たぶん。
1969年の2月初の数日間とそこからちょうど半年後、8月の数日間に、TV/映画で人気があったものの翳りが見え始めた俳優のRick Dalton (Leonardo DiCaprio)とそのスタントダブルのCliff Booth (Brad Pitt) のふたりが遭遇したこと。メインのエピソードは実際に起こったSharon Tate (Margot Robbie) 事件で、Rickの邸宅は事件があったRoman Polanski邸の隣にあって、つまり。
あの事件をきっかけにあの時代やあの土地の空気感のようなものが変わった、のかもしれないがその少し前からその兆候はこんなところにもあんなところにも既に見受けられ、ていうことは別にあの陰惨な事件が起ころうが起こるまいがハリウッド、というかそこを中心としたポップカルチャーのありようは変わっていく運命にあった - が故の”Once Upon a Time...”という苦みも含めた過去を飲みこんで総括するやり方で、付箋だらけのもどかしさを感じてしまった理由はそこにもある。 時代の動きとかうねりをどのテーマやエピソードを拾いあげてどう表象するのか、正解なんてない世界だし、正解の在処 - 脈みたいのを探るにはそこら中をほじくり返していくしかないし、結局これって誰それの描き方がひどい、とか誰それが出てこないのはおかしい、とかそういう言い合いとか、さすがQT、ていうオタク同士の褒めあいになってしまう。(もちろん、そういう言い合いは楽しいから見た後にやりたい方がいっぱいやっていいの)
他方でこないだの”Apocalypse Now”なんかは、ジャングルの奥- 闇の奥の物語に当時の正気も狂気も含めた(正誤なんてどうでもいい)ありったけをぶちこんでみて、乱暴に”Now”というラベルを貼ってしまう。そうすることで、あの映画で描かれたことは50年前に遠いアジアのどこかで起こった昔話、以上のヤバみと困惑をもたらすのだし、記事によって一瞬参照されるだけのCharles Mansonの生々しさは今現在と連結してどこまでも残っている。
主人公のふたりは始めから(仕事として)誰かを演じている - Leonardo DiCaprioは過去に自身が演じたクラシックなヒーロー像を延々なぞって反復することに焦りと行き詰まりを感じていて、Brad PittはそのLeonardo DiCaprioの被り物を着てアクションをして生計を立てている - そんなフィクションの工事現場で生きることに腹を括ったふたりと、その周辺でそことは別の位相 - 夢と現実の境をらりらり彷徨っているヒッピー/カルト連中の、交通事故みたいな衝突。
ハリウッドというアメリカの夢とか理想とかを映画という織物にして生産する工場が不可避的に抱え込んだ闇とか病とか負債とか、それは映画を通して学ぶことができる/できた世界のありようときれいに繋がっているようで、だからそうだねえ、としか言いようがないし、”Once Upon a Time.. “なのだが、それは円環を描いていてあんま外側に転がっていかない。
で、自分が古いのも新しいのも含めて映画を見にいくのは、ここに描かれたこんなふうな世界がこうあったから、ていうのとは別の理由によるもの、という気がしていて、でもそこはまだあまり掘らなくてもいいかなー、くらいなのでー。(進まない)
でもこの時代のいろんなことを知る入り口としてはとてもよい作品だと思うし、世界の至る所でフェイクとカルトと独裁が蔓延るポスト・トゥルースの時代にこれが作られた理由は、たぶんどこかにあって、それについては50年後に誰かがアナザー ”Once Upon a Time.. “として映画化してくれるに違いない。 それまで世界が保てば、だけどね。
予告CMでもしつこいくらいに謳われている”The 9th Film by Quentin Tarantino”で、つまり確立されたブランドの新作なんだから見なさいよ、見て当然でしょ、って迫ってくる。
わたしはもともとバイオレンス描写が苦手で、Tarantinoのは特にいつもとっても痛そうなので恐くて、でもそれは彼が映画における痛みや傷の表現・描写を歴史をきちんと踏まえて勉強した成果でもあるのだし、それがあるからこそ最後に悪玉がやられるところで(快感とは呼びたくない)ある種の到達感が得られるのだし、彼が取り上げる題材がそもそも善/悪や快/痛や欲望/復讐の境界を彷徨う個人と組織のせめぎ合いの只中にあり、そこには泣いても笑っても生きるか死ぬかの暴力しかなかった - 歴史は暴力によって作られてきたのだからしょうがない、だからとにかく見ろ、と。
長さは161分、眠くならず長さも感じずに見れたのでおもしろかったのだと思う。 「のだと思う」になってしまうのは、見ながらそれぞれの場面やエピソードや人物像に「これはどこそこにあったあれよ」とか「このキャラは誰それを模したものを誰それにあんなふうに演じさせているのよ」を匂わせる付箋のようなものがいっぱい貼ってあるのを感じて、それらを知っていればもっとおもしろくなること確実なことがわかる、というやや面倒なおもしろ構造になっているためで、だから底の底までこのテーマをわかっておもしろがりたい人は映画秘宝かなんかの攻略特集でも読めばよいのだろうが、そこまでしておもしろがる意味を感じない、というか。自分はそこまで映画を愛していないんだわ。たぶん。
1969年の2月初の数日間とそこからちょうど半年後、8月の数日間に、TV/映画で人気があったものの翳りが見え始めた俳優のRick Dalton (Leonardo DiCaprio)とそのスタントダブルのCliff Booth (Brad Pitt) のふたりが遭遇したこと。メインのエピソードは実際に起こったSharon Tate (Margot Robbie) 事件で、Rickの邸宅は事件があったRoman Polanski邸の隣にあって、つまり。
あの事件をきっかけにあの時代やあの土地の空気感のようなものが変わった、のかもしれないがその少し前からその兆候はこんなところにもあんなところにも既に見受けられ、ていうことは別にあの陰惨な事件が起ころうが起こるまいがハリウッド、というかそこを中心としたポップカルチャーのありようは変わっていく運命にあった - が故の”Once Upon a Time...”という苦みも含めた過去を飲みこんで総括するやり方で、付箋だらけのもどかしさを感じてしまった理由はそこにもある。 時代の動きとかうねりをどのテーマやエピソードを拾いあげてどう表象するのか、正解なんてない世界だし、正解の在処 - 脈みたいのを探るにはそこら中をほじくり返していくしかないし、結局これって誰それの描き方がひどい、とか誰それが出てこないのはおかしい、とかそういう言い合いとか、さすがQT、ていうオタク同士の褒めあいになってしまう。(もちろん、そういう言い合いは楽しいから見た後にやりたい方がいっぱいやっていいの)
他方でこないだの”Apocalypse Now”なんかは、ジャングルの奥- 闇の奥の物語に当時の正気も狂気も含めた(正誤なんてどうでもいい)ありったけをぶちこんでみて、乱暴に”Now”というラベルを貼ってしまう。そうすることで、あの映画で描かれたことは50年前に遠いアジアのどこかで起こった昔話、以上のヤバみと困惑をもたらすのだし、記事によって一瞬参照されるだけのCharles Mansonの生々しさは今現在と連結してどこまでも残っている。
主人公のふたりは始めから(仕事として)誰かを演じている - Leonardo DiCaprioは過去に自身が演じたクラシックなヒーロー像を延々なぞって反復することに焦りと行き詰まりを感じていて、Brad PittはそのLeonardo DiCaprioの被り物を着てアクションをして生計を立てている - そんなフィクションの工事現場で生きることに腹を括ったふたりと、その周辺でそことは別の位相 - 夢と現実の境をらりらり彷徨っているヒッピー/カルト連中の、交通事故みたいな衝突。
ハリウッドというアメリカの夢とか理想とかを映画という織物にして生産する工場が不可避的に抱え込んだ闇とか病とか負債とか、それは映画を通して学ぶことができる/できた世界のありようときれいに繋がっているようで、だからそうだねえ、としか言いようがないし、”Once Upon a Time.. “なのだが、それは円環を描いていてあんま外側に転がっていかない。
で、自分が古いのも新しいのも含めて映画を見にいくのは、ここに描かれたこんなふうな世界がこうあったから、ていうのとは別の理由によるもの、という気がしていて、でもそこはまだあまり掘らなくてもいいかなー、くらいなのでー。(進まない)
でもこの時代のいろんなことを知る入り口としてはとてもよい作品だと思うし、世界の至る所でフェイクとカルトと独裁が蔓延るポスト・トゥルースの時代にこれが作られた理由は、たぶんどこかにあって、それについては50年後に誰かがアナザー ”Once Upon a Time.. “として映画化してくれるに違いない。 それまで世界が保てば、だけどね。
8.21.2019
[film] Irene Dunne & Cary Grant
ということで、今回のCary Grant特集でのIrene Dunneとの共演作を3本まとめて書いておく(見た順で)。
”The Awful Truth”は昨年の11月にもBFIのコメディ映画特集でかかったのを見ているのだが、今回2本見てから改めて見直したくなったので再見しちゃったやつ。
My Favorite Wife (1940)
15日、木曜日の晩に見ました。邦題は『ママのご帰還』。
プロデュースと一部原作はLeo McCareyで、”The Awful Truth”と同じく彼が監督する予定だったのだが自動車事故に巻き込まれてできなくなってしまったものだそう。
原作はテニスンの物語詩 "Enoch Arden" (1864)で、水夫のEnoch Ardenが水難事故にあい孤島で数年暮らして戻ってみると妻が結婚して幸せそうだった、ていうお話しの男女を逆転させ、ひねりついでにコメディにしたやつで、だから主人公の名前はNick Arden (Cary Grant)で、冒頭、裁判所で7年前の船事故から戻ってこない妻が死亡認定されて、Bianca (Gail Patrick)と結婚できる状態になるところから。
他方、Nickの妻Ellen (Irene Dunne)は7年ぶりに自宅に戻ってきて、自分が母であることを知らない自分の子供たちと会って、Nickの母とも再会すると、Nickはハネムーンに... っていうのでそのままハネムーン先のホテルに飛んでいき(すごい行動力)、Nickと目が合うと彼はびっくり大喜びして、でも同じ部屋に泊まるわけにもいかないので彼女用に別の部屋を取ってBiancaの隙をみて彼女に会いに行くのだが 、ホテルの支配人からめちゃくちゃ怪しまれておかしいったらない。
ハネムーンから戻ってもEllenは親戚としてちゃっかりNickの家にいて、夫の挙動が明らかにおかしくなったことからBiancaが精神科医を呼んだり、Ellenは死んでいないという噂を聞いた保険屋が現れて、Ellenが島でサバイブしていた7年間、Stephen (Randolph Scott)ていうムキムキ系の男とずっと一緒だった疑惑が持ちあがり、なにい、とか言ってるとNickは重婚の罪で引っ立てられ、互いにあんたってヒトは... 状態でどっちに転ぶかわからない、毛を逆立ててばかりの再会~衝突劇が楽しいこと。でも最後は結局”Favorite”のところに。
Penny Serenade (1941)
17日、土曜日の夕方に見ました。
これはコメディというよりしんみりした夫婦のドラマだった。 邦題は『愛のアルバム』。
冒頭、荷物をまとめてひとりしょんぼり家を出ていこうとしているJulie (Irene Dunne)がいて、電車のチケットがくるのを待っている間に居間にあったアルバム - "The Story of a Happy Marriage" - を開いて、そこに挟んであるレコードを順番にかけながら回想に浸っていく、ていう音楽映画でもあるの。
Brooklynのレコ屋で音楽をかけているJulieに目がいったRoger (Cary Grant)は店に入ってその曲を試聴室で聴かせてくれないか、って彼女に頼んで、彼女を占有したいからそこらのレコードぜんぶひっ掴んでこれも聴きたい、って頼んで、結局閉店まで居座ってぜんぶ買っちゃって、両手いっぱいのレコードを抱えてふたりで一緒に帰るとき、うちにはプレイヤーがないから君の家で聴かせてくれないか、って。(... つっこみたくはないけどさ、なんだこれ)
こうして仲良くなったふたりはデートのフォーチュンクッキーでいちいちもじもじしたりかわいいのだが、大晦日の晩、記者のRogerが東京への特派員に指名されてすぐ日本に旅立つから結婚しないかって、で、その晩に結婚する。(え.. ビザとかないの?)
日本に着いたJulieは池にあひるが泳いでいる召使一家つきの一軒家(Rogerによると家賃は2000円、$1000かな、って)を借りて、Julieは妊娠して変てこな着物を着て幸せそうだったのだが、Rogerは遺産相続したから会社やめた、ふたりで世界中を旅しよう、とか言いだして、でもそんな大層な金額ではなかったのであんたなに考えてんの? になったところで大地震(関東大震災?)が東京を襲って、Julieは流産してしまう。
サンフランシスコに戻ってRogerは小さなタウン誌の発行を始めて、でもJulieは病院で泣いてばかりなので万能従業員のApplejack(Edgar Buchanan)は養子を貰ってみたらどうか、といい、試しに応募して面接に行くと希望されているような子(2歳くらい、青い目でカーリーヘアの男子)は数年かかるかもと言われ、でも親切な担当のMiss Oliver(Beulah Bondi)からある日連絡を受け、女の子の赤ん坊がいて、この子はいいわよ、というので連れ帰り、Trinaと名付けておっかなびっくり育児を始める。
で、一年間の里親としての試用期間を経て審査の時が来るのだがRogerは自分の会社を潰したばかりの無収入で、普通なら子供は取りあげられてしまうのだが判事の前でRogerが感動的なスピーチをして、Trinaは戻ってくるの。クリスマスにママの誕生日に、みんなで楽しく幸せに暮らしていったのだが、次の冬、Miss Oliver宛の手紙で、Trianaが病で突然亡くなってしまったことが明らかにされ、そこから塞ぎこんでしまったふたりはもう一緒にいないほうがいいね、になって冒頭のシーンに。 (でもこれで終わりじゃないの)
ドラマとして喜怒哀楽をとても情感たっぷりに描いて、Irene DunneとCary Grantの夫婦のかんじもパーフェクトとしか言いようがないのだが、コメディではないの。 でもIrene Dunneさんはこれが一番お気に入りなのだそう。 朝の連ドラ向け、かなあ。
あと、メカから料理からおむつ作りまでなんでもこなしてしまうApplejack氏はJon Favreauの”Happy”の原型なのだと思った。
The Awful Truth (1937)
19日月曜日の晩、BFIで見ました。邦題は『新婚道中記』(←ありえない)
これもあそこで一番でっかいシアターがほぼ一杯で、やっぱりこれが一番おもしろいかなー、と。
もう別れましょ、て険悪になったJerry (Cary Grant)とLucy (Irene Dunne)の夫婦がいて、Lucyが再婚候補として連れてきた音楽教師Armand (Alexander D'Arcy)とかオクラホマの金持ち(Ralph Bellamy)とかがJerryには気にくわず、Jerryがつきあいだした金持ちのご令嬢のBarbara Vance (Molly Lamont)がLucyには気にくわず、互いに介入してぶち壊しあい眠れなくなったその先には。
あんた本当はヒトでしょ?と言いたくなるわんころのMr.Smithとか、なぜか懸命にドアをブロックしにくる正体不明の黒猫とか、動物が大活躍するのがとても楽しい。
あと、”His Girl Friday” (1940)でも引き続きCary Grantに散々虐められることになるRalph Bellamyがあれとほぼ同じポジション(しかも同様にママ付き)で登場している。
Irene DunneとCary Grantのふたりってひどい大ゲンカとか悲惨なことなことがあっても絶対に離れない頑丈な糸で結ばれたふたりなの。 これに対してKatharine HepburnとCary Grantのふたりはめちゃくちゃな惨事や大嵐の真っ只中でもなぜかくっついてしまう魔法の腐れ縁なのね。
どっちのふたりにしたってベースが最強なもんだからどんな突飛なお話しをぶつけてみても大抵へっちゃらなんだ。 でもなんでそれがCary Grantなのか、彼には可能となってしまうのかは、ヒチコック作品とかも絡めてきちんと考えるべきネタ、なのかもしれない。
”The Awful Truth”は昨年の11月にもBFIのコメディ映画特集でかかったのを見ているのだが、今回2本見てから改めて見直したくなったので再見しちゃったやつ。
My Favorite Wife (1940)
15日、木曜日の晩に見ました。邦題は『ママのご帰還』。
プロデュースと一部原作はLeo McCareyで、”The Awful Truth”と同じく彼が監督する予定だったのだが自動車事故に巻き込まれてできなくなってしまったものだそう。
原作はテニスンの物語詩 "Enoch Arden" (1864)で、水夫のEnoch Ardenが水難事故にあい孤島で数年暮らして戻ってみると妻が結婚して幸せそうだった、ていうお話しの男女を逆転させ、ひねりついでにコメディにしたやつで、だから主人公の名前はNick Arden (Cary Grant)で、冒頭、裁判所で7年前の船事故から戻ってこない妻が死亡認定されて、Bianca (Gail Patrick)と結婚できる状態になるところから。
他方、Nickの妻Ellen (Irene Dunne)は7年ぶりに自宅に戻ってきて、自分が母であることを知らない自分の子供たちと会って、Nickの母とも再会すると、Nickはハネムーンに... っていうのでそのままハネムーン先のホテルに飛んでいき(すごい行動力)、Nickと目が合うと彼はびっくり大喜びして、でも同じ部屋に泊まるわけにもいかないので彼女用に別の部屋を取ってBiancaの隙をみて彼女に会いに行くのだが 、ホテルの支配人からめちゃくちゃ怪しまれておかしいったらない。
ハネムーンから戻ってもEllenは親戚としてちゃっかりNickの家にいて、夫の挙動が明らかにおかしくなったことからBiancaが精神科医を呼んだり、Ellenは死んでいないという噂を聞いた保険屋が現れて、Ellenが島でサバイブしていた7年間、Stephen (Randolph Scott)ていうムキムキ系の男とずっと一緒だった疑惑が持ちあがり、なにい、とか言ってるとNickは重婚の罪で引っ立てられ、互いにあんたってヒトは... 状態でどっちに転ぶかわからない、毛を逆立ててばかりの再会~衝突劇が楽しいこと。でも最後は結局”Favorite”のところに。
Penny Serenade (1941)
17日、土曜日の夕方に見ました。
これはコメディというよりしんみりした夫婦のドラマだった。 邦題は『愛のアルバム』。
冒頭、荷物をまとめてひとりしょんぼり家を出ていこうとしているJulie (Irene Dunne)がいて、電車のチケットがくるのを待っている間に居間にあったアルバム - "The Story of a Happy Marriage" - を開いて、そこに挟んであるレコードを順番にかけながら回想に浸っていく、ていう音楽映画でもあるの。
Brooklynのレコ屋で音楽をかけているJulieに目がいったRoger (Cary Grant)は店に入ってその曲を試聴室で聴かせてくれないか、って彼女に頼んで、彼女を占有したいからそこらのレコードぜんぶひっ掴んでこれも聴きたい、って頼んで、結局閉店まで居座ってぜんぶ買っちゃって、両手いっぱいのレコードを抱えてふたりで一緒に帰るとき、うちにはプレイヤーがないから君の家で聴かせてくれないか、って。(... つっこみたくはないけどさ、なんだこれ)
こうして仲良くなったふたりはデートのフォーチュンクッキーでいちいちもじもじしたりかわいいのだが、大晦日の晩、記者のRogerが東京への特派員に指名されてすぐ日本に旅立つから結婚しないかって、で、その晩に結婚する。(え.. ビザとかないの?)
日本に着いたJulieは池にあひるが泳いでいる召使一家つきの一軒家(Rogerによると家賃は2000円、$1000かな、って)を借りて、Julieは妊娠して変てこな着物を着て幸せそうだったのだが、Rogerは遺産相続したから会社やめた、ふたりで世界中を旅しよう、とか言いだして、でもそんな大層な金額ではなかったのであんたなに考えてんの? になったところで大地震(関東大震災?)が東京を襲って、Julieは流産してしまう。
サンフランシスコに戻ってRogerは小さなタウン誌の発行を始めて、でもJulieは病院で泣いてばかりなので万能従業員のApplejack(Edgar Buchanan)は養子を貰ってみたらどうか、といい、試しに応募して面接に行くと希望されているような子(2歳くらい、青い目でカーリーヘアの男子)は数年かかるかもと言われ、でも親切な担当のMiss Oliver(Beulah Bondi)からある日連絡を受け、女の子の赤ん坊がいて、この子はいいわよ、というので連れ帰り、Trinaと名付けておっかなびっくり育児を始める。
で、一年間の里親としての試用期間を経て審査の時が来るのだがRogerは自分の会社を潰したばかりの無収入で、普通なら子供は取りあげられてしまうのだが判事の前でRogerが感動的なスピーチをして、Trinaは戻ってくるの。クリスマスにママの誕生日に、みんなで楽しく幸せに暮らしていったのだが、次の冬、Miss Oliver宛の手紙で、Trianaが病で突然亡くなってしまったことが明らかにされ、そこから塞ぎこんでしまったふたりはもう一緒にいないほうがいいね、になって冒頭のシーンに。 (でもこれで終わりじゃないの)
ドラマとして喜怒哀楽をとても情感たっぷりに描いて、Irene DunneとCary Grantの夫婦のかんじもパーフェクトとしか言いようがないのだが、コメディではないの。 でもIrene Dunneさんはこれが一番お気に入りなのだそう。 朝の連ドラ向け、かなあ。
あと、メカから料理からおむつ作りまでなんでもこなしてしまうApplejack氏はJon Favreauの”Happy”の原型なのだと思った。
The Awful Truth (1937)
19日月曜日の晩、BFIで見ました。邦題は『新婚道中記』(←ありえない)
これもあそこで一番でっかいシアターがほぼ一杯で、やっぱりこれが一番おもしろいかなー、と。
もう別れましょ、て険悪になったJerry (Cary Grant)とLucy (Irene Dunne)の夫婦がいて、Lucyが再婚候補として連れてきた音楽教師Armand (Alexander D'Arcy)とかオクラホマの金持ち(Ralph Bellamy)とかがJerryには気にくわず、Jerryがつきあいだした金持ちのご令嬢のBarbara Vance (Molly Lamont)がLucyには気にくわず、互いに介入してぶち壊しあい眠れなくなったその先には。
あんた本当はヒトでしょ?と言いたくなるわんころのMr.Smithとか、なぜか懸命にドアをブロックしにくる正体不明の黒猫とか、動物が大活躍するのがとても楽しい。
あと、”His Girl Friday” (1940)でも引き続きCary Grantに散々虐められることになるRalph Bellamyがあれとほぼ同じポジション(しかも同様にママ付き)で登場している。
Irene DunneとCary Grantのふたりってひどい大ゲンカとか悲惨なことなことがあっても絶対に離れない頑丈な糸で結ばれたふたりなの。 これに対してKatharine HepburnとCary Grantのふたりはめちゃくちゃな惨事や大嵐の真っ只中でもなぜかくっついてしまう魔法の腐れ縁なのね。
どっちのふたりにしたってベースが最強なもんだからどんな突飛なお話しをぶつけてみても大抵へっちゃらなんだ。 でもなんでそれがCary Grantなのか、彼には可能となってしまうのかは、ヒチコック作品とかも絡めてきちんと考えるべきネタ、なのかもしれない。
8.20.2019
[film] The Philadelphia Story (1940)
17日、土曜日の午後、BFIのCary Grant特集で見ました。一番でっかいシアターがほぼ満員で、終わるとみんなわーって拍手になる。これに限らずCary Grantのコメディは必ず拍手喝采で終わるの。
監督がGeorge Cukor、プロデュースがJoseph L. Mankiewicz、Philip Barryによるブロードウェイの舞台用脚本をDonald Ogden Stewartが脚色し(オスカーとった)、俳優陣はCary GrantにKatharine HepburnにJames Stewart(オスカーとった)にRuth Husseyに。とてつもない古典と言われているが胸のすくような感動的なフィナーレがあるわけではない、最後まで危なっかしくて、えー そっちかー そうかー そうだねえ.. って考えさせるところも、見るたびにそれが(何度でも新鮮に)起こることいろいろ含めての古典なんだと思う。
冒頭、フィラデルフィアの名家で社交家のTracy (Katharine Hepburn)の家の前で、彼女とC.K. Dexter Haven (Cary Grant)が大喧嘩して、Tracyが彼のゴルフクラブをへし折って、Dexterは涙目で家を出て行っちゃうの。
そこから2年後、Tracyは成り上がり(で頭からっぽ)のGeorge Kittredge(John Howard)と結婚することになって、式になんとか潜りこみたいタブロイド誌の”Spy”は記者のMike (James Stewart)とカメラのElizabeth (Ruth Hussey)と、切り札にDexterを加えて、Tracyの兄の友達とか適当言って屋敷に潜りこませて隠密に … とはならずに結果的にあれこれ引っ掻き回すことになる。DexterはTracyに彼女の父親の浮気の件をほのめかし、かつての彼女が自分にどう見えていたかを率直かつ親身になって語り、そんなのでぐらぐらし始めた彼女は、作家でもあるMikeに絡んだりぐでぐでに荒れていって、とうとう式の前夜に..
結婚式で新たに、今度こそ幸せを掴もうとしている花嫁に向かって、前夫から記者からDexter贔屓の家族までよってたかってみんな勝手なことを言って彼女の土台をぐらぐらにするのだが、誰も我こそがとか言わないし着地点も見えないまま、最後の最後にそれは起こって、結婚式のどたんばの逆転劇としてはそうとう際どいぎりぎりのやつで、どうせ、たぶんあの後だれも責任とろうとしない。こんなとてつもなく無責任・思いつき・いいかげんな顛末を”The Philadelphia Story”って、今でいうご当地Rom-comにしてしまうのだから呆れてものも言えないわ。土地の名前がつく“Sleepless in Seattle” (1993)なんて、これの500倍くらいまじめだわよ(べつにほめてない)。
でもこんなふざけたお話しがふざけているなりにリアルで身を乗り出して見入ってしまうのは俳優陣がみんな驚異的にすごいからよね。ほぼ目配せの連携でだいたいの物事が運んでいったり、薄ら笑いのタイミングが絶妙だったり、Mikeのしゃっくりが見事に転がったり(あれアドリブなんだよ)、Action speaks faster - 泣いて笑って絡んでのすべてがアクションとして極めて正確に機能してしまう驚異ときたら。
Holiday (1938)
12日、月曜日の晩にBFIの同じ特集で、同じくGeorge Cukor, Cary Grant, Katharine HepburnによるRom-com(更にPhilip Barry原作の舞台をDonald Ogden Stewart (& Sidney Buchman)が脚色しているとこも同じ)。しかしGeorge Cukorって、ここから”The Philadelphia Story”までの間に”The Women” (1939)を含めて4本撮っている(「風と共に去りぬ」は途中降板だけど)のね。
Johnny Case (Cary Grant)が休暇で出会ったJulia Seton (Doris Nolan)と結婚しようと彼女の家に行ってみるとそこは五番街の豪邸で彼女の父は超金持ちで、でもそこにはJuliaの姉でそこでの退屈な生活にうんざりしているLinda (Katharine Hepburn)とか兄でアル中のNed (Lew Ayres)とかがいて、JohnnyはLindaやNedと気が合って、逆に将来や仕事のことについて固いことばかりがみがみ言い始めたJuliaが面倒になってきて、Lindaは仕事より大事なことがある、って言うJohnnyのことを好きになって、やがてNew Year's Eveのパーティでの婚約発表が近づいてくる。
これも“The Philadelphia Story”と同じく結婚(or 婚約)式をどたんばでぶち壊す話で、この話でのKatharine Hepburnは妹の幸せをぶち壊す側にまわっているのだが、そういえば”The Philadelphia .. “ だって、彼女、自分で自分の式を壊していなかったかしら? とか、ここで壊されたものって結局なんだったのだろう? 高慢と偏見? JuliaもGeorgeもかわいそうだけど、彼らの相手ならまたそこらで見つかりそうだし、お金持ちってそういうもんなんでしょ、とか。
ここでもKatharine Hepburnの酔っ払いとでんぐり返り - 彼女の運動神経 - はすばらしいとしか言いようがないのだが、スタジオはこれの前年に”The Awful Truth”でGrantと共演したIrene DunneをLinda役にしたがったらしい。(最終的にCukorがKatharine Hepburnに決めた、と)
Irene DunneとCary Grantもそれはそれはすばらしいのだが、彼らは結婚した後のコメディをやるコンビで、Katharine HepburnとCary Grantは結婚する手前のコメディをやるコンビなの。
Irene Dunnとのやつはまた後ほど。
監督がGeorge Cukor、プロデュースがJoseph L. Mankiewicz、Philip Barryによるブロードウェイの舞台用脚本をDonald Ogden Stewartが脚色し(オスカーとった)、俳優陣はCary GrantにKatharine HepburnにJames Stewart(オスカーとった)にRuth Husseyに。とてつもない古典と言われているが胸のすくような感動的なフィナーレがあるわけではない、最後まで危なっかしくて、えー そっちかー そうかー そうだねえ.. って考えさせるところも、見るたびにそれが(何度でも新鮮に)起こることいろいろ含めての古典なんだと思う。
冒頭、フィラデルフィアの名家で社交家のTracy (Katharine Hepburn)の家の前で、彼女とC.K. Dexter Haven (Cary Grant)が大喧嘩して、Tracyが彼のゴルフクラブをへし折って、Dexterは涙目で家を出て行っちゃうの。
そこから2年後、Tracyは成り上がり(で頭からっぽ)のGeorge Kittredge(John Howard)と結婚することになって、式になんとか潜りこみたいタブロイド誌の”Spy”は記者のMike (James Stewart)とカメラのElizabeth (Ruth Hussey)と、切り札にDexterを加えて、Tracyの兄の友達とか適当言って屋敷に潜りこませて隠密に … とはならずに結果的にあれこれ引っ掻き回すことになる。DexterはTracyに彼女の父親の浮気の件をほのめかし、かつての彼女が自分にどう見えていたかを率直かつ親身になって語り、そんなのでぐらぐらし始めた彼女は、作家でもあるMikeに絡んだりぐでぐでに荒れていって、とうとう式の前夜に..
結婚式で新たに、今度こそ幸せを掴もうとしている花嫁に向かって、前夫から記者からDexter贔屓の家族までよってたかってみんな勝手なことを言って彼女の土台をぐらぐらにするのだが、誰も我こそがとか言わないし着地点も見えないまま、最後の最後にそれは起こって、結婚式のどたんばの逆転劇としてはそうとう際どいぎりぎりのやつで、どうせ、たぶんあの後だれも責任とろうとしない。こんなとてつもなく無責任・思いつき・いいかげんな顛末を”The Philadelphia Story”って、今でいうご当地Rom-comにしてしまうのだから呆れてものも言えないわ。土地の名前がつく“Sleepless in Seattle” (1993)なんて、これの500倍くらいまじめだわよ(べつにほめてない)。
でもこんなふざけたお話しがふざけているなりにリアルで身を乗り出して見入ってしまうのは俳優陣がみんな驚異的にすごいからよね。ほぼ目配せの連携でだいたいの物事が運んでいったり、薄ら笑いのタイミングが絶妙だったり、Mikeのしゃっくりが見事に転がったり(あれアドリブなんだよ)、Action speaks faster - 泣いて笑って絡んでのすべてがアクションとして極めて正確に機能してしまう驚異ときたら。
Holiday (1938)
12日、月曜日の晩にBFIの同じ特集で、同じくGeorge Cukor, Cary Grant, Katharine HepburnによるRom-com(更にPhilip Barry原作の舞台をDonald Ogden Stewart (& Sidney Buchman)が脚色しているとこも同じ)。しかしGeorge Cukorって、ここから”The Philadelphia Story”までの間に”The Women” (1939)を含めて4本撮っている(「風と共に去りぬ」は途中降板だけど)のね。
Johnny Case (Cary Grant)が休暇で出会ったJulia Seton (Doris Nolan)と結婚しようと彼女の家に行ってみるとそこは五番街の豪邸で彼女の父は超金持ちで、でもそこにはJuliaの姉でそこでの退屈な生活にうんざりしているLinda (Katharine Hepburn)とか兄でアル中のNed (Lew Ayres)とかがいて、JohnnyはLindaやNedと気が合って、逆に将来や仕事のことについて固いことばかりがみがみ言い始めたJuliaが面倒になってきて、Lindaは仕事より大事なことがある、って言うJohnnyのことを好きになって、やがてNew Year's Eveのパーティでの婚約発表が近づいてくる。
これも“The Philadelphia Story”と同じく結婚(or 婚約)式をどたんばでぶち壊す話で、この話でのKatharine Hepburnは妹の幸せをぶち壊す側にまわっているのだが、そういえば”The Philadelphia .. “ だって、彼女、自分で自分の式を壊していなかったかしら? とか、ここで壊されたものって結局なんだったのだろう? 高慢と偏見? JuliaもGeorgeもかわいそうだけど、彼らの相手ならまたそこらで見つかりそうだし、お金持ちってそういうもんなんでしょ、とか。
ここでもKatharine Hepburnの酔っ払いとでんぐり返り - 彼女の運動神経 - はすばらしいとしか言いようがないのだが、スタジオはこれの前年に”The Awful Truth”でGrantと共演したIrene DunneをLinda役にしたがったらしい。(最終的にCukorがKatharine Hepburnに決めた、と)
Irene DunneとCary Grantもそれはそれはすばらしいのだが、彼らは結婚した後のコメディをやるコンビで、Katharine HepburnとCary Grantは結婚する手前のコメディをやるコンビなの。
Irene Dunnとのやつはまた後ほど。
8.19.2019
[film] Go Fish (1994)
7日水曜日の晩、BFIのNineties特集で見ました。
94年のSundanceで話題になって、メジャーなところにも売れてそこそこヒットして、こんなインディーのレズビアン映画でもマーケットバリュー(けっ)があることを(狭い)世に知らしめた作品。
Rose Trocheと出演もしているGuinevere Turnerがふたりで書いて、Rose Trocheが監督している。
16mmのモノクロで撮られたスケッチのような作品で、映画を撮ろうとしている学生のMax (Guinevere Turner) がいて、彼女のカメラ(+1)を通して映しだされる彼女の周囲にいる女性たち(4人、20〜30代)の肖像とか日常のやりとりとか。特に大きな事件に小さなエピソード、修羅場などが出てくるわけではなく、誰かが誰かを好きになった、とか、やっぱ別れた- またくっついた、とか、なんであたしはこんな、とか、あんた誰よ、とか、それぞれの日々の決意や後悔やお小言が重ねられ、たまに彼女たちは集まってパーティしたり全員あお向けになって告解とか白状してみたりする(そしてそこには必ず新参者がいて変なかんじになるのがおかしい)。
レズビアンだから女性だから、みたいな目線が特に強調されているようには見えなくて、ただ男野郎同士のこういうのだとバーで呑んでくだまいて、で終始しそうなところ(偏見です)をもう少し細やかな(髪を切る爪を切るお茶を飲む、とか)キッチンやリビングでのふだんの生活の動作に目を向けていて、それが結果としてこの作品のナイーブな性格と柔らかく調和しているのだと思った。女性ならでは、という言い方をすべきではないのかもしれないが、特に開き直っているわけでも言い訳しているわけでもない。なんかかわいいでしょ、でこじんまりすることも露悪に曝しまくることもなく淡々と開かれてそこにいる。 その辺の潔さも含めて、タイトルの“Go Fish” – おととい来やがれ – はいろんな意味を含んで反射していておもしろいかも。
あくまで印象だけど、“Stranger Than Paradise” (1984)とかにあった、あんたなにもの? な無骨さと、それがもたらすユーモア、がなんともいえなくて、とにかく彼女たちがああしているだけでとても素敵で。今もあんなふうにどこかで暮らしているんだろうな、いてほしいな、Trumpとかに激怒していそうだな、とか。
でもぜんぜん(どこがツボなのか)わかんない箇所で爆笑している女性たちが結構いて、あれってなんだったのかしら、って今だにちょっと思う。
いま(さっき見たらもう終わっていた)、Nineties特集の関連企画としてBFIの隅っこのスペースで、"Nineties Video Store Pop-Up"ていうのをやっていてなんだかとても懐かしい。よく再現したもんだと思うが90年代のVHSレンタルをしていたチェーンの店舗を模して、90’sの作品を中心にVHSの外箱がいっぱい並べてあって、見たいやつがあったらそこに置いてあるプレイヤーにかけて見たり、置いてあるスナックも食べてよいらしい。やったことないけど。
今これらはNetflixの選択画面になってしまったわけだが、昔のこれってみんなが行き来したり探し物しているところで棚から選ぶ、っていうのが重要だったのよ。そんな恥ずかしいの借りないよ、とか、それつまんないかもよ、とか(言わないけど)。 本屋が必要な理由もここなのよ。
https://www.timeout.com/london/things-to-do/nineties-video-store-pop-up
94年のSundanceで話題になって、メジャーなところにも売れてそこそこヒットして、こんなインディーのレズビアン映画でもマーケットバリュー(けっ)があることを(狭い)世に知らしめた作品。
Rose Trocheと出演もしているGuinevere Turnerがふたりで書いて、Rose Trocheが監督している。
16mmのモノクロで撮られたスケッチのような作品で、映画を撮ろうとしている学生のMax (Guinevere Turner) がいて、彼女のカメラ(+1)を通して映しだされる彼女の周囲にいる女性たち(4人、20〜30代)の肖像とか日常のやりとりとか。特に大きな事件に小さなエピソード、修羅場などが出てくるわけではなく、誰かが誰かを好きになった、とか、やっぱ別れた- またくっついた、とか、なんであたしはこんな、とか、あんた誰よ、とか、それぞれの日々の決意や後悔やお小言が重ねられ、たまに彼女たちは集まってパーティしたり全員あお向けになって告解とか白状してみたりする(そしてそこには必ず新参者がいて変なかんじになるのがおかしい)。
レズビアンだから女性だから、みたいな目線が特に強調されているようには見えなくて、ただ男野郎同士のこういうのだとバーで呑んでくだまいて、で終始しそうなところ(偏見です)をもう少し細やかな(髪を切る爪を切るお茶を飲む、とか)キッチンやリビングでのふだんの生活の動作に目を向けていて、それが結果としてこの作品のナイーブな性格と柔らかく調和しているのだと思った。女性ならでは、という言い方をすべきではないのかもしれないが、特に開き直っているわけでも言い訳しているわけでもない。なんかかわいいでしょ、でこじんまりすることも露悪に曝しまくることもなく淡々と開かれてそこにいる。 その辺の潔さも含めて、タイトルの“Go Fish” – おととい来やがれ – はいろんな意味を含んで反射していておもしろいかも。
あくまで印象だけど、“Stranger Than Paradise” (1984)とかにあった、あんたなにもの? な無骨さと、それがもたらすユーモア、がなんともいえなくて、とにかく彼女たちがああしているだけでとても素敵で。今もあんなふうにどこかで暮らしているんだろうな、いてほしいな、Trumpとかに激怒していそうだな、とか。
でもぜんぜん(どこがツボなのか)わかんない箇所で爆笑している女性たちが結構いて、あれってなんだったのかしら、って今だにちょっと思う。
いま(さっき見たらもう終わっていた)、Nineties特集の関連企画としてBFIの隅っこのスペースで、"Nineties Video Store Pop-Up"ていうのをやっていてなんだかとても懐かしい。よく再現したもんだと思うが90年代のVHSレンタルをしていたチェーンの店舗を模して、90’sの作品を中心にVHSの外箱がいっぱい並べてあって、見たいやつがあったらそこに置いてあるプレイヤーにかけて見たり、置いてあるスナックも食べてよいらしい。やったことないけど。
今これらはNetflixの選択画面になってしまったわけだが、昔のこれってみんなが行き来したり探し物しているところで棚から選ぶ、っていうのが重要だったのよ。そんな恥ずかしいの借りないよ、とか、それつまんないかもよ、とか(言わないけど)。 本屋が必要な理由もここなのよ。
https://www.timeout.com/london/things-to-do/nineties-video-store-pop-up
[film] Apocalypse Now: Final Cut (2019)
13日の晩、BFI IMAXで見ました。 なぜかこの日一日だけ(お盆か?)、英国のいくつかの映画館で上映があり、その後はぽつぽつ上映されているみたいだが、なにがどうなってそんなことしているのかは不明。
BFIでは12:00、16:00、20:00の3回上映があって、仕事あるから20:00のにせざるを得ない。こんなのSold outするに決まっている。チケットは5月くらいに知ってすぐに取った。
Star WarsのEP4の次に劇場で回数多く見てきた作品。 最初の有楽座の70mmのときに2回、続く35mmの方は10回くらい見た - こっちの方はまだ入替制なんてなかったからね。
Reduxのときは米国にいて、これは全く違う映画になってしまったかもと思って、あと数回見ないとわかんないな、ってそのままになっていて、気付いてみれば最初のから40年て、なんだそれ、しかないわ。
オリジナルは147分、2001年のReduxは196分、今回のは183分。音も映像もすべてCoppola自身が入ってデジタルリマスターした決定版、なのでこんなのIMAXで見るしかない。 どれくらい洗濯されてきれいになり、なにがオリジナルから、そしてReduxから変わったのか。
時間が遅いし、本編上映後に今年のTribeca映画祭でのプレミアの際に行われたCoppolaとSteven Soderberghの対話をおまけで上映する、ということで予告1本 - 翌日からの”Once Upon a Time … in Hollywood” - だけの後にすぐに始まる。
ヘリ/ファンの音が背後から左前方にゆっくりと旋回していって、彼方から”The End”のアルペジオが被さって、突然ジャングルが燃えあがる冒頭、ものすごくキレイになっちゃったな、って。 これはデジタルリマスターされた昔の音に再会したときにいつも受ける印象と同じ。 最初に見たとき、このシーンは、靄の中あまりに唐突で、なにが起こったのかまったく理解できないくらいの衝撃だったことを思いだす。いまこれを最初に見た若い人はどう見るのかしら。
音は相当に凄まじくなっていて、これがIMAXによるものなのかは不明だが、Kilgoreが出てきて"Die Walküre”で爆撃するシーンのやかましさ、そこらじゅうから何かが飛んできそうな包囲されてやばいかんじときたらとんでもない。
たぶん、でしかないが、Reduxから新たに発掘追加されたシーンはなくて(細かな編集は除く)、一番はっきりと削除されたのはReduxで一番よくわからなかったPlaymatesと再会するシーン。 French Plantationのシーンは残されていて、おそらくRedux版がより強調しようとしていた戦争の狂気と混沌を、オリジナルのWillardの旅を通したKurtzとの確執とWillard自身の葛藤、その鏡面構造が露わになっていく本来の筋立てに収斂させるべく戻したような。
その角度からFrench Plantationのシーンを捉えなおしてみると、ベトナム戦争の関係国でもあり、その植民地政策も含めて国に対する意識のありようが揺るぎないフランス人(家族)との対話を置く - 更にその家のRoxanne (Aurore Clément)と関係をもつ、という補助線を引くことで、米国政府から派遣された刺客としてのWillardの視座と意識が(Willardのなかで)定まる - Kurtzの側から引き戻す、という効果はあったかも。
最初の70mm版のラストで王国の王座にひとり立ちつくしたWillard、 35mm版のエンドロールで爆撃されて焼きつくされた王国、そして今回のは …
戦争の悲惨な描写を通して直接的に反戦を訴えるような映画でも、狂人とその王国をせん滅するヒーローものでもなく、戦争とジャングルと河と殺し合いが人の本来持っている何か(があると仮定して)を決定的に歪めたり呼び覚ましたりしてしまう - それを狂気と呼ぶひともいるようだが、それって本当にそう呼んで遺棄してしまってよいのか? こんな「戦争」を前にして、それでもそんなこと言えるのか、言ってよいのか? そこには循環して止まらなくなる問いがあり、 その問いのコアにあるのがかつては“Heart Of Darkness”と呼ばれ、その底から”the horror .. the horror..”という呻きが吹いてくるなにかで、それは決して今の時代に無縁なそれではなく、そこらじゅうに湧いて噴き出しているのではないか。 戦争を引き起こすのは狂人ではないし、人は狂人に「なる」のだし。
上映後のCoppolaとSoderberghの対話は最初の方だけ少し聞いて、もう23:30を過ぎていたので帰った。 探せばネットのどこかにあるじゃろ、と。 それにしても、この企画をJohn Miliusのおおもとのシナリオを携えてGeorge Lucasが撮っていたら … 映画史上に”Star Wars” (1977)も”Apocalypse Now” (1979)もどっちも存在しないことになっていたのかも。 それってなんかすごいなー。
あと、この翌日から上映が始まった”Once Upon a Time … in Hollywood”とはCharles Mansonで繋がっているのだった。 ただの偶然よ。
BFIでは12:00、16:00、20:00の3回上映があって、仕事あるから20:00のにせざるを得ない。こんなのSold outするに決まっている。チケットは5月くらいに知ってすぐに取った。
Star WarsのEP4の次に劇場で回数多く見てきた作品。 最初の有楽座の70mmのときに2回、続く35mmの方は10回くらい見た - こっちの方はまだ入替制なんてなかったからね。
Reduxのときは米国にいて、これは全く違う映画になってしまったかもと思って、あと数回見ないとわかんないな、ってそのままになっていて、気付いてみれば最初のから40年て、なんだそれ、しかないわ。
オリジナルは147分、2001年のReduxは196分、今回のは183分。音も映像もすべてCoppola自身が入ってデジタルリマスターした決定版、なのでこんなのIMAXで見るしかない。 どれくらい洗濯されてきれいになり、なにがオリジナルから、そしてReduxから変わったのか。
時間が遅いし、本編上映後に今年のTribeca映画祭でのプレミアの際に行われたCoppolaとSteven Soderberghの対話をおまけで上映する、ということで予告1本 - 翌日からの”Once Upon a Time … in Hollywood” - だけの後にすぐに始まる。
ヘリ/ファンの音が背後から左前方にゆっくりと旋回していって、彼方から”The End”のアルペジオが被さって、突然ジャングルが燃えあがる冒頭、ものすごくキレイになっちゃったな、って。 これはデジタルリマスターされた昔の音に再会したときにいつも受ける印象と同じ。 最初に見たとき、このシーンは、靄の中あまりに唐突で、なにが起こったのかまったく理解できないくらいの衝撃だったことを思いだす。いまこれを最初に見た若い人はどう見るのかしら。
音は相当に凄まじくなっていて、これがIMAXによるものなのかは不明だが、Kilgoreが出てきて"Die Walküre”で爆撃するシーンのやかましさ、そこらじゅうから何かが飛んできそうな包囲されてやばいかんじときたらとんでもない。
たぶん、でしかないが、Reduxから新たに発掘追加されたシーンはなくて(細かな編集は除く)、一番はっきりと削除されたのはReduxで一番よくわからなかったPlaymatesと再会するシーン。 French Plantationのシーンは残されていて、おそらくRedux版がより強調しようとしていた戦争の狂気と混沌を、オリジナルのWillardの旅を通したKurtzとの確執とWillard自身の葛藤、その鏡面構造が露わになっていく本来の筋立てに収斂させるべく戻したような。
その角度からFrench Plantationのシーンを捉えなおしてみると、ベトナム戦争の関係国でもあり、その植民地政策も含めて国に対する意識のありようが揺るぎないフランス人(家族)との対話を置く - 更にその家のRoxanne (Aurore Clément)と関係をもつ、という補助線を引くことで、米国政府から派遣された刺客としてのWillardの視座と意識が(Willardのなかで)定まる - Kurtzの側から引き戻す、という効果はあったかも。
最初の70mm版のラストで王国の王座にひとり立ちつくしたWillard、 35mm版のエンドロールで爆撃されて焼きつくされた王国、そして今回のは …
戦争の悲惨な描写を通して直接的に反戦を訴えるような映画でも、狂人とその王国をせん滅するヒーローものでもなく、戦争とジャングルと河と殺し合いが人の本来持っている何か(があると仮定して)を決定的に歪めたり呼び覚ましたりしてしまう - それを狂気と呼ぶひともいるようだが、それって本当にそう呼んで遺棄してしまってよいのか? こんな「戦争」を前にして、それでもそんなこと言えるのか、言ってよいのか? そこには循環して止まらなくなる問いがあり、 その問いのコアにあるのがかつては“Heart Of Darkness”と呼ばれ、その底から”the horror .. the horror..”という呻きが吹いてくるなにかで、それは決して今の時代に無縁なそれではなく、そこらじゅうに湧いて噴き出しているのではないか。 戦争を引き起こすのは狂人ではないし、人は狂人に「なる」のだし。
上映後のCoppolaとSoderberghの対話は最初の方だけ少し聞いて、もう23:30を過ぎていたので帰った。 探せばネットのどこかにあるじゃろ、と。 それにしても、この企画をJohn Miliusのおおもとのシナリオを携えてGeorge Lucasが撮っていたら … 映画史上に”Star Wars” (1977)も”Apocalypse Now” (1979)もどっちも存在しないことになっていたのかも。 それってなんかすごいなー。
あと、この翌日から上映が始まった”Once Upon a Time … in Hollywood”とはCharles Mansonで繋がっているのだった。 ただの偶然よ。
8.17.2019
[music] Russian Circles
こんなのTwitterですごいー! かっこいいー! て呟いて終わり、でよいのかもしれないがそこをもうちょっとがんばって掘ってみよう、って始めたのがこのサイトなので少し書いてみる。
14日、水曜日の晩、EartHっていうHackneyにあるライブハウスで見ました。いろいろあってへろへろで20:40くらいに着いたらちょうど前座が終わったところだった。ここのスタンディングのキャパは1200人らしいので結構でっかくて、2/3くらい埋まっている。 前の方にはぜんぜん行けない(見ればわかるよ)。
このバンドのライブは2016年にO-Nestで見て以来で、この時なんだろこれ?と思ったのは、その風貌(ごめんね関係ないよね)とかバンド名やジャンルの括られ方から来るイメージと反して - という程ではないが - 想像していた重さ濃さとは異なる硬さと疎結合のかんじだった。なんたらメタルでもうんたらコアでもよいが、こういうバンドが耳の周りを埋め尽くしてしまう重くて黒くて厚い粒子とか3層4層の盤石の壁とか圧風、おらおらどんなもんじゃー、がないの。
そういう風(かぜ)にあたりに行くライブも、それはそれでもちろんよいのだが、いまここで欲しいのは脳の端をグラインダーで削ってきーんとさせてくれるかき氷のような音 - 巨大扇風機というよりはかき氷 - で、このバンドはすばらしい手動のかき氷機を回して舌が切れて口の中が血まみれ(Blood Year)になるくらい粗挽きの素敵な氷をかいて撒いてくれるの。
始まったのは21:15くらい、ドラムスはドラムスの、ギターはギターの、ベースはベースのパートを堅持しつつ、それぞれの言葉で互いに対話しながら少しずつ高度をあげていく。各パートが自身のチューンと技巧で寡黙に饒舌に語っていくのでヴォーカルは別にいらない - あってもいいけど、くらい。この辺の疎の、野良のかんじが時折睨みあい、沸騰して吠えたり噛み合ったりする瞬間がきて、その間合いもよいの(即興のパートは殆どないと思うが)。 耳栓しなくてもぜんぜん平気、気持ちよいこと。
30分くらいやったところでベースの音が出なくなり、一度戻ったもののやはりだめになったので10分くらい中断して再開したのだが、そんな影響もなく1時間半みっちり。暴れたい人は前方で暴れていたようだったが後ろの方の人たちは放心して聴きいっているかんじ。がりがりどかどかゴールに向かって一気に走り抜ける、というより緩やかな弧を描きつつ元の地点に戻っていく天体のドラマにうっとりしていた。 似ているバンドはあるだろうか? ブラックホールを抜けていくRush、みたいな?
物販でアナログ買って帰った。ビルボードのアナログチャートに入っていたのには(メンバーも含めて)驚いたもんだが、これのClear & Gold Splatter盤はかき氷みたいにとってもきれいだし、聴いてみればこれってほんと針でごりごり進むアナログの音だよ。Electrical Audio (Albini氏の)録音だし。
日本でまたライブやってくれるのだとしたら、O-Nestよかでっかいところでお願いしたい。あの場所でもうSunn O)))やBorisの音は無理でしょ、それと同じよ。
14日、水曜日の晩、EartHっていうHackneyにあるライブハウスで見ました。いろいろあってへろへろで20:40くらいに着いたらちょうど前座が終わったところだった。ここのスタンディングのキャパは1200人らしいので結構でっかくて、2/3くらい埋まっている。 前の方にはぜんぜん行けない(見ればわかるよ)。
このバンドのライブは2016年にO-Nestで見て以来で、この時なんだろこれ?と思ったのは、その風貌(ごめんね関係ないよね)とかバンド名やジャンルの括られ方から来るイメージと反して - という程ではないが - 想像していた重さ濃さとは異なる硬さと疎結合のかんじだった。なんたらメタルでもうんたらコアでもよいが、こういうバンドが耳の周りを埋め尽くしてしまう重くて黒くて厚い粒子とか3層4層の盤石の壁とか圧風、おらおらどんなもんじゃー、がないの。
そういう風(かぜ)にあたりに行くライブも、それはそれでもちろんよいのだが、いまここで欲しいのは脳の端をグラインダーで削ってきーんとさせてくれるかき氷のような音 - 巨大扇風機というよりはかき氷 - で、このバンドはすばらしい手動のかき氷機を回して舌が切れて口の中が血まみれ(Blood Year)になるくらい粗挽きの素敵な氷をかいて撒いてくれるの。
始まったのは21:15くらい、ドラムスはドラムスの、ギターはギターの、ベースはベースのパートを堅持しつつ、それぞれの言葉で互いに対話しながら少しずつ高度をあげていく。各パートが自身のチューンと技巧で寡黙に饒舌に語っていくのでヴォーカルは別にいらない - あってもいいけど、くらい。この辺の疎の、野良のかんじが時折睨みあい、沸騰して吠えたり噛み合ったりする瞬間がきて、その間合いもよいの(即興のパートは殆どないと思うが)。 耳栓しなくてもぜんぜん平気、気持ちよいこと。
30分くらいやったところでベースの音が出なくなり、一度戻ったもののやはりだめになったので10分くらい中断して再開したのだが、そんな影響もなく1時間半みっちり。暴れたい人は前方で暴れていたようだったが後ろの方の人たちは放心して聴きいっているかんじ。がりがりどかどかゴールに向かって一気に走り抜ける、というより緩やかな弧を描きつつ元の地点に戻っていく天体のドラマにうっとりしていた。 似ているバンドはあるだろうか? ブラックホールを抜けていくRush、みたいな?
物販でアナログ買って帰った。ビルボードのアナログチャートに入っていたのには(メンバーも含めて)驚いたもんだが、これのClear & Gold Splatter盤はかき氷みたいにとってもきれいだし、聴いてみればこれってほんと針でごりごり進むアナログの音だよ。Electrical Audio (Albini氏の)録音だし。
日本でまたライブやってくれるのだとしたら、O-Nestよかでっかいところでお願いしたい。あの場所でもうSunn O)))やBorisの音は無理でしょ、それと同じよ。
8.16.2019
[film] His Girl Friday (1940)
10日、土曜日の晩、BFIのCary Grant特集で見ました。Howard Hawksによる極め付きの古典。
これは大昔に、たしか三百人劇場で見て、昔の映画ってこんなにおもしろいんだーと目を開かせてくれた1本で、コメディクラシックなので英米では割としょっちゅう上映されているのだが、あまり行く気にならなかったのは、ものすごいマシンガンお喋りの応酬が延々続くのでついていけなくなっちゃうよね、という懸念があったから。 でもそんな心配いらなかった。人の言うことをちっとも聞かない人達が巻き起こすどたばたで、言葉よりも体がつんのめって先に転がっていく、それを追っかけていくのに字幕はいらない。
原作はBen HechtとCharles MacArthurによる戯曲”The Front Page”で、31年に同タイトルで映画化もされている。原作の真ん中ふたりの男性設定を男性 & 女性 – しかも別れた夫婦に変更するにあたり、最初にキャスティングされたのはCarole Lombardで、でも彼女はギャラが高過ぎてだめで、他にはJoan Crawfordなんかも候補にあがったらしいのだが、最終的に”The Women” (1939)に出たばかりのRosalind Russellになった、と。どれになってもすごい!なのだが、結果的にあの叩きつけていくような喋りができたのはRosalind Russellだけだったのではないかしら。
The Morning Post紙の編集者Walter Burns (Cary Grant)のところにかつて一緒に組んでいた記者で別れた妻のHildy (Rosalind Russell)がやってきて、あたし保険屋のBruce (Ralph Bellamy)と結婚してAlbanyとかで静かに暮すからさよなら、ていう。それがおもしろくないWalterはたまたま転がっていたネタ - 冤罪で投獄されて絞首刑が迫っている件 – をこんなネタHildyにしか書けないやつだなあ、って振って煽ってみるとHildyの魂にめらめら火が点いて記者部屋に籠っているとそこに当事者のEarl Williamsが脱獄して助けを求めてきて..
その間、Walterが裏で手をまわして何の罪もないBruceを何度も刑務所送りにするとか、その火の粉が彼の母にも飛んでいくとか、突然窓から飛び降りてしまうEarlの婚約者の娘とか、絞首刑の裏にあったきな臭い行政とか選挙のこととか、(元)夫婦の意地の張り合いから転がってなぎ倒されていくより大きな世界、だけどそれって本当にそんなにでっかい大層なことなのか、みんな自分のFront Pageしか見ないし食べないし、ぜーんぶ肘とか意地とか見栄の追っかけっこじゃんか、みたいに見るのはあんま楽しくなくて、単に互いの面倒が拗れて別れた夫婦がよりを戻すには、こーんな大騒ぎがあって、でもこいつらそのうちまた同じこと繰り返すよ、っていう笑い話でよいの。ふたり共がこっちを向いてどつきあいながら喋り倒していくとそのスイングときたら、極上の漫才以外の何ものでもないし、Rosalind Russell、すごくかっこいいし。
配られたノートにはRosalind Russellの自伝からこの映画に関わったHoward HawksとCary Grantとの思い出があって、それ読むとみんなすごすぎて尊敬しかない。どいつもこいつも。
WalterとHildyとの役を逆に置いてみたらどうなるだろう? って少し想像してみるとぜんぜんWorkしそうにないことがわかる。 ここも絶妙に計算されていて、その上であのスイングなんだなー。
Sylvia Scarlett (1935)
11日、日曜日の午後にBFIのCary Grant特集で見たやつ。これは2016年の初め、シネマヴェーラのGeorge Cukor特集で見ている。
邦題は『男装』。
この日はこの後にGeorge Cukorの”Camille” (1936) – これはCary Grant特集とは別 – を見て、翌月曜の晩は、”Holiday” (1938)を見て、Cukorの3連になったので、なんかとっても幸せだった。
フランスに暮らすSylvia Scarlett (Katharine Hepburn)と父のHenry (Edmund Gwenn)は母を亡くしてお金もないので英国に渡ることにして、ついでに髪をばっさり切って男の子Sylvesterになることにする。 で、向こうに渡るフェリーで詐欺師のJimmy (Cary Grant)に引っかかって母の遺したレースを持って行かれたので頭きて突っかかり、でも適当に丸め込まれてなんだかんだみんなでキャラバン組んで見世物をしていくことになるの。
なかなか落ち着かずフックの見えないどさまわりの話で、Rom-comとしてもとりかへばや物語としてもあんまぱっとしないのだが、元気いっぱいのKatharine Hepburnはすばらしいの。 あとCary Grantがコックニー訛りの英語喋ってて、それがはまっててちょっと新鮮、くらい。
これは大昔に、たしか三百人劇場で見て、昔の映画ってこんなにおもしろいんだーと目を開かせてくれた1本で、コメディクラシックなので英米では割としょっちゅう上映されているのだが、あまり行く気にならなかったのは、ものすごいマシンガンお喋りの応酬が延々続くのでついていけなくなっちゃうよね、という懸念があったから。 でもそんな心配いらなかった。人の言うことをちっとも聞かない人達が巻き起こすどたばたで、言葉よりも体がつんのめって先に転がっていく、それを追っかけていくのに字幕はいらない。
原作はBen HechtとCharles MacArthurによる戯曲”The Front Page”で、31年に同タイトルで映画化もされている。原作の真ん中ふたりの男性設定を男性 & 女性 – しかも別れた夫婦に変更するにあたり、最初にキャスティングされたのはCarole Lombardで、でも彼女はギャラが高過ぎてだめで、他にはJoan Crawfordなんかも候補にあがったらしいのだが、最終的に”The Women” (1939)に出たばかりのRosalind Russellになった、と。どれになってもすごい!なのだが、結果的にあの叩きつけていくような喋りができたのはRosalind Russellだけだったのではないかしら。
The Morning Post紙の編集者Walter Burns (Cary Grant)のところにかつて一緒に組んでいた記者で別れた妻のHildy (Rosalind Russell)がやってきて、あたし保険屋のBruce (Ralph Bellamy)と結婚してAlbanyとかで静かに暮すからさよなら、ていう。それがおもしろくないWalterはたまたま転がっていたネタ - 冤罪で投獄されて絞首刑が迫っている件 – をこんなネタHildyにしか書けないやつだなあ、って振って煽ってみるとHildyの魂にめらめら火が点いて記者部屋に籠っているとそこに当事者のEarl Williamsが脱獄して助けを求めてきて..
その間、Walterが裏で手をまわして何の罪もないBruceを何度も刑務所送りにするとか、その火の粉が彼の母にも飛んでいくとか、突然窓から飛び降りてしまうEarlの婚約者の娘とか、絞首刑の裏にあったきな臭い行政とか選挙のこととか、(元)夫婦の意地の張り合いから転がってなぎ倒されていくより大きな世界、だけどそれって本当にそんなにでっかい大層なことなのか、みんな自分のFront Pageしか見ないし食べないし、ぜーんぶ肘とか意地とか見栄の追っかけっこじゃんか、みたいに見るのはあんま楽しくなくて、単に互いの面倒が拗れて別れた夫婦がよりを戻すには、こーんな大騒ぎがあって、でもこいつらそのうちまた同じこと繰り返すよ、っていう笑い話でよいの。ふたり共がこっちを向いてどつきあいながら喋り倒していくとそのスイングときたら、極上の漫才以外の何ものでもないし、Rosalind Russell、すごくかっこいいし。
配られたノートにはRosalind Russellの自伝からこの映画に関わったHoward HawksとCary Grantとの思い出があって、それ読むとみんなすごすぎて尊敬しかない。どいつもこいつも。
WalterとHildyとの役を逆に置いてみたらどうなるだろう? って少し想像してみるとぜんぜんWorkしそうにないことがわかる。 ここも絶妙に計算されていて、その上であのスイングなんだなー。
Sylvia Scarlett (1935)
11日、日曜日の午後にBFIのCary Grant特集で見たやつ。これは2016年の初め、シネマヴェーラのGeorge Cukor特集で見ている。
邦題は『男装』。
この日はこの後にGeorge Cukorの”Camille” (1936) – これはCary Grant特集とは別 – を見て、翌月曜の晩は、”Holiday” (1938)を見て、Cukorの3連になったので、なんかとっても幸せだった。
フランスに暮らすSylvia Scarlett (Katharine Hepburn)と父のHenry (Edmund Gwenn)は母を亡くしてお金もないので英国に渡ることにして、ついでに髪をばっさり切って男の子Sylvesterになることにする。 で、向こうに渡るフェリーで詐欺師のJimmy (Cary Grant)に引っかかって母の遺したレースを持って行かれたので頭きて突っかかり、でも適当に丸め込まれてなんだかんだみんなでキャラバン組んで見世物をしていくことになるの。
なかなか落ち着かずフックの見えないどさまわりの話で、Rom-comとしてもとりかへばや物語としてもあんまぱっとしないのだが、元気いっぱいのKatharine Hepburnはすばらしいの。 あとCary Grantがコックニー訛りの英語喋ってて、それがはまっててちょっと新鮮、くらい。
8.15.2019
[film] Blinded by the Light (2019)
11日、日曜日のお昼、CurzonのMayfairで見ました。観客は地元の老婦人達が4-5人程。
監督は”Bend It Like Beckham” (2002)のGurinder Chadhaさん。実話ベースのお話し。
87年のLuton – Londonから北に電車で1時間くらいの郊外 - に高校に入ったばかりのJaved (Viveik Kalra)がいて、パキスタン移民の子で頑固で厳格でどうにもならない父との衝突、サッチャー時代のきつさしんどさ、などなどを引っかぶって悶々としながら、日々の不満とか怒りを詩とか文章に書き貯めてて、やがては文章を書く仕事につきたい、ここから抜けだしたい、とぼんやり思っている。
ある日クラスメートから「これを聴け!」って”The Boss”– Bruce Springsteenの”Darkness on the Edge of Town” (1978)と”Born in the U.S.A.” (1984)のカセットを渡されたので聴いてみると、全身に電撃が走ってこれだ! になって、以降はミュージカル風味も交えながら、Bruceの歌詞 - 字幕で画面上に現れたりする - に導かれるようにして、自身の夢と挫折、クラスの女の子 Elizaとか幼馴染とのこと、父親や家族、都会と田舎の現実、コミュニティにある差別や貧困等々と向きあって、自分の部屋もファッションもBruce一色になって、いろいろがんばってよかったね、になるお話し。
ぜったいこの後にミュージカル化狙っているよね。
原作はジャーナリストSarfraz Manzoor氏の自伝なので(Bruceの名にかけて)嘘はないのだろうし文句のつけようがないのだが、ここまでBruceすごい! すばらしい! がくるとなんか言いたくなることはなる。
別にBruce Springsteenは成長期の青少年に有害だとか意味ないとか言うつもりはなくて、彼は間違いなくBob DylanやNeil Youngと並ぶ現代アメリカ(大陸)のvoiceなのだ(から聴くべし)と思うし、自分だって70年代の終わりにはパンクと並べて聴いていたのだし、大学に入って新入生向けの人文の教科書に"Darkness on the Edge of Town"(..たしか)の歌詞が訳されていたのを見たときには盛りあがったりもしたし、全能感溢れてやまない思春期の男子にBruce Springsteenモーメントが訪れるであろうことはいくらでも想像できるし、この映画はそれをやや類型的ではあるもののきちんと捕まえてストーリーに落としこんでいると思う。
でも彼のライブでいつも地鳴りのように響きわたる男共の声、”Born in the U.S.A.”が簡単にレーガンのキャンペーンに利用されてしまったこと、85年の彼の代々木公演前後に湧いてでた勘違い「ロッカー」の数々 - 思いだしただけで吐きそう – を考えると、彼が歌ってきた人々や世界について、彼の示す「道」や「光」が向かうところ照らしだすものについて - 本人は十分わかっているのだろうが - なんで男ばっかりがあんな幼稚に動物的に熱狂してしまうもんなのか、少しは反省してみたらどうだろうか(って言うと「うるせー」ってバイクに乗ってどっかに行っちゃうのよね)。 このかんじはU2とかNick Caveにもあるかな、どうかな?
あと、87年の高校の校内放送ではCutting CrewとかBrosとかCuriosity Killed the Catが流れていたのかー、って。
Marianne & Leonard: Words of Love (2019)
感想書こうかどうしようか悩んでいたNick Broomfieldによるドキュメンタリーで、5日の晩にCurzonのBloomsburyで見ました。
Leonard Cohenの”So Long Marianne”とかで歌われているMarianne IhlenとLeonardが60年代初、ギリシャのイドラ島で出会って恋におちて、その後Leonardは作家から歌手へ、そこから世界的なスターになってふたりは離れ離れになってしまうのだが、MarianneはずっとLeonardのことを亡くなる直前まで想っていて、死の床にあった彼女に宛てた手紙(「あとちょっとで追うから..」で実際数ヶ月後に彼も)とか泣けるのだが、ふつうに会いにいってあげればいいのに、って。
70年代の彼がどれだけもてて派手にやっていたのかはライブフィルム”Bird on a Wire” (1974)なんかからも窺えるのだが、すばらしい詩と音楽を残したから許されるってもんでもないんじゃないかしら? ってこれ見て少し思った。大人のふたりの間のことだし、ふたりとももうこの世にいないからわかんないけど、さ。
いじょう、70年代音楽から(今になって)見えてくる「オトコ」像について思ったこと。
監督は”Bend It Like Beckham” (2002)のGurinder Chadhaさん。実話ベースのお話し。
87年のLuton – Londonから北に電車で1時間くらいの郊外 - に高校に入ったばかりのJaved (Viveik Kalra)がいて、パキスタン移民の子で頑固で厳格でどうにもならない父との衝突、サッチャー時代のきつさしんどさ、などなどを引っかぶって悶々としながら、日々の不満とか怒りを詩とか文章に書き貯めてて、やがては文章を書く仕事につきたい、ここから抜けだしたい、とぼんやり思っている。
ある日クラスメートから「これを聴け!」って”The Boss”– Bruce Springsteenの”Darkness on the Edge of Town” (1978)と”Born in the U.S.A.” (1984)のカセットを渡されたので聴いてみると、全身に電撃が走ってこれだ! になって、以降はミュージカル風味も交えながら、Bruceの歌詞 - 字幕で画面上に現れたりする - に導かれるようにして、自身の夢と挫折、クラスの女の子 Elizaとか幼馴染とのこと、父親や家族、都会と田舎の現実、コミュニティにある差別や貧困等々と向きあって、自分の部屋もファッションもBruce一色になって、いろいろがんばってよかったね、になるお話し。
ぜったいこの後にミュージカル化狙っているよね。
原作はジャーナリストSarfraz Manzoor氏の自伝なので(Bruceの名にかけて)嘘はないのだろうし文句のつけようがないのだが、ここまでBruceすごい! すばらしい! がくるとなんか言いたくなることはなる。
別にBruce Springsteenは成長期の青少年に有害だとか意味ないとか言うつもりはなくて、彼は間違いなくBob DylanやNeil Youngと並ぶ現代アメリカ(大陸)のvoiceなのだ(から聴くべし)と思うし、自分だって70年代の終わりにはパンクと並べて聴いていたのだし、大学に入って新入生向けの人文の教科書に"Darkness on the Edge of Town"(..たしか)の歌詞が訳されていたのを見たときには盛りあがったりもしたし、全能感溢れてやまない思春期の男子にBruce Springsteenモーメントが訪れるであろうことはいくらでも想像できるし、この映画はそれをやや類型的ではあるもののきちんと捕まえてストーリーに落としこんでいると思う。
でも彼のライブでいつも地鳴りのように響きわたる男共の声、”Born in the U.S.A.”が簡単にレーガンのキャンペーンに利用されてしまったこと、85年の彼の代々木公演前後に湧いてでた勘違い「ロッカー」の数々 - 思いだしただけで吐きそう – を考えると、彼が歌ってきた人々や世界について、彼の示す「道」や「光」が向かうところ照らしだすものについて - 本人は十分わかっているのだろうが - なんで男ばっかりがあんな幼稚に動物的に熱狂してしまうもんなのか、少しは反省してみたらどうだろうか(って言うと「うるせー」ってバイクに乗ってどっかに行っちゃうのよね)。 このかんじはU2とかNick Caveにもあるかな、どうかな?
あと、87年の高校の校内放送ではCutting CrewとかBrosとかCuriosity Killed the Catが流れていたのかー、って。
Marianne & Leonard: Words of Love (2019)
感想書こうかどうしようか悩んでいたNick Broomfieldによるドキュメンタリーで、5日の晩にCurzonのBloomsburyで見ました。
Leonard Cohenの”So Long Marianne”とかで歌われているMarianne IhlenとLeonardが60年代初、ギリシャのイドラ島で出会って恋におちて、その後Leonardは作家から歌手へ、そこから世界的なスターになってふたりは離れ離れになってしまうのだが、MarianneはずっとLeonardのことを亡くなる直前まで想っていて、死の床にあった彼女に宛てた手紙(「あとちょっとで追うから..」で実際数ヶ月後に彼も)とか泣けるのだが、ふつうに会いにいってあげればいいのに、って。
70年代の彼がどれだけもてて派手にやっていたのかはライブフィルム”Bird on a Wire” (1974)なんかからも窺えるのだが、すばらしい詩と音楽を残したから許されるってもんでもないんじゃないかしら? ってこれ見て少し思った。大人のふたりの間のことだし、ふたりとももうこの世にいないからわかんないけど、さ。
いじょう、70年代音楽から(今になって)見えてくる「オトコ」像について思ったこと。
8.14.2019
[theatre] The Starry Messenger
10日の土曜日の午後、Wyndham’s theatreで見ました。最終日のマチネになんとか間にあった。
原作Kenneth Lonergan、演出はSam Yatesによる演劇、休憩挟んで2時間50分。
初演は2009年のOff-Broadwayで、この時もMatthew Broderickが主演している。Kenneth Lonerganの舞台は2014年、NYで”This Is Our Youth” (1996)を見て以来のー。
購入したプログラムには、かつてNY自然史博物館の一部で、今はRose Center for Earth and Spaceと名前を変えているHayden Planetarium (1935–1997) についてのKenneth Lonerganによるエッセイがあり、高校の同窓生だったMatthew Broderickとも共有していた宇宙に対する憧れや希望(子供の頃にApollo 11が飛んだ)をここから育んでいった思い出が語られ、この作品はこの時代、この施設に対するトリビュートでもあるのだと。
52歳のMark (Matthew Broderick) はプラネタリウムに併設されたレクチャールームで、社会人初心者向けの天文学コースの教師をしていて、教室には何を教えても頓珍漢な質問を投げて来る困ったおばさんとか、やたら評価シートをちらつかせてコメントしてくる嫌な若者とか、いろんなのがいる。 この他に出てくる場所は;
・Markの家のリビング - 妻のAnne (Elizabeth McGovern)が出てきて、クリスマスにNYにやってくる親戚のアテンドだなんだの確認でひたすらうるさい(Markからすると)。あと姿は見せないけど部屋に籠って轟音でエレクトリックギターの練習をしている息子がいる。
・Markの教室に現れたプエルトリコ系のAngela (Rosalind Eleazar)の家のリビング。最初彼女は天体が好きらしい息子用のクラスはないかを尋ねてMarkの教室に来て、クラスはないけど興味があるのだったら始業前に簡単なレクチャーをしてあげようって、それをきっかけにふたりは親密になって、ここで会ってお喋りするようになる。
・病室のセット – ガンでベッドから動けない患者Norman (Jim Norton) がいる。たまに見舞いにくる実娘とはずっと険悪な関係で、看護婦の資格を取るために週末にここに来ているAngelaと仲良くなって、更に実娘からは疎まれたり。
舞台セットは教室を含めた4つの場所をぐるぐる回転していって、その真上にはいつも天球の星たちが瞬いているの。
Markは相手の言うことは文句でもなんでも辛抱強く聞いて、誰に対してもいつも機械のように礼儀正しく返すのだが、たまにそんな自分の態度に自分で苛立ったりしている。Angelaも同様に、常にいろんな人の受け皿のようにして生きていることにうんざりしていて、そんな2人が都会の隅っこで互いの星を見つけて、だがそれもAngelaの息子がフィラデルフィアに父親に会いにいった際に銃撃に巻き込まれて突然亡くなってしまうと様子が変わってきて…
星に願いを、とか、星はなんでも知っている、とかいうちゃちなおとぎ話ではなく、扱われる題材はいつものKenneth Lonerganのあまりぱっとしない人達のぱっとしないアンサンブル(不条理に近い突然の死によって人と人が向きあわざるを得なくなる、という点では”Margaret” (2011) にちょっとだけ似ている)なのだが、でも、それでも星が、天体がそこにあるってなんなのだろう、どういうことなんだろう? というのがMarkが天体を見つめる仕事をしながら自分にも生徒にも問いてきたことで、だから彼はThe Starry Messengerなのだと。そしてプラネタリウムはそのメッセージを司る神殿であり教会なんだ、だからあそこにいくとすごい勢いで眠りに落ちちゃうんだ、とか。
ほんとにさあ、毎日だるいきついはきそう、とか言いながら仕事したりやんなきゃいけない面倒なことはあれこれ山積みなのに、なんで星は何万光年とか太陽の数千倍とかそういうスケールで勝手に動いたり生成消滅とかしていくんだろう、勝手に動くのはそっちの勝手だし比べるもんでもないのだろうけど、なんでいる/あるのよ? って考え始めると止まらない。そこにはなんの謎も不思議もない、現実逃避でも乖離でもいいけど、なんでこんなことになっちゃっているのか。なあ。(しーん)
Matthew Broderick が舞台で少し背を丸くして立ちつくす姿は本当にすばらしくて、役柄としてはFerrisというよりCameronの方だし、あるいはこないだ見た”You Can Count On Me” (2000)の銀行マンBrianにも近い。Matthew BroderickはMatthew Broderickなんだねえ、って。
これ、そのまま映画にしてもぜんぜんよいと思うのだが。ぜんぜん壮大じゃない”Interstellar” (2014) みたいなやつ。
原作Kenneth Lonergan、演出はSam Yatesによる演劇、休憩挟んで2時間50分。
初演は2009年のOff-Broadwayで、この時もMatthew Broderickが主演している。Kenneth Lonerganの舞台は2014年、NYで”This Is Our Youth” (1996)を見て以来のー。
購入したプログラムには、かつてNY自然史博物館の一部で、今はRose Center for Earth and Spaceと名前を変えているHayden Planetarium (1935–1997) についてのKenneth Lonerganによるエッセイがあり、高校の同窓生だったMatthew Broderickとも共有していた宇宙に対する憧れや希望(子供の頃にApollo 11が飛んだ)をここから育んでいった思い出が語られ、この作品はこの時代、この施設に対するトリビュートでもあるのだと。
52歳のMark (Matthew Broderick) はプラネタリウムに併設されたレクチャールームで、社会人初心者向けの天文学コースの教師をしていて、教室には何を教えても頓珍漢な質問を投げて来る困ったおばさんとか、やたら評価シートをちらつかせてコメントしてくる嫌な若者とか、いろんなのがいる。 この他に出てくる場所は;
・Markの家のリビング - 妻のAnne (Elizabeth McGovern)が出てきて、クリスマスにNYにやってくる親戚のアテンドだなんだの確認でひたすらうるさい(Markからすると)。あと姿は見せないけど部屋に籠って轟音でエレクトリックギターの練習をしている息子がいる。
・Markの教室に現れたプエルトリコ系のAngela (Rosalind Eleazar)の家のリビング。最初彼女は天体が好きらしい息子用のクラスはないかを尋ねてMarkの教室に来て、クラスはないけど興味があるのだったら始業前に簡単なレクチャーをしてあげようって、それをきっかけにふたりは親密になって、ここで会ってお喋りするようになる。
・病室のセット – ガンでベッドから動けない患者Norman (Jim Norton) がいる。たまに見舞いにくる実娘とはずっと険悪な関係で、看護婦の資格を取るために週末にここに来ているAngelaと仲良くなって、更に実娘からは疎まれたり。
舞台セットは教室を含めた4つの場所をぐるぐる回転していって、その真上にはいつも天球の星たちが瞬いているの。
Markは相手の言うことは文句でもなんでも辛抱強く聞いて、誰に対してもいつも機械のように礼儀正しく返すのだが、たまにそんな自分の態度に自分で苛立ったりしている。Angelaも同様に、常にいろんな人の受け皿のようにして生きていることにうんざりしていて、そんな2人が都会の隅っこで互いの星を見つけて、だがそれもAngelaの息子がフィラデルフィアに父親に会いにいった際に銃撃に巻き込まれて突然亡くなってしまうと様子が変わってきて…
星に願いを、とか、星はなんでも知っている、とかいうちゃちなおとぎ話ではなく、扱われる題材はいつものKenneth Lonerganのあまりぱっとしない人達のぱっとしないアンサンブル(不条理に近い突然の死によって人と人が向きあわざるを得なくなる、という点では”Margaret” (2011) にちょっとだけ似ている)なのだが、でも、それでも星が、天体がそこにあるってなんなのだろう、どういうことなんだろう? というのがMarkが天体を見つめる仕事をしながら自分にも生徒にも問いてきたことで、だから彼はThe Starry Messengerなのだと。そしてプラネタリウムはそのメッセージを司る神殿であり教会なんだ、だからあそこにいくとすごい勢いで眠りに落ちちゃうんだ、とか。
ほんとにさあ、毎日だるいきついはきそう、とか言いながら仕事したりやんなきゃいけない面倒なことはあれこれ山積みなのに、なんで星は何万光年とか太陽の数千倍とかそういうスケールで勝手に動いたり生成消滅とかしていくんだろう、勝手に動くのはそっちの勝手だし比べるもんでもないのだろうけど、なんでいる/あるのよ? って考え始めると止まらない。そこにはなんの謎も不思議もない、現実逃避でも乖離でもいいけど、なんでこんなことになっちゃっているのか。なあ。(しーん)
Matthew Broderick が舞台で少し背を丸くして立ちつくす姿は本当にすばらしくて、役柄としてはFerrisというよりCameronの方だし、あるいはこないだ見た”You Can Count On Me” (2000)の銀行マンBrianにも近い。Matthew BroderickはMatthew Broderickなんだねえ、って。
これ、そのまま映画にしてもぜんぜんよいと思うのだが。ぜんぜん壮大じゃない”Interstellar” (2014) みたいなやつ。
8.13.2019
[film] Topper (1937)
4日、日曜日の午後、BFIのCary Grant特集で見ました。邦題は『天国漫歩』。
お金持ちで能天気なGeorge (Cary Grant) とMarion (Constance Bennett)の夫婦は毎日楽しく呑んで歌って(Hoagy Carmichaelがカメオで出てきてピアノ弾いてくれる)、朝までらりらり遊んでいて、そのままミルク飲んで銀行の取締役会とかに出たりしている。
で、その調子で車を飛ばしていったら道路脇の樹に激突してふたりは死んじゃって、でも善いことをしたわけでも悪いことをしたわけでもないから天国にも地獄にも行けずにすけすけしながら地上を彷徨っていて、天国に行けるようになんかしよう、って彼らとは対照的にまじめな銀行社長のCosmo Topper (Roland Young)にもっと人生を楽しめるように、ってはっぱかけて車与えたり(→逮捕)、女性の下着をちらちらさせたりしたら、夫以上にまじめで支えてつくして(コントロールして)きた妻のClara (Billie Burke)はあなた! きーってなるのだが、大怪我はしたもののめでたしめでたし、でGeorgeとMarionも昇天できるの。
日本でも昭和のコメディにありそうな、おふざけ豪快野郎ときまじめモーレツ社員のその妻まで交えた楽しいどたばた、なのだが難をいうとしたらGeorgeとMarionのふたりがきらきらゴージャスでちっとも幽霊のかんじがしないの。死んでもぜんぜん後悔とかしてないし。 これこそ”There is a Light that Never Goes Out” だわ。ああありたいもんだな、って。
このあと、続編として”Topper Takes a Trip” (1938) と”Topper Returns” (1941) ていうのも作られたらしい。我々にとってTopperというと、まずは Topper Headonなわけだが、こちらの”Topper”はMickey the Monkeyていう漫画が掲載されていたコミック本のことなのね。
Suspicion (1941)
6日、火曜日の晩、BFIのCary Grant特集で見ました。 誰もが知っているヒチコックの『断崖』、ね(← 見たことなかったの)。
ロンドンから田舎に向かう列車にLina (Joan Fontaine)が乗っていると愛想と調子のいい青年Johnnie Aysgarth (Cary Grant)が乗ってきて、最初はなによこの人? だったのが憎めなくて、憎めなくなるとなんか愛しくなってしまい、父General McLaidlaw (Sir Cedric Hardwicke)の反対を押し切って結婚してハネムーンから戻ってくると、彼が実は無一文でろくに仕事もしてなくて博打とかも大好きであることがわかり(←それくらいわかっとけ)、諫めるときちんとしてくれるようなので許しているとやはりだんだんに度を越してきて、これは無理だからお別れしましょうと手紙を書いても踏みきれなくて、でも父の死の後の彼の挙動とか彼の友人が突然パリで死んじゃったりしたのを見ると、ひょっとしてこのひと保険かけて自分のことを殺そうとしている? って思い始めたら雪だるまが止まんなくなって…
最近もよく聞くダメ男にずるずる引き摺られて破滅に向かうカップルの原型を見るかんじなのだが、ここで誰もが感じてしまうかもしれないLinaの優柔不断で迷って悩みながらも相手の男を許してしまう態度への「だからだめなんだよ」は巧妙なワナというかヒチコックのしょうもないミソジニーの表明で、ほんとうであれば最後の断崖でLinaはJohnnieを突き落としてやるべきだったのよ。「もうたくさん、だれが信じるかボケ」(どーん)って。
そしたらオスカー(主演女優賞)は獲れなかったかもだけど。
”Holiday” (1938)もそうだったが、大金持ちの家に婚約者としてやってくる素性の知れない男としてCary Grantはパーフェクトの輝きを見せるねえ。お金は貯めるもんじゃなくて使うもの、自由がいちばんさー、って。
小さい頃にTVで見た、コップのミルクを白く見せるために裏に電球を仕込んだ映画、ってこれだったのかー、って、伝説をつかまえた気がした。(おそすぎ)
お金持ちで能天気なGeorge (Cary Grant) とMarion (Constance Bennett)の夫婦は毎日楽しく呑んで歌って(Hoagy Carmichaelがカメオで出てきてピアノ弾いてくれる)、朝までらりらり遊んでいて、そのままミルク飲んで銀行の取締役会とかに出たりしている。
で、その調子で車を飛ばしていったら道路脇の樹に激突してふたりは死んじゃって、でも善いことをしたわけでも悪いことをしたわけでもないから天国にも地獄にも行けずにすけすけしながら地上を彷徨っていて、天国に行けるようになんかしよう、って彼らとは対照的にまじめな銀行社長のCosmo Topper (Roland Young)にもっと人生を楽しめるように、ってはっぱかけて車与えたり(→逮捕)、女性の下着をちらちらさせたりしたら、夫以上にまじめで支えてつくして(コントロールして)きた妻のClara (Billie Burke)はあなた! きーってなるのだが、大怪我はしたもののめでたしめでたし、でGeorgeとMarionも昇天できるの。
日本でも昭和のコメディにありそうな、おふざけ豪快野郎ときまじめモーレツ社員のその妻まで交えた楽しいどたばた、なのだが難をいうとしたらGeorgeとMarionのふたりがきらきらゴージャスでちっとも幽霊のかんじがしないの。死んでもぜんぜん後悔とかしてないし。 これこそ”There is a Light that Never Goes Out” だわ。ああありたいもんだな、って。
このあと、続編として”Topper Takes a Trip” (1938) と”Topper Returns” (1941) ていうのも作られたらしい。我々にとってTopperというと、まずは Topper Headonなわけだが、こちらの”Topper”はMickey the Monkeyていう漫画が掲載されていたコミック本のことなのね。
Suspicion (1941)
6日、火曜日の晩、BFIのCary Grant特集で見ました。 誰もが知っているヒチコックの『断崖』、ね(← 見たことなかったの)。
ロンドンから田舎に向かう列車にLina (Joan Fontaine)が乗っていると愛想と調子のいい青年Johnnie Aysgarth (Cary Grant)が乗ってきて、最初はなによこの人? だったのが憎めなくて、憎めなくなるとなんか愛しくなってしまい、父General McLaidlaw (Sir Cedric Hardwicke)の反対を押し切って結婚してハネムーンから戻ってくると、彼が実は無一文でろくに仕事もしてなくて博打とかも大好きであることがわかり(←それくらいわかっとけ)、諫めるときちんとしてくれるようなので許しているとやはりだんだんに度を越してきて、これは無理だからお別れしましょうと手紙を書いても踏みきれなくて、でも父の死の後の彼の挙動とか彼の友人が突然パリで死んじゃったりしたのを見ると、ひょっとしてこのひと保険かけて自分のことを殺そうとしている? って思い始めたら雪だるまが止まんなくなって…
最近もよく聞くダメ男にずるずる引き摺られて破滅に向かうカップルの原型を見るかんじなのだが、ここで誰もが感じてしまうかもしれないLinaの優柔不断で迷って悩みながらも相手の男を許してしまう態度への「だからだめなんだよ」は巧妙なワナというかヒチコックのしょうもないミソジニーの表明で、ほんとうであれば最後の断崖でLinaはJohnnieを突き落としてやるべきだったのよ。「もうたくさん、だれが信じるかボケ」(どーん)って。
そしたらオスカー(主演女優賞)は獲れなかったかもだけど。
”Holiday” (1938)もそうだったが、大金持ちの家に婚約者としてやってくる素性の知れない男としてCary Grantはパーフェクトの輝きを見せるねえ。お金は貯めるもんじゃなくて使うもの、自由がいちばんさー、って。
小さい頃にTVで見た、コップのミルクを白く見せるために裏に電球を仕込んだ映画、ってこれだったのかー、って、伝説をつかまえた気がした。(おそすぎ)
8.12.2019
[music] Johnny Marr
8日、木曜日の晩、MeltdownどまんなかのRoyal Festival Hallで見ました。
こないだのGrastonbury2019をBBCが中継だか録画再生だかしているなかに彼のライブがあって、そこで彼は”Bigmouth Strikes Again”をばりばり弾いて歌っていて、これいいじゃん、てチケット取った – これも発売直後ではなく公演数日前 - くらいに。
彼のライブを見るのは昔どっかでのThe Healers以来か、彼がModest Mouseにいた時って見たんだっけ.. ?
前座のMystery Jetsの途中から入って、ああいいバンド(いやほんとに)だねえ、くらい。
始まる前にNile Rodgers氏が登場して(彼、この時間は隣のホールでトークイベントやっているはずなのに)、Johnnyとはずっと昔から家族ぐるみの付き合いをしてて、彼の息子は自分から名前取っているし、互いに本当に敬愛しているんだ、って紹介して始まる。 バンドは4人編成。客層は圧倒的におじさんおばさんとその子連れ..
1曲目はソロからふつうの、だったのだが、2曲目で”Bigmouth.. “をやるもんだから客席ぜんぶものすごい勢いで立ちあがって、わーわー歌う歌う。で、みんなこのまま最後まで座らずにいっちゃった。
興味があるのはほぼThe Smithsの曲だけだった(.. ごめんねJohnny)のだが、”You Just Haven't Earned It Yet, Baby”をやって、これは自分にとってはKirsty MacCollの歌なのでとっても嬉しくて(間奏のギターも!)、その後にやった曲がこれなんだっけ.. て懸命に思いだし、あーElectronicの”Getting Away with It”だ! あったねえ.. になる(それならThe Theだってやればいいのに)。マンチェスター・ディスコ・ナイトだぜ、って煽ったりなんか懐かしい恥かしいとしか言いようがないノリで、そんなにスマートじゃないどんどこリズムで歌って刻んだりしている。
やがて息子のNile Marrをギターに加えて、”Please, Please, Please Let Me Get What I Want”をやり – そうそうこの曲なんてこんなふうにエレクトリックギター3台でやるべきなの安易にアコギ使うんじゃないよM、とか。 で、その後にあーらびっくり、A Certain Ratioの”Shack Up”なんて演ったので、あーそうか、これってThe Smiths(のギターサウンド)をマンチェスターの一連の流れに繋いで位置づけようとする試みなのかもしれない、って。続く”This Charming Man”は怒号と悲鳴が入り乱れる大合唱で、まったくCharmingなんて言えたもんではないのだが、それにしてもこういう歌詞って忘れてないもんだねえ。
本編のしめは”How Soon is Now?”、1回やったアンコールもおわりの2曲は “Last Night I Dreamt that Somebody Loved Me” ~ ”There is a Light that Never Goes Out”で、どれも極めつけのMorrissey song、であることを考えるに、ここんとこ彼の鉄板歌謡ショー化しているライブのThe Smiths曲から本来聴こえてくるはずだったギターの音を奪還する試みなのではないか、と。特に近年Mのライブでのギターの音は彼のヴォーカルの背後でぺたんこの壁でしかないことが多くて、これらってほんとうはここで聴かれるように水のように豊かにうねってしなやかに飛沫を飛ばしたり花弁を散らしてくるものだったのではないか、と。これよこれ(握りこぶし)。
“There is a Light …”のシンガロングもみんな手をふりあげて凄まじく、車に潰されて心中じょうとう!ていう歌なんだけど、いいなー。いつでも準備できてるから、ってことかな。
でもOASISのバカを意識したのかもしれないイキった変なポーズとるのは恥ずかしいからやめてね、Johnny。
こないだのGrastonbury2019をBBCが中継だか録画再生だかしているなかに彼のライブがあって、そこで彼は”Bigmouth Strikes Again”をばりばり弾いて歌っていて、これいいじゃん、てチケット取った – これも発売直後ではなく公演数日前 - くらいに。
彼のライブを見るのは昔どっかでのThe Healers以来か、彼がModest Mouseにいた時って見たんだっけ.. ?
前座のMystery Jetsの途中から入って、ああいいバンド(いやほんとに)だねえ、くらい。
始まる前にNile Rodgers氏が登場して(彼、この時間は隣のホールでトークイベントやっているはずなのに)、Johnnyとはずっと昔から家族ぐるみの付き合いをしてて、彼の息子は自分から名前取っているし、互いに本当に敬愛しているんだ、って紹介して始まる。 バンドは4人編成。客層は圧倒的におじさんおばさんとその子連れ..
1曲目はソロからふつうの、だったのだが、2曲目で”Bigmouth.. “をやるもんだから客席ぜんぶものすごい勢いで立ちあがって、わーわー歌う歌う。で、みんなこのまま最後まで座らずにいっちゃった。
興味があるのはほぼThe Smithsの曲だけだった(.. ごめんねJohnny)のだが、”You Just Haven't Earned It Yet, Baby”をやって、これは自分にとってはKirsty MacCollの歌なのでとっても嬉しくて(間奏のギターも!)、その後にやった曲がこれなんだっけ.. て懸命に思いだし、あーElectronicの”Getting Away with It”だ! あったねえ.. になる(それならThe Theだってやればいいのに)。マンチェスター・ディスコ・ナイトだぜ、って煽ったりなんか懐かしい恥かしいとしか言いようがないノリで、そんなにスマートじゃないどんどこリズムで歌って刻んだりしている。
やがて息子のNile Marrをギターに加えて、”Please, Please, Please Let Me Get What I Want”をやり – そうそうこの曲なんてこんなふうにエレクトリックギター3台でやるべきなの安易にアコギ使うんじゃないよM、とか。 で、その後にあーらびっくり、A Certain Ratioの”Shack Up”なんて演ったので、あーそうか、これってThe Smiths(のギターサウンド)をマンチェスターの一連の流れに繋いで位置づけようとする試みなのかもしれない、って。続く”This Charming Man”は怒号と悲鳴が入り乱れる大合唱で、まったくCharmingなんて言えたもんではないのだが、それにしてもこういう歌詞って忘れてないもんだねえ。
本編のしめは”How Soon is Now?”、1回やったアンコールもおわりの2曲は “Last Night I Dreamt that Somebody Loved Me” ~ ”There is a Light that Never Goes Out”で、どれも極めつけのMorrissey song、であることを考えるに、ここんとこ彼の鉄板歌謡ショー化しているライブのThe Smiths曲から本来聴こえてくるはずだったギターの音を奪還する試みなのではないか、と。特に近年Mのライブでのギターの音は彼のヴォーカルの背後でぺたんこの壁でしかないことが多くて、これらってほんとうはここで聴かれるように水のように豊かにうねってしなやかに飛沫を飛ばしたり花弁を散らしてくるものだったのではないか、と。これよこれ(握りこぶし)。
“There is a Light …”のシンガロングもみんな手をふりあげて凄まじく、車に潰されて心中じょうとう!ていう歌なんだけど、いいなー。いつでも準備できてるから、ってことかな。
でもOASISのバカを意識したのかもしれないイキった変なポーズとるのは恥ずかしいからやめてね、Johnny。
[film] The Doom Generation (1995)
4日、日曜日の夕方、BFIのNinties特集で見ました。
すばらしい色みの35mmプリントだった。フランス語字幕付きだったけど。
Greg Arakiの作品はこれまできちんと見たことがなくて、他方で彼の作品のサントラCDはどれもコンピレーションとしてとてもよくできていたのでよく聴いた、程度。
彼のメジャーデビュー作で、"Teenage Apocalypse Trilogy"の真ん中だそう。今回の特集でかかる彼の作品はこれだけ。
最初に字幕で"A Heterosexual Movie by Gregg Araki" – と出る。 邦題はそのまま?
冒頭、NINの”Hersey”なんかがどかどか流れるなか、退屈だから他に行きましょとAmy (Rose McGowan)とJordan (James Duval)が車を走らせようとしたところでXavier - X(Jonathon Schaech)が強引に乗りこんできて、なんかお腹へった、というのでコンビニに行って、成りゆきのひと悶着のあとは結果的に血みどろになり、顔がわれるのは時間の問題だからモーテルとファストフードを転々として互いにセックスをしまくって、やがて誰にでもわかるような破局というか襲撃というかがやってきて、それでもふん、って。
犯罪のシーンとセックスのシーンが同じテンションと欲望垂れ流しの粗さてきとーさで描かれ、それ以外の行為はすべて退屈で無頼で予測不能で、何回出てくるかわかんないくらいにたっぷり吐き出されるF wordと、犬を轢いちゃったあとにAmyが呟く”The World Sucks”がほぼすべてで、これはThe Worldの話なのかThe Generationの話なのか、"Teenage Apocalypse”だし"A Heterosexual Movie”だし、あれこれもうたくさん、どうでもいいわ、っていう空気感の間に挟まっている気がする。
貰ったペーパーにあった”Natural Born Killers” (1994)の過剰な怒りと”Slacker” (1990)の露悪趣味の中間、ていう形容は結構あたりなのかも。 彼らはすべて見られている/撮られていることをわかった上で、あんなふうに振る舞いべったりくっついて突っ走っていく。高尚にもおしゃれにもなれない『気狂いピエロ』の30年後の - 本当に狂っちゃったピエロ達の姿、というか。
映画で描かれた若者の像がどこまでリアルなのか嘘っぽいのか、なんかの時代とか世代を表象/象徴しちゃったりしているのか、そういうのとは別に、空腹と退屈さを抱え、車とほぼ無一文で砂漠のようなとこに放りだされた(or 自分たちでそうした)若者たちがいたとして、彼らはどんな行動を取るのか、を追う – 決して彼らの言葉やエモを「代弁」なんてしようとはせず - というところでは悪くなかったかも。 今同じテーマを今の若者たち相手にデジタルで撮ったらどんなふうになるのか、そういう作品、もうどこかにあるのかしら。
ギャングでSkinny Puppyとか、タコス屋の店員でPerry Farrellとか、コンビニにいる家族でMargaret Choとか、いろいろ出てくる。
そして音楽はほんと痺れるようにたまんなくて、Slowdive, Love and Rockets, Curve, Coil, Porno For Pyros, The Jesus & Mary Chain, Ride, Lush, 更にはPizzicato Fiveまで、あんなの(ってどんなの?)がずっと吹きっさらしの荒野に吹きまくる。当時はそんな好きでもなかったのだが、今こうして纏めて聴いてみたとき迫ってくるこれらってなんだろ?
字幕があると無意識に字幕を見てしまう習慣 - 日本語の映画でも英語字幕をつい- が根強いことに気付かされて結構しんどかったかも(追ってみてから英語じゃないよ、って耳にスイッチ)。
Rose McGowanさん、#MeTooであんなふうになるなんてこの頃には..
すばらしい色みの35mmプリントだった。フランス語字幕付きだったけど。
Greg Arakiの作品はこれまできちんと見たことがなくて、他方で彼の作品のサントラCDはどれもコンピレーションとしてとてもよくできていたのでよく聴いた、程度。
彼のメジャーデビュー作で、"Teenage Apocalypse Trilogy"の真ん中だそう。今回の特集でかかる彼の作品はこれだけ。
最初に字幕で"A Heterosexual Movie by Gregg Araki" – と出る。 邦題はそのまま?
冒頭、NINの”Hersey”なんかがどかどか流れるなか、退屈だから他に行きましょとAmy (Rose McGowan)とJordan (James Duval)が車を走らせようとしたところでXavier - X(Jonathon Schaech)が強引に乗りこんできて、なんかお腹へった、というのでコンビニに行って、成りゆきのひと悶着のあとは結果的に血みどろになり、顔がわれるのは時間の問題だからモーテルとファストフードを転々として互いにセックスをしまくって、やがて誰にでもわかるような破局というか襲撃というかがやってきて、それでもふん、って。
犯罪のシーンとセックスのシーンが同じテンションと欲望垂れ流しの粗さてきとーさで描かれ、それ以外の行為はすべて退屈で無頼で予測不能で、何回出てくるかわかんないくらいにたっぷり吐き出されるF wordと、犬を轢いちゃったあとにAmyが呟く”The World Sucks”がほぼすべてで、これはThe Worldの話なのかThe Generationの話なのか、"Teenage Apocalypse”だし"A Heterosexual Movie”だし、あれこれもうたくさん、どうでもいいわ、っていう空気感の間に挟まっている気がする。
貰ったペーパーにあった”Natural Born Killers” (1994)の過剰な怒りと”Slacker” (1990)の露悪趣味の中間、ていう形容は結構あたりなのかも。 彼らはすべて見られている/撮られていることをわかった上で、あんなふうに振る舞いべったりくっついて突っ走っていく。高尚にもおしゃれにもなれない『気狂いピエロ』の30年後の - 本当に狂っちゃったピエロ達の姿、というか。
映画で描かれた若者の像がどこまでリアルなのか嘘っぽいのか、なんかの時代とか世代を表象/象徴しちゃったりしているのか、そういうのとは別に、空腹と退屈さを抱え、車とほぼ無一文で砂漠のようなとこに放りだされた(or 自分たちでそうした)若者たちがいたとして、彼らはどんな行動を取るのか、を追う – 決して彼らの言葉やエモを「代弁」なんてしようとはせず - というところでは悪くなかったかも。 今同じテーマを今の若者たち相手にデジタルで撮ったらどんなふうになるのか、そういう作品、もうどこかにあるのかしら。
ギャングでSkinny Puppyとか、タコス屋の店員でPerry Farrellとか、コンビニにいる家族でMargaret Choとか、いろいろ出てくる。
そして音楽はほんと痺れるようにたまんなくて、Slowdive, Love and Rockets, Curve, Coil, Porno For Pyros, The Jesus & Mary Chain, Ride, Lush, 更にはPizzicato Fiveまで、あんなの(ってどんなの?)がずっと吹きっさらしの荒野に吹きまくる。当時はそんな好きでもなかったのだが、今こうして纏めて聴いてみたとき迫ってくるこれらってなんだろ?
字幕があると無意識に字幕を見てしまう習慣 - 日本語の映画でも英語字幕をつい- が根強いことに気付かされて結構しんどかったかも(追ってみてから英語じゃないよ、って耳にスイッチ)。
Rose McGowanさん、#MeTooであんなふうになるなんてこの頃には..
8.11.2019
[art] Charleston Farmhouse
3日の土曜日にCharlestonに行ってきた。ロンドンに行くと本屋でも小さなガーデンでも、Bloomsbury Groupの誰かがなんかした場所、というのが結構あるしBloomsbury Cookbookとかもあるし、そういうのを見るたびに行かなきゃ、とずうっと思っていたEast Sussexにある彼らの住処で拠点。 それは写真とかで見て思い描いていた像を遥かに超えたすばらしいものだった。理想のおうちNo. 1にいきなり躍りでた。もっと早くに来るんだったわ。
SussexってWilliam Blakeも住んでいたしPoohの橋だってあるし、なんかあるのかしら? 日本だと熊野みたいなとこ?
Victoriaの駅から南に電車で1時間ちょっとのLewes、からバスがあるはずだったのだが、例によってVictoriaの駅のチケットマシーンのバカ、のせいで乗る予定だったのには乗れず、Lewesの駅からはタクシーにしてしまった。£18くらい。 南に向かう電車はBritonでのプライドのイベント(Kylie Minogueが出るって)があるそうで楽しそうに混んでいた。
CharlestonはNational Trustが管理していて、彼らが住んでいたFarmhouseと企画展示をしているGalleryがあり、Farmhouseは各部屋が小さいので日曜以外で中に入るにはツアーを予約しておくしかない。 1時間ごとで、各回12人くらい。 1階と2階の9つの部屋をひとつづつ回っていく。 大きい荷物不可、写真撮影も不可。
Farmhouseの前には池があり、家の壁は蔦、ではない草樹がぼうぼうに覆っていて、そのぼうぼうの延長のようにガーデンが広がり、ここも区画や仕切り、朽ちた彫像があったりするものの咲き乱れる草花と飛び回る蜂や蝶の野生の勢いには負けてやられ放題、でも最小限の手入れは、ってせめぎ合う様がすてき。 日本の田舎の農家の古民家よりは小さくて、ロンドンの周辺の一軒家でもこれくらいのサイズのはいくらでも。
この家にまつわる登場人物はいっぱいいるのだが、まず画家のVanessa Bell (Virginia Woolfの姉)、その夫のClive Bell、ゲイだけどVanessaとの間に娘のAngelicaができちゃったDuncan Grant、とか。
ここに長期滞在して執筆していた経済学のJohn Maynard Keynesの部屋、もある。
玄関入ってすぐのClive Bellの書斎 - まずは古書の香りでやられて(アドレナリンが湧いてくる気がするのは変な病気なのかも)、扉から壁からVanessaやDuncanがやりたい放題に描きまくった絵や模様(Ωももちろん)がそこらじゅうに、大小いろんな人によるいろんな絵、すてきな模様(オリジナルのは退色が激しくてLaura Ashley - RIP - のリプロだそう)の椅子やソファが。 インテリア雑誌によく出てくるシンプルでソリッドな要素なんて(あれってほんと住んで楽しいの?っていつも思うよ)かけらもない。 ここ以降の部屋も、機能によって置かれているものが多少違うだけで(バスルームですら)、ガーデンに面しているか池に面しているか、どこにも本や紙はいっぱい、でもひとつとして同じ意匠のものはなく、どこまでも生活を色や模様、いろんな形で満たして楽しんでいたことがわかる。
ずっといられたらなー、本の背表紙いちにち眺めていられるのになー。 当時のアート系の雑誌や年鑑もいっぱいあるし。
ツアーのなかにキッチンが入っていなかったのは残念だったが、飾られている絵画(地味にピカソとかもある。 でもとにかくVanessaのがどれもすばらしい)は入れ替えたりするものもあるそうなので、また来よう。 最後はアトリエでそこからガーデンに抜けられる。
冬は本当に寒くなるの、と言っていたけど、確かにそんなかんじだった。 暖炉はあるけど。 幽霊はいない... かな。
この家にゲストとしてT. S. EliotやE. M. Forsterがやってきて、Lytton StracheyもRoger Fryもいて、フランス文学や絵画がたっぷりあり、ロシアのバレエも中国のアートもあり、経済学の先端がいて、LGBTQがふつうにあり、当時の人文学の粋と枠がこんな田舎の小さな家にぜんぶ固まってあったんだなー、って。
そして*Living Well is the Best Revenge* -『優雅な生活が最高の復讐である』というフレーズが自然にふんわりと浮かんでくる。
ここに来た以上、もういっこの方 - VirginiaとLeonard Woolfの家 - Monk’s Houseも行くよね。
ふたつの家の間は7マイルくらい離れていて、行きのタクシーの運転手さんに「歩ける?」 って聞いたらうーん、2時間くらい歩く気があるのなら、ていうので、彼と時間を決めて再び来てもらった。(確かに歩ける距離じゃなかったかも)
こっちはFarmhouseよりさらにこじんまりしていて、ほんと普通の家のかんじで、でも家具や飾りつけや色彩はあっちとおなじ意匠と感覚で統一されてて(つまりやはりVanessaとDuncanがー)、同様に住みやすそうだった。こちらは撮影可。
Virginia Woolfの寝室は”A Room of Her Own”だなあ、って、書棚にある本を見ていたら、日本語訳された彼女の本(昔のみすずの選集とか)が結構置いてあった。 Farmhouseと同様に咲き乱れっぱなしの庭にはやはり池(丸いのと四角の)があり、柵の向こうには牛がいて、彼女は牛を見てなんか思ったのかなあ、とか。
駅までの帰路はまた同じ運転手さんに来て貰い、この人は親切なことに近所のRiver Ouse - 彼女が入水自殺した - にも連れて行ってくれた。 橋の上から見た川は、最近の雨で水量が相当に増えていた。 彼女が入っていった1941年の3月はどんなだったのだろうか。
Farmhouseの写真集として、2016年にUnicornから出たKim Marslandの”Charleston Farmhouse 1981”という小さな本が雰囲気をよく伝えているので探してみて。
SussexってWilliam Blakeも住んでいたしPoohの橋だってあるし、なんかあるのかしら? 日本だと熊野みたいなとこ?
Victoriaの駅から南に電車で1時間ちょっとのLewes、からバスがあるはずだったのだが、例によってVictoriaの駅のチケットマシーンのバカ、のせいで乗る予定だったのには乗れず、Lewesの駅からはタクシーにしてしまった。£18くらい。 南に向かう電車はBritonでのプライドのイベント(Kylie Minogueが出るって)があるそうで楽しそうに混んでいた。
CharlestonはNational Trustが管理していて、彼らが住んでいたFarmhouseと企画展示をしているGalleryがあり、Farmhouseは各部屋が小さいので日曜以外で中に入るにはツアーを予約しておくしかない。 1時間ごとで、各回12人くらい。 1階と2階の9つの部屋をひとつづつ回っていく。 大きい荷物不可、写真撮影も不可。
Farmhouseの前には池があり、家の壁は蔦、ではない草樹がぼうぼうに覆っていて、そのぼうぼうの延長のようにガーデンが広がり、ここも区画や仕切り、朽ちた彫像があったりするものの咲き乱れる草花と飛び回る蜂や蝶の野生の勢いには負けてやられ放題、でも最小限の手入れは、ってせめぎ合う様がすてき。 日本の田舎の農家の古民家よりは小さくて、ロンドンの周辺の一軒家でもこれくらいのサイズのはいくらでも。
この家にまつわる登場人物はいっぱいいるのだが、まず画家のVanessa Bell (Virginia Woolfの姉)、その夫のClive Bell、ゲイだけどVanessaとの間に娘のAngelicaができちゃったDuncan Grant、とか。
ここに長期滞在して執筆していた経済学のJohn Maynard Keynesの部屋、もある。
玄関入ってすぐのClive Bellの書斎 - まずは古書の香りでやられて(アドレナリンが湧いてくる気がするのは変な病気なのかも)、扉から壁からVanessaやDuncanがやりたい放題に描きまくった絵や模様(Ωももちろん)がそこらじゅうに、大小いろんな人によるいろんな絵、すてきな模様(オリジナルのは退色が激しくてLaura Ashley - RIP - のリプロだそう)の椅子やソファが。 インテリア雑誌によく出てくるシンプルでソリッドな要素なんて(あれってほんと住んで楽しいの?っていつも思うよ)かけらもない。 ここ以降の部屋も、機能によって置かれているものが多少違うだけで(バスルームですら)、ガーデンに面しているか池に面しているか、どこにも本や紙はいっぱい、でもひとつとして同じ意匠のものはなく、どこまでも生活を色や模様、いろんな形で満たして楽しんでいたことがわかる。
ずっといられたらなー、本の背表紙いちにち眺めていられるのになー。 当時のアート系の雑誌や年鑑もいっぱいあるし。
ツアーのなかにキッチンが入っていなかったのは残念だったが、飾られている絵画(地味にピカソとかもある。 でもとにかくVanessaのがどれもすばらしい)は入れ替えたりするものもあるそうなので、また来よう。 最後はアトリエでそこからガーデンに抜けられる。
冬は本当に寒くなるの、と言っていたけど、確かにそんなかんじだった。 暖炉はあるけど。 幽霊はいない... かな。
この家にゲストとしてT. S. EliotやE. M. Forsterがやってきて、Lytton StracheyもRoger Fryもいて、フランス文学や絵画がたっぷりあり、ロシアのバレエも中国のアートもあり、経済学の先端がいて、LGBTQがふつうにあり、当時の人文学の粋と枠がこんな田舎の小さな家にぜんぶ固まってあったんだなー、って。
そして*Living Well is the Best Revenge* -『優雅な生活が最高の復讐である』というフレーズが自然にふんわりと浮かんでくる。
ここに来た以上、もういっこの方 - VirginiaとLeonard Woolfの家 - Monk’s Houseも行くよね。
ふたつの家の間は7マイルくらい離れていて、行きのタクシーの運転手さんに「歩ける?」 って聞いたらうーん、2時間くらい歩く気があるのなら、ていうので、彼と時間を決めて再び来てもらった。(確かに歩ける距離じゃなかったかも)
こっちはFarmhouseよりさらにこじんまりしていて、ほんと普通の家のかんじで、でも家具や飾りつけや色彩はあっちとおなじ意匠と感覚で統一されてて(つまりやはりVanessaとDuncanがー)、同様に住みやすそうだった。こちらは撮影可。
Virginia Woolfの寝室は”A Room of Her Own”だなあ、って、書棚にある本を見ていたら、日本語訳された彼女の本(昔のみすずの選集とか)が結構置いてあった。 Farmhouseと同様に咲き乱れっぱなしの庭にはやはり池(丸いのと四角の)があり、柵の向こうには牛がいて、彼女は牛を見てなんか思ったのかなあ、とか。
駅までの帰路はまた同じ運転手さんに来て貰い、この人は親切なことに近所のRiver Ouse - 彼女が入水自殺した - にも連れて行ってくれた。 橋の上から見た川は、最近の雨で水量が相当に増えていた。 彼女が入っていった1941年の3月はどんなだったのだろうか。
Farmhouseの写真集として、2016年にUnicornから出たKim Marslandの”Charleston Farmhouse 1981”という小さな本が雰囲気をよく伝えているので探してみて。
8.09.2019
[music] Thundercat
Nile Rodgersがキュレーターとなった今年のMeltdown、出演者もスケジュールもなかなか発表にならず、なんか決まらないのかしら揉めているのかしら? の後で発表になったメンツは、昨年のRobert Smithキュレーションの、あれもあるこれもあるぜんぶ見たいけどどうしようしんじゃうー になった昨年と比べるとなかなか微妙で、勿論そうじゃない人だっているのだろうが、やっぱしダンスミュージックって楽しいし聴きたいけど連日連夜だと体力的に厳しくなっていて(普通のスタンディングライブでも2時間超えると... 昔はGeorge Clintonの4時間とか平気だったのにな)、なのでチケット発売日も注視しないでおいたらこれなんかはあっという間に1階席はなくなっていて、あーあ、って本番の数日前に見てみたら4列目が空いてたので取った。
4日の日曜日、この日は午前からBBCのPromsでオルガン聴いて、30年代のコメディ見て、90年代の殺伐としたのを抜けて、そういう起伏の激しい状態から始まっていた前座のOnyx Collectiveに座る。 ギターレス、ヴォーカルとサクソフォンがフロントの5人組で、NYから来たのだと。いかにも東海岸のJazz/Funkだねえ、のすかすかした、Collectiveとしか言いようのない(そういえばむかし、Groove Collectiveっていたねえ)猥雑なノリで、なんか懐かしかった。
彼らの演奏が終わるとNile Rodgersさんがわざわざ出てきて、彼らはこのためにBrooklynから来たんだよ拍手を!次のThundercatはLAから来たよ、楽しんでってね! って。この辺の世話焼き加減はとてもNile Rodgersだなあ、と。
Thundercatさんて、17年、地獄の黙示録/河童ジャケットの”Drunk”を少し聴いて宅録系のひとかと勝手に思っていたらでっかい6弦ベースを抱えてでてきて(← 知らなさすぎ)、あとはドラムスとフェンダーローズ寄り鍵盤の横並びトリオ編成で、歌もうたうしコーラスもするし、すごく底の深く低いどっしりした電気フュージョン・ジャズみたいのを聴かせてくれた。でもよく見ると指とかめちゃくちゃ動いているしドラムスもマルチタコ脚みたいだし高度で複雑すぎて、でもそのうち意識の裏にすーっと抜けていくような気持ちよさがやってくる。 (最近の)King Crimsonのように聴こえるところもあったかも。 もうちょっと踊れるかんじだったらなー、いや踊んなくていいわこれ、とか。
BBC Proms 21: Olivier Latry
同じ4日の午前11時スタート、Royal Albert HallでのProms 21はパイプオルガンのソロで、あそこのパイプオルガンがどんなふうに鳴るのか聴いたことなかったし、日曜の午前にオルガンてなんかいいかも、って。
奏者のOlivier Latryさんはこないだ焼けてしまったパリのノートルダム寺院のオルガン弾きの方で、であるのならノートルダムの分も含めてしっかり聴いてあげないと。
ハチャトリアンに始まりベートーベンにバッハにリストにサン=サーンスに、古典スタンダードからモダンまで8曲、加えて最後に即興で1曲、アンコールも1曲の約90分。
パイプオルガンてなんであんなにでっかい音がでるの? なんであんなに多彩で多様な音色がなるの? ダブみたいな音処理のってどうやっているの? など、聴けば聴くほど謎にまみれていくのだったが、音はひたすら圧倒的に聳えていてひええー、だった。
いつもの椅子席にしたのだが、立ち見のフロアにいる人たちの一部は床にそのまま寝転がって聴いていてあれいいなー、って。 来年もあったらやってみたい。
4日の日曜日、この日は午前からBBCのPromsでオルガン聴いて、30年代のコメディ見て、90年代の殺伐としたのを抜けて、そういう起伏の激しい状態から始まっていた前座のOnyx Collectiveに座る。 ギターレス、ヴォーカルとサクソフォンがフロントの5人組で、NYから来たのだと。いかにも東海岸のJazz/Funkだねえ、のすかすかした、Collectiveとしか言いようのない(そういえばむかし、Groove Collectiveっていたねえ)猥雑なノリで、なんか懐かしかった。
彼らの演奏が終わるとNile Rodgersさんがわざわざ出てきて、彼らはこのためにBrooklynから来たんだよ拍手を!次のThundercatはLAから来たよ、楽しんでってね! って。この辺の世話焼き加減はとてもNile Rodgersだなあ、と。
Thundercatさんて、17年、地獄の黙示録/河童ジャケットの”Drunk”を少し聴いて宅録系のひとかと勝手に思っていたらでっかい6弦ベースを抱えてでてきて(← 知らなさすぎ)、あとはドラムスとフェンダーローズ寄り鍵盤の横並びトリオ編成で、歌もうたうしコーラスもするし、すごく底の深く低いどっしりした電気フュージョン・ジャズみたいのを聴かせてくれた。でもよく見ると指とかめちゃくちゃ動いているしドラムスもマルチタコ脚みたいだし高度で複雑すぎて、でもそのうち意識の裏にすーっと抜けていくような気持ちよさがやってくる。 (最近の)King Crimsonのように聴こえるところもあったかも。 もうちょっと踊れるかんじだったらなー、いや踊んなくていいわこれ、とか。
BBC Proms 21: Olivier Latry
同じ4日の午前11時スタート、Royal Albert HallでのProms 21はパイプオルガンのソロで、あそこのパイプオルガンがどんなふうに鳴るのか聴いたことなかったし、日曜の午前にオルガンてなんかいいかも、って。
奏者のOlivier Latryさんはこないだ焼けてしまったパリのノートルダム寺院のオルガン弾きの方で、であるのならノートルダムの分も含めてしっかり聴いてあげないと。
ハチャトリアンに始まりベートーベンにバッハにリストにサン=サーンスに、古典スタンダードからモダンまで8曲、加えて最後に即興で1曲、アンコールも1曲の約90分。
パイプオルガンてなんであんなにでっかい音がでるの? なんであんなに多彩で多様な音色がなるの? ダブみたいな音処理のってどうやっているの? など、聴けば聴くほど謎にまみれていくのだったが、音はひたすら圧倒的に聳えていてひええー、だった。
いつもの椅子席にしたのだが、立ち見のフロアにいる人たちの一部は床にそのまま寝転がって聴いていてあれいいなー、って。 来年もあったらやってみたい。
8.08.2019
[film] Gas Food Lodging (1992)
2日金曜日の晩、”Do the Right Thing” (1989)に続けてNineties特集で見ました。
邦題はそのまま『ガス・フード・ロジング』。原作はRichard PeckのYA小説だそう。
初めにQueen Mary University of LondonのLucy Boltonさんから短いイントロがあって、この映画がリリースされた92年は映画史観点で眺めるととても豊かな年で、他にどんなものが出たかというとね、で挙がったのが Sally Potterの”Orlando”、Cameron Croweの”Singles” 、Abel Ferraraの”Bad Lieutenant”、Robert Altmanの”The Player”、Quentin Tarantinoの”Reservoir Dogs”、Nora Ephronの “This Is My Life” – 他にも沢山あがったのだが憶えていない、けど、wikiでこの年の公開リストを見ても確かにとっても充実している気がする。”1991: The Year Punk Broke” (1992)の後に続けて出てきたなんか重みや臭みの抜けたかんじの。
で、そういう中でもAllison Andersによる本作は90’sのgemと呼ばれていて、それがなんでかはこれから見てね、って。 確かに宝石みたいな。映画の中に光る石も出てくるし。
あと、監督はWim Wendersを師と仰いでいて、”Paris, Texas” (1984)のロケ先ではUnder Studyとして張り付いていたのだという。その辺のかんじ、あるかも。
ニューメキシコのトレイラーパークに母Nora (Brooke Adams)と姉のTrudi (Ione Skye)と妹のShade (Fairuza Balk)が暮らしていて、父は蒸発していなくて、Noraは地元のダイナーでウェイトレスをしてて、Trudiは素行不良で学校やめて母と同じところでバイトを始めて、Shadeは地元の映画館でメキシコ映画の女神Elvia Riveroの主演作品を見てはうっとり泣いたりしている。
3人ばらばらに起きて帰ってきて寝て、たまにダイナーで会って、たまに喧嘩して怒鳴りあったり、がらんとした町と家の間でそういうのを繰り返しながらTrudiはイギリスから来た男 - 洞窟で光る鉱物を探している - と仲良くなり、NoraはTVのパラボラアンテナを立てる技師と仲良くなり、Shadeは映写技師をしている男とぶつかったりしながら仲良くなり、そこに行くまでにもさんざん互いの言いあい泣きあい引っ掻きあいが – 特にNoraとTrudiには – あって、どうせまたすぐ別れそうだしすぐ喧嘩しそうだし大変よね、なのだが、そんなふうにやりあいながらずっとこの母娘はやっていくんだろうなー、くらいの突き放し感がすてきで、それらを(トレイラーハウス故の?)朝の光とか夜の暗さがほんわか包んでいて、なんかいいな、になる。
ものすごい幸せとかものすごい悲しみとかがやってくるものではなくて、どちらかと言うと退屈さつまんなさとどう向きあってイライラをやり過ごしていくのか、みたいな話なのだが、そうであったにしても、この場所の、この3人なら、って(男なんていなくてもべつに)。
音楽を担当しているのはJ. Mascisで、他にOrchestrationパートはMagazine – Bad SeedsのBarry Adamsonが。 92年というとDinasaur Jr.は”Green Mind” (1991)を出した頃で、あの当時のあのバンドが湛えていた透明感- 気持ちよく澱むギターサウンド - これは次作の”Where You Been”ではまたちょっと変わってしまう - が、映画の空気感と見事な調和を見せている。もうちょっと壊してもいいんじゃない、くらいに清々しいの。 彼、カメオで出演もしているらしいのだがあれかなあ、くらいでわからなかった。
あとはカーラジオから流れてくるNick Cave and the Bad Seedsの“Lament”とか、ラストには声だけでそれとわかるVictoria Williamsとか。
邦題はそのまま『ガス・フード・ロジング』。原作はRichard PeckのYA小説だそう。
初めにQueen Mary University of LondonのLucy Boltonさんから短いイントロがあって、この映画がリリースされた92年は映画史観点で眺めるととても豊かな年で、他にどんなものが出たかというとね、で挙がったのが Sally Potterの”Orlando”、Cameron Croweの”Singles” 、Abel Ferraraの”Bad Lieutenant”、Robert Altmanの”The Player”、Quentin Tarantinoの”Reservoir Dogs”、Nora Ephronの “This Is My Life” – 他にも沢山あがったのだが憶えていない、けど、wikiでこの年の公開リストを見ても確かにとっても充実している気がする。”1991: The Year Punk Broke” (1992)の後に続けて出てきたなんか重みや臭みの抜けたかんじの。
で、そういう中でもAllison Andersによる本作は90’sのgemと呼ばれていて、それがなんでかはこれから見てね、って。 確かに宝石みたいな。映画の中に光る石も出てくるし。
あと、監督はWim Wendersを師と仰いでいて、”Paris, Texas” (1984)のロケ先ではUnder Studyとして張り付いていたのだという。その辺のかんじ、あるかも。
ニューメキシコのトレイラーパークに母Nora (Brooke Adams)と姉のTrudi (Ione Skye)と妹のShade (Fairuza Balk)が暮らしていて、父は蒸発していなくて、Noraは地元のダイナーでウェイトレスをしてて、Trudiは素行不良で学校やめて母と同じところでバイトを始めて、Shadeは地元の映画館でメキシコ映画の女神Elvia Riveroの主演作品を見てはうっとり泣いたりしている。
3人ばらばらに起きて帰ってきて寝て、たまにダイナーで会って、たまに喧嘩して怒鳴りあったり、がらんとした町と家の間でそういうのを繰り返しながらTrudiはイギリスから来た男 - 洞窟で光る鉱物を探している - と仲良くなり、NoraはTVのパラボラアンテナを立てる技師と仲良くなり、Shadeは映写技師をしている男とぶつかったりしながら仲良くなり、そこに行くまでにもさんざん互いの言いあい泣きあい引っ掻きあいが – 特にNoraとTrudiには – あって、どうせまたすぐ別れそうだしすぐ喧嘩しそうだし大変よね、なのだが、そんなふうにやりあいながらずっとこの母娘はやっていくんだろうなー、くらいの突き放し感がすてきで、それらを(トレイラーハウス故の?)朝の光とか夜の暗さがほんわか包んでいて、なんかいいな、になる。
ものすごい幸せとかものすごい悲しみとかがやってくるものではなくて、どちらかと言うと退屈さつまんなさとどう向きあってイライラをやり過ごしていくのか、みたいな話なのだが、そうであったにしても、この場所の、この3人なら、って(男なんていなくてもべつに)。
音楽を担当しているのはJ. Mascisで、他にOrchestrationパートはMagazine – Bad SeedsのBarry Adamsonが。 92年というとDinasaur Jr.は”Green Mind” (1991)を出した頃で、あの当時のあのバンドが湛えていた透明感- 気持ちよく澱むギターサウンド - これは次作の”Where You Been”ではまたちょっと変わってしまう - が、映画の空気感と見事な調和を見せている。もうちょっと壊してもいいんじゃない、くらいに清々しいの。 彼、カメオで出演もしているらしいのだがあれかなあ、くらいでわからなかった。
あとはカーラジオから流れてくるNick Cave and the Bad Seedsの“Lament”とか、ラストには声だけでそれとわかるVictoria Williamsとか。
8.07.2019
[film] Blonde Venus (1932)
1日木曜日の晩、BFIで見ました。 月が替わって始まった8-9月のBFIの特集 - ”Cary Grant: Britain's Greatest Export”からの最初の1本。 今回の目玉は”Notorious” (1946) - 『汚名』の4Kリバイバルで、見たことがあるのも結構あるけど、できるだけ追っかけていきたい。
監督Josef von Sternberg – 主演Marlene Dietrichで『上海特急』に続く作品。 - 邦題はそのまま『ブロンド・ヴィナス』。
冒頭、ドイツの森のなかにある池で女性たちが裸で泳いでいて、そこにアメリカ人の学生たちがやってきて覗いて、泳いでいたHelen (Marlene Dietrich)はあっちに行ってください、と追い払おうとするのだが学生のひとりNed (Herbert Marshall)はやだよ、ってやりとりが始まって、その数年後、水面を映していたカメラはバスタブでばしゃばしゃしているふたりの息子 Johnnyの脚にジャンプする。
家族3人はとても幸せに暮らしているのだが、Nedは仕事でラジウム中毒になって、医者が言うにはよい治療があるけど、それはドイツで6ヶ月間かけて$1500必要、と言われ、Johnnyが寝た後でふたりで話すとHelenはあたし昔みたいに歌って稼ぐから、と言い、Nedはよい顔はしないのだがHelenはキャバレーでゴリラの被り物をしたりしながら歌い始める。
と、そこの常連でお金持ちのNick Townsend (Cary Grant)がHelenに目をつけて、Helenも彼の羽振りがよいことを聞いていたので迫っていって、歌っているのは夫の治療費のためで子供もいて、ていう事情を話してもNickは治療費を出してくれるからそれに甘えてNedには出演料を前払いして貰ったとか嘘をつき、彼がドイツに旅立ってからJohnnyとふたりでNickの世話になって楽しく過ごしたりする。
で、予定より早く治療を終えてがらんとした家に戻ってきたNedが金の出どころも含めて全てを把握すると当然激怒してもう一緒には暮らせないJohnnyを置いて出て行け、というので息子を取られたくない彼女はJohnnyを連れて旅に出て、南部の酒場で歌を歌ったり日銭を稼ぎつつ転々と逃げていくのだが、やがて追っ手に見つかってJohnnyとは引き離され..
全てを失って開き直った彼女は本腰いれてばりばり歌い始めて、パリでも成功するのだがやはり気掛かりなのはJohnnyのことで、それを察したNickは..
ショービジネスのお話しのようで夫婦愛の話のようで辛い子連れ逃亡旅の話のようで、いろんな要素があるなかではやはり家族愛のこと、になるのだろうか。
ちょっと暗いけど正直者のNed - Herbert Marshallと明るくさばさばしたHelen - Marlene Dietrichが最初に出会ったときのやりとり(ふたりはどうやって出会って結婚したの?ってJohnnyが何度もせがんで聞く話し)が底に流れていって、最後のお別れにってHelenがJohnnyにハイネの詩を詠んであげるシーンにメリーゴーランドとかが被さってぐるぐる回り始めるとなんか魔法、というか騙されているんじゃないか、とか。
そうすると最初は胡散臭い若い成金やくざにしか見えなかったNickも、あんたそんなによいひとでいいの? そんなよいひとなのになんで大金持ちなのさ? って。
ここでのCary Grantはまだぴかぴかのぱりぱりで、なのに得体のしれないオーラは既に滲んでいて、そんなことよりMarlene Dietrichだねえ。子連れ逃亡の気疲れでぼろぼろなのに、でも歌うたう時はぱりっとして、あれもこれも愛と歌に生きているから、ただそれだけのことよ、ってさらっと言ってしまう、そういうかっこよさがあって、で最後はほんとに愛の言葉を囁くだけでぜんぶ元に戻っちゃうんだからすごいわ。
やっぱり最初のとこ、池で裸で泳いでいたのはヒトじゃないなにかだったに違いない、と。
監督Josef von Sternberg – 主演Marlene Dietrichで『上海特急』に続く作品。 - 邦題はそのまま『ブロンド・ヴィナス』。
冒頭、ドイツの森のなかにある池で女性たちが裸で泳いでいて、そこにアメリカ人の学生たちがやってきて覗いて、泳いでいたHelen (Marlene Dietrich)はあっちに行ってください、と追い払おうとするのだが学生のひとりNed (Herbert Marshall)はやだよ、ってやりとりが始まって、その数年後、水面を映していたカメラはバスタブでばしゃばしゃしているふたりの息子 Johnnyの脚にジャンプする。
家族3人はとても幸せに暮らしているのだが、Nedは仕事でラジウム中毒になって、医者が言うにはよい治療があるけど、それはドイツで6ヶ月間かけて$1500必要、と言われ、Johnnyが寝た後でふたりで話すとHelenはあたし昔みたいに歌って稼ぐから、と言い、Nedはよい顔はしないのだがHelenはキャバレーでゴリラの被り物をしたりしながら歌い始める。
と、そこの常連でお金持ちのNick Townsend (Cary Grant)がHelenに目をつけて、Helenも彼の羽振りがよいことを聞いていたので迫っていって、歌っているのは夫の治療費のためで子供もいて、ていう事情を話してもNickは治療費を出してくれるからそれに甘えてNedには出演料を前払いして貰ったとか嘘をつき、彼がドイツに旅立ってからJohnnyとふたりでNickの世話になって楽しく過ごしたりする。
で、予定より早く治療を終えてがらんとした家に戻ってきたNedが金の出どころも含めて全てを把握すると当然激怒してもう一緒には暮らせないJohnnyを置いて出て行け、というので息子を取られたくない彼女はJohnnyを連れて旅に出て、南部の酒場で歌を歌ったり日銭を稼ぎつつ転々と逃げていくのだが、やがて追っ手に見つかってJohnnyとは引き離され..
全てを失って開き直った彼女は本腰いれてばりばり歌い始めて、パリでも成功するのだがやはり気掛かりなのはJohnnyのことで、それを察したNickは..
ショービジネスのお話しのようで夫婦愛の話のようで辛い子連れ逃亡旅の話のようで、いろんな要素があるなかではやはり家族愛のこと、になるのだろうか。
ちょっと暗いけど正直者のNed - Herbert Marshallと明るくさばさばしたHelen - Marlene Dietrichが最初に出会ったときのやりとり(ふたりはどうやって出会って結婚したの?ってJohnnyが何度もせがんで聞く話し)が底に流れていって、最後のお別れにってHelenがJohnnyにハイネの詩を詠んであげるシーンにメリーゴーランドとかが被さってぐるぐる回り始めるとなんか魔法、というか騙されているんじゃないか、とか。
そうすると最初は胡散臭い若い成金やくざにしか見えなかったNickも、あんたそんなによいひとでいいの? そんなよいひとなのになんで大金持ちなのさ? って。
ここでのCary Grantはまだぴかぴかのぱりぱりで、なのに得体のしれないオーラは既に滲んでいて、そんなことよりMarlene Dietrichだねえ。子連れ逃亡の気疲れでぼろぼろなのに、でも歌うたう時はぱりっとして、あれもこれも愛と歌に生きているから、ただそれだけのことよ、ってさらっと言ってしまう、そういうかっこよさがあって、で最後はほんとに愛の言葉を囁くだけでぜんぶ元に戻っちゃうんだからすごいわ。
やっぱり最初のとこ、池で裸で泳いでいたのはヒトじゃないなにかだったに違いない、と。
[film] The Current War (2017)
30日、火曜日の晩、Picturehouse Centralで見ました。邦題は『電流戦争』 - しかないよね。
監督は”Me and Earl and the Dying Girl” (2015)の人で、Executive ProducerはMartin Scorsese。
2017年の作品のリリースがここまで遅れたのはWeinsteinのあの騒動があったから、だって。
19世紀末のアメリカで、Thomas Edison (Benedict Cumberbatch)が電球を発明して、これの全米展開と将来の覇権をめぐって発明家で実業家のGeorge Westinghouse (Michael Shannon)とか投資家のJ. P. Morganとか、Edisonの家族、Edisonの秘書Samuel Insull (Tom Holland)とか、より安全で効率のよい方式を見つけてEdisonにぶつかるNikola Tesla (Nicholas Hoult)とか、歴史上の有名な人たちがいっぱい入り乱れる史実を元にした大河ドラマで、演じている人たちもAvengers系ぽい人たちなのですごく濃く面白くなるはずなのだが、そーんなでもなかったかも。
発明家同士が複数ある方式のコストとか安全性とか特許とかを巡って議論したり実証したり威張ったりしていく中、どっち側にどういう陣営や投資家がつくのか、でヒトやカネがわらわら群がって転がって勝ったり負けたりする、今もいろんな分野や市場で大規模小規模行われている「競争」のいちばん最初の頃の姿がこんなやつで、たぶん市場競争の原理とか、勝った方はなんで勝ったのか、とかを掘ったり分析するのに興味があるひとには面白いのかもしれないけど、そんなの好きなひとが好きにやれば、のひと(← 会社員にはむかないね)には別に、って。
なので早くに亡くなってしまったEdisonの妻の話 - 自分の発明した蓄音機に録音していた妻の声を聞いて泣くとこ、最近のドラマで留守電に残っていたメッセージを聞いて泣いたりするのと一緒だ - とか、Westinghouseの方式の危険性を証明するために馬で公開実験をしたら、それを見たやつがヒトの処刑用に電気椅子を思いつく、とか、そういう方がおもしろかったかも。
あるいは、月並みだけど、今は歴史上の、会社として名前が残っているような偉人たちも本当は裏に相当いろんな闇とかモンスターを抱えてこんなふうだったのに、ていう方がおもしろいのに - Nikola Teslaなんて言うまでもなく。 それがひとたび「戦争」って括られると薄まってしまうのはどんなドラマでもそんなもん、だろうか。真上からの俯瞰で沢山の人がざっざっ..って行進していくのを見るだけで、あーあ.. になってしまう。
あと、最近の産業界でのこういう覇権争いみたいなのはメガ企業がどこにどれだけお金を落としてどれだけ抱えこむか、みたいなのを焼け野原で陣地取り(or 奴隷狩り)しているような、とっても下衆な世界になってきているねえ。おもしろくもなんともないかんじ。
おもしろけりゃいいのか? うん、こういうのっておもしろけりゃいいんだと思う。今更Edisonえらい!でもないだろうし。
あと、これは事実だろうからしょうがないけど、ほんとに底の底までメンズ・ワールドだよねえ。女性が中心のこういうドラマの方がぜったい起伏が激しくてかっこいいものになるのに。(そして邦題は変わらずくそださいままで)
それにしてもBenedict CumberbatchさんはThomas EdisonやってSherlock HolmesやってAlan TuringやってDoctor Strangeやって、舞台ではFrankensteinもやって、あれこれ最強だねえ。
22世紀になって映画、”The Semiconductor Wars”が作られたとき、ここに出てくる日本はある時点でバカな政治家の思惑によって突如消滅 or ガラパゴス、になっちゃうんだよ。あーあ。
監督は”Me and Earl and the Dying Girl” (2015)の人で、Executive ProducerはMartin Scorsese。
2017年の作品のリリースがここまで遅れたのはWeinsteinのあの騒動があったから、だって。
19世紀末のアメリカで、Thomas Edison (Benedict Cumberbatch)が電球を発明して、これの全米展開と将来の覇権をめぐって発明家で実業家のGeorge Westinghouse (Michael Shannon)とか投資家のJ. P. Morganとか、Edisonの家族、Edisonの秘書Samuel Insull (Tom Holland)とか、より安全で効率のよい方式を見つけてEdisonにぶつかるNikola Tesla (Nicholas Hoult)とか、歴史上の有名な人たちがいっぱい入り乱れる史実を元にした大河ドラマで、演じている人たちもAvengers系ぽい人たちなのですごく濃く面白くなるはずなのだが、そーんなでもなかったかも。
発明家同士が複数ある方式のコストとか安全性とか特許とかを巡って議論したり実証したり威張ったりしていく中、どっち側にどういう陣営や投資家がつくのか、でヒトやカネがわらわら群がって転がって勝ったり負けたりする、今もいろんな分野や市場で大規模小規模行われている「競争」のいちばん最初の頃の姿がこんなやつで、たぶん市場競争の原理とか、勝った方はなんで勝ったのか、とかを掘ったり分析するのに興味があるひとには面白いのかもしれないけど、そんなの好きなひとが好きにやれば、のひと(← 会社員にはむかないね)には別に、って。
なので早くに亡くなってしまったEdisonの妻の話 - 自分の発明した蓄音機に録音していた妻の声を聞いて泣くとこ、最近のドラマで留守電に残っていたメッセージを聞いて泣いたりするのと一緒だ - とか、Westinghouseの方式の危険性を証明するために馬で公開実験をしたら、それを見たやつがヒトの処刑用に電気椅子を思いつく、とか、そういう方がおもしろかったかも。
あるいは、月並みだけど、今は歴史上の、会社として名前が残っているような偉人たちも本当は裏に相当いろんな闇とかモンスターを抱えてこんなふうだったのに、ていう方がおもしろいのに - Nikola Teslaなんて言うまでもなく。 それがひとたび「戦争」って括られると薄まってしまうのはどんなドラマでもそんなもん、だろうか。真上からの俯瞰で沢山の人がざっざっ..って行進していくのを見るだけで、あーあ.. になってしまう。
あと、最近の産業界でのこういう覇権争いみたいなのはメガ企業がどこにどれだけお金を落としてどれだけ抱えこむか、みたいなのを焼け野原で陣地取り(or 奴隷狩り)しているような、とっても下衆な世界になってきているねえ。おもしろくもなんともないかんじ。
おもしろけりゃいいのか? うん、こういうのっておもしろけりゃいいんだと思う。今更Edisonえらい!でもないだろうし。
あと、これは事実だろうからしょうがないけど、ほんとに底の底までメンズ・ワールドだよねえ。女性が中心のこういうドラマの方がぜったい起伏が激しくてかっこいいものになるのに。(そして邦題は変わらずくそださいままで)
それにしてもBenedict CumberbatchさんはThomas EdisonやってSherlock HolmesやってAlan TuringやってDoctor Strangeやって、舞台ではFrankensteinもやって、あれこれ最強だねえ。
22世紀になって映画、”The Semiconductor Wars”が作られたとき、ここに出てくる日本はある時点でバカな政治家の思惑によって突如消滅 or ガラパゴス、になっちゃうんだよ。あーあ。
8.06.2019
[film] The Golden Boat (1990)
7月31日、水曜日の晩、ICAで見ました。
ICAのGalleryで4日まで開催されていた展示 – “I, I, I, I, I, I, I, Kathy Acker”の関連企画でこの日一回だけ上映されたもの。
なかなかとっても変なやつでー。
Raúl RuizがNew Yorkを舞台に、The KitchenとかMOMAの協力を得て撮った低予算ノワール/コメディ?みたいな不条理映画。
学生のIsrael (Federico Muchnik)がNew Yorkの路地を歩いていると脱がれた靴がそこらじゅうにいっぱい転がっていてそれを辿っていくとおっさんのAustin (Michael Kirby)にぶつかり、訳わかんないことを呟くと彼は自分で自分の腹にナイフ刺してうううー、とか呻いてて気持ちわるいのでその場を離れるのだが、Austinはその後もIsraelのアパートとかいろんなところに現れていちゃもんつけて人を刺したり自分を刺したり血まみれのラジカセで音楽流したりやたら迷惑なかんじで、いろんな人が現れたり消えたりして、親子関係とか愛人関係とか神さまとかそれらを巡るあれこれがTVドラマ – しょうもない刑事ものとかラテンのソープオペラ風 - 要はすべてがいんちきくさいふう - に展開していく。
筋を追ってもしょうがない類のものであることは5分でわかったのだが場所の雰囲気 – 小汚いとこ - とか出てくるヒトのやばいかんじは十分出ていたので飽きることなく楽しく見れた。
Kathy AckerさんはIsraelの大学の先生役で出てきていろいろ喋って、でもすぐにAustinに刺されちゃうの。
他にJimとTomのJarmusch兄弟とか、最初の方に出てきて通りすがりに刺されてしまうおっさんがBarbet Schroederとか。
音楽はJohn ZornでCyro BaptistaとかDave Douglasとか彼の人脈の人たちがばりばりで気持ちよくて、このギターは.. と思ったらやはりRobert Quineだった。
Desire: an encounter with a play by Kathy Acker
ICAのTheater(初めて入った)で、これも”I, I, I, I, I, I, I, Kathy Acker”展の関連企画 - 彼女の原作による演劇、というかパフォーマンスで、3日の土曜日の晩に見たもの。1週間くらい上演していた。
↑の映画にも出演していたThe Wooster Group (なんかなつかし)のKate Valkさんが監督、原作は1982年のBOMB Manazineに掲載され、その後も形を変えて彼女の作品の中で変奏されていったもの、なので元がどんなものかは確認できず、”an encounter with a play by Kathy Acker” というタイトルが相応しいのかも。”play”を通して彼女が撒き散らした臓物に遭遇する、と。
パフォーマーが4名(中年女性、トランスの男性、女性2名)出てきて、ディスプレイ上を流れていく字幕にシンクロしてClaudiusやOpheliaやHamletやHamletのメイドやRomeoやJulietが憑依した彼らがテキスト(一部、突然フランス語になる)を読んだり歌ったり囁いたりしていく。RomeoとJulietはトランスの人が交互に。 こんなふうにオリジナルの文脈から切り離された台詞を喋る役者たちは一体なんなのか、誰でありうるのか。王様でもメイドでも男役も女役も関係なくなったところに現れる奴って、なに? 誰? ていうとっても80年代しているかんじのー。
Kathy Ackerの展示は4日までだったので、もう一回ざっと見て、Genesis P-Orridgeの切り絵みたいな絵がめちゃくちゃかわいくて、なんかじーんとした。
RIP Toni Morrison。 こんなにもあなたの物語が必要とされるときに...
ICAのGalleryで4日まで開催されていた展示 – “I, I, I, I, I, I, I, Kathy Acker”の関連企画でこの日一回だけ上映されたもの。
なかなかとっても変なやつでー。
Raúl RuizがNew Yorkを舞台に、The KitchenとかMOMAの協力を得て撮った低予算ノワール/コメディ?みたいな不条理映画。
学生のIsrael (Federico Muchnik)がNew Yorkの路地を歩いていると脱がれた靴がそこらじゅうにいっぱい転がっていてそれを辿っていくとおっさんのAustin (Michael Kirby)にぶつかり、訳わかんないことを呟くと彼は自分で自分の腹にナイフ刺してうううー、とか呻いてて気持ちわるいのでその場を離れるのだが、Austinはその後もIsraelのアパートとかいろんなところに現れていちゃもんつけて人を刺したり自分を刺したり血まみれのラジカセで音楽流したりやたら迷惑なかんじで、いろんな人が現れたり消えたりして、親子関係とか愛人関係とか神さまとかそれらを巡るあれこれがTVドラマ – しょうもない刑事ものとかラテンのソープオペラ風 - 要はすべてがいんちきくさいふう - に展開していく。
筋を追ってもしょうがない類のものであることは5分でわかったのだが場所の雰囲気 – 小汚いとこ - とか出てくるヒトのやばいかんじは十分出ていたので飽きることなく楽しく見れた。
Kathy AckerさんはIsraelの大学の先生役で出てきていろいろ喋って、でもすぐにAustinに刺されちゃうの。
他にJimとTomのJarmusch兄弟とか、最初の方に出てきて通りすがりに刺されてしまうおっさんがBarbet Schroederとか。
音楽はJohn ZornでCyro BaptistaとかDave Douglasとか彼の人脈の人たちがばりばりで気持ちよくて、このギターは.. と思ったらやはりRobert Quineだった。
Desire: an encounter with a play by Kathy Acker
ICAのTheater(初めて入った)で、これも”I, I, I, I, I, I, I, Kathy Acker”展の関連企画 - 彼女の原作による演劇、というかパフォーマンスで、3日の土曜日の晩に見たもの。1週間くらい上演していた。
↑の映画にも出演していたThe Wooster Group (なんかなつかし)のKate Valkさんが監督、原作は1982年のBOMB Manazineに掲載され、その後も形を変えて彼女の作品の中で変奏されていったもの、なので元がどんなものかは確認できず、”an encounter with a play by Kathy Acker” というタイトルが相応しいのかも。”play”を通して彼女が撒き散らした臓物に遭遇する、と。
パフォーマーが4名(中年女性、トランスの男性、女性2名)出てきて、ディスプレイ上を流れていく字幕にシンクロしてClaudiusやOpheliaやHamletやHamletのメイドやRomeoやJulietが憑依した彼らがテキスト(一部、突然フランス語になる)を読んだり歌ったり囁いたりしていく。RomeoとJulietはトランスの人が交互に。 こんなふうにオリジナルの文脈から切り離された台詞を喋る役者たちは一体なんなのか、誰でありうるのか。王様でもメイドでも男役も女役も関係なくなったところに現れる奴って、なに? 誰? ていうとっても80年代しているかんじのー。
Kathy Ackerの展示は4日までだったので、もう一回ざっと見て、Genesis P-Orridgeの切り絵みたいな絵がめちゃくちゃかわいくて、なんかじーんとした。
RIP Toni Morrison。 こんなにもあなたの物語が必要とされるときに...
8.05.2019
[film] La camarista (2018)
7月29日、月曜日の晩、Barbicanで見ました。英語題は“The Chambermaid”。
メキシコのLila Avilésの監督デビュー作で、Sophie Calleのプロジェクト- “The Hotel” (1981)にインスパイアされた監督の演劇作品を映画用に書き直したものだという。
Eve (Gabriela Cartol)はメキシコシティの5つ星ホテル(アメニティでどこのチェーンかわかる)で部屋メイドをしていて、職場まで毎日2時間かけて通っていて、子供は預けていて電話でお話しできる程度(ホテルの外の世界は出てこない)、担当しているのは21階の客室で、昇進して42階のエクゼクティブフロアの担当になることが夢で。
物語は彼女の日々の奮闘 – いろんな客からの我儘や無理を聞いて駆けまわってたまに失敗してぐったり疲れてうんざり – を追っていく。 アニメティは既にいっぱいあるのに、とにかく補充しろ、って何度も言ってくる客とか、小さい子がいてシャワーを浴びる間だけ面倒みてほしい、ていう若いお金持ちの女性とか、常連ぽい曲者たちとか、姿は見たことがないけど、日本のカメラマンらしい客 - 枕元に遠藤周作の『死について考える』と文庫本2冊(タイトルわからず)が置いてあって、きれいなパッケージのお菓子がある(のでちょっと貰っちゃう)とか、黙々と掃除をしていると外でクレーンに乗って窓ふきをしている青年からアプローチされたりとか。ホテルといういろんな関係が密になるのか疎になるのか露わになるのか微妙な空間で起こりそうなあれこれがきれいに並べられている。
その他に、同僚の、気さくで人懐こいけど気がつけばしれっと仕事押しつけてきているおばさん(いるいる)とか、2年間ずっと従業員用のエレベーターガールをしている女性(いつも読書してる)とか周りの従業員の人たち、学業資格を取るために会社がやっているクラスでの始業前のやりとり - 先生から『かもめのジョナサン』の本を貰ったので読む - とか、Lost & Foundに残された引取り手のない赤いドレスが欲しくて、まだある? ってずっと確認を続けたり、とか。
Eveは無口で仏頂面でほぼ笑わなくて囁くような小さな声で喋って、頼まれた仕事はきちんとやるので評価はされていて、でも理不尽なことが続くとやはり頭にきて乾燥室で布団とかぼかすか叩いてて静かに泣いて。この辺のありようを見ると、誰もが同じメキシコの(時代は違うけど)Alfonso Cuarónの”Roma” (2018)を思い浮かべるかもしれない。
これって「サービス業」って括られているけど、「サービス」の名の下で客のためならなんでもやるんだろ/やれよ、って蔑まされている現代の奴隷のことだと思っていて、ホテル業、CA、店員、教師、他にもいっぱいあって、なんでこんなにも簡単に人は「役割」に応じて他人のこと虐めて上に立って出処不明のいらいら(ヘイト)をこめて威張りちらすようになっちゃったんだろうねえ、ていう溝口的に不条理な格子模様のことを考えたり。
で、Eveは自分の置かれた状況とか将来を冷静に見据えて(か、単にもう我慢できねえ、になったのか)ある決断をして、その様がとても清々しく素敵で、勿論、だからと言って明るい明日がやってくるわけではまったくないのだが、でもそうだよね、としか言いようがないの。 その決意のありようって我々のそれとも繋がっているのではないかしら。
日本人の客室のシーン、最近は旅先に本を持っていかなくなっちゃったけど、やっぱりあんなふうに不思議な顔されていたのかな、とか、自分もたまにお菓子置くことがあったりしたので喜んでもらえたのかな、とか。
Tate Modernであんなことが起こってしまってかなしいよう。
メキシコのLila Avilésの監督デビュー作で、Sophie Calleのプロジェクト- “The Hotel” (1981)にインスパイアされた監督の演劇作品を映画用に書き直したものだという。
Eve (Gabriela Cartol)はメキシコシティの5つ星ホテル(アメニティでどこのチェーンかわかる)で部屋メイドをしていて、職場まで毎日2時間かけて通っていて、子供は預けていて電話でお話しできる程度(ホテルの外の世界は出てこない)、担当しているのは21階の客室で、昇進して42階のエクゼクティブフロアの担当になることが夢で。
物語は彼女の日々の奮闘 – いろんな客からの我儘や無理を聞いて駆けまわってたまに失敗してぐったり疲れてうんざり – を追っていく。 アニメティは既にいっぱいあるのに、とにかく補充しろ、って何度も言ってくる客とか、小さい子がいてシャワーを浴びる間だけ面倒みてほしい、ていう若いお金持ちの女性とか、常連ぽい曲者たちとか、姿は見たことがないけど、日本のカメラマンらしい客 - 枕元に遠藤周作の『死について考える』と文庫本2冊(タイトルわからず)が置いてあって、きれいなパッケージのお菓子がある(のでちょっと貰っちゃう)とか、黙々と掃除をしていると外でクレーンに乗って窓ふきをしている青年からアプローチされたりとか。ホテルといういろんな関係が密になるのか疎になるのか露わになるのか微妙な空間で起こりそうなあれこれがきれいに並べられている。
その他に、同僚の、気さくで人懐こいけど気がつけばしれっと仕事押しつけてきているおばさん(いるいる)とか、2年間ずっと従業員用のエレベーターガールをしている女性(いつも読書してる)とか周りの従業員の人たち、学業資格を取るために会社がやっているクラスでの始業前のやりとり - 先生から『かもめのジョナサン』の本を貰ったので読む - とか、Lost & Foundに残された引取り手のない赤いドレスが欲しくて、まだある? ってずっと確認を続けたり、とか。
Eveは無口で仏頂面でほぼ笑わなくて囁くような小さな声で喋って、頼まれた仕事はきちんとやるので評価はされていて、でも理不尽なことが続くとやはり頭にきて乾燥室で布団とかぼかすか叩いてて静かに泣いて。この辺のありようを見ると、誰もが同じメキシコの(時代は違うけど)Alfonso Cuarónの”Roma” (2018)を思い浮かべるかもしれない。
これって「サービス業」って括られているけど、「サービス」の名の下で客のためならなんでもやるんだろ/やれよ、って蔑まされている現代の奴隷のことだと思っていて、ホテル業、CA、店員、教師、他にもいっぱいあって、なんでこんなにも簡単に人は「役割」に応じて他人のこと虐めて上に立って出処不明のいらいら(ヘイト)をこめて威張りちらすようになっちゃったんだろうねえ、ていう溝口的に不条理な格子模様のことを考えたり。
で、Eveは自分の置かれた状況とか将来を冷静に見据えて(か、単にもう我慢できねえ、になったのか)ある決断をして、その様がとても清々しく素敵で、勿論、だからと言って明るい明日がやってくるわけではまったくないのだが、でもそうだよね、としか言いようがないの。 その決意のありようって我々のそれとも繋がっているのではないかしら。
日本人の客室のシーン、最近は旅先に本を持っていかなくなっちゃったけど、やっぱりあんなふうに不思議な顔されていたのかな、とか、自分もたまにお菓子置くことがあったりしたので喜んでもらえたのかな、とか。
Tate Modernであんなことが起こってしまってかなしいよう。
8.04.2019
[film] La noche del terror ciego (1971)
7月25日、木曜日の18時くらいにモスクワからヒースローに戻って、この日の午後に英国の史上最高気温が更新されたことが数日後に公式認定されて、公式なんてどうでもいいけどこの部屋にいたら素直にしぬ気がしたので映画に行くことにした。
BFIで毎月最終木曜の夜中にやっているホラー/スプラッター映画特集。 少しは涼しくなるかなあ、って。
英語題は”Tombs of the Blind Dead”、邦題は『エル・ゾンビ I 死霊騎士団の覚醒』.. なんかすごい。カルト的な人気があっていろんなバージョンがあるらしいのだが、上映されたのは101分、スペイン語英語字幕のだった。
夏のプールで高校の頃に親友だったBetty (Lone Fleming)とVirginia (María Elena Arpón)が再会して、バカンスに行かない?って誘うのだが待ち合わせ場所にはVirginiaの彼Rogerも一緒で、Virginiaは突然ご機嫌を損ねて(ふたりは高校時代になにかあったらしい - あったの)、蒸気機関車の窓から僧院のようなのが見えたのでいきなり飛び降りてそこに向かう。場所でいうとスペインとポルトガルの国境付近のBerzanoっていうあたり。
Virginiaが建物の入り口で門を叩いて開いてもしもし、ってやっても誰もいないようなのでそのまま中で泊まることにして(.. 泊まるの ?)、夜になると着替えてラジオつけて寝袋に入って寝る。と、いろんな音と共に僧衣を纏った亡霊みたいの(目がないの)とか馬に乗った同様のが地中や墓場からぞろぞろ湧いてでてゆっくり追っかけてきて、彼女は叫んで逃げまわるのだが結局捕まって..
彼女のことが気になった(彼女を置き去りにした)2人は探しに行かなきゃ、になるのだが翌日警察が現れて彼女はなにかに殺されたようだ、って遺体をみると咬み傷みたいのが全身にあってなんか変で(この遺体、後で立ちあがってひと暴れする)、彼女が向かった僧院のことを地元の大学教授に聞いてみると中世の血も凍るような生贄とかのお話が出てきて、そこに行ってみるのに協力を請うと、ちょうどVirginia殺しの嫌疑をかけられた息子のPedroがいるよ、っていうので、Betty, Roger, Pedro, Perdoの情婦の4人で僧院に向かうの(警察も一緒に行ってやれよ)。
で、おんなじようにあれらが湧いてきて、みんな割と簡単にやられちゃって、夜が明けてもそいつらは墓には戻らずに列車に乗り込んで … (→ 続編以降?)
監督のOssorioはあれらはゾンビというより馬に乗ったミイラとかヴァンパイアに近いやつ、と言っていて(とペーパーにはあった)、なのでそういう化け物に人々がやられていくお話としては、墓から出て来る化け物達の造型がすばらしいので文句なくて、ただあまりに化け物としての完成度がすごくて見惚れてしまうので、怖さはそんなにこなかったかも。 もっと腐って糸ひいてぷーん、みたいなかんじにしてもよいのに、なんかマチズモ濃すぎて強すぎるのよね。元騎士団だからしょうがないにしても。
あと、クローズアップとかエコーのかけ方のこてこてくどいとこ、とっても70年代だよね、と思ったらもろ70年代の映画だったと。
ポルトガル〜スペイン感たっぷりのサマームーヴィー、でもある、か。
BFIで毎月最終木曜の夜中にやっているホラー/スプラッター映画特集。 少しは涼しくなるかなあ、って。
英語題は”Tombs of the Blind Dead”、邦題は『エル・ゾンビ I 死霊騎士団の覚醒』.. なんかすごい。カルト的な人気があっていろんなバージョンがあるらしいのだが、上映されたのは101分、スペイン語英語字幕のだった。
夏のプールで高校の頃に親友だったBetty (Lone Fleming)とVirginia (María Elena Arpón)が再会して、バカンスに行かない?って誘うのだが待ち合わせ場所にはVirginiaの彼Rogerも一緒で、Virginiaは突然ご機嫌を損ねて(ふたりは高校時代になにかあったらしい - あったの)、蒸気機関車の窓から僧院のようなのが見えたのでいきなり飛び降りてそこに向かう。場所でいうとスペインとポルトガルの国境付近のBerzanoっていうあたり。
Virginiaが建物の入り口で門を叩いて開いてもしもし、ってやっても誰もいないようなのでそのまま中で泊まることにして(.. 泊まるの ?)、夜になると着替えてラジオつけて寝袋に入って寝る。と、いろんな音と共に僧衣を纏った亡霊みたいの(目がないの)とか馬に乗った同様のが地中や墓場からぞろぞろ湧いてでてゆっくり追っかけてきて、彼女は叫んで逃げまわるのだが結局捕まって..
彼女のことが気になった(彼女を置き去りにした)2人は探しに行かなきゃ、になるのだが翌日警察が現れて彼女はなにかに殺されたようだ、って遺体をみると咬み傷みたいのが全身にあってなんか変で(この遺体、後で立ちあがってひと暴れする)、彼女が向かった僧院のことを地元の大学教授に聞いてみると中世の血も凍るような生贄とかのお話が出てきて、そこに行ってみるのに協力を請うと、ちょうどVirginia殺しの嫌疑をかけられた息子のPedroがいるよ、っていうので、Betty, Roger, Pedro, Perdoの情婦の4人で僧院に向かうの(警察も一緒に行ってやれよ)。
で、おんなじようにあれらが湧いてきて、みんな割と簡単にやられちゃって、夜が明けてもそいつらは墓には戻らずに列車に乗り込んで … (→ 続編以降?)
監督のOssorioはあれらはゾンビというより馬に乗ったミイラとかヴァンパイアに近いやつ、と言っていて(とペーパーにはあった)、なのでそういう化け物に人々がやられていくお話としては、墓から出て来る化け物達の造型がすばらしいので文句なくて、ただあまりに化け物としての完成度がすごくて見惚れてしまうので、怖さはそんなにこなかったかも。 もっと腐って糸ひいてぷーん、みたいなかんじにしてもよいのに、なんかマチズモ濃すぎて強すぎるのよね。元騎士団だからしょうがないにしても。
あと、クローズアップとかエコーのかけ方のこてこてくどいとこ、とっても70年代だよね、と思ったらもろ70年代の映画だったと。
ポルトガル〜スペイン感たっぷりのサマームーヴィー、でもある、か。
8.03.2019
[film] The Great Hack (2019)
7月28日、日曜日の昼にICAで見ました。Sold-outしていた。
Netflixのなので、日本でももう見れるのかもしれない。是非見てほしい。
誰もが知っているFacebookの個人情報が英国企業のCambridge Analyticaに流れて使われ、そこでの解析結果が2016年の米国大統領選で、反ヒラリーキャンペーンに使われた件。同様にBrexitの国民投票でもBrexit推進団体Leave.EUのキャンペーンにも使われた件(つい数日前、Cambridge Analyticaの明確な関与を示すメールが出てきたって)。
つまり、悪夢の2016年、誰もが食べかけの唐揚げ(or ナゲット)をぽろりと落として「うそ…」ってなってしまった2大事案の裏側にはやっぱしこんなズルがあったんだわって。
新たに驚愕の事実が暴かれたり明らかにされたりというのはなくて、もやもやした闇の向こうにあった背景や関係者の線とカラクリが浮かびあがってくる。それだけでも目眩と吐き気がするくらいあーあ、になるの。
登場人物としては自分の授業でもこの問題について生徒に問いかけるNYのParsons School of Design の准教授David Carroll、本件を追いかける英国人ジャーナリストのCarole Cadwalladr、追いかけられる側のCambridge AnalyticaのCEO - Alexander Nix(逃げまくり)、同COO & CFO のJulian Wheatland、そしてトランプの選挙対策チームやLeave.EUのやくざ連中との繋ぎに中心的な役割を果たしたとされるBrittany Kaiser - 元はオバマの選対チームにいて人権活動にも関わっていた彼女が何故? どこかのリゾートで寛いでいた彼女を捕まえて問い詰め、並行して捜査の進展と共にCA上層部の明白なウソが報じられていくと彼女の顔色がだんだん変わり、本当のことを語るようになっていく、この辺は「おせーよ」って思うけど、まあいい。
論点は大きくふたつあって、①普段みんなが(Social Networkとして)使っているFacebookの情報が本人の知らないところで第三者に勝手に使われるってどうなの? ②それが選挙のような今後の社会の方向を決めるようなところのキャンペーンに(勿論勝手に)利用されるってどうなの? 自分の情報の「なに」が「どう」使われているのかわかんないのはおかしいし気持ちわるいよね?
マーケティングで使われるのはわかんなくもない(それでも嫌だけど)、でも自分の情報が特定の政治勢力の特定用途のために使われて、その裏で大量のお金が流れてブタみたいな連中がwin-winですな、とか言ってるのは我慢できない。
もちろん、投票した人々は投票所で自分の意思と判断で投票しているので一義的には問題ないのかもしれない、けどその判断が恣意的に送りつけられたフェイクの情報群に基づいてなされたものだとしたら .. とか、その情報の送付がAIによってプロファイリングされたどっち側にも転びそうな柔らかい人たちのグループを選んで集中的に行われていた .. とか、そのやり口を米国大統領選の前に複数の途上国の選挙戦で試していた .. とか、やっぱり気持ちよくないし、しかも結果があんなだとよけい暗澹となる。 あいつらがあんなことしなかったら … って。
CAに対して自分の個人情報がどこでどのように処理されたのか開示しろ、と訴訟を起こしたDavidは自身のデータに対する(を有する)権利は人権と同等である、というのだがその通りだと思う。 こないだオーストラリア政府からGoogleとFacebookに対してマーケティングに使われるAIのアルゴリズムを開示するよう命令が出ていたが、こういうのはこれから増えていくんだろうな。
商権 vs. 人権。
他方で法でどれだけ縛ろうとしても、データがどこかに置かれて移転可能になっている以上、いくらでも実験できるし技術もどんどん巧妙になっていくので、吐き気がするようないたちごっこになる。CAよりやばい連中はこれからいくらでも現れてくるだろう。
にっぽんなんてほーんと子供の時分からデータはずるずるだし格好のカモだよ(AI解析なんていらない)。人権意識なんて使う方にも使われる方にもないし、お得で儲かるのなら便利になるのなら、ってみんな底なし無邪気にクリックしていくから ー 。
ほんんんっとに嫌だあの国。 あそこでいま起こっていることはぜんぶ shame on you! だわ。
だからね、いまこれから、どれだけやばくなっていくのか、それをちゃんと認識して自衛するためにも、見たほうがいいよ。 もう十分外に出ちゃっているから「自衛」なんてできないか。自分で何が正しい情報なのかを仕分けることができるようになること、そのための目をネットの外で鍛えていくこと。
だから今日も本屋とか美術館にいくのよ。
Netflixのなので、日本でももう見れるのかもしれない。是非見てほしい。
誰もが知っているFacebookの個人情報が英国企業のCambridge Analyticaに流れて使われ、そこでの解析結果が2016年の米国大統領選で、反ヒラリーキャンペーンに使われた件。同様にBrexitの国民投票でもBrexit推進団体Leave.EUのキャンペーンにも使われた件(つい数日前、Cambridge Analyticaの明確な関与を示すメールが出てきたって)。
つまり、悪夢の2016年、誰もが食べかけの唐揚げ(or ナゲット)をぽろりと落として「うそ…」ってなってしまった2大事案の裏側にはやっぱしこんなズルがあったんだわって。
新たに驚愕の事実が暴かれたり明らかにされたりというのはなくて、もやもやした闇の向こうにあった背景や関係者の線とカラクリが浮かびあがってくる。それだけでも目眩と吐き気がするくらいあーあ、になるの。
登場人物としては自分の授業でもこの問題について生徒に問いかけるNYのParsons School of Design の准教授David Carroll、本件を追いかける英国人ジャーナリストのCarole Cadwalladr、追いかけられる側のCambridge AnalyticaのCEO - Alexander Nix(逃げまくり)、同COO & CFO のJulian Wheatland、そしてトランプの選挙対策チームやLeave.EUのやくざ連中との繋ぎに中心的な役割を果たしたとされるBrittany Kaiser - 元はオバマの選対チームにいて人権活動にも関わっていた彼女が何故? どこかのリゾートで寛いでいた彼女を捕まえて問い詰め、並行して捜査の進展と共にCA上層部の明白なウソが報じられていくと彼女の顔色がだんだん変わり、本当のことを語るようになっていく、この辺は「おせーよ」って思うけど、まあいい。
論点は大きくふたつあって、①普段みんなが(Social Networkとして)使っているFacebookの情報が本人の知らないところで第三者に勝手に使われるってどうなの? ②それが選挙のような今後の社会の方向を決めるようなところのキャンペーンに(勿論勝手に)利用されるってどうなの? 自分の情報の「なに」が「どう」使われているのかわかんないのはおかしいし気持ちわるいよね?
マーケティングで使われるのはわかんなくもない(それでも嫌だけど)、でも自分の情報が特定の政治勢力の特定用途のために使われて、その裏で大量のお金が流れてブタみたいな連中がwin-winですな、とか言ってるのは我慢できない。
もちろん、投票した人々は投票所で自分の意思と判断で投票しているので一義的には問題ないのかもしれない、けどその判断が恣意的に送りつけられたフェイクの情報群に基づいてなされたものだとしたら .. とか、その情報の送付がAIによってプロファイリングされたどっち側にも転びそうな柔らかい人たちのグループを選んで集中的に行われていた .. とか、そのやり口を米国大統領選の前に複数の途上国の選挙戦で試していた .. とか、やっぱり気持ちよくないし、しかも結果があんなだとよけい暗澹となる。 あいつらがあんなことしなかったら … って。
CAに対して自分の個人情報がどこでどのように処理されたのか開示しろ、と訴訟を起こしたDavidは自身のデータに対する(を有する)権利は人権と同等である、というのだがその通りだと思う。 こないだオーストラリア政府からGoogleとFacebookに対してマーケティングに使われるAIのアルゴリズムを開示するよう命令が出ていたが、こういうのはこれから増えていくんだろうな。
商権 vs. 人権。
他方で法でどれだけ縛ろうとしても、データがどこかに置かれて移転可能になっている以上、いくらでも実験できるし技術もどんどん巧妙になっていくので、吐き気がするようないたちごっこになる。CAよりやばい連中はこれからいくらでも現れてくるだろう。
にっぽんなんてほーんと子供の時分からデータはずるずるだし格好のカモだよ(AI解析なんていらない)。人権意識なんて使う方にも使われる方にもないし、お得で儲かるのなら便利になるのなら、ってみんな底なし無邪気にクリックしていくから ー 。
ほんんんっとに嫌だあの国。 あそこでいま起こっていることはぜんぶ shame on you! だわ。
だからね、いまこれから、どれだけやばくなっていくのか、それをちゃんと認識して自衛するためにも、見たほうがいいよ。 もう十分外に出ちゃっているから「自衛」なんてできないか。自分で何が正しい情報なのかを仕分けることができるようになること、そのための目をネットの外で鍛えていくこと。
だから今日も本屋とか美術館にいくのよ。
8.01.2019
[film] Grrrls to the Front: An Evening of Riot Grrrl Films
27日土曜日の夕方、BFIで見ました。
BFIではどういうタイミングか知らないが、“Woman with a Movie Camera”ていう括りで女性監督による女性映画を上映することがあって、そこで、Riot Grrrlに関連した中短編3本が上映された。
Dirty Girls (1996)
サンタモニカの学校の8th grade(13歳)のAmandaとHarperはずっとシャワー浴びないずっとおなじ服来たままの姉妹で、同級生とかからは汚いとか後ろ指さされたりバカにされたりしているのだが、彼女たちは自分たちの断固たる考えがあってやっているので So What? で、やがて彼女達の言葉や彼女たちがZineで明らかにしたメッセージ – これに対しても散々なdisが寄せられる - を卒業生のMichael Lucidがカメラに収めたドキュメンタリー。
映像も構成もとってもrawなのだが、彼女たちが特におかしいとは思えないの。
ここから20年後の同じ年頃の少女を追った –これはドキュメンタリーではないけど - ”Eighth Grade” (2018) – 祝日本公開! – と比べてみてほしい。 変わっていくもの変わらないもの。
音楽は、これもrawでlowなLiz Phair の“Batmobile"が流れてくる。
https://bust.com/arts/9459-this-dirty-girls-short-film-will-make-your-day.html
In Search of Margo-Go (1994 / 2015)
1994年にJill ReiterさんがKathleen Hannaさんと一緒に撮って未完のままとなっていた伝説のバンド物語が2015年にいきなり完成して披露されたもの。この上映会のビジュアル(インスタにあげた)で、志村けんみたいな白塗りでバカな顔をしているのがKathleen Hannaさんなの。65分。予告はこんなかんじ。
https://www.youtube.com/watch?v=qoZVj9I90F8
80年代初のダンステリアとかできんきんのNew WaveバンドをやっていたJill Reiter & Kathleen Hannaのふたりがその時代に閉じ込められたまま抜け出せなくて、実写とアニメ(テクノでハイパーでニューロマでなかなか恥ずかしい)の組み合わさったパラレルワールド(←80’s)でバンド(名前はThe Invertsとか Zippers in the PantsとかSlut Punchとか)を転がしてどつきあったりしながら人生を模索していくの。
タイトルは彼女たちのヒーローだったThe Go-Go’sの初代ベーシストのMargot Olavarriaさんから来ている、と。
音楽担当のLK Napolitanoってだれだろ?
Bikini KillとLe Tigreの間のミッシングリンクはこれだったのかも、って。
Don't Need You (2005)
Riot Grrrlとは果たして何だったのか – 何なのか(終わってないからさ)をめぐる音楽ドキュメンタリー。すごくおもしろかった。
90年代初のDCのハードコアシーンが余りにムキで野蛮な男の世界で染められていたことにあきれて怒ったOlympiaの女性たちが自分たちで始めたバンドとかZineとか – Bikini Killもだし、BratmobileもHeavens to Betsyも、あれこれ。なぜ彼女たちは立ちあがらねばならなかったのか?
これまで見てきたパンクのドキュメンタリーには必ずあった弾けるやんちゃなガキのイメージは一切なく、女性たちの静かでクールな怒りに満ちている – “Don’t Need You” – あんたなんかいらない。
男性側からはジャーナリストのMark AndersenとIan MacKaye氏が真面目かつ神妙にコメント。Fugaziの91年のライブ - “Suggestion”をやる映像も少し。
あと、Heavens to Betsyの初ライブ(?)の映像 – まだ子供顔のCorin TuckerさんはすでにSleater-Kinneyしていてかっこいい。初期のチラシにはRebecca Gatesさんの名前も見えたり。レーベルとしては、やはりK RecordsとKill Rock Starsが大きかったんだな。
ラスト、Bikini Killのライブでの”Rebel Girl” - こないだのライブとおんなじ強さで、怒りはちっとも解かれていないんだよ、って。
BFIではどういうタイミングか知らないが、“Woman with a Movie Camera”ていう括りで女性監督による女性映画を上映することがあって、そこで、Riot Grrrlに関連した中短編3本が上映された。
Dirty Girls (1996)
サンタモニカの学校の8th grade(13歳)のAmandaとHarperはずっとシャワー浴びないずっとおなじ服来たままの姉妹で、同級生とかからは汚いとか後ろ指さされたりバカにされたりしているのだが、彼女たちは自分たちの断固たる考えがあってやっているので So What? で、やがて彼女達の言葉や彼女たちがZineで明らかにしたメッセージ – これに対しても散々なdisが寄せられる - を卒業生のMichael Lucidがカメラに収めたドキュメンタリー。
映像も構成もとってもrawなのだが、彼女たちが特におかしいとは思えないの。
ここから20年後の同じ年頃の少女を追った –これはドキュメンタリーではないけど - ”Eighth Grade” (2018) – 祝日本公開! – と比べてみてほしい。 変わっていくもの変わらないもの。
音楽は、これもrawでlowなLiz Phair の“Batmobile"が流れてくる。
https://bust.com/arts/9459-this-dirty-girls-short-film-will-make-your-day.html
In Search of Margo-Go (1994 / 2015)
1994年にJill ReiterさんがKathleen Hannaさんと一緒に撮って未完のままとなっていた伝説のバンド物語が2015年にいきなり完成して披露されたもの。この上映会のビジュアル(インスタにあげた)で、志村けんみたいな白塗りでバカな顔をしているのがKathleen Hannaさんなの。65分。予告はこんなかんじ。
https://www.youtube.com/watch?v=qoZVj9I90F8
80年代初のダンステリアとかできんきんのNew WaveバンドをやっていたJill Reiter & Kathleen Hannaのふたりがその時代に閉じ込められたまま抜け出せなくて、実写とアニメ(テクノでハイパーでニューロマでなかなか恥ずかしい)の組み合わさったパラレルワールド(←80’s)でバンド(名前はThe Invertsとか Zippers in the PantsとかSlut Punchとか)を転がしてどつきあったりしながら人生を模索していくの。
タイトルは彼女たちのヒーローだったThe Go-Go’sの初代ベーシストのMargot Olavarriaさんから来ている、と。
音楽担当のLK Napolitanoってだれだろ?
Bikini KillとLe Tigreの間のミッシングリンクはこれだったのかも、って。
Don't Need You (2005)
Riot Grrrlとは果たして何だったのか – 何なのか(終わってないからさ)をめぐる音楽ドキュメンタリー。すごくおもしろかった。
90年代初のDCのハードコアシーンが余りにムキで野蛮な男の世界で染められていたことにあきれて怒ったOlympiaの女性たちが自分たちで始めたバンドとかZineとか – Bikini Killもだし、BratmobileもHeavens to Betsyも、あれこれ。なぜ彼女たちは立ちあがらねばならなかったのか?
これまで見てきたパンクのドキュメンタリーには必ずあった弾けるやんちゃなガキのイメージは一切なく、女性たちの静かでクールな怒りに満ちている – “Don’t Need You” – あんたなんかいらない。
男性側からはジャーナリストのMark AndersenとIan MacKaye氏が真面目かつ神妙にコメント。Fugaziの91年のライブ - “Suggestion”をやる映像も少し。
あと、Heavens to Betsyの初ライブ(?)の映像 – まだ子供顔のCorin TuckerさんはすでにSleater-Kinneyしていてかっこいい。初期のチラシにはRebecca Gatesさんの名前も見えたり。レーベルとしては、やはりK RecordsとKill Rock Starsが大きかったんだな。
ラスト、Bikini Killのライブでの”Rebel Girl” - こないだのライブとおんなじ強さで、怒りはちっとも解かれていないんだよ、って。
[film] Varda par Agnès (2019)
7月20日、土曜日の晩、BFIで見ました。
この作品を今年の2月、ベルリン国際映画祭で披露した1カ月後にAgnès Vardaは旅立ってしまったので、これが彼女の遺作で、BFIではこれの予告がずっと(今もたまに)流れていてちょっと辛かったのだが、見ればああ見てよかった、ありがとうAgnès、ってとてもあったかくなる。
昨年秋、”Visages Villages” (2017) - 『顔たち、ところどころ』のプロモーションでJRと一緒にお喋りしている時はなんてお茶目な、と思ったり、別のアート系短編上映に伴うトークではなんて真面目な、と思ったりしたのだが、この作品を見ているとその見た目通りの柔らかい貌とアポロチョコ頭がふんわか浮かんでくる。
どこかのオペラハウスに集まった客たちに向かって自身の作品やなぜ、どうしてそれを撮ったのか、なにが肝心なのか、等を喋っていくところが中心で、それは我々の目の前に彼女がいて対面で説明を聞いているかんじ – わかりやすく、ユーモアと親密さに溢れていて、時間が経つのを忘れる。彼女はここでこうして自分にとっての映画というもの、更に表現というものを全て語ってしまおうとしていて、それには1時間55分は短すぎるのではないか、って。
大事にしていることは3つ –“inspiration”、“creation”、“sharing”である、と。ところどころこの3つに立ち返り三角ベースをしたりしながら主要作品を彼女自身が説明していく。
こうして“Cléo from 5 to 7” (1962)では時間の経過(映画が捕まえようとする時間と現実のそれとの違い)を、“Vagabond” (1985) - 『冬の旅』では当時17歳だったSandrine Bonnaireさんとの思い出話(水膨れができてしんどかったのに監督は冷たかった)とか移動ショットについて、”La Pointe Courte” (1955)では人が生活する土地について、”Le Bonheur” (1965) - 『幸福』では色彩について。 そして彼女のキャリアの起点としてあった写真(を撮ること)について語り、そこからは後年のドキュメンタリーにも言及していくのだが、写真もフィクションもドキュメンタリーもアートインスタレーションもすべては横並びの次元のこととして – なぜ(撮られる)あなたはそこに、そんなふうにそこにいるの?っていう問いに導かれたGleaners - 落穂ひろいをする野良(決して高みにはいない)としての洞察と、それを撒いて散らしてshareしようとする、やさしさに溢れた目線と共にある。
これってやはり従来のイメージにある映画作家とは違って、どちらかというと拾って育てる活動家としてのそれで、だからなんだ? なのかもだけど、今の世の中に必要なのは彼女みたいなひと(いや、みんな必要だけど)なのにな、彼女はもういないんだな、って改めて。
今作の上映にあわせてBFIでは、通路の隅っこに浜辺に向かう彼女の椅子(”Varda”って書いてある)とそれに座ってその向こうの海も一緒に撮影できるスペースがあるの。 カモメがナマじゃないのが残念だけど。
Daguerréotypes (1976)
7月27日、土曜日の晩、BFI で見ました。邦題は『ダゲール街の人々』。
“Varda par Agnès”の公開にあわせて、彼女の作品いくつかがプチリバイバルされていて、そのなかの1本(他に上映されるのは”Cléo from 5 to 7”と”Vagabond”)。
70年代に彼女が住んでいたパリのRue Daguerre – なんてことのない一本道の商店街なのだが、そこで暮すいろんな人々の日々を追ったもの。タイトルは写真のダゲレオタイプとダゲール街をひっかけているのだろうが、なんか洒落にならないはまりっぷりにびっくりする(映画をみればわかる)。
後のほうに出てくる流しの手品芸人がバナナ売りの口上みたいに映画のスタッフの名を連呼して(William Lubtchanskyの名前とか)、気づけばどこかのウィンドウに全員映り込んでいる、というのが冒頭。
香水&雑貨屋、パン屋、肉屋、美容院、金物屋、などなどの開店からそこにやってくるいろんな客とのいろんなやりとり、店が閉まって帰って、昭和の子ならとってもわかる商店街のそれぞれのお店にいたおじちゃんおばちゃんたちの顔と物腰、彼ら自身の言葉で語られる彼らの歴史。
特にウィンドウの並びを15年くらい変えていない香水屋の老夫婦の素敵なことったらない。 そこでいつも買うというAgnèsの娘さんがプレゼント用に、ってジャスミン水を買うやりとりなんてなんだこれ、って陶然とする。昔はこんなふうに店に来ると世間話してゆっくり会計して、後から来た客もそれをゆったり待っていた。 なんで、いつからみんなそんなに待てなくなっちゃったんだろう?
Frederick Wisemanのドキュメンタリーとなにが違うのか、とか。 彼の映画に出てくるのもふつうの市民たちで、でも特定の活動に従事していることが多くて、あ、こないだの”Monrovia, Indiana” (2018)は土地の話だ、でもやはり、Monroviaの人たちが自分の動きや喋りで自分のことを明らかにしていくのに対して、ダゲール街の彼らはそこにいるだけで、ダゲレオタイプの写真のように全てを語ってしまう、というか。Wisemanの映画の人たちにはがんばって、って思うけど、この作品の人たちにはそこにいて、死なないで、って強く思う。
もうこの頃には戻れないのかな。どうしようもないのかな、って。
こんどパリに行ったら、Rue Daguerre、行ってみよう。
この作品を今年の2月、ベルリン国際映画祭で披露した1カ月後にAgnès Vardaは旅立ってしまったので、これが彼女の遺作で、BFIではこれの予告がずっと(今もたまに)流れていてちょっと辛かったのだが、見ればああ見てよかった、ありがとうAgnès、ってとてもあったかくなる。
昨年秋、”Visages Villages” (2017) - 『顔たち、ところどころ』のプロモーションでJRと一緒にお喋りしている時はなんてお茶目な、と思ったり、別のアート系短編上映に伴うトークではなんて真面目な、と思ったりしたのだが、この作品を見ているとその見た目通りの柔らかい貌とアポロチョコ頭がふんわか浮かんでくる。
どこかのオペラハウスに集まった客たちに向かって自身の作品やなぜ、どうしてそれを撮ったのか、なにが肝心なのか、等を喋っていくところが中心で、それは我々の目の前に彼女がいて対面で説明を聞いているかんじ – わかりやすく、ユーモアと親密さに溢れていて、時間が経つのを忘れる。彼女はここでこうして自分にとっての映画というもの、更に表現というものを全て語ってしまおうとしていて、それには1時間55分は短すぎるのではないか、って。
大事にしていることは3つ –“inspiration”、“creation”、“sharing”である、と。ところどころこの3つに立ち返り三角ベースをしたりしながら主要作品を彼女自身が説明していく。
こうして“Cléo from 5 to 7” (1962)では時間の経過(映画が捕まえようとする時間と現実のそれとの違い)を、“Vagabond” (1985) - 『冬の旅』では当時17歳だったSandrine Bonnaireさんとの思い出話(水膨れができてしんどかったのに監督は冷たかった)とか移動ショットについて、”La Pointe Courte” (1955)では人が生活する土地について、”Le Bonheur” (1965) - 『幸福』では色彩について。 そして彼女のキャリアの起点としてあった写真(を撮ること)について語り、そこからは後年のドキュメンタリーにも言及していくのだが、写真もフィクションもドキュメンタリーもアートインスタレーションもすべては横並びの次元のこととして – なぜ(撮られる)あなたはそこに、そんなふうにそこにいるの?っていう問いに導かれたGleaners - 落穂ひろいをする野良(決して高みにはいない)としての洞察と、それを撒いて散らしてshareしようとする、やさしさに溢れた目線と共にある。
これってやはり従来のイメージにある映画作家とは違って、どちらかというと拾って育てる活動家としてのそれで、だからなんだ? なのかもだけど、今の世の中に必要なのは彼女みたいなひと(いや、みんな必要だけど)なのにな、彼女はもういないんだな、って改めて。
今作の上映にあわせてBFIでは、通路の隅っこに浜辺に向かう彼女の椅子(”Varda”って書いてある)とそれに座ってその向こうの海も一緒に撮影できるスペースがあるの。 カモメがナマじゃないのが残念だけど。
Daguerréotypes (1976)
7月27日、土曜日の晩、BFI で見ました。邦題は『ダゲール街の人々』。
“Varda par Agnès”の公開にあわせて、彼女の作品いくつかがプチリバイバルされていて、そのなかの1本(他に上映されるのは”Cléo from 5 to 7”と”Vagabond”)。
70年代に彼女が住んでいたパリのRue Daguerre – なんてことのない一本道の商店街なのだが、そこで暮すいろんな人々の日々を追ったもの。タイトルは写真のダゲレオタイプとダゲール街をひっかけているのだろうが、なんか洒落にならないはまりっぷりにびっくりする(映画をみればわかる)。
後のほうに出てくる流しの手品芸人がバナナ売りの口上みたいに映画のスタッフの名を連呼して(William Lubtchanskyの名前とか)、気づけばどこかのウィンドウに全員映り込んでいる、というのが冒頭。
香水&雑貨屋、パン屋、肉屋、美容院、金物屋、などなどの開店からそこにやってくるいろんな客とのいろんなやりとり、店が閉まって帰って、昭和の子ならとってもわかる商店街のそれぞれのお店にいたおじちゃんおばちゃんたちの顔と物腰、彼ら自身の言葉で語られる彼らの歴史。
特にウィンドウの並びを15年くらい変えていない香水屋の老夫婦の素敵なことったらない。 そこでいつも買うというAgnèsの娘さんがプレゼント用に、ってジャスミン水を買うやりとりなんてなんだこれ、って陶然とする。昔はこんなふうに店に来ると世間話してゆっくり会計して、後から来た客もそれをゆったり待っていた。 なんで、いつからみんなそんなに待てなくなっちゃったんだろう?
Frederick Wisemanのドキュメンタリーとなにが違うのか、とか。 彼の映画に出てくるのもふつうの市民たちで、でも特定の活動に従事していることが多くて、あ、こないだの”Monrovia, Indiana” (2018)は土地の話だ、でもやはり、Monroviaの人たちが自分の動きや喋りで自分のことを明らかにしていくのに対して、ダゲール街の彼らはそこにいるだけで、ダゲレオタイプの写真のように全てを語ってしまう、というか。Wisemanの映画の人たちにはがんばって、って思うけど、この作品の人たちにはそこにいて、死なないで、って強く思う。
もうこの頃には戻れないのかな。どうしようもないのかな、って。
こんどパリに行ったら、Rue Daguerre、行ってみよう。
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