6月21日火曜日の晩、シネマヴェーラの特集『ジョージ・キューカーとハリウッド女性映画の時代』でみました。
『女たち』
なんでいま、キューカーなのか、は単に評伝本が出ただけかもしれないが、見れるのであればこんなにめでたいことはないわ。
けどなー。83年修復版のデジタルリストアされた『スター誕生』 - 2010年にTCMで公開されたやつ - を入れてほしかったなあ。あれ、大画面でみると怪物のようにすごいのよ。
この映画は2011年の暮れ、当時長期滞在していたロンドンのICA (Institute of Contemporary Arts)でその月の定期上映みたいな枠でやっているので見て、大好きになった。 あのときは紙芝居みたいに小さい画面(でもフィルム)で、大学生くらいの女の子たちがきゃーきゃー言いながら見ていたなあ。
冒頭、登場人物ひとりひとり - もう知っているとはおもうけど、画面に出てくるのはぜんぶ女性、女性しか出てこない - のキャラクターが、動物の顔と一緒に紹介されてておもしろくて、失礼しちゃうわ、なのだが、ポイントはここで行われた抽象化、というかシンボル化が - それが高度なものかどうかは別として - ストーリー展開も含めて全体を貫いている。
高級エステサロンにやってくる人々のシュールな描写からはじまって、ぺちゃくちゃきんきんした噂話、ゴシップライターがいて伝言ゲームで、その噂がまさか自分のものとは、と思っていたら見事にひっかぶって、更に最悪なことにそこで言われていた夫の浮気はほんもんらしく、しかもその相手ときたら自分と比べたらどう見たって... で、新婚のときにはあんなに幸せだったのにこんなにかわいい娘もいるのに、母に相談しても仲間に相談してもぱっとせず、結局元に戻らないまま夫とは離婚してRenoで同じような仲間と暮らして、他方で浮気相手と一緒になった夫と娘のほうは案の定散々らしいのだが、もう関係ないし知らないわよ、でもやがて、やっぱし、きたきたきた、みたいな。
男が出てこない、のとおなじように、ひとりにならない(複数形の「女性」)、というのも基本ルールにはあって、誰もひとりで悩んだり泣いたりしなくて、絶えずだれかと(電話を通してでも)なにかおしゃべりをしている。そのおしゃべりが出来事や人をからからと転がしたり回したり。その過程で誰が敵で誰が味方なのか、が明確になって、どちらに行くのか留まるのかがはっきりして、 ピタゴラスイッチみたいに上へ下へ、自在でとりとめないようでいて、実は決まりようがないところにしか、決まらない。落ちない。
話の内容だけ聞くと、どこかで聞いたようなどろどろ系の、困ったもんだね、みたいなご近所話なのだが、この映画にはそういう感覚の底にどかどかあがりこんできたり感情の襞にねじこんでくるようなところがない。 集団のダンスやマイムを見ているような、工場(けっこうやかましい)の自動工程を見ているような、そういう戯画化されたハイパーなおもしろさがあるの(唯一画面がカラーになるファッションショーのプラスティックなかんじとか)。 ロマコメとしての展開は十分におもしろいから、倍おいしい。 しかも時代とかに制約されない。スタイリッシュていうのはこういうこと。
※こないだ出た評伝の著者Gavin Lambertは、『女性たちは一人として自分のあさましさを気にかけていない、妥協していない。だからこの映画のコメディの部分は色褪せないのだ」て書いている。
SATC(映画じゃなくてTVシリーズのほう)は、明らかにこの線を狙ったものだと思うのだが、きちんと評価できるようになるにはもう少し時間がかかるのではないか。(← なんでだろうね?)
とてつもなく醜悪で残酷で体にわるくて、でもスイートで、悪魔のように巨大なパフェみたいなかんじ。
でもひとはそんなジャンクな張りぼてについふらふらと寄っていってしまうの。
で、それを”The Women”、と ...
7.12.2016
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