13日の土曜日の晩、アケルマン特集から日本橋に移動して見ました。
マンハッタンのデパート(やはりBloomingdale'sがモデルだって)の売り子として働くテレーズ(Rooney Mara)は、おもちゃ売り場のややぎこちない客として現れたキャロル(Cate Blanchett)にすこしどきどきして、いくつかの偶然のやりとりが重なって彼女の邸宅に呼ばれて、とても気になる存在として意識するようになる。
キャロルは寒色系のきらきらのキリンでかっこよくて、テレーズは暖色系の帽子むっくりカメラ娘で、まずこのふたりが一緒にいる絵姿がほんとうに素敵。
テレーズには欠点のあまり見当たらない元気で快活な彼がいて、彼のほうは結婚したいと考えていて、キャロルは離婚調停中で、娘の養育権を巡って争っているのだが、夫ハージへの嫌悪と子供を失うことへの恐怖とその根本にあるらしい自分の嗜好への罪とか恥の意識などなどでぼろぼろになっていて、テレーズはそれを敏感に感じとってはらはらして目を伏せるのだが、やがてキャロルのほうから手を差し伸べてくる。 で、テレーズはその手を取るの。
同性を好きになることはいけない、とされていた時代、戸惑い恥じ入りつつもその罪を、堕ちていく自分を受け容れたキャロルはその罪の領域にテレーズを招き入れる。 それはいけないことなのかもしれないが、とっても甘美で素敵で、なんでそれを責められなければいけないのかわからないし、止められるものではないの。 失うんだったら死んだほうがましだし、どうせ娘を取られてしまった自分は死んだようなもんなのだと。
くぐもったり重なりあったりするガラス、そのガラスに反射する向こうの世界やこちらの世界で歪んだり擦れたりしている像や表情、後ろ頭、極めてゆっくりと糸をひくように動いていくそれらの奥のだんだらのなかでそれは進行していって、消え去ることはないけど、止まっていてくれるものでもない。 像はテレーズが大事そうに抱えるカメラのなかに、電話は公衆電話だったり交換手がいたり盗聴されていたり、必ず間になにかが挟まっていてダイレクトに触れる、伝わるものはなにひとつない、けどそれはしっとり濡れた画面を伝って浸食していくの。 『エデンより彼方に』(2002) で、偏見と - その裏側で愛が - 避けようもないかたちで進行して拡がっていったのと同じように。
愛は夢のように甘美にでも同時に犯罪の後ろめたさをもって二人を誘って、その先にはいろんな受難が待っているのだが、でもそれでもなお甘くて、強い。言葉はあまりいらなくて、絡みあう視線、その導線となる目配せ、それだけで十分にふたりの狂おしさが伝わってくる。
ラスト、すべてを失ったキャロルがテレーズを見る目はすさまじく崇高すぎて近寄れなくて、でもテレーズは。 原作のラストもすごくよくて、いくらでも噛みしめることができる。
あんまし最近のLBGTの文脈のなかで語ってほしくない。恋のどつぼにはまって、その只中で狂って叩きのめされている人たちに見てほしい、そういう、ほんとに純な恋愛の映画。
Cate Blanchettさんはほんとにすごいなー。”Blue Jasmine”での彼女がJasmineでしかありえなかったのと同じように、ここでの彼女はCarolとしか言いようがない。
そして、最後のほうにちらりと登場して、やはりその強い目でテレーズのなにかに火をつけるCarrie Brownsteinさん(原作ではジュヌヴィエーヴていう青い瞳のイギリスの女優、ていう設定)。
ぜんぜん関係ないけど、何十年ぶりかで坂田靖子の世界にひたって陶然としている。
これだわ、これ。
2.26.2016
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