3.17.2014

[film] 不気味なものの肌に触れる (2013)

8日の土曜日の昼間、渋谷で見ました。
「不気味なものの肌に触れる」に行ったら二本立てだったの。

5windows (2012)

瀬田なつきの新作は(井口奈己のとおなじく)ぜったいに見る、と決めているのだが、この作品は上映形態とかバージョンとかいろいろあるようで、途中からついていけなくなったのでなんとなく見ないままになっていたのだった。 やっぱし当初の上映形態にしがみついてもよかったかも。
これなら。

横浜の、緑に濁った川と橋、その上でサンダル履きでゆらゆらしている少女(中村ゆりか)、カメラを持った別の少女(長尾寧音)、自転車に乗った染谷奨太、ビルの屋上で下を見下ろしたりふらふらしている斉藤陽一郎、この4人の、周辺200mくらい、2011年8月27日(土)14時50分の前後30分くらい。

14時50分前後の時空をカメラは行ったり来たり返したりしつつ、それが誰の、誰に向けられた14時50分なのか、それが記憶なのか「いまここ」なのかわからないまま、でも間違いなくそこにあった8月27日14時50分の目線や想いの交錯を、スライスを、windowを、こちらに提示してみせる。
それだけで、少年は少女に出会うわけでもないし、恋が巻きおこるわけでもないし、せいぜい屋上から水しぶきが飛んでいったりする程度、真夏の暑さのなか、夏休みの最後のほうで、ひょっとしたら... とか、たしかこのへん...  とか、前もどこかで... 程度の半端でぼうっとした思い(とか期待とか)が自転車を走らせたり、橋の上に立ち止まらせたり、シャッターを切らせたり、花火に火をつけさせたり、そういうことをさせる。

それぞれの挙動にほとんど意味はないのだし、サンダルを履いた少女は幽霊なのかもしれないし、電車のなかにいるのはドッペルゲンガーなのかもしれない、そうであったとしても、14時50分の世界は揺るがない。 少なくとも彼らひとりひとりの頭のなかにある14時50分は永遠の14時50分なのだと。
そこに川と橋を置いて、自転車とカメラと花火と紙飛行機と。

その手口がほんとうに素敵で鮮やかで爽やかで、青春映画なのだとしか言いようがない。
こないだついに公開された"The Myth of the American Sleepover"とおなじくらいの --


不気味なものの肌に触れる (2013)

これも川のある町のおはなし。

河川の清掃をやっている兄夫婦のところのに同居している染谷奨太とデュオでモダンダンスのレッスンをしている彼の友人(石田法嗣)と、その彼女がいる。 兄の同僚が川でポリプテルスていう古代魚を引っかけたのでそれを飼っている。 モダンダンスは上半身裸で互いの肌が触れるか触れないかくらいのところを探る/そういうふうに互いの身体を誘導する、そんなダンスに熱中しているふたりの空気が不気味に曇っていって(ダンスは研ぎ澄まされていって)、やがて事件がおこる。

なんで肌に触れないのか、不気味だから、なんで不気味なのか、肌に触れないから、というループを抜けて「肌に触れる」ということをやってしまったときに事態はどこに向かうのか。 そこに突然あらわれた古代魚の「肌」はどう絡んでくるのか。 そこに順番は、物語はあるのか。

などなどの謎謎が水面まで満ち満ちて水の肌が決壊したところで、続編というか本編 - "FLOODS"はやってくるのだ、と。

黒沢清の"Cure"にあった、気体として漂う災禍を可視化する、ような怖さ、とは別の、濁った液体のなかでうごめく恐怖、肌の向こう側にあるなまぬるい液体の恐怖、みたいのがあるの。
"Friend of the Night" (2005) にもあった、よくわからない暗く禍々しいやつが充満しているかんじ。
登場人物の誰がとつぜん人殺しをはじめてもぜんぜんおどろかないような。

こわいこわいー

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