1.03.2014

[film] Film Socialisme (2010)

2日のごご、渋谷で見ました。 今年のお片づけ作戦は、あきらめる…(はやい)

毎年、映画はじめは洋画のクラシックと決めていて、これは微妙なかんじもしたけど公開時にも見ているし、クラシックにしていけない理由があろうか、とか適当にこじつけて。

場内が暗くなって最初に画面に現れたのが Gena Rowlandsさんで、こっちをじっと見据えてあの有名な台詞 - "Love is a stream, it's continuous, it doesn't stop."を言ってくれる。思わず両手を合わせてしまった。年の最初からなんてありがたや。 これが「テレクラキャノンボール」の予告だったらどうしよう、だったわ。

ゴダールの今のところの最新作、これが公開された2010年は"The Social Network"も公開された年でもあって、所謂ソーシャル・メディアだのSNSだのがパブリックにも大きく認知された一年、だった気がして、当時の受けとめられ方は、ゴダールが「大胆にも」そっちのほうにも目配せしているのかいないのか、みたいな調子のものが多かった気がするが、あれから3年以上過ぎて、これらソーシャルうんたらがバカな政治家共とその取り巻きを喜ばせるためのツールだったり、バカの真性度合いを証明するツールだったりでしかないことが明らかになった今となっては、この映画でのゴダールの距離の取り具合いはなんとかっこよく、適正だったことか、と改めて思った。

「こんな事ども」 - "Des choses comme ça"、「どこへ行く?ヨーロッパ?」 - "Quo vadis Europa"、「われら人類」 - "Nos humanités" の3楽章を通して、資本主義船の行方、子供 - 家族とメディアの行方、没落した国家の行方、などを追う。(もちろんそんな単純じゃないのよ)

あらゆるフォーマットの、てんでばらばらの画調に画像、ダイアログ、テキスト、音楽、音響、ノイズを海のように満たし寄せては返ししつつ、決してひとりではない「われわれ」が今いる時間と場所はどこなのか - どのような遍歴や非礼や非応答を重ねてどんなふうにソーシャライズされてきたと言えるのかを問い - それはBe動詞ではなく「歓待」としてあるべきなのだという。

そして最後、FBIの警告メッセージの上に被さる『法が正しくない時、正義が法に勝る』という決め台詞に続けて、"NO COMMENT" - (問答無用)。 かっこいい! 覚えてろよあの悪法。

ていうのもあるし、あのおしゃべり猫とアルパカとロバの映像だけで十分、でもあるの。


続けて『映画史特別編 選ばれた瞬間』(2005)  - "Moments choisis des histoire(s) du cinéma" も見ました。 『映画史』は日本公開時にぜんぶ見たけど後から出来たこいつは見ていなかった。
上映前に、"Film Socialisme"の圧縮早送り版予告が流れて、あーこれかーとおもった。

『映画史』(ぜんぶ)を見てから随分時間が経っていることもあり、これらは確かに「選ばれた瞬間」なのであろうが単なる抜粋・ダイジェストというよか全く別の映画として見ることもできるよね、とおもった。
歴史というのはどういうもので、その中でなんで映画の歴史なのか、それを大文字の歴史と呼びうるのはなんでか、などなど、(必ずしも幸せに満ちたものだったとは誰にも言えない)西欧の歴史・文化史のなかに19世紀に登場した映画を位置づけ、そこにおける映画の(作家観点からの)特性(世界をコントロールする)を明確にし、では、後ろから駆けよってくる歴史(たち)に抗して、映画にはなにができるのか? といったことを80分間でべらべらべら、ものすごい早口でまくしたてて、ぶちりと終わる。

『映画史』(ぜんぶ)のほうは、このベーストラックに大量のサンプルを載っけてつないだもの、と言い切ってよいものかどうか、そこが不明で、あと二往復くらいしたほうがよいのかも。
すばらしいのはこれ(ら)を見たからと言って映画が、映画史がわかったとはこれっぽっちも思えないところ、だけどもぜんぜん損したかんじはしなくて、何回でもこの映像の闇鍋に箸をつっこみたくなるところ、なんだ。

あと、これと"Film Socialisme"は、「映画だけが」という鉤爪を世界の端にひっかけながら密に連携しているように思えて、両方一緒に見るのがぜったいよい、と思いました。

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