1.29.2017

[film] Silence (2016)

ええ、ええ、あと二日しかないわけです。 どうしろっていうのでしょう - 神様?
なんで何も言ってくださらないのでしょう? 

26日の木曜日の晩、日本橋でみました。

原作は読んでいない。学校でキリスト教とかキリスト者とかキリスト教と仏教との違いとか散々学んでいたとき、原作を含む遠藤周作の作品も散々読め読め言われたのだが当時の自分はサルトルにやられていたのだった。(かわいそうに)

オープニングがすばらしくて、虫や鳥の声がわんわん満ちて高まっていってそれらがさっと引いて静まって一拍おいてタイトルが - 。

17世紀、長崎に布教にでたイエズス会のFerreira神父 (Liam Neeson)が他の神父への拷問(温泉熱湯責め)を見せられ嘆き悲しむ様子が導入で、ポルトガルで彼の最後の手紙を受け取ったイエズス会は彼の棄教が確認された、と弟子のふたり - Rodrigues (Andrew Garfield)とGarupe (Adam Driver)に告げるのだが、若いふたりは納得せず自分達が現地に行って確かめて(救って)まいりましょう、と上が止めるのを聞かずに東の国に向かう。

マカオで日本人のキチジロー(窪塚洋介)と出会って彼の手引きで上陸はできて信者の間ではささやかに歓待され隠れ家も与えられるのだが迫害の脅威と実態は想像を超えた凄まじいもので、信者には隠れ信者の仲間を売ったら金をやる、教えを施すものには棄教すれば許してやる、でもどのみち信者は拷問の末に殺される、なので地獄としか言いようがないのだが、彼らは教えを貫けばパライソに、神のもとにいけるということを固く強く信じている - というかこの宗教の根っこはそこにこそあるのだから根絶することなんてできやしないの。

前半ではどれだけ拷問されても最期まで信仰を棄てない聖モキチ(塚本晋也 - すごい)を離れて見ているしかない二人の絶望が描かれ、後半はGarupeと離れて捕らえられたRodriguesと彼をなんとしても棄教させようとする幕府側 - イノウエさま(イッセー尾形)&通訳(浅野忠信) - との対決を軸に、こんなふうになっても人は人に赦しを与えることができるのか? なぜ神はどこまでも沈黙を貫いておられるのか? といったRodriguesの魂の逡巡が描かれる。

ここで幕府とRodriguesの間で延々続いて平行線のままで途切れる宗教と国(体)の寛容・需要、不寛容・拒否を巡るやりとりはこの映画のメインテーマではないものの、余りにアクチュアルに現在と繋がっている。 抑揚ゼロで丁寧に脅し文句を並べて体を折りたたんで縮まったりするイノウエさまと、強圧的かつ大仰にホラ(ヘイト)スピーチを並べてガマガエルのように膨らんでみせるトランプを対比してみ。

Martin Scorseseて、自分のなかでは相反する立場の間のいろんな極限状態をSとMの軸で切り返していくSM作家なのだが、この作品では静かな画面 & 音響構成のなかでそれが際立って美しく(といってよいものかどうか)出ている気がして、そのありようが作品本来のテーマに見事に重なって人の魂はどこに、どんなふうに、どこまで強く毅然とあることができるのかを静かに淡々と示している。
いわゆる「感動」とは無縁の作品を作るひとだと思っていたのに、感動してしまうことにびっくりして感動した。

あと、Spider-Manがいて、EP1のQui-Gon Jinnがいて、その曽孫弟子のKylo Renがいて、(Thorの)Hogunがいて、(鉄男の)ヤツがいて、実はDark Sideとの境界で戦ってきたものすごい強者共がひと揃いしている映画なのに、ヒエラルキーの頂点でいちばん強かったのはEmperor Hirohitoだったのね、という。

日本の自然をとらえたカメラもすてきで、樹々の間を抜けていく鳥とか一瞬で湧いて出る猫猫とか、これも新鮮だったかも。

こういう日本を描いた作品て、海の向こうで見ると違った印象を与えることもあるので、向こうで落ち着いてからまた見てみようとおもった。

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