2.18.2016

[film] World of Tomorrow (2015)

2月2日の火曜日の晩、「GEORAMA2016」ていうイベント(?)のなかの「ドン・ハーツフェルトの夕べ」ていうのに行った。

『きっとすべて大丈夫』3部作は、2012年にイメージフォーラムで最初の2部を見ているし、爆音で3部作ぜんぶも見ているし、bitter filmsのサイトからDVDも買ったし、それでも何回でも見るし、今回は新作も見れるというし、本人がやって来るというのだから行かないわけにはいかない。

『きっとすべて大丈夫』3部作は、何回見ても、なんだろうな、いろんな方角からいろんな感情がこちらの感情にダイレクトにぶつかってくるので混乱する。 疲れているときはしんどいのだが、なんでこんなんなっちゃうのかすごいなー、ておもう。マスターピースとはとても呼べないけどずっと偏愛して聴き続ける変なアルバム、みたいになっていくのだと思う。

後のQ&Aの監督の発言で、あの第3部 - “It's Such a Beautiful Day”がなんであんなダークでどうしようもない救いようもないふうになってしまったのかについて、狙っていたわけではなくて、気づいたらなぜかああなっちゃっていた、みたいに語っていたのがおもしろかった。 なんだかほっとしたの。


今回はじめて見た新作 ”World of Tomorrow”。  女の子のおはなし。 16分。

ある日女の子エミリーんちの電話が鳴って、取ってみると大人の女のひとの声で自分はエミリーの3世代後のクローンで227年後の未来から掛けている、って、もっと話したいんだけど、Internetじゃない - その進化形のOuternetていう空間があるからそこで会いましょ、おいで、っていうの。

ふつう、そんな電話が掛かってきたってそんなの誰が信じるかよ、て思うのだが、これはDon Hertzfeldの世界なので、とりあえず信じる。
(信じる信じないのはなしをしだしたら、こんなの線でできたペラペラ漫画みたいな世界だから総崩れになっちゃうんだけどね)

エミリーを呼び出したクローンエミリーはエミリーに227年後の世界でのいくつかの記憶を語って、それはあんまよくないのだが、でもエミリーには知っておいて貰いたいのって、でもそんなこと言ってもエミリーはただの幼児だからその意味がわかるとは思えなくて、ここで伝わってくるのは、3世代後のクローンからまだ無垢なエミリーに伝えないといけないようなことがある、そういう事態がおこる、ていうことで、これって「なんて素敵な日」のビルがだんだんにおかしくなっていくのと同じような向こう側からやってくる避けようもないなにかの予感とその悲しさがある。 エミリーに撒かれた記憶の種は彼女のその後の人生に影響を及ぼして、なんらかの形でクローンエミリーのなにかを救うのだろうか。 或はもうどうしようもないことがわかっているから言ってみたのだろうか。

なぜ自分の孫とか親戚ではなく、クローンなのだろう?  鏡の向こうの寸分違わない誰かである必要があった、ていうことか。

どんどんからっぽになっていったビルと/まだからっぽでこれからいろいろ埋まっていくエミリーと、そこにやってくる、そこを通り過ぎていく世界のいろんなのとその明日と。 ぐにゃぐにゃどこまでも伸びてオシログラフみたいにうねっていく線は、彼ら彼女の存在の外縁であると同時に時間そのものでもあって、その線をノイズも含めたいろんな面とか色とかが覆ったり崩したりしていく。  ふつうのアニメーションが描きだすきらきらしなやかな明日の世界とはちがう - 世界はこんなもんじゃない - じゃあどんなもんだってんだよばーか! くらいのことはおもったり。

画面や色味は初期CGみたいなけばけばした原色多用のサイケとジャンクのあいのこで、そこにエミリーの子供声(姪っ子の声なんだって)が絡むとなんじゃこりゃ、な世界になってしまうのだが、見終わったあとのぽつりとしたかんじ(取り残される、のともちょっと違う)は変わらないの。

ラストの一瞬のずっこけ、最高だった。
こんなのオスカー獲るわけないとおもうけど、おもうけど、獲ったらすごいねえ(がんばれ)

監督のトークとQ&Aもおもしろかったけど、たぶんそこにいた人たちの誰もが、あーやっぱりこういう人だったんだ、と再確認したり納得したりしたのではないか。 よい意味で。 
DVD買った、けどサインは貰わなかった。 またどっかで会う気がしたからさ。

0 件のコメント:

コメントを投稿

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。