12月10日の昼、 “Évolution”に続けて同じシアターの同じ座席でみました。
とっても混んでいたのでびっくりした。
翻訳版の「映画術 ヒッチコック/トリュフォー」が出た時、これはヒッチコックの映画をちゃんと見た上で買って読まないといかんよね、と思って気づいたら30数年が過ぎてて、映像版が出てしまった。その間ヒッチコックの映画はちゃんと見れたのかというと、実はあんま見れていない。
このままだと見れないままで自分が死んじゃう可能性のほうが高くなってきたので、これを見たうえで改めてヒッチコックの映画を見て、本を読んで、いなくならないといかんか、と。
Hitchcock / Truffautの本の元になった対話の映像記録や音源を挿入しつつ、10人の映画監督にHitchcock映画の魅力をそれぞれの角度から語ってもらう。 その語りが面白くて、ひとつはTruffautが62年の対話で掘り下げたテーマをそれぞれが継いで、例えばHitchcock / Fincher、Hitchcock / Scorsese、Hitchcock / Gray、Hitchcock / Linklater のようなものになっていること、もうひとつは10人それぞれの語りの掘り下げかたとか視野視角が、各監督の映画に対する攻め筋みたいなのをわかりやすく現していることで、こんなふうにHitchcock / Truffautが巻き物にした映画の「術」は伝承されて編み目になっていくんだなあ、て。少なくとも「秘伝」みたいな閉じたものにはなっていない。
Hitchcockを語るときに必ず言われる観客の目線 - 観客がそれをどう見てどうびっくりするかが肝心、ていうのは当然のように認識された上で経由してくるのでとにかくわかりやすいし、優れた作品ガイドがそうであるように、まず作品を見たい気にさせてくれる。
で、見たいのは映画館で、なんだよね。Film ForumとかでHitchcockがかかると当然のようにSold Outしてて憮然とすることがあるのだが、とにかくHitchcockは親子(特に父子が多い)とかで見て「わぉ」とか「オーマイガー」とか(口を押さえて)「(!!!)」とか暗闇のなかでじたばたしながら見るのが楽しくて、それって今の日本の映画をみる環境(親子連れはアニメ)だと不可能に近くて、だからまずこういうのからでもHitchcock見る下地を作っていかないと。
ひとつフォーカスするとしたらやっぱり男の変態性(少しの幼児性)、ていうとこだろうか。出てくる監督連中の作品も割とそういうとこあるけど、男がこんなにも嵌って60〜70年くらい続いている西欧の男の変態のしぶとい普遍性、その象徴としてのあのぶよぶよデブ、ていうのを「映画術」とは別の、フェミニズムの観点からぼこぼこに掘ってみたらおもしろいと思うのだが。
登場する監督10人があまりにFilm Comment誌寄り、NYFF寄りで唸ってしまうのだが、全く異議はなくて、ここにいない人だとBrian De PalmaとNoah Baumbachくらいかなあ、て思って、でもこの二人は、”De Palma” (2015)のほうで忙しかったのかも。こっちも見たいなー。
2日は頭痛がひどくて、映画始めもお片付けもあきらめた。4日に病院の検査があるのでいつもの薬を飲めなくてうんざりで、とんだ年始でございました。 がんばります。
1.02.2017
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