21日の昼間、シネマヴェーラの特集 - 「日本のオジサマ 山村聰の世界」で2本見ました。
日本のオジサマなんてそもそもだいっきらいだが、山村聰の顔かたちを取って現れた昭和のあれこれは、なんかおもしろいなあと思って。
最近の日本のおじさん役者達は、みんな三谷幸喜的な馴れ合いじゃれあいのなか、ぬくぬくそこにいるだけで、これはこれで気持ちわるいし。
闇を横切れ (1959)
九州のどこか、漁師とやくざの町で市長選挙の候補者(革新側)が連れ込み宿でストリッパーの絞殺死体の横に倒れているのが見つかり、選挙直前だったので大騒ぎ、当然市長候補は逮捕されるのだが、西部新聞の熱血若手記者(川口浩)だけはなんか怪しいと思って、編集局長(山村聰)の支持も取りつけて調査を始めたら、証人は次々と消されていくし、いろんな嫌がらせを受けるし、掘れば掘るほど怪しいところがいっぱい出てくるの。 警察、メディア、現職市長をはじめ町の有力者ぜんぶを巻き込んだでっかい闇が追っかけてくるかっこいいフィルム・ノワールだった。
ホテル、新聞社、警察、バー、飲み屋、温泉宿、病院、遺体安置所、運送屋、ストリップ小屋、ぼろアパート、ゴルフ場、などなど、犯罪が起こりそうな現場、犯罪を起こしそうなひと、犯罪でやられそうなひと、などが一覧でぜーんぶ出てくる。 音楽は一切なくて、口笛の「ラ・マルセイエーズ」が聞こえてくるだけ。
熱血若手と叩きあげ敏腕編集局長のやりとりは「おまえはおれの若いころそっくりだ」をはじめ臭いとこだらけで鼻つまみなのだが、それらを表に出してもおつりがくるくらいに展開が力強くて、悪いやつらはどす黒くて、ラストのああやっぱり、な余韻もしびれるの。 もうちょっと救いがなくてもよかったかも、だけど。
河口 (1961)
財界人のお金持ちの妾が李枝(岡田茉莉子)で、お前はもう俺に魅力を感じていないだろう、て冒頭で別れを言い渡されて、そのすぐ後でそのじじいは死んじゃって、彼の美術顧問をやっていた館林(山村聰)の勧めで銀座に画廊を持つことにする。 美術もビジネスも素人だし、資金調達のために関西の会社社長(東野英治郎、さいこう)と寝たり、貿易商の杉浦直樹と恋をしたりいろいろあって大変なのだが、それを横で眺めつつ小姑のように口だししてくる山村聰とのやりとりがめちゃくちゃおかしい。 ふつうこういう依存関係て気づいてみたら恋、みたいになるパターンが多いと思うのだが、このふたりはぜんぜんそうなる気配がなくて、妙にすがすがしい。 そんな美術界ロマコメ、なの。
どちらかというと、山村聰がパトロンのお金持ち役だと思うのだが、そうではなくて、フェロモンゼロの冴えない中年男で、しかも中味はおばさんで、基本は美術のことしかあたまにない。
館林の紹介で知り合った建築家(田村高廣)との恋が最後の切り札になるか、だったのだがそれも叶わず、電話口でぴーぴー泣き崩れる李枝に対し、美術品のセリ落としでいまそれどころじゃない - 「佐伯があとちょっとで落ちる!」とか - 館林との間に横たわる河口のようにでっかい溝がやたらおかしい。
館林は外見構わず口わるいしただ美術を見る眼だけはあるオタクで、李枝は苦労してきた分、世渡りとかはうまくてちゃんとしてて、ロマコメの定式だとそういうふたりはくっついたっておかしくないのにそうならないのは、ほんとの現実はそんなうまくいくもんか、ていうのとか、岡田茉莉子は幸せでうっとりしているよりも、困惑しつつきーきーぴーぴー騒ぐ姿のほうがだんぜんチャーミングだから、とか、いろいろあるのだろうが、なにを言われてもあの終り方は不思議と忘れ難い情感を残すのだった。 決して交わることのない流れがそれぞれに海に流れこんでいって、それでいいじゃろ、なにがわるい? みたいな。
3.25.2014
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