7日の火曜日の晩、時間があいたしもうじき終わっちゃいそうなのでCurzonのVictoriaでみました。
メンバーシップ使ってタダで。デジタル4Kの2Dで。ガキはまったくいなくて、近所の老人みたいな人たちが数名いるだけ。
前の"The LOGO Movie" (2014)からのスピンオフで、というかメインとなるお話なんてないようなもん(あったんだっけ?)て気もするので、お菓子の新しいおまけとかフレーバーが増えた、とかそういうノリでよいのだとおもう。
ぜんぶレゴでできた世界 - CGだと8-Bit Graphicsだし、音楽だとリズムボックスとシーケンサーだけ、プレ=デジタルの抽象化、戯画化されたパーツで世界を再構成する。それはまじで、エモから法に掟、思考から思想まで含めての翻案、というより再構築・再構成で、大切なのはそれについてこれるのかこれないのか/のれるかのれないか。 なんでLEGOなのか、とか考えてはいけないの。
で、そこを受け入れることができたとして、次には以下のことを(改めて)肝に銘じておく必要があるだろう。
・LEGOは世界そのものになりうる、ということ
・LEGOを操るひとは世界をつくる・動かすことができるのだ、ということ
・LEGOは神であると同時に最小構成単位でもありクリナメンでもあって、とにかくぜんぶなんだって
・LEGOはとにかくぜんぶで、ぜんぶが等価にいろんなことをわーわーいう、ということ
といったことを踏まえた上で、今度の主人公はバットマンとその仲間と、ジョーカーとその仲間で、バットマンはいろんな世代交代を経ながらも正義の味方でヒーローであることは決まっていて、ジョーカーも同様に悪の権化で破壊活動を繰り返すことが代代定められていて、ふたりが永遠の宿敵同士であることも同様なのだが、バットマンがおいらはそもそも孤高のヒーローじゃんか、ということをぶつぶつ言いだしてからいろんなことがおかしくなって、どーすんだこれ、の大混乱になるの。
LEGOは孤高の、単独のピースでLEGOたりうるのか? そういう世界は成り立つのか、あっていいのか、LEGO的に単純化するとそういうテーマなのだが、べつに単なる漫画として見てもまったく問題ないしおもしろいとおもう。
漫画でいちばん近い感触かもと思ったのは - これが通じるかどうかなのだが - 「シニカル・ヒステリー・アワー」あたりなんだけど。
前作のLEGO Movieではまだ実写の人間が出てきて、世界における「人」の関与介在という視点というか意識があったけど、今度のはまったくなくて、はじまりの黒画面からおわりの白画面まで、ヒーロー映画そのものをメタメタの8-bit化しようとしていて、その試みはうまくいっているのではないか。
なんでか? それが世界平和への道だからじゃよ。
これが中国で当たらなかったというのはなんとなくわかるかも。
“Transformers”のシリーズがだんだんつまんなくなってきたのもなんとなくわかるかも。
ヒーローものの次は怪獣ものをやってほしいのだが、むりだろうな。
ぜんぜん関係ないのだが、週末になるとBBC FourていうチャンネルでTop of the Popsのベストみたいのをやっていて、82年のとか83年のとか、いくら見ていても飽きないのだが、さっきつけたら90年代のをやってて、これらが悶絶するくらいに懐しいのだった。
Blur, Menswear, Echobelly (Sonyaだあ), PULP (Jarvisがぴちぴち), Gene, bluetones ...などなどー。
週末だあー
3.11.2017
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