26日土曜日の昼、新宿でみました。
『母よ、』 - 英語題は”My Mother”。
主人公のMargherita (Margherita Buy)は映画監督で、長期化する工場のリストラと労働争議に関する映画を撮っているところで、離婚していてひとり娘の親権はex-夫のほうにあって、仕事もあるのでつきあっていた彼とは距離を置こうとしていて、それらに加えて入院していた母 (Giulia Lazzarini)の状態があまりよくないので最悪の場合の覚悟を、と病院から言われてしまう。
介護に専念するために兄 (Nanni Moretti - 監督本人)は会社を辞めて、自分も仕事や日常のあれこれの合間に当然のように病院に通って看病したり母といろんなことをおしゃべりしたりする。
これらの、どこの誰もがやっているようなあたりまえのことが、来るかもしれない母の死を前に少しずつあたりまえではないふうに変わっていく。 自分は母のことをほんとうにわかって生きてきたのだろうか、母はこんなふうにされて喜んでいるのだろうか、母は自分がもうじき亡くなってしまうかもしれないことをわかっているのだろうか、わかっていないのだとしたら娘として教えてあげたほうがよいのだろうか - などなどなどの問いが次から次へとやってきて、思い悩むようになって、仕事にも影響を与えるようになる。
これらの問いに主人公が自身で答えを見いだすわけでもなければ、ストーリー展開が主人公をその答えに向かわせるわけでもない。 ものすごく自然に、この手の喪失をテーマとするドラマとしては不自然なくらい自然に、ことが、仕事や生活が右から左に、奇跡なんて100%起こりようもないふうに流れていって、最後に母は旅だってしまうのだが、それでも、それ故にずうっと一定の悲しみが漂って流れてきていて、でもそれはそういうものなのだろうな、と素直に納得できるものだったから、終ってみれば、ああよかった(いっぱい泣いたけど)、になるのだった。
自分のアパートが水回りの故障で水浸しになったので入院中で不在となっている母の部屋で過ごすことにしたとき、母の日常を余りに知らなかったことに驚いたり嘆いたり、高校のラテン語教師だった母の教え子の話を聞いたり、娘のラテン語の勉強を吸入器を付けながら指導する母の姿を見たり、仕事のほうではアメリカから招いたちょっと面倒くさい俳優 (John Turturro)の相手をしたり、こんなふうに日々のスケッチを重ねつつ、誰にでも起こりうる母の死にまつわる不安や悲しみや祈りを抽出して幾層にも重ねて行ったとき、その悲しみや辛さのありようって濃淡はあるかもしれないが、自分の頭の裏にもずっとずっとあるものなのだな、と気づく。 この気づきをほんとに静かに繊細に拾いあげたり受けとめたりしてくれる、そういう映画なの。
何を思ったのか、母がおぼつかない足取りで病院の外に出ていって町を彷徨うシーンがなんかたまらなかった。
結局、John Lennonの”Mother”のように”Mama Don’t Go”って(静かに)(狂って)叫んでいるだけなのかもしれない。それでぜんぜんよいの。
4.11.2016
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿
注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。