3.22.2014

[film] Paradies: Liebe (2012)

15日の土曜日渋谷、昼間から2本続けてみました。
受付で、「パラダイスの「愛」と「神」をください」ていう。

ウルリヒ・ザイドルの作品は見たことがなかったがヘルツォークやジョン・ウォーターズ先生が絶賛し、ファスビンダーぽいとか言われているのであれば見ないわけにはいかないの。

50過ぎのテレサはでっぷり体型で障害者施設で働きながら思春期の娘(やはりでぶ)を育ててきて、娘と猫を姉の家に預けてひとりケニアにバカンスに向かう。そこは裕福な白人のための典型的な滞在型リゾート施設で、そこで現地の若者に貢いで(彼の体を買って)楽しんでいる親友の話を聞いて自分もやってみることにする。最初は嫌嫌であたしが求めているのは体じゃなくて愛なんだからみたいなことを言ってみるものの、何人かの若者と出会ってデートしたり夜を過ごしたりした後、あいつらの目当ては結局お金なんだわ(そりゃそうだ)てわかるとなんでもいいからやらせろみたいになってきて、でもそんなのだめだし、でもさみしいしバケーションなんだし、とか自己嫌悪に陥りつつ前屈みになって浜辺をすたすた歩いていくの。

かわいそうなテレサ、なかんじも、へんてこグロテスクな西欧人、なかんじもあまりない。
こんなの腐ったニッポンのすけべおやじ達が何十年も昔からアジアでやっているようなことでもある。 テレサが自己の内面を吐きだすようなシーンはなくて、カメラは彼女の背中を少し離れたところから追い続けるだけ。 その黙って歩いていく背中に「パラダイス:愛」というタイトルを被せたときに見えてくるなにかが。

社会の隅っこにいる若くない女と外国人(この場合だと外国人はテレサの方だが)の男の恋というとファスビンダーの「不安と魂」 - "Angst essen Seele auf" あたりを思い起こしたりもするのだが、このドラマには社会的偏見もなければそれを乗り越える意志のようなものも、そもそものベースとしてない/そんなのいらない。 それでも、観光客と現地人という決定的な溝を乗り越えたところに果たして愛は現れるのか、現れてくれるのか、とか。

なにがなんでも、なにかと誰かと関係とか絆とかつながりとかを持たないとやっていられない、やばいとおもう、のってここ20〜30年の症例(ファスビンダーの時代にはそんなのなかった)だとおもうのだが、そのびょうき(達)の向かおうとするところを「パラダイス」と呼んでみたのかしら、とか。

音楽はホテルのバーで5人組によって演奏される軽快愉快なアコースティック・アフリカンで、妙にすっとぼけたかんじが、テレサの空回りを続ける愛の行方と合ってて素敵だったの。

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