10.29.2015

[log] October 29 2015

先週予定していた出張は直前にがらがらとキャンセルになって、それとはまったく別のやつが思わぬ角度から2日前に立ちあがり、かぜでへろへろのよくわからない状態のまま会社に来て、午後に会社から成田へというのはほんとうに落ち着かないのでやめてほしいわぶつぶつ、と東京駅でNEXを待っているといきなり人身事故で動かないかもとか言われ(..またか)、しょうがないので京成の上野までひーひー言いながら走ってスカイライナーに切り替えて、振り返ってみればなにひとつ言うことを聞いて貰えずされるがまんまで成田まできて、大慌てでお土産とか買ってラウンジで着替えて、PCを開いた。 ここからNew Yorkへ。 2週間ぶり。 機内に入ってしまえば凧の糸は切れる。できることはそれくらい。 よくもわるくも。

いちばん悔やまれるのは断然、なんといってもCourtney Barnettだよう。チケット買ってたのにい。
あと、Ken Jacobsの"Star Spangled to Death"のオールナイトもー。

週末はハロウィンだねえ、というわけで、スカイライナーではひさびさにLou Reedの"New York"を聴く。
微熱でぼうっとした頭にとってもよくしみる。

ハロウィンとか言っても、金、土、日と缶づめの突貫工事で、自分の力ではどうにもならない系のやつで、月曜には出てしまうのでなんも、どうすることもできやしない。 深夜にハロウィンパレードの列の後ろでゾンビのふりをしてみるとか(たぶんメイクいらないの)。

ハロウィンなのにあんまライブとかないねえー(探してんじゃねえよ)。
5年前のハロウィンにはThe Dresden Dollsがあったんだよねえ。

せめて日曜日の夕方とかだけでも動ければあー。

ではまた。 走りまわれるほんの少しの体力だけは... (ああ神さま)

10.28.2015

[film] The Wolfpack (2015)

10日の土曜日、京橋から新宿に移動して夕方、「ラテンピート映画祭」からの1本。
ラテンアメリカ系のドキュメンタリーは山形でいろいろあったようで、ああ行きたいなあと思いつつ、山形までどうやって行ったらよいのか見当もつかなかったので、こっちでがまんする。

このドキュメンタリーはずっと見たかったやつ。 今年のSundanceのドキュメンタリー部門でGrand Juryを受賞している。

マンハッタンのLower Eastのアパート(Seward Park Extensionだって、ついこないだ通った)の一室で、おもちゃの手作り銃でReservoir Dogsごっこをしている兄弟がいる。 彼らは6人で、他に妹もいて、全員髪を切らないポリシーで長髪だけど、ふつうに仲のよい兄弟、家族に見える。 兄弟へのインタビューを通して、彼らは音楽を作ったり踊ったり映画を見たり「ごっこ」したりして遊んでばかりいるようだが、それらは放課後とかのことではなくてずっと、子供の頃からずっとそうなのだという。

彼らの父親(母親も)はNYのこの辺は危険だからと、父親がアパートの鍵を管理して一切の外出を禁止してきた、と。  一瞬、どろどろの監禁、DVドラマか、とか頭をよぎるのだが、子供たちは拍子抜けするくらい冷静で穏やかで、パパは看守だよね、とか言っている。 母親にホームティーチャーの資格があって、家には5000本くらいの映画のVHSやDVDがあって、それらからいろいろ学んだのでだいじょうぶ、と。 確かに言葉の発音は明瞭でしっかりしているし、彼らがリストアップした映画のベストを見ても極めてまっとう、としか言いようがない。映画をいっぱい見ていれば世界や社会の大抵のことは学べるんだねえ、と改めて感心したり。

実際、映像で少しだけパパとママの姿も出てくるのだが、あんまり変なひと、虐待しているひと、の傲慢な印象はない。 むしろ普通に、真剣に子供のことを心配しているふうで、子供たちも素直にその愛に応えていますから、程度のかんじなの。
監禁/軟禁でもなく、引きこもりでもなく、なんとなく出る機会を逃して、映画とか見ているうちに気づいたら10数年経っていました、みたいな。

"Grey Gardens” (1975)と比較している記事があったが、よく見ると引いてしまうようなびっくら生活を堂々と、淡々と進めている/過ごしているなんか変な人たち - でもどこが変なのかちゃんと言うのは難しいかも -  のドキュメンタリー。 彼らはちょっとやそっとでは揺るがないので、その姿を見ているとすがすがしくて感動してしまう。

で、やがて子供たちはこわごわ外の世界に出るようになる。
最初は地元の数ブロック先まで、サングラスにコート姿でばっちり決めて出かけて、緊張でぐったりして戻ってきたり、地下鉄でコニーアイランド(NY旅映画の定番)に出かけて、生まれて初めて海を見てびっくりして、泳いでみたり。
彼らの目にそれらはどんなふうに見えたんだろう、見えるんだろう、てちょっとどきどきしたり、そういうおもしろさもある。

こうしてだんだん外に出ていくようになってから、家族内の温度や空気も少し変わって、でも変わらないものもある。
最後のほう、みんなで郊外にピクニックに行ったり、いろんな恰好で映画を撮ったり、ああいいなー、って。

今の自分なら5000本のDVDの部屋にこもること/社会との関わりを断つことに何の抵抗も懸念もない。 ぜひやってみたい。  でもあのアパートの場所では無理だわ。

[film] The Last Command (1928)

かぜひいたよう。

10日の土曜日の昼間、京橋の特集『シネマの冒険 闇と音楽 2015』、で見ました。 サイレント。
『最後の命令』

ハリウッドで戦争映画のキャスティングをしている人がある男の写真に目を留めて、この男にエキストラの募集に来るように言う。貧しくよれよれで全身が変に痙攣してて怪しい老人は撮影所にやってきて、将軍の衣装を受け取って身につけるとまるでその風格は将軍のようで、どうも本当にロシアの将軍だったらしいのだが、ではなんで彼はこんなところにいるのか。

帝政時代の終り頃のロシア、皇帝のいとこで将軍のセルギウス・アレクサンダー(Emil Jannings)は前線で革命勢力と対峙しつつ、威厳たっぷり自信満々で指揮をとっていて皇帝からの信頼も厚くて、そんなある日スパイ容疑で捕まえた反帝政の男女がいて、そのうちの女性のほうにちょっとだけ情をかけてしまったが故になかなかしょうもない地獄の方に転がっていく。

権力側と反体制側の攻防の生々しさと非情さ、そして女の手の内でころころと変転していく情勢が機関車の轟音と共に破滅に向かっていくその臨場感、疾走感ときたらとんでもなくてぜんぜんサイレントとは思えなかった。

こうしてロシア革命は将軍をハリウッドのエキストラに送りこんで、こんなに息詰まる紙一重のドラマを作らせることに成功したのだった、と。

とにかく将軍役のEmil Jannings、あの、ものすごーくおっかなくて震えないわけにはいかない”The Last Laugh” (1924)とおなじく、ひとの「最後」のなにかを、「最後」にどうにかなってしまうひとをとてつもない生々しさで演じていて、あの熊のようなでっかさと体の分厚さすら演技の一部としか見えなくて、これで第一回オスカーを受賞している。 第一回がこれだからオスカーはあんなにも呪われちゃったのね、とか。

10.26.2015

[film] The Babadook (2014)

8日、木曜日の晩、新宿でみました。
こういうホラーは普段は(ぜったい)見ないのだがIFCとかでずっと地味にロングランしていたし、なんかあるのかなー、とか思って(← 甘かった)。

息子が生まれた日に夫を事故で失って以来、息子の誕生日は夫の命日だよね、て悪夢を見たりしているシングルマザーのAmelia (Essie Davis)がいて、息子のSamuel (Noah Wiseman)は落ち着きなく不安定で学校でも問題起こしてばかりで、Ameliaはそういうのも含めてあれこれ疲れきっている。

いつものように寝る前、Samuelに絵本を読んであげたとき、彼が持ってきた絵本に描いてあったのがBabadookで、そいつはなんか妖怪みたいな化け物みたいなモノクロの影で、不気味なドス声でばーーばーどっくどっくどっく、とか言いながら現れて、不吉で気持ちわるいことがいっぱい書いてあったので本をどっかに片付けるのだが、Samuelはその内容に異様に反応して殺気だって、それがまたAmeliaを不快にさせる。

本は子供の手の届かないところに片付けたはずだったのに再び引っぱり出されて置かれていて、気持ちわるかったので燃やしてしまうのだが、なんかBabadookみたいなのがAmeliaにも取り憑いたみたいになって、そこからはとにかくおっかないったら。 最初のうちはガキが不気味でうざかったのだが、後半は狂った目のママが包丁もって追っかけてくる。

決定的な出来事や明白な痕跡を起点に恐怖が渦を巻きはじめるのではなくて、その始めからちりちり気持ち悪い音とか気配とか部屋の奥の暗がりからなんかが立ちあがってそこにいる、ぜったいそこになんかいるし(泣)、ていう怖さがぱんぱんで、ああ興味本位で素人がこんなの見にくるんじゃなかった帰りたい、て15分おきくらいに思っていた。 ていうのはホラー映画としてはうまくいっている、ということではないか。 
あとね、おっかないので脳が早く忘れたがっているらしく、もうあんま憶えていないくらい。

映画でいうと“The Shining” + ”Home Alone”みたいなかんじ、かなあ。(← こどもか)

ところで、Babadookてのがなんなのか、結局わかんないのよね。 宮崎アニメに出てくる変なやつをどす黒くしたみたいな?

10.25.2015

[film] 螺旋銀河 (2014)

6日火曜日の晩、渋谷でみました。 
びっくりするよねえ。 こんなにおもしろいのが転がっている。

ちょっと派手めでつんつんしたOLさんの綾(石坂友里) - 肉食ふう - と見た目は地味でもっさりしたOLさんの幸子(澁谷麻美) - 草食ふう - のふたりがいて、綾はシナリオ教室みたいなのに通っていて、いじめなのかなんなのか、講師からラジオドラマ放送用に採用してやってもいいけどまだシナリオとしていけていないから、共同執筆者の友達を連れてこい、て言われる。  彼女には友達なんていくらでもいそうで実はいなくて、たまたま近くで草を食んでいて人懐こそうに寄ってくる幸子に声を掛けて面談にのぞむ。

事前にちゃんと言うこと言っちゃいけないことなどをリハーサルして行ったのにその場で幸子は好き勝手にしゃべりだし、しかもそれがおもしろくてうけちゃったもんだから綾はおもしろくない。他にも同じ服を着てきたり、役に立てれば嬉しい、みたいなことを言い出し、更に綾のex-彼が、幸子の幼馴染で、しかも彼女にべったりであることがわかって更におもしろくなくなり、ふたりの関係は最悪になるのだが、もともとそんな親密だったわけでもないので、なにやってんだろ自分ら、になったり。

よくありそうな正反対のキャラクターの立場逆転・転換のお話しに留まるものではなく(だって勝ちとか負けとかないし)、ふたりの関係はすれ違ったり重なったりしつつ不器用な螺旋を描いて転がっていく。 どこに?  わからないー。 
その螺旋はやがて彼女たちの作ったドラマのなかでも、それを自分たちで演じることにした彼女たちの声と共に、静かに呼応してまわりだす。決して交じりあわず繋がらず、でもそこで描かれたふたつの軌跡を眺めてみると、なんか素敵じゃないか。

それは螺旋階段でも螺旋模様でもない、螺旋「のような」何か、ではなく螺旋を生み、それ自体で広がっていく銀河なんだ、って。

そのちいさく微細な回転を司るのが宇宙の果てにあるコインランドリーだ、ていうのが素敵でさあ。
普段の生活からはちょっと離れたところで、でも普段の生活になくてはならないふうに、そこにあって、灯りがついていて、宙に浮いていて、静かに勝手にまわっている。がらんがらん。

NYで暮らしていたとき、基本はアパート内のコインランドリーを利用していたので、この場所についてはいろいろ考えたことがあった。自分の部屋でもなく、かといって完全なパブリックでもない - 少なくとも回転するドラムの中は。自分の一番身近な、身体に貼りつく衣服を洗濯する場所なのだが、そのなにをどういう順番で、どんなふうに洗うのかは自由で - 人によってはスニーカーとか毛布まで平気で洗っている - でも終ったらとっとと出ろ/出せ、みたいなルールもあって、ドラムに放置されている服は外に出されてしまったりもする。 一週間に一回は必ずここに来て一定時間、部屋と機械のご機嫌に完全に束縛されて、でも不愉快かというとそんなでもない。洗濯ものがあがってきた瞬間は気持ちよいし …  なに書いてんだろ  - - えー、つまりコインランドリーって教会とかインド人にとってのガンジス川みたいなもんだよね、と思ったことがあったの。 待ち時間のあいだに。

こんなふうに、女優ふたりの出会いのドラマをコインランドリーに - コインランドリーで出会いました、なんて安易なやつではなく - コインランドリーに突っこんで仕あげてみました、という軽やかさと、それに銀河系を持ちこんでしまう強さがすばらしい。これから畳んだりアイロンかけたり面倒なところはあるのだろうけど。

こないだの”DressingUp”といいこれといい、もう日本映画は女性のだけ見ていればええ、とかおもった。

[film] Charulata (1964)

4日の日曜日ごご、”Wild”のあとで渋谷に移動して見ました。

『チャルラータ』。 特集『シーズン・オブ・レイ』からの1本。 はじめてのSatyajit Ray。

1880年のコルカタ(当時だとカルカッタ?)、新聞社の編集長/社長の夫と邸宅で暮らしているチャルラータ(Madhabi Mukherjee)のお話し。 夫は仕事とインドの社会への理想に燃えていて快活で妻にもやさしいし、なにひとつ不自由のない生活を送っていた(←よくあるあれ)。 チャルラータも不自由ないので刺繍したりお茶のんだり読書したり、べつに不自由ないじゃん、て思うのは素人なのね。 彼女の顔はそんなに輝いてはいないように見える。

そこに夫の従弟のアマルが滞在することになって、夫は仕事で忙しいのでチャルラータは彼の相手をすることになるのだが、自由人ぽいアマルとは詩や文学の話をしたり、庭でブランコに乗ったり楽しい時間を過ごして、互いにだんだん惹かれていくのだが、でもやっぱり。

チャルラータ、ちょっとかわいそうだけど、でも挫けることはなさそうで、だから彼女にとっての緩慢な地獄は続いていくにちがいないの。 でもきっと。

インド映画に我々が(どういうわけだか)期待しがちな埃っぽい通りとか貧困とか革命とかまくしたてるような勢いとかは一切出てこなくて、カメラは邸の外に一切出ないまま、邸内とそこに映りこむ貴族の暮らし - 限られた面々、その会話と表情のみを追っている。 これだけで119分。 これだけなのにものすごくおもしろい。

表情や会話の端々に現れる各自の慌ただしさや無関心や不寛容や思い入れ、期待に希望、などなどが部屋の隅々をゆっくり動いていくカメラを通ると不安だったり不穏だったり怪しげだったり、このかんじって、Wes Andersonが屋内を撮るときの、部屋をなめるだけですべてのエモが曝されてしまう - のに似ていて、というか彼が真似しているんだと思うけど、しみじみ魔法のスパイスだよねえ。
あと、肉に向かわずにどこまでもプラトニックで勝負しようとするところなんかも。

“The Big City” (1963) のほうも見たいなー。


R.I.P.  Maureen O'Hara
燃えるように素敵な女優さんでした。
職場にいたアイリッシュのおじいさんが、彼女を女王のように崇拝していたことを思いだすなあ。

10.24.2015

[film] Wild (2014)

出張の前に見ていたやつらに戻る。 相当むりな気がするができるだけ突っこんでみる。

4日の日曜の昼間、終わっちゃいそうだったので少し慌てて新宿でみました。

ちと恥ずかしい邦題の「1600キロ」は、1000マイルのことで、そんなに律儀に変換しなくたって。

山登りの途中でへろへろになったCheryl (Reese Witherspoon)が靴を脱ぐと血まめがぐっちゃり潰れたようなひどいありさまで、ふうって溜息ついたら靴が谷底に転がっていっちゃって、ふざけんじゃねえよくそったれー、てひとり絶叫するところが冒頭で、そんな無茶で乱暴なトレイルの行程が、彼女はなんでこんなことをしているのか/はじめたのか、の回想と共にじぐざぐ描かれる。

監督は”Dallas Buyers Club” (2013)(そうかダラスだったか)のJean-Marc Valléeで、これも実話 - それまで無節操無軌道な暮らしをしていた奴が、死(自分の/母親の)とかに直面して突然がむしゃらな情熱でもって変なことを始める - の行方を追っている。

山登りも野山歩きもやったことのない彼女がなんで突然そんなやけくそを始めたのか、彼女自身にもあんまよくわかっていなくて、それ故に適当に途中でやめるようなことができなくなってしまう。大好きだった母の病と死、なにもできなかった自分に対する怒りや葛藤、自分探し、とか言うのは簡単だけどそれなら引き籠って本でも読んでいればよいわけで、じゃあ彼女が探していたのは何で、それは結局みつかったのか見つからなかったのか、どこにあったのかしら。

森で出会った男の子がきょとんとした表情で”Red River Valley"を歌ってくれるところ、それに続く彼女の後ろ姿、ここで全てがはらはらと決壊して、ここはずるいよね、と少し思ったが、この映画はここだけ、これだけでじゅうぶんなの。

“Dallas Buyers Club”がMatthew McConaugheyの映画だったのと同じく、これはReese Witherspoonの映画 - 圧倒的な俳優の映画でもあって、そこではタレントとしての演技力以前のところの、目つきとか顔だちとか、そういうところに根差した何かが効いていて、Matthewが薬を求めてどこまでも飛んでいったのと同じように、Reeseは1000マイル歩いてみようとしたのだ、と、有無を言わせない。

彼女がPortlandにたどり着いたところで、Jerry Garciaの死に遭遇するエピソードがあって、それでこれは95年の話だったのか、とわかる。 90年代のお話しである、というのもなるほどなー、て納得した。

10.23.2015

[log] October 18 2015

NYからの帰りの便で見た映画とか。

あんまし見たいのがなくて、新しいのだと、闘犬モノか修道女モノか、の選択になって修道女のほうにした。

Marie Heurtin (2014)
『奇跡のひと マリーとマルグリット』- 英語題は"Marie's Story"。もう公開済のやつだったのね。

19世紀、フランスの実話だって。 生まれつき三重苦のまま野生児のように育ったマリー (Ariana Rivoire)に両親も手を焼いて、聾唖の娘たちがいる修道院に連れてくるのだが、最初から大暴れして連れ帰される。でもマリーに触れてそこに聖なるなにかを感じた修道女のマルグリット(Isabelle Carré)は反対を押し切って彼女を引き取り、面倒をみはじめる。最初の半年くらいは暴れる逃げる暴れる追っかける暴れる連れ戻すの繰り返しで、マリーにとってもマルグリットにとっても痛ましいことばかりで胸が痛くなるのだが、最初の言葉(ナイフ)を覚えてからはするすると社会化していって、他方でもともと肺を病んでいたマルグリットはだんだん衰弱していって。

あんなに乱暴だったマリーが誰よりも早くマルグリットの死を理解して受け入れた、ていうところが印象に残った。
それってマリーの境遇がそうさせたのか、あるいはマルグリットの慈愛が先回りしたものだったのか、とか。

あとは、どうしようかーと思って、"In Her Shoes" (2005) をまた見る。これ、飛行機で何回も見ているのだが。

切っても切れない姉妹、切れてしまった家族 - でもやっぱり切れていなかった - を描いた傑作だとおもう。
成瀬の映画を見ているときのような何とも言えない切なさがやってくるの。

Cameronがマイアミのケア施設で目が見えなくなった寝たきりの大学教授に詩を朗読するところが大好きで。
Elizabeth Bishopの"One Art" - “The art of losing isn’t hard to master …”  とか、最後に出てくるE. E. Cummingsの “i carry your heart with me (i carry it in my heart) …”とか。

あと、” Love & Mercy” (2014) を、もういっかい。辛いところを飛ばして、スタジオのところと、Atticus Rossの音がすごいところをヘッドホンでがんがん。 そうやって聴くと音の密閉感、改めてすごいなあ、と。 映画のほうは、部屋の映画だなあ、って改めて。


いっこ書くのを忘れていた、前回LAからの戻りのときに見たやつ。

The Age of Adaline (2015)
SFにひとりで犬と暮らし、図書館で仕事をしているAdaline (Blake Lively)は、今から100年くらい前、29歳のときに自動車事故で池に浸かった状態で雷に打たれて痺れて、それからなぜか年を取らなくなってしまった。 なので娘はもうとっくにおばあさんになっているし、自分は名前を変え住所を変え、恋人も友達も作らないようにひとりひっそりと生きてきた。 のだがある日仕事で知り合ったEllis (Michiel Huisman)がなかなか情熱的なので負けてつきあいだして、やがて彼の家族のとこに泊まりにいったら、そこで現れた彼の父親はかつてヨーロッパでつきあっていた恋人William (Harrison Ford)のなれの果てだった ...  彼はおろおろうろたえて、彼女はなんとかごまかして取り繕うのだがそれでもやっぱり動揺して。

あたしったら同じ犬種のわんわんを代々ずっと飼っているのとおなじように同じ家族の父親と息子を両方...  (ぷぷっ)とかやってはいけなくて、一緒に悩んだりうろたえたりしてあげるべきなんだろうか。でも誰もわるくないんだし、これもなにかの縁じゃのう、てからから笑って堂々とつきあってみてはどうか、とか。

ホラーとか超常現象モノと呼ぶにはあまりにナチュラル(決着のつけかたも...  そう、偶然よねきっと)だし、純愛モノと呼ぶにはあまりにLet it beだし、そういう状態であっても(そういう状態だからか)人は悩むし迷うんだねえ、とか。

でもあの結末、なんかつまんないよね。

Blake Livelyさんは、あまり巧い演技ができるひとではないと思うのだが、この役に関してはそれがうまく働いていたかもしれない。うまいなーと思ったのはHarrison Fordで義父としてふるまうべきなのかEx-としてふるまうべきなのか、でぐるぐるするところで、Richard Gereだとこうはいかないねえ、とか思った。
この映画、この設定でHarrison Fordの視点から描いたほうが、サイコホラーにもコメディにもなっておもしろくなったのではないかしら。

10.22.2015

[log] NYそのた2 - October 2015

こないだのNYの正味20時間滞在の、食べ物かんけいのあれこれ。

15日の晩9時にラガーディアに降りたって、タクシーでホテルに行って、部屋に入ったのが9:30くらい。
機内食はがまんして食べなかった。 アメリカンのビジネスは温ためたナッツが(90年代からずっと)出てくるのだが、それをつまんだだけで、がまんしてた。なので、割とお腹へって、かつ久々のNYでわなわなした状態で再びタクシー捕まえてどこかに食べにいこう、と。

Mission Chinese Food
むかし、Orchard Streetにあったときの、ぼろいチンドン屋みたいにケバく煤けた店内と電撃としか言いようのない変てこな中華(?)料理の数々、その記憶はなかなか抜けなくて、無くなったと聞いたときは残念に思ったものだったが、復活したので喜んで行ってみたの。予約不可の店だけど遅い時間であればだいじょうぶであろう、と。

新しい場所はLESの更に奥の奥 - E. Broadway くらいまで入ったなかなかディープなエリアで、10時でも十分混みあっていた。
デコールは前よりはやや洗練されたかんじ、だけど基本はわざとひと時代前の悪趣味なガラの悪さを追求しているふう。
メニュー数は少し減ったかも、釜が入ったのでピザができるんだよ! と嬉しそうに言ってくるので、あんた中華でしょ… てふつうにつっこむ。

つきだしで「羽根つき餃子タピオカ入り」、みたいのが出てきて、ぜんぜんふつうにおいしい。なんだこれ。
その次の「四川ふう野菜のピクルス」がぜんぜん四川してなかったり(あれ、なんだったんだろふつうのお新香だよね)、とか、高低・強弱の激しさも変わんないかんじ。
その次の「蕪ケーキの揚げ出し - 抹茶ミルク出汁かけ」 - 揚げ出し豆腐の中身が緩めに練った蕪で、出汁が白緑なのを除けばふつうに全然和食で、(しつこいけど)だからなんなのよこれ? なのだがおいしいんだから文句言わない、言えない。
それから、外見ごくふつうの麻婆豆腐。 山椒のぶちまけ方が尋常ではなくて口内がぱちぱちと火山みたいになる。 マンハッタン・チャイニーズにおける麻婆豆腐のそれなりの経緯と歴史(五粮液、とか)、というのがあって、それらの流れのなかで見てみると割とわかりやすいお皿かも。
それから、New York MagazineのBest of NY 2015でBest Fried Chickenに選ばれていた"Koji Fried Chicken"。
"Koji"ていうのは人の名前ではなく塩麹のことね、たぶん。 鶏の白身のでっかい塊を揚げて輪切りにしてあって、でもその肉はとってもふにゃふにゃと柔らかい。 これってUSの鶏(肉)がぶりぶりごっついから成立しているお皿かも。日本のから揚げの、ほんとうにすごいのだったら勝てるかも。 これはこれでじゅうぶんおいしいんだけどね。
あとは、Salt-cod Fried Rice - 塩鱈炒飯 - 爆裂麻婆豆腐に続けて頬張ると雪のようにあまく柔らかく棘を覆ってくれる。

もう少しあれこれ食べてみないと何とも言えないかもだけど、でも試してみる価値はある。
NYに死ぬほど転がっているハイプでモダンな、なんちゃって中華(+和食)とも、おいしけりゃいいじゃん、的なやっつけでもない、一線を画するなにか - 実はものすごく地道に真面目に食材の組合せとかオーケストレーションを考えているかんじがしてならないの。

The Smith  (バンド名じゃないの)
16日のランチ、仕事の会食で2ndの51stのお店(他に2店あるらし)に行った。
食べたのはロブスターロールとか、ムール貝とかだったのだが、これまでとってもプアだったMidtown EastのDiningをほんの少しでも変えてくれる可能性がひょっとしたら。

Prune
NYでひと晩だけディナーを食べる、ということになったとき、どこを選ぶのか、というのはいっつも切実な問題で、ものすごくとんがったパワーレストラン行くか、とかいう選択もあると思うのだが、自分の場合はいつも結局トラディショナルなアメリカン(自分にとっての、ね)、みたいなところに落ちつくことが多い。 たとえばBlue Hill、とか。
Pruneは、ブランチでは何度か行っていたのだが実はディナーはなくて、それで今回行ってみた。 おそるべし、だった。

予約は9時半、McNally Jacksonで本雑誌買って、そのあと、Houston沿いのUnion Marketで会社の人へのおみあげとか買って、本屋袋 x 2、レコード袋、食料品袋、いろんな袋をばさばさ抱えた恥ずかしい状態でなかにはいったの。

なに食べたって笑っちゃうくらいおいしい。
胸腺のフライにしてもひらひらパスタにしてもビーフリブにしても、デザートのプラムのローストにしても、ありえない。

例えば個々の素材に対するソース・ブイヨン・バターという軸、或はフレンチに対するイタリアンという軸、こういった線引きをぜんぶ曖昧に無効にしてしまう柔らかさとやさしい軽さがあって、あらゆる境界のまんなか辺でふわふわと舌に訴えかけてくるなにかと、目に見えている個々の素材があんま結びつかないの。 「おいしい」は言えるけど具体的になにが「おいしい」のかが見えなくて言えない - いいから黙ってろ、になる。 そういうお皿の上の具体的なものに結びつかない、純粋な歓びとしてのおいしさがなにをもたらすかというと、このまま永遠に満腹感を得られないのではないか、という恐怖にちかいなにかで、そんなのすらもいい、とにかく咀嚼しろ味わえ、になってしまうのだった。 

ひらひらパスタ - Pasta Kerchief with French ham, poached egg and toasted pine nuts のレシピ。

http://www.wnyc.org/story/282158-pasta-kerchief-poached-egg-french-ham-and-brown-butter

まったくおなじ皿の、Amanda Hesserさんによるレシピ。

http://cooking.nytimes.com/recipes/9361-pasta-kerchief-with-poached-egg-french-ham-and-brown-butter

時間があったら作る - 作りたくなるわこれ。


Sadelle's
出発の日(フライトは13時くらい)の朝食でいった。 普段は朝食なんて食べたことないのだが、今回滞在したところがUnion Squareの近所だったものだから、ついあれこれやってみたくはなるよ。

かの、Torrisi - CarboneのMajor Food Groupによるベーグル朝食屋。 
で、↓みたいな記事を見たら行きたくならないほうがおかしいというもの。

http://www.bonappetit.com/restaurants-travel/article/sadelles-design


とっても久々に行った気がするSOHO界隈、ここの場所はむかし(90年代)、Guessのリネン類のブチックだったことを思いだす。(通りの反対側にはRizzoriのSOHO店があった)

土曜日の開店は朝8時で、8時丁度に入ったら、まだ早かったせいかメニューでサーブする方式ではなく、カウンターで頼んでピックアップしてテーブルで食べるやりかただった。

オーダーは、ベーグルの種類(プレーン、セサミ、ポピーシード、エブリシング、などなど)を選んで、挟む魚の種類(Cured Salmon, Smokes Salmon, Sturgeon, Sable)を選んで、クリームチーズ(プレーンかチャイブ入りか)を選んで、トッピングの野菜(ケイパーとかトマトとか)を選んで、ベーグルを焼くかそのままか、を選んで完了。 たのしい。ちょっと高いけど。
で、ブツは厚めの紙で包まれてぱっくりまんなかで二等分されて出てくる。

ばかみたいにおいしい。 ベーグルサンド、ここまでやればこんなにもすごくなる。

自分は、そもそも日本にはちゃんとしたベーグルがない(水がちがうしふにゃふにゃすぎ)、ちゃんとしたスモークサーモンがない(脂分なさすぎ、しょっぱすぎ)、ちゃんとしたクリームチーズがない(糊か)、などなどえんえん訴え続けている哀れな原理主義者なので、こういうのを食べちゃうとますますなあ、て思った。

インテリアもユニフォームもとっても素敵(Wes Andersonは言い過ぎかも)で、もちろんRuss & Daughters Cafeのライバルにはなるだろう。 フロアのまんなかにガラスで囲われた湯気のでている一帯があったのであれなに? て聞いたらベーグルのオーヴンだって。  そういうメカが好きなひともGO !

この後で地下鉄で戻って、Union SquareのGreen Marketを見てまわる。 一時期は毎週のように通っていた。 何年ぶりだろうか。

レイアウトは若干変わったけど、出ているお店は余り変わっていないかも。
帰りたくない感満ち満ち、というのもあるのだが、溜息しか出ない。 野菜ぶっとさでっかさ層の分厚さ、なにもかもぜんぜんちがうよね、
で、ここの夏の終わりから秋にかけてのお楽しみというとブドウ屋さんのブドウジュースで、赤と白両方買って飲んだ。
ブドウの種類は数週間かけて変わっていくのだが、当たるのに当たると(たまにすっぱいのあったりする)、地獄のようにおいしくて、そこらのブドウジュースは飲めなくなる。
あーこれこれ、だった。

飲んだり食べたりしたあれこれは、以上。

あと、16日の晩のUnion Market。

ここはWhole FoodsともTrader Joe'sとも違って、あんま自社ブランドばんざい、でもないし、お店の広さもコンパクトだし、なんといってもBakedのクッキーとブラウニーを入手できる。

あと、米国にくるたび、なにげに探していたやつをめっけた。

http://www.redgoldtomatoes.com/what's-new/sriracha

こんなボトルを買ってしまった以上、空港では荷物をチェックインせざるを得なくなって、一緒に突っこんだ本雑誌で冗談みたいに膨らんで重くなって、インスペクションで開けられていた。 まあ怪しむよね。

10.20.2015

[log] NYそのた1 - October 2015

New York、16日、金曜日の夕方からのあれこれ。 本とか本とか。

たいへんに重たい"Berlin..."のカタログを担いで地下鉄に乗ったら丁度夕刻のラッシュとぶつかってぜんぜん進んでくれなくて、ホテルに戻れたのが5時半くらいで泣きそうで、今回できれば復活したRizzori Bookstoreは行っておきたくて、確かあそこは6時くらいに終わっちゃったはずだ、と思って慌てて23rdのPark Aveに(地下鉄はあきらめ)駈けこんだら、そこは出版社のほうの場所で、書店は26thのBroadwayだと言われて全身の力が抜け、どうしようかと天を仰いだがしょうがないのでそのままMadison Square Parkを横切って26thのほうに行った。

書店は1階のワンフロアのみで、前の57thのお店のぎいぎい鳴る木の階段がないのは残念だったけど、天井が高くて広々ゆったりしたスペースで本を選べるゴージャスな雰囲気は変わっていなかったので、ちょっとほっとしたかも。 匂いだってかつてのお店の。
大型書店とも違うし、インディー系とも違う空気、選ばれた(どちらかというと)でっかい、つーんとした本ばっかしが整然と並んでいる。
復活のお祝いになんか買ってあげたいな、とか思って探していたらカウンターの裏側にGeorge Holzのサイン本がおいてあった。
“Holz Hollywood” - 写真家業30年をお祝いしたやつで、こいつもでっかくて重くて、$100以上だったら(日本だとこの線は5000円くらいになる。ふしぎねー)買うのやめよう、て賭けしてみたら負けたので買わないわけにはいかなくなって、ふたたびすんごく重いのが肩に。

そこから地下鉄のNでUnion Squareまで下りて、Lに乗り換え、Brooklynまで行くべきかどうかぎりぎり悩んで、渡りのトンネルに入る手前の1st Aveで目をつむって降りて、12thのAcademy Recordsに行って(買わなかった)、そこからMast Booksまで下りて(がまんした)、St. Mark's Bookshopも眺めて(なんとかがまんした)、再び西に向かってOther Musicにたどり着いて、新譜をふたつだけ - Beach Houseの(Loser Edition)と、Wilcoの(猫にStar Wars、なめてんのか)を買った。 Other MusicではBowieのFive Years箱リリースを記念してスタッフの娘さんがBowieだいすきばんざい!の手作りディスプレイをしていて微笑ましかった。 (こんなレコード屋の娘として生まれるってどんなかしら?) それからMcNally Jackson Booksに行っていつものように雑誌とかあれこれ買いこんだ。 でもまだ袋も開けていない、かわいそうに。

今回のいちばんの収穫はなんといっても買っておいてもらったElvis Costelloせんせいのメモワール - “Unfaithful Music & Disappearing Ink”のサイン本でした。(ありがとううー)
MorrisseyのよりもKim Gordonのよりも、個人的には重要、Tracey Thornさん(もうじき”Solo : Songs and Collaborations 1982 - 2015”がでるー)と同じくらい大事に読みたい。
本に合わせたサントラも買わなきゃ。

見返しに、銀座で学ラン着て街宣したときの写真が貼ってあって、ああこのひとがデモに来て”(What's So Funny 'Bout) Peace, Love, and Understanding”を演奏してくれたらなー、とか思ったの。

今回の滞在はスーツケースではなく、短期用のガラガラしか持っていかなかったので、帰国時の荷物は半端じゃない重さになって、死ぬかとおもった。

[art] Berlin Metropolis: 1918-1933

帰国して、仕事もふつうにぱんぱんで、いつものようにねむい。

New York滞在中の16日夕方、なんとかひとつだけ見れた展覧会。
ごご4時くらいに仕事が終って、終らせて、そのまま逃げるように地下鉄の穴に潜って④で86thまで、86thをそのまま5thまでまっすぐ突っきる。 ここまでは殆ど無意識で勝手に体が動いていく。

Neue Galerieでの展示。 こないだ来たときもそうだったが、館外に列があったりして驚く。昔はそんなのありえなかったのに。

映画”Woman in Gold”の影響か、常設展示の“Adele Bloch-Bauer I” (1907)の前には椅子が置かれていて、見たいひとはじっくりどうぞ、というかんじ。 なんとなく金堂にお参りに来たような、やあまた来たよ/また会ったね、みたいな。

で、この展示は2階の一部屋と3階ぜんぶ、と言っても美術館とは違うのでスペースも点数もそんなになくて、30分で全部見れてしまう、のだがとにかく濃い。ここの展示の濃縮感・圧迫感はいったいどこから来るものなのか(建物?)いつも不思議でしょうがないのだが、今回も絵画、デッサン、写真、人形、ファッション、ポスター、建築、おっそろしくかっこよい建築デザインから卑俗で卑猥な落書き毒絵みたいのまで、一次大戦後からナチスが政権を取って次の大戦になだれこむまで、ワイマール共和国の15年間で、この都市 - Berlinには何があって、人々はどう変わったのか - まちがいなく、ものすごく悪い方向へ変わってしまったその背後にはなにが。

"The "Neue Frau," or New Woman" - 新しい女性(像)、というコーナーが興味深くて、神々しいミューズ的なイメージとも、「アビニヨン」的なイメージとも異なる、よりぶっとくてごつくて生々しい何か、或は「消費」されるイメージをもった女性像がこの時期のこの場所で最初に生まれたものだったのか、等はわかんないのだが、こういう「女性」を見る見方の転換は「他者」とか「生」の捉え方にも並行して波及していったはずで、つまりは - - 。

といったようなことを、ある時代が、ある都市が塗りこめられるかのように変貌する様/感覚を全方位で感じることのできる展示だった。

やはり”Metropolis” (1927)と”M” (1931)  - Fritz Lang作品の存在感は圧倒的で、ポスターとメイキングのスチールくらいなのに全体のトーンを支配しているかんじがした。(いや、ひとによって異なるかもだけど)
2010年に長期滞在していたときに見たMOMAの特集 - ”Weimar Cinema, 1919-1933: Daydreams and Nightmares”はほんとに影響受けたかも、て改めておもった。

あと、”Berlin-Alexanderplatz - Die Geschichte Franz Biberkopfs” (1931) - ファスビンダーのとは別 - の「ベルリン・アレクサンダー広場」のポスターとか。

なんといってもカタログの分厚さ重さがちょっとした鈍器並みにすごくて、こんなの買って運んでやらあ、になってしまった。 で、持ったらやっぱしひどく重いので、次に行こうと思っていたGuggenheimのAlberto Burriは諦めて、そのまま地下鉄に乗ってホテルに戻ったのだった。

10.17.2015

[log] October 17 2015

東海岸の17日のごぜん、JFKまで来ました。
体じゅうが痛くてだるくて、とってもねむい。

ところで、JFKのエールフランスのラウンジは世界でいちばんつまんないかも。
エールフランスなのに、ファーストのラウンジなのに、なんでチーズが置いてないんだ?
(と、前にも言った記憶がある。 よね)

15日は朝からずっとおっかない会議で15時にそこを出て17時のフライトでNYに飛んでラガーディア着地が21時、ホテルに入ったのが21:30、そこから約36時間の滞在。 そこから仕事でマイナス8、さらに睡眠でマイナス8、だいたい正味20時間ぽっちで、New Yorkで、いったいなにができるというんだ? (泣)(怒)  … だから仕事なんだからしょうがねえだろ。

こういう状態だったので、映画もライブも諦めざるを得なかったの。 それらを時間割のどこかに置いて場所と時間をやりくりするのすらもどかしいかんじで、なにを焦っているんだバカ、と何度も思ったが、本屋 - レコード屋 - たべもの屋を右往左往しているうちに気づいたら日が暮れていて、深夜になっていて。
そういう季節だった、ということで。

この時期にしては思っていたほど寒くなくて、天気もよくて、小走りすると汗ばむくらいだった。

映画もライブもすごく見たいなにがなんでも見たい、があんまなかったと言えばなかったのであるが、であるにしても、”Crimson Peak”はフレッシュな状態で見たかったし、Frankie Cosmosのライブもあったのになー。  BrooklynもGreenpointにするかWilliamsburgにするか悩んで、両方は無理なので結局あきらめた。 こんなのはじめてだわ。

というわけで、いっこ美術館に行けただけ。 行けただけでも御のぢ。

でも食べものはどこもおいしかったし、本も肩が抜けそうなくらい買えたし、よかった、ということで。

これらについてはまたのちほど。
ではまた。

10.15.2015

[log] October 14 2015

14日、ダラスのごご2時くらいまでのあれこれ。

まずは、せっかくダラスに来たのだから、と一番スタンダードなThe Sixth Floor Museumに行ってみる。ホテルから歩いて20分くらいのとこ。

別にJFKマニアでも、JFK暗殺ミステリー愛好家でもないのだが、20世紀以降の米国文化あれこれにいろんな影響を受けてきたものとして、この場所、ここで起こったあの出来事と時間がもたらしたなにがしかを無視するのは難しくて、ダラスに来ることなんてこの先あんまないだろうから、そこに行っておこうか、と。  少なくとも坂本龍馬の暗殺現場(なんてあるかどうかもしらん)に行くよりも見えてくるものは多かろう、と。

暗殺者がライフルを発射したかつてのTexas School Book Depositoryの6階がそのまま博物館になっていて、当時の文化/世相紹介に始まってケネディ家の歴史とかケネディとダラスの関わりとかその日までの軌跡とか、その日に起こったこと全部とか、その後のこととか、このフロアにぶちこまれた情報の総量(=アメリカ国民が知っておくべき、とこれを作った人が思っていること)はとんでもない。
みんなオーディオツアーでこまこま追いつつ、うんうん頷きながらゆっくり進んでいた。

狙撃が行われた一角は当然ガラスに覆われて中には入れないのだが、そこから見下ろす「現場」はとんでもなく遠くに見えるので、こりゃプロの仕業だな、とか、ここでのほんの数ミリの指の動きが合衆国の歴史とか成り立ちをまるごと変えちゃったんだな、とか間抜けなことを思うしかないの。

そこを出たのが10:30で、さてどうしよう、だったのだが、やっぱしSt.Vincentさんの親戚メキシカンに行くことにした。 べつに会えなくたってお昼はどっかで食べなきゃだし、ダラスのメキシカンてレベル高そうだし。

問題はどうやってそこに行くかで、前の晩にあれこれ考えるのに疲れて、えい! てアクティベートしてしまったUber(それまではアプリだけ入れて放置)を使うことにしたの。 結果からいうと、ありえないくらい安くてびっくら。これまでTaxiが捕まらない可能性の壁に阻まれていたいろんなののフタがぱっくりと開いてしまった気がする。(これはこれですごくこわい)

で、車で30分くらいでたどり着いたとこは拍子抜けするくらいふつーの、郊外の商店が並ぶ一角(こないだのLAのPetit Troisとおなじような)で、レストランというよか、カウンターで最初にオーダーしてテーブルが空いていたらそこで戴く、空いてなかったらテイクアウト、そんなカジュアルなやつ。 11時オープンで正午前なのにもうテーブルは半分埋まっていた。(そうよね。日本から来るくらいだもの)

タコスが各$3、サイドが各$3で、他にマルガリータとかクラフトビアとかアイスクリームとか。
豚肩のタコスとワカモレとすいかジュースたのんだ。 安いったら。
んでねー。 びっくりするくらいおいしいのよ。 ワカモレは相当いろんなとこのを食べてきた気がするが、$3でこれって信じられない。 チップはちゃんと自分とこで揚げてるし。 すいかジュースもとってもすいかだし。

Annie Clarkさんはもちろんいなかったけど、妹だか姉だかとその夫のひとは慌ただしくきびきび働いてて、ああこのお店は伸びるにちがいない、て確信したの。

そこから再びUberして、Dallas Arboretum and Botanical Garden(ダラス樹木園)ていうとこに行ってみる。 この時期、かぼちゃ村、ていうのをやっているの。

http://www.dallasarboretum.org/visit/seasonal-festivals-events/autumn-at-the-arboretum

想像以上にとんでもない物量のかぼちゃだった。 かぼちゃ村以外にも、至るところにあらゆる種類のかぼちゃをぶちまけてある。かぼちゃのどこに、なににここまで過剰ななにかを込めて求めたかったのか、ぜんぜんわかんないの。 こんなことをされてしまうかぼちゃがどう思うか考えたことがあるのか、とか。

植物園そのものはファミリー向けのプレーンなやつで、変な植物を求めていくひとには物足りなかったかも。 ほぼかぼちゃだけ、というか。

これの後は陽射しも強かったし、打合せも迫っていたので(再び)Uberで素直に帰った。
帰ってからの打合せとかディナーについては、そのうちなんか書くかもしれない。
今年に入って一番ぐったりつかれた。(うんざり、ではなく)
明日はみっちり一日塩漬けだわ。

写真はInstagramのほう(talking_unsound)に載せているので、興味ある方はどうぞー。

10.14.2015

[log] October 13 2015 - Dallas

LAX経由でDallasに着いたのが13日の夜、19:00くらいで、まだ外は明るくて、Taxiでホテルに着いた頃にようやく暗くなった。

部屋に入って20:00、テーブルの上にパン、チーズ4種類、蜂蜜の切り出された塊、蜜に漬かったナッツにクランベリー、アプリコットにリンゴ、が並べられたプレートが置いてあって、これは絶対なんかの罠だと思ったのだが、蜜がなんだか誘ってくるものだから、晩にどこかに出かける気も、スズメになる気も失せた。
おいしい。 けど体にはとってもよくない。

行きの飛行機で見た映画は2本。
JALの映画のライブラリがなぜか充実していた。 Back to The Futureぜんぶ見、とかMission Impossibleの1から4までぜんぶとか。 べつに見ないけど。

Me and Earl and the Dying Girl (2015)

ピッツバーグの高校のシニアのぼく - Greg(Thomas Mann)とEarl(RJ Cyler)は幼馴染でクラシック映画のパロディみたいのをずっと、40本くらい作ってきて、ある日近所のRachel (Olivia Cooke)が白血病になったので慰めてあげて、と母親に言われるのでお見舞いにいってみる。 ふたりは恋人になるわけでもない、ただ横に一緒にいるだけの日々と、映画を作るのと、これからの進路とか、いろいろがすっとぼけたトーンで流れていって、Rachelのために映画も作りはじめるのだが、彼女の病気は悪化していって。

主人公は自分でも言っているけどgroundhogみたいなシリアスになれない微妙な顔だちで、家族や学園の子達もまともな子はひとりも出てこないというのに、ここに難病ものをぶつけてくるか、と。Rachelはかわいいけど無愛想で、運命を受け容れていてじたばたしない。この右から左まで救いようのない、波風のない状態で、彼らは高校生活最後の年とかプロムとかを乗りきったり、自分たちの、Rachelのための映画を作ったりしなければいけないの。
でもそれってなんのため?  少なくともRachelに将来なんてないのに。

苦手な難病ものなのだが、まったくきついかんじがしなくてするするいくねえ、と思ったら最後にやっぱりきたので、こまった。 飛行機のなかではぼろぼろ泣けないし。

音楽はなんでか初期も含めたEnoがいっぱい流れてきて、”I’ll Come Running”とか、イントロだけできちゃうひとはぜったい泣くから覚悟しよう。 なんかねえ、映画としてぜんぜんうまいと思わないのだけど、ずるいってば。

主人公達が作っている映画の一覧が最後にでるのだが、ほんとにばからしいの。
“Anatomy of A Burger”とか”Brew Vervet”とか “Death in Tennis”とか“My Dinner with Andre the Giant”とか”La Gelee”とか。 映画好きのひとが見たらもっといろんな発見があるのかもしれない。GregがFilm ForumのTシャツ着てた、とかそれくらい。

In Your Eyes (2014)

とても寒いNew Hampshireの女の子が橇で木に激突して気絶したら、とても暑いNew Mexicoの男の子も同時に、なんもしていないのに気絶して、というのが冒頭で、やがて大きくなった女の子 - Rebecca (Zoe Kazan)は裕福な医者と結婚していて、男の子 - Dylan (Michael Stahl-David) は刑務所勤めを終えて、保護観察付きで洗車場とかで働いている。 どっちも頭の奥でなんか変な声がするので頭の奥に声を掛けてみたらどういうわけか繋がって会話ができることに気づいて、テレパシーは想念だけだけど彼らは視野や感覚も全部共有できて、実は子供の頃からずっとそうだったそういえば、ていうのがわかって、それってなんか嫌じゃないか、と凡人は思うのだが彼らはその無料通話状態に夢中になって、周囲から見ると四六時中独り言を呟いている危ないひとになっちゃって、案の定、彼は職場を解雇されて、彼女は精神病院に送られて監禁されて、さあどうする? なの。

なんでこの二人が、この二人だけが、という謎は一切明かされないし、そこに独特のロマンチックな意味づけ風味づけがされるわけでもない。 ただそういう状態になっちゃったふたりが仲良くなって、ちょっと困ったお互いの境遇になくてはならない存在だということに気づく、なんか出来のわるい中学生向け恋愛小説だよねえ、とか思ったのだが、原作は”Buffy the Vampire Slayer”を書いて、後に”The Avengers”を書いたりするJoss Whedonだったりするのがおもしろいねえ。

まあとにかく、これは日頃うわの空で夢ばっかり見てふわふわしている(思い込みです偏見です)Zoe Kazanさんがいたから成立した映画で、”Ruby Sparks” (2012) - “What If” (2013) - これ、と並べてみるとなんかすごいとしか言いようがない。 ほんとにそういうひとなのかもしれない、とか。


明日(14日)の夕方まで何をして過ごすべきか。
St.Vincentの妹だか姉だかのレストランは軽く1時間かかることがわかって悩みちゅう。

でも、まずはねなきゃ。

10.13.2015

[log] October 13 2015

と、いうわけで。 会社からばたばたと成田にやってきて、再び渡りの世界が始まって、これからLA経由でDallasに飛んで、そこの会議のあとでNYに渡って、日曜に戻ってくるの。
Dallas行きの直行便は11月末にできるんだって。 そうですか。

NYで全てを捨てて鳥になる可能性について考えている。

ラテンピート映画祭の直後でもあるので、ほんとうは南米に行きたい。

Dallasの気温は36℃とか言ってて、NYはハロウィン前のいちばんちりちりしている季節(ちりちりが凍みてくる季節)で、でも、たった1日だって行けるのであればうれしいんだ。 2月に行って以来だしねえ。

NYFFも終わっちゃって、BAMのNext Wave Festivalもだいたい終わっちゃったけど、CMJが始まる。これっぽっちも行けるかんじはしないが、それでもいいの。秋がぐいぐい深くなって抜けられないまま見回してみると冬、ていう時期なの。

Dallasはまったく初めてなのでどうしたものか。
なんか微妙に時間が空いたりしているのよね。

St.VincentことAnnie Clarkさんが、彼女のSisterがオープンしたメキシカンレストランで週末にウェイトレスをしているというニュースが流れてきたので行ってみようかしら、くらい。 平日はいないだろうけどなー。

http://www.stereogum.com/1836708/st-vincent-is-waitressing-at-a-dallas-taqueria-this-weekend/news/

風邪ひかない程度にがんばります。

ではまた。

[film] Bird People (2014)

3日の土曜日の昼、渋谷で見ました。

ぜんぜん他人事とは思えないような映画。 ああ、スズメになりたいよう。

パリのシャルル・ド・ゴール空港に向かう地下鉄とか車とか、いろんな人たちのいろんな思いがざーざー流れていく、そういう吹き溜まりぽい空港の傍のホテル(HIltonね)、そこにシリコンバレーから出張で滞在しているIT企業の重役 - Gary Newman (!) (Josh Charles)がいて、そこでメイドのバイトをしているAudrey (Anaïs Demoustier)がいる。

第一章は、Garyのはなしで、パリの取引先とドバイのプロジェクトの打合せをして、翌朝にはドバイに飛ぶというその晩、眠れなくなっていろいろ考えて、翌日自分が乗る予定だった飛行機がドバイに向けて飛びたつのをホテルから見送り、そいつがドバイに着くころを見計らって会社の上に電話して、もう会社やめる、ぜんぶちゃらにする、て伝えるの。 それから妻にも電話して同じことを伝えて、当然会社も妻も呆れてなに言ってるんだ頭冷やせ、になるのだが、本人の決意は変わらなくて、あーめんどくさい鳥になりてえ、て思うの。

第二章は、Audreyのはなしで、部屋のメイクアップで部屋から部屋を渡っていく日々に疲れて、ふう、って思ったら突然スズメになっちゃうの。 で、飛ぶ練習したり、滞在客にエサ(でもなー、Pringlesかあ..)もらったり、疲れて休んだりするの。

お話しとしてはその程度なのだが、空港のそばのアメリカ資本のホテルチェーン、ていう場所の設定が絶妙で、それはすぐにどこかに飛んでいけるところの隣、翼を一瞬休めてちょっとだけなんかを考える、そういう場所、しかもそれはアメリカの考え方で徹底した「標準化」がなされているので、余計なお世話雑念なしで「滞在」できる。 では「滞在」ってなんなのか、とか。

ほんとにプロの出張屋(としか言いようがないくらい出張ばっかしのひと)にはとても及ばないのだが、それでも空港とかホテルとかを渡る日々が続いたりすると、なにやってんだろ、くらいのかんじにはなる。 この状態、とかいうときの「状態」ってなんなのか。この「状態」はふだんの通勤してオフィスに座っての「状態」とどこがどうちがうのか。 どっちにしたってライブも映画も行きにくいしさ。 などなどが積み重なっていくと、もうなんでもいいや、になりがち。

映画のなかで、Garyはひと晩考えてやめた、とか言っていたが彼があれを外に言う時点ではもう100%決めていると思うんだよね。(← 既に2回やってる)

人であることの倦怠感、鳥であることの緊張感、どっちもおんなじふうに空港の傍で佇んでいる。
その風景と時間の切り取りかたがとても素敵に落ち着いていて、よかった。

あと、Anaïs Demoustierさんをスズメにした、というだけでほんとにあたり。
(Vincent Macaigneの哺乳類のかんじに近い)
でもあのスズメ、絶対訓練してるとしか思えないんだけどー。

あと、ほんとどうでもよいことなのだが、アメリカ人て、なんであんなにミニバーのものを普通にじゃんじゃん消費して平気なんだろうか。 高くつくよね…

10.12.2015

[film] Hannah Takes the Stairs (2007)

30日の水曜日の晩、渋谷でみました。『ハンナだけど、生きていく!』

“Drinking Buddies” (2013) のJoe Swanberg -  “Happy Christmas” (2014) も見たいようう - が、ブレークする前のGreta GerwigやMark Duplassらと一緒に(writing creditsには10人並んでいる)撮った 2007年の映画。 なんでこんなのが今頃?  なのだが見れるのだったらこんなに嬉しいことはない。

マンブルコア、についてはそんなに多く見ていないのであまり言えないのだが、ドラマ性や熱を排して低予算でさくさく作った自主製作(ぽい - 十分プロだと思うけど)映画群、くらいの括りで、映画史というより00年代以降のネット文化の流れのなかで捉えるべきものと思っていて、だとするとまだ変化の途上の一亜種くらい、にしておいたほうがよいのかも、て思っている。

たとえばGreta Gerwig主演の映画をこの時期の作品から”Greenberg” (2010) - “Frances Ha” (2012) - “Mistress America” (2015) と約3年単位で追っていっても、それをマンブルコアと呼ぶのであればぜんぶそうと呼べてしまうくらいに作品のなかの彼女の挙動振る舞いはある角度でみれば一貫しているように見えないだろうか。 彼女は彼女自身の女王として常に超然としていて揺るがなくて、受け容れられることをぜんぜん求めていない、という点で。

大学を出てなにかの制作会社でインターンをしているHannah (Greta Gerwig)にはルームシェアをしている女友達がいて、彼女が冒頭で付きあっているのはMike (Mark Duplass)で、彼とはなんとなく続かなくなって、それから同じ会社の同じ部屋で働くPaul (Andrew Bujalski)とつきあって、それもなんとなく続かなくなって、こんどはMatt (Kent Osborne)とつきあって、そんな遍歴が綴られる、というかテーマは男を取り替えまくるHannahのお話し、というよりはそんなようなものすごく薄くて儚い関係のなかでそんなのどうでもよいふうに生きる彼女を描いている、ただそれだけだよ(きょとん)、みたいなお話し、というか世界というか。

彼女は仲良くなるとふたりで小学生みたいにバスタブで潜水ごっこをしたりラッパを吹いたりとかして楽しく遊んで、それはバーで酒を飲んだり映画に行ったりするのと同じようなある種の儀式みたいなかんじで、だからといってそれを通過したふたりになにか特別な関係とか絆が築かれるのかというとそんなことはなく、なーんかちがうかも、程度でさようならして、もちろんベソくらいはかくのだが、次に行くの。 別に王子様とか赤い糸を求めているわけではなくて、ほんとに、(タイトルそのままに)ただ階段を昇っていくだけ。

それがどうしたのよ、と問われれば、それだけだよ、ていう。 そんなもんじゃないの?
で、「そんなもの」を描くその手法として、Joe Swanbergの文体はすでにこの頃からできあがっているように思えたの。

で、こういうかたちでざーざー右から左に流れていくだけの小さな世界を描く、こういう映画があってもよいのかなーと。

Mark Duplassの世界も、”The One I Love” (2014)とかおもしろいのになー。

[film] Belle et Sébastien (2013)

ここから、こないだの出張から戻った翌日、27日の昼間にみました。 リハビリ系。

スコットランドのベルセバよかこっちの方が先なんだって。「名犬ジョリイ」のアニメはしらないです。

1943年、フレンチアルプスの麓の村でおじいさん(Tchéky Karyo)と暮らすみなしごのSébastien (Félix Bossuet)は山で「野獣」と呼ばれて皆に怖れられているでっかい野犬と出会って、きみはわるくないしこわくないよね、てだんだん仲良くなっていっていく。 灰色に薄汚れたその犬は川で洗ってあげたら真っ白になって、Sébastienは彼女(♀)をBelleと名付けるの。 野獣を危険視する村人たちがいて、他方で村にはナチスがやってきて、レジスタンスとして山を抜けて逃げるユダヤ人のガイドをやっている医者とかパン屋の娘とかは狙われて危なくなるのだが、冬のアルプスを抜けようとするユダヤ人一家を助けるべくBelleとSébastien たちは決死の峠越えにのぞんでいく。

村人のなかにも嫌な奴はいるし、ナチスのなかにも良い奴はいるし、ママは山の向こうの「アメリカ」ていうとこで暮らしているらしい。 Sébastienはそんなようなことを学んでいくのだが、虐められて弾きだされたBelleと天涯孤独のSébastienの結びつきは誰が見たってほんもんでかけがえなくて、がんばれわんわん、負けるなよ坊主、てなる。

でっかい犬と子供、てそもそも絵になるもんだし、それが白いふかふかのデカ犬だったりすると余計にきゅーんとなるもんだし、映画は特にそういう組み合わせが絵になるようなあかぎれ擦りきれガキを選んでいるもんだから、山野をそんな子供と白犬が駆け回ってじゃれあっているだけでもうそれでいいや、になってしまったのはなんかずるい。

だから一番胃が痛くなったのは村人がSébastienをだましてBelleを追いつめてみんなで仕留めようとしたところで、ここでひどく悲しいことになったら席をたって帰るんだから、くらいに思ったのだが、ここを乗り越えたのでクライマックスのアルプス越えだってなんとかなるじゃろ、になってしまった。

キーメッセージはアルプスでは子供も犬も棄てちゃいかん、ていうことね。
(→ 「フレンチアルプスで起きたこと」も参照)

10.11.2015

[film] Ant-Man (2015)

19日の晩、あの野卑下劣極まりない採決の場にAnt-Manがいてくれたら、とか思いつつ六本木で見ました。
(いや、あそこにいてほしかったのはHulkだな)

元々気立て善良なエンジニアだったのに、仲間と一緒にやった空き巣でミスして牢屋に送られて、当然妻とも娘とも引き離されて、釈放されても戻るべき家はないから昔の仲間のところに居候して、職に就いても解雇されて、そうしているうちに仲間が新たな空き巣物件を拾ってきて、という典型的な負のスパイラルから抜け出したいのに抜けられなくなっている主人公(Paul Rudd)と、かつて自分が開発した技術を私企業の危険な成長戦略にのって悪用されることをは阻みたいお金持ち博士(Michael Douglas)が出会って、いつのまにか進行していたハイドラとかの悪巧みに立ち向かうの。

主人公が空き巣に入ったとこがその博士のおうちで、苦労して金庫のなかまで掘り進んだのにそこにあったのはなんか古そうで着古したスーツみたいなやつで、でもPaul Ruddは人がよいからそれを着てあげて(そんなの着ないだろ、てみんなつっこむ)、そこに付いてたボタンを押してみたら(押すなよ、てみんな - ) 体がぎゅーんて縮んでAnt-Manになっちゃって、なったらこんどは博士に乗せられてこき使われることになるの。

ふつうの人からは見えない/見えにくい、という点では透明人間に近いけど、透明人間だと物理的に抜けられる/抜けられないの壁があるのに対して、こっちはそういう制約がなくなる、ていうのと、大 → 小、小 → 大の切り替え(びっくり)をそのまま戦法として使える、てあたりが新しいのかも。 でっかくなるほうだとHulkとか既にいるし。

弱々しくて周囲から蔑まれていた男が、科学の力で超人みたいな動きをする、というのは”Captain America”なんかもそうだけど、こっちは肉体改造ではなくて装着系、ていうのと単独で強いというより、そこらの蟻(いろんな蟻の特性を活かす)の力も借りる、という点ではエコでダイバーシティでより新しいのかもしれない。 でも突然でっかくなるとき、仲間の蟻を潰しちゃったりしないのか、ちょっとは配慮してあげたほうがいいんじゃないか、とかおもったり。

などなど、笑いも含めてだいじょうぶかよ、みたいなところがいっぱいで、そのへん、Edgar Wrightだったらどう料理したのかしら、とか思わないでもないが、それなりにおもしろいからいいかー。

なんで蟻男なのか? 蠅はすでにいる(別用途だけど)から次は蜂あたりか。 空飛んで、刺すの。 でも蜂蜜の誘惑には負けるの。

みんなが当然のように思っていることとおもうが、これ、Paul Ruddだからできた役だよね。
このひとの平熱感はほんとただもんではなくて、”This Is 40” (2012) の主人公がそのまま横滑りだと言われても違和感ないし、最初にすてきだなーとおもった”The Object of My Affection” (1998) の頃からみても印象は変わらない。 (自分にとっては)同系のBen Stillerが時たま素頓狂な猿に変わってしまうも無理ないと思うので、偉いなあって。

音楽、”Antmusic”くらいは流れるじゃろ、とか思っていたら本当に流れたので笑った。 でも別の場面でなんでThe Cureの”Plainsong”があんな荘厳に流れたのか、はよくわかんなかった。 たんに聴きたかったから、くらい?

10.10.2015

[film] Dumb and Dumber To (2014)

19日の土曜日ひるま、浅草のしたまちコメディ映画祭で見ました。
多くのひとがそうだったと思うのだが、前の晩にものすごく屈辱的なことがあって頭が沸騰していて、クールダウンしなきゃ、ていうか109分だけでもバカの世界に身を退いてみよう、ていうのもあった。

映画祭のラインナップが出たとき、あんま公開される気がしなかったのでとりあえずチケット取ったの。 (だから”The Kings of Summer”も見れなかった。あと翌日から出張で”Absolutely Anything”も見れなかった ..)

ほんもんのBobby Farrellyもいとうせいこうも見れたし、よかった.. としておこう。

前作から20年、病院で廃人状態になっているLloyd (Jim Carrey)をHarry (Jeff Daniels)はずうっと介護しつづけていたのだが、Lloydが突然目覚めて(その理由がまたどうしようもなさすぎて泣ける...)、こんどは腎臓移植が必要なHarryのためにふたりでどたばた走り回ることになるの。

筋はその程度でじゅうぶんなの。 あとは天才バカボンの世界だから、なにがどうなったって、これでいいのだ、しかないの。 腎臓を求めて世界を旅するバディムーヴィー、その彷徨い感もロードトリップ感もこれっぽっちもでないまま、行く先々で屁を垂れ流していくばかりなの。

この続編製作が発表されたとき、自分ものけぞったし(せまい、とってもせまい)世界中がどよめいたものだったが、それでもこんなもん - そういうクオリティみたいなとこも含めてだれもがこんなもんだと思っていたし、そういう期待にじゅうぶんかつてきとーに、見事に、応えているとおもう。 だれもが満足して納得して5分もしたら微塵も憶えていない、あるのは屁の残り香、程度であるという。

あんな老人になりたいもんじゃのう。


あんま関係ないけど11月の「メナヘム・ゴーラン映画祭」はぜったい必見だから。
2010年11月、Lincoln Centerで行われた特集"The Cannon Films Canon”から5年、日本でもついに、ようやく、”The Apple” (1980) が見れる!! 監督(Menahem Golan)が自信たっぷりで作ったロックオペラだったのに、モントリオール映画祭で上映したら客がみんな帰っちゃって絶望してホテルで飛び降り自殺しようとした、ていう ... それくらいの大傑作なんだから。

[theatre] Frankenstein

16日の水曜日の晩、National Theatre Liveの上映があったので池袋に行って、見ました。
なんで池袋でしかやらないのかよくわかんないのだが、フランケンシュタインだから?

監督・演出はDanny Boyle、音楽はUnderworld。舞台そのものの上演は2011年。
原作はもちろん、Mary Shelleyだがもう読んだのは随分むかしのことなのでほぼ憶えていない。

主演のふたり、Benedict CumberbatchとJonny Lee Millerがフランケンシュタイン博士と怪物を交互に演じていて、見た回はBenedict Cumberbatchが怪物のバージョン。 彼が博士のは昼間の回でやっていて、両方見るほどでもない気がしたし、彼、どっちかと言えば怪物よね、程度。

なんか膜のようなものの向こうから怪物がぬるりと生まれ出て、じたばたどたどたもがき苦しんでやがて2本脚で立ちあがって歩き始める。 ここまでが白塗り舞踏系、コンテンポラリーダンスふうの結構長いソロで、Cumberbatchの馬みたいな容姿もこれはこれで見事に均整とれているのねえ、とか思う。

怪物はやがて農家の盲目のおじいさんと出会って言葉を覚えて、やがてそこも追われて、いろいろな人たちと会っては畏れられ蹴飛ばされながら、すごいスピードでヒトの知性を身につけ、たどたどしかった言葉は雄弁になり、でも化け物は化け物としか認知されず、ようやく自分を作ったフランケンシュタインのところに辿り着いても拒絶されて結局 …

90年代中頃、Danny BoyleとかUnderworldあたりが生み出したボールドで野蛮で煙草とクスリ臭い、所謂”Brit”として括られるようなイメージがなーんか苦手なので、そういうのと原作のゴシック・ホラー・クラシックなかんじが、どこでどう折り合うのかしら、と思っていたら、なーんだ、ヴィクトリア朝とかスチームパンクとか、そういう方向なのね、なのだった。(わかりやす)

でも、だからといってストーリーや思想として圧巻の重みや深みを見せるかというとそんなでもなくて、結局残ったのは博士と怪物の(俳優の)突出した存在感のみ、つぎはぎ(→ 怪物)のイメージを並べていった程度だったかも。 カメラも真上からの俯瞰とか斜め横とか、ダイナミックなようで舞台なんだからもうちょっと落ち着けば、とか。

でもでも、怪物と博士がまばゆく光る原野の向こうに走り出していくエンディングは、原作とはたぶん相当、ぜんぜんちがうけど、その力強さはなんか悪くなかったの。


帰りは有楽町線で、くたくただったが気がついたら桜田門の駅だったのでそこで降りてデモに行って11時過ぎまでいた。荒んだ気分にはBritだよねえ。

10.06.2015

[film] 聶影娘 (2015)

13日の日曜日の午後、初台から新宿に移動してみました。
「黒衣の刺客」、英語題は“The Assassin”。

中国の唐代末期、今から1200年くらい前、河朔三鎮(かさくさんちん)とか魏博(うぇいぼー)とか節度使とかそんな固有名詞が冒頭の説明に並んでいくだけでくらくらして帰りたくなるけど我慢しよう。
誰がどうしたとかあんまよくわかんなくても、うぇいぼーが人の名前だったか土地の名前だったかわかんなくなって泣きたくなっても、どうにかなる。 宮廷中央との力関係とか妾に子供ができたとか陰謀だらけでわけわかんねとかなんでそんなに踊るんだとか妻夫木聡はなんだんだとか、宙を仰いで泣きたくなっても映画のブリリアントなとこはこれっぽっちも損なわれない。

13年前に女道士のところに預けられた隠娘(いんにゃん:舒淇)が両親のところに戻ってくるのだが彼女は暗殺者に仕立てられていて、元許嫁の節度使 - 田季安を殺そうとするのだが、殺せなくて悩んで苦しんで失敗して大変だったりするの。

背景とか筋とかはそんなもんなのだが、モノクロになったりカラーになったり横に伸びたり縮んだりする画面がすごくて、そのすごさって物語のスペクタクルなんかとはまったく連動せず、画面に漲る緊張感と殺気に触れて瞳孔が広がるのとおなじようだ … とか息をのんでいると刺客がどすっ。

アクションに派手さはなくて、ソリッドでやたらかっこいい黒衣と共にミニマル・モダンの舞いが速すぎてわかんなくて、でも打突の音はとっても強くて痛そうで、刺客というのはそんなふうに闇の奥から風のように突然来る、ていう「刺客」とか”Assassin”のイメージそのもの、タランティーノとかには描きようのない力とか倫理のなかで切なく生きるものたち。

これが1200年前の唐朝ローカルのお話しである必然なんてどこにもない気もするが、野山があって移動は馬で床に座ったり舞ったり、という世界である必要はあるのかも。弓矢とか鉄砲といった飛び道具の時代ではまだなくてヒトもまだそんなに飛ばなくて、肉弾と打突と衣擦れの一瞬のなかでひとは生きたり死んだり消えたりする、そういう世界でのたとえば愛、たとえば涙、たとえば安息、とか。

あと、侯孝賢の映画だよねえ、てしみじみする。「最好的時光 : 百年恋歌」 (2005) が3つのてんでばらばらな時代を描いてもその質感になんのギャップもなかったのと同じように、そこからさらに大昔の宮廷武芸帖であってもあきれるくらい侯孝賢のしっとりした湿気と衣の襞が画面に貼りついていて、ただただ美しいったら。

できればもう一回、いや何回でもみたいなあー

10.05.2015

[art] Wolfgang Tillmans - Your Body is Yours

順番が少し前後するけど、写真関連ということで続けて。
18日の金曜日のごご、大阪に行って40分しゃべる/しゃべれという仕事があって、これを見れるかもしれないのなら、ということで受けて行ってきた。

もちろん、大阪なんて生まれてから5回くらいしか行ったことないのでぜんぜんわかんなくて、でもGoogle Mapって便利だねえ(← 最近ようやく覚えてきた)とか言いつつ、国立国際美術館(← へんな名前)にたどり着いた。

日本の美術館では11年ぶりとなるらしい個展。
でっかいのも小さいのも写真アートみたいのもスナップみたいのも切り抜き帖みたいのもある。

写真のありようをものすごく大雑把に自分をとりまく世界をとらえるやつと世界に立ち向かう自分をとらえるやつに二分してみたとき、あるいはランドスケープとソーシャル、メディアとコンテンツ、具象と抽象、メジャーとマイナー、みたいな市場にある二項で切ったり割ったりしてみたとき、Tillmansは圧倒的な物量でもって、それら全部、と言おうとしている。 パンクもハウスもヒップホップもノイズもジャズもオペラも、全部を片っ端から垂れ流しにしていくラジオ局みたいに。

世界は目に見えないゴミやノイズも含めて可視化される必要がある。なぜって世界はめまぐるしく変わっていくし、政治もメディアもみんなうそつき(→ Truth Study Center:テーブルの上で簡単に手に取れる真実)だし、ひとりひとりの眼が見ているものはそれぞれの現実に応じて全部違うからだ - そういう流れのなかでなにかが歪んで変な方に向かっていやしないか? -  ていうのがおそらく彼の”Neue Welt”という考えの根底にはあって、彼はその徹底的な可視化を写真を使って世界のあらゆる場所で、全面的に仕掛けようとしている。 だからそこにはインスタレーションも含めて、今の写真と呼ばれるメディアが捕らえうる、形づくることができるあらゆる「世界」の形象が、約束事が、レイアウトが、とりあえず、のように並べられ、重ねられ、束ねられている。

でもさー、だからどないしろっちゅうねん?  ていう問いに彼は明快に答えるだろう。
“Your Body is Yours”  - あんたの身体はあんたのもんや、と。 売りもんちゃうで、と。

(展覧会を大阪でやったのはこの辺のニュアンスを伝えたかったのではないか  - 大阪弁じゃなかったらごめんなさい)

なんでそこまで?  Tillmansにとって写真とはそのための、そういう装置だから、としか言いようのないなにかが漲ってとぐろを巻いている。

鈴木理策の展示と同じように会場をぐるぐる3周くらいして見えてくるものがあって、Webのアーカイブとかで見ればいいってもんじゃないんだねえ、とおもった。
カタログは太いゴムバンドで束ねてあって、このゴムが例えば5年後にどんなふうになるか、よね。

蒸し暑い午後で、仕事はぜんぜんだめだったが、帰りに川に浮かんだでっかいあひるを見て和んだ。

帰りの新幹線に乗る前にイカ焼き、ていうのを買って車内で食べた。 バナナみたいに剥いて食べてください、と言われたのだが、そうしたらやっぱしシャツにソースが飛び散って泣きそうになった。 イカ焼きはバナナではない、よね。

10.04.2015

[art] 鈴木理策写真展 意識の流れ

13日の日曜日の昼間、(いつものように京王線でおろおろ間違ってから)初台で見ました。
割とむかしにあった気がする東京都写真美術館での個展 - 「熊野、雪、桜」以来か。

展示の冒頭に『カメラとは身体の外に知覚を成立させる驚くべき装置』というテキストが貼ってあり、これが展示全体のイントロダクションになっていて、8×10inの大型写真の異様な鮮明さと遠近の極端な誇張(前景のボケ)などに浸ったり戻ったり、脳の一部がひくひくしたり網膜の裏がまっしろになったり、を繰り返していると、だんだんに身体の外に成立してもおかしくない知覚、のようなものが「見えて」くる。 知覚と記憶の混濁、具象から抽象へ、やがてそうして見る対象が内側(内側のような外側)に入りこんで立ち上がってきて、そういう体験を、例えばセザンヌは自身の「描く」という行為を通して繰り返し語ってはいなかった、かしら。

冒頭のテキストの「カメラ」を「絵画」に、「知覚」を「記憶」に置き換えることで「装置」はやがて撮影された、描かれた「自然」に他ならないことを知るのであって、会場はそうした一連のプロセス ~ 展覧会のタイトルにある「意識の流れ」を意識的に追える(見える)ような構成になっていた。

(特に後期の)セザンヌが執拗に追求していった画布の上に山や林檎の存在のありよう、とか、存在そのもの、とかを表象させること、その工程を追っていくうちに写真という「表面」の持つ可能性に、気づいたのだろうか - サント・ヴィクトワールで山そのものを捕らえようとし、セザンヌのアトリエの撮影でセザンヌの視線を追っていく作業は、どこにどのような影響をもたらしたのか、聞いてみたくなった。

あと、身も蓋もない言い方かもしれないが、海があって森があって雪(固まりと結晶)があって水面が揺れてて、なんも考えないで見ても/見つめてもそれはそれで世界が入ってくる、写しだされた世界の力強さとか説得力とは別の次元でそういうのがあって、おもしろいと思った。 写真の展示のようで実はそこに写真はない、水面の膜みたいのが揺れてあるだけ -  と言ってよいのかどうか。

[film] St. Vincent (2014)

中野で”Wet Hot American Summer”を見たあと、まあ確実に無理だろうけどひょっとしたら(願)、ひょっとしたら(祈)、と京橋のサミュエル・フラーの当日券を求めて移動してみたのだが、入り口入って2秒でなにいってんのあんた? みたいにあっさり門前払いくらって、しょうがないのでそのまま日比谷にしょんぼり歩いていってこれ見ました。

『ヴィンセントが教えてくれたこと』

うん、ヴィンセントが慰めてくれたよ。

飲んだくれの無頼漢、荒れ放題のVincent (Bill Murray)んちの隣に越してきたMaggie (Melissa McCarthy)とOliver (Jaeden Lieberher)の母子がいて、病院で仕事をしているMaggieは忙しいからOliverの子守りをVincentに頼んで、Vincentはガキなんて大嫌いなのだがお金がほしいから引き受けて、転校したばかりでいじめられているOliverを助けたり、Oliverになんか助けられたり仲良くなっていくのだが、やがてVincentの過去も含めたいろんなことがわかってきて、そのうち彼は不摂生が祟ってぶったおれて、などなど。

他にもVincentの傍にいる妊婦で娼婦のNaomi Wattsとか、Oliverの担任の神父Chris O'Dowdとか、やばそうなちんぴら金貸しのTerrence Howardとか、脇も素敵で、なんか昭和の長屋人情ドラマみたいなかんじなの。 タイトルは「聖ヴィンセント」だしね。

最後はわかりきっているのだが、あそこでBill Murrayがなんかネタやってくれると思ったのにな。
久々にBill Murray節が炸裂しそうなのは”Rock the Kasbah”だねえ、とこないだ予告見ておもった。

ところで、Melissa McCarthyがあんなしっかり者の母親を真面目に演じているのもびっくりだったが、Oliver役のJaeden Lieberherくんは、”Aloha”でも同じようにやたら利発で理屈っぽい子供を演じていて、そこでの母親はRachel McAdamsだもんだから、Melissa McCarthyとRachel McAdamsのギャップを埋める父親の遺伝子とはどんなもんなのだろうか、とかぼんやり思った。

あと、ポイントは白豚猫のFelixね。 部屋があんなに汚いのに猫だけは白くてまるまる、と。

[film] Wet Hot American Summer (2001)

もう10月かあ。
9月12日の土曜日の午後、中野(何年ぶりだろ)のこじんまりした劇場で見ました。

こういうのには普通に飢えているので当然のように見るの。Netflixとかで見れるらしいのだが、そんなのどうやったら繋げるのかわかんないもん。

公開された2001年だったら米国で暮らしていたはずなのに覚えていないのは、来たばっかしで設営とかに忙しかったからだろう(公開は7月27日だって)。

81年、アメリカのどこかのサマーキャンプの最後の日。
あんまやるきなしの運営する大人たち、子供たちはどうでもいい指導員たち、大人はどうでもよくてやりたい放題の子供たち、隣人などなど、これらがダンゴになって夏の最後の鬱憤だの欲望だのを思いっきり絞りだしたり吐きだしたり、規範も規律も教育もあったもんじゃなくて、大人も子供も野に放たれたただの動物。 学校モノであり職場モノであり擬似家族モノであり、それらをぜんぶ無軌道に痛快にぶっこわして、でも勿論だれも責任とろうとしない。出てくるぜんいん、自分がいちばん大事だし自分がいちばん正しくて偉いと思っている。 そんなどたばたコメディ。

そんなふうに出てくる大人たちは、Janeane Garofalo, Michael Showalter, Paul Rudd, Molly Shannon, Amy Poehler, Bradley Cooper, Elizabeth Banks, Peter Salett、などなど。
どいつもこいつもまだぴちぴちしてて一生懸命で愛らしいったら。

上映後の山崎まどかさんによるトークは、監督のDavid Wainとその周辺についてああそうだったのね!の連続だった。 “The State”の連中だったのかー。 でも放映していた頃って、TVはMTV漬けだったけど、笑いのツボのようなとことがあまり掴めなくてよくわかんなくて、TVのコメディに関しては断トツでSNLだった。 だってこの頃のメンバーときたらAdam SandlerがいてChris FarleyがいてRob SchneiderがいてDavid SpadeがいてMike MyersがいてPhil HartmanがいてNorm MacDonaldがいたんだよ。 毎週ほんとに笑い死にするかとおもった。

この頃の彼らと、これに続く(一瞬沈んで、96年くらいからの)Will Ferrellの時代が自分のコメディ世界観を作ったんだなあ、て最近おもう。

あと、こういうコメディグループやシーンの話しになると、よくMonty Pythonが引き合いに出されるけど、Monty Python、そりゃ大好きだけど、お互いぜんぜん別モノだからね。英国のバンドと米国のバンド比べてあれこれ言ってもしょうがないでしょ、ふつう。
ていうのと、最近思うのは共時性みたいなこと、同じMonty Pythonでも東京12チャンネルで見ていた人たちとその後に知った人たちとで受け取り方は大分違うはず。

2015年版の”Wet Hot ... ”はどうだろうか。そりゃ見たいけど、バンドの再結成ライブを見るのとおなじかんじかしら。

あと、あんな見事なパンフレットまで付いた上映会、本当にすばらしいったら。
翌週の”The Kings of Summer”も見たかったけど、行けなかったよう。