7月23日、日曜日の午後、”PLASTIC”を見たあとに国立映画アーカイブの企画『逝ける映画人を偲んで 2021-2022』で見ました。
この作品は青山真治の没後、2022年5月に新宿で追悼上映されたデジタルリマスター版を見ていて、これでも十分すばらしかったのだが、これはぜんぜん違うものとして見ることができた。フィルム上映大好き、デジタル嫌嫌派ではぜんぜんないの(いまやそんなこと言っていたら映画見れないよ)だが、画面が4K-8K-16Kになったとしても映しだされ得ない何かがあることはあって、それがなんなのかは、あるんだもん! しか言えないのだが、そんな何かが映されている。これって現物を見ないことにはわかんないんだけど。
この作品はモノクロ・フィルムで撮影したものをカラー・ポジに現像・プリントして、その際に撮影の田村正毅の発案による特殊な色調「クロマティックB & W(ブラックアンドホワイト)」というのを採用していて、これは相当に細かな手(目)調整が要求されるものらしいのだが、今回、当時のタイミング担当・上野芳弘氏の監修によりニュープリントされたと。監督も撮影も既にいなくなってしまっているので、こうあったはず、というのを知っている方が手掛けられたのは大きい。
この映画、冒頭に正面を向いた宮崎あおいの像から入って、旅を続けている彼らの過去から現在に向かう – なんで自分たちの生はこんなことになってしまったのかを見つめて問い続ける時間のなかにあって - 映画ってそもそもそういうものだと思うが - その問いは生きている限りいつまでもどこまでも続いて止むことがなく行ったり来たりを繰り返し、へとへとになってどうにか現在(色付き)に追いつくまでを追っていく。
そうやって何度も再生される時間・記憶の色調として、この映画のカラーについてはセピア色、というのがよく言われているもので、モノクロではないのでそう呼ぶ - あるいは「クロマティック」と - しかないのかもだけど、この映画で使われているセピアのトーンは、単に半音階(クロマティック)と形容できない全音階と半音階の間の、その隙間にある無限の段々のバリエーションを含んで単に昔のスクラップや絵葉書の枯れて萎れた写真の色のかんじではない、人によっては豊かさと言うかもしれない、人によっては不安定で脆い、と言うかもしれない、そんなふうに生々しく震わせ、惑わせる効果を生んでいると思う。そこに流れてくるAlbert Aylerの”Ghosts”やJim O'Rourkeが歌う主題歌の死にかけた蚊のような声。
だから最初の方のバスジャックの犯人とのやりとりのところ、何度も映される兄妹の家屋、なにもない家の周りの景色、パイプで作られた墓標、バスの窓から移って消えていく風景、「ママドック」の看板、これらはぜんぶ異なる質感で撮られ、登場人物たちの記憶のなかで何度も何度も再生され擦られて、決して記憶の特定の引き出しとかページのどこか、にすんなり収まってくれない。特に役所広司と宮崎将が対峙する夜の場面で浮きあがってくるノワールの悪夢のようなあれ、とか。
あの夏の日、暴力的に奪われていった生の像は亡霊のように何度も現れてなぜ今がこんなふうになってしまったのか?を繰り返し折り重ねていく、彼らのそんな擦り切れた日々は、この映画を再び見る我々の感覚にも覆い被さってくるような気がした - 毎夏にやってきて留まる原爆の記憶を語る声のように。同じ本を何度も読み返していくうちにその痕が重なってページの方が引っついてくる、あの感じがこのプリントにはあって、これからも何度も見返していくことになるに違いない、って。
あと、少し繋がっていそうな気もしたけど『君たちはどう生きるか』とはあんま関係ないかなー、って。秋彦(斉藤陽一郎)ってアオサギみたいなもんなのかしら、とか思ったのだが。 どうでもいいわ。
8.01.2023
[film] EUREKA (2001)
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