4.30.2014

[film] Captain America: The Winter Soldier (2014)

19日、「残菊物語」のあと、レコード袋いっぱい抱えていたので一旦家に戻って荷物を置いてから六本木で見ました。3D。 ぜんぜんちがう世界の。

海賊に乗っ取られた船の救助ミッションに出かけたCaptainとBlack Widowだが、Black Widowが別な仕事みたいのをやってて、なんだろうなーと思っていると、そのオペレーションを仕掛けた側のNick Furyが襲われて、SHIELD上層部の陰謀らしきものがだんだん露わになって、更に敵側の刺客がブルックリンの頃からの幼馴染バッキーであるらしいことがわかって。

やがて明らかとなったあらゆるデータを解析してやばそうな芽とか可能性をもった人々を一瞬で殲滅する究極の安全保障 - Insight計画、それを阻止すべくSHIELDを二分した抗争が勃発するの。
組織の内部抗争のスケールとしては、はんぱない。 敵方に嫌いなやつがいたら喜んでぶっころす。

あとは、歴史の波に呑まれ、引き裂かれてしまった男同士の友情とか記憶とか、そういうのもある。
どっちも90台後半、どっちも改造人間、ていう哀しさとか。
かつて好きだった彼女はよぼよぼだし、ちょっと気になるおねえさんには彼がいるみたいだし、ずっとこのまま童貞で終わるのか、とか、もある。

Avengersシリーズのなかで、Captain Americaがいちばんどんくさい(だって95歳だよ)気がして、だからこのパート2も出来たこと自体ふうんだし、なんで?  だったのだが、なかなかおもしろかったかも。
お金持ちエリートの戦争ごっこになってしまったIron Manとか、結局のところ彼岸の神の争いでしかないThorとかと比べるといちばん現代社会とか戦後の歴史とか会社組織(上司Fury、同僚1Black Widow、同僚2Falcon、など)に近いお茶の間要素(SHIELDはTVシリーズになっているし)があれこれ散らばっていて、それがどうした? といえばその通り、なのだが、正義がどうこうより、官僚組織内のお仕事として悪いやつらをやっつける、そのへんがクールでよいの。 リビドーむんむんのSpider-Manよかわかりやすい行動原理。

アメリカの権力の中枢部にナチスの亡霊(のようなの)がくい込んでいた、ていうのはいかにもありそうなお話なのだが、でもそこでCaptain Americaか? Avengersなのか? ていうのはあるかも。 あと、あんなでっかい空飛ぶ戦艦3つも作っておいて誰もチェックしていないのか、とか。

今のアメリカのお話として、というよりは今の日本に当てはめたほうが断然リアルだよね。 現政権にはぜったいハイドラの残党みたいなのが残っていて(残っているだろ、あれとかあれとか)、そういうのを考えていくとCaptain Americaに相当するのって、やっぱしゴジラなんだろうな、とか。

アクションがなかなかかっこよい。 高速道路のどんぱちとか。 意外性はあんまないけど。
空を飛べない辛さ、みたいのもよりわかりやすく出ていた。 怖くないのか、とか、痛くないのか、とか。

どうでもいいけど、地下にあった70年代のコンプータールームみたいなやつ、USB起動はがんばればできるかもしれない、けど、あれだけのテープユニットがすぐに回りだすなんてありえないから。 電気入れてから軽く1時間はかかるから。 空調だっているから。



Bob Hoskins、亡くなってしまったのね。
ご冥福をお祈りします。

4.27.2014

[film] 残菊物語 (1956)

19日の土曜日、京橋の特集「日本の初期カラー映画」で見ました。

溝口健二の有名な同タイトルの(1939)と原作はおなじ村松梢風、脚本もおなじ依田義賢。
主演のふたりが、花柳章太郎 + 森赫子から長谷川一夫 + 淡島千景になって、白黒からカラーになって。

歌舞伎役者の尾上菊之助(長谷川一夫)は養子に入った二代目で、でも周囲からいまいち、とか言われててめそめそしているときにお徳(淡島千景)と出会って、彼女に芸のことをきつく言われるのだが逆に惹かれて仲良くなって、でも身分違いの恋なので周囲の反対にあって、菊之助は家なんか捨てて大阪に行くから駆け落ちしよう、て誘うのだが、お徳は駅のホームで身をひくの。

こうして大阪でひとり精進しているとお徳がひょっこり現れてよかったね、と思ったら大阪の師匠が突然亡くなって、行き場を失ったふたりはどさ回り歌舞伎団のきつい旅に入って、菊之助は荒れるわお徳は体を壊してしまうし散々なのだが、そんな地道な努力が認められて東京から戻らんか、と言われて、でも東京に戻る電車でまたお徳は身をひくの。 東京で菊之助はスターになるのだがお徳は...  なの。

みっしり入ったご年配のお客さん達のずるずるぐすぐすがホワイトノイズのように耳の周りで延々鳴り続けてて、確かにかわいそうなことばっかり転がっていくのでかわいそうなのだが、でもふたりはほぼずうっと一緒にいられたんだし、とかそっちのよい面をなんとか見てしまうのだった。

そうするとかわいそうばっかりでもなくて、ふたりが大阪で再会するとこの「きちゃった... 」「まじかよ」みたいな無言の切り返しは素敵だし、すいかもよいし、大阪でふたりを世話するおばちゃん浪花千栄子も楽しい(みかん... )し、悪くないの。

長谷川一夫の菊之助の強がり言う癖になよなよだめなとこと、淡島千景のむかしのにっぽんの女性、みたいに生活にやつれても芯だけは、ていう組み合わせも普遍的なかんじがしてよいの。 好き嫌いでいうと、けっ、だけど(組み合わせがね)。

あとカラーの色具合が抑えめで、淡色系の和の色が綺麗に出ていて、夏に始まって秋から冬へと流れるにっぽんの四季の美しくて儚くて、終りのほうのお徳の幽霊みたいな顔色も含めてよいのだった。

溝口の「残菊」を見たのは随分昔のことなので細かい比較はできないのだが、溝口のがシャープで残酷で救いようがなくて、こっちのがエモでウエットで、でもふたりがかわいそうなとこはおなじで、リメイクするくらいかわいそうに思うんだったらなんとかしてやれよ歌舞伎関係者、とかおもった。


でも今日みた「神様はつらい」と比べたらこんなの超極楽だよね、てしみじみおもったの。

4.26.2014

[film] Philomena (2013)

お休みだというのにこのすりきれたぼろかすのかんじはなんなの。

13日の日曜日の昼間、新宿でみました。
邦題なんて書くもんか。ネタバレもするよ。実話だし。

Steve CooganもJudi Denchも好きなのでー。
ヘマをして一線から転げおちた政治ジャーナリストのMartin (Steve Coogan)は、ある女性の母の話しを聞いてやってくれと頼まれて、そこに現れたのがPhilomena (Judi Dench)で、若くてやんちゃだったころに幽閉されていた修道院から連れ去られてしまった息子を探してほしい、といわれる。

静かに隠遁してロシア史でも執筆しようとしていたMartinだが、雑誌に持ちかけたらやってみろと言われるし、Philomenaがなんか必死なので一緒に探し始める。

Martinは典型的な英国の、ケンブリッジ出のいけすかねえやろうで、PhilomenaはC級恋愛小説が好きで放っておくとひとりでずーっとぺちゃくちゃ喋っている、典型的な英国のおばあちゃんで、まったく噛みあわないふたりが、まったく噛みあうはずのなかった戦後とか宗教とか国家とかそういうのに直面させられることになる、ていうのを大風呂敷広げることなく、かといって、子を想う親のこころは... みたいなうざいとこにもいかない。 ふたりの俳優のどこかしらしらっとした演技はそういうとこを断固回避、しようとしているように見える。

ふたりは当時の教会が子供を売っていた事実をつきとめて、それを買っていたアメリカに飛ぶことにする。こうしてようやく突きとめた彼女のアンソニーは、レーガン = ブッシュ政権の法務担当の役人をやってて、ゲイで、もう亡くなっていた…

残念だったけど、写真やビデオでは会えたのだし、パートナーもいて不幸な人生じゃなかったみたいだし、それでいいでしょ、で終るのかと思ったらそうはいかないの。 息子は母親のことを、自分の国のことをどう思っていたのか知りたい、50年前、走り去る車の後部座席にいた最後の息子の像と亡くなるまでの彼の軌跡を結んでみないことには納得いかない。

こうしてPhilomenaの最後の旅はかつて自分が幽閉されていたカトリックに、自分のなかにいて常にすがり続けてきた神に立ち向かうことになって、それがどんなに過酷で厳しいものか、それに気づいた瞬間、懺悔室での彼女の青灰色の瞳に浮かぶ複雑な、でも強い強い感情の揺れがほんとにすごくて打ちのめされる。 Judi Denchすごい。

この週末に見た3本はぜんぶゲイの映画でしたわ。 それがなにか。

4.21.2014

[film] Stranger by The Lake (2013)

“The King of Escape”に続けて見ました。 終わってからのトークは時間なくて参加できず。
原題は”L’inconnu du lac”。 「湖の見知らぬ男」

どこかに美しい湖があって、その湖畔はゲイの人たちが愛を求めて裸もしくは水着とかの半裸でうろうろしている場所(はってん場、ていうのね)で、フランク(Pierre Deladonchamps)もそんなひとりで、ある日、男らしいミシェル(Christophe Paou)と出会ってぽーっとなるのだが、ある夕刻、ミシェルとその恋人が湖で泳いでいて、しばらくしてミシェルひとりが陸にあがってくるのを見てちょっとぞっとする。 フランクとミシェルは仲良くなっていくのだが、やがて水死体が発見され、警察がそこらをうろつくようになって、でもなにがどうなるものでもない。 ミシェルは本当に人殺しなのか、人殺しだったとして、自分は果たしてどうしたらよいのか、などなど。

湖の岸辺とそこからすこし高いところにある湖を見下ろせる場所、駐車場、やらしいことをする木陰とか草むら、場所と視界はこれくらい。
登場人物もフランクとミシェルと、定時に岸辺に座っているアニエス・ヴァルダ似のおじさんと、相手を求めてたむろしたり覗きをしたりするゲイの人たち、それくらい。 湖で泳ぐばしゃばしゃした水音、湖畔のぴちゃぴちゃした音、鳥の声、ひとの喘ぎ声、どの音も鼓膜すれすれのところ聞こえる、それくらい。
フランクもミシェルも、この場所を離れたところで普段なにをやって暮らしているのかは全くわからない。
彼らはこの場所に性的欲求を満たすためだけに車でやってきて、それが終わると車で帰っていく。 
ここはどこであってもよいし、全員がだれであってもかまわない(誰もが「湖の見知らぬ男」)。 名前のない場所、名前のない景色、そこで誰か(やはり名前なし)が溺れてしんだ、と。 それがなにか?
ドラマは謎解きサスペンスでは全くないのだが、フランクが徐々に感じるようになる恐怖や焦りは彼自身の存在(社会的なそれ、ではない)に根差したすぐそこにあるなにかのように感じられて(光も音も肌も)、だからこそとっても怖くて、それがラスト、陽のおちた湖畔、その草むらの闇のなかで最高潮に達するの。

そしてその倫理的存在論的な恐怖は、ゲイでない人にも共有、もしくは想像可能ななにかなのか、とか。
それはたぶんわれわれにもじゅうぶんわかってしまう何かであって、つまりそれは。
ひとをひとり消してしまうこと、そういうことが容認されうる場がありうるとしたらそれはたとえば ...  いやちがう、とか。

画面はどこを切りとってもきれいで、むきだしの男根も含めてBruce Weberの写真みたいなのだが、彼の写真で描かれるファンタジーのネガポジをくるりと反転させて闇のなかに落としこむ、その手法の鮮やかでスリリングなこと。 見て一週間以上経つというのにいろんな像が残っていてあれこれ考えさせられる。
これ見よがしに美しいショット、衝撃的なショットなんてほとんどない、どちらかというとのっぺりした風景とねっちりしたラブシーンばかりなのに。

ゲイの男性を主人公に据えることについて、監督はきっとどこかのインタビューで答えているに違いないのだが、”The King of Escape"もこれも、ヘテロの男性が主人公だったらどうなるか、おそらく作品そのものが成立しなくなるように思えて、こんなふうな映画ってあるところにはあるの?

“The King of Escape”のアルマンが破天荒なでぶのパワーでどこまでも走っていくのに対し、この映画のフランクの居場所は湖畔の半径50mにしかないように見えて、でもどちらも抽象的なオトコとしてひとり佇んでいる。 でもどっちも野外で裸になってやるのが好きだという。

4.20.2014

[film] The King of Escape (2009)

12日の土曜日、横浜の馬車道、アンスティチュ・フランセ横浜のシネクラブで見ました。
原題は“Le roi de l'évasion”。Alain Guiraudie監督のは前から見たかったので。

フランスの田舎町でトラクターのセールスマンをやっているアルマン(Ludovic Berthillot)はでぶでゲイでぜんぜんぱっとしない日々を送っているのだが、ある日レイプされそうになっていた少女カルリ(Hafsia Herzi)を助けてあげたら、彼女に好かれて迫られるようになって、彼女と関係を持つようになる、のだが彼女は未成年だし、彼女の親は仕事で揉めたこともある彼を目の敵にしてるし、ゲイの友達サークルもあるし、仕事はどうせぼろかすだし、なにもかもめんどくさいので彼女と逃げることにする。 だからといって、明日に向かってとか自由がどうとか、そんな刹那的なかっこいいものではなくて、その場しのぎとりあえず、というかんじでさっさか逃げる。

やがて警察とかヘリとか猟銃とかいろんなのもやってきてやばいのだが、でも逃げる。追ってくるから。
そのうちカルリも面倒くさいと振っきって逃げるようになり、じゃあどこ行くのよあんた、なの。
全速力で必死で、というふうでもなく、アルマンが画面を横切っていく、それをカルリが追っかける、ていうのがなんとも言えずおかしい。 なにやってんだか、と。

いろんな境界があって、ゲイとヘテロ、野外と屋内、中年と少女、少女と巨根、でぶとやせ、それらを取っ払えと声高に叫ぶわけでも段差を問題視するわけでもなく、アルマンのぶつぶつたぎるいろんな嫌悪とやってらんねえやもう、のようなかんじで始まる彼の、でぶ一匹の逃走が、野外の緩んだ陽光が、それらをずるずる無効化していくのが痛快なの。 でも、やったあ!って手を叩くほどのものでもなくて、彼の頭のなかなんて誰にわかるものではないし誰にもわかってくれなんて言わないから、警察にとってはたんなる無軌道で危険な半裸の中年でぶでしかなくて、そいつが野外をすたこら突っ切っていって、誰にも止めることはできないし捕まえることもできない。 ていう痛快さ。

で、ラストに彼が見いだした場所とは、ていうのがまたなんとも、なの。

単なる偶然かもしれないが、この映画、NYのAnthology Film Archives(どっちもレンガね)で4/11から一週間公開されていたの。 Alain Guiraudieの作品がUSできちんと配給されるのはこれが最初だって。

http://anthologyfilmarchives.org/film_screenings/calendar?view=list&month=04&year=2014#showing-42430

4.19.2014

[film] Hunger (2008)

8日の火曜日の晩、渋谷でみました。
"12 Years a Slave”もまだ見ていないのだが、この監督の長編デビュー作である本作もまだ見ていないのだった。

1981年の北アイルランドの刑務所、英国政府(サッチャー政権下)の北アイルランド紛争関連で拘束した人々を政治犯として認めないとする方針に抗議して獄中のIRA暫定派(Provisional Irish Republican Army)が行った一連の活動、なかでもBobby Sands (Michael Fassbender)が中心にいたハンガーストライキの様子を描く。

政治犯として認めない、ということは重軽の「犯罪」を犯した囚人と同じように見られ扱われることを意味していて、そんなのちがうだろ、と囚人達は支給された囚人服を着なかったり、お皿を打ち鳴らして騒音たてたり、大小をトイレではせず廊下に流し、糞を壁に塗りたくる。看守側もまったく動じることなく、強制断髪に強制風呂、消毒剤噴射、なにより暴力暴力、等々で断固制圧しようとする。

壁にこびりついた汚れをこそいで取る、というのが権力者のやり方であるのなら自分の身体を自分でこそいで消せるものかどうか見せてやろう、消してみろよおら、というのがハンガーストライキのアプローチで、それは自分で自分を消す過程をじっくりとデモすることに他ならない。

制圧するやりかたも抵抗するやりかたも全体としてものすごく痛そうできつそうで見るのがしんどいのだが、目を背けたくなるような汚れた描き方はしていなくて、これを見つめ、見届けなければいけない理由はなんで、それはどこにあるのか、をきちきちと積んで、追っていく。

特にBobbyが旧知の神父との面談のなか、ハンガーストライキをすること、その決意(死の覚悟を含めて)を静かに語るワンシーンワンカット(10分以上)の吸引力はすごい。
こういうのも含めてあんまり汚れのないきれいな映像、シンプルな画面構成のなかに置いていったことに賛否あるのかもしれないが、これはこれでよいのでは、とおもった。 がりがりひょろひょろのMichael Fassbenderとかも。

ほんの30数年前の英国でほんとうに起こって、Bobby Sandsと他9名が亡くなったこと、だけでなく、今でもグアンタナモとか、世界の至るところで知られることなく行われているのだ、ということと、あんな法ができてしまった日本もぜんぜん圏内であることは、改めてね。



今日はRecord Store Day2014で、新宿に行ってきて、これまでの年より少しはあった、けど欲しいやつの半分もない。 これから入ってくることを祈る。 お祭り気分をやたら煽っていたタワレコにも行ってみたが、既存のアナログ在庫並べただけで、RSDの商品はほとんどなし。 ひどいねえ。

本日のでっかかった獲物、LCD SoundsystemのMSGのラストライブ5枚組 - 1枚目と5枚目 - を帰宅してから聴いた。 ものすごくよい音で、なんか泣きたくなった。 現地で見たかったよう。

4.18.2014

[film] Blue Is the Warmest Color (2013)

6日の日曜日の昼間、渋谷でみました。 ようやく。

原題は、“La vie d'Adèle - Chapitres 1 et 2” だけど、英語題がいちばんすき。 青い色もすき。

日々をぶよーんと過ごしていたアデル(Adèle Exarchopoulos)がエマ(Léa Seydoux)と出会って恋に落ちて、恋が壊れて、別れる、それだけ。
ほんとうにそれだけの179分なのに、その時間の濃さ、あっという間なかんじははんぱない。
恋をしている時間、その経過がそのままべったり濃厚に、砂時計の粒粒のように記録されている。

というわけで、そんなのの内容を云々するのってバカみたいな気がしないでもないのだが、なんか書いてみよう。

アデルは最初上級生男子とかと付きあってみるのだが、あんましっくりこなくて、その状態で青い髪と冷たい目をしたエマとすれ違って、エマはそのとき女性と一緒にいて、なのにぞくぞくして、エマは夢にまで出てくるのでなんだこれは、って思っていたそんなある日、ひょっとしたらと思ってゲイバーに行ったら、そこにエマがいる。
「いた!」っていうのと、エマがだんだん寄ってきて「きた!」「くる!」っていうのがものすごく生々しい - それは、あたしこんなとこでなにしてんだろ、ていうのも含めてぞくぞくするあの感覚がやってくる。 そんなホラー映画でやられるときの感覚に近い生々しさが。

ふたりが女の子同士であることなんて、どうでもいいの。とにかく最強なんだから。

こうしてアデルはエマとつきあうようになって、お互いの家に行って、エマの絵のモデルをやって、たくさんのキスとセックスをして、満ち足りた日々を送る。アデルは幼稚園とかで働くようになって、ふたりは一緒に暮らして月日は過ぎていくのだが、出会いの瞬間とおなじように、肌に近いところでふたりの目の動き、手の絡み、お尻の重なり、をみっちりと追っていって、でも同時にエマの周りのアートな人々との付き合いとかアートに向かう情熱とか、アデルにとってつまんないなーみたいなとこも出てきて、アデルはつい他の男と遊んでしまったりする。

で、それがばれるともう青い髪じゃないエマは烈火のごとく怒って、アデルを巣から追い出して許さない。 それはSMどころじゃない激しさで、要するにそれくらい真剣だったのだということなのだが、アデルがどんなに謝ってもどうすることもできなくて子供みたいにびーびー泣くしかない。

アデルって、スマートでもすごい美人でもないし、たいてい口を少し開けてたりして、寝るの食べるのが好きで、幼稚園の先生をしているから子供も好きで、料理も家事も得意で、要するにふつーに結婚して子供産んで主婦になってはやめに中年のギリシャおばさん体型になる典型のような娘なのだが、でも、か、だから、か、アデルはエマがすきで、エマはアデルが好きでしょうがない。 しょうがないのよ。

そんなふたりの愛の崩壊は、自傷他傷、ストーキングにも猟奇にも走ることはなく、ああ包丁でひと思いにできたらどんなに楽なことか、というくらいに残酷で、ふたりが向いあってほんとうにお別れをするカフェのシーンなんて、こういうときに言っちゃいけないことばっかし並べて互いに刺しあうもんだから喉の奥がつーんとしてきてしょうもない。「もう煩わせたりしないから」「煩わされてなんかないから」とか。 別れたから、別れたあとでどうなる、という言及もない。 おわりはおわりで、なにもないんだなー、と。

ボロネーゼのスパゲティと牡蠣とお尻があればひとは生きていける、そういうメッセージもあるの。

あ、愛もか。

4.14.2014

[film] To Be or Not to Be (1942)

5日の土曜日の夕方、シネマヴェーラの特集「ナチスと映画Ⅱ」のなかからの1本。
前日からの流れだと、Greenbergつながり、あとなんか元気になりたいなー、と。

「生きるべきか死ぬべきか」。

おおむかし、雑誌リュミエール(てのがあったの)が出したVHSで何回も見たし、シネセゾン(てのがあったの)のお披露目上映会でも見たし、米国でもルビッチ特集とかキャロル・ロンバード特集とかかかるつど絶対見てるし、これからも何度だって見るし。 戦争コメディで、舞台コメディで、お笑いシェイクスピアで、とにかくおもしろいの。 深いのかもしれないし浅いのかもしれないしどうでもいいけど、痛快でざまあみろ、なの。

冒頭の「ルビンスキ - クビンスキ - ロミンスキ - ロザンスキ & ポズナンスキ(一時期おぼえてた)」からなんだそりゃ、ておかしくて、とにかくそこはナチスが侵攻してくる前のワルシャワで、ヒトラーをおちょくった芝居をやろうとしている劇団があって、役者夫婦のマリア・トゥラ(Carole Lombard)とジョゼフ・トゥラ(Jack Benny)がいて、でもその芝居はナチスが来て取りやめになって、替わりにハムレットをやることになったのだが、夫ハムレットの”To Be or Not to Be”のところに来ると必ず席を立って出ていく青年将校(Robert Stack)がいて、どうもマリアと密会しているらしい。 それとは別に英国から来たナチスのスパイを巡ってマリアと劇団がナチスを相手にお芝居をふっかけて、でもあれこれあちこち引っかかってこんがらがって大変なことになるの。

とにかく狙ったところに相手が落ちてくれないので取り繕おうとした試みが更に別の誤解だの混乱だのを生んで、というスラップスティックの基本を恋愛と戦争とハムレットぜんぶいっぺんに適用しようとしたらなんだかできちゃった着地しちゃった、という。 しかもぜんぜんクラシックなかんじがなくて適当で。

とにかく「ハイル・ヒットラー!」とか「シュルツ!」とか「有名なアクターであるジョゼフ・トゥラ〜」とか、人の名前がでたところで必ず空振りしたりずっこけたり、ぜんぶそいつのせいになる。
体裁とか体面とか肩書きとか体制とか、くそくらえなの。

やっぱしキャロル・ロンバード最高だよねえ。 夫を入れて四角でも五画でも関係のまんなかでゆらゆら超然としてて、男に求められれば求められるほど輝いていって、でもつん、て顔してて。 ナチスをとっちめるにはこのクールな女王がひとりいればじゅうぶんだったんだ。
この映画が最後になってしまったのがつくづく信じられないねえ。

4.12.2014

[log] Dalian - April 10 - 11

10日の朝に成田から大連に飛んで、滞在25時間、11日の夕方に戻ってきました。

行きも帰りも3時間くらいなので、機内映画は見れても1本。

行きではなんとなく、My Best Friend's Wedding (1997) をみた。 ほんと久々、何回目か。

「結婚」(かぎかっこ入り)をテーマにしたロマコメの最高峰にある一本だとおもう。
Julia RobertsとDermot Mulroneyの友情の間に突然割ってはいってきたぴちぴちのCameron Diaz、そうなってはじめて彼への愛に気づいて慌ててあれこれぶち壊しにかかるのだが、壊れていくのは自分ばかり、ていう。 残酷で不安定でばかばかしくてでもしんみり泣けてしょうもない。
レストランでみんなが"I Say a Little Prayer"を合唱するところとか、ラストにRupert Everettが現れるとことか、だいすきなの。
Julia Robertsを代表するいっぽんはこれだ、て思う。

機上から見下ろした大連は黄色のもやもやで上にある空のほうもくすんだ水色でまるでロスコの絵が窓に貼りついているようで、幼少期から筋金入りの喘息もちはそれだけで息苦しくなりきっと死んじゃうかも、と目をつむったのだが、そんなでもなかったかも。 でも二日いたらしんどかったかも。

こないだ香港に日帰りしたときは、殆どが夜の街中だったので建物の隙間とか道の奥の暗がりがぜんぶジョニー・トーに見えたのと同じように、大陸だとなんでもかんでもジャ・ジャンクーかワン・ビンに見えてしまう(←ばか)。 つまり、建物とか岩肌とかはやたらでっかく威圧的でかんじわるくて、ヒトはみな虫のように小さく、顔をしかめて背をまるめて歩いている。

大連は2008年にも一回来ていて、山の中腹にあるその会社のひとは「まだ建設中ですから」て言ってて、今度も別のひとが「まだ建設中ですから」て言ってた。 万里の長城をつくっているかんじ。
中国っておもしろいねえ、人も国も。

晩ご飯にはおいしい中華を期待していたら韓国焼肉で、肉も海鮮もおいしかったので文句はないのだが、メニューにDog Meat、てあったあれは ...
朝ご飯はホテルのビュッフェで、和洋中なんでもすごい物量だったが、やっぱしお粥にして、それもおいしかったが、なにより驚愕だったのはエッグタルトでしたわ。

ご飯の後で街中をうろうろしてて、ホテルの近くにあるらしい満鉄博物館ていうのに行きたかったのだが、辿りつけなかった(行きたいならちゃんと調べろ)。 前日まで内田百閒の「旅順入城式」を持っていって現地で読むこと、て言い聞かせていたのに忘れた、ことを思いだした。
古い建物の朽ちたかんじとその向こう側に聳える高層ビル群、その間に這いつくばる商店飲食店の汚れた原色の組み合わせがなかなか素敵で、でもやっぱし埃があー。

散策中にシネコンふたつ見つけた、ので次はかならず。

帰りの飛行機では"Grudge Match" (2013)を見た。

'Razor' Sharp (Sylvester Stallone)とBilly 'The Kid' (Robert De Niro)はずっとライバルでチャンピオンの座を巡って張りあってきて、30年前にRazorが突然引退してから互いに関わらずに生きてきたのだが、TVゲームの企画で顔を合わせて大喧嘩した様を動画に撮られたのがネットで広まって、ギャラとか生活苦とかもあるので嫌々試合をすることにする。

"Rocky"(実は見てない)対 "Raging Bull"かよ、痛々しいだけで笑えないじゃん、のとおり、最初はぜんぜん笑えないのだが、Razorの老トレーナー(Alan Arkin)とか、Razorの恋人だったKim BasingerがKidと浮気したときにできちゃった息子がKid側のトレーナーについたりとか、しぶとく反省しない、自分らが一番と思いこんだ一族郎党の物語として転がり始めたあたりから拳が勝手ににぎにぎしだしてああだれかこいつらを止めろ、と熱くなってしまうのだった。 悪くないの。 アメリカの威風堂々バカ伝説に軽くのっかるやつ。

音楽もT.RexからStonesからThe Heavyまで、ばりばり豪快でやかましくて気持ちいいのばっかし。

でもいちばん笑ったのはエンドロールのとこで出てきた耳食い(リアル)伝説のふたり。

あと、機内誌の特集がNew Yorkの本屋さんだった。 あんまし、だったかも。
大手/オンライン書店 vs インディペンデント書店、みたいな図式はもういいかげんやめてもいいよね。
それでも最近の日本の本屋のどうしようもなく気持ちわるい偏向ぶりよかましではある、のだが。

4.09.2014

[film] The Secret Life of Walter Mitty (2013)

4日の金曜日の晩、六本木でみました。

Life誌のネガ管理部門に勤務するWalter (Ben Stiller)が会社の売却とそれに伴うリストラの知らせを受けた日、伝説の写真家Sean O'Connell (Sean Penn)が送ってきたフィルムのなかで1ピース(25番目の)が欠けていることに気づく。 最終号の表紙を飾ることになるのはその失われた写真にちがいない、と25番目のネガを求めてWalterの旅がはじまる。 Walterはまじめで、でも妄我妄想癖があって、母(Shirley MacLaine) と妹の面倒をみながら日々を慎ましく過ごしてきて、マッチングサイトで同じ職場のCheryl (Kristen Wiig) にアプローチしようとしてもうまくいかない。

最初のほうで彼の妄想がでたらめに暴走するシーンが続くので、Sean O'Connellからの手掛かりをもとに彼が走りだし、いきなり人口8人のグリーンランドに飛んでも、そこからヘリと鮫と漁船を経由してアイスランドに辿りついても、それが現実とは思えなかったりするのだが、そんな懸念をけっとばすように彼がぐいぐい走りだして先に行ってしまうので、どうでもよくなる。
彼はSeanに直接会ってなんとしてもネガを手に入れなければならなくて、それをCheryl(妄想)やマッチングサイトのオペレーターTodd (Patton Oswalt)がバックアップしてくれる、こわいものなんかない。

さえない男の世界への旅立ち、目覚め、を描いているようでいて、そんなの夢でした、というのではなく、そんなの、彼は会社の暗室でネガと向き合いながらとっくにやっていたのだ、すべては起こるべくしておこったんだよ、ていうのを汗とか涙とか力瘤とかなしにさらりと語っているのがすばらしいの。

で、それを実現したのが小柄で華奢なBen Stillerの身体である、ということ。 向こうからすたすた歩いてくる"Greenberg" (2010)のGreenbergの姿かたちがBen Stillerでしかありえなかったのと同じように、彼方の、世界の果てにすっとんでいくWalter MittyもまたBen Stiller以外の誰かではありえない(特に後ろ姿ね)、"Secret Life"ていうのはそういうもので、その謎謎はだれかのお財布とかにちゃっかり隠れていたりいなかったり。

Ben Stiller以外の俳優さんも全て、グリーンランドの酔っ払いおやじとかアイスランドの子供たちとか職場のHernandoとか、誰も彼もがほんとうにそこに生きているかのようにそこにいて、つながっているとか、みんながんばっている、とか臭いとこ一切なしで、ただそこにいる。 それぞれのSecret Life、ていう。
ぜんぜん感動的な登場のしかたをしないSean Pennもよいし、Patton Oswaltは笑顔全開だし、"Space Oddity"を頼りなく歌うKristen Wiigは、なんだか泣けてくるの。

そして、Ghost Cat (雪豹)の映像。 たまんない。

Bowieの歌をへんてこふうに歌って、でもなんでか意味なくせつなく感動的に盛りあがる、というと"The Life Aquatic with Steve Zissou" (2004)が思いだされて、この2本は、なんか似ているのね。
(冒険モノであること、海 vs 山、人名と"Life"がタイトルにある、魚 vs 猫、など)

サントラもすばらしくて、 José Gonzálezもいいの。ちょっとArcade Fireぽすぎるけど。

この作品がNYFF2013のセンター・ピースで、クロージング・ピースが"Her"だったの。
この2本を比較して見えてくるものもあるはず。

最後にでてくるピアノ屋、Beethoven Pianosって、58thにあるんだけど。あれはBronxの倉庫?


ぜんぜん関係ないけど、ミスドのあれ、たべてみた。  怒れ! Dominique A。

4.08.2014

[art] あなたの肖像―工藤哲巳回顧展

30日の日曜日、最終日になんとか、竹橋で。
ハイレッド・センターを見たら、こっちだって見ないわけにはいかないでしょ。

昨年MOMAで見た展示"Tokyo 1955–1970: A New Avant-Garde"でもハイレッドセンターと工藤哲巳はほぼどまんなかだったんだよ。(あとは横尾忠則と岡本太郎)

日本では20年ぶり、東京では初めての回顧展だという。
60年代初、「反芸術」のげーじつか、でありながらハイレッドセンターの行動と交わることはなくて、それは個々の作品を追っていけばわかる。

ひっぱる、むすぶ、つつむ、はかる、等々の行為を繰り広げることでソーシャルを引っ掻き回したハイレッド・センターに対して、アタマの皮一枚の向こう側でぶつぶつ泡をたてて燻る自我とか脳髄とか脊髄とか男根とか、そういうのを道端に転がして放置する工藤哲巳のブツ(オブジェというよかブツ)あれこれ。 あれだけ並んでいるとやっぱし圧巻でお腹いっぱいで、そしてそれを喜んで正面から受け容れたヨーロッパ、ていうのも相当なもんだよね、とか。

伝説の「インポ哲学」も、更に伝説の「インポ分布図とその飽和部分に於ける保護ドームの発生」- ひと部屋ぜんぶOccupy - も「あなたの肖像」シリーズも鋸山の脱皮も「イヨネスコの肖像」も、どれもこれも腐れて腐臭ぷんぷんで、触っただけでなんか感染しそうなかんじ。 ハイレッド・センターの怪しさはソーシャルな規範とか群衆のあいだの視線経由で機能するのに対し、工藤のはそこに転がっているだけで臭くて危険で、犬でも砂をかけて逃げるような、目をそむけたくなるやばさがひたひた。

しかも、これらのごろごろしたやつらは「あなたの肖像」で50年前から放射能でぬくぬく養殖されてきた繭なんだと。なんてすばらしいエコ。なんてかっこいい先取り。 これと比べたらYBAsの連中なんか金にまみれたクズだわ。

という具合になんだか妙に元気になってしまうのが不思議だった。
なんで子宮ではなく男根なのか、うんこではなくスパームなのか、とかいう根源的なもんだいはあるにせよ。


あと、常設コーナーにあった菊池芳文の「小雨ふる吉野」(1914) がすばらしく、今年の桜はこれでいいや、になった(結果的にそうなっちゃった)。
低気圧がひどく、頭のなかの幼虫が暴れだしたので映画は諦めて帰った。

4.06.2014

[music] Roseland Ballroom - RIP

マンハッタンのライブヴェニュー、Roseland Ballroomが4/7のLady Gagaのライブ(曰く「10日間のお葬式」)をもってクローズするという。ダンスホールとして建てられたのは1922年だそうなので、約90年の歴史に幕を閉じることになる。

こないだ出たNew York Magazineの"100 Years, 100 Songs, 100 Nights" - NYの音楽100年特集(6種類の表紙のうち、3つおさえた)に、NYのライブヴェニューの歴史マップが出ていて、それみてああ懐かしー(これだけじゃないけどね)、とか思っていたところなので余計しんみりする。

この小屋は、90年代中頃 - ちょうど20年前(うぅ…)くらいのAlternativeがあがっていった時代、ここよかちいさめのIrving Plazaと並んで大きめ(キャパは約3000)のライブヴェニューとして欠かせない存在だったの。 00年代に入ると、そういうライブは34thのHammerstein Ballroomで行われるようになり、今だと、Webster Hallあたり、と少し大きめのだと野外フェスとかでまかなうようになっているかんじが。

90年代はほんとにいっぱい通った。
地下ががらんとでっかくてクロークがあって、同じようにがらんとしたトイレではドラッグだかアルコールだかにやられたガキがよくげろげろになってしんでた。まだがらがらの前座の時間帯に入ると古い倉庫の中のような、ちょっと甘い独特の臭いがあった。

行ったライブで今もよく憶えているのは、HelmetとSick of It AllとかLiving ColourとBad Brainsとか、Radioheadの"The Bends"のもここだし、Pavementの"Crooked Rain, Crooked Rain"のも、NINの"The Downward Spiral"の最初もここで(チケットはあっというまで取れなかったの)、Jeff Buckleyの"Grace"バンドのラストもここだったし、Sex Pistolsの96年の再結成もときもここ(ステージ脇にDennis Hopperが立って腕組みしてて、ぜんぜん集中できなかった)、でもいちばんぱんぱんでやかましく大騒ぎになったのは95年のBob Dylanだったかも。 アンコールでステージ両脇からNeil YoungとBruce Springsteenがギターをがしゃがしゃしながら出てきたときのどよめきときたら、最初なにが起こったんだかわからなかった。 00年代になるとBowery Ballroomに通うのがほとんどになって、憶えているのはCD2枚買ったらタダで行けたAC/DCくらい。

ここのひとつ上のブロックには誰でも知っているEd Sullivan Theaterがあって、先週、ここを拠点にしていたLate Show with David Lettermanのクローズ(ていうかDavid Lettermanの引退)が発表された。 SNLやこの深夜のトークショー(最近だとJimmy Fallonもそう)が音楽シーンに与えた影響もまたはかりしれないものがあって、溜息もういっこ、だったの。

建物や場所がなくなっても音の記憶は失われない、てよく言われて、昔はそんなこと言われてもよくわかんなかったのだが、最近ほんのすこしだけ。 Roselandで鳴っていた音はBoweryのともHammersteinのともMSGのとも違う、別の種類ので、そこの幽霊が鳴らすのは例えばJeff Buckleyのバンドが最後の最後に演奏した"Hallelujah"だったりする。


もういっこ、ここから更に北東に歩いていったとこにあるRizzoli Bookstoreも建物の取り壊しでなくなってしまう、って。 NYで一番美しい本屋さん、あそこの2階から眺める57th st がほんとうに好きだったのになあ …

4.05.2014

[film] Ain't Them Bodies Saints (2013)

29日、"The Broken Circle Breakdown"のあと、新宿に移動して見ました。
これもBroken Circleのおはなしだったかも。

まえNYに出張で滞在していたとき、IFCに見にいったら時間割間違ってしかも満員で入れなかったやつだったので、たいへんうれしい。

この日が初日だったらしく、地底5000里まで掘ってもなにもでてこないどーでもいいトークを聞かされてしんだ。 日本の映画宣伝て、いつまでもどこまでもこんなことやっていかないとだめなの?

70年代のテキサス、Ruth (Rooney Mara)とBob (Casey Affleck)が喧嘩しながらくっついたり離れたりしてて、Ruthはご懐妊で、でもBobの弟をいれた3人で強盗をしたあと逃げこんだ小屋で警察と銃撃戦になり、弟はやられて、Ruthの撃った弾が警察のひとりに当たって、結局ふたりは捕まって、Bobは監獄行き、Ruthは従っただけ、ということで釈放されてやがて娘が生まれる。

Bobは獄中からRuthと娘に愛の手紙を書き続けて、娘が4歳になったころ、Bobが脱獄して行方不明になった、という知らせを受ける。 RuthはBobが会いに戻ってくる、と直感するのだが、子供のことを考えると(騒動になるに決まっているから)心配で、傍で彼女の面倒を見てきた警察のPatrick (Ben Foster) - Ruthの銃弾を受けたのは彼 - も同様で、でもやっぱりBobはあらゆる苦難を乗り越えて会いに戻ってくる。

犯罪のあとで引き離され、やがて逃亡者となった男と待ち人となりながら子供と一緒に生きていこうとする女、そのまわりで、ふたりをずっと見守ってきて、守ってあげようとする人々、そこに過去や時間の経過が加わって、それぞれの思いは揺れて流れて収束点がぜんぜん見えない。 そんな状態で愛はどんなふうにありえるのかありえないのか。でも彼らを繋ぎ留めているのは愛としか言いようがないやつだから厄介で。

映像も音もどこまでも静かで控えめで地を這うようで、でも美しく強烈に残って、2013年に見ていたらぜったいベストに入れていたとおもう。

ラストの再会のシーンで交錯する視線、そこに重ねられる記憶がとんでもなくて震えが走る。「夜の人々」のラストを思い起こさないわけにはいかない、溢れかえるエモと天から降りてくる聖なるなにかが横たわる絶望を照らしだす。

Rooney Maraの擦り切れて、でも絶対に手放さない覚悟を決めた佇まいもまたすばらしく、そこには確かに"Thieves Like Us" (1974)でKeechie を演じたShelley Duvallの毅然とした目があって、そういえばこの映画でBowieを演じたKeith Carradineが、RuthとBobを見守ってきた大親分の役で出ていてすごくよいの。

"3 Women" (1977)を、Rooney Mara - Mia Wasikowska - Carey Mulliganでリメイクしないかなあ。監督はこの作品のDavid Loweryさんで。

4.04.2014

[film] The Broken Circle Breakdown (2012)

29日の土曜日の昼間、渋谷で見ました。
オリジナルのタイトルで十分かっこいいのに。  「ブルースカイ」なんて殆ど出てこないのに。

くすんだベルギーの郊外(たぶん)のおはなし。
ブルーグラスのバンドでバンジョーを弾いて歌っているデディエ(Johan Heldenbergh)がタトゥー屋のエリーゼ(Veerle Baetens)と恋におちて、やがてメイベルていう女の子が生まれて、メイベルは難病であることがわかって、その闘病の経過とふたりの出会いとか結婚とかバンドとか、がじぐざぐの時間軸のなかで描かれる。

ふたりは愛しあってて、アメリカ音楽への愛を語って、おなじようにメイベルへの愛も語って、でも病には勝てなくてかわいいメイベルは亡くなってしまい、ふたりは嘆き悲しんで、それでも愛は踏みとどまることができるのかどうか、とか。 子供の難病もの(苦手)とは思っていなかったので、ううう、だったのだが、メイベルがいなくなって二人の間がだんだん擦り切れて壊れていくかんじはわるくない。

ガラスにぶつかって死んでしまう鳥とか、エリーゼのタトゥー - つきあうと名前を彫って、別れるとその男の名前を塗りつぶすとか、端々のところが妙にリアルでせつないの。

都度バンドで演奏されるブルーグラスもすてきなのだが、決して高揚させるような傷を癒すような形では鳴らず、でもエリーゼのタトゥーと同じ陰影、同じ肌理でデディエの肌に彫られて貼りついているようなかんじ。 音楽は何も救わないし、むしろアメリカはG.W.ブッシュ(当時)へのあからさまな敵意と共に、彼方の異郷にある。 異郷の音楽がいくら神よ~♪ とか歌ってもしらじらしいだけなのだが、であればあるほどバンジョーをつま弾く音、弦をひっかく音が止むことはなく、次の音を、次の曲を求めてやまない。

ラスト、エリーゼの肌に浮かびあがった新しい名前が、それが並んでいることにああー、てなるの。

男のほうは例によってバカで救われなくて、女のほう(Veerle Baetens)はかっこいいねえ。

バンドが演奏する音楽はどこのなにを聴いてもよくて、めろめろになるのだがTownes Van Zandtの"If I Needed You"あたりがすばらし。

4.01.2014

[film] Don Jon (2013)

23日の午後、「お国と五平」のあと、シネマライズで見ました。 江戸時代から現代のNJへ。 
男女のあれこれ、むずかしい。

Joseph Gordon-Levittが監督/主演して、彼の主宰するhitRECordの製作。

Don Jonはごくごくふつーの若者で、PCでポルノを見てオナニーしてそういうのを教会で懺悔してジムに通って夜学に通って、バーで友達と飲んだくれてナンパしながら運命の女との出会いを待ち続ける、そういう日々を過ごしていて、ある日 Scarlett Johanssonと出会ってケツと唇にやられてこいつだ、とアプローチしてつきあい始めるのだが、彼女はとってもスイートだけどいろいろ縛りがきつくて性格もきつくて、隠れてポルノを見ていることをつきとめられて許せん、て振られちゃうの。 そのあとで、わけありっぽいおばさん Julianne Mooreと知りあって。

教会への週次懺悔報告は、婚前性交渉をxx回、ポルノを見ながらオナニーxx回やってしまいましたお許しを、ていうのだが、ポルノを見ながら、のほうの数値をゼロにできるのか、がひとつの指標みたいになっていておかしい。 教会側もいちいちどうしろと。 やめろっていったらやめるのかおまえ、とか。

セックスしかアタマにないようでいて実は真実の愛を探し求める、という点でNJ男子版SATCと言うこともできるかもしれないが、あそこまで真面目に着地点を追い求めているわけではなく、ジムに通って身体を鍛えるのとおなじように彼女ができてセックスをして、が健全なかたちでルーチン化できればすてき、程度の。 でもポルノだってやめられない。PCの起動音が嵐を呼んでくる。
こんなふうに、どこにでも、だれにでもありそうな魂のふらふらとか体の乾きとかを、ぺらぺらの書割のなかに置いてみると。

オトコのサガとしてセックスとオナニーは別モノかどうか、みたいなありがちの議論はないし、"Shame"のようなセックスアディクトのケースでもない。健全な男子が女子とつきあうていうのはどういうことなのか、どうなったらつきあっていると言えるのか、みたいなことを考える材料としてはよいかも、けどそんなの人それぞれだし考えてどうなるもんでもないし。
Don Jonは一応よいこで正直で、嘘ついていないし悪いこともしていない家族ともちゃんとつきあっている、なにがいけないんだろう、タイミングとか場所がよくないのか? でもScarlett JohanssonとかJulianne Mooreみたいな女子と次々にぶつかるんだったら、相当運はよいに決まっているし、いったいなにが問題なの、どうしたいのどこに行きたいのあなた?

のような問いを通して透けてくる、いっぱん男子にとってセックスとはいったいなんなのか、あるいは危機とは?成長とは? みたいなのを描きたかったのかもしれない。

米国での公開時、TwitterでDon Jonが(主に、たぶん)女の子からの質問に律儀に応えていておもしろかった。「ねえねえDon Jon、こんな女の子はすき?」とか。 一見変なように見えるけど、実はとってもピュアな青年像、というと"Magic Mike"を思い起こさせもして、だから"Don Jon"も"Magic Mike"と同じくシリーズ化すればよいのに、とおもった。 第4作目くらいでふたりが激突するの。 女性陣は、Anne HathawayにZooey DeschanelにAnna KendrickにAmy Adamsに… いくらでも。

Julianne Moore、"Boogie Nights"でMark Wahlbergを導いたのとおなじようにうぶな若者を。 これがMeryl Streepだとだめなかんじがするのはなんでか。

[film] お国と五平 (1952)

23日の昼間、シネマヴェーラの山村聡特集で見ました。この映画ではオジサマではないのだが。
原作は谷崎潤一郎の同名小説(読んでいない)。

お国(木暮実千代)と従者の五平(大谷友右衛門)が旅をしていて、なぜかというと許嫁だった友之丞(山村聡)をあんな文系のなよなよしたやつはだめじゃ、と父の言いつけに従って振って伊織(田崎潤)と一緒になったら友之丞が伊織を夜討ちで殺しちゃってその敵討ちのためなの。 見つけたらぶっ殺していいから、ていう許可証もって、一族からの期待を一身に背負って、だから手ぶらで帰れない。

友之丞がいそうなところをあたっても見つからなくて、疲れたお国は体壊してばかり、五平がかいがいしく介抱してばかり、やがてふたりは主人と召使いの一線を超えて、敵討ちなんてもうどうでもよくなってきたどうしようか、のあたりで突然友之丞が現れて、自分の命乞いして、もうこんなことはやめよう、ていうの。 君たちの視界から消えるから無駄な殺生はやめてお互い平和に暮らそうではないか、という友之丞の言い分は100%正しいと思うのだが、お家を背負った彼らにそのオプションはありえなくて、忠犬五平は友之丞を斬ってしまって、そのあとで友之丞の尺八の音色がどこまでも追いかけてくるのでひええ、て怯える。

相手が自分にとってふさわしいと言えるのは、それを決めるのは誰なのか、ていうのと、人ってふさわしいと思うから相手を好きになるわけではないよね、というのと、いろいろあって、かわいそうなみんな... なのだった。  親が決めた伊織との結婚もうまくいっていないようだったし、でもこのあとでお国と五平が一緒になったところで苦しみの総量は変わらないように見えるし。

木暮実千代って、こういうがんじがらめのなかで「はぁはぁ...」て悩み苦しむ姿が本当に絵になるのね。