3.30.2014

[art] ハイレッド・センター:『直接行動』の軌跡

22日、パラダイスの希望を見たあと、松濤美術館まで歩いていって、見ました。 よい天気だった。

わたしの美術史観の主要成分は、ジョゼフ・ラブ師の西洋美術史講義と、83年のアールヴィヴァン誌のフルクサス特集、84年のPARCO出版局の「東京ミキサー計画」とStudio200での荒川修作の講演と、60年代の美術手帖と、こんなもんなので、だから最近のアートなんてどこがおもしろいんだかちっともわからない。 というくらい「東京ミキサー計画」はおもしろい本だったの。

だから展示されていた「作品」のほとんどは懐かしいやつらばっかしだし、これらのことを書いたって赤瀬川原平の文章以上に核心もおもしろさも伝わるとも思えないし、であんま書くことない。
ハイレッドセンターはハイレッドセンターで、ミキサー計画を扇動した怪しく不遜な人たちで「作品」ときたら紐とかクリップとかレントゲンとかお掃除とか梱包とかお札とかよくわかんないビラとか、ほれ、なにしろ「直接行動」だから。 作品(メディウム)を介した間接じゃないから。パンクだから。すごいんだから。

いろんな数値化とか可視化とかカプセル化されたオブジェとかリンク(紐)とかパッケージング(梱包)とかいろんなコピーとか贋とか増殖とかテロとかハッキングとか、当時から50年後のネットとクラウドとビッグデータの時代を、ITが生活をとっても便利に豊かに繋いでくれる腐れた世界を予見していた、というか東京ミキサー計画は達成されたのだとしか言いようがない。 いまや世界ミキサー計画の時代なのだと。 そしてそいつは誰が?

フルクサスもそうだが、当時のパフォーマンスを記録したモノクロの写真とかグラフィックスのありえない面白さときたら。 してはいけないことあってはならないことを大真面目に実行するその姿、その瞬間が刻まれる、世界が歪んだり撓んだりするその瞬間、その軌跡の生々しさ。
これって日々刻々デジタルの「コンテンツ」で溢れかえる今の時代にはありえるのかどうか、とか。

あと、なんといっても、壊れたAIのようにぼけとつっこみを繰り返す赤瀬川原平のテキストが進行中のドキュメントとして内部から発信されていたことも大きかったんだねえ。

で、今日見てきた工藤哲巳回顧展と併せて60年代初てすごかったのね、と今更ながら。

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