2.28.2018

[film] Fårö Dokument (1969)

雪と氷の世界は昨日よりさらにひどくなった。日中ずっと降ったり晴れたりを繰り返してる。

18日、日曜日の夕方、BFIのベルイマン特集で見ました。
タイトル通り、ベルイマンがしばしば彼の映画・ドラマの舞台として取りあげ、自身の住処としていたFårö島の人々や風物をドキュメンタリーとして撮ったもの。 TV放映用だったらしい。

この島には、2016年のノーザンライツフェスで上映された『グッバイ!ベルイマン』でいろんな映画作家が訪れて(主に彼の家を)紹介していたし、その前には2013年のトークでNoah Baumbach & Greta Gerwigのふたりが訪れて泣きそうなくらい素敵、と語っていた場所だし、自分の脳内地図のなかのいつか行くから待ってろリストには何度も入っている。

撮影は初期のベルイマン映画のカメラをずっとやってきたSven Nykvistさんで、村人のインタビューシーンはモノクロ、風景は場所によってカラーで、構図の揺るがぬ落ちつきっぷりはベルイマンのフィクションのそれと変わらない。 スチール写真だけを見たら区別つかないのではないか。

インタビューは何人かの老人にいつから、なんでここに、なにをして暮らしているの? とか、子供を含む若い人々には将来はこの島を出たいか残りたいか? とか。気候も厳しいし人口も減ってきているので生活の便もあんまりだし、人が死ぬまでずっと暮らすのに最適とは思えないこの島の、それでもなんかありそうな魅力 - 魅力とは死んでもいわないけど - に神のような目でじーっと寄っていく。

唐突にはじまる羊の屠殺のシーンが結構生々しくて、首を切ってバケツに血を抜いて、溜まったバケツのそれをからからかき混ぜつつ、皮をじょりじょり剥いで内臓を出して、魚を捌くののややでっかい版、と思えばいいのだろうが、それがなにか? みたいな撮り方にちょっとびっくりした。べつに隠すものではないし、ちゃんと見たほうがいいよね、なのだが。
あとは地味にきつそうな農作業はもちろん、いろいろ楽ではなさそう。

でもこうやって生活していくことが楽だろうがきつかろうが、人はひとりで、どこかには家族もいて、ひとつの場所で生きて死ぬのだよね、例えばここの、こんなふうに。という目線は彼の撮るドラマの世界からそのまま繋がっている気がした。 いや、彼にはこの島があったから、あのドラマの世界に入っていくことができたのではないか、と。


Fårö Dokument 1979 (1979)

18日の晩、上の”Fårö Dokument”に続けて、そのまま見ました。
カメラは前作のSven NykvistさんからArne Carlssonさんに変わって、映像のトーンもカラーの比率が多くなり、やや暖かいかんじになっている。

タイトル通り、前作から10年後、あの島のあの村の佇まい、あそこに映っていた村人たちは10年後にどうなっているのか。 10代だった子供たちは大人になっているし、大人は老いているし、撮影中に亡くなってしまう老人もいる。 10年て、そういう時間なんだなー って。

羊を抱きあげるとこが出てきたのでまた屠殺か、と身構えたらただの毛刈りだった。
もうさすがにないよね、と思ったら今度はでっかい豚さんがぶいぶい出てきて、いきなり始まる。これまで食肉のドキュメンタリーで機械化されたその「工程」は見たことがあったが、これはどこまでも手作業で、額をごん、て突いて首を切って血を抜いて、皮の毛をじょりじょり剃って、脚を切って剥いて、縦に吊るしてお腹を割いてむきむきの内臓を出して、それをでっかい猫が狙って… むかし読んだ『大きな森の小さな家』で冬支度に豚をベーコンとかソーセージにするとこがあったが、それはこんなふうだったのだな、って。
(豚のしっぽの焼いたのは、いまだに食べてみたい..)

あと、おじさんがひとりで鰯から鰊だかをフライパンで焼いて食べるとこ。 猫の気分になって涎が。

最後に、次が撮られるのは89年になる、と予告されるのだが、それが撮られることはないのだった。
あの老人たちはもういないのだろうな、と、これは昔のドキュメンタリーを見るといつも思うことなのだが、この映画の老人たちについては、ベルイマンの映画における運命、のようなのが少しだけその影に見える気がした。

2月がいってしまうねえ。ほぼなんもしなかったねえー。

[film] Me Without You (2001)

バカみたいに忙しいしありえないくらいに寒くて凍えるし、用事で外にでれば雪吹雪で遭難しそうになって、帰り道は凍っててすっ転ぶし。なんなのロンドン..

17日土曜日の夕方、BFIで見ました。
夏頃からStephen King – Thriler - Bergmanとおっかない冷たい暗いのが続いていたここの特集上映であるが、2 - 3月に行われる”Girlfriends”っていう、その名の通り女の子同士の映画特集になって、ようやく春がきたかなー、っていうかんじ。まだぜんぜん寒いけど。

このページにある特集の予告だけでも見てみて。

https://whatson.bfi.org.uk/Online/default.asp?BOparam::WScontent::loadArticle::permalink=girlfriends2018

最近のだけじゃなくてサイレントの時代のコメディから取りあげていて、更に本編上映の前には同様に女の子たちをテーマにした短編(これも古いのから新しいのまで)を流してくれて、このテーマの幅の広さと普遍性を教えてくれる。

1973年、英国のBrightonのあたり、Holly (Michelle Williams) とMarina (Anna Friel)のふたりがまだ洟たれのガキだった頃からはじまって、Jewishで割と堅めのおうちの黒髪のHollyとママも兄も割と自由奔放でだらだらしがちな金髪のMarinaの70年代、80年代から01年まで、5つの時代で切って追っかけていく。運命がふたりを… とか奇跡がふたりを… とかそんなしゃらくせえのなしで、ただどこにでもありそうな、だれにでもあったかもしれないその時代時代のふたりの生きっぷり - “There's no me without you!” - 萎みっぷり騒ぎっぷりの栄枯盛衰を描いていくだけで、でもものすごくおもしろくて、音楽とかファッションとかたまんないの。

78年はパンクが吹き荒れる英国だし、生意気盛りの高校生くらいなので、ふたりでいろんなのを吸っては飲んでゲロして意識失って誰それとくっついたり離れたり床で寝たり、それで後悔して泣いて抱き合って、が延々続く。いいかげん飽きれば、とか思うけど動物なので学ばないし飽きないし、そんな時代。The Only Onesの”Another Girl Another Planet”が流れるだけでなにもかも許す。

次の章、海沿いにEcho& the Bunnymenの”The Cutter”が荘厳に鳴り響いて始まる82年(鳥肌。 ちょっと残念なのは”Porcupine”て83年なのよ。べつにいいけど。)にふたりは大学生で、大学でポスト構造主義だか記号論だかの講師をしている - 黒板にBaudrillardとかKristevaの名前が見える - Kyle MacLachlanをふたりで(互いに知らずに)取りあい、どんちゃん騒ぎしては落ちこんで喧嘩して、を繰り返す。そして、こういった繰り返してばかり、についてもうんざりして絶望する。
ここはねえ、二人がどうっていうのもあるけど、あれよ、『東京ガールズブラボー』で主人公が東京に憧れるあれ、と同じかそれ以上に強く憧れていたあの時代の英国、がぜんぶ並んで畳みかけてくるので溜息しか出てこない。あーもう一回生まれなおしたい、とか。あんな黒い服着てあんな人たちが蠢くフロアであんなふうに鳴る” Kings of the Wild Frontier”とか” Nag Nag Nag”とか”Just Can't Get Enough”、聴いて踊りたかったなー。

その次は追憶の89年で、更にどっちもどっちでぐだぐだになって誰にどうすることもできないのであるが、82年 → 89年ていう切り取りかたはおみごととしか言いようがない。 ここ、90年代に入るとちょっと違ってきちゃうからこうしたのだとしか思えないわ。

というようなふたりそれぞれにくっきりと現れる恋愛のありよう、その変遷を追う、ていうのもあるけど、単にふたりのファッションがほんとにたまんなくよくて、それを纏ったふたりがきーきー泣いたり叫んだりしているだけで、もうさいこう、になるの。

Romy and Michele's High School Reunion (1997)

同じ17日の晩、”Me Without You”に続けて見た。これもBFIの”Girlfriends”の特集。
この作品、13日(Valentine’sの前日)の晩に”Galentine’s Day Special”ていうイベントがあって、そこで上映後に関係者のSkype Q&Aと、その後に別部屋でProm Partyていうのがあったのだが、ちょっとこわそうだったのでやめた。

ストーリーはいいよね。 こんなのクラシック認定きまってるし。

ユタの高校を卒業して10年、LAでRomy (Mira Sorvino)は窓口事務して、Michele (Lisa Kudrow) はぷーで、一緒に暮らしながら未だにバカなことを夢みてぶいぶいしていて、そんなある日、高校の同窓会があることを知るのだが、でも行くんだったら成功しているとこ見せて見返してやりたいよね、ってめちゃくちゃかっこつけてストーリーも考えていくのだが、端からぼろぼろ裏目にでて全滅で、でもからからちっともへこたれなくて最高なのよ。

この作品、どこを切っても名台詞だらけなのだが、やっぱし、“We have come all this way, now we are going to enjoy ourselves whether you like it or not!” よね。

ふたり+ Alan Cummingが “Time After Time” に合わせて踊るシーンのコレオグラフィ、すばらしいよね。
80年代の終わりにぶいぶいだった子達が90年代の終わりにはこんなふうになった、という角度から見ることもできて、その辺の盛衰を的確に物語るのがNo Doubtの”Just a Girl” だったりするのかしらん、とか。

2.23.2018

[film] Black Panther (2018)

15日の晩、VictoriaのCurzonで見ました。 2Dで。英国でもすごい人気だねえ。

昔々のアフリカに隕石が落ちて、そこに含まれていた金属の驚異の効能がとっても無敵のBlack Pantherと強い軍隊と技術革新で抜きんでたWakandaの国を生んで、ずっと続いていたTribe間の抗争を終結させましたとさ。  そこから92年のカリフォルニアに移って、Wakandaの金属で闇取引をしていた男を囮捜査で始末したのが T'Challa - この映画のBlack Panther (Chadwick Boseman) - のパパで、そこから更に現代の、“Captain America: Civil War” (2016) で描かれたテロでパパの国王が亡くなった時に飛んで、T'Challa = Black Pantherが新たなKingとして即位して、でもその金属を巡る闇の抗争は続いていて、新たな王様の元にも25年前の火種が降りかかってきて、隣国も含めて国をひっくり返す大騒ぎになるの。

これだけであれば別にMarvelのスーパーヒーローものでなくても、現代の文脈でも(シェイクスピアまで言うか)通用するものであって、その汎用性 - これは「我々」の物語である - が高い評価を得ていることはわかる。母なる大地、Homeであるアフリカ、そこから弾かれて生き残ってきた者たちの強い思いは敵であろうが味方であろうが変わらない、そういう者共がそれでもなお権力を、更なるパワーを志向するのだとしたら、それはどんな形でありうるのかを若い王の成長の物語として描く。

全体の枠組みは夢の国へようこそ、の目くるめくアクション・ムービーでありながら、辺境、権力、部族、多様性、継承、存続、共存といったエッセンスを巧みに散りばめて、これは遥か彼方にあるアフリカの、夢の国の話じゃない、これから書かれるべき我々のHomeの物語なのだ、という。

“Civil War”で顕在化した例えば、ヒーローとは何なのか? 技術とパワーがあって強ければいいのか? あれだけの市民を犠牲にしても?  自分の親のことだと怒り狂うくせに? といった素朴な、でも肝心の問いのいくつかはそのまま引き継がれて、たぶん次のAvengersで(..これまでもそうだったけど..)ぜんぶ地球外脅威のせいにして団結しなきゃ、ってお茶を濁す。

それはそれでいいし、それがこの作品を貶めているとは全く思わないのだが、ここまで風呂敷を広げたのであれば、なんで人は権力を志向するのか、王を必要とするのか、トライブだのネイションだのを作ってしまうのか、といったところまで掘り下げてほしかった - 昔からそうだったから、他もそうだから、ではなく、ひとはなんでへなへなと無力のまま仲良く日向ぼっこしていられないのだろう? ていうのはこういう力こぶ満載圧倒的なあげあげのを見るといつも思ってしまう。  猫にマタタビ撒いてやれ。

一部のヒップホップに乗り切れないのはこの辺が引っかかってしまうからかしら、とか。

なので韓国の酒場でのどんぱちが一番おもしろかったかも。

唯一白人で出てくるMartin Freemanがほんとうにどうでもいい白い存在なのもおかしかった。
元飛行機乗りのCIAにぜんぜん見えないというー

黒ヒョウがいて、ゴリラがいて、でっかいサイが出てきて、でもライオンがいないのはディズニーのあれのせい?

あしたからの週末、一泊でベルリン行ってきます。 ベルリンはじめて。
終わりそうなベルリン映画祭ではなくて、Ingrid CavenとHelmut Bergerの舞台をみにー。

[film] Fucking Åmål (1998)

14日のValentine’s Dayの晩、映画見るくらいしかすることがなくて、でもへろへろだったので1本だけ見て帰った。

BFIではこの日、Valentine’ Day Screeningのプログラムをやっていて、これの他には”Casablanca”とか”Moulin Rouge”とか”The Way He Looks” (2014)とか”Waiting Women” (1952)とか。”Waiting Women” はベルイマンので、Valentine’s Dayにまで見たいかしら? って。 プログラム構成はNYのBAMとかMetrographのと比べるとまじめで王道だよねえ。

見ることにしたこれはスウェーデンのLukas Moodysson  - “Together” (2000) -『エヴァとステファンとすてきな家族』とか”We Are the Best!” (2013) - の長編デビュー作。英語題は”Show Me Love”。 16mmのオリジナルをデジタルリマスターした版。 すんばらしくよかった。

Åmålていうのはスゥエーデンの小さな町の名前で、主人公のAgnes (Rebecka Liljeberg)とElin (Alexandra Dahlström)とかがあーつまんねえって言いながら悶々と暮らしていて、おとなしいAgnesはいつも自分の部屋に籠ってPCとかカタカタしているので両親も少し心配していて、Elinは姉のJessicaとつるんで校内の人気者で遊び番長で、AgnesはPCに「Elinのことが好き」 とか打って溜息ついている。Elinたちは慢性的にパーティ行きてえーずっと遊んでいたいー ってぶうたれてて、でもレイヴ(ってあったねえむかし)はよくないとか言われたので、からかい半分で全然人の集まっていないAgnesの家のパーティに行ってみる。

こうしてElinたちは遊び半分でAgnesの部屋に入ってPCの書き込みを見ちゃって、それを知ったAgnesはもうぜんぶ終わりだって絶望して、最後のやけくそでElinにキスして、そしたらElinはへんなかんじになっていって、なんかおもしろい方に転がっていく。Angesはレズビアンだって学校に広まって家族にも知れて、彼女はどんどん落ちこんで手首まで切ってしまう。他方でElinは彼女のことが気になるぼんくら体育男子とJessicaにせかされたこともあって付きあうようになって寝ちゃったりもするのだが、なんかしっくりこなくて、互いの、それぞれのもやもやが共振を始めて、だんだんにそれがでっかくなっていく。 

そういう自分でも整理つかない、持っていきようがないエモの捨て場にぶーってやるのが、”Fucking Åmål“ てこと。 ここがStockholmだったら、ちがったかもなのにさ。

若者らしいポジティブな思い切りとかやけくそな疾走とか親や友達と喧嘩してブチ切れとかの定石はあんまなくて、終始うかない顔と態度で斜め下を見てうだうだしてて、この感覚はこないだの”We Are the Best!”にもあったものだが、それがある出会いというか摩擦をきっかけにふたつのうだうだがリズムを刻むようになって、少し首を振ったりするようになって、こわごわ顔を見合わせると、やったれ、になる。この呼吸がなんとも言えず素敵で、特に夜中に橋の上でこわごわヒッチハイクをしようとするところとか、トイレの中で腹を括るところとか、ほんの1mくらいの動きなのに世界の色ががらりと変わっていく。この映画は、そんなふたりの女の子の至近距離の出会いにすべてを賭けていて、それだけでじゅうぶん、息を呑むすばらしさがある。

今だとLGBTの枠で軽く括られちゃうのかもしれないが、そんな必要まったくない輝きに溢れていて、このふたりに拍手できないひとは単にかわいそうな奴、でゴミ箱行きでいい。
ラストにRobynの”Show Me Love”が流れて、あーValentine’sにとってもいいわ、って思った。

2.21.2018

[film] Skammen (1968)

13日の火曜日の晩、BFIのベルイマン特集で見ました。英語題は”Shame”。

町から少し離れた畑のなかの一軒家にEva (Liv Ullmann)とJan (Max von Sydow)の夫婦が住んでいて、ふたりとも元オーケストラでヴァイオリンを弾いていたのだが今は自分らで育てた果物とかを売りに出て暮らしていて、Evaは子供を作りたいとか言うのだがJanは戦争も来そうだしいろいろ不安で乗り気じゃなくて、少しだけ不協和しているかんじ(でもそこらにあるごく普通の)。いつものように町に果物を配達に出て酒屋とかに寄るとそこの主人に暗い顔で戦争になりそうだ、と言われる。 ふたりの家ではラジオも電話も切れていてそんな情報は来なかったと。

で、彼らが家に戻るといきなりふたつの軍勢(どっちがどっちなのか、それぞれどう違うのかは一切解らず)が衝突して撃ちまくり放火しまくりの戦争が始まって(ルースターズのC.M.C.か..)、大慌てで町の方に逃げるのだが商店に入ったところで一網打尽で捕まって、ひどい扱いされて尋問されて、やがて善玉なのか悪玉なのかわからない将校が寄ってきてEvaとJanそれぞれ別々に駆け引きを持ちかけ、そういうのがふたりの関係を壊して、糸が切れた凧のようになって互いになにをどうすることもできなくてどうしようもない。(それが戦争というもの)

“Silence” (1963)でも壊れかけた姉妹の関係を象徴するのだか混乱させるのだか街中に唐突に戦車が現れる場面があったが、ここでの戦争もそれまで続いていた関係を孤絶させたり壊したりする – 町や村を焼きつくし人を殺す以上に、まずはそういう装置、有無を言わさない冷酷な機械のような強さでもってどこかからやってくるもので、その理不尽さや唐突さを酷い、ということは簡単なのだが、そこから戦争ってよくないよね、という方に向かうのではなく、ここには戦争だけではない別の何かとか力が働いているのではないか、あるいはこれって戦争じゃなくても起こりうる何かの兆しなのではないか、という問いが浮かんできて、更にそこにいつもの、神さまあなたは結局、やっぱしなんもしれくれないよね、なんなの? という問いをぶつけてみることにあんま違和感はないの。

もういっこは夢、ということ。Evaの台詞のなかに、全ては夢のなかのことのように見える、それは自分の夢というよりも誰か他の人の夢で、でもそこに参加しないわけにはいかなくて、というのがあって(先日BFIでBergmanの映画における女性、というテーマのトークがあって、そこでもこの台詞は取りあげられていた)、そういう感覚の延長にあるかのような、ひたすら不快なだけでリアリティを欠いた戦争の描写。

すべてが神さまのいない/神さまがなにもしないところ、他人の夢のなかで起こるようなことなのだ、とした時、そこにこの「恥」というタイトルはどんなふうに効いてくるのか。そういう状態を作り出している連中(神さま、映画作家?)にあるのか、そういう状態を受け容れてしまっている主人公とかこちら側にあるのか、あるいはそういうのぜんぶ、既に生きてるだけで恥まみれ、みたいな状態になっているということなのか。

難しいことをわかり易く言うでも、わかり易いことを難しく言うでもなく、ただただ即物的な会話や風景のようにこれらが転がっている、カフカ的な迷宮とは別のパスで(..ベケット?)、でもこれらは不条理とかで片付けられるのとは違って、すぐそこに、目の前にあって、というようなことを考え始めると止まらなくなって、ベルイマンの沼にはまるというのはこういうことなのかも、というのがようやく見えてきた気が。

2.20.2018

[film] A Touch of Love (1969)

11日、日曜日の晩、BFIで見ました。 邦題は『愛のふれあい』...

BFIで映画監督Waris Husseinの回顧上映シリーズが始まって、よく知らないので見てみることにした。それまでTVで活動していた監督の映画第一作で、この後に『小さな恋のメロディ』を撮るのね。 上映後にやはりこれが映画デビューとなったIan McKellenと監督のトーク付き。
原作はMargaret Drabbleの”The Millstone” (1965) - 邦題は『碾臼』。これを彼女自身が映画用に脚色している。

博士号を取るために大英博物館の図書室で勉強をしているRosamund Stacey (Sandy Dennis)が独り暮らしをしているらしいロンドンのアパートに戻ってきて、酒をぐびぐび飲んでお風呂にお湯をためて、どうも自殺をしようとしているらしいのだが友達一同が入ってきてその試みは失敗して、いつもの恋バナとか結婚するだのしないだのになったりするのだが彼女は乗ってこなくてなんかどんよりしている。

回想のなか、どこかのパーティで新進ニュースキャスターのGeorge Matthews (Ian McKellen)と出会った彼女は帰り際に彼と寝ちゃって、しばらくすると妊娠していることがわかって、それがどんよりの原因だったことがわかるのだが、やがて彼女はひとりで産むことを決意する。

そこから映画のトーンは少し変わって、彼女が勉強の傍らひとりで病院に行って子供を産んで、産まれてからも赤ん坊が怪我したりで病院に通い、でも英国の病院のがちがちに融通が利かない不便さにぶちきれたりごたごたするのだが、どうにかなんとかなったり。

最後、キャスターとして十分有名になっているGeorgeと偶然再会したRosamundは赤ん坊を見てほしい、と言っておうちに来て見てもらうのだが、結局彼には言い出せないままで終わるの。

全体としてあんま明るいお話しではないのだが、Rosamundの張りつめた惑い顔と絶叫と踏んばりがすばらしくて、最後は吹っきれたようだし、よかったねえ、な感じは残るからよいの。

上映後の監督とIan McKellenのトーク。デビュー作を見直してみてどうでしたか? との問いにIanさん「NHS - National Health Service - 国民保健サービス – はなんとかならんもんかのう…」って。
(NHSっていろんな不足からサービス劣化が深刻化しているのが頻繁にニュースになっているので、全員爆笑)

監督のWaris HusseinもIanもこの作品、同じタイミングでTVの世界から映画の世界に入ったというのと、どちらもケンブリッジ出身ということで終始寛いで和やかな雰囲気で、更に原作のMargaret Drabble もケンブリッジで、これって確か彼女自身の経験から来たんじゃなかったっけ?とか言っていて、後で調べたら監督は38年生まれ、Ian McKellenもMargaret Drabble も39年生まれなのだった。(Monty Pythonも半分はケンブリッジのほぼこの年代だし、どこかに60年代のケンブリッジ人脈が英国のTV、演劇、映画の世界にどれだけ蔓延って影響力を持っていたかを書いた資料とかない?)

という具合の身内話、昔話みたいのが続いて(おもしろいからぜんぜんよいの)、他には病院のシスター役で出ていたRachel KempsonってVanessaのママだよ、とか言うので誰かと思ったらVanessa Redgraveのママだったり。

それまでやってきたTVと映画の違いはなんだったでしょう? と訊かれて、Ian「映画は撮り直しがきくことかな」 - 監督「でもあなたはだいたい2~3回ですぐ終えていたよね」- Ian「そうだったっけ? Peter Jacksonには29回も撮り直しさせられたぞ。このわしが!」、とか。

主演のRosamund 役のSandy Dennisさんについては、アメリカの俳優さんなので少し心配だったけど全く問題なくてすばらしかった、とふたりとも合意。彼女、JazzのGerry Mulliganと結婚してて(その後別れた)、100匹くらいの猫と暮らす猫おばさんだったんだって。

あと、米国のタイトル“Thank You All Very Much”は、なんでそうなるのかぜんぜんわからなかった、意味不明、って。たしかに…

そうそう、昨年の10月、田舎のChichesterのシアターで上演されたIan McKellen主演の『リア王』、この夏にロンドンで再演するって。あの遠くまで行った苦労はなんだったのよ。 でもすばらしい舞台だったのでもう一回見たいし、見れるひとは見にいったほうがいいよ。

[art] William Blake in Sussex: Visions of Albion 他

1月 〜 2月のアート関係のつづき。

Ilya and Emilia Kabakov:  Not Everyone Will Be Taken Into the Future    @Tate Modern

ひとつひとつの作品の深みと広がりが余りにでっかく、消化するのに時間が必要な気がしたので間を置いて2回見た。ソ連~ロシアという国と、その上に暮らす人々の上に(プロパガンダ、とまでは行かないが)お天気のようにあれこれ降ってくる/吹いてくるいろんなこと、それが日々の作物とか生活にもたらす粒粒をこまこま拾いあげて標本箱に展開し、でもほれ、それがなに?のようなところに落としてなんとも言えない余韻 – ノスタルジア? 未来? うーむ..  の地点に置き去りにする。これってソ連~ロシアていう地域性、その歴史を外したところでどんなふうに成立するのかしないのか、とか。 その流れで、人がみんないなくなった部屋とか風景にどうやって人の影やぬくもりみたいのを浮かびあがらせることができるのか、とか。

最終日に行ったら£25のカタログを£9.95に割引してた。今度から最終日に行って買うことにしよう。

Red Star Over Russia: A revolution in visual culture 1905–55    @Tate Modern

TateのIlya and Emilia Kabakov展示の別の棟でやっているのだが、関連あるよね。
ロシア革命(100年)関連展示では昨年Royal Academy of Artsで見た”Revolution: Russian Art 1917–1932”が質量とも圧倒的にすごくて(British Libraryのは行けず)、これはそれより時間軸を広げてポスターとかの紙モノを中心に展示しているのだが、よくもまあ… なかんじは変わらず、こういうのを国を挙げてやっていたのだからすごいなー、でもそのすごいのでも、当然のようにかっこいいのとださいのといろいろあって、でもぜんたいのかっこいい比率はいまのどっかの国が代理店に頼むださくて気持ち悪いキャンペーンなんかよか、数段上なの(あたりまえか)。

Ocean Liners: Speed and Style   @Victoria & Albert Museum

豪華客船を使って旅行するのが最高の贅沢だった時代、上客を呼びこむために豪華客船を豪華に飾り立てていたいろんな装飾とか調度品とかのゴージャスでかっこいいところをどーんと展示する。アールデコ調のが多い装飾、家具、絵画、食器、鞄、制服に室内着、エンジンの模型から工程からなにから、当時の貴族・お金持ちの生活をそのまま船の上に移植しようとしたらこんなふうになった、と。すげえ.. しかないのだがおもしろい。というか社交って大変だねえ、とか。

Robert Wyattの”Shipbuilding”のシングルのジャケットのあの絵(横に長い)とか、タイタニック号のダイニングのドアの破片とか。 あと、昔のBritish Airwaysの広告で、QE2とコンコルドでNYへ、£995!とか。また見に行きたいかも。

Into the Woods: Trees in Photography @Victoria & Albert Museum

Freeの展示。雲とか木とかの写真が好きなので、ていうだけ。ふつうにAnsel AdamsとかAlfred Stieglitzとかのでっかい木の写真があって、他にAbbas Kiarostamiとかもある。

Opera: Passion, Power and Politics  @Victoria & Albert Museum

V&Aに新しくできた地下のギャラリーで。 ここのBowieとかPink Floydの展示でやった聴きながら見ていく展示をオペラを題材に。オペラの起源から上演・演奏・舞台形態の変遷、イタリア、オペラの大作家、フランス、ロシア、近代まで、国(権力)や貴族のバックアップを受けて(それらと不可分で)発展していったアート形態であり、他方でひとの声というプリミティブな道具を駆使する、その点ではスポーツに近いなにかかも知れないが、オペラにまつわる当時の絵画や資料をどっさり纏めて展示している。絵画だとManetの”Music in the Tuileries Gardens” (1862) があったり、Käthe Kollwitzの肖像まであったり。 最後の部屋は近現代のオペラでRobert Wilsonの” Einstein on the Beach”とかStockhausenとかの抜粋が大スクリーンでがんがんに。いようと思えば貴族の気分で半日だらだらしていられそうな – でもほんもんの貴族はこんなとこに来ないよねたぶん、なのだった。

Andreas Gursky   @ Hayward Gallery

リノベーションが終わって再開されたHayward Galleryの第一弾がこの展示。
だいたいでっかい、圧倒するランドスケープの写真がどかどか並んでいて、でも圧倒されるのって彼の写真そのものというよりは、彼が写し取ろうとした対象の向こうとか奥のほうにあって、それらはなんなのだろうね、って。たぶん、こんなふうにしちゃって.. どうすんのよこれ、みたいな溜息とともに見るこれら(の威圧感みたいなの)って、なんなのだろう。 写真の解像度と映画の4Kとかって根本的になにかちがうよね、とか。 会社のロビーとかに置いてあるとかっこよさそうなやつ、とか。 これでもアートなの、ていう自嘲と共に壁みたいに聳えているのだった。

Charles I: King and Collector @Royal Academy of Arts

英国史とか全く知らないのだが、チャールズ1世っていうのは絵画のコレクターとしてヨーロッパ中から当時のいろんなのを集めまくって、1649年に斬首されたあとに散逸してしまったのだが買い戻した分もあって、それらを一同に集めてみたので見て、ということらしい。

というわけでTitianにRubensに MantegnaにHolbeinにDürerにお抱えのAnthony van Dyck に、国王自ら集めたのだからどれも国宝に決まってんだろ、みたいに乱暴などっしりした節操のなさで西欧絵画のすごいのがどかどか並んでいる。なかでもMantegnaの壁4面を埋めつくすテンペラ画 – “Triumph of Caesar”なんて、今は女王陛下のコレクションらしいがこんなの普段どうやって置いているのかしら?  これらって、良くも悪くも現代の我々がイメージする「西洋絵画」の典型的な寄せ集まり、と言ってよいのではないか、と。 なので知り合いとか連れてきて西洋絵画リトマス試験紙に使うことができるよ。そんな知り合いいないけど。

William Blake in Sussex: Visions of Albion @Petworth House and Park

https://www.nationaltrust.org.uk/petworth-house-and-park/features/william-blake-in-sussex---visions-of-albion-exhibition

17日の土曜日に行ったばかりなのでまだ生々しい。場所はロンドンから南西に電車で1時間ちょっと、1時間に1本のバスで15分程行ったとこにあるのだが、信号故障で途中の駅で降ろされ、振替バスにえんえん乗せられて目的の駅まで行って、更にそこから普通のバスで、軽く1時間以上ロスした。

会場はNational Trustが管理している公園と邸宅で、展示はここの2室、50点程でそんなに多くないのだが、内容はすばらしく充実していた。Blakeがペンとかでこまこま描いていきながら幻視しようとした神とかその国とか天国とか地獄とか。ごちゃごちゃしているようで細部の線を追っていくとその線の流れが渦を抜けて不思議と透明なところに連れていってくれる。この幻視感覚はちょっとびっくりで気持ちよくて、めちゃくちゃちっちゃい文字が書いてあるだけの小さな作品ですら、そうなの。

旅行者が足を延ばすのはちょっと大変そうだけど、ロンドンにいるひとは行ったほうがよいかも。
カタログとMiltonの詩の序文がプリントしてあるティータオル買った。

建物の横の公園というか庭園もとんでもなくでっかくて、ふつうに回ると軽く2時間かかるらしく、池のとこまで行って鳥を眺めてから戻った。 春になってから来たらよいかんじかも。
William Blakeの住んでいたコテージも近所にあるらしいのだが、車がないと無理そうだったので諦めた。 帰りも信号は復旧していなくて振替が面倒で。

地道に続けているちょっと遠めの美術館まで行ってみよう、のシリーズ、次はTate St IvesでやっているVirginia Woolf : An Exhibition Inspired By Her Writings に行きたいのだが、ちょっと遠すぎだねえ。

2.19.2018

[art] Tove Jansson (1914-2001) 他

アート関係のがどんより溜まってしまったので、憶えている限りのをメモ程度で。時系列で。

Winnie-the-Pooh: Exploring a Classic   @Victoria & Albert Museum

V&Aで12月中旬くらいに行ったら床上1m未満を這いまわる(そういう会場の仕様)元気いっぱいの子供たちで芋洗い潮干狩状態で、もう一回来なきゃな、になった。展示内容は最強のクラシックに決まっているのでなんの文句もないの。あの映画 – “Goodbye Christopher Robin” - に描かれたようなほんのちょっとの切なさが見えないかしら、ていうのは贅沢というもの。ちょっと意外だったのはディズニーのプーのコーナーもあったことくらい。

Harry Potter: A History of Magic   @British Library

1 月3日、2018年最初に行った展覧会。オンラインのチケット予約がバグなのかなんなのか一向に取れなかったので朝に並んでメンバーになってから見た。

オープン当時、BBCでこの展示について特集番組が組まれていて、単にHarry Potterの物語を中心とした資料の展示というより作品の世界観を構成する古今東西の要素を博物館や文献史料から寄せ集めて博物学的な観点から再構成してみる、ようなことを言っていて、本は読んでいなくても(映画は - すぐ忘れちゃうけど - 結構見ている)大丈夫かも、と思って行ってみた。

会場はテーマ毎に部屋があって、テーマは、薬、錬金術、薬草学、お守り、占星術、予言、魔除け、魔法動物、などなど。それに関係したHarry Potterからの抜粋とか挿画もあるし子供には楽しいインタラクティブな仕掛けもあるが、なによりもBritish Museumを始め英国各地の美術館や博物館から怪しげなのも含めて網羅的に集めてきているのがすごい。この手のネタは英国にはいくらでもあるんだろうな。薬草のところに「蒟蒻」の文献があって、いまも日本ではダイエットに使われている、とか、魔法動物のとこにBritish Museumにあるあの「人魚のミイラ」 - 本物初めてみたわ - もあったり。

Scythians: warriors of ancient Siberia
 @British Museum

今から2500年前、900 ~ 200 BCにシベリアの大地にあった文明の証みたいなのをいろんな出土品 - 装飾品、衣服、道具、などなどを並べて示す。こういうの、自分にとって全く未知の領域で、そんなおお昔に、あんな広い土地範囲に、今の我々が同定したり想像したりできるような文化、文明として括りうる何かがあったのかどうかわからない - 学術的にはあった/ある、ということなのね - ので、たんにすげえーとか、しぬほど寒そうー、とかで終わってしまう。 金の装飾品はなかなかチャーミングだったけど、ああいうのってコピーライトとかあるもの?

Rose Wylie: Quack Quack     @Serpentine Sackler Gallery

とにかくでっかい落書きみたいな絵がキュートでたまんないので、見てほしい。
あの輪郭に力強いストロークに、タイトルとか文字とかが被るときゅんとするのはなんなの。

http://www.serpentinegalleries.org/exhibitions-events/rose-wylie-quack-quack

Scott Mead: Above the Clouds   @Hamiltons Gallery

飛行機の窓側の席から撮ったと思われる写真3枚組をセットで展示していて、それぞれの写真のフレームは飛行機の窓のかたちになっている。 なんで3枚組かというと、飛行機が前に進んでいくやつである以上、真横と前と後ろがあるからだよね。機内から写真を撮るのが好きなのでこの人が写真を撮ったときに頭に浮かんだであろう(!)とか、よい景色が下に広がっていると当たり、とか思うその感覚とか瞬間はとてもよくわかるのだった。

Tove Jansson (1914-2001)   @Dulwich Picture Gallery

ずっと行かなきゃとじりじり思っていたやつで、最終日の1月28日、日曜日の朝に走りこんだら入口にチケットはすべてSold Outの張り紙があって一瞬で背筋が凍り、でも諦めずに窓口に行ったらさっき余ったチケットを1枚だけ置いていった人がいるからあげるって。
見知らぬひと、ありがとう。

美術館のあちこちにムーミンとか連中の張り紙があって素敵ったら。
ムーミンを描く以前の、画家としてスタートした頃からの作品も含めて包括的に。 昨年のSouthbankでの展示 – “Adventures in Moominland” – では、彼女がなぜムーミン/ムーミン谷に向かっていったのかを解りやすく説明してくれたが、この展示はそれ以前に彼女が見ようとしていた世界の大枠がわかるようになっていた。初期の油彩で描かれた自画像のタッチはVanessa Bell (1879-1961) のそれにも似て、淡い背景のなかに少し揺れる輪郭と、でも強い眼差しの女性があって、画家としての最後の作品(油彩)も自画像で、そこから先は線の細いイラストになって、誰もが知るあのTove Janssonに変わっていく。 その線があの動物、というか妖精の丸みや弾みを帯びてくるともう❤️しかない。

こんなのカタログぜったい買うよね、と思ったら売り切れていたのでとっても残念だった。

Modigliani  @Tate Modern

かつてMOMAで見たDegasの展示がその画家に対するそれまでの認識を一変させてしまったのと同様のでんぐり返しをもたらしてくれそうな予感があって、でもそこまではいかなかったかも。
初期の線と平面を中心に構成された硬質な人物像が、展示のまんなか過ぎに出てくるヌードのあたりで明らかに揺らぎ何かがせめぎ合って動揺しているのが見えて、そこには見飽きないおもしろさがあってModiglianiの食いこみかたすごいかも、って思った。でもそこから先、なにか諦めてしまったような感じが漂っていたのは気のせい、か。

ここで一旦切ります。

2.18.2018

[film] The Shape of Water (2017)

7日の晩、BFIのPreviewのチケットが取れたので、見ました。誕生日に半魚人映画を。

1962年、アメリカの海岸沿いの町にElisa (Sally Hawkins)がいて、首筋に子供の頃からの消えない爪傷があって、手話でしか会話できなくて、映画館の建物の上に一人で暮らしてて、隣人のGiles (Richard Jenkins)は広告画家でゲイで猫と暮らしてて、ふたりは仲良くて、それなりに世界はできあがって安定して回っていたのだが、ある日彼女が夜勤で清掃している(政府系?軍?の)施設に行くと厳重な警戒を敷かれた水槽一式が運び込まれて軍人と思われるRichard (Michael Shannon)が息巻いてこいつは俺のもんだとかわあわあ騒いでいるのだが、指を噛み切られて血まみれになったりしている。

水槽の中にいるやつに興味が湧いたElisaは掃除をしながらゆで卵をあげたりしつつそいつとおっかなびっくり仲良くなっていくのだが、そいつはRichardの調査で虐待されて弱ってきたのでなんとかしてあげなきゃ、とGilesや同僚のZelda (Octavia Spencer)の助けを借りて一緒に脱出計画を立てて実行しようとする。 そこにソ連の科学者 - 工作員(実は善玉)とか、やたら勘が良くてサディスティックにヒステリックに追っかけてくるRichardが絡んで、どうなってしまうのか。

大枠はそういう流れで、でも真ん中にあるのは社会の片隅でひとりぼっちで生きてきた彼女(この映画に出てくるのはみんなひとりぼっち)と畸形 - 希少生物 - 研究素材として扱われている半魚人の水面下の手探りの恋が、そんなことってありうるのか? ていう惑いや驚きや力瘤や希望を乗っけて夜の町に、水の中に思いっきり解き放たれ、水は彼らのすべてを包みこむ、そういう愛のほうにあるの。

Guillermo del Toroの異形畸形動物に対する愛(さっき、BAFTAの監督賞受賞スピーチで、Mary Shelleyへの感動的な謝辞を)、クラシック・モンスター映画(善玉悪玉が明確に分かれる)に対する愛、それらの愛を包み込んで溺れさせてくれる水に対する愛(この包み込む・覆われる、への志向はホラーのジャンルでも同様のアプローチを..)、その水のかたち (The Shape of Water) をなんとか掴まえ、捕らえようとする試みはちょっと昔のミュージカルとか御伽噺の体裁をとりつつうまくいっていると思った。とにかくElisaとあれが幸せになってほしいよう、って誰もが願ってしまう、そういううねりをうまい具合に起こしてくれて、それはあのラストのうわああーっていうあれに繋がる。

ゆで卵とか、ネコを食べちゃうとことか、キャデラックとかおもしろいエピソードがいっぱいある反面、血がでるとこは痛そうすぎてちょっときつかった。

Sally Hawkinsさんの水との相性、変てこ動物(含. Paddington。来年はGodzillaまで..)との相性の良さは驚くべきものだが、それ以上にMichael Shannonがものすごい形相で前に出てきてしまうので半魚人 vs Michael Shannonみたいになっちゃったのも残念だったのかもしれない。
でも、改めて自分にとってこの領域は“Splash” (1984) のがいいなあ、て思ってしまった。


今日(18日)の午後、うちから歩いていける一番近い上映館(であることを知った) - Ciné Lumièreで、もう一回見た。 なんで見たかというと、上映前に音楽のAlexandre Desplatの挨拶があって、 彼ってどんな人か見たかったから。 ただ彼、フランス語でえんえん15分くらい喋っていたので … だった。後で少し慌てて司会のひとが英語でフォローしてくれたのだが、映画自体がすばらしい広がりを持って深く展開していくので音楽を組み立てる必要はあまりなかった、とか、フルートとか口笛はぜんぶ彼自身が吹いているとか、もっといろんなこと言っていたと思うのにー。

彼がロンドンに来たのはもちろん今晩のBAFTAの授賞式に出るためで、見事に受賞したねえ、おめでとうー! でした。 彼の音楽の細やかさときたら、主人公のエモのひだひだと半魚人のエラに寄り添って離れないほんとに素敵なやつなんだよ。

[film] Coco (2017)

12日、月曜日の晩、一週間長いよう、と逃げるようにしてPicturehouseで見ました。
Disney/Pixar制作のアニメーション。 2Dだったけど3Dで見たほうがきれいで素敵だったかも。
メキシコと音楽がテーマだというのでそれなら見なきゃな、という程度で。

むかしむかし、ギター片手に歌手になりたくてたまらない若者がいて、音楽の道を追求するために妻と幼子を捨てて家を出てしまい、残された妻は悲しみに暮れながらもがんばって靴屋を興して、それ以来、その家は靴屋として繁盛して、音楽は御法度になりましたとさ。そんな家に生まれてしまったMiguelは禁じられていることは承知のうえで、やっぱりどうしても靴屋よりは音楽がやりたくて、家族からはぜったいだめ、って叱られてばかりなのだが、ある日彼は遺された昔の写真の欠片から、自分の曽祖父は国民的歌手のErnesto de la Cruz だったのではないか? と思うようになる。

だから自分はこんなに音楽に惹かれてしまうんだ、と激しく思い込んでしまったMiguelは、死者の日のお祭りのタレントショーになんとしても出たくなり、ひいじいちゃん許して、とErnesto de la Cruzのお墓に飾ってあった彼のギターを盗みに入って、そしたらバチが当たったのかなんなのか、死者の日でこっち側に渡ってくる死者の人混みのなかに自分を見つけて、どうなっちゃったのかと大慌てになる。

こうして死者の国でのMiguelの冒険が始まって、死者の国の死者はみんな骸骨さんで、そこでのMiguelは生きた人の子、ってすぐにわかってしまうので大騒ぎになるのだが、そこには曽祖母も含めて自分のご先祖一族がみんないて、Ernesto de la Cruzはそこでも大歌手で、自分の過去(誰かの記憶に残っているはずの自分の面影)を取り戻したいHéctorとも知り合って、Miguelは元の生者の国にどうしたら戻ることができるのか - それは自分の家族の過去の秘密を辿っていく旅でもあったの。

“Remember Me”ていうErnesto de la Cruzの昔のヒット曲が鍵になっていて、死者は(死者の国を介して)生きているひとの記憶のなかでいつまでも生きていくことができるもので、だから忘れないでね、というのと、その記憶はそういう歌や音楽や昔の写真を通して継がれて、紡がれていくものなのよ、って、これだけで泣いちゃうよね。

“Coco”っていうのは、Miguelのおばあちゃんの名前で、家族のなかで一番の高齢なのでずっと椅子に座ってぶつぶつ呟いててもうボケているのだが、なんで彼女の名前がタイトルになっているのか、思いだすとそれだけで(以下略)。

死者の日っていうのは日本ではお盆のことで、だからこの話は我々にもとてもよくわかる内容だと思うの。
死者はいつも自分たちの傍にいて、こっちを見ていてくれるし、だからこっちもちゃんと話しかけたりしてあげないと、とか、おじいちゃんやおばあちゃんが見ているから(ちゃんとしなきゃね)ていうのは感覚としていくつになっても残っている気がする。
(最近の、歴史を変えたがっている人たちってこの点で日本のヒトじゃないのだとおもうわ)

だからこういうの、日本でも作られてもおかしくないよね、とか思うのだが、最近近いかもこれ、って思ったのは”Kubo and the Two Strings” (2016)だったり。

極彩色でこまこま描きこまれた死者の世界の光景は圧倒的で(だから3Dのほうが)、そこにいる神の使いみたいな変な生き物たち - 特に水牛の角と鷲の翼をもったぎんぎんのでっかい虎 - がすごくよくて、死んだらあれに会えるのだとしたら死ぬのも悪くないかも、て思った。ほかにも可愛いのがちょこちょこいる。

死者の国なのでFrida Kahloが出てくる。他にもいっぱいいるよね。


ところで、昨日買ってきたSuperchunkの新譜がすばらしい。 春に向かっていく音。

2.17.2018

[film] Loveless (2017)  

10日の土曜日のごご、Picturehouse Centralで見ました。原題は”Нелюбовь”

昨年のカンヌで審査員賞を、LFFでもBest Film賞を受賞していて、これの公開を機にBFIでは監督のAndrey Zvyagintsevの特集上映が組まれたりしていた(ぜんぜん見ている余裕なし)。

雪がしんしん降ってとても寒そうなモスクワで小学校から出てくる子供たちがいて、そのなかのひとりの男の子は友達と話すこともなくまっすぐアパートに帰って自分の部屋に籠る。しばらくするとそのアパートを買おうとしていると思われるカップルが見にきたりして、彼の母親は離婚するのでそこを売ろうとしていることがわかる。やがて母親と既に別居しているらしい父親が現れて売れないアパートのこと、子供のことも含めて押し付け合いみたいなきつい口喧嘩の修羅場になって、それを戸の影で聞いている男の子は声を殺して泣いている(←見ていてとても辛い)。

そこから母親はおしゃれして恋人と豪華なレストランで食事して彼のこぎれいなアパートに行って泊まって、父親も既にお腹の大きい恋人と仲良く買い物して彼女の家に行って泊まって、両親がそれぞれにそういうことをしていると、学校からお子さんが学校に来ていませんけど …  という連絡が入る。

警察に捜索依頼に行ってもすぐには動いてくれなくて、まずは子供の行きそうなとこで心当たりがある場所とか親戚友人のうちとかを全て探してみてください捜索はその後、と言われて、それでも見つからなかったので数日後にようやく捜索が始まってチラシ張り紙も配られて、でもやはりなんの手がかりも見つからないまま、やがて廃墟になった団地の片隅で彼のジャケットが見つかったり、同年代と思われる子供の遺体が発見されたりするのだが、彼は消えてしまったかのように。

子供を捜しだすサスペンスと並行して罪深い大人たちへの罰が… という誰もが期待しそうなシンプルな方には行かなくて、両方の親たちがそれぞれに向きたいと思って向いたほうに寄っている間に両者の亀裂の溝に落ちて忽然と消えてしまった子供、彼の落ちた穴というか雪で真っ白に塗られた地表の – “Loveless”としか言いようのない状態がどこにどんなふうに現れるのかを、親たちふたりの関係だけではなく、地元警察の官僚的な動きとかウクライナの紛争に関わる軍の動きまで含めたより大きな地図のなかに置いてみる。スマホを手にしたそれぞれが勝手に追っかけてそれぞれで勝手に満ちたり浮かれたりしている愛の隙間で置き去りにされるというのがどういうことなのか。
”Lack of Love”ではなく”Loveless” – の風景はどんなふうに見えるものなのか。 → ものすごく寒くて寂しい。

これ、今のロシアの都市部の典型的な風景かもしれないけど、当然それだけではない我々を取り囲んでいるそれでもあって、誰もがこういうことが起こりうる状態・事態にあることを知って予測できていながらではどうしたらよいのか、どうすべきなのか、ということについてはうつむいて沈黙してしまう、そういういちばんタチが悪いやつ、と言えるのかも。 起こってからみんなわーわー泣いて騒いで、やがてきれいに忘れてしまう。

あとねえ、この映画に出てくるすべての人たちが俳優の顔をしているように見えない、という怖さ。彼らは我々の周りのそこらにいるふつうの人たちのようで、そういう点では、Robert Bressonの”L’Argent” (1983)と同種の恐ろしさを感じた。 でもあの映画と違うところは、この映画には明確なかたちをとって現れる「悪」のようなものがない、ということ。つまりこれに対置される「善」とか「救い」はカケラも見えてこない。 どこまでもLovelessである、と。

2.15.2018

[film] The Final Year (2017)

これも政治カテゴリーだと思うので、HBOのドキュメンタリー映画を続けて。
11日、日曜日の午後、BloomsburyのCurzonで見ました。

タイトル通り、Barack Obama政権と彼のチーム – 特に外交政策担当 - の2016年初からの最後の1年間の活動 – Obamaが最後にギリシャで演説をするまで - に密着したもの。

これの予告はBFIでもずっと流れていて、”The Post”と同様、見にいくのは辛かった。”The Post”の辛さは過去に達成されたことと現在とのギャップになんで?  だったのに対しこっちのはついこの間のことで、あとほんの少しだったのになぜ到達できなかったのか、という敗北感がじんわりとくる。勿論自分はアメリカ国民ではないのだが、そういう話ではないの。

このチームは大統領選の敗北を受けて既に解体され失われてしまったわけだが、あと1年、彼らがやろうとしていた活動をそのまま続けていたら救われた難民の家族やシリアの子供たちはどれくらいいたのだろう、と思うとやりきれない。 特に今のガマガエル政権のロールバック - 歴史が前に向かって進むなんて大嘘だと思い知る – を見てしまうと、苦しさと無念さが多重でやってくる。

チームは大統領のBarack Obamaに、副大統領のJohn Kerryに、アメリカ合衆国国連大使のSamantha Powerに、大統領副補佐官のBen Rhodes、主にこの4名で、彼らは国連を中心にここに取りあげられただけでも、シリア問題、ボコ・ハラム、キューバ国交、広島、地球温暖化問題などなどを、基本は現地に赴いて、そこの政治家や当事者たちと話しをしたり、或は国連の議場でロシアを正面から罵倒したりもする。

まずは目の前の問題 – これは明らかになんとかしないとまずいよね - に対して動くし大統領も含めて現地で徹底的に対話をするので、アメリカの内政干渉のようなかんじはしないし、アメリカだからできること、とか元の種はアメリカが、とかいろんな言いようがあることはわかるけど、これがアメリカという国単独のお話しだったらあんな手に汗握るものにはならないと思った。

あるいはアメリカだって相当いろんな問題を抱えているし、悪いところがいっぱいあることも十分わかるし、事後の計算だってあるであろうことは承知のうえで、彼らの動きをなんでいいなー、と思うのかについて、最初のほうで大統領自身が(自身の人気の秘密に言及するかたちで)クリアに説明してくれる。お金に惹かれる人もいる、Power(権力)に惹かれる人もいる、でも人は”Story”にも惹かれるものなんだ。 アメリカの場合だと、それは「独立宣言」なのだ、と。

「独立宣言」の普遍性とその強さがベースにあるのだとしたら、それは十分に納得するし、そういうことなのか、と思うところがあるし、例えば自身もアイルランドからの移民であるSamantha Powerさんが市民権の授与式で行うスピーチとか、誰にも思い当たることだから感動的なの。普遍性というところでいうと”Citizen”というタイトルの重さと、それから非暴力。暴力はいけない、人を傷つけてはいけないというのもあって、そういうのからぶれない。シンプルであるが故の力強さ。今の時代の正義とか平和ってどういう形でありうるのだろうか、と。

ちなみに日本だって憲法という素晴らしいStoryを持っているのだが、いまのカルト政権は「明治」だの「神武」だのよくわかんないStoryを崇め奉っていて、それが現代の人権や多様性を認めようとする地点からほど遠いところにあるのにも構わず、周囲に脇目もふらずに自分たちだけでひたすら熱狂している – だからカルト、って呼ぶしかないし、気持ち悪いったらない。

映画では、時間が2016年の後ろのほうに来て、背後からガマガエルの影が忍び寄ってくるところは思いだしたくもなくて、あーあ、って何度でも溜息をついて吐きそうになってしまう。

どうでもよいけど、2016年にまだBlackberryだったのね、とか。
日本でもようやく公開が決まったらしい“I Am Not Your Negro” (2016)と併映してほしいな。


冬のオリンピックが始まっているらしいが、報道ではほとんどやらない(そういうチャンネルに行けばいくらでもやってるけど)のでとっても静かでありがたい。これでいいのよよね。

Sky(ケーブルTV)の映画チャンネルではクリスマスの時にそうだったようにValentine用のChannelが立ちあがり、どうでもいい(つまり大好き)系のラブコメ、ロマコメを大量にざぶざぶ流し続けてくれるのでとっても嬉しいの。
クリスマスのときに散々やってた(散々見た)”Love Actually”なんかValentineでもまだやってて、もう50回くらい見てる。

2.14.2018

[film] The Post (2017)

8日、木曜日の晩、West Endのシネコンで見ました。もう終わってしまいそうだったので慌てて。

これを見るのはとても気が重くて乗らなくて、なぜって、この60年代後半のジャーナリズムが成し遂げた(言葉が適切かどうかはわからないけど)ブレークスルーを題材にしたこの映画は「フェイク」だなんだでわーわー騒いでばかりの今のジャーナリズムのありように対してなにかを突きつけようとしている(受け取る側はふつうにそう取るよね)ことは明らかで、つまり今の茶番も含めた気色悪い政治とメディアを巡るランドスケープについて改めて振り返らないわけにはいかない。で、アメリカはまだいいよね、かもしれないけど、ひるがえって日本はというと、今のマスメディアもジャーナリズムも団子になった糞玉としか言いようがないので、あーあ、にしかならないの。

この映画、日本のマスメディアはどう評価するのかしら。主人公達がやったことをジャーナリズムの鑑とかって讃えたりするのかしら? どんな顔してそれを言うのかしら? 政権の意を汲んだり提灯掲げたりするのに嬉々汲々としている連中にそんなこと言う資格ないよね?  でもカエルの面でしゃあしゃあと褒めたりするんだろうな、そういう恥の感覚とか倫理観とか一切持たない厚顔連中 - 文字通り恥知らず - のようだから。

邦題は『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』ていうらしいのだが(もうさー、この名づけからして威圧的で勘弁よね。そういうのを平気で削除する国のくせに)、映画のなかを行ったり来たりする文書の束が「最高機密」であることが問われているか、というとそうではなくて、それが機密かどうかは知らんがなんかどう見ても怪しくキナ臭く匂ってくる紙の束があって、それを隠そう消去しようとして動いていく闇の力が見えるので、それをなんとか追って表に引っ張りだそうとする、その苦闘と奮闘を描いているの。 記者たちはそれが最高機密だから追っかけて暴こうとしたのではなくて、そこになんかいる/あるようだから、ということで動く。”The Post”は舞台となった会社 - Washington Postのことでもあるが郵便物のことでもあるしそれぞれの立場、役職のことでもあるし、時代や国や会社を跨って長いこと行き来したり隠されたり置かれたりしてきた幽霊のような情報の束がどこかのポストに投函されて明るみに出るまでを追う。

夫の死後にWashinton Postを継いだ – どちらかというとしぶしぶ継いだKatharine Graham (Meryl Streep)がいて、編集主幹のBen Bradlee (Tom Hanks)がいて、始めにNY Timesがスクープしたこの情報の在り処を巡って二人は動くのだが、Katharineは社の今後がどうなっちゃうのかとか、そんなの発表しちゃってよいのか、が気になっていて、二人が同じ方を向いて力を合わせてがんばる、というかんじではないの。ふたりはそれぞれに背後霊を抱えていて、文書そのものにもベトナムの怨念が籠っているようで、政権中枢もデモをしている市民もそれぞれにいいかげんにしろ、って怒っている。ポジティブな要素がなにひとつない幽霊みたいなものを移送して、タイプ連打の読経で呼び醒まそうとするサスペンス・スリラーで、中心のふたり以上に得体の知れない印象的な顔がリレーしていく群衆劇でもある。

これ、やりとりの全てが電子ベースで、会社の入退館も含めてぜんぶデジタルになってしまった今の時代には成立しないドラマで、幽霊っていうのはアナログなものなのね、とか。(デジタルの幽霊もいるのだろうけど、そいつらはケーブル伝って脳の内側から入ってきてダメージ与えて消える、みたいなかんじ)

傷つき戸惑いながらも最後には腹を括って正面を向くMeryl Streepが(いつものことながら)すばらしくて、Tom Hanksは.. なんか被り物を被っているみたいで、それはそれでおもしろいし、そういうキャラクターなのかもしれないけど、なんか。

これの対で、”The Times”ていう同じ件をNY Timesの側から追ったドラマが作られてよいと思うし、作られるのであれば、それはぜったい見たいわ(ただのNY贔屓)。

日本で同じようなドラマを作ろうとしても、内閣と司法と政党と警察と宗教団体とメディアががっちり繋がって固まったひとつのでっかいカルト集団の内幕(とそれが国の中枢にいること)を暴くだけになるので、気持ち悪くて誰も見たくないよね。 そんなのみんなもう知ってるし。

John Williamsの音楽、久々に当たった気がして、とってもよかった。

[film] Tystnaden (1963)

1月30日、火曜日の晩、歯科医に口内を血みどろにされた状態のなか、BFIで見ました。 “The Silence”.

ベルイマンの、”Through a Glass Darkly” (1961) ~ “Winter Light” (1963) に続く三部作の最後の。
Ester (Ingrid Thulin)とAnna (Gunnel Lindblom)の姉妹と妹の10歳くらいの息子Johanが電車で旅をしていて、姉のEsterは具合がよくないというので、途中で降りることにして、中央ヨーロッパのある街で下車してホテルを借りて姉妹は別々の部屋に住み、翻訳家のEsterは仕事をしたり、横になったり、Annaは街に出てうろうろしてJohanもうろうろして、街には怪しい輩がうろうろしていて、そのうち戦車も現れたりして、部屋に戻れば姉は具合悪いし、伝染して妹も変になっていくし、Johanはだいじょうぶなのか、どうなっちゃうのか? なかんじ。

前の2部からの流れでいうと、島 → 村 → 街と環境的にはより開かれて近代に寄ってきている一方で、神さま… は、「もういないのかなあ..」から「やっぱしいない、なんもしてくれない」から「もうどうしようもない、なんでもありかも」の方に移ってきて、父親的存在が一切いなくなったところで姦淫もマスターベーションも近親相姦もなんでもあり、都市の描写も含めて全体が悪夢っぽくない悪夢のなかで展開しているようにも見えて、そういう状態で、さて…  という。これをシリアスに落ち着いたトーンの画面構成と最小限の、でもとても不機嫌な会話のなかに淡々を描きだすところがすごい、というかここまで行ったから見えてきたものがあり、この先にあるものまで拡がった、ということではなかろうか。

それにしてもすごいなー、と思うのは絶望、のようなところには行かないとこ。ひどい状態だけど、絶望とかどん底、どん詰まりの闇は最後まで描かれていない気がする。なぜなら、神さまはそういうどん底には決して触れてこないから。

Johanはこの後、”Fanny and Alexander” (1982) のAlexanderになっていった、ということはあるのかしら。
翻訳家の叔母さんがJohanに最後に語ること、そして役者一家だった”Fanny…”のママが語ること、とか。
できれば3部作をもう一回通しで見たいのだが、それはベルイマン特集がひと通り終わったところでのほうがよいのだろうか。

しかしこれ、日本公開時には成人映画指定だったって、なんというか..


Jungfrukällan (1960)  - The Virgin Spring


2月4日、日曜日の夕方のベルイマン特集で見ました。『処女の泉』。
有名な作品だと思うのだが、こんなのも見たことなかったのよ。

中世のスウェーデンの伝説が下敷きであると最初にでる。地方の裕福そうな一家のTöre (Max von Sydow)と妻のMäreta(Birgitta Valberg)と一人娘のKarin (Birgitta Pettersson)が幸せそうに暮らしていて、教会に蝋燭を届けるのにKarinにきれいな服を着せて召使のIngeri (Gunnel Lindblom)を伴わせてお使いに出す。 Ingeriは妊娠していて別の神を信仰しているようで呪わしそうなことばかりぶつぶつ呟いている。

道中で怪しそうな3人組と会うのだが、無邪気なKarinは馬を降りてパンをあげたりしていたら当たり前のように襲われてレイプされて殺されてしまう – Ingeriはそれを陰で見ていることしかできない。
Karinの家では当然のように家族が心配のあまり死にそうになっていて、そこに物乞いで宿を求めてきた先の3人組がいて、クリスチャンの一家は彼らに宿と食べ物をあげるのだが、夜中、彼らの荷物の中からKarinに着せていた服の端切れが出てきて…   ここから先はいいよね。

1960年で、伝説とは言え(伝説なのに)ここまで生々しく凄惨な事件と猛々しい復讐をま正面から描くのか、ていうのと、これを脚色したのが女性(Ulla Isaksson)であることとか、ここからThe Devil's Eye (1960) – 未見 - を経て”Through a Glass Darkly” (1961) にいくのはわかる気がする、というかわかり易すぎやしないか、とか。 タブーをどうこう、というよりも(キリスト)信仰の名の下で目眩ましされてきたあれこれを表に出す、ということではないか。
最後、Karinの亡骸のあとから湧いてきた泉も、聖なる泉がこんこんと、というよりもこんなことができるのだったらなんで生き返らせてくれない?  という呻きのようなものが聞こえてくるの。

それにしても怒り狂ったMax von Sydow, 魔神のようにおっかないねえ。

2.13.2018

[music] This is Not This Heat

なんとかのFundraisingライブの2日め、10日の土曜日の晩、同じくCafe OTOで。
ちなみにお代はこっちが£30で、9日のは£20で、こっちのはあっというまに売り切れていた。
この二日間、音の傾向は違うかもだけど、Henry CowとSlap HappyとThis Heatって、自分のなかではまったく違和感なく繋がっている。 説明すると長くなるからここではやんないけど。

昨年の3月にBarbicanでやったライブにも行ってて、あの編成と音量をこの小屋で再現したら付近一帯建物ごと吹っ飛んでしまうのではないかと思ったのだが、編成は昨年の14名から7名の半分になっていた。
女性コーラス3人はいないし、Thurston Mooreもいないし。

オールスタンディングかも、と聞いていたのでドアが開く7時半に行っても座れないならどうでもいいや、ってゆっくりめに行ったら、7時半にはまだ開いてなくて、大音量でサウンドチェックやってた(建物がぼろくて緩いのでだだ漏れしてて、あれなら別にチケット買わなくても...)。
中に入ってみると椅子も少しはあって、端っこに座れた。

前座はなしで8:40くらいにエレクトロとバイオリンと絶叫担当の女性が機械に灯を入れて、”Test Card”のぴりぴろりーが鳴りだして、そこから約10分間放置され、音波煙が行き渡ったあたりで全員現れて、せーので”Horizontal Hold”の頭の一撃が放たれて、そこはじゅうぶん予期できるのですこし息を止めて踏ん張ってみたのだが微妙にそのタイミングがずれて側頭葉と心臓を直撃した、気がして一瞬気が遠くなって、でもなんとか持ちこたえる。

全体にお祭りモードだった気がする昨年のに対して、今度のはサイズもあるし至近距離であるせいか、すべての音がけたたましく、バランス悪く、ジャンクにがたがたと町工場のエンドレスな轟音のように鳴っていて、音の隙間ができるとそこを2名のパーカッション(昨年のもうひとりはChris Cutlerさんだったが今年はちがう)とコーラスになっていない声のような絶叫のようなのが埋めに入って、とにかく落ち着きなく止まらない。

ただ、インダストリアルみたいな大規模轟音ノイズには向かわず、この騒音はあくまで町工場のそれで、布や金属を引っ叩き、弦を引っ掻き、菅を吹き鳴らして、それらの音を束ねて増幅させて散らす、そのアナログな手工業構成こそがThis Heatという3人構成で始まったバンドの生業なのだろう、と思った。

最後の”24 Track Loop” 〜 “Health and Efficiency”は、昨年と演奏の順番が逆だったが、こっちの方がよくて、狂って壊れたテクノ・ファンクみたいなののループが、「健康と効率」というタイトルの疾患・故障まみれの機械の運動に収斂されていく様はスリリングで、“Health and Efficiency”を初めて聴いたとき(高校生だったわ)のなんじゃこれは? の衝撃がまざまざと蘇ってくるのだった。 そしてこれも止まんなくて、10分以上続いたの。

約100分、アンコールなし、久々に耳がやられた、すばらしく凝縮された時間だった。

Fundraisingの3日目のは、:zoviet:france: ていうよく知らないやつで、共演のRon Geesinさんだけ少し聴きたかったが、どっちにしても売り切れていたので諦めた。

2.12.2018

[music] Peter Blegvad Trio

昨年のこの時期は、Slap Happy + Faustという夢の取りあわせライブがあって、ちょうど渡英直後ということもあったので何もかもが初めてでとても新鮮だったので、今もまさに夢の中のことのように思い出す。 今年のはなんかの(←なんだよ?)Fundraisingで三日間のシリーズがあって、その初日がこれ。

7時半のドアに合わせて行ったのだが10分前に着いたらもう開いてて(おそらく老人たちの健康に配慮したのではないか…)椅子はほとんど埋まってて、端っこのを見つけてなんとか座る。客層は昨年のときと同様に老人ばかりで、互いによろよろしながら椅子を譲りあったりしていて、ごめんね金曜日でへろへろなの座らせて..  って座る。

John Greavesさんのソロが最初で、グランドピアノに向かって鍵盤を鷲掴みするかのようなストロークとでっかい声で歌いだす。吠える、というほど激しいものではないがとにかく強く、深く広がる(昔みたWarren Zevonのような..)。2曲めから女性(ずっと探しているのだが名前が… 発音不可能な苗字、って紹介されてた)のヴォーカルが入ってもそのトーンは変わらなくて、でも曲間の語りは穏やかな音楽の先生のようで、少し昔の曲を- Peterと最初に書いた曲をやります - その曲名は..  というと客席のほうから生徒みたいに”Bad Archemy” (!) て合いの手声が入る。この曲、勇ましいピアノの音が本当に大好きで、ああせめてここに楽屋にいるであろうChris Cutlerさんのモグラ叩きドラムスが被ってくれたらなあ、だった。次はもう少し複雑なのを..  と”Kew. Rhone.” (!)  - 以下ぜんぶ! - をやって、それからPeterと一番最後 - 最近に書いた曲です、と”The Song” (!)を。この曲が入っている95年に出たCD – “Songs”はいまだによく聴く(こっちにも持ってきた)のだが、この曲のRobert Wyattの歌声はいつ聴いてもいくらでも泣けるの。

ここまででもうそのまま帰ってもいいくらい満ち足りてしまったのだが、30分休憩のあとにPeter Blegvad Trio  - Peter Blegvad, Chris Cutler, John Greaves with Bob Drakeのトリオだけど4人組のライブ。

Peterはスーツにサングラスでかっこよく右側に座り、左側に立つJohnはSteinbergerのベースでBobはストラトキャスターで、Chrisは相変わらずバチと太鼓がどこでどうぶつかってあんな音になるのか謎のキットに座り、誰ひとり最後まで楽器を変えずにずっとエレクトリックセットで、当たり前だけど全員めちゃくちゃうまいの。基本はPeterのソロからだったが” King of Straw”やったし本編のラストは”Strayed”だったし、どうしても帰ろうとしない客のために2回目のアンコールで”King Strut”やってくれた。この曲が1曲目の90年の” King Strut & Other Stories”、よく聴いたなー。Chris Stameyがプロデュースで。(棚のどっかにあるのか?)

この人とRobyn Hitchcockは英国音楽の特別無形天然なんとかに指定すべき、って改めて強く思った。

あとはChris Cutlerのドラムスのすばらしいことよ。
『June 12 1998 -カオスの縁-』って面白くて何回も見たけど、あれからもう20年なんだねえ。


Gavin Bryars - A Man in a Room, Gambling

少し前、同じくCafé OTOで1月26日の金曜の晩に見たやつ。

Gavin Bryarsさんが92年、スペインのJuan Muñozと共作した10ピースからなる”A Man in a Room, Gambling”(のうちの7ピース)プラスで数曲の演奏会(ライブ、というより演奏会よね)が毎週金曜日の晩、3週間に渡って行われた。

演奏される曲によってバンドの構成は変わって、この日はビオラ2、チェロ1、エレクトリックギター1、ダブルベース1 – Gavin Bryers。

まず、全体のアンサンブルがとてつもなく気持ちよいの。ぎこぎこ鳴る枯れた弦の音の間をぬってパルスのように響くエレクトリックギターの音とパルスの共振が生みだす電気雲と、その雲に反応して徐々に色合いを変えていく弦の連なりと。

“A Man in a Room, Gambling”は、各ピースが3~4分、男性のナレーションで”Good Evening”から始まってカードゲームの中継をする無機質な声が被り、最後に”Thank you, and Good Night”で終わる。

最初の回の時は日本に渡っていたので行けず、3回目はぜったい行くべし、と思っていたのに目の前で売り切れやがって…  3回目の時って、”Jesus’ blood never failed me yet” – “The sinking of the Titanic”のB面に入っていた曲をやったのになー。

2.10.2018

[film] Groundhog Day (1993)

なぜかものすごく時間がないしずうっと眠いし、つまり書く時間もなくて、書くために考えたりする時間もなくて、だからあまり考えなくても書けそうなやつから拾って書いていくようなかんじで、かといってもちろん、きちんと考えて書けたものなんかいっこもないわけだが、とにかく頭に浮かんだのが消えていかないうちに端から打っていくしかないのがつらい。

2月2日の金曜日はGroundhog Dayで、冬がやたらと暗くて寒くて長い欧米の民にとってとても重要なマイルストーンとなる日で、穴の奥で丸まって幸せに寝ているGroundhogさんを礼服着たおっさん達が無理やり叩き起こして引きずりだして、春はすぐそこなのか冬はまだのさばるつもりかを有無を言わさず聞き出すという、Animal Rights的にはどうなんだよっていつも思うのだが年一回のことなのですぐ忘れてしまうのと、彼は冬じゅうほかほか寝ているんだからちょっとくらいいいじゃんとか思うのでどっちにしてもコトは毎年繰り返されてかわいそうなHogなのだった。
(今年の結果をいうと、冬はまだ続くってさ。やっぱりな)

で、Prince Charles Cinemaはこの日(この日だけ)、公開から25周年記念なのよって、一日4回くらい上映してくれた。しかも35mmプリントで。 TVでしか見たことなかったので夕方の回のを見ました。
ところで、邦題はいくら考えてもループするのでわかんねえわ。

シアターの中に入るとSonny & Cherの”I Got You Babe”が嫌味かっていうくらいループで流れていて、ここはそういうところは決して外さない。

自分が一番で最高ってずっと思っていて、周囲からもはいはいって嫌がられているお天気キャスターのPhil (Bill Murray)が、Groundhog DayにGroundhogの式典の取材に泊まりで出かけて、いろんなことがついてなくてイライラだらけなのだが、朝6時にセットしたラジオで目覚めると必ず同じ2月2日が繰り返されて、自分以外の世界は寸分の狂いもなく2月2日の動きを再生してくるので発狂しそうになって自殺までしてみるのだがループからは抜けられなくて、どうする? なの。

ここにはものすごく沢山のいろんな人生とか世界とか時間に関わる知恵だの教訓だの教えだのが溢れかえっていて、そういうのが好物な人は喜んでいろんな講釈を垂れるのだろうが、この映画はPhilのまわりがそういう繰り返しの止まらない世界になっちゃったよどうするよ? ていうだけの話でそれ以上でもそれ以下でもないコメディなの。ていうか、この映画の天才バカボン的に揺るがない世界のありようはマンハッタンにでっかいマシュマロマンを現出させてしまったBill MurrayとHarold Ramisだからこそ為しえた曲芸で、そういうのに日々なんとか、とか偉そうに語るゲス野郎はGroundhogにでも変えられちまえ、でもGroundhogだと楽そうだからそうじゃないもっと辛いなんかに、とかおもう。

誰もが自分だったら… を考えてループにおちてしまうのが当たり前というもので、そのうじうじ悶々を青春映画に転回させたのが”About Time” (2013)で、スーパーヒーローものに転生させたのが”Doctor Strange” (2016) である、と。
なんだけど、でも、この映画に関しては、あーおもしろかったねえ、でよいとおもうの。
とかいうようになったのは自分が歳を取ってしまったからなのかも、て少し思って、あーあーGroundhogになりたいなー、っていつもの穴にもどる。

穴に帰ってTVつけたらまた同じ映画をやっていたのでこれはHogの呪いか.. って。

まだぴちぴちのMichael Shannonが出てきて、そこだけみんなざわざわしてた。

2.08.2018

[music] Jeff Tweedy

3日、土曜日の晩、”Phantom Thread”のあとにBarbicanのホールで見ました。

チケットが出たのが9月の始めで、そんな先かよ、と思ったのだったがもうその日が来てしまった。当然のように売り切れている。

8時に前座のJames Elkingtonさんから。この人もアコギ1本で、初期のRichard Thompsonみたいな深くこんがらがった沼のような音を出してて、とても気持ちよかった。(この人Tweedyにも参加していたので、2016年の来日公演のときに見ていた、ことを後で知る)

つい先日、USでのツアーも発表になったJeff Tweedyさんのソロツアー。
これまで、Wilcoのライブはそれなりの数見てきて、Loose Furも見て、Tweedyも見たのだが、彼のソロは見ていなかったので。 あと最近Wilcoの最初の2枚がおまけ付きで再発されて、やっぱりいいよねー、とか。

20:50くらいに出てきて、アコギにハーモニカ、長髪のぼさぼさヒゲに牛乳瓶メガネに帽子に冬の厚着でころころ - 地下鉄の通路でのんびりバスキングしているおっさんにしか見えない。

1曲目から”Via Chicago” – “I Am Trying to Break Your Heart” – “Ashes of American Flags”とWilcoの佳曲集で、ぜんぜん問題ないの。 わかってはいても、アコギのタッチ、ハーモニカ、そこに被さる声、すべてがとてもとても柔らかく、暖かく、何度も繰り返し聴いてきたWilcoの楽曲が毛布のように、砂糖菓子のように外側と内側から包んでくれて、しみてくるのでたまんない。
この、柔らかさがたまんないやつで比較できそうなのはJoão GilbertoとかCaetano Velosoくらいかも。

このふわふわの柔らかさがWilcoというバンドにかかると、跳ねたり弾けたりアグレッシブになったりアバンギャルドになったり圧倒的なライブパフォーマンスのあれらに変わってしまう不思議。

この調子でWilcoの曲も彼のソロの曲もUncle Tupeloの曲もLoose Furの曲(”Laminated Cat”)も万遍なくやってくれるので、客からのリクエストもわんわんやってくる。でもぜんぶに応えるわけではなくて、「うちみたいにヒット曲を持ってないバンドはこういう時に弱い。ヒット曲があればそれ演ってれば満足してくれるけど、そうじゃないからなんでもかんでもあれ演ってこれ演って、って言ってくるのできりがない」て、ぶつぶつ言ったり、基本はなんでも応えて投げ返してくれるのでおもしろいったらない。 曲は忘れたが、コード進行教えてよ、っていうのにも秒速で返してた。

あとボディに鳥のハンドペイントがされた素敵なアコギは30年代の大恐慌の時に作られたギブソンので、いいだろー、って。 帽子も特注なんだから、とかなんでも教えてくれるの。 パパか。

アンコールは1回で、結構長めに6曲くらい。”California Stars”やって、”Jesus, Etc.”やって、”Kamera”やって、”Misunderstood”やって、”A Shot in the Arm”やって、あとなんだっけ?

Wilcoは今年はオフで、活動再開は2019年からだそうなので、Jeff Tweedy、見る機会があったら見ておいたほうがいいよ。

2.07.2018

[film] Phantom Thread (2017)

いろいろあるけどこっちから書く。
3日の土曜日の夕方、Picturehouse Centralで見ました。 70mmプリントでの上映。
いちおう念のためV&Aでのバレンシアガの展示を - 3回目くらい – を見てから行った。

この週の前半にはSouthbankで、Jonny Greenwood氏も登場してフルオーケストラ伴奏のついたPreviewがあったのだが、最初はリリースされた状態のままで見たほうがよいかと思って行かなかった。

Reynolds Woodcock (Daniel Day-Lewis)はロンドンのアトリエに籠って一日中ずっと服飾のことしか考えていないような職人気質のデザイナーで、根を詰めすぎてきりきりしてきたのでアシスタントのCyril (Lesley Manville)から田舎で少し休んでいらっしゃいなと言われて、車を飛ばして田舎にいって、滞在先のダイニングでウェイトレスをしていたAlma (Vicky Krieps)と出会う。

彼は彼女になにかを見たのかなにかが湧いたのかDinnerに誘って、そのまま彼女をアトリエに連れていってその場で布を切ったり被せたり包んだりして、このままここにいてくれないか、と。

映画はここからふたりの恋の行方を追っていくのだが細かいことは書いてもしょうがない気がして、それは布や糸の襞とか肌理とか紡ぎとか – 70mmで再現される驚異的な生々しさ(撮影はPTA自身だって)を見てほしい – それらが気の遠くなるような工程を経てドレスになっていくのを文章で書いたり追ったりするのと同じくらいの徒労感をもたらすなにかで、要するにまずは溜息つきながら映画を見たほうがよいから見て。

Daniel Day-Lewisはこの作品を最後に引退すると、その理由として哀しすぎてやってられなくなったから、とどこかで言っていた気がするのだが、これが本当だとしたら終盤にものすごい惨劇とか破局が待っているのかも、と少しどきどきしていた。でもボーリングのピンでゴンも縫い針でめった刺しもない、画面はスリラーやサスペンスの尋常ではない緊張感(なんであそこまで..)を最後まで保ちつつ、それでもあんなところに、あんなふうに着地してしまう恋愛映画なのだった。

“Punch-Drunk Love”が突然に出会って爆走してしまう恋の驚異とかその打突の強度を描いていたのだとすれば、これはその針の穴を抜けた糸たちがいろんな直線や曲線の上で縫ったり撚られたり重ねられたりを通して一枚の布やドレスにゆっくりと浸透して色や模様の一部になっていく様を - 恋愛はどうやって恋愛として揺るぎないなにかに変貌していくのかを追ったもの、と言えるのかもしれない。

あるいは、どれほどの時間を費やし意匠を凝らしたドレスでも、そのひとの皮膚そのものになることはできず、その表層を覆うことしかできない、あるいは、そのドレスが永遠の皮膚になりうるのだとすれば、それは亡霊になった人に対してのみではないか、とか。延々に互いに惹かれあって張り合ってきた人とドレスのありようを、この映画の恋愛に重ねてしまってもよいのかどうか、まだ考えているのだが、とにかく肌の表面と布の裏面で、表面をかすったりこすったり覆ったりするばかりで、両者がひとつになることはない。できない。

両者の間に強い衝動や意図や善意や悪意や辛抱が横たわっていることを向かいあったふたりは互いに知りようがなくて(どちらもそんなのわかるでしょ、くらいにしか思っていなくて)、探りあったり確かめあったりどつきあったりしなければ明らかにはされなくて、それはそれはうんざりするようなやわやわしたどうしようもない何か(亡霊?)で、肌に刻印されるような強いなにかを望んでもどうすることもできず、その緩さ儚さ曖昧さをどうしようもなく哀しい、という人がいることはわかる。恋なんてしないに越したことはない、とか。

そう、これは“Punch-Drunk Love”以来となるPTAの待望の恋愛映画で(て書くと、いやPTAの映画はいつも、とかいう人がいるのはわかるけど)、あの場所から15年経つとああいうとこに行くのだなあ、という感慨もあるし、自分が知っている恋愛ロマンものとしてはものすごく変で異形で、でもゴージャスで、全体としてはやっぱり異様だと思うのだが、トラウマのような強さで刻んでくる。恋するふたりが向かう先はそういうところなのかもなー、とか。(おてあげ)

ファッションとお料理が大好きなひとはどっちにしても必見。ウェルシュ・ラビットとラプサンスーチョンの組合せはこんど試してみよう。 上映館の近所にあるレストランは、バター控えめの”Phantom Thread”コースとかやればいいんだよ。(あーめん)

Jonny Greenwoodの音楽、びっくりするくらいよかった。これまで映画音楽作家としてはどうかなー、だったのだが、こんどのはすばらしい。映画のほうが彼の音に寄っていったかんじもあるかも。

主演のふたりは申し分なくて、加えてアシスタント役のLesley Manvilleさんがとても素敵で、彼女もうじき、Jeremy Ironsと舞台でEugene O'Neillの”Long Day's Journey Into Night”をやるの。行きたいかも。ロンドンの後にはBAMに行くのね。

そして最後に、Jonathan Demmeに捧げられていることを知る。

[film] Last Flag Flying (2017)

1月28日、日曜日の午後、BloomsburyのCurzonで見ました。

Richard Linklaterの新作で、LFFでもかかって、どうしようか少し悩んだのだが冴えないおっさん3匹のお話しのようだったのでパスしてしまった。 こういうのに限ってやはりすごくおもしろいのだった。

2003年の冬、ピッツバーグでバーをやっているSal(Bryan Cranston)のところにLarry "Doc" Shepherd (Steve Carell)が訪ねてきて、最初SalはDocが誰だかわからなかったのだが、ベトナム戦争に従軍したMarineで同じ隊にいた奴だったことがわかる。朝まで飲んだあと、LarryはSalを連れて車で教会に向かい、そこで感動的な説教をぶちかましている牧師のRichard (Laurence Fishburne)に引き合わせる。彼もかつて二人と同じ隊にいて、でもこいつは酒と女でよれよれだったはず – (たしか『地獄の黙示録』ではしんでなかったっけ?) - なのだがそれはともかく、3人揃ったところでDocは二人に頼み事があるという。最近彼の妻が亡くなって、唯一の家族だった息子も911後に従軍した先のイラクで死んでしまった。身元の確認と埋葬に付き添ってくれないだろうか、と。

Salはわかったと言い、体がぼろぼろなので渋っていたRichardも妻の勧めで行くことにして、3人はまずワシントンDCに向かって、そこでDocは見ない方がいいですよ、と言われた息子の遺体を見て確認して慟哭して、更に息子と同じ軍にいた兵士から息子が亡くなったときの状況を聞いて、息子はアーリントン墓地ではなく地元のポーツマスに埋葬したい、という。国側は息子さんは国のヒーローなのだから是非アーリントンに、というのだがDocはぜったい嫌だふざけんな、と言って今度は3人のポーツマスまで棺を運ぶ旅になるの。

物語を膨らませるような回想シーンも特別な達成感もない、地味でよれよれの3人がぼそぼそ言い合ったりしながら埋葬に向かって旅をしていくだけの映画なのだが、それだけでもすごくおもしろいのと、見ている我々も含めて誰もが会ったことのないDocの息子のこととその死を想って、これはどういうことなのか?なんなのか?  と考えさせるような内容になっている。

“Boyhood”でも”Everybody Wants Some”でも--hoodのことを、時間と共に旅をする人の居場所はどこに、どんなふうにあるべきなのか、を描いてきた(と勝手に思っている)Richard Linklaterはここで、亡くなったひと – 時間が止まってしまったひと - この場合は兵士 - の居場所は果たしてどこにあるのか、もはやその声を聞くことができないのであれば、その居場所を決めるのは誰なのか、という問いを投げているように思える。

この場合は、父であるLarryでよいのだろう、けどなぜ彼は何年も音信の途絶えていたSalとRichardをわざわざネットを掘って探しだして、会いに行って同行を求めたのか?

いろんなことが考えられると思うが、いっこあるのは、死ぬ時は(いつも)ひとりだけど、その死を継ぐのはひとりではできない、ていうこと。ただ悼むのではなくて、ベトナムを経験し、イラクの背後にかつてと同じような国の傲慢を見てしまった者として、なんとしても継ぎたい/継がなくてはならないなにかが噴き出してきて、それを彼らは”The Last Flag”として掲げて揺るがず、降ろそうとしない。

これって、萎れた老人たちの我儘でも筋間違いでもなんでもなく極めてふつうの倫理観であり行動だと思うんだけど。
なんとしてもアーリントンに(とか靖国に)とかほんっとバカにしてるわ、ってしみじみして、こういうのこそ筋金入りの「反戦映画」ていうのだと思った。
(この作品は、Hal Ashbyの”The Last Detail” (1973)と繋がっているらしいのだが、未見。けど例えば、”Mash” (1970) の連中が今も生きていたら彼らみたいになったのではないか、とか)

メインの3人はほんとうに見事なのだが、特にBryan Cranstonの立ち姿が泣けてくるくらいすばらしい。こんなにすごいひとだったのね。

亡くなったLarryの息子の部屋にはRadioheadの”Hail to the Theif” (2003)とMetallicaの”Kill 'Em All”のポスターが貼ってあった。イラクに戦争に行ったのは03年にこういうのを聴いていたふつうの若者だったんだよ。

音楽はラストのBob Dylanを含めて沁みて良すぎて泣いちゃうのばかりなのだが、あーこれはLevon Helmのドラムスだよねえ、と思ったらほんとにそうだったり。

2.05.2018

[film] Sommarnattens leende (1955)

1月25日の晩、BFIのベルイマン特集で見ました。 英語題は”Smiles of a Summer Night”、邦題は『夏の夜は三たび微笑む』。
ベルイマンのロマコメだという。 コメディ?

19世紀末のスウェーデンの田園のほうに、中年の、ヒゲのかんじがいかにもやらしい成功している弁護士Fredrik (Gunnar Björnstrand)には再婚して2年になる19歳の妻Anne (Ulla Jacobsson)がいるのだが、まだ彼女とは添い寝するだけの関係で大事にしていて、裏では前の愛人で女優のDesirée (Eva Dahlbeck)に未練たらたらで、試験で実家に戻ってきているFredrikの息子のHenrik (Björn Bjelvenstam)はそんな父を見ながら拗ねたり嘆いたりしているガキ - 童貞野郎で、やたら挑発してくる召使いのPetra (Harriet Andersson)にぼーっとなってて、若いAnneは夫が寝言で口にしたDesiréeにやきもきしつつ同世代のHenrikが少し気になる。 DesiréeはCarl Magnus伯爵 (Jarl Kulle)と愛人関係にあるのだがその強引さがうざくなってきたので、まだ自分に気があるらしいFredrikとよりを戻して、伯爵を妻Charlotte (Margit Carlqvist)のところに返そうと画策して、自分ちの邸宅で真夏の夜の晩餐会を開くことにする。

こんな連中に、こんな計画がうまくいくわきゃなくて、終わりにはロシアンルーレットの決闘あり自殺騒ぎあり、口を覆って”Oh My..”の連続なのだが、とにかく夏の夜は微笑む。それも三度も。
TVドラマによく出てくる人物関係矢印図が欲しくなるくらい入り組んでいて、でもとにかくみんなふぉっふぉっふぉっ ⇄ おーっほほほ、て笑いながらおおらかに恋愛欲性欲全開で、眉間に皺して悩み苦しんだり泣いたりしているのはひとりもいなくて(Henrikのはただの童貞病、という認識)、いつまでも暮れない北欧の真夏の夜、かの地の貴族はこんなふうになっちゃうんだろうな、という説得力だけはじゅうぶんあるの。

冗談みたいな引力がどこからか勝手に働いて最後には神さまか … みたいな至福がみんなに降ってくる - ここで描かれた喜劇のマジックってベルイマンの悲劇(というか明るくない系の作品)と超越的ななにかにあまり依存していない、という点において根はおんなじ気がする。
じゃあなにが、どこのどいつがそうさせるんだよ? っていう問いが常にそこには、白夜の沈みそうでなかなか沈まないお日様のようにあって、ベルイマンの作品を見ると焦点はいつもそこに行く気が、これまでのところ、している。


För att inte tala om alla dessa kvinnor (1964)


1月26日の晩、これもベルイマン特集でみました。 これもコメディだというし、前日のがおもしろかったので。
英語題は”All These Women”とか”Now About These Women”。 邦題は『この女たちのすべてを語らないために』。

ベルイマン最初のカラー作品だそうだが、最初は白黒いお葬式で、ユニークな名前で呼ばれるいろんな女性がかわるがわる現れて棺のなか(こちらからは見えない)を覗きこみ「似ているようだけど、別人のようだわ」という台詞をそれぞれの言い方で言う。 話はその3日前だか4日前に遡り、世界的に有名なチェロ奏者の邸宅を高明な音楽評論家(自称)が訪れて、評伝を書くよう依頼されたのでインタビューに来たと言って中に通されるのだがチェロ奏者は一向に現れる様子がなくて、替わりに彼の愛人たち(冒頭に現れたいろんな方々7-8人)が次々と出てきてちょっかいだしてきたりお色気(死語)挑発したり、どこまでも本人にたどり着くことができないの。

最後まで顔を見せずにリハーサル中に突然死んじゃうチェロ奏者も、彼が死んだら次の、もっと若いチェロ奏者に集団移動していく愛人たちも、自称音楽評論家も、みんな高慢ちきでまともな態度と挙動の奴はひとりもいなくて、なにやってんの.. ? みたいなドタバタが延々と、しかしスクリューボールのように連鎖していくわけではなく単発で暴発(しかもほぼずっこけ不発)していくので、だいじょうぶかしら.. って不安のほうが重なっていく。コメディなのだけど。

本人はフェリーニみたいなのをやりたかったらしいが、どこかしら失敗したファスビンダーみたいになってて、きっとこういうのやりたかったんだろうなー、とは思うもののちょっと無理して変な力いれちゃったのかも、ておもった。

2.01.2018

[log] February 01 2018 - year one

ロンドンに来てちょうど1年が経ちました。
12月の終わり頃は朝8:30でも暗かったのが、いまは7:30で白々し始めるくらいになっていて、昨年着いた頃に朝の7:30でもこんなに暗いのね.. と思ったことを思いだしたり。

別に記念みたいのはなくて、そんなことより2月からBFIでは”Girlfriends”ていうすばらしい特集が始まったのでー(以下略)。

1年経ってひと巡りしてみないとわかんないよね、とか言って適当にやっていた言い訳が通じなくなるので、これからは1年じゃわかんないことばかりだしやっぱ3年は見ないとね、とか日々は全部ちがうのだしその突端にいるのだし、とか同じ映画何回見ても、同じ美術館何回行っても違って見えるところはあるのだからがたがた言わないでほしい、とか思うのだが、そんなことを気にしてぶつぶつ言っているのは未熟な一年坊主だけだったりする。

こんなふうに時間の経過についてぶつぶつ嘆くのはこないだやって、それでも何回でも書いてしまうのは毎週月曜日が始まるとまだ月曜日であと5日もあるよ水曜日になるとまだ半分しか来てないよ、とかわーわー言うのに似ていて、とにかく機械のどこかが壊れたのではないかと思うくらい再現性が高くてやってられない状態に追いこまれているからに違いなくて、でもそんなことを言っていられるのはなんだかんだ安泰で幸せだからじゃねーの、ということを言うひともいるが、いやこれは悪夢に近いなんかなの、ともっと強く言ってもよい気がする。日本だとそこはもうはなから諦めてなんも考えずに奴隷のクローンになっていれば楽なのだが、こちらでは簡単にそうさせてくれない何かが働く、というかグリッドの外で別のグリッドみたいなのが働こうとするから、なかなか面倒くさい、のかも。とか。

とにかくどこか新しい、見たことも聴いたこともないなにかに出会いたいものだねえ、という勢力と、いいからとにかく仕事しろって、の勢力がせめぎ合いながら週が過ぎ、月になってそれが12回繰り返された。そのパターンの外側からもぐりこんできて予定をなぎ倒してくれる出張とか、掻き回そうとする市内のテロとか。

こんなふうに暮らしているひとは他にもいっぱいいるのだから、という日本でよく言われがちな言い草は通じない。あなたのやりかたとわたしのやりかたが同じだろうが違おうがそれがなにか?  だしそこで我慢しなければいけない理由なんてじつはない。のよ。 

ないよね? ということを頭のなかで転がしながら街に出てみるとおもしろいものはいっぱいあるし、そうやっているとあっという間に時間が過ぎて、また振り出しに戻ってあーあ、とか延々やっている。

このぐるぐるに抗うべく、このぐるぐるの忘却装置にやられないようにテムズ川(テームズなのかテムーズなのか)を渡ってBFIとかTateとかに通ってこういうのをぱたぱた書いたりしていて、いつまで続けられるかわからないけど、とにかく書けるとこまで。

それにしても、こんなに川を渡ったり戻ったり、階段昇ったり降りたりばっかりの日々になるとは思わなかったねえ。