24日、日曜日の夕方、渋谷のアピチャッポンの森特集で見ました。
「真昼の不思議な物体」。 英語題は“Mysterious Object at Noon”。
この特集のなかで「世紀の光」は回数いっぱいやっているからあんま見る機会のなさそうなやつから攻めていこう、と思っていたら「世紀の光」も見れないままいつの間にか終わってやがるの。 ばかばかばか。
モノクロの粗い、地べたや路地でそのまま撮ってみましたみたいな映像(撮影は16mmだそう)で、カメラは子供たちとかその辺の人たちにお話しを聞いている。 聞かれた人たちが、脚の悪いひとはさー... とか好き勝手なイメージや各々の空想を勝手にぺらぺらてきとーに語るところと、同じようにそこらの人たちがそうして語られたイメージやストーリーを寸劇ふうに演じるところ、このふたつの映像 - ドキュメンタリー : フィクション - のかわりばんこの連鎖が場所や集団を変えながら、旅をしながら流れていく。
なんじゃろこれ? と最初はおもうよね。
言葉をはき出す人たちがいて、それを食べるように演じる人たちがいて、両者は見えないどこかのなにかで繋がっていて空の上に操り人形師みたいなひとがいて、とか始めのうちは思ったりもしたのだがそんなふうでもないかんじで、これはやはりもっとスケールのでっかい世界のあれ - それこそ真昼の不思議な物体そのもの - なのではないか、とか思ったり(いいかげん)。
誰かのいった言葉がほんとうの「こと」として映像として動きだす、というのはものすごい奇跡的なことのようでもあるし、あたりまえのこと - 言葉やイメージで示し得ないものは映像化できないから - のようでもある。そもそも、脚の悪いひとのことを喋ってみて、とカメラを向けたところから最初の反復は始まっているわけだし。
それにそもそも、あらゆるお伽話も法螺話も - それこそ映画だって - こんなふうなゆるゆるのあやとりから始まっていったのではないか。 このへん - あたりまえのこととありえない(ように思えてしまう)ことがなんの変哲もない映像のなかにつーんと共存してしまう- それをひとつのお話 ・映像として見せてしまう力 - がアピチャッポンなんだよねえ、とか思おうと思えば思えてしまうのかもしれないが、それこそが真昼の不思議な物体の思うツボなのではないか、とか。
場所が動いて変わっていくところの映像も音も、とてもかっこよくてほれぼれしてしまうのだが、これがカラーだったら、にっぽんだったら、全く異なる印象のものになったと思う。(もっとしょぼい、たぶん)
関係ないけど、彼の”The Adventures of Iron Pussy” (2003) ていうの見たいな。
2.10.2016
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