6.30.2013

[film] Le Naufragé (2009) / Un monde sans femmes (2011)

21日の金曜日の21時過ぎ、フランス映画祭2013で見ました。

邦題は『遭難者』(仮) - 英語題は"Stranded"、『女っ気なし』(仮) - 英語題は"A world without femmes"。 (仮)が付いているのは秋に改めて公開されるから? でもこれで十分だよね。 バカな邦題つけたらただじゃおかねえからな。
『遭難者』が、27分、『女っ気なし』が56分、あわせて83分。

『遭難者』
フランス北部を走っていたリュックの自転車がパンクして困っていたらシルヴァンが親しげに声を掛けてきてお菓子とかくれて、でもちょっとうざいかんじだったのでその場で追い払って、自力で歩いて町にたどり着いて車で駅まで連れていってくれるひとを探すのだが誰もいなくて、どうしよう、だったときに再びシルヴァンとぶつかって、じゃあ送ってあげるけどバーで飲んでから、てぐだぐだしてたら駅までの車中で酔っ払い運転の取り締りに捕まって終電逃して、陸の孤島のような町で「遭難者」となるの。

リュックは、眠れなくなって町に出たりするのだが田舎なのでバーはどこも閉まっていて、しょうがないのでシルヴァンに夜食作ってもらったりする(男ふたりでぺちゃぺちゃ食べるとこがなんとも)。 リュックが彼女とうまくいっていないことを聞いたシルヴァンは彼の寝ているすきに彼の携帯から勝手にメールを送ったら翌朝彼女が迎えにきちゃってかえって気まずくなって、シルヴァンのことを余計なことするんじゃねえ、ってどつくの。

『女っ気なし』
シルヴァンの町の海辺のアパートにバカンスでパトリシアとジュリエットの母娘がやってきて、シルヴァンは彼女達と海水浴したりエビ採りしたりジェスチャーしたり(なかなかおかしい)よいかんじに仲良くなるのだが、そこに女たらしのジルが絡んできてひと悶着あって、気まずくなって、その気まずさの延長で更にいろいろあって、バカンスは終わるの。

どちらの作品もフランスの北の町にひとりでクマみたいに暮らしているお人好しのシルヴァンの身の回りに起こったちょっとした波風、をほんわか追っていて、それはリュックやパトリシアやジュリエットにとっては数年も経てば忘れてしまうであろう旅先の出来事にちがいないのだが、シルヴァンにとってはたぶんそうではなくて、彼は彼らとの出会いのなかで感じた楽しさや気まずさや悲しさをぜんぶ憶えていてそれらをこれからもずっとそのずんぐりとした体のなかに温めて転がしていくんだろうなー、ていう、そういう映画なの。 がんばれシルヴァン、世界はきみの味方だ! なの。

シルヴァンを演じたVincent Macaigneがたまんなくよい。
恋人、恋愛、おそらくずっとなし、体型はずんぐりのでっぷりで髪も薄くなりかけてて、ほっぺたが薄赤くて、子供の頃はいじめられっこで、服はいつもパジャマみたいの着てて、ゲーム好きで、壁にはPink Floydのポスターがあって、要は、女っ気なし、なの。

バカンスを終えて帰る前の晩、シルヴァンの部屋に来たジュリエットにイチゴを出してあげるシルヴァン - イチゴに大量のホイップクリームをかけて、その上に砂糖をふりかけるもんだから思いっきり退いてしまうジュリエットと、そのあとに続けて起こるがちがちのぎこちないやりとりの果てに勃発するとんでもない事態は、ロメールの映画でたまに起こる魔法 … とおなじものなのかどうか、わからない。 ただ、ここの数分間は瞳孔開きっぱなしになる。 いや、いちばんびっくらしたのはシルヴァンだったんだろうけど。

ロジェだロメールだというよか、一番近いかんじがしたのは"Young Adult" (2011)だった。
あそこでPatton Oswaltが演じた役がシルヴァンで、もやもやと過去へのノスタルジアを抱えて田舎にやってきたCharlize Theronが出会ったのがPatton Oswaltだった、というあたり…

これの男女逆転版(男っ気なし)て、ありそうでないのかしら。

6.29.2013

[film] Oblivion (2013)

16日の日曜日、新宿でみました。

エイリアンがぶっこわして誰もいなくなった地球の上空に浮かんでいるステーション(No.49)で男と女がいろんな観測したり汲みあげ機械とか監視/武器ロボとかのメンテナンスをやって日々を過ごしている。 5年前より以前の彼らの記憶はなんでか消去されている。
この任務をあと少しで終えたら新天地である土星の衛星に移住できるので、がんばって働いているのだが、変な事故とそれに続くロボの変な対応を見て以降、これはなんかおかしいかも、になっていく。

誰もいなくなった地球の上で、男が自分探し、ホーム探しをする、そういう話であればあまり興味はなかったのだが、これはそもそも周りの環境が最初からあまりに荒涼としていて、とりつくしまがなさすぎて、そうなのねー、あるかもねー、がんばってねー、になってしまうのだった。

ステーションの女の子(Andrea Riseborough)となんの不満もなく仲良く暮らしているところに、突然Olga Kurylenkoさんみたいな娘さんが現れて、わたしはあなたの妻だったの、て言われたらそらびっくりして、我を失う。  そんなの失ったところで、どうせ見ているのはAndrea Riseboroughさんと天空にいるMelissa Leo(またしても鬼婆)だけだし、構うもんか。

とか。 そもそも、そんな動きをするつもりも必要もぜんぜんなかった、そのまま仕事をこなしていれば安泰だった、ヒーローみたいなことやろうとしたって周りから感謝されるわけでもなし、Morgan Freemanだってあたまのおかしい法螺吹きかもしれない。 でも彼を踏み切らせたのは、ときどきモノクロの夢に出てくるエンパイアステートの屋上のデートだった、という。 その夢だってどこかでインプリントされたものかもしれないのに、でも彼はその夢にぜんぶ賭けることにする。

地表数千メートルのステーションからのクリーンで壮大な眺めと、汚染された地表に埋もれたエンパイアステート、その屋上にあった展望鏡からの眺めと。

という、今にして思えばなかなかベタベタな設定なのだが、あまりに取り返しようがなくさらっとしてて、悪くないの。
例えば彼の役をデカプがやったらどうなるか想像してみよう。 誰もがうるせえ、勝手にしんでろ、てなるにちがいない。

とにかく要するに、古本とアナログレコード(電気、きてるんだ …)とWyethの絵があって、Olga Kurylenkoさんみたいな娘さんがいれば、世界は世界として揺るぎなくなって、あとはどうとでもなる、と。
男は、Jack ReacherでもJack Harperでも、Tom Cみたいのでよければ、とっかえひっかえ同じようなのが現れるから気にしないでよろしい、と。

でも、No.52だけじゃなくて他にもぜったいいるよね。で、全員が同じひとつの夢を抱えてもんもんしているんだよ。 
あと、No.52にいたAndrea Riseboroughさんはどうするんだ? かわいそうじゃないか。

6.27.2013

[film] The Great Gatsby (2013)

15日の晩、"Spring Breakers"の約30分後に、同じく六本木でみました。まずは3Dのほうを。

いやーあがったあがった。続けてみると不景気感なんてパーフェクトにふっとぶよ。
どっちもやくざが主人公で、女は偉くて男は愚かで、どっちの死にざまも理想的。

原作(文庫の表紙はRobert RedfordとMia Farrowだった、はず)を読み返そうと思って本棚の奥まで掘っていったが出てこなかった。まあいいや。
Baz Luhrmannがこの原作を映画化することについて懸念もあった/あるみたいだが、本件に関してはまったく問題なかったのではないか。 あれだけのごちゃごちゃとやかましさをぶち抜いて原作のエッセンス(金とか地位とかあってもだめなもんはだめ)をしゃあしゃあ堂々と提示することができるのはLuhrmann/DiCaprioのほかにどこの誰がいるだろう。

原作、F. Scott Fitzgeraldにしては、ねちっこくてぎんぎらであんま好きにはなれないのだが、このたびのBuz Luhrmanには嵌っていたような。
恋はひとを狂わせてひとを破滅させる、でも止められない、このおそろしさと、ずるずる感と。 
でも恋をしろ!どうせ死ぬなら恋で死ね!と。 (うるさいの)

或いはむしろ、比較対照すべきなのは原作とのそれではなく、"Moulin Rouge!" (2001)のほうかもしれない。
どちらも喧噪と狂騒のなかで光輝く唯一無二のダイヤモンドを描き、その光が脆く崩れて堕ちていくさまを愛と慈しみを込めて綴っている。そしてそのタイプのキーを打つのは、最期までその傍にいた愛人であり隣人である、という構図がある。

ただどんちゃん騒ぎの描写の狂いっぷりに関していうと、"Moulin Rouge!"よかこっちのほうが遥かに上な気がした。"Moulin Rouge!"の狂騒はアブサンの酩酊が手伝っていたのにこっちはどこまでも素面で、しかも無償のくそくらえの大盤振る舞いなの。 このどんちゃかがやかましければやかましい程、後半の虚しさと崩落の落差が際立って、結局あれはぜんぶ夢だったのか... ていう砂を噛む苦味がじゃらじゃらと拡がる。 (Baz Luhrmannの基調) 

オープニングもおもちゃみたいな指揮者(かわいい)がぶんぶんしてた"Moulin Rouge!"のそれに対して、アールデコの枠取りが3Dでずーんと奥に延びて行く今回のほうがかっこよくておおーってなるし。
あとは、"神"の高みから地表をざーっと俯瞰で流していく"目"の存在とか。

"Moulin Rouge!"は公開直後にわーわー言って3回くらい続けて見てやっと落ち着いたものだったが、今度のもあと2回(2Dでみて3Dふたたび)は見ないとたぶん掴めないかも。 このごちゃごちゃした詰めこみ具合、ノイズの多さって、明らかに映画というよりTVのものだと思うのだが、それでもいいや、っておもうの。こいつのは。
それと、ぺちゃくちゃいくら書いても書いても語りつくせた気がしないしょうもない過剰さと。

最近のLeonardo DiCaprioをぶーぶーいうひとは多いけど、こいつのGatsbyはよいとおもった。
パーティで思わせぶりぶりで登場するシーン、Daisyとぴりぴり再会するシーン、そしてPlazaのスイートでふぅーふぅー言いながらぶち切れるシーン、どれもこれも待ってました!ておひねり投げたくような異様なテンション(よくもわるくも)に溢れている。 ここまでやれば偉いし、近代のとち狂った尊大さを画面に展げるためだけに、このひとの最近の数作はあるような。

そんな奴の胆汁をひっかぶるNick (Tobey Maguire) の平熱度合もすばらしくて、彼が彼でなかったら、あのプレーンな声と醒めた目がなかったらいくつかの場面は台無しになっていたと思う。

Carey Mulliganも、みんなに愛されて、でもそれはあたしのせいじゃないもん、オトコの勝手だもん、ていう憎めない砂糖菓子の役を見事に。

音楽はメインがJay-Z、と聞いてええー(↓)だったのだが、前半のお祭りのとこだけで、後半にはLana Del ReyとBryan Ferryがきた。
このふたりの曲を選んだ、というだけでBuz Luhrmanえらい、と思った。 "Can't Let Go"でも流してくれたらぜったい大泣きしたのにー。

6.24.2013

[film] Spring Breakers (2012)

15日の夕方、六本木でみました。 Antonio Lópezと同じ地球上のなにかを描いたもの、とはとても思えなかった。

すばらしいー。 問答無用てのはこのこと。

田舎でくすぶっている女の子4人が、お金ないけどお金(強盗して)つくって、Spring Breakのお祭りに出かけて、どんちゃん騒いでいたらガサ入れにあって捕まって、保釈金払ってくれた男(James Franco)の世話になるのだが、ひとりはこんなとこにいたくない、てべそかいて帰っちゃって(ほんとにやりそう、Selena Gomez)、もうひとりは男の敵対するやくざの流れ弾にあたって怪我して帰っちゃって、残ったふたり(と男一匹)で殴りこみをかける。 お話しとしてはそれだけなの。 これで94分もある、てのは驚異的。

作家性もくそもない(そんなもんいらねえ)、女の子さいこうー! ビキニさいこうー! て叫びながら写真をとりまくるカメラマンみたいなかんじでらりらりやっているだけで、それ以上でもそれ以下でもなくて、でもそれゆえに、の力強さったらないの。
ガレージでの一発撮り、延々続くやめられないとまらないシンセのリフ、あえてエロもドラッグも排して、これらが見事にいちいちはまってくるので、惚れ惚れするしかない。

前半の喧騒、いけいけから逮捕後の、パーティの後のちょっとひんやり後ろめたいかんじを経由して、3人は敵方に殴り込みをかける。 ちょうど朝昼 ~ 夕方 ~ 夜、の流れになっている。 夕暮れ ~ 夜への流れが特によくて画面も美しくて、ちっくしょううーこんのやろーぶっころしたる!のような野郎の歯ぎしりはぜんぜんなくて、どうせ明日は来ない、みたいな絶望も諦念もなくて、ラス・メイヤー的なぶりぶりと居直る体脂肪もなくて、冒頭のファミレスへの強盗みたいにちゃきちゃきと片付けてしまう。 クールだよねえ。

90年代のMTVで、"MTV Spring Break"ていう番組があって(まだあるのか …)、ただただSpring Breakのパーティだのライブだのをだらだら垂れ流しているだけだったのだが、それを思いだした。 あのバカらしくも幸福な騒ぎを蹴散らしたのが、映画だと例えば『ピラニア 3D』だったりしたわけだが、こんどのかっこよさときたら決定版。

でもこれはやくざ映画でも犯罪映画でもなくて、びっくりするくらい爽快で気持ちよく軽やかな女の子映画であって、気にくわないやつはぜんぶぶっころせ、とは言わないが、浮き輪のかわりに銃を抱えてプールサイドすたすた小走りしていくあのかっこよさを女の子みんなに見てほしい。

James Francoはああいう結末になって幸せだったのだろうか、と少しだけおもう。 のら猫を飼いならそうと思ったら思わぬ方向に転がっていって、まさか。
でもあれはみんなが思うことだろうが、Harmony Korine自身のなりたい姿、でもあるのだろうな。
そうだよねえ。いいよねえ ...(遠い目)

[art] Antonio López

15日、土曜日のお昼くらいに、渋谷でみました。 終わっちゃいそうだったので少し慌てて。

つねに正面からまっすぐに見つめること、長い時間見続けること、長い時間描きつづけること、その親密さ、その低温調理の熱で画布を覆いつくすこと。 或いはすべてを見渡す/見渡せる、というのはどういう状態になることをいうのか、などについて考えてみること。
60-70年代の抽象画やコンセプチュアルアートの領域で、ものすごく難解になるかヒトをポップに小馬鹿にするか、のようなかたちで錯誤したり表象されたりしてきたこれらの問いを、具象画として、ものすごくきちんと誠実に出そうとしたひとつの例が、これ。 なのかもしれない。

結果、画面の上部と下部のパースペクティブがへんに撚れていたり、基準線が水平どまんなかを横切っていたりする。  それにあんな「食器棚」あったら怖いよう。
そこだけじーっと見ると確かに変なふうなのだが、でもトイレとその上の窓とかって、時間によってこういう風に見えることあるよね、とか見えてもおかしくないよね、とか。
(でもあのトイレ、水洗のレバーがなかった...)

だまし絵、とかマジックリアリズム、なんて言うほど大上段な仕掛けではない、木々の向こうから散らばりながら射してくる光、お天気雨、のようなかんじで横からすっと入ってくる爽やかさがあるの。 或いは、それを爽やかな光として感じさせるまでに膨大な時間を費やして対象と対話している、というか。

例えばこないだのベーコンは、それを欲望とか行使される力(の大きさ)との関係において画面に擦りつけようとして、ロペスは対象が目の前に曝される時間の長さでそれを現わそうとする。 
「それ」とは、もちろん、愛のことなの。

まちがいなく、このひとはものすごく大量のDrawingや下絵を残したり放置したままにしているはずで、そちらのほうが見たいなあ。見せてくれないだろうけど。

みんながエリセの『マルメロの陽光』のはなしを引き合いに出すのは言うまでもない。 
けど、今回の展示を見て一番近いと思ったのは、ホセ・ルイス・ゲリンの『影の列車』(1997)だった。 ものすごく真面目に周到に緻密に捏造された過去 - そこが照らしだす現在 - 遡ってふたたび過去、のような入れ子のなかにある我々の知覚。

[film] いのちぼうにふろう (1971)

帰国した翌日の14日金曜日の晩、シネマヴェーラの勝新特集で2本見ました。
すんごくだるがったのだがどっちも見たかったし、この日で終わっちゃうし、しょうがねえよなまったく、と勝新ならいう。

『いのちぼうにふろう』(1971)

タイトルの字幕では「いのち・ぼうにふろう」だった。
深川の外れの中州に安楽亭ていうぼろぼろの一杯飯屋があって、そこは抜け荷の拠点ではないかと、お上は怪しんでいるのだが、危ない連中がたむろしていて身ぐるみ剥がされるから近寄らないほうがいい、とも言われていて、そこに女郎屋に売られた許嫁をなんとかしたいんだよう、というぼろぼろの男(山本圭)が引きずられてくる。 安楽亭の不良連中は最初は相手にしていないのだが、だんだん逆に引きずられるように、つまり二人の愛のためならこんな「いのちぼうにふろう」モードになっていって、明らかに訳ありの危険な抜け荷だけど大金こさえて二人を一緒になれるようにしてやろうとする。

一見さんお断りの安楽亭にいる連中がすごいの。中村翫右衛門が旦那で栗原小巻が娘、狂犬のような不良共が仲代達矢に佐藤慶に岸田森に山谷初男に近藤洋介に… 途中から廃人のようなぐでぐでの状態で転がりこんでくる謎の奴が勝新で、でも今時こんなメンツが揃った飲み屋があったらぜったい予約困難になる。

白黒の画面とその全体が廃船として浮かんでいるような安楽亭のセットがすばらしくよくて、武満徹の音楽もすてきで、スズメのお話とか地蔵のお話とかもしんみりとよくて、ならず者たちの捨て鉢の「いのちぼうにふろう」状態をとても丁寧に細やかに掬いあげようとしている。
そしてそれはぜんぜん犬死ににはならないのだと。


『新座頭市物語 折れた杖』 (1972)

最初の1本で帰ってもよかったのだが、銚子の花街が舞台であるのなら見てやれ、「いのちぼうにふろう」でええ、というふうになってしまった。(いやそこまでは...)

座頭市は旅の途中で吊り橋から落っこちて亡くなってしまった老婆の形見の三味線を届けに銚子の観音裏の花街に向かう。その娘(太地喜和子、むんむん)はやはり女郎さんになっていて、市は博打でちょっとだけずるして大金を儲けて娘を身請けするのだが、賭場の貸元の鍵屋万五郎(小池朝雄)の恨みを買ってごたごたになっていくの。 鍵屋万五郎はどっちみち悪い奴で、貧しい漁師たちをいじめて漁場を独占しようと企んでいたりするので、やっつけたれ、なの。 でも敵も残忍なのでラストの決闘はものすごく痛そうできつい。

勝新は監督もやっていて、斬新だかなんだかよくわかんないカットがいっぱいある無軌道なかんじもたのしい。 イタリアのどっかの漁村のおはなしのように見えないこともなかったり。

大滝秀治(ぴちぴち)が飯岡助五郎の役で、市の最期を見れるならとやってくるのだが、鍵屋がだめだとわかると何も言わずにすうっと消える、その非情さもすてき。

でもあれほんとに銚子だったのかしら。 観音の裏手に浜はないし、言葉がぜんぜん違うのよね。

6.23.2013

[log] NYそのた - June 2013

New York, のこりのあれこれ。 ぜんぜん書いてる時間ないの。

9日の晩、 (le) poisson rougeのあとはお食事で、Lafayetteに行った。
Locanda VerdeとThe Dutchの人達のフレンチなので悪いわけがなかろう、と。
Other Musicを少し下ったところにある。 やばい。

前菜のSoft Shell Crabのから揚げがすんばらしかった。こんなかりかりしっとりおいしいやつは久々。
冷たいせいろの横に添えたい(殴)。 メインは割とふつうのビストロおかずだったが、驚愕だったのはデザートのいちじくのタルト - ヨーグルトのソルベとローズマリー蜂蜜添え。
二人用、とあるのだがサイズとしてはホールがまるまる出てくる。いちじくは少し温かくてタルト皮はぱりぱりで、じーんとしたところにソルベのひんやり甘酸っぱいのと蜂蜜のふんわりが横からダイブしてくる。 Cronutと同じくらい危険 - この時点ではまだCronut知らなかったわけだが。
大人数で行って、パテとか牡蠣とかだらだら食べたらよいだろうなー。

アナログレコード関係は、ほぼ新譜のみ。 今回のように時間がないときに中古を掘るのは不可能なの。

QOTSAのデラックス盤とか、Eleanor Friedbergerさんの新譜(中のポスターが素敵!)とか、"Spinal Tap"のサントラ(アナログは84年以来)とか、そんなもん。7inchはなし。

本・雑誌はMcNally JacksonとWilliamsburgの猫書店とSt.Mark'sしか行けず。

絶対買うべし、だったのが"The Riot Grrrl Collection"。
編者のLisa Darmsさんが2009年から集めて行ったRiot Grrrlに関するzineとかチラシとかがてんこもり。 裏表紙のMiranda Julyさんのコメントが力強い。"Zine-makingが教えてくれたこと"。

Bustの20th Anniversary Issue。 表紙はでっかく、"The Return of Courtney Love".
今週、20周年記念イベントがBell Houseであるよ。

http://www.bust.com/parties/bust-s-20th-anniversary-extravaganza.html

他の特集は、"A Girl's Guide to 1993"。
93年といえば、New Museumで5月末まで開かれていた展示 - "NYC1993 Experimental Jet Set, Trash and No Star" 、これのカタログ買いにNew Museumまで行った。

93〜94年というのは米国にとって文化史的なターニングポイントがあった、と個人的に思っていて、そのおべんきょのいちぶ。

あと、St.Mark'sでは話題のエロ作家 - Marie Callowayさんのサイン本があったので、そいつを。

他の雑誌は、Film Commentとか、Brooklyn Magazine (Food Issue)とか、Gather Journalとか、Diner Journalとか、だいたいいつもの。

あと、Modern Luxuryが出しているやつで"Beach" ていう、Hamptonの金持ち向けのタウン誌みたいのがあって、表紙がGwynethだったので少し悩んだのだが、1年前、Montaukで式をあげたRufusの幸せいっぱい手記、があったので買った。

あれこれ買ったけどぜんぜん読む時間がない。 書く時間もない。 どうしようもない。

あとこれ、ほしかったかも。

http://www.coolhunting.com/tech/frog-dissection.php


帰りの飛行機は、新しい型のやつでした。

まんなかの列の3つ並んでいるまんなかで、ここってパーティションを両側上げてしまうとほとんど密室みたいな、押入れの中みたいな閉塞感たっぷりのかんじになる。 そういうのが苦手なひとにはきついかもしれない。 

帰りの便で見た映画は3本。  ビデオのコントローラー、やっぱし使いにくいよね。

"Identity Thief"

ちんぴらのDiana(Melissa McCarthy)が真面目なサラリーマンのSandy(Jason Bateman)のカード番号と社会保障番号を電話で盗んで、なりすましで悪いこといっぱいして、Sandyはせっかく立ち上げた会社をクビになりそうになって、警察に訴えるのだが警察は州が別なので管轄もちがう、彼女をここにひっぱってくればなんとかなるかも、というので、彼は彼女を探しに南のほうに行って、 見つけてしょっぴいて行こうとするのだが、Dianeはものすごい性悪で凶暴で手がつけられなくて、道中ふたりともぼろぼろになって、お互いなんとなく憎めなくなっていくの。

憎めない性悪デブの系譜 - John Belushi - John Candy - Chris Farley - - (Seth RogenやJonah Hill, Zach Galifianakisあたりをここに入れてよいものか…) の流れに連なるMelissa McCarthyであるが、こいつの酷さしょうもなさとその曝しっぷりは相当なもんだと思う。 監督Paul Feig、 Sandra Bullock共演の捕物帳 "The Heat"がものすごく待ち遠しい。 


"Hansel & Gretel: Witch Hunters"

ヘンゼルとグレーテルが魔女ハンターで悪い魔女をやっつける、ていう設定のお話し。
最初のほうにお菓子の家もちゃんと出てくるが、子供の頃のイメージとちがう... アメリカお菓子の家であんまおいしそうに見えない。
余りに破綻なくすいすい流れていってしまうのであんまおもしろくないのだが、ヘンゼルが小さいころお菓子の家で魔女にお菓子をいっぱい食べさせられたせいで糖尿病になってて、一定の時間間隔で動けなくなってしまう(インシュリン注射で復活)、というとこがおもしろかった、くらい。

あと、グレーテルに惚れて魔女をうらぎって仲間になるトロールがHenry Rollinsに似てた。

"Jack the Giant Slayer"

おとぎ話シリーズ、ということで「ジャックと豆の木」も。 こっちのがまだおもしろかったかも。
でも、地上と天上の国を行ったりきたりして、でっかいひととちっちゃいひとが戦う、その高低差とスケールがぜんぜん感じられなかったのが残念だったかも。 3Dで見たら違ったのかしら。

Shrekの猫がでてたね。


他になんかないか。

6.22.2013

[music] Simone Dinnerstein (performing Bach’s Goldberg Variations)

まだNew Yorkの記録。

9日の日曜日の夕方、"Scatter My Ashes at Bergdorf's"のあと、東から西にだらだら歩いてライブハウスの (le) poisson rougeに行った。 歩いて気持ちのよい陽気。

ここ、オープン5周年記念のライブシリーズをやっていて、8日には、John Zorn, Bill Laswell, and Milford Graves Trio ていうのもあったのだが、着いたばかりで、仕事の失敗で下がって、"Frances Ha"を見た直後で上がって、慌ただしくてお腹減りだした頃にこんなぎんぎんぐさぐさしたのはちょっと、ということでやめてしまったの。

この小屋、Knitting Factoryが売られてBrooklynに行ってしまって以降、その前だとTonicが無くなって以降のダウンタウンのこういう(あれこれいろいろ)シーンを一手に受けてがんばっているねえ、もう5年かあ。
前にここにきたのはLambchopのときだった。その前はJon Brionだった。

演目はバッハのGoldberg Variations。ライブハウスでクラシック、というのもいいかも、と思ったし、バッハのこれは好きで、グールドの古いのと新しいの、高橋悠治のレコードは聴いたことあったけどライブでは聴いたことなかったし、朝いちがPunkだったので晩はクラシックで丁度いいか、程度のかんじ。

6:30オープンとあって、9時前に次の用事が入っていたがこれなら大丈夫かと思って、当日券ある?て聞いたら、あるけどでも立ち見しかないよ$30、て言われてそれでいい、と入った。
地下のフロアに降りたらテーブルと椅子が出てて、みんな演奏前のお食事をしていた。 まずはテーブルの後ろに立ってみなさんがおいしそうにお食事しているのを眺める。 へんなの。

7:40くらいにSimone Dinnersteinさんが登場し、ゆうっくりのテンポで始まる。おもしろいー。
なにがおもしろいって、演奏者のぴりぴりもすごいが背面にいるバーの人達の緊張もはんぱじゃなく伝わってきて、グラスががちゃ、とか音たてるたびにしぃーーーっ、とかやってるの。

全32曲あって、25くらいまで聴いた。 彼女、早弾き曲の手前ではふぅー、て緊張を解いて、間を多めにとるので、くるな、とかわかるの。 でぴろぴろ早い早いおもしろい。
これ、不眠症のための音楽なんて大嘘じゃねえか。ぜったい眠れなくなるに決まってる。

CDもほしかったしサイン会も出たかったがしょうがなかった。
外に出ると、まだ少しだけ明るくて、初夏のヴィレッジの夕暮れ時、バーがざわざわしはじめた頃で、さっきまでの光景がものすごく変なふうにおもえたの。

6.17.2013

[film] Scatter My Ashes at Bergdorf's (2013)

おなじく9日の午後、After "Before Midnight"に、あちこち寄り道しながらふらふら歩いて(暑かった)2ndのVillage East Cinemaでみました。 4:20の回。

NYの57th & 5thにある老舗デパート、Bergdorf Goodmanに関するドキュメンタリー。
その成り立ちと歴史から、なんでここがNYのNo1デパートで、多くのデザイナーやセレブにとっての憧れの売り場/買い場であり、コアな客にとっては「死んだらここに遺灰を撒いてほしい」とまで言わせてしまうくらい特別な場所であるのか、をいろんな証言と共に紹介していく。

こないだようやく日本でも公開された"Bill Cunningham New York"が、NYのファッションが街に溢れでていくその様(Out)を記録したものだとしたら、こちらはNYのファッションが街に流れこんでいくおおもとにある特大のクローゼット(In)としてのデパートを描こうとした、というか。

デパートといったらデパ地下と催事場、程度の意識しかない日本の自分にとって、Bergdorfというのはデパートを遙かに超えた特別な場所で、あの薄紫の包装紙を見ただけでなんか興奮するし、それはBarneys New YorkとかBloomingdale'sといった他のデパートともはっきりと違っていて、ここに行くときにはちゃんとした格好をしないといけないし、行ったあとは緊張のあとの疲れがきたりする。
服飾の美術館・博物館にいくかんじ、に近いのかもしれないが、やっぱりそれよかぴりぴりするし、でも美しいものを見たり触ったりできる、という快感には替えられなくて、このデパートにはそれがある。 買えるものなんてほとんどないし、見ているだけで溜息ばかり、でもその溜息と一緒に美の意匠を呼吸しているんだとおもう。

映画は、何人かのデザイナー、セレブ、ファッションエディター、店内のBuyer、Personal Shopper、クリスマス用のウィンドウをつくるひと、などの証言や逸話を紹介しつつ、斜め向かいのTiffanyと同様、NYのお店のなかで神話化・特権化されてきたその理由とか背景とかがいろいろわかって勉強になる。

すんごくおもしろいのだけど、デパートとかお買いものとかファッションに興味ないひとには、ぜーんぜんおもしろくもなんともないだろうな。

場と歴史のところ以外だと、ここで働いているひと達も楽しくて、特にNo1 Personal Shopperだというおばあさん、Bill Cunninghamも変なおじいさんだったが、このおばあさんもそうで、まるで魔法使いのように見える。

クリスマスディスプレイの準備のところ、Barneys New York(Simon Doonan)のがポップでモダンで有名かもしれないが、ここの、どこまで行っても重厚で鉄板でクラシックなのも好き。
あの備品倉庫、入りこんでみたいー。

むかしいちど、5Fのフロア(カジュアル系のとこ)をうろうろしていたら、Cherがお買いものに現れたことがあった。 降臨、てかんじのオーラで場を圧倒して、蝶のようにひらひら優雅で、売り子さんも含めて全員凍りついて見守ったものだったが、それを思いだしたとこでCherが画面にでてきたので笑った。

靴のフロア(2F, 5F)を外せないことは承知しているが、7Fのインテリア・雑貨のところも捨てがたい。今はレストランが入って少し狭くなってしまったが、昔はアンティークのお店が入っていて、変てこなものがいっぱい置いてあって、楽しかったんだよねー。

とか、べったべたにOld New Yorkを回顧しているばっかしの映画、たまにはこういうのもいいかも。



NYで見た映画はここまで。
時間があれば、Film Forumでの"Hannah Arendt"と"The Avengers"のJoss Whedonによる"Much Ado About Nothing" (シェークスピア!)も見たかったのだが、しょうがないものはしょうがないや。

[film] Before Midnight (2013)

※ほんとうにこの3作目を楽しみにしているひとは読まないほうがいいかもしれません。

9日の日曜日、Whitneyで"Hopper Drawing"を見たあと、地下鉄で下に降りてAngelikaで見ました。 ここだと公開直後なので複数の部屋で30分おきくらいに上映しているの。

"Before Sunrise" (1995) ~ "Before Sunset" (2004)に続くRichard Linklater - Jesse (Ethan Hawke) & Celine (Julie Delpy)のトリオによる"Before"モノ3作目。

2004年の"Before Sunset"公開時、MOMAでRichard LinklaterとEthan Hawkeのトークがあって、そこで3作目について質問が出たときは、やりたくなったらやるかもねー、程度の答えだったので、あーあるんだろうな、くらいの感触だったが、なんだか突然出た気がしたので少しびっくりして、慌ててみた。

前作、夕暮れ前にParisでふわっと別れた/離れたふたりのその後 - 9年後。
冒頭、息子を空港から送り出すJesseがいて、送り出した後に車に戻るとそこにもうCelineがいる。ふたりはなんと一緒になって双子のガキまで作っていた! という軽い一撃をくらったあと、家族でギリシャにバケーションに来たのだ、ということとか、さっきの息子はJesseの前妻との間の子であること、などなどがわかってくる。

まずヴィジュアルとして、Ethan Hawkeの95年から比べたら相当に錆びついて疲れきった風貌、Julie Delpyのむっちりおばさん化してしまった後ろ姿とかあって、これらに加えて結婚子持ちじゃもう、どう転んだって前2作にあった、いくのかいかんのかどっちだ、のはらはらどきどき(+きゅん)、は望みようもないよな、と誰もが思うはず。 この地点から - Sunsetを過ぎて闇が落ちてきた時間帯から、なにをどう転がそうというのか。

しかーし、この3人をなめてはいけない。 男女が出会ってすれちがう、事実としてはたったそれ「だけ」を長回しの会話「のみ」で既に2本作ってしまっている連中である。
今回も双子娘たちを預けて二人きりになったあとの長い散歩、そこからホテルに入って二人だけの夜がきて、そして。  ここでの会話のスリルとテンションときたらかつての数倍の勢いで高下するジェットコースターであり、映画の魔法であり驚異であり、瞳孔開きっぱなし拳握りっぱなしで見守ることしかできない。

「94年に最初に出会った時、わたしたちが今の風体だったらあなたはわたしに声をかけたかしら?」というCelineの挑発に始まって、ふたりの老いとこれからの生活(Jesseは息子のことを考えてシカゴへの移住を考えはじめている)のこと、そして何よりもいま、ふたりの間に愛はあるのか、一緒に暮らす意味や犠牲、などなどについて寸止めの組み手が、ひっかけあいつっかけあいの、生と死のダンスが繰り広げられていく。
ふたりとも、子供達とか生活の基盤は失いたくない、でも同時に、全てをふっきってちゃらにできるとしたら今しかない、ということもわかっている。
もともと根無し草だったふたりだ、こわいものなんか何もない。

前述のMOMAのトークで「なんであんなふうに会話を途切れなく続けていくことができるのか?」という問いに、「僕らいろんな本読んでるからネタはいくらでも出てくるんだ」とかおちゃらけて答えていたが、そういうもんなんだろう。 この"Midnight"の落としどころを見てしまうと、ありえない... と思うと同時に、あれしかない、ことにも気付いてびっくりする。 そういうマジック。

それってJesseとCelineがずっと一緒にいることのありえなさであると同時に、ふたりが一緒にいることの必然、でもあるの。 それは例えば、こないだの"Celeste & Jesse Forever"が舌足らずの言葉と身振りで描こうとした"Forever"に少しだけ近いなにか、でもある、はず。
"Before Midnight" - 日付が変わってしまう直前、いちにちの最後の崖っぷち、そこにふたりでいる、ということ -。

そして、これまでの2作がそうであったように、この3作目も我々にふたりの傍観者であることを許さない。 94年、"Reality Bites"の浮ついた空気を足元からクールダウンさせた"Before Sunrise"の頃から、彼らが互いに投げあった数百の問いは、そのまま我々自身への問いとして、手紙として、歌として、9年毎に我々を揺らしたり不安にしたりしてきた。 それが今回もまた、ほんとうにほんとうに切実な矢として、火掻き棒として目の前に飛んでくる。

彼らが息をつめて、その胸を改めて愛で満たしたその一瞬 - "Before Midnight" - を分かちあえたことを3人に感謝しよう。

2022年は、どうかなあ。

6.16.2013

[film] This Is the End (2013)

こっちから先に書いてしまおう。

当初の予定通りの11日に出国、としたときの最大の問題はなんだったかというと、12日に封切られるこいつを見ることができないことだったの。 いちんち、たった一日でよいから滞在が延びればオープニングの晩に見ることができる。 ここまで来て「世界の終り」を見ないで帰るなんて、そんな悔しくてもったいないことができようか。

自分のなかの善いひとが「わざとやっただろ」ていうのだが、この世の終りに善いも悪いもないのだからしょうがないの。 延びたら延びたで飛行機とかホテルとか大変だったんだから。(今回特に、ホテルが取れなくて移動しなきゃいけなかったんだよ)

晩の22:00にTimes SquareのRegalで見ました。
もうちょっと混んでいるかと思ったらぜんぜんだった。映画に出てくるような体型のぶよぶよしたみなさんがうーぃ、てかんじでぞろぞろ入ってくる。

映画に出てくる俳優さんはぜんぶ実名でそのまま、俳優としての自分を演じている。
最初にLAの空港でSeth RogenがJay Baruchelを迎えるところから始まって、ふたりはそのままSethの家に行ってはっぱ吸ったりビデオやったり目一杯自堕落する。

SethはそのノリでJames Francoの家でパーティやってるから行こう、みんないるし、という。
Jayはあんま乗り気ではないのだが、しかたなくFranco邸に行くと、James Francoサークルにいると思われるいろんな俳優さんがいっぱいいて、Spring Breakersで、好き放題にやっている。

そうやっていると、とてつもない轟音と共に大地震がきて、邸の前にばかでかい穴が開いてみんなその穴に落っこちたり潰されたり、Michael Ceraは特にひどいことになったりして、行き場を失ってJames Franco邸に籠ることになったのは、James Franco、Seth Rogen、Jonah Hill、Jay Baruchel、Craig Robinson。 水も食べものもあんましないし、こいつらなによりも常識がない。そのうち腹黒いDanny McBrideが入ってきたり、Emma Watsonが逃げこんでくるものの呆れて出て行っちゃったり、家のなかもぼろぼろになっていく。

これって黙示録そのままだ世界が終わるんだ!とJayが言って、実際そのとおりに災いだの悪魔だのがどかどかやってくる。 これがLAだけで起こっているのか地球規模の災厄なのかはわからない(そんなのどうでもいい)。 終りなんだから助けも救いもあるわけがない。

よいヒトは天国に行けて、悪いヒトは地獄におちる。 友達であろうとなかろうと。
だれがどっち、は書きませんけど、ほぼみんなが思うであろうそのままのかんじなのがおかしい。

元はSethとJayが作ったShort - "Jay and Seth Versus the Apocalypse" (2007) - 未見 - がベースになっているそうで、もし世界の終りがきたら、こいつはこっちだしあいつはあっちだよな、と仕分けたり、こんなんなったりして、とかやりあっているうちに形になっていったのではないか。

だがしかし、スケールやや大きめの内輪受けや小ネタに終始しているかというと決してそんなことはなくて、世界の終りに向かうノンストップのじたばたと"Buddy"達の行方をしっかりと、逃げ場なしの、世に向けた最後のギャグとしてぶっ放そうとしている。 Hollywoodの実録モノ、というスタイルにしたのは、登場人物やそれぞれの関係紹介を端折って、世界の終りにまっすぐに向かわせるのに丁度よかったのかも。

(ほんとはこの辺て、Kevin Smithの得意エリアのはずだったのだが、たぶん最近の彼よりは断然)

参照される映画は"Cloverfield"にエクソシストにジェイソンに … いろいろいっぱい。
世界の終りを描いた映画ってほんとに多いし、みんな大好きだよね。
あとは当然のように来るべき"Pineapple Express 2"についての言及も。

音楽は、ほんとにてんでばらばら、ラストにでっかくサバスの"The End of The Beginning"がぶちあがる。

あと、意外にすごかったのが特撮系と音響で、コメディだからとたかくくっていたらなかなかとんでもなかった。 これならRPX(音のすごい特殊施設)のほうで見るんだったわ。

6.15.2013

[art] Hopper Drawing

MetからWhitneyまで小走りで、パレードに押し寄せる人達を囲い込むガードを除けたりくぐり抜けたりしつつたどり着いて、みました。 陽射しが強くて暑くて、途中でSant Ambroeusのアイスクリームを… とか思ったが時間がないのでがまんする。

Edward Hopperのドローイングを中心にした展示。
彼のドローイングはこれまであんまり見たことなかったし、程度で行ってみたのだがこれは素晴らしくてびっくりした。

ノートの切れ端に描いたような学生時代からのデッサンとかピカソの模写とかもあるのだが、それよりも油彩のために描かれていた大量の下絵のようなドローイングがおもしろい。

代表作である"Early Sunday Morning" (1930)、"Nighthawks" (1942)、"New York Movie" (1939)、"Gas" (1940)といった作品の本物の横にそれらの絵コンテのようなドローイングが粗いのから完成に近いもの、絵のパーツ(人物のみ、照明のみ、など)までざーっと並んでいて、彼の制作の過程を追っていくことができる。

こんなに緻密に丹念に構築していく系の画家だったのか? というのは自分が知らないだけだった。
もっと感覚的に、写真を撮るように瞬間を切り取って日曜画家のようにさくさく描いていく印象を持っていたのでびっくりした。 仕上げるまでにこんなに写真を何枚も何枚も撮っていたのか、と。

この展示を見たあとだったら、こないだイメージフォーラム・フェスでみた再現映画 "Shirley: Visions of Reality" なんかの作りも変わってきたかもしれない。

んで、こうなると残る謎はただひとつ。
彼の絵に特徴的なぺたんとした色彩、昼の屋外では乾いた、夜の屋内では湿った独特の空気感をもたらす色彩はどこでどうやって決められて、画布に置かれていったのか、ということ。
例えば、"Gas"のスタンドの痺れるような赤、"Nighthawks"のガラスの流れるような透明感、これらってどうやったの? と。 絵の最終形には試行したり塗りこめられたりした痕はあまりなくて、ペンキを塗るよう一気に描いていったような印象がある。

まだまだ勉強しないとね。 と、カタログ買った。

6.12.2013

[log] June 12 2013

とりあえず帰りのJFKにきました。

でも、ラウンジに入ってもいつものようにチーズとクラッカーはいただかない。
なぜなら、朝6:30から並んでCronutとPerfect Little Egg Sandwichを食べてしまったから。
計測不能、致死量に等しいカロリーを一挙に、大量に摂取してしまった。
これについては後で書こう。

今回、滞在がいちにち延びたとは言え、ぜんぜんだった。
LAも入れると、映画5, 展覧会3, ライブ0.8。 見たいのはいくらでもあったのにさ。

書いていないやつは追ってだらだら書いていきます。 出張前の分もまだあるし。

さて、Cronutの件。 説明はこちら。

http://dominiqueansel.com/cronut-101/

クロワッサンとドーナツのあいのこ。
もしあなたが、この世からクロワッサンとドーナツと揚げパンが消えたら死んじゃう、というひとなら、こいつを食べるまでは死ぬのをちょっとだけ我慢したほうがいい。

Dominique Ansel Bakeryはオープンした頃に1回行っていて、その時点で相当完成された世界を作っていたのだが、ついにやりやがったか、というかんじ。

作られるのは1日200個、並んで買えるのはひとり2個まで、お店のオープンは8時、6時くらいからみんな並びはじめる。 ということなので、並んでやらあ、と。

中のフレーバーは毎月変わって、今月はLemon Maple。

最初はCronutだけにしようと思ったのだが、BreakfastメニューにあったPerfect Little Egg Sandwichがオーブンから出てくるのを見て、そいつも頼んでしまった。

Perfect Little Egg Sandwich($5)は、ブリオッシュ生地のバンズに、どうやって作ったのかわからないが、大根餅のような絶妙の硬さを保つ卵焼きというかオムレツというかが挟んである、それだけ。 それだけなのだが、"Perfect"としか言いようのない調和をもたらす何かがある。 卵のとろみもブリオッシュの甘みもそんなにないのに、これはいったいどういうこと… て思った。

さてCronut。外側と内側(縦横それぞれ)、クリームのあるとこないとこ、で食感も風味も異なるので単純ではないのだが、外側を齧るとクロワッサンのばりばりがまず来て、その後でクロワッサン生地の隙間にあるふんわかした空気感と共にドーナツのもっちりした、懐かしい甘さがクリームと一緒になだれこんでくる。 後味はクロワッサンのバターとクリームの切れ、それを追っかけるようにグラニュー糖が被さってきて、揚げパンのあとに残る背徳 - 砂糖と油 - が喉の奥から現れる。

一言で、一口で、うきーおいしいー!!! とは決して言いたくない。
これは口に入れては、食べてはいけないものではないか、という後ろめたさがつきまとう。
掛けあわせてはいけない生物同士を掛けあわせて、できあがったやつがすごくかわいかったり優秀だったりしたときに、うーん、てうなって頭を抱えるかんじというか。

でも、血糖値が下がって動けなくなったときにこれが出てきたら、神様ありがとう、ておもうはず。

まあ食べてみてください。

7月のフレーバーは、Dulce de Leche。 デンジャラス。

ホテルの部屋にもどったら部屋に配られていたNY TimesのDining Sectionに丁度こんな記事が。

http://www.nytimes.com/interactive/2013/06/12/dining/from_croissant_to_cronut.html?ref=dining&_r=0

では、そろそろ。

[art] PUNK: Chaos to Couture

8日の土曜日は映画いっぽん("Frances Ha")だけ。 9日の日曜日は、11時まで仕事があって、そのあとでばたばた、展覧会2 - 映画2 - ライブ0.5。
この日は、Puerto Rican Day Paradeの日だった...  つまり、Uptown方面の地上の道路網は壊滅状態になるので、移動がなかなか面倒になる。

このMetropolitan Museumの展示もぜったい見なければ、のやつだった。
Alexander McQueenのときみたいにぱんぱんだったらどうしよう、だったのだが11時半くらいに行っても、がらがらだった。
まあね、Metに$25払ってPunkを見に(聴きに、じゃない)くるひとなんて、そんなにはいないよね。

少し前のNew York Magazineに在NYの(自称)Punk100人に聞きました、という特集があって、なかなかちゃんとしたサーベイで、おもしろかった。
CBGBのトイレを知ってるひと? という質問に"Yes"だったのは30人くらいだった。 そんなもんなのよ。

展覧会を入ってすぐのところにそのトイレの実物大複製が展示されている(中には入れないし、当然小便もできない)。
きれいすぎてぜんぜんだわ。 どうせなら匂いと煙も再現すべきだったのよ。 この世のあらゆる腐臭と異臭に塩素をまぶしたあれを。

他の実物大だと、70年代末のSeditionariesの店内が再現されている。 こっちは行ったことないけど、これも文句でるだろうなー。

途中で気づいたのだが(おせーよ)、これはあくまでMetのCostume Instituteの展示であって、Punkの音楽や思想や背景を紹介するものではないのだった。
Metのサイトの紹介にもあるようにPunkのコンセプト(のひとつ)である"do-it-yourself"と、Coutureのコンセプトである"made-to-measure"の連関にフォーカスしている。  どこまでもマイナーでアンダーグラウンドであることとか、反体制とか、その身体や身振り、といったあたりはスコープには入っていない。

あるいは、MetのCEOが言っているように“Punk’s signature mixing of references was fueled by artistic developments such as Dada and postmodernism” というあたりとか。 
なるほどなー。 言いようだなー。

Punkがふざけんじゃねえよこのあほんだら、と破って切り裂いて粉みじんに破壊しつくしたその後で、撚り合わされていったその糸、その切れ端がいかにHigh Fashionとして、新たなエスタブリッシュメントとして組み上げられ、肥えたブタであるところの顧客を取り込み、自身のシステムをより強固なものとしていったのか、そのしたたかでやーらしい策略と謀略の、マーケティングの目線をこれでもかと見せつけてくれる。

教科書的にはこれぞCreation! これぞArt! なのだろうが、Punkにしてみればこれこそが下衆の極み、John Lydonがその目をひんむいて糾弾し、Post Punkがモグラ叩きで潰していこうとした廃棄物としてのPunk、Punkの死、については当然のことながら触れられていない。 Punkこそがファッションを活性化し、新たな血と快楽(=金づる)をもたらした革命的なムーブメント(けっ)だったのである、と。

たぶんそうなのだろうし、歴史を否定するわけでもないけど、でもやっぱしそれはPunkそのものとはなんの関係もないんだよ。
Punkって、Punkするまさにその瞬間のことで、それって時間のアートであるところの音楽が自身の身体に突き立てたナイフ、ギターの電撃、ドラムスの爆竹、それだけでしかなくて、それなのに、それゆえに、そこに開いた穴には大量のゴミだの汚物だのが流れこんでくる(CBGBのトイレみたいに)。 その醜悪で腐敗した構図を美の殿堂であるところの美術館で堂々と曝してみる、という倒錯した目線、目配りがもう少しあってもよかった。 Curatorの Andrew Boltonさんはたぶんわかっていて、入口に便所を配置したのもそういうことなんだろうが。

Punkはどこまでも敗者の、Loserのものなの。 ここに展示されているのは勝ち誇った勝者の旗であり、レッドカーペット用の制服でしかない。 この落差。

あとね、決定的なこというと、蝋人形館とおなじで、ださいわ。 
日本のファッション誌によくでてる「ロックな」という形容がどこまでいってもださいのとおなじく。
Punkはライブハウスにあるもんでしょ。 ここにある服を着てライブなんか行けないでしょ。 とか。

でも、10000歩譲って、お子様にはよいのではないか。 とか。

出口の売店のとこで売っていたTシャツ: Vivianのが$100、Rodarteのが$115、Moschinoのが$355、Givenchyのが$665。
何人もの客が両手をあげて「ふぁああーーっく!」て言ってた。

革命はまだまだ遠いようだ。

[film] Frances Ha (2012)

8日の土曜日は、朝着いてホテルに荷物置いて会社に向かってそのまま仕事で、仕事はやっぱり失敗して、滞在がいちんち延びた。 いじょう。

今回、この映画だけは、なんとしても見たかったの。 このために来たの。 来てよかった。 IFC Centerでみました。

とーにーかーくー すばらしい。今年のベスト3入りは確実。

Frances (Greta Gerwig)は親友のSophie (Mickey Sumner)とふたり暮らしだが彼女との関係もどうってことなくなっていて、Sophieが結婚するかも家を出るかもとかいうので家を探したり、いちおうバレエ団にいるのだが、プロのダンサーではないのでどうしよう、だったり、すべてが宙ぶらりんでNYを転々としている。

それだけのお話しなの。 それだけなのに、なんだか身が震えるほどよい。 何回でも見たくなる。

とりあえず感覚的なところでいうと、"Stranger Than Paradise" (1984) を初めて見たときのあのかんじが襲ってくる。 よくわかんない、まったくかっこいいとは思えないのにすべての仕草、すべてのカット、その切れ目がかっこよく決まってはまる。
あるひとは、ゴダールの"Bande à Part"を思い起こすかもしれない。 あるひとは、トリュフォーのいくつか - 惚れた女をなにがなんでも美しく撮る - を想起するのかもしれない。 (ちなみに音楽は、Georges Delerueがずーっと流れている)

最近の子ならBowieの"Modern Love"の疾走シーンに『汚れた血』のDenis Lavantを見るひともいるかもしれない。
(でも、こっちのほうが断然すごいよ。 『汚れた血』の疾走は、ほんのちょっとだけ恥ずかしいんだよね)

他には、"Desperately Seeking Susan" (1985)なんかも、まちがいなくある。

Noah Baumbach は、これらのどの指摘に対しても軽く笑って"yes"というだろう。
それらがこの映画のすばらしさを貶めることには全くならない。 Francesはそれだけの強さ - それを「強さ」とか「存在感」と呼んでよいものかどうか、は議論があるだろうが - をもって画面のなかで跳んで撥ねて走ってうなだれてしょぼくれている。 チャーリーブラウンのにがにが笑いをする。 

いまどきの「女性」、とか、こんな「私」でも、とか、負けない「私」とか、「世界」とか「自分」とか探し、みたいなところに誘導する線、はなくて、どこまでもFrancesはFrancesで、SophieはSophieで走っていこうとする。  その限りにおいて、男はただの、そこらの男でしかなくて、こういう映画にありがちのしょうもない男共 - 変態とかウィンプスターとか - は出てこない。

家を持たない女の子のおはなし。 家を失った、ではなく、持たない。

これって女版"Greenberg"なのか? という問いも当然浮かんでくるだろう。 そう、かもしれないけど、ちがう、ともおもう。
"Greenberg"、もういっかいみたい。 (ちなみにMOMAではいま、昨年急逝した撮影監督Harris Savidesの特集をやっている。7日の金曜日にはNoah Baumbachの紹介つきで"Greenberg"が、Sofia Coppolaの紹介つきで"Somewhere"が上映された)

女優Greta Gerwigさんとしては、"Lola Versus"のLolaとほとんど同じような根無し草の、明日はどっちだの、しょうもない役柄で、それでいいのか、なのかもしれないが、それでいいのだ、と画面はいう。 すばらしく美しいモノクロの光と影。

Mickey Sumner (Sting娘)の酔っ払い演技もよいねえ。

あとはNYの映画としても、昔のWoody Allenクラスのクラシックになるとおもう。 「あーまぁたFが止まってるー」とか。

なんでタイトルが"Frances Ha"なのかは最後のとこでわかる。 戦慄する。

邦題は、「フランシス は」 で決めたい。


IFCの壁にBig Starのドキュメンタリー映画のポスターが貼ってあった。 7月末か...

[film] Fast & Furious 6 (2013)

7日の金曜日の仕事は午後の始めに終わってしまった。
フライトまであと10時間、その前の会食まででも5時間はある。
しょうがないので映画でも見るしかないのだが、どかどかやかましいのにしないと寝てしまう可能性があったので、これにした。

できるだけ近場の映画館をがんばって調べて、バスで行けることはわかったのだが、めんどうなのでtaxiにした。
映画館についてチケット買って、それでもまだ上映まで1時間あったので、ロビーで少し昼寝した。 昼間のLAで。 スーツ姿で。 なにやってるんだろ、と少しだけおもった。

予告のしょっぱなが"Machete Kills"なのでもりあがる。しかもいきなり大統領から電話がはいる。

映画は"5"の泥棒で儲けたお金でみんな好き勝手やっているのだが、犯罪者なので国に戻ることができないでいて、そんなある日、Dwayne Johnsonがこれまでの罪はぜんぶちゃらにしてやるからと助けろ、と仕事を持ってやってくる。
敵の傭兵たちの側には死んだはずだったMichelle Rodriguezさんが記憶を失くした状態でいて、さてどうする、とかあったりするのだが、そんな心配しなくてもばりばり突っ走って壊しまくるだけ。

前作の、ブラジルの街中を金庫でがんがん、はなかなか楽しかったが、今回は軍が絡むので戦車とか飛行機とか更にスケールがでっかくなっている。
車にしても戦車にしても飛行機にしても、ヒトを乗せて走る乗り物、というよりは走る、ぶつかる、壊れる、潰れる、燃える、これらのTransformをヒトの意思や運転技術とは関係なしにがちゃがちゃ実行する機械として描かれていて、もはや運転技術とかはあまり問われていないようなかんじ。
この大騒ぎ(みんなが見てるよね)を引き起こしたのが、軍が雇った強盗団の仕業だったことが世間に知れたら相当やばいとおもうのだが、そういうのは気にしなくてもよいことになっている。

でも今回のは人間系もなかなか楽しくて、Michelle Rodriguezとビッチ同士の殴り合いとか、Michelle RodriguezとVin Dieselのアストロ球団なみの空中プレイとか、Vin DieselのX MENなみにとてつもない頭突きとか、見どころはいろいろある。 車とは関係ないところで。
Vin DieselとDwayne Johnsonのタッグが、敵の2トップとぎーんて向かい合うところでは場内で掛け声が掛かったりして、東映やくざ映画みたいだった。
ゆいいつ、Paul Walkerの(外見の)劣化が激しいので、彼には子供を持たせて少し後退させている。

最後、ロンドンからLAに戻ってきて空気が緩むと、あーこれはLAの映画なんだなあ、LAで見て正解だったねえ、とおもった。

あと、"7" は更にすごいことになる、はず。 最後のところで ...

6.08.2013

[art] Urs Fischer - June 06

LAの空港に来たなう。 これから23:40の夜行に乗って、JFKに8:10に着いて、ホテルに荷物置いて、そのまま仕事だわ。

6日の午後、3時過ぎに終わってしまったので、仕事していたとこの横にあるMOCA(Museum Of Contemporary Art)に入る。 前の日に休みだったところ。 ここに来るのは2回目。

Urs Fischerの米国での最初の包括的な紹介をやっている。
Urs Fischerといったら、2011年、Park Ave.のSeagram Buildingに突然現れたこいつが印象深かった。





メインの展示があって、Little Tokyoのそばにある別館でも展示があるという。
最初にメインのほう。このひとは一応彫刻家、ということらしいのだが、唖然とさせるようなすごく革新的なインスタレーションを持ってくる、とか、コンセプチュアルにすごい、いうよりは、ほのぼのなんじゃこれ? みたいなことをやっている印象があって、それに沿ったかんじで掴みどころがない。 壁ぶちぬきとか、パンでできた家とか、オーブンに猫、とか、ソファに砂、とか、なんでも直方体、とか。 でもおもしろい。 おもしろいー、しか言いようがないのが辛いとこなのかも。













あと、通常展示も見る。ここのはコンパクトに纏まっていて、米国の近代芸術てこんなふうです、を知るにはとってもよいの。 ロスコの部屋もラウシェンバーグも。

ここを出て、ホテルに荷物を置きに戻って着替えて、再び外に出て、前の晩、場所を間違えてたどり着けなかった本屋にいった。

http://lastbookstorela.com/

図書館みたいなだだっ広いスペースに新刊本と中古レコードがざーっと。
回廊のようになっている2階は、"Labyrinth"と張り紙があって、警備のおじさんと目があったらお前は行け、みたいに押されたので行ってみる。古道具屋とか毛糸屋とか昔のポスターとか、その更に奥に古本がぐちゃーっと、ありえない物量で。 NYのストランド書店はなんかスーパーみたいな整然としたかんじがしてあんま、なのだが、ここのはすごい。



まさにLast Bookstore。 ここで地震がきたらぜったい埋もれて一巻の終り、けどここで死ねるならいいかも、というような媚薬と気合いのたっぷり入った本のぶちまけっぷり。自分ちなんかまだまだだ、とおもった。 床に溢れた本は、ぜんぶ$1だと。

通過点で荷物を増やせないので本は買わなかった(NYでは買う。たぶん)のだが、中古レコードは、見ているうちになんとなく、という波が襲ってきて少しだけ買ってしまった。
SeattleにはElliott Bay Bookがあって、SFにはCity Lightsがあって、LAにはLast Bookstoreがある、という並びができた。 あとはPortlandか。 ここはおそろしそうだねえ。

そこを出たのが5時半くらいで、まだ時間があったので、Urs Fischerのもういっこの展示に行って見よう、と歩き始めたらこれがなかなか遠くてびっくりした。

で、その途中ではじめてLittle Tokyoを通過する。フラーの"The Crimson Kimono" (1959)の舞台だよねえ、とか思ったが、あんなもんかしら。 サンパウロのもあんなふうだったし。

くたくたになってたどり着いた別館だったが、こっちの展示もすごかった。
展覧会のオープニングの週に市民1500人と一緒に粘土でこさえたやつだそうなのだが、物量もさることながら、灰色のいろんな動物とか人体とかよくわかんないのとかが床とか壁とかをみっしり埋めつくしているのは圧巻。
こまこま並ぶ仏像、とか、火山で埋もれたあれ(ほれ、なんだっけ)とかを思い起こさせるのだった。













こいつら、夜になると絶対動きだしてなんかやってるはず。

LAでは映画も1本みた。 これはあとで。
NYの雨、やんでいますようにー。

6.07.2013

[log] June 05 2013 - LA

5日の水曜日のお昼、LAに着きました。 かんかん照り。夜はさむい。

機内で見た映画は2本だけでした。 9時間のフライトだと3本はむずかしいや。

最初に見たのが"Side Effects" (2013)。

インサイダー取引で4年間刑務所に入っていた夫(Channing Tatum)が出所してきて、でも妻(Rooney Mara)はなんだかぼーっとしていて、そのうち駐車場の壁に自分の運転する車で突っ込んで怪我をする。 彼女の担当になった精神科医(Jude Law)は鬱病の気があると診断し、彼女の前の担当医(Catherine Zeta-Jones)に勧められるままに新薬を処方したら、その副作用(Side Effect)で夢遊病のような症状が出始めて、その朦朧状態のなか彼女は夫を殺してしまう。 療養センターへの入院を条件に心神喪失状態での事故として彼女は無罪となるのだが、話はそう簡単にはおわらないの。

単なる新薬をめぐる医療サスペンスかと思いきや、うわー、みたいなところに転がっていくのでぜんぜん退屈しない。

Rooney Maraは"Dragon Tatoo"のときもそういうかんじはあったが、あれ以上に何考えているのかわからない不機嫌さ不気味さ(+鬱)が全開ですごい。 コメディエンヌとは正反対のいらいらを放射する、こういうの専門で行けるのではないか。

Steven Soderberghさんはこれを最後に映画監督やめる、と言っているようだが、前作の"Magic Mike"を見てこれを見ると、キャリアのピークにあるとしか思えないので、"?" しか浮かんでこない。 本作では撮影までやっていて、ここまでできるのに、なんで。

レストランのLe CirqueとかHigh Lineとかが出てくる、これもNY映画ではあるの。 鬱病とマネー、連鎖していくSide Effects、というテーマからもNYでしかありえない映画かも。 鬱のほうにどよんと反転したWoody Allen映画、のような。

音楽はThomas Newmanの圧迫された不穏な音が背後でごーごー鳴っている。

それから"Wreck-It Ralph" (2012) を。 『シュガーラッシュ』。

東京では吹き替え版しか上映されなかった。 字幕版を見るために飛行機にのる。
前も書いたけどさあ、日本語がわからない海外から来た子供たちだって東京にはいっぱいいるんだよ。 彼らのことを少しは考えてやれよ田舎モノ。
というのもあるし、主人公たちの声は、John C. ReillyとSarah Silverman以外に考えられない。 特にVanellopeはSarah Silvermanのキャラを反映したそうなので、吹き替えなんてありえないでしょ。  吹き替えも「悪くない」ってみんなよく言うけど、「悪くない」じゃだめなんだよ。 だいだい何と比べて「悪くない」とか言うんだよ?

アーケードゲームの悪役のRalphが、悪役ばっかりの生活は嫌だ、と悩んでみんなに認められるために少し暴れたら隣のアーケードゲーム「シュガーラッシュ」の世界に入りこんでしまい、そこでのけものになっていたVanellopeと組んでレースに参加しようとする。

"Toy Story"とか"Monsters, Inc"とか"Gnomeo & Juliet"とかとおなじく、子供たちの見ていないところで彼らは彼らの世界でそれなりにがんばっていて苦労もあっていろいろ大変で、その苦労や辛苦が重ければ重いほど、我々はじーんとしてしまう(おもちゃなのにここまで...) のであるが、それっていったい何の反映なんだろう? とか。

この映画に関していうと、悪役であることをプログラムされたRalphが悪役であることを悩み、善的なものに目覚める、というのはどういうことなのか、とか、アーケードゲームを跨ったキャラクターの行き来(電脳的な基盤の起源)はどこから、どうやって始まったのか、とか、そういう問いの背後に神学的なものへの誘導、みたいのが見えてしまいちょっと醒めてしまった。

でもVanellope = Sarah Silvermanがほんとうに生きているので、それだけで十分、なの。

泣ける度合でいったら、"Rise of the Guardian"のがきたんですけど。


ホテルに入ったのが昼の12時くらい、少し仕事をして、次の仕事が夕方6時だったので、時間がなくてMOCA(The Museum of Contemporary Art)に走っていったら火曜水曜は休みだった…

で、"Celeste & Jesse Forever"の冒頭でもふたりが良い悪いでぶつぶつ言い合っていたWalt Disney Concert Hall(自分はだんだん好きになってきた)を横目に見つつ坂を下り、Metroに乗ってHollywoodのほうに行った。 映画館いくつかあるはずと思っていたのだがちゃんと調べてなくて(← ばか)、Loewsのシネコンはあったけどあんまし見たいのなかったので、そのまま戻ってきてしまった。

Pershing Squareで降りて、Historic Downtownと呼ばれているエリアを散策しようと思ったのだが、昼間から道で寝ているひととか、怒鳴っているひととか、パトカーとかもいっぱいいて、とっても荒んだとこだったのでちょっとびっくりする。 ハーレムの裏手とかブルックリンの奥地とかの、ああいう ー。 でも建物のかんじはどれもすごくよいんだよ。

でもGrand Central Marketというのを見たかったので行ってみる。

http://www.grandcentralsquare.com/

1917年からあるマーケット兼フードコート。ひんやりと薄暗いなか、いろんな匂いが渦を巻いてて、どこでもなんでも、食べたら秒殺でお腹やられそうなタフなかんじがたまんない。
みんな採算とれているのかしら、食材どれくらい余ったりするのかしら、とかちょっと心配になる。

そこを出たところにAngles Flightていうケーブルカー? じゃないねケーブルないし、があったので乗った。

http://angelsflight.com/

世界一短い、ていうのは本当かどうかしらんが、2分くらいで坂を昇っておわっちゃうの。
これで片道50¢。 楽しい楽しくない、でいうと楽しい、かなあ。

という、すごく久々に観光客みたいなことして、これはこれでとっても疲れた。

晩、Conan O'BrienのTVショーにHoundmouthが出てた。 がんばってね。

で、たったいま、Late ShowにQOTSAが。 Joshがカメラ目線たっぷり、腰ふってるの。
この艶っぽさはなに? 

6.05.2013

[log] June 05 2013

ほーんとにばたばたで、今成田で、これからLAに飛ぶの。

木金とLAで会議して、金曜の晩に赤目でNYに飛んで、土曜の朝と日曜の朝に仕事して、月曜は注視して、火曜に飛んで、水曜に戻ってくる。

まだ突然咳の発作がきて止まらなくなったりするので、体調はよくわかんないけど、まあいいや。
前回戻ってきたあとで死んでたのは、なんとか腎炎だったせいで、それはなおったんだとおもう。 たぶん。
なっても点滴して寝てればいいんだ。たぶん。

これのせいで爆音が全滅した(行けたのはひとつだけ)。
"R.I.O"のドキュメンタリーとThe Artaud Beatsのライブも行けない。 
ドイツ時代のルビッチもだめ。 ホン・サンスもだめ。

こういうスケジュールなので高望みはしません。 かみさま。
NYで、ひとつの展覧会、いっぽんの映画だけ、見れれば、今回はそれでよいです。 それだけで。

むこうのライブは、ないねえ。
さっき、The Governors Ballのフェスをやってるのに気づいたが、これ行っちゃうとさあ...

http://governorsballmusicfestival.com/

Film Forumの特集は小津だしなあ。


LAは、土地勘がないのでわからない。
LAといえば、2009年の9月、NINのWave Goodbye Tourの忌まわしい思ひ出がいまだに刺さってくるのだが、今回滞在するのも、この時に泊ったとこの近所なの。 今回は、風邪でキャンセルされてもぜんぜん構わないのだが。

では、またのちほど。

6.04.2013

[art] Francis Bacon - May 24 2013

24日の金曜日、いいかげんあたまが爆発してベーコンしそうになったので午後半休して、ベーコン → ラファエロ → 漱石 → 古生物 とまわってようやく固まって、落ち着いた。

Francis Bacon

終わりそうだったし、慌てて見にいった。
2009年の夏にMetropolitan Museumで見た“Francis Bacon: A Centenary Retrospective”の130点(うちPaintingが半分)の展示と比べるとぜんぜん少ない気がしたが、もちろん、見ないよりは見たほうがよい、と。

少ない点数の展示にしては、割と纏まっていたかも。 畏れ、呻き、恐怖、怒り、といったひきつって裏返ったダークサイドはあえて余り表に出さず、汚れちまった悲しみ的に体に開いてしまった穴とか傷とかからはみ出してしまった脊椎とか異物とかをびろびろさせつつ、三幅の祭壇画でしめやかにお祈りをする、といったふうの。

この流れのなかだと、いきなりぶん殴られるような痺れるような怖さはあまりこなくて、しみじみと「なんだろうね、この肉」とかそういうかんじで眺めていくことができる。
で、そうやって見ていくと構図とか配色とか、すごくきちんとデザインされたもののように見えてきて、これはこれで新鮮だったかも。
でもベーコンの衝撃って、美術館のふつーの展示のなか、端っこに突然1点だけ置いてあるようなときのほうが、くるよね。

土方巽の舞踏のビデオが流れていたが、これはちょっと違ったかも。土方巽がベーコンやっても、それはけっきょく土方巽だから。
終わりのとこで掛かっていたフォーサイスの映像は、整理体操、というかんじで、出口に置いておくぶんにはよかったかも。


Raffaello - ラファエ ロ

すんごい混んでいてびっくりした。 そういうもんなのかー。

この展示では「エゼキエルの幻視」(1510) が見れればそれでよかったのだが、他のでっかい作品もそれなりにきれいで(← 誰に言ってんだ)、よい。
でもベーコンの後にこういうのを見ていると、のっぺらした顔の造作やノーブルな配色が、ぐにゃーんと捩れてきそうで、崩れてきそうで、おもしろかった。
低温で加熱されてゆっくりベーコン化していくラファエロとか。 どっちも宗教画だし。

あと久々に常設展もみた。 ここのクールベのいくつかはとってもよいし、ティツィアーノの「聖ヨハネの首を持つサロメ」とか、ジョン・エヴァリット・ミレイの「あひるの子」も定番だけど、いいの。


夏目漱石の美術世界展

なんとなく、猫モノがいっぱいあるかなー、程度で行ってみる。
最初のほうにあったターナーが写真だったりしたので少し盛りさがったが、ウォーターハウスの「シャロットの女」と「人魚」は本物だったのでまた盛りあがる。 これだけでも行く価値あったかも。
漱石の世界をあんま知らなくても(実はあんま知らない)、小説と絵画のつながりなんてどうでもよいと思っていても(実はどうでもいいと思っている)、それなりに楽しめるものでした。
漱石個人の嗜好と絵画観がそのままでろでろ垂れ流されていて、一貫しているようなしていないようなで、それだけなんだけど、ね。

構図・構成もタッチも強めのかっちりした絵が多くて、プログレのジャケット集みたいなかんじも。
これだけ国内も海外もあってそれなりに内容が揃ったこういう展示ができるのは漱石くらいなのかしら、それってなんでなのかしら、と少し思った。


東大古生物学130年の軌跡

ほんとは「ホーリー・モーターズ」でも見ようか(結局見れないまま終わっちゃった…)、だったのだが、漱石繋がりがあったのと、展示の最終日だったので本郷までいった。

入り口のところでは常設の「キュラトリアル・グラフィティ―学術標本の表現」ていうのをやってた。 

人骨がごろごろしてて、古生物のところには化石がごろごろしている。
ここに足らないのは干し肉とミイラくらいか。

でもいちばんよかったのは古生物の入り口のばかでっかい黒馬の剥製だったかも。

6.02.2013

[film] The Grandmaster (2013)

順番は適当に前後していいか。

「グランドマスター」。 1日土曜日の晩9時過ぎに六本木で見ました。 原題は『一代宗師』。
首長竜の綾瀬はるかか、チャン・ツィイーかどっちかで少し悩んだが、やっぱしこっちだったの。

たぶん、賛否は分かれるのかもしれない。 けど、個人的にはすばらしいと思いましたわ。

30年代、日本との戦争に向かうなか、地勢と時代の要請でいろんな流派の統廃合と抗争がいっぱいあって、北の宗師の後継者争いで彼が指名したのは南の詠春拳の使い手イップ・マン(トニー・レオン)で、他にも一番弟子とか、娘のルオメイ(チャン・ツィイー)とかがいて、いろいろやりあっていく。

でも頂上を決めるためのクライマックスの戦いとか決定的な悪役が出てくるわけではなく、時代の流れのなかの節目節目の戦いを回想も含めて追っていく、そんなかんじ。

イップ・マン曰く、どの流派がどうで、どこが一番なのかを決めるなんてどうでもよい、カンフーにあるのは縦横のみ(勝って立つひと負けて倒れるひと)なのだ、と。 それは世界が重力の上にあるのと同じくらい明白なことで、カンフーの世界を描く、その世界観に関してはこれでほぼおわり。

どちらかというと、父の跡をきちんと継ぐことのできなかったルオメイの悔恨と告解がまんなかにあって、その彼女の声が30年代〜50年代の激動の時代の流れに揉まれ、埋もれていくメロドラマ、として見るのが正しいのかもしれない。

彼女がイップ・マンのところにお別れを言いに来る場面のすさまじいこと。
真っ白な顔に真っ赤な紅、虚ろな目と明らかに憔悴した顔で、かつての恋を告白し、恩も恨みも碁盤の上に置いておく、と告げる彼女にイップ・マンの返す言葉ときたら。 それはそれは見事な正調恋愛メロドラマで、ウォン・カーウァイがこの作品を撮った意味はここにあったように思えた。

それは彼女の声だけではなく、抗争の果てに失われ、淘汰されていった幾多の拳の流派についても同じで、映画を見たあとに残るのはイップ・マンの圧倒的な強さよりも、消えていった者達の残像、彼らの拳が描いた軌跡(集合写真)だったような。 そしてそれは決して遠い過去の話ではないの。

カンフーの動きに関していうと、あまりに雑味のない、絵巻物の世界だとカンフー映画のひとは言うのかもしれない。ダンスのグランドマスターの話じゃないのか、と。 あるいはアルゼンチンタンゴ(ブエノスアイレス)のような。 でもぎりぎりの刹那で相手と契ろうとするタンゴと、秒速の組み手で相手を殺そうとするカンフーは似ていないこともない。

舞い/拳のかたち、として見たときに、トニーレオンとチャン・ツィイー、それぞれの舞いと眼差しの揺るぎないこと、その強さかっこよさはほんとに惚れ惚れで、なんも考えずに彼らふたりの姿を見ているだけでもいい。

あとは音のすごいこと。サントラで冒頭からどかどか鳴り続ける太鼓の音に連なる打突音のでっかさ。 大骨が割れる音、小骨が折れる音、骨が砕ける音、関節が外れる音、筋が切れる音、などが稲妻のように鳴り響くの。 気持ちいいよう。

[film] 女であること (1958)

もうここんとこずっといっぱいいっぱいで爆音映画祭もぜんぜん行けないので泣いている。

22日の晩、神保町の川端康成特集で見ました。

冒頭、町を自転車で爽やかに走り抜けていく女の子のショットのあと、突然画面にしなりと横たわる美輪明宏が出てきて「女であること」の主題歌(作詞谷川俊太郎、作曲黛敏郎)を歌う。

女は~育ちすぎたこひつじ~エレガントな豚 ~♪ とかいうの。

「ヨイトマケの唄」といい、こないだの「祖国と女達 (従軍慰安婦の唄)」といいこれといい、最近の美輪明宏はどこまでいってもエバーグリーンでどまんなかだねえ。よくもわるくも。

で、映画はこの主題歌の淫靡なかんじとはあんま(表面は)関係なく、田園調布の裕福な弁護士夫婦(原節子、森雅之)が中心で、子供はいないが夫が弁護をしている被告の娘(香川京子)を自宅に引き取って3人で平穏に暮らしているところに妻の知人の娘(久我美子)が家出して転がりこんでくる。

この久我美子はこないだの「噂の女」の清く正しくのお嬢さんとは180度違う、関西弁でやかましくてやんちゃでわがままで独占欲が強くて惚れっぽくて、要は面倒なやつで、当然のように全てにおいて申し訳ないモードで生きている香川京子とは合わなくて、香川京子は下向いたまま学生の彼の下宿に逃げていってしまうの。(こいつはこいつで…)

んでも久我美子は悪びれることなくて、わたしは奥さんも好きだし旦那さんも好きだし、でも両方好きな自分は嫌いだ、とかポエム書いたりしてて手に負えないの。
やがて、あなたはそんな彼女に甘すぎるわ、と原節子と森雅之の間に溝が出来てなかなか大変なことになる。

こないだの「山の音」の原節子と比べると、妻の役割(期待)も相当違っているようにみえる。
夫にも家族にも常に気を配っていて従順で、夫から見下されている「山の音」の菊子と比べるとこっちは弁護士の夫と真正面から渡り合ってびくともしない。 そして昔の恋人(三橋達也)との再会で揺れたり、久我美子にキスされてどきどきしたり、要は彼女もまた「女であること」(←男目線)に沿った動きをする。

でもじつは、菊子もヴィスタを、見通し線を見切る強さ、という点では案外同じような場所に立っていたのかもしれない、とか。

あとは風景や室内の切りとりかたが川島雄三だなあ、と。