1.19.2017

[art] Apichatpong Weerasethakul: Ghosts in the Darkness

8日、ゲリンを見る前に写真美術館の地下に降りて見ました。
『アピチャッポン・ウィーラセタクン 亡霊たち』

このアピチャッポン氏も、ゲリン氏と同じようにカメラを手に特定のテーマを追って森の奥に分け入っていくひとで、彼の場合だと「幽霊」、「白昼 vs 闇」、「森」、「地べた」、みたいなのに反応するふうになっている。

そしてそれらを目を皿にして探したり掘ったりしているわけではなくて、フレームのはじっこになんだか映りこんでしまったものを、なんの因果か否応なく映りこんでしまうことを受けとめたうえで、画面の上に、あるいは地べたや壁の上に光や影として定着させることを、呼びこむことを震えながら待っているようなかんじがあって、この点では映画作家というより、アーティストに近いかんじもしていて、この展示はとてもおもしろかった。 

他方で映画作家かアーティストか、のような議論てアピチャッポンの場合はあまり意味がないような気もしていて、彼が映画のなかで提示する物語構造はとっても変に抽象化されたアートみたいなもんだし、彼がもってくるアートって「暗闇のなかの幽霊」でつまり要するに見えないものだけど、それって映画のことだよね、て思う。

インスタレーションを全部見ていくと時間がなくなってしまうので、「灰」- “Ashes” (2012) ていう約20分の作品だけみた。
(おそらく)わんわんを散歩させながらいろんな場所を水平に移ろっていくのだが、晴れているのか曇っているのか、昼なのか夕暮れ時なのか、はっきりしない風景のなか、風なのか灰なのか、なにかが向こうから執拗に吹きつけてくる圧、みたいのに曝される。 音は特定の周波域のみをオミットしたようなやつで、それなのに、それゆえに控えめだけど圧倒的な何か(つまり変なやつ)がそこにいるの。


ゲリンの後、雨ざあざあだったがNADiffまで歩いて、鷹野隆大「距離と時間」ていう展示も見た。

アピチャッポン氏がアジア的な世界観(なんて言葉きらいだけど)、幽霊観のなかで追い続けた距離(それはあの世とこの世の間のそれでもある)を、よりミニマルで「現実的」な都会の生活のなかに置きなおしてみる、マップしてみる、そういう試み。

それがどうした、ということではなくて、目に見えていること/いないこと、映りこんでいるもの/いないものの段差のなかに、我々の生はどんなふうにしてあるのか、あらされているのか、を考えさせる。 つまり生者とは、死者とは、とか。 などなど。たとえば。

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