6月21日、水曜日の夕方、菊川のStrangerのホン・サンス特集 - 『小説家の映画』の公開にあわせて新旧の9本が - で見ました。
邦題は『正しい日 間違えた日』 。原題は” 지금은맞고그때는틀리다”。 この年のロカルノ国際映画祭 - 『ハッピーアワー』が出品された年なのね - で金豹賞と主演男優賞を獲っている。
ホン・サンスの映画はフィルモグラフィを追って見ているわけではなく、特定のテーマやジェンダーの設定や俳優の使い方や撮り方、ストーリーの落とし方に興味があるわけでもなく、彼の映画の登場人物のように時間が空いたとき、なんとなーくで映画館に入って見て、それでのめりこんだり大好きになったり、ということもなく、かといってがっかりすることもなく、これってなんなのだろう? ってぼんやり思いつつ、とにかく見る、新作が来たら見る、というのがずっと続いている。それでいいかなー、くらい。まだ「総括」するような人でもないし。続いているからにはおもしろいのかな、とか他人事のような。
ロメールの映画に似ている、とはぜんぜん思わないけど、見た後のかんじだと、近いものがあるかも。ヒトって油断ならない、なに考えてるかわかんないやつ(ら)だから気をつけなきゃね、とか。
二部構成で、それぞれのパートが1時間づつ(たぶん)、ふたつで登場人物も場所も重なるところが多い。中心のふたりはもちろん全くおなじキャラクターで。
パート1は"Right Then, Wrong Now" – 「前は正しかったけど、今はまちがい」。
自分の特集上映のイベントのためにスウォンの町にやってきた映画監督のチュンス (Jeong Jae-yeong)は史跡の入り口できれいな女性を見かけてぼーっとなって、自分のスタッフの女性とソリ遊びなどをした後、史跡に戻ってぼんやりしていると先程の女性がバナナアイスを食べていたので話しかけてみる。それがヒジョン(Kim Min-hee)で、会話をしていくと元モデルで今は絵を描いているというので、アトリエに行って絵を見せてもらって適当に(←そう見える)褒めたたえて、そこから寿司屋に向かってお酒をぐいぐい呑んで酔っ払い、さーてー、となったところでヒジョンは大学の先輩との約束があるのを忘れていたので一緒に行きませんか? って誘ってきて行ってみたらヒジョンは居眠りしちゃうしちっとも楽しくないし、翌日のイベントのトークでも司会の男性があんまりだったのでぶちきれて、あーあ、になって終わる。
パート2はタイトルとおなじ”Right Now, Wrong Then” - 「今は正しいけど、前はまちがっていた」。
ソリ遊びのパートはないけど、チュンスとヒジョンが出会うところは同じようなかんじ – 別物として撮ったのか、どういう順番で撮ったのか? - ヒジョンとの会話は彼女の母や父のことに及んで、アトリエに行って彼女の絵を見たとき、チョンスのコメントが彼女をひどく怒らせて、落ち着くために外の景色を眺めたり、それでもお寿司屋ではよいかんじになってチュンスは家庭があるから結婚できないけど結婚しよう(?)って道端で拾った指輪をあげたり、先輩の家での呑みは酔っぱらったチョンスがズボンを脱ぎだして大変なことになったり、ヒジョンを家まで送っていくと母親が待っているから一旦外でばいばいするけどまた戻るから、と言って別れたあとそのままになったり。翌日の映画祭は終わったあとの会場でチョンスの映画を見ようとしているヒジョンと会ったり。
ふたつは同じ話のバリエーションのようでぜんぜん別の話のようにも見えるし、”Now”と”Then”の境い目、“Right”と”Wrong”のちがいも明確にあるわけではないし、恋が成就したり破局したり、というストーリーのピークやExitがあるわけでもない。
別バースなんて騒ぎたてるような大げさなものでもないし、“Groundhog Day”の、ここを踏んだらこんなんなったりして、程度のものかも。そして、でも、24時間くらいの間にチョンスとヒジョンが出会って、ひょっとしたら恋に繋がるかもしれない何かが生まれたり撒かれたりした、かもしれない、程度の温度と湿度と。こんなふうにふたつのヴァージョンを並べてみることで見えてくるのは恋愛の諸相、というよりもヒトはなんで酔っぱらうとぐでぐでになって、どんなことだって起こってしまう気になったり(そして実際そうなったり)するのかしらねー、みたいないつもの。
まあ恋愛も酔っぱらうみたいなもんだしー、ていうことでよいの? って思いつつそれを確かめたり話したりするひとも周囲にいないので、そのまま家に帰る、みたいな。
6.29.2023
[film] Right Now, Wrong Then (2015)
6.27.2023
[film] Marlowe (2022)
6月20日、火曜日の晩、日比谷のTohoシネマズのシャンテで見ました。
邦題は『探偵マーロウ』。ただの『マーロウ』だとプリン屋の話かと思われちゃうから?
監督はNeil Jordan、脚本はNeil JordanとWilliam Monahanの共同、原作はJohn BanvilleがBenjamin Black名義で書いた小説 - ”The Black-Eyed Blonde” (2014) - このタイトルは終わりの方で一瞬でてくる。
暗めの探偵ものは得意だった気がするNeil Jordanだし、キャラクターはRaymond Chandlerのだし、主演は最近不気味さを増量してきた気がするLiam Neesonだし、そんなに変なものではなかろう、くらいで。
70歳となったLiam Neesonの俳優100本目記念作品だという。比べたってしょうがないけど、岡田茉莉子さんが映画出演100本記念の『秋津温泉』を撮ったときは29歳だったのよ。
1939年のL.A.ベイシティで、探偵のPhilip Marlowe (Liam Neeson)が怪しげなご婦人Clare Cavendish (Diane Kruger)に声をかけられ、映画スタジオで小道具係をしている恋人Nico Petersonがいなくなってしまったので捜してほしい、と依頼を受ける。捜査を始めると簡単に見つかって、彼は金持ちの集う高級クラブCorbata Clubの前で車に轢かれて頭を潰されて死んだ、と言われる。
他方で、事故が起こった時の様子とか細かいことを調べようとクラブに潜入しようとするとはっきりと邪魔されたり警察からはやめとけ、って避けられたり追い払われたり明らかに何かを隠そうなかったことにしようとしているし、Clareに彼はもう死んでる、って告げても、そうなっているのは知ってるし、そう言われているけどこないだ彼が車に乗っているところを見たし、って。
こうして、明らかに死んでいなさそうなNicoは誰のために何をやっていたのか、彼が死んでいないとしたら死んだのは誰だったのか、などを巡って、金持ちと映画屋と変態しかいなさそうな街を巡るなか、クラブのオーナーで英国大使になることが内定しているセレブとか、そこに絡むClareの母で元女優のDorothy Quincannon (Jessica Lange)とか、見るからに悪そうだし自分でワルだって言って堂々としている白スーツのFloyd Hanson (Danny Huston)とか、はっきりと粘着系の変態ぽいLou Hendricks (Alan Cumming)とかが寄ってきて、その反対側で、行方を追っていたNicoの妹はどこかに連れ去られて殺されて。
誰も助けてくれない土地で、誰もが隠してなかったことにしようとしている夜の隅っこを堂々と嗅ぎまわって、より深いところにクビを突っこめば突っこむほど、なんだてめーは、って難癖つけられたり死体が増えていったり、じたばたせざるを得なくなる。そんな沼の描き方として、登場する人たちがクラシカルにゴージャスに濃くてどこから見ても怪しいオーラまみれなのでなんだかとっても期待させてくれた割には、みんなあまりに芝居の書き割りの中にきちんと収まりすぎていて、あまりぱっとしなかったかも。この辺、最近のKenneth Branaghのポアロものにも似た風味はあるかも。再現度や解像度があがってストーリーのおもしろさがどこかに行ってしまったような。
これまでの映画史のなかのPhilip Marloweで(ぜんぶ見ているわけではないけど)理想だったのはやはり”The Long Goodbye” (1973)のElliot Gouldの、かったるそうで眠そうなオトコで、でもなんか半野良で動いていく猫のしなやかさを持った彼で、そういうところで言うとLiam Neesonは行動の原理と行方がわかりやすすぎるのと、やはりちょっと歳を取りすぎててこの人に頼んで(別の意味で)だいじょうぶかな? という危なっかしさがある。危なくてもアクションとしてうまくはまってくれればよいのに、そこがなんか、やや老犬みたいな挙動になってしまったりするのは脚本のせいなのかしら。途中で加勢してくれる黒人運転手の彼がいてくれたからよかったものの、彼なしではくたばっていたであろう .. それでよいのか? - べつにいいんだ、になってしまった感があるのは残念かも。
ほんとはDiane KrugerとJessica Langeがもっと前に出て、ややぽんこつのLiam Neesonを引っ叩いたり蹴っ飛ばしてくれたりしたらよかったのに。そういうことを期待させる強いふたりなのに、というのは少し思った。でもRaymond Chandlerはそういうの許さないんだろうな。
6.26.2023
[film] 嵐を呼ぶ18人 (1963)
6月17日、土曜日の昼、この日から始まったシネマヴェーラの特集『追悼特集 来るべき吉田喜重』で見ました。
いろいろ見なきゃ、というより本当にいなくなってしまったのか… というショックの方がまだ大きくてとてもしょんぼりしている。 そんな特集の最初をデビュー作の『ろくでなし』から始めるよりはやはり嵐を呼んでほしかった、ということなのだろうか。
原案は皆川敏夫、脚本・監督が吉田喜重。
海に面した港町(呉?)の造船所の下請けで働く島崎(早川保)は厚生係の殿山泰司から寮の管理係をしてくれれば特別手当を出すよ、と乞われて、借金で首が回らなくなっていたことは確かだし、でもこれを受けたら工場に縛られっぱなしになってしまうし、でも少し仲のよかったノブ(香山美子)とのことも考えて仕方なく受けることにする。
大阪でタコ師の芦屋雁之助に束ねられて寮にやってきた18人 – 点呼されたりひとりひとりの紹介があるわけではないのでなんとなくの数と薄暗くて個々の特徴が入ってこない顔たち - でしかない – はみんな札付きでいろんな事情を抱えて流れてきたと。 どう見ても誰ひとりとして人の言うことなんて聞きそうにない荒くれた半端な連中で、毎日酒のんで花札やって暴れて、そんなのばかりで労働争議でストになっても働かなくていいの? くらいだし、更生も厚生もどうでもよくて、町に出ればやくざと喧嘩してぶわーっと海の方に流れてきて暴れるわ、ノブに乱暴した奴は自殺未遂の騒ぎを起こしたりするわ、ロクなことをしてくれない。
雨降って地固まるどころか最後は土砂降りのなかの島崎とノブの結婚式があって、そのあとで彼らは再びタコ師に手配されて北九州の方に向かう列車に乗せられ、ひとりの子を迎えに(突然)浪花千栄子が現れたりするのだが、彼もやっぱり列車に乗りこんで旅立っていくの。
嵐を呼ぶというよりはただのハタ迷惑な嵐そのもののようだった18人はなんかやらかした都度に見せる目つきの投げやり感と乱闘や暗がりから現れるときのシルエットがやたらかっこよく – 特に柵越しに乱闘を追っていくカメラ - 最近よく予告でみるガキの乱闘映画(あれ、おもしろいの?)とはぜんぜん違うかんじなのだが、やっぱりこっちよね、って。
しかしこれが↓の次に撮られた、というのもなんかすごい。 メロドラマど真ん中からモノクロのガレージフィルムへ。
秋津温泉 (1962)
初日の特集の3本め、で同じ日の午後に見ました。上映後に岡田茉莉子さんのトークつき。
藤原審爾の同名小説(1947)を岡田茉莉子のデビュー100本記念作品として彼女自ら企画して吉田喜重に依頼して、彼は原作モノは撮らない人だったのだが何度か断られた後に監督自身の脚本で実現したもので、映画史上のいろんな「もしこれが作られていなかったら」、がぱんぱんにこめられた必殺の1本。 撮影は成島東一郎、林光の音楽も見事で、あとは岡田茉莉子自身による衣裳 - 着物の毬?模様とか、どれもとんでもなく素敵で美しいから見て。
リンカーンセンターでの松竹110年記念特集のとき、すばらしいプリントで見て以来。この時の英語題は”Love Affair at Akitsu Spa” .. なんかちがう?
太平洋戦争で体を壊して生きる気力も失った周作(長門裕之)が秋津温泉に流れ着いて、温泉宿の娘 - 新子(岡田茉莉子)に看病されて持ち直し、玉音放送を聞いてわーわー泣きまくる新子の姿を見て元気を取り戻すものの、元気になったのなら帰れば、って周作は都会に帰され、そのあとは回遊魚のように疲れては温泉に戻ってぐだぐだ.. を繰り返すうちに周作は東京で結婚して… そんなふたりの17年間を描く。
最後は悲劇で終わる絶対悲恋もので、岡田茉莉子の驚異的な美しさ – 特に彼女の横顔 - 顎の線にうっとりし、懸命に走っていく彼女の姿を追って拳を握ってしまうばかりの映画なのだが、その反対側で周作のバカでだらしないことにずっとイライラして、お前がしんじゃえいなくなれ、とかそんなことばかり思ってしまうやつ、でもある。邦画におけるこれに近いダメ男の系譜、ってなんかあるよね。誰のためのだか知らんけど。
最初、周作役は芥川比呂志で雪のシーンまで撮ったところで病気で降板してしまった、と後のトークで聞く。芥川比呂志のままだったらなー、とは少し思った。
こんなふうに男の方にむかつきながらも、諦念や絶望も含めた新子の17年間のエモーションが絵巻物のようなスケールで立ち現れて圧倒されて、それが突然花が落ちるように断たれて…
それにしても、1962年の彼女ときたら『今年の恋』があり『秋刀魚の味』がある。主演でも助演でも.. おそろしいしかない。
岡田茉莉子さんと初めて見たのは、トークの相手の舩橋淳さんも言っていた(たぶんこれ)2003年10月、コロンビア大学での小津コンファレンスの時だった。後の机に彼女が座っていてびびったのだがそれ以上に蓮實先生の講義がすごくてさー。
[film] からみ合い (1962)
6月10日、土曜日の午後、神保町シアターの特集『サスペンスな女たち―愛と欲望の事件簿』で見ました。
ポスターに並べられたタイトルの文字たちの禍々しいこと。この時代、女たちをこんな「サスペンス」に駆り立ててしまった(まちがいなく)男たちの愛と欲望のありようはどんなもんだったのか、とか。
原作は南条範夫の同名推理小説、脚色は稲垣公一、監督は小林正樹、音楽は武満徹、なのだがタイトルも含めてクレジットがない。エンディングにも。英語題は”The Inheritance”。
冒頭、ぴかぴかの富豪の格好でしゃらりと銀座を散策する岸恵子を宮口精二が掴まえて、いい暮らししておりますな、ってやらしく聞いてから過去に遡る。
ガンで余命3か月と宣告された会社社長の山村聰の3億円の遺産を巡って、子供がいない妻の渡辺美佐子に1/3がいくのは仕方ないとして、残りの2/3をどうすべきか - 自分には3人の隠し子がいるはずだから、と秘書課長の千秋実、弁護士の仲代達矢、秘書の岸惠子などに全国に散って探しだして連れてくるように指示を出すのだが、それぞれがそんな金は隠し子なんかより自分のものにしたいと企んで裏でこそこそ動くし、探し出された隠し子たちも芳村真理とか川津祐介とかろくでもないのばっかしだし、偽装なりすまし策謀合戦の果てに、死にかけの山村聰とリアル関係を持っていた岸恵子が「あなたの子がー」ってクールにぜんぶ搾りとってさらっていくお話し。
この内容ならどんでんコメディにしても嵌ったのかも知れないが、これはこれでシリアスな、戦後だったらありえたかも知れないどろどろお始末話として成立している。持っていかれた関係者たちが共謀して岸恵子を穴に落としてむしり取ろうとする復讐譚が続編になったはず。
あと、多様な小悪党たちがうろうろ立ち回るので忘れてしまいがちだけど、一番の絶対悪は山村聰だから。いまだにああいう態度のずっとぼけたじじいいるけど。
脂のしたたり (1966)
6月16日、金曜日の晩、神保町シアターの同じ特集で見ました。
原作は黒岩重吾の同名小説、監督は田中徳三。英語題は”A Drop of Grease”。 偶然だろうがこれも戦後の後始末系のはなしだった。
兜町の証券会社で調査部員をやっている田宮二郎が地味な農機メーカーの株の動きを不審に思って追っていくと謎の女 - 富士真奈美にぶつかり、その後ろから見るからに爬虫類でおっかなそうな成田三樹夫とか、見るからにヤクザのヤバそうな連中が代わる代わる現れて、この件には関わるなって脅されたり殴られたり、それでもかつての恋人久保菜穂子のいまの恋人で情報屋の鈴木瑞穂から連中の農機メーカーを隠れ蓑にしたアジアへの武器輸出の陰謀を引き出したところで、二人ともあっさり殺されてしまったので後に引けなくなる。
富士真奈美の正体と彼女の動機が見えたらそれがほぼ全てなのだが、関わるな、って言われた最初の時点で手を引いておけばこんなことには… の典型で、ではファム・ファタールものかっていうと、田宮二郎と富士真奈美はそんなに深い仲になってもいるように見えなくて、田宮二郎ひとりが異様に執念燃やして過剰にかき混ぜすぎて止められなくしてしまった果ての騒ぎで、あれだけ人が死んでるのにもうふつうの株屋には戻れないわよねえー。 田宮二郎のあの行動をドライブしていたのはなんだったのか? 正義感ではなさそうだし金にも執着なさそうだし、人間関係はドライだし、そういう見えない読めない動物ぽさみたいのを固めたのが田宮二郎だったのか。こうしてしたたった脂は誰のものだったのかしらん?
あと、登場人物たち、いつも同じホテルとかバーとかの隅とか暗がりに固まったり向かいあったりしすぎて、あれじゃなんか企んでいるのばればれではないか。もうちょっと見えにくいところで脂はしたたらせるべき。
6.23.2023
[film] Beautiful Thing (1996)
少し戻って6月15日、木曜日の晩、Strangerの『1980-2000年イギリス映画特集』で見ました。
邦題は『とても素敵なこと』。日本では97年の東京国際レズビアン&ゲイ映画祭にて上映されたのが最初だそう。
監督はこれがデビュー作となるHettie Macdonald、原作はJonathan Harveyによる同名戯曲。
舞台はロンドンの南東の方の団地が並んだコンプレックス – Thamesmead(ちょっとBarbicanにも似ている)で、遠くに薄く虹が浮かんだりしている。
Jamie (Glen Berry)は体育の授業やっていてもフットボールなんか嫌いだし集団に馴染めなくて、ひとりサボって家に戻ってもパブで働くシングルマザーの母Sandra (Linda Henry)は今の恋人Tony (Ben Daniels)とずっとべたべたしているし、隣人のLeah (Tameka Empson)はいつもMama Cass / Cass Elliotのレコードを爆音でかけて歌って文句言われている。なぜMama Cass?
Jamieのもうひとつの隣の部屋に暮らす同学年のSte (Scott Neal)は売人をやっている兄とほぼ喋らない(あとでアル中とわかる)不気味な父との3人暮らしで、使いっ走りとして上のふたりにずっと好きなようにやられて虐待されている。
Jamie自身がゲイであることはその気付きも含めて自分からは言わないし特に示されることもないのだが、家族に虐められて傷だらけのSteを自分の部屋にいれてシャツを脱がせて看病してあげたところでそれが控えめに、言葉もなく与えられ伝えられて、その時のSteの驚きと困惑、そしてJamieのああこれからどうしよう、の惑いや震えは画面を見ているこちら側にもやってくる。
そこからJamieの自分のなかに籠ってどんよりした自問自答というか、雑誌スタンドでゲイの雑誌を万引きして恐々めくってみたり、怒らせてしまったらしいSteとのことをこれからどうするか考えこんだり、でも母は自分のパブを持つ夢とかTonyのことで頭いっぱいだし、SteとJamieのことを見てしまったLeahはなにか思って企んでいるようだし、基本はろくでなし長屋の、みんな傷があったり拗れていたりの善人 - 他人にとってよいことを考えてあげる人 – じゃない人たち、自分のことだけで精一杯の人たちが暮らす区画でどうやったら誰かをすんなり愛したりそれを伝えたりケアしたりすることができようか、という事態や場面をJamieの思い詰めた眼差しと共に重ねていく。
やがてSteも奇跡のようにこちらの方を振り向いてキスしてくれて、ふたりでおっかなびっくりゲイクラブ行ってみたり、それをSandraが追っていったり、そこから更にまたいろんなとこにヒビが入ったり壊れたりしつつ、最後は昼間の路上で"Dream a Little Dream of Me"に乗ってみんなでスイングして、長屋の人たちはなんだなんだ? って。
周囲の無関心と中心にいるふたりの間の溝とか段差を描くのではなく、主人公のふたりの周りでものすごく悲惨で陰惨な事故や出来事が起こるわけでもなく、ふたりのロマンスを周囲から隔絶した楽園のように描くのでもなく、出てくる人々は既に初めからみんなそれぞれに疲れたり傷ついたり痣つくったり心のなかで泣いたり得体が知れなかったり、それぞれのやり方でぼろぼろになったりされたりしていて、その状態を巡りつつ少しづつ近寄っていって道端でダンスをする、その少し疲れた模様がよくて、それを”Beautiful Thing” って呼んで、そこに冒頭の淡い虹が被さる。
それはほんの一瞬の、ある一日の断面でしかないし、明日からはいつもの変わらないぼろ状態に戻るのはわかっているけど、それでもこんなことは起こるよ。
というのを英国的なじめじめに浸して粗め暗めに描くのではなく、団地が並ぶぺたんこのからりとしたカラー画のなかでアメリカ風にさらっと描いていておもしろいと思った。
このふたりはこの後、きっとブエノスアイレスに渡って、”Happy Together” (1997) -『ブエノスアイレス』を撮ることになるのだろう。
というわけで、サントラはMama CasとThe Mamas and The Papasばかりなのだが、エンドロールで流れる"Move in a Little Closer, Baby"にはほんとにじーんてくるし、これのなにがわるい? って少し暴れたくなるくらいにしっくり画面にはまる。そういえば、The Mamas & the Papasの"California Dreamin'"がやはり爆音で流れていた『恋する惑星』が94年 - この辺になにかあったのかしら?
[film] Spider-Man: Across the Spider-Verse (2023)
6月18日、日曜日の晩、109シネマズ二子玉川のIMAXで見ました。以下、ふつうにネタ - でもなんでもないけど - バレしている。
“Spider-Man: Into the Spider-Verse” (2018)からの続きで、来年リリースされるという”Spider-Man: Beyond the Spider-Verse”への中継作品なのだが、前のを見ていなくても後のを見なくても単独で十分楽しめるやつだと思う。今作を見ると4年半前にリリースされた”Into the Spider-Verse”がいかに強い確信の下に作られた革新的なすごいやつだったのか - 当時見て結構びっくりした - を思い知る。
まずはオープニングタイトルのグラフィックだけで十分かっこよくて、これだけでCG作品として成立しそうな。そこからGwen Stacy (Hailee Steinfeld)のいるEarth-65でのお話しになり、親友だったPeter Parkerの死を背負いつつ警官である父親との衝突と葛藤もあってMiguel O'Hara (Oscar Isaac)の率いるMulti-Verseを自在に行き来してVerseを跨いでしまった困った奴を送り返したりする秘密のthe Spider-Societyに入れて貰う。これでMilesにも会えるかも、と。
Miles Morales (Shameik Moore)がいるのはEarth-1610のブルックリンで、よきパパとママの間で進学や将来について考えるよいこでありつつ、前作で事故のようにSpider-Manになってしまった自分(の能力とか使命とかプライドとか)と折り合いをつけようとしているが、思い浮かぶのは前作の冒険で出会ったGwenのことで、でもいくら思っても届かないし、しょうがないこともわかっている。
そんなある日、Milesがちょろくて変な小悪党にしか見えないThe Spot (Jason Schwartzman) – なんとなくカオナシっぽい - の相手をして小競り合いどつきあいをしていると、こいつがどんどん肥大成長してVerseを跨いで暴れだすようになって、それを検知して追っかけてきたSpider-SocietyのGwenと再会する。
このふたりが再会して逆さにぶら下がって座りながら静かに摩天楼を眺めるシーンがすごく素敵なのだが、物語はこの後、the Spotを追って別VerseのMumbattan - ムンバッタンに行って、そこでPavitr Prabhakar/Spider-Man India (Karan Soni)やHobie Brown/Spider-Punk (Daniel Kaluuya)と会って、そこでの惨事を経由してSpider-Societyの本拠地になだれこむとそこには大量のSpiderたちと共にPeter B. Parker (Jake Johnson)などもいて…
前作はSpiderの網目に引っかかったMilesが、彼方からやってきた仲間たちと一緒に自分が何者であるのか、なにができる奴なのか、を発見する話だった。今作はMiles自身が網を渡って技を磨いていきながらヒーローであるということはどういうことか、を学んでいく話で、ヒーローになるっていうのは悲劇の成立と不可分なのだとか、おまえはSpider-manになるはずじゃなかったエラーなのだ、とか体育教師みたいなMiguelに大声で叩きこまれるのだが、そんなこと言われたって知るかよ、って思いつつもどうすることもできず、追われたら、捕まったら逃げるくらいしかできない。そうやってどうにか帰り着いた先は自分の知っているブルックリンではなくてー。
“The Flash”で茹でスパゲッティに例えられたVerseのありようは、曼荼羅や万華鏡を貫く目眩く蜘蛛の糸となってMilesを縛ったり遠くに飛ばしたり伸縮自在のようでいて、それでも"canon event”という不可避の結節点 - “The Flash”の“inevitable intersection”? - に常に遮られ妨害され、どうすることもできないものはどうすることもできない – ことを大人たちはみんな経験している - のだから落ち着け、じたばたするんじゃない、って。
でもこれはヒーローもの、というよりはそこに近づこうとしてあがく若者の青春のドラマなので、Milesはどこまでもじたばた転がって逃げて生き延びようとして、そこで直面する失望、孤独、昂り、悲しみ、怒り、憧れ、安堵、などが見事なトーンのアニメーションを背景に、それらと一緒になって画面いっぱいに跳ね回って飽きることがないし、あてがわれた運命には当然のように抗うし、そんな彼の選択はどう考えても正しそうなのだが、この二作目ではこの状態でおわる。
“The Flash”は泣きながら最後に受け入れたし、”Spider-Man: No Way Home” (2021)では記憶と引き換えに運命を変えようとした、これが次の”Beyond”ではいったいどちらの方に向かうのか。でも「運命」が運命であることを決めるのは誰なのだろう? 時間なのか? そんな簡単じゃないし時間が必要だろうけどとにかく時間はないんだ、って。それはね。
あと、「運命」もそうだけど近いところで「善悪」っていうのも。
“The Flash”でも実写のSpider-Manでも、Verse起因の惨事の規模がでっかすぎて想像の手に負えないレベルで目も疲れすぎるしもう好きにして、になってきているところを、このコミックは、ああSpider-Manてコミックだったんだよね、っていうところに立ち返らせてくれて、Milesはリアルな青年から落書きみたいなのにまで変容するし、ページをめくる快感とか紙に滲んだカラーやインクの肌理、チラシやコピーのチープなかんじまで、ばふばふのスクラップブックにしてばーん、て広げてくれる。 Spider-Punk、いいなあ。
6.21.2023
[film] The Flash (2023)
6月17日、土曜日の夕方、109シネマズ二子玉川のIMAXレーザーで見ました。ふつうにネタバレはしているとおもうー。
DC Extended Universe (DCEU) っていうのの13番目とのこと。Flash役で主演のEzra Millerの起こした暴力沙汰などにより制作が難航して監督も変わったりした - なので重ったるかった”Justice League”以降のやや軽めのやつ(として作られたはず)として、義務半分くらいで見た。
冒頭、Barry Allen / The Flash (Ezra Miller)が出勤途中にいつものコーヒーショップでいつもの店員さんがいなかったためにいつものが出てこないことに苛立っていると病院の建物で大惨事が起こりそう - Ben AffleckもGal Gadotも忙しいからやっといて、で赤ん坊とかわんわんをなんとかを串刺しで救ってぐったりして、ああこんな人生.. って夕陽に向かって走っていたら自分が少しだけ過去に戻れてしまうことに気づく。
Barryにはママを殺した容疑で収監されて裁判待ちとなっている父Henry (Ron Livingston)がいて、無罪となる証拠をずっと探しているのだが決定的なものはなくて、でももしあの時買い忘れたパスタソースのためにHenryが外出しなかったら事件は起こらなかったかも、と、ママの買い物のときにスーパーでパスタソース缶をカートに入れておく、というのをやってみたら…
それをやって現在に戻る渦の途中で変な怪物にどん、て押されて抜けたその地点はBarryが電撃を受けてFlashになる手前の世界で、ママは生きていてくれたのだが、”Back to the Future”の主演俳優はEric Stoltzだったりどうも様子がおかしい。 そんなことよりもBarryに電撃ショックを与えてThe Flashにしなければいけないから、ってその瞬間を待ってやってみたら電撃はふたりのBarryにぶちあたり、若Barryはなんとか引っ付いてくれたものの、老Barryの方は前歯と一緒に能力を失ってしまう。あと、そんなことよりZod将軍 (Michael Shannon)が現れて地球に大穴を掘り始めたのでなんとかしないと、ってBatman – Bruce Wayneを呼んでみたらMichael Keatonのが出てくるわ、Supermanは? っていうと彼のいとこだというSupergirl / Kara Zor-El (Sasha Calle)がぐったりした姿で現れるわ、とにかく同系のキャラでも想定していたのとまったく違うのがぞろぞろ出てくる。 この辺はギャグでしかなくて、その辺のなにこれ? がシリアスで危機的な状況をオーバーライドして、結果ナンセンスどたばたSFみたいになっている。それでよいのかもしれないけど。
交錯しないはずのスパゲッティ(乾麺)が交錯したところで変な力を加えたからぐにゃぐにゃに茹であがったスパゲッティ(おいしくなさそう..)になってしまった、という例えはわかりやすいけど、でも”Back to the Future”の主人公も”Top Gun”の主人公もその時点で俳優だった人たちからの選択肢、の話でしかないのは偶然? 彼らが俳優になっていないかもしれない可能性は? スパゲッティでもBarillaかDe Ceccoか、しかありえないの? こんなのやりだしたらなんでもありじゃんどうしろっていうのさ? ってなったところで“inevitable intersection”というのがある、とか言い出すし。
こういう、マルチバース使いが出てきた最初の頃は、援軍とか煙幕とかどんでんとか、そういう使われ方だった気がして、だからそうくるかー、というゲームの死角を突かれるおもしろさがあったと思うのだが、ここんとこのやつって主人公の運命の選択とか分岐、のような使われ方になっているのはどうなのだろう? これって運命(論)があって、それを受けいれるのか抗うか、でも結局.. というだけのお話しをぐるぐる回しているのにすぎなくて、それは主人公の立場とか置かれた状況に対してどこまで思い入れできるか/できそうかに結構左右されがちで、今回のに関していえば、あんなふうなBarryの錯綜しつつもごりごりに固まってしまったありようって、どうしたってEzra Millerの昨今の荒れっぷりや狼藉を思い浮かべてしまうので、結果そんなおもしろくはないし乗れないし。という意見と、でもこいつ、そんなふうに妨害されてどんなに無駄だ、って言われても火花散らして走ってるだけ、走るしかないの変なの、っていうのと(そんなバカ映画が好きだったんじゃなかったのか?)。
あと、でも、やっぱり、ぜったい許してはならないのはSupergirlをあんなループのなかに放ったらかしにしたこと。これがなにより一番ひどい。
こういう状態で翌日に”Spider-Man: Across the Spider-Verse” (2023)を見ると少しびっくりする。なにかが起こっているのか? って。ねえよ。
6.20.2023
[film] M3GAN (2022)
6月13日、火曜日の晩、Tohoシネマズの六本木で見ました。『ミーガン』。
そもそもホラーは怖いし人形ホラー - “Child’s Play”や“Annabelle”のシリーズも人形と目が合うだけでぜんぜんだめなので、見ていない。この作品も血や肉が飛び散るバージョンもあるらしいのだが、そうではない方だというので。 これは大丈夫だった。情念や怨念がドライブしない、ありそうな近未来B級サスペンスとして軽くておもしろい。
いつもファービーみたいなやかましい玩具を相手に遊んでいるCady (Violet McGraw)が両親と車でスキーロッジに向かう途中、見晴らしが悪くなったところで除雪車に正面衝突されて両親は亡くなってしまう。
Cadyの身を引き受けて後見人になったのが、叔母 - 母の妹でFunkiというシアトルの玩具会社に勤めるGemma (Allison Williams)で、大学の頃からロボット工学に没頭してその技術を玩具開発に活かそうとしているのだが、うざい上司David (Ronny Chieng)に予算とかスケジュールとか追いたてられてしんどい。そこにいきなり姪の世話が被さってきて、しかもCady自身は怪我をしてふさぎ込んでいて、自宅にセラピストも来てくれたりするものの、そもそも子供の相手が苦手なGemmaは困ったなあ、になるのだが、市販玩具とは別にプロトとして開発中だったアンドロイド一体 - “Model 3 Generative ANdroid”- “M3GAN”に女児の皮と髪と服を被せて与えてみる。M3GANはCadyを“primary user”と認識して彼女の話を聞いて相手をしてあげて彼女が辛かったり困っていたりすると助けて守る、というのができるようにプログラムされている - そのプログラムもGemmaが書いた - ので、Gemmaにとっては自分のプロダクトの検証にもなるし都合よいかも、と。
M3GANを相手にし始めたCady、というかM3GANのPrimalになったCadyは大喜びで没入し自分の傍に置いて片時も手放せなくなり、キャンプに行くのも嫌だ! ってごねるのだが、なんとか人形の扱いでキャンプ場に持ち込ませる。木の下に他のぬいぐるみとかと一緒に放り置かれたM3GANだったが、Cadyがいじめっ子男子に絡まれているのを見ると、彼の耳を引きちぎって崖下に投げて殺してしまう…
それが何故か(彼女のせいにはされずに)うまくいってしまったので、M3GANはCadyを守るべく隣家から首を突っ込んでやかましく吠えてくる犬とかおばさんも同様に「処理」してしまうのと、CadyとM3GANが仲良くやっているのを見たDavidがこいつは車一台分の値段に設定しても売れるかも、と会社のトップにプレゼンすることになるのだが、機能の付加価値 - 多様性や柔軟性を見せるのではなく、想定外のM3GANとCadyの魂の結びつきみたいなところを見せることになってしまったプレゼンは結果的にすばらしい、って幹部を泣かせてしまい(ほんとか?)一般販売が決まってしまう。のだが既にM3GANは相当やばい方に進化して、Gemmaがプログラムを書きかえたりリロードしたりする程度でどうこうできるものではなくなっていた…
学習機能が備わっているとは言え、プログラム一式を仕込まれた機械が暴走して、暴走ついでに自我みたいなものを持っちゃったりしたらどんなことになるのか、それは主人を守るためだったら周囲を皆殺しにしても平気な過激志向を隠していたりするのだが、そんなでも売る側とかケアする家族とかみんなに魅力的に見えてしまったらどうする? どんなことが起こる? というのを漫画のようにわかりやすく描く。
従来だったらそんなプログラムを書いたGemmaが痛い目にあうはずのところを、邪悪そうなとこはM3GANがぜんぶ引き受けて腕と腰をぶんぶんさせて嫌な奴らを殺しまくってくれる。 自分もああいうのがほしいな、って思ってしまったら負けなのかしら。
ケアする相手と近くなりすぎて自分をシャットダウンしてしまったAIがこないだの”After Yang” (2021)だったとすると、それとは真逆の方にぶっとんで制御不能になるのがM3GANで、こっちの方がありそうだしわかりやすい。そしてこのわかりやすさもまた罠なのだと思う。
ぜったいに次のM4GANがくるのは明らかで、この流れはやはり”Terminator”のそれに近くなっていくのか。いや、あんなにマッチョなのではなくて、M3GANのコードは家父長制を消滅させるべく書かれたに違いないので、その線でおねがいー。
6.19.2023
[film] The Little Mermaid (2023)
6月10日、土曜日の晩、109シネマズの二子玉川のIMAXで見ました。
みんなが比較対照しているアニメ版の方は見ていない。
Hans Christian Andersenの原作をベースとしたアニメーションもベースとしてRob Marshallが監督したミュージカル。脚本のDavid MageeとRob Marshall のコンビは”Mary Poppins Returns” (2018)から続く鉄板で、音楽にはアニメ版のAlan Menkenに加えてLin-Manuel Mirandaが加わっている。Ariel役のHalle Baileyの肌の色について差別をしたくてたまらない連中がわーわー言っていたがあれらを軽く蹴散らすベースクオリティの高さ。恥を知れ。
冒頭、アンデルセンからの引用として"But a mermaid has no tears, and therefore she suffers so much more"が示される。人魚には涙がないからどんなにつらくたって泣けない。これ、しょうもないスポ根の根性主義と混同しないこと(しないか)。
海の上、船の上で漁をしているのか宝物を探しているのか、どこかの国の王子らしいEric (Jonah Hauer-King)たちが仲間たちと歌って踊ってわいわい楽しそうに航行しているのと、その船底の反対側の海の中ではAriel (Halle Bailey)を真ん中にカニのSebastian (Daveed Diggs)と魚のFlounder (Jacob Tremblay)とカツオドリのScuttle (Awkwafina)たちがふわふわ楽しくArielの拾ってきたコレクションをみたり、父King Triton (Javier Bardem)の召集に間に合わなくて怒られたり、ふたつの全然違う世界を生きて漂う主人公ふたり、が描かれる。
船が難破して海に投げ出されたEricをArielが助けてあげて以来、Ericはずっと引っかかって離れないArielの面影を探すようになり、Arielも会いたいようー、ってなっているところにタコ魔女のUrsula (Melissa McCarthy)が取引を持ちかけて、3日間だけ声のでない状態の二足歩行できるヒトとして会わせてあげるけどその間にキスできなかったら… って。
Arielはそれを受けてEricと夢のような3日間を過ごしてママのThe Queen (Noma Dumezweni)にも紹介されてあとちょっとで… だったのだが、それを知ったパパトリトンは怒り狂って。自分は港々で人魚つくってきたくせにあんなにひどく怒ることないよな。
ほんとごくふつうのちょっと変な収集癖とより大きな世界への眼差しをもつふたりが出会って恋におちるかわいらしいBoy meets Girlもの(でよいと思う)なのだが、ふたりに海のものと陸のものとの違いがあった、ただそれだけで海の底をひっくり返す海獣大戦争みたいな海のスペクタクルが巻き起こって、スケールがでっかいのか小さいのかわかんないけど、海の方を怒らせたら大変なことになる、というのは教訓としてわかるものの、そっちのインパクトがややでっかすぎはしないか。
違う世界で育った違うふたりが出会って、互いのギャップに触れたりびっくりしたりしながらそれでもたまらず惹かれあって止まらなくなる、その過程をもう少しじっくり微細に煮詰めておけば – そっちの方を見たくなるふたりだったし - あんなおどろおどろしい軟体塩水ホラーが覆いつくす、とまでは言わないけど、小さい子供にあとあと強く残ってしまいそうなやつにはならなかったのでは、という気もする。この辺、なんでも実写にすればよいってもんでもないか、とか。カツオドリはカニとか魚みたら、まず食べちゃうだろうし、あんな程度で大ダコが – しかもMelissa McCarthyさまだよ - やられるなんてありえないわよ、とか。
あと気になったのは実写にしては水の中の動きが滑らかすぎないか、って。”Aquaman” (2018)もそうだったけど、あんなスピードで水中アクション(宇宙もおなじ?)ってできるものかしら? わたしにとっての人魚もののスタンダードは”Splash” (1984)で、あそこでDaryl Hannahが尾ヒレを動かして進んでいくちょっと重くて大変そうなかんじ、がふつうではないかと思うのでー。
最後の海の民も陸の民もみな兄弟、みたいなシーンは賛否あるのかも。Ericの国も下のマーケットの方に降りていくと奴隷もいなさそうでみんな幸せそうに暮らしているので、そういう理想郷の世界の話なのかもしれない。けどそれならなぜThe Queenは、世界が違うのだから諦めなさい、ってまずふたりを引き離そうとしたのか。ここは学級会などで議論できるテーマかも。例の肌の色と差別の件も込みで。
王国に貼ってあった青い魚のタイル、リスボンのタイル美術館 - Museu Nacional do Azulejoで見たやつだったなー。
6.17.2023
[film] This Other Eden (1959)
6月8日、木曜日の晩、角川シネマ有楽町の『アイルランド映画祭2023』で見ました。
邦題は『もうひとつの楽園』。今回のクラシック枠はこれと『静かなる男』(1952)だけかー。古いのをもっと見たいのに。
原作はアイルランドのLouis D'Altonによる同名戯曲(1953)、英国の女性監督Muriel Box (1905 – 1991)によるコメディ… かなあ。最初にBFIのロゴがでたのでじーんとする(それだけで)。
アイルランド独立戦争の終わり頃、アイルランド軍の司令官Jack Carberryと記者のMick Devereaux (Niall MacGinnis)は英国軍の将校と直接交渉すべく夜に車で出かけたのだが、それが罠で、待ち伏せされていた英国軍に撃たれてJackは殺されてしまい、Devereauxに後を託す、というのが冒頭。
そこから時は流れてアイルランドは独立して、Jack Carberryが地元の偉人として讃えられている田舎町Ballymorganでホテルを経営している成金McRoarty (Geoffrey Golden)のところに英国の学校に行っていた娘のMaire (Audrey Dalton)が帰ってくる。その電車のなかで彼女に寄っていったのが英国人のCrispin Brown (Leslie Phillips)で、CrispinがMarie素敵だなー、って思っていると、途中で若者のConor Heaphy (Norman Rodway)が乗りこんできて、ConorとMarieは昔からの知り合いらしい。
元気そうに戻ってきたMarieをMcRoartyと地元のおっさんたちは歓迎するが、CrispinとConorに対しては冷たくて、Crispinが地元の歴史的な遺産でもある邸宅Kilgarrigをオークションで落として買おうとしていると聞くと余計に嫌うようになったり、地元で聖職者になりたい、というConorにも後見人のDevereauxは難色を示したり。
やがて地元のお祭りでJack Carberryの銅像が披露されると、それが変てこなモダンな奴で、一同しーんと微妙なかんじになってしまった晩に銅像が何者かに爆破されて、それはあの突然現れた英国人Crispinの仕業に違いないって、群衆がホテルに押しかけていくのだが…
その一触即発の騒動のなかで明らかになっていく偉人Jack Carberryも含めた登場人物それぞれの過去や出自、そんな彼らにどんな明日がー。という民族対立や革命の歴史を踏みしめて乗り越えようとするRom-comにしてはちょっとおもしろいやつだった。 MarieとCrispinは少し歳も離れているし、Crispinはなにをしてあんなお金持ちになったのか不明だし、階層の壁も厚そうだし、そんなでも結果みんな幸せそうになってしまうところはいいのか? なんだけどアイルランドならありそうかも、って。 そしてこれが”The Other Eden”なのだ、と。
Steps of Freedom (2021)
6月14日、水曜日の昼に同じくアイルランド映画祭で見ました。
日曜の晩のは見れなかったので、昼間に会社を抜けていった。それくらいIrish Danceはだいじで愛していて、90年代のNYでの数年間、St. Patrick's DayにカーネギーホールでThe Chieftainsを見て、Irish Danceのリサイタル(前座はCeltic Harp Orchestra)を見る、というのを繰り返していた。(他方で”Riverdance”はメジャーすぎて違う気がしてよけてた)
正式タイトルは”Steps of Freedom: The Story of Irish Dance”というドキュメンタリーで、監督はRuán Magan。
最初はいかにもアイルランド、という野山海の景色を背景に、あるいはバーの床や扉の前にしてダンスを踊る姿 - これがIrish Danceだ、って紹介があって、続いてアイルランドだけじゃなくて、NYのDelancey St(なぜ?)の路上でも踊るひとが映されて、いったいどうしてIrish Danceはこんなに世界に広がっていったのか(みんな大好きなのか?)、という問いが投げられる。(少しだけほんとか? って)
ここから植民地として始まったアイルランドの受難の歴史とそれに対する庶民の抵抗と限られた娯楽として道端から家の隅から止まらなくなって広がって、飢饉で国外に渡った人々の間にも広がって、特にアメリカではアフリカからの奴隷とアイルランドからの移民労働者との間で火花が散ったりしつつ海外でも根付いて… という、歴史的にも地理的にも止まることのなかったステップの勢いと広がり - はっきりアイルランドの歴史に根ざしている - を紹介しつつ、なんでこの、地面や地面の上に置かれた板の上でシンプルに足をどんどこ踏み鳴らしていく垂直運動ばかりで、互いの身体を絡み合わせたり振りまわしたり、といった所謂ダンスの動きとは異なるああいうのに惹かれてしまうのか、をいろんな角度からいろんな人たちが語っていく。
もちろんはっきりした答えなんかないのだが、でもひとつあるのは、周りがみんなやっていたから、小さい頃から父も母もずっと踊っていたから、とか、ダンスの先生が宣教師のようにそこらじゅうに散らばって教えていったから、とか。これこそが伝統とか文化って呼ばれるやつなんだわ、っていうのと、それがアメリカの労使環境とかショービズのなかで他のとどう衝突したり磨かれたりしていったのか、とか。
個人的には相手とかいなくてもひとりで黙々と練習できそうなとこ - 楽器もいらない、床と靴があれば - あたりがよいなー、って。ヒップホップもそういうとこないかしら。
そうそう、パブでバンドつきで踊っているシーンで、ハープを弾いて歌うLiam Ó Maonlaíの姿が映る。彼のいるHothouse Flowersっていうバンドのライブはほんとにすばらしかったのよ(まだ活動してるけど) 。”Feet on the Ground"っていう曲もあったなー。
6.15.2023
[film] Peter von Kant (2022)
6月6日、火曜日の晩、ヒューマントラストシネマ有楽町で見ました。邦題は『苦い涙』。
François OzonによるRainer Werner Fassbinderの”Die bitteren Tränen der Petra von Kant” (1972) - 『ペトラ・フォン・カントの苦い涙』のリメイク。オリジナルのを見たのは30年くらい前だとおもうが、いきなりあれ見ても大変な世界だなあ.. くらいしか出てこなかったわ。
女性キャスト中心に演じられていたオリジナルを男性キャストにスイッチした際にタイトルは男性主人公の名前のみとなった。ここにはそれなりの意図があったと思うのだが、邦題は削られた方の「苦い涙」のみとしている。どうでもいいことなのかもしれないけど、あーあーだわ。オトコの「苦い涙」とかが大好物なにっぽんのオトコ…(しゃれであってほしい)。
70年代のケルンの一軒家(の二階?)が舞台で、カメラはここからほぼ外に出ない。
ここが映画監督Peter von Kant (Denis Ménochet)の住居兼スタジオで、あとは秘書のような身の回りの世話をする使用人のような、ずっとそこにいて口をきかないKarl (Stefan Crepon)がそばにぴったりついている。
そこにPeterがデビュー作を撮ってスターにしてあげた(と彼が自慢する)Sidonie (Isabelle Adjani)が若者のAmin (Khalil Ben Gharbia)を伴って現れるとPeterの目の色が変わって、彼にいろんなことを聞いて酒をすすめて、彼が身の上話を始めると撮影機材を使って彼を撮ってみたりして、ここにいたかったらずっといていいから、という。
Peterは熊のようにでっぷりして神経質、というよりはぜんぶ自分の思う通りにしないと/ならないとダメだイヤだの凶悪熊タイプで、それをまわすためにはハチミツではなく酒が必要で、そんな彼の雑用や言いつけを受けるKarlはがりがりの見開いた目がすべてを語るタイプで、このできあがった鉄板の主従関係 – やらかしてもクッションがある - もドラマの基調音としてある。
Aminを自分の手元に繋ぎとめるために、Peterは彼を自分の映画に使ったりパーティに連れていったりするのだが、それを続けていけばいくほどAminは自由を求めて好きにやりたいように振る舞い、かと思えばしおしお戻ってきたり、誰の目でみても哀れなPeterが弄ばれているふうなのだが、Peterは世界の中心にいるのは自分だ、って吼えまくって揺るがない。
密室で愛と嫉妬に狂って愛憎の見境いがなくなり、さらにそれを糧にむくんでより深い方に嵌って溺れて、という抜けられない泥沼模様を描く、というテーマについてはオリジナルと変わらないと気がする(要再見)のだが、まんなかにいきりまくる熊男を置いて、そんな熊が吼えたり悶えたりぶっ倒れたりを繰り返していくのって、本人にはわるいけどなんだかおかしくてたまんないの。これに関してはDenis Ménochetの演技がとてつもなくすごい。
そしてそのテンションは、彼の母(Hanna Schygulla)や娘(Aminthe Audiard - Jacques Audiardの姪なのね)がやってきても緩むことはなくて、オリジナル版で「当事者」だったHanna Schygullaに「あらまあ」などと言わせてしまうくらいに破廉恥にまるごとぶちまけていてすばらしいったらない。こんなふうなほぼ修羅場のじたばたのみの85分。
オリジナルのドイツの表現主義っぽい、モノクロで魂を掘りだすようにべったりねっとりしたアプローチが、フランス映画となることで(ポスターにあったような)ポップアートの表皮と肉にびろびろ乖離していくような、鮮やかにチャネルが切り替わるような、お料理をする楽しさおもしろさ。John Watersが大喜びしたのはこの辺の軽い手つき(キャンプとかいう?)だったのではないか。
François Ozonの作品の傾向として、ものすごくグロテスクだったり虐待に近いような所作や言葉をあっさりさらりと見せてしまい、場合によってはそれがきれいにおもしろく(それだけのものとして)見えてしまったりもするのだが、フィクションのありようとして本当にそれでよいのか、は少しおもった。今回も。
むしろ、いま見るべきはこれと同じ業界を舞台として丁度本日から(やっと来てくれた)始まる”The Assistant”の方だよ、って強引にもっていきたい。こっちは全く笑えないけど。(もう笑えないし怒ったほうがよい)
音楽はPeterがレコード盤をプレイヤーに乗せて流れるSidonie = Isabelle Adjaniの歌う“Jeder Tötet was er Liebt” = "Everyone Kills What They Love"とか、The Walker Brothersの“In My Room”とかがいちいちわかりやすく堂々と鳴り響いて、修羅場のサウンドトラックとしてはたまんないのだった。
もう1000000回くらいめだけど、ほんとこの国やだ。滅びてしまへ。
6.13.2023
[film] Ők ketten (1977)
6月4日、日曜日の午後、シネマカリテのメーサーロシュ・マールタ監督特集で見ました。
邦題は『マリとユリ』、英語題は”The Two of Them”。 彼女の作品の流れとしては『アダプション/ある母と娘の記録』(1975)→ “Nine Months” (1976) → これ、ときていて、前2作の要素やテーマが反復されているかんじもある。JuliとJánosの夫婦設定も”Nine Months”から継がれているし(赤ん坊は大きくなったし)。
寒そうな原っぱの中に建つ四角い建物(の影)がオープニングとエンディングに出てきて素敵。
この工員の寮の管理者であるMária (Marina Vlady)は冒頭に母を失って沈んでいて、他方で仕事場の寮では規則違反で寮に自分の子供を泊めたって、Juli (Lili Monori)が問題になって、その対応もありJuliの相手をするようになる。Juliにはアル中の夫János (Jan Nowicki)と女の子のZsuzsi (Zsuzsa Czinkóczi)がいて、どちらも言うことを聞いてくれないしもうどうしろってのよ、状態になっていて、MáriaはZsuzsiをそのまま泊めてあげつつJuliと話したり食事したりしていくうちに少しづつ距離が縮まっていく。
寮での仕事が中心で家にはほぼ帰らないMáriaには技術者の真面目な夫Feri (Miklós Tolnay)がいて、モンゴルへの長期出張の計画が、とか偉そうに言われるのだが、なんかうざいしもう好きにやってれば、になっていたこともありすべてをほったらかして勝手に奔放にやっているJuliが素敵に見えたのかもしれない。
『アダプション/ある母と娘の記録』にもあった母的な役割(期待)、娘的な役割(期待)のなかで居心地の悪さを感じていたふたりの女性の間に生まれる奇妙な連帯や友情が、ろくでなしに更に磨きをかけてどうしようもなくなった男たちを前に - 連中を蹴散らすかたちで - より親密なかたちで展開して止まらなくなる。(あと、別の縛りとしてあった寄宿学校は更なる規律と従属を求められる工員寮に)
四角くて寒そうな建物のなかの部屋とかベッドなどが – “Nine Months”のJánosの部屋と同様にあって、でもそこで横になって何かをやろうとしてもちっともうまくいかなかったり。
こうして、Máriaの夫には卵を割った直後のフライパンがすばらしい速度でぶちまけられ、アル中治療の施設に入ったJánosには拷問のように胡散臭い治療が施され、とにかく男には容赦ないし、子供はどこまでも言うことを聞かないし。そういうもんよ、見ろ! くらいのー。
Szép lányok, ne sírjatok! (1970)
6月9日、金曜日の晩に見ました。 英語題は“Don't Cry, Pretty Girls!”。モノクロ。
青春音楽映画で、当時のハンガリーのフォークとかサイケとかビート・ミュージック(っていうの?)が軽快に流れて(出てくるバンドも当時の有名なのばかりらしい)、そこで歌われる歌詞もストーリーの要素になっている。シネマカリテの上映前にはこれのサントラの1曲がいつも延々ぐるぐる流れていて、通っているうちちょっと頭がへんになるかと思った。
工場の脇の宿屋で働いているJuli (Jaroslava Schallerová)は工場で働きながらぷらぷらしている若者のSavanyú (Márk Zala)と恋人同士で、婚約して結婚式をあげるところまで話が進んでいるのだが、バンドのツアーで立ち寄った白いチェロ弾きのGéza (Lajos Balázsovits)と目が合った途端に恋におちて、彼に誘われるままにバンドにくっついて一緒に旅をしていくことになって、それを知ったSavanyúとその仲間はふてえやろうだ、ってJuliとGézaを追っかけ始めて…
でも逃げたふたりの行動に裁きを! のような映画ではなくて、そんなの別によいから恋せよ乙女、旅せよ少年、みたいに大らかな話で、しかも最後は結局もとの鞘に収まるので、なーんだ、になったりする。世界も原っぱもこんなにも大きく広がっているのだから踏み外したっていいじゃん、くらいのノリで。
仮にここを起点としてみると、↑ の主人公たちが結婚してから後の諸作のきつさ、辛さがなんであんなふうに描かれたのか、少しわかる気がした。画面のどこを切ってもスタイリッシュでかっこよくて、そんな彼や彼女が家屋や工場のなかに追われて囲われていくかのような。
最後の方でタイトル - “Don't Cry, Pretty Girls!”が歌詞に含まれた歌が流れるのだが、そのあとに”Don’t Cry, Pretty Boys!”って続いてから「人生は~」みたいになるの(..よく憶えていない)。どっちにしても楽じゃなさそうだねえ。
ここまでで今回の特集の5本は終わりなのだが、この程度で終わられてしまっては困る、というくらいにまだ見えていないものがある気がしていて、要はすごくおもしろかったので、次をお願い。まだ”The Girl” (1968)も”Diary for My Children” (1984)も見れていない。 Chantal Akermanと同じように春の恒例になっていってほしい。
6.12.2023
[film] Torch Song Trilogy (1988)
6月3日、土曜日の午後、渋谷のEuro Liveでの『サム・フリークス Vol.23』という上映イベントで2本見ました。80〜90年代のNYで、どうやってパートナーを見つけたり失ったりするのかについてのコメディ。趣旨も含めてどういう催しなのか知らなかったのだが、おもしろそう。
Walking and Talking (1996)
これは2018年にBFIの”Girlfriends”という特集で見ていたのをBilly Braggが音楽担当と聞いてあーあれだったかー、って思いだした。00年代以降、脚本も含めて佳作をいっぱいリリースしているNicole Holofcenerさんの長編デビュー作。
幼馴染のAmelia (Catherine Keener)とLaura (Anne Heche)が仲良しのまま大きくなって、セラピストのLauraは同居しているFrank (Todd Field)と結婚間近で、セラピーを受けたりしているAmeliaはがさつな元カレのAndrew (Liev Schreiber)とかレンタルビデオ屋の店員Bill (Kevin Corrigan)とかの間をどうしたものか... って行ったり来たりしていて、互いに互いの近況とか将来のことが気になったりぶつかったり(Walking and Talking)を繰り返しながら、とりあえず歩いていく。まんなかのふたりが最高にキュートでわかりすぎておもしろくて、それらをBilly Braggの音楽が温かくやわらかく包んでいて、5年に一回くらいは見直したくなる都会のお話し。そんなうまくいくわけない、ってみんな思うかもしれないけど、彼女たち、べつにそんなうまくいってないし。
Ameliaの飼い猫のBig Jeansがかわいくて、でも彼は癌で飛び降り自殺しちゃうの..
あと、かかってきた留守電をたまたま聞いちゃったりとか、レンタルビデオ屋(という特殊な磁場)とか、後世には脚注が必要になったりするのかしら?
Frank役のTodd Fieldは今や” Tár” (2022)の監督として有名になってしまったが、この頃はこんなにかわいかった(やや変態 - やっぱり変態)のよ、とか。
Torch Song Trilogy (1988)
上のに続けて同じ場所で。Harvey Fierstein作・主演による劇作(1982年初演 - トニー賞の作品賞と男優賞をとった)の映画版で、監督はPaul Bogart。タイトル(だけ)は何度も聞くクラシックなのに見たことなかった。
1952年のブルックリンに生まれたArnold (Harvey Fierstein)は幼い頃からひとり女装したりするような子で、でも騒いだりするMa (Anne Bancroft)を置いてとりあえず大きくなって、71年の彼はNYのStudっていうバーでドラァグクイーンとして仲間たちとショーに出ていると、バイセクシュアルだという教師のEd (Brian Kerwin)と知り合って恋におちるのだが、Edの横にはガールフレンドのLaurel (Karen Young)もついてきて、それがどうにも気に食わなくて別れる。
続いてバーにやってきた若いモデルのAlan (Matthew Broderick)と知り合って、Ed(とLaurel)のいる田舎に行ってふたりで本当にこの先やっていけそうかどうかなどを確かめて、ふたりして養子を貰うことを考えて大きなアパートに引っ越すのだが、引っ越した初日にAlanはホモフォビアの連中に殴り殺されてしまう。
1980年、Maがフロリダからやってきて、自分の息子がティーンの養子のDavid (Eddie Castrodad)を育てていること、そこに大人になってよりを戻したEdがいることについてなんだか鼻息が荒くて、でも諦めたのか納得したのか帰っていって、とりあえずなんとかなりそうかな、って。
これが「トリロジー」の大枠で、もっとArnoldの独白がいっぱいの、悲しく悲惨な語りが中心のかと思ったらそうではない、歌とステップと時々ブルースにのってじたばた軽快にあれこれ乗り越えていく(乗り越えようとする)お話だったのでよかった。ArnoldがEdと、そしてAlanと出会って恋におちていく瞬間(みるみる)の、そこから始まる最初のなにかとうまくはまらずに苛立ったりのかんじとそこから馴染んで弾んでいくとこ、Alanを失ったことが判った瞬間の光が失われていく様子などが、ぜったいに忘れるもんか、の強い思いと共に切り取られていて、これはHarvey Fiersteinが舞台の頃から自分の物語としてずっと見つめて揉んできたというのもあるのだろうか、とてもすんなり入ってくるドラマだった。
70年代だとStonewallの傷もまだ癒えず、80年代だとじきにエイズ禍もくるので、ほんとうに時代の合間に、なんとか自分たち(ふたり)で自分たちの場所を見つけようとその方角や地軸を模索していたゲイたちの精一杯の”love and respect”のお話し。それがいちばん身近なとこにいたMaとの決着と共にクリアされる(されてないのかもだけど)のは、よかったねえ、って。
いろんな(主に)コメディで、あの独特のダミ声で世界を和ませてくれる彼/彼女はこうやってここにきた/いる、というのを見せてくれて、それはちっとも変なやつじゃない、ずっとここにいてほしいよ、って抱きしめたくなるようなやつなのだった。
6.11.2023
[film] Count the Hours! (1953)
6月3日、土曜日の昼、シネマヴェーラのドン・シーゲル特集で見ました。
邦題は『暗黒の鉄格子』。原題についている”!”はオープニングタイトルには付いていなかったような。
モノクロのシャープな撮影は”An American in Paris” (1951)で見事なカラーを見せてくれたJohn Alton。
夜中に牧場主のFred (Richard Kipling)の家に侵入して何かを漁る影と音があって、それに気づいたFredは猟銃を持って追いつめようとするのだが逆に撃たれて、外に逃げて助けを求めようとした家政婦も背後から撃たれて亡くなる。
すぐに疑われたのが隣に移り住んできたばかりの使用人のGeorge (John Craven)とEllen (Teresa Wright)の夫婦で、よそ者だったということもあり問答無用で問い詰められて、銃なんて持っていない、とDougが言った途端に銃を湖に捨ててきたわ! とEllenが走りこんできたのでアウト。
周囲からの信頼も厚く、お金持ちのご婦人との結婚も控えた弁護士のDoug (Macdonald Carey)は、負けるに決まっているこのケースをひょっとしたら… と受けてみたもののやっぱりダメっぽくて、決定的な証拠になるはずだった銃をようやく発見しても判定困難にされ、ずり落ちていくように希望を絶たれて全負けして評判を失ってもう後がなくなり、Georgeも絞首刑の執行が決まってしまったところで、Georgeの前任の使用人でアル中で前科のあるMax (Jack Elam)が線上に浮かびあがり…
Georgeと妊娠中のEllenは見て話してみれば善人に決まってるのに、最初に警察とご近所がもう少し協力して真面目に捜査していればこんなことには、ってまどろっこしいのの典型なので、ドラマとしての盛りあがりには欠けるのだが、なかなか決定打に届かずにううーって仰け反ってばかりで苛立つところと、ほんとに一切、なんの関係もない彼らがあんなことに巻き込まれてしまうなんていくなんでも.. という辺りの生々しいうんざり感とか、弁護士界隈と町の辺境のノワールとのギャップとか、ちっとも昔とは思えなくてすごいなー、って。
Northern Pursuit (1943)
6月3日の夕方に同じとこで見ました。邦題は『北部への追撃』。
監督はRaoul Walshで、Don Siegelは助監督、Based on a true storyの原作はLeslie T. Whiteの小説 - “5,000 Trojan Horses" (1943) - スクリプトにはWilliam Faulknerが関わっているそう。
海の底から始まって最後は空の上でのどんぱちになり、”Mission Impossible”か”Die Hard”か、みたいに荒唐無稽なアクションがてんこ盛りでばたばた人が殺されたり死んだりしていくのだが、勢いで最後まで滑っていっちゃうのはRaoul Walshとしか言いようがない。
カナダの凍った入り江に突然ドイツの潜水艦が浮かびあがって、そこから出てきたHugo von Keller (Helmut Dantine) らドイツの(見るからに)軍人たちがスキーを履いて内陸を目指す。のだが、途中で雪崩にあったり散々で、そのうち山岳警察のWagner (Errol Flynn)に捕らえられ、Wagnerはドイツ人ルーツで独語を喋れたので、ここ以降の彼はHugo達からはこいつ使えるかも、っていいように使われて、カナダ当局からはこいつドイツの協力者かスパイではないか、って疑われてどうするんだどっちなんだ? ってなる反対側で、そんなことよりあたしたちじきに結婚するんだからね、と婚約者のLaura McBain (Julie Bishop)がなにかと強気に首を突っ込んでくる。
捕らえられたHugo一派は捕虜収容所を脱走した後、Wagnerを強引にガイドに立てて山の向こうのある地点を目指して、そこに辿り着くまでに仲間のErnst Willis (Gene Lockhart)やWagnerの同僚を次々と消していくのだが、その先にあったものとは —。
これ、あんな苦労して追ったり追われたりして山奥を目指すのなら最初から小さい爆弾をいっぱい持ち込んで爆破とかしていった方が効率よかったのではないか、とか。第二次大戦中にドイツ軍がカナダとか東海岸周辺で破壊活動をしていたのは本当だって。
ドイツ軍人のHelmut Dantineはいかにも、っていうかんじの強さなのだが、Errol Flynnがちっとも強そうに見えなくて、あんなんでいいの? にはなった。婚約者とそのパパとのエピソードにはなんとか収まるのだが、アクション系のとこがなー。
6.09.2023
[film] Nil by Mouth (1997)
6月2日、台風が来るとかで大雨の金曜日の晩、菊川のStrangerの『1980-2000年イギリス映画特集』で見ました。この5本、すべて長編監督デビュー作で、見たことのあるのもあるしそんなに見たくないのもあるし。
Gary Oldmanがこれまでに作・監督した唯一の作品で、プロデュースはLuc Besson、音楽はEric Clapton。
97年のカンヌでKathy Burke が最優秀女優賞を、98年のBAFTA AwardでAlexander Korda Awardと脚本賞を受賞している。スタッフの並びだけでじゅうぶんに男臭く、内容はいろんな中毒に家庭内暴力と罵詈雑言まみれ – “fuck”が428回、”cunt”が82回発話される – で、それらがどうにかなる話でもなんでもなく、その状態のまま氷漬けにされて抜けられなくなっている家がどんなふうなのか、をうんざりするような解像度、生々しさと完成度で固めてあるので見たくない人は無理して見ないほうがー。あと、日本語字幕がないと結構きついやつ。
冒頭、コメディクラブで楽しく飲んでいるRaymond (Ray Winstone)の一家が紹介される。やや荒んだサウスロンドンに暮らしていて、妻のValerie (Kathy Burke)がいて、ふたりの間のまだ幼い女の子がいて、Valerieの弟のBilly (Charlie Creed-Miles)がいて、Raymondの傍らにはいつも相棒のMark (Jamie Foreman)がべったり貼りついている。
ご機嫌に豪快に酒をあおったり奢ったりするその様子から彼らが堅気ではないことはわかるのだが、それに加えて常にらりらりで酒を飲んでドラッグ(コカイン)をやって、それは彼らの使いっ走りをしているBillyにも及んでいて、RaymondがへまをしたBillyをしばくとValerieが怒り、更にValerieの母で工場勤務のJanet (Laila Morse - Gary Oldmanの実姉)まで出てきて、ほのぼのファミリーコメディーとは真逆の、なにかと家族が全員集合して睨みあいしばきあう日常が描かれていく。
これを強力にドライブするのがアルコールとドラッグで、前半にはドラッグを漁って姉の家を引っかきまわしたBillyがRaymondに吼えられて鼻を噛まれて血まみれになり、後半にはビリヤードをしていたValerieに疑いをもった泥酔状態のRaymondが彼女をぼこぼこに殴る蹴るして、結果彼女は流産してしまったり、どちらも大母Janetが彼女の子供たちを守るために悪態つきながら立ち回るのだが、暴力をふるったのがRaymondであることは明らかなのに、彼を警察に突きだすことはせず - 傷だらけになったValerieは車にぶつけられたのだ、とJanetに説明する(JanetはRaymondがやったことはもちろんわかっている)、BillyもRaymondも依存から抜けられず、その痛痒い状態をずっと内にためたまま「家族」を維持していく。
なんで? と。 なんで彼らを通報して楽にならないの? とか、ブチ切れたBillyがRaymondを背後からやっちまうのではないか、とか思うのだが、そちらには向かわない。暫くの間、Valerieは実家に戻ってRaymondが会いにきてもほぼ無視して彼はひとりで萎れてぼろぼろになって自殺しようとして病院に入るのだが、そこで彼は自分の父親による止まなかった虐待の話をして、そのなかで“Nil by Mouth” – 口のなかが空っぽ(Nil)でなにも喉を通っていかない状態だったようなことを語る。そうやって育った子はそういう家庭を作る、って言われるケースそのものなのだが、エンディングに"In memory of my father"と出るようにこれはGary Oldmanの父親の話 - 懐かしむのでもなく哀悼するのでもなく、こんなだったよ、ってドライに切り取ってほい、って投げてくる。
エンディングはなにも起こっていなかったかのように冒頭と同じく家族一同が揃っての和やかなパーティのシーンで、バンド演奏でValerieの祖母が"Can't Help Lovin' That Man"を歌う。そこに被せられている歌声はGary Oldmanの実母のそれなの、とか聞くと、なんかすごいな、って。
愛しているっていう相手に酷い暴力を振るうのも、その相手を通報して牢屋に送ろうとしないのも、戻ってきた彼を受け容れてしまうのも、ぜんぶよくわからなくて、そのわからなさを「なあ、わかるだろ?」というふうには描いていない。わからない、咀嚼できない状態をそのまま映しだしていて、この状態もまた”Nil by Mouth”なのだと思った。この世界に囚われて固まってしまった監督Gary Oldmanはこれ以降に撮れなくなってしまったのではないか。
中盤の連鎖していく/逃れようのない暴力シーンは本当にしんどかったものの、登場人物は誰も消えてなくならない、これをしんどいと思うかこれでよいと思うか、これはこれで凍りついたひとつの世界を形作って、べったり後に残るものではなかった。
英国の映画館で映画を見るとき、予告篇の枠でDVやめよう、のキャンペーンCMが流れることがよくあって、それを見ると本当にこの映画の逃げ場のない動けなくなるかんじそのもの(20年以上経っているのに)だったので、間違いなくこれってずっと続いている世界なのだろう。
6.08.2023
[theatre] National Theatre Live: Life of Pi (2023)
5月30日、火曜日の晩、Tohoシネマズ日本橋で見ました。
原作はYann Martelによるブッカー賞候補となった同名小説(2001)、Ang Leeによる2012年の映画版はAng Leeにオスカーの監督賞をもたらした。つい「ライフ・オブ・”ぴ”」って呼びたくなるやつ、の舞台版。2019年にシェフィールドで初演された。Lolita Chakrabartiが脚色し、Max Websterが演出して、すばらしいパペットのデザインはNick BarnesとFinn Caldwellによるもの。2022年のOlivier Awardを5部門で受賞している。
映画版は2012年のNYFF (50th) の初日のプレミアで見た。上映後の会場は大喝采だったがものすごく変な映画かも、という印象を拭うことはできず、でもぐっしょり濡れてしおれたRichard Parker(虎)とか、あんなところにいるとは思えないミーアキャットの大群にやられた、というか主人公と同様に振りまわされて最後の方は疲弊してどうでもいい - なんでもこい!になってしまったというか。
これが舞台化されるとしたら、映画にあった沈没や動物たちのスペクタクルは特殊効果やパペットに頼ることになるだろうし、その結果として子供向けのわかりやすいの(例えば、諦めずにがんばって生きよう!みたいな)になったらやだな、とか。(その心配はいらなかった)
冒頭は病室にベッドが一台、そこにメキシコのカナダ大使館(船はカナダを目的地としていたから)の職員と保険会社の社員が現れて、船が台風で沈没し、227日間漂流して生き残ったという16歳のPi (Hiran Abeysekera)に事情聴取をしようとしている。日数や発見された時の状況を考えると彼ひとりでこの事態をサバイブできたのは奇跡としか言いようがないので、なにか嘘をついたりズルして隠したりしているのではないか、と疑っている。
初めは誰もいないと思われたベッドの下に隠れていたPiをバナナで引っぱりだしてみると、彼は明らかにPTSDで苦しんでいて、ここから先、期限が迫っているので焦ってPiの供述をせっつく保険会社の人(日本人)を前に支離滅裂な言動とアクションを繰り返す現在の彼と、過去の冒険譚のただなか - 海の上にたったひとりで勇ましく吼えて生き抜こうとする彼が切り替わっていく - 劇中の演技であれば見事、って思うけどこのアップダウンがライブだったら相当やばそうな。
ベッドのある病室から出発前のインドのホームタウンとか、引越し荷物や動物たちを積み込んだ船内、更には沈没後の救命ボートまで、Piの頭のなかのスイッチに応じてテーブルクロス引きのように一瞬で切り替わって海の上にぶわん、って広がる舞台装置が見事で、まるでマジックを見ているようで、そのマジックの絨毯は彼が遭遇した危難や奇跡の局面や断面にシンクロしていく。その幻惑されて引きずりこまれるかんじは映画の特殊効果のそれとは明らかに異なるし、小説でも難しいかもしれない。
そして、そういう装置の間で、というよりこれら装置の一部であるかのように自在に動き回る操り動物たち - シマウマ、キリン、オランウータン、ハイエナ、カメ、そしてもちろんRichard Parker(虎)の動きがすばらしい。彼らはみんな海の底にいってしまった亡霊のようなものなので、ああいう形状をしてああいう動き – なんとなく獅子舞のよう - になるのはわかるし、それは何度でも生と死の周りでダンスを舞いながらやってくるだろう。
他方で、ここで示された病室と夢の世界の往復運動が損なってしまったのが、映画の最後の方で描かれた世界のどこかにありえたかも知れない、Piの周りにいた家族みんなが向かっていったと思われる極楽浄土的な永遠に続くなにか(π)で、ミーアキャットのうじゃうじゃコロニーを見せるのは難しかったかもしれないけど、あそこはちょっと見たかったかも。それに近い話で、原作にあった(映画にも少しは)と思われる仏教的な死生観のようなところは、このよくもわるくもどたばたした劇のなかでやや後ろに下がってしまった気がする – あの動物たちはお盆に帰ってくるあれらなのでは、とか今思った。
あと、映画ではたしか中年になったPiが過去を回想する形式で、それは”Life of Pi”というタイトルそのままのひと連なりの絵巻物になっていたと思うが、この舞台は、病院の一室で監視される病人としてのPiと、その脳裏に煌めき点滅していた生命のうねりが躁状態で行ったり来たりして、そんな対比の中にある”Life”もちょっとしんどいかもなー、などと。
6.07.2023
[film] Örökség (1980)
5月28日、日曜日の昼、シネマカリテのメーサーロシュ・マールタ監督特集で見ました。
邦題は『ふたりの女、ひとつの宿命』、英語題は”The Heiresses”(”The Inheritance”というのもある)。
“Kilenc hónap” (1976) – “Nine Months”の中心にいたふたり - Lili Monori - Jan Nowickiの間にIsabelle Huppertが入る。この作品と比べてみておもしろいのは、どちらも男女の三角関係(女性2+男性1)を描いていながら”Nine Months”が男性(Jan Nowicki)の方が嫉妬で狂うのに対して、こちらは女性(Lili Monori)の方が狂う話であること。どちらも子供をつくる/もつことが物語上で大きな意味をもつのだが、”Nine Months”における子供は(その時点の)ふたりの関係のシンボルのように扱われているのに対して、こちらはタイトル通り相続/継承のための道具のように扱われること。そして”Nine Months”の舞台は現代であるのに対し、こちらは1936年から1944年の第二次大戦期である、等。そして共通しているのは主人公である彼女たち女性 – 特にLili Monori - がイエや家庭から疎外されて明らかに幸せな状態に置かれていない(ように見える)、ということ。
ハンガリーの裕福な貴族で城のような邸宅に暮らすSzilvia (Lili Monori)は、記録映画や写真を撮ったりしているぱりっとした軍人のÁkos (Jan Nowicki)と結婚するのだが、彼女は不妊症で、このままでは自分の家の遺産を相続できない(し手放すわけにはいかないし)ので、店員をしていて健康そうな友人のIrène (Isabelle Huppert)に声をかけて、自分のためにÁkosの子供をつくって産んでくれないか、と持ちかける。もちろん謝礼はたんまり。
最初は嫌だと言っていたIrèneもÁkosとふたりで会って話したりしているうちに気が変わってきたのか、やがて彼との間に子供が生まれて、でも生まれた子は当初の約束通りすぐにSzilviaに取りあげられてしまう。でもそこからよくある代理母の是非(情とか恨みとか)や生みの親 - 育ての親のあり姿について問うような方には向かわない。
この件以降、交尾/出産とは特に関係なく親密になってしまったらしいIrèneとÁkosを陰とか横で見ていたSzilviaが嫉妬なのかなんなのかぼろぼろに崩れていって、その状態でIrèneはユダヤ人であることを当局に告発されて捕まり、そのうちÁkosも軍人の地位を追われて、空っぽの表情で繋がれて連行されていくIrèneとそれを見つめるÁkosの姿でおわるの。
古いフィルムの中で再現される戦争の時代や(旧)貴族階級のありようや価値観ゆえの- というのはあるのかないのか、そりゃあるけど、そんなに激しくはないような – そんなのあってもなくてもどっちにしてもきついしだるいしやってられなくて、そこは今のとそんな変わらないのではないか、とか。
Isabelle HuppertさんがÁkosの去った後に、花瓶に差してある花束の花の首をひとつひとつ無表情に切り落としていくところがすごい。この時の彼女、これと並行して『天国の門』(1980)も撮っていたって… 両方ともめちゃくちゃしんどい役なので震える。
Örökbefogadás (1975)
5月29日、月曜日の晩、シネマカリテの同じ特集で見ました。
邦題は『アダプション/ある母と娘の記録』、英語題は”Adoption”。 メーサーロシュ・マールタがベルリンの金熊を女性として初めて受賞した作品だそう。画面は粗めのモノクロ。
43歳で工場で働きながらひとり一軒家に暮らすKata (Katalin Berek)は健康診断を受けて、今からでも子供を産むことは可能か? と聞いたりして、答えはYesだったので、ずっと付きあっている妻子持ちのJóska (László Szabó)に持ちかけてみるのだが相手にされない。
ある日、近所の寄宿学校 - 親に棄てられた子たちが集められたとこ- に暮らすAnna (Gyöngyvér Vigh)が家に訪ねてきて、彼と会う場所がないので昼間家を貸してくれないか、と聞いてきて、だめだ、と返すのだがAnnaのことが気になったKataは話したり一緒に食事に出たりするようになり、家にはAnnaの彼のSanyi (Péter Fried)も出入りするようになる。
Kataは最初Annaを自分の子にできないか、と思うのだが断られたので諦めて、でもずっと家の隅でいちゃいちゃしてて仲のよさそうなAnnaとSanyiは一緒にさせてあげたいから、とAnnaの両親のところに出向いてふたりの結婚の許可を取り付けて、自分は施設から養子を貰うことにするの。最後はAnnaとSanyiの結婚パーティなのだが、新郎新婦はもう喧嘩したりしているし。
どうしてKataはそんなに母になりたいのか、なろうとするのか、どうしてAnnaは(よい)娘でいられなかったのか、ふたりのぎこちない(そんなにうまくいくとは思えない)試みを通して、女性たちの幸せのありようと、その阻害要因で有害なだけでほんとどうでもよい男たち – ここだとJóskaとかAnnaの父親の姿を晒す。そんな男たちのくそどうでもよい存在の軽さを描くところはChantal Akermanのそれに近いが、あれよりもう少し悪意と敵意があるような。
黒猫がいたねえ。
それにしてもこの気圧はなに?
6.06.2023
[film] Women Talking (2022)
6月4日、日曜日の昼に日比谷Tohoシネマズのシャンテで見ました。
邦題は『ウーマン・トーキング 私たちの選択』。 ↑ の最後のところ- 『ぼくたちの哲学教室』を見ていて、女子たちはどうやって地元の男性による暴力から身を守ればよいのだろう? という問いが浮かんだあと、この映画を見たらどこかが繋がる気がした(ので先に書く)。
原作はカナダのMiriam Toewsによる同名小説(2018)、脚本・監督はドキュメンタリー”Stories We Tell” (2012)から10年ぶりとなるSarah Polley。画面はモノクロではないが、濃い茶緑系にグレーディングされている。
冒頭、太腿が痣まみれになっている女性が目覚め、顔を苦痛で歪めて、また起こったと母親を呼ぶ。
ボリビアの人里離れたところに暮らす保守的な - 電気、電話、自動車不可、女性は読み書き、本を読むことを禁じられている等 - 宗派メノナイトのコミュニティで通報により9人の男たちが捕まる。彼らは2005年から2009年にかけて3歳から60歳までの女性(後で男性も被害を受けていたことがわかる)に家畜用の鎮静剤を飲ませて夜間に集団レイプを繰り返していた。女性たちが痛みや出血を訴えても、更に妊娠したり死亡したりしても妄想や天罰や悪魔の仕業であるとして誤魔化したりしていた。
2010年、目撃証言から男たちが芋づるで逮捕され、他の男たちは彼らの保釈を見守るために村から出て行き、女性だけになった集落でこれからどうするか – このまま何もしないか、男たちと戦うか、ここを出ていくか - の話し合いがもたれる。会話に参加できる女子は子供から老人までほぼ全員。会議の書記を文字を書くことができる教師August (Ben Whishaw)に頼んで、記録としても残す。期限は男たちが村に戻ってくるまでの2日間。
はじめは長老らしき女性(Frances McDormand)がこういうこともまた神の… とか神と時間がすべてを解決してくれる(のでなにもしなくてよい)というのだが、ありえない(ここに神なんているもんか)、と強く退けられ、議論は踏みとどまって戦うか、出ていくかの2択となり、母、娘、暴行により傷を負った女性、レイプにより妊娠してしまった女性、パニック障害に襲われる女性、守るべき子供をもつ母親、などなど、それぞれの立場からの発言が出て、その内容について、彼女たちがどちらを選んだのかについては映画を見てほしい。Rooney Mara、Claire Foy、Jessie Buckley、Sheila McCarthy、すばらしい女優たちによる渾身の語りと身振りの強さ、見事さ、そしてそれが全く反対の立場からの発語であっても、手をとりあって星の方角に縒りあわされていく共感の、理性の魔法 - と言ってはいけない。それは起こるのだから。
冒頭に出てくる文言 - “What follows is an act of female imagination” – そしてタイトルの“Women Talking”。ここには二重の意味があって、外からは、結局女性が内に籠ってなんか喋っているだけ(想像しているだけ)じゃん、に見えてもそれらが強い思いをもって束ねて重ねられたとき、とてつもない強度で現実をなぎ倒すのだ、と。彼女の前作 – ”Stories We Tell”も「語り」についての – それが想像もしなかったような現実を暴きだしたりしていた記憶があって、それは今作の目の前にある恐怖に満ちた過酷な現実をなんとかする方向とは違うのかもしれないが、でも、そこにあるのはまず拳や銃ではなく理に貫かれた言葉であり対話(であるべき)なのだ、ということではないか。繰り返しになるけど、映画のなかでやりとりされる言葉の深くて強いこと - 赦し(forgiveness)は許可(permission)と混同されてしまうのだ、とか。
この閉ざされた世界で(書き)言葉を司るAugust – たまに怒鳴られてべそかいたり下を向いてしまったりする彼の、言葉の力を知っているが故のパワーレスなかんじがとてもよくて、世界の男性の半分くらいはBen Whishawになるべきだ、って強く思った。(ほんとは全部でいい)
あと、宗教に起因したコミュニティである、という点については注意が必要で、だから宗教って怖いよね、にしてしまうのは少し違って、宗派関係なく女性に対するこういう暴力や脅威はそこらじゅう至るところにいくらでもあるし起こっているのだ、とそちらのほうを見るべき。
もし彼女たちがそのまま残ることを選択したら、その先には”The Crucible” - 『るつぼ』のような世界 - 魔女狩り - が待っているのではないか。どっちにしても真っ暗なのだが。
あと本当は、”Men Talking”として、この犯罪を誰がどうやって始めたのか、それはなんで4年間も誰にも制止されることなく続いていったのか、についても暴かれるべきなのかも。誰もがそんなの見たくない、というであろうその先をー
6.05.2023
[film] Young Plato (2021)
5月28日、日曜日の午後、ユーロスペースで見ました。 邦題は『ぼくたちの哲学教室』。
アイルランドのドキュメンタリー映画で、DOC NYC2021でプレミア上映された。監督はアイルランドのNeasa Ní Chianáinとベルファスト出身のDeclan McGrath - “Lomax in Éirinn” (2018)を撮ったひとだ - のふたり。
北アイルランド、ベルファストの北部にあるホーリークロス男子小学校(Holy Cross Boys’ primary school)の校長先生Kevin McAreveyが車で出勤するところから。スキンヘッドでElvis Presleyを車内でかけてご機嫌で、彼は柔術もやっていて、過去にはお酒で悪いこともしたりしたらしいのだが、この先生が10歳~11歳くらいの男の子たちを集めて行う「哲学教室」の様子が中心。 哲学教室なので、プラトンやアリストテレスやセネカや、そういう名前も出るし、その教室には彼らの肖像や言葉が貼ってあったりもするのだが、彼らの教えや史的な意義について講義するわけではもちろんなくて、彼らが考えを転がしていったその道筋をガイドとして紹介しつつ、まずは自分たちで考える、それを先生と生徒ひとりひとりの対話を通して行う、というところがおもしろい。
おもしろがってはいけないのかもしれないけど、これは授業をする枠の時間が終わったら終わり、というものではなくて、あとになって必ず実践的なテーマとして返ってくるので、繰り返し考えないわけにはいかなくなる。それはなにかというと、例えば暴力について。人から嫌なことをされたとき、どう反応・対応すべきなのか? やり返さないと弱虫と思われて繰り返される、親からはやられたらやり返せ、と言われた等、ごくふつうの返答が返るなか、(例えば)なんでそういうことをしたのか聞いてみる、とか。自分がされたらどう思うか聞いてみる、とか。
その答えは、当然だけどひとつではないし、正解があるわけではないのだが、ひとりひとりが自分に起こったこと(誰もがみんな経験している)として考えて言葉にする - 書いてみる、更にそうして言ったこと-書いたことを実践してみる、それをみんながやっていけば、暴力をふるったり、それが広がったりする可能性は小さくなっていったりしないだろうか? みんな好きで暴れたり他人を傷つけているわけではないのだから。(甘い?)
そして勿論、現実世界ではその筋書き通りに運ぶわけはなくて、複数の生徒によるいじめや喧嘩のようなこと、その繰り返しはふつうに起こってきて、連絡を受けた校長先生はその場にいってその生徒と話して、どうした? なにがあった? なんでまたおこった? じゃあ次にどうする? を聞いて、それを更に掘って子供たちと一緒に確かめるために(悪いけど、と告げて)「居残り」をさせたりする。
子供たちがひとりで真剣に考える表情とか、Kevinの他にもうひとり子供たちのケアをする女性の先生と子供たちのやりとりとかもよくて、深刻でつらいトーンにならないところもよいの。校則や道徳や躾、といった、まず型に嵌めること前提のものではない、まず彼らに考えさせたり言ってもらったりが先、そういう風通しのよさがある。
他方で、もともと荒れた地域で、党派や宗派が争い、粗暴な警察や軍が道端で幅をきかせてて、酒場がありドラッグディーラーがうろうろしてて、そういう環境のなかで育つというのはどういうことなのか、哲学以前に「やられたらやりかえせ」は生き残るために必要な術なのではないか、とか。たしかに①親にそうしろと言われた ②まわりの集団(意識)がぜんぶそう - 暴力だと思っていないとか ③アルコール&ドラッグで理屈が通らない状態、等だったらいくら学校でよいことを学んだってきついよな。 なので授業のなかでは、親が「やられたらやりかえせ」と言ってきた場合の対応の仕方、とかもロールプレイしてくれたり。役立つ。
こういう真の意味での「知恵」を植えて育てるのは道徳なんかではなくて哲学なんだよなー、って改めて思うのと、ほんとに日本の教育ってどうしようもないところまで来ているよね。(最初に仕込まれるのが上の言うことを聞けとか周りになじめ、だもの。ありえないわ)
映画はKevin先生えらい! にするのではなく、いやまず学校だし生徒だから、と学校脇の壁面に実際に考えて学んでえらかった生徒の肖像をでっかく描いて終わる。やはりそっちだよね。
あとひとつ気になったのは、少しだけ出てくるホーリークロス女子小学校のほう。歩いているだけで野次られたり、男子の方よりさらに生きるのはきついのではないか、とか思ったりしたのだが、大丈夫かしら?
6.04.2023
[film] Creed III (2023)
5月27日、土曜日の夕方、109シネマズ二子玉川で見ました。IMAXで撮られたそうなのでIMAXで。
三部作の完結編で、邦題は『過去の逆襲』とかだそうだが、『クリードさん』でいいじゃんか。
過去の2作は、機内のも含めて確か見ている。が、”Fast & Furious”シリーズ同様、ぜんぜん残っていない。その前の”Rocky”シリーズは1作目も含めてほぼ見ていない。殴り合いを見るのが嫌なのと、まだ子供でそんなにお金なかったので。ではなんで”Creed”だと見れたのか、たぶんアクションがハイパーリアルすぎて特撮モノのように見れてしまったからではないか、とか。
これまで作・監督をしてきたRyan Cooglerはプロデュースにまわり、主人公だったMichael B. Jordanが監督をしていて、レビュー等を見る限り、この交替、というより後は任せた/任された、の関係はうまくいったようなかんじ。
冒頭、90年代初めの頃のLAでまだ小さい - 中学高校くらい? のAdonisと兄貴分だったDamianの起こしたちょっとした事件が流され、そこから現代のアフリカに飛んでAdonis Creed (Michael B. Jordan)は自分の引退試合をしていて、「肉を切らせて骨を断つ」とかよくわかんないことを呟きながらとにかく勝って、有終の美を飾る。
ずっとチャンピオンだった彼の傍らには妻のBianca (Tessa Thompson)と娘のAmara (Mila Davis-Kent)がいて、Biancaは歌手だったが耳を悪くしてレーベル経営とプロデュースに専念するようになり、Amaraには聴覚障害があるので彼女との会話は手話中心になるものの豪邸でみんな仲良く不自由なく暮らしている。
ある日Adonisのジムに刑務所から出てきたばかりだというDamian (Jonathan Majors)が現れ、再会を祝してダイナーで食事をしながら昔のことを話すのだが、Adonisには何か - おそらく冒頭に出てきた件 - が引っかかっているようで、その場はDamianにお金を渡してなにかあったら言ってくれまた会おう、って別れる。
と、Damianはまたすぐジムに現れてボクシングをやりたい、という。刑務所に入る前は地区のチャンピオンでAdonisより強かったしずっと訓練は続けてきたし、でもそんないきなりのデビューは無理だから、って彼を説得して、それでもとりあえずスパークリングをさせてみるとDamianは大事なタイトルマッチを前にした相手を倒しちゃって、あり得ない気もするがデビュー戦でいきなりチャンピオンと対戦させることになり、この辺のえこひいきとしか言いようのない進め方にもAdonisの過去の負い目が感じられて。
ここから先は定番で、ダーティなやり口でいきなりチャンピオンになってしまったDamianはTVのトークで傲慢にAdonisを挑発してきて、Adonisは受けて立つことにする。その間に刑務所にいたDamianとのやりとりの間に入っていたAdonisのママ(Phylicia Rashad)の死があって、そこも含めたいろんな過去を清算すべく、いつもの激しいトレーニングをはじめて(じゃーん♪)。
ふたりの対戦シーン、ふつうのぼかすかはもうつまんないと思ったのか、観客のいないヴァーチャルな脳内でのスピリチュアルな側面 - これはなによりも自分と、過去の自分との闘いなのだ! - を強調する見せ方が挿し込まれたりしていて、感心したのは昔だったら確実にだっせぇー、になっておかしくないような漫画描写が割とスマートに違和感なく入ってくる(こっちがどこかおかしくなっている可能性はあるが)ことだったかも。
子供時代、昔のダチとの間で起こったことにカタをつける、それだけの話なので、流れとしては今更ボクシングなんてムリよ、ってなったところで裏社会からの殴り込み - 未来への逆襲 - が… の方がわかりやすいしおもしろくなった気もする。 どっちにしても殴り合いなのに、なんとしてもボクシングの試合に持ってきたいのはそこに「継承」っていうテーマがあるからだろうか。
そうすると、やはり次のスポットライトは娘のAmara(の未来)にあたってきて、伝説のトレーナーとしてHilary Swankか、Michelle Rodriguezを呼んできてほしい。Michelle Rodriguezは対戦相手でもよいか。(『ケイコ 目を澄ませて』(2022)のいろんなシーンが蘇ったり)
エンドロールの後の(おまけ?)アニメーションはなにがなんやらさっぱりわからなかったねえ…
6.02.2023
[film] Kilenc hónap (1976)
5月27日、土曜日の午後、シネマカリテで始まった特集 - 『ハンガリーの至宝 メーサーロシュ・マールタ監督特集 女性たちのささやかな革命』で見ました。
1931年、ハンガリーの女性監督Mészáros Mártaについては、この時点では「見たい」「ぜんぶ見たい」しかない。
邦題は『ナイン・マンス』。 英語題は“Nine Months” – このタイトルだと、1995年のChris Columbus - Hugh Grant - Julianne Mooreによる米国映画がまずくるのだが、やはりぜんぜんちがう。
77年のカンヌで国際映画批評家連盟賞を受賞している。(この年のカンヌにはRobert Altmanの”3 Women”なんかも出品されている)
冒頭、Juli (Lili Monori)が窯業の工場に面接にきて、仕事は厳しいけどいい?と聞かれてその場で採用され、そのまま働き始める。その工場のマネージャーのJan (Bognár János)がJuliをずっと見たり待っていたり追ってきたりするので、「なに?」って問うと「つきあいたい」「結婚したい」っていきなり指輪を出してくる。
ここまでだと展開の唐突さと、70年代映画の画面のトーンと、あてられている声の不自然さから70年代ポルノみたいだなあ? とか思うのだが、当然そちらの方には行かなくて、Juliは怪しがり戸惑いながらもやんわり断り、でも工場には毎日通うので向かってくる彼とは顔を合わせざるを得ず、しょうがないから食事でもするか、って食事をしながら話したりしていると段々仲良くなっていく(ように見える)。(今なら窓口に通報できるのに)
ただ、その席で具体的にこういう話題が出たとか、それにどう反応したとか、どんな化学変化がおこった、のような場面はほぼなくて、遠くから談笑したりタバコを吸ったりしているふたりの絵がドキュメンタリーのように描かれていくだけ。
そのうちJuliはJanの部屋に行ったり、彼が建てている家(ひとりでこつこつ家を建てる人は結構いる)のことを聞いたり、その建築中の家の中で若者たちが乱痴気騒ぎをしているのを見て嫌になったり、Janは休日にJuliをつけていった先で彼女が小さな子供と会って抱きしめたりしているのを見て、問い詰めると自分の子だと言うので聞いていない、ってむくれて、でも別に聞かれてないし、迷惑かけてないし、と。
子供の父親は大学の教授で家庭があるので結婚はできなくて、彼女は実家に子供を預けたまま工場で働いて農学の勉強もしている、ということもわかるのだが、まず彼女と結婚したいと思った(そこの理由がわからないけど)Janにとっては傷つくなにかだった - プロポーズしたらその時に言えよ、等 - ようで、しばらく音信が途絶えて、でもまた視界に入って戻ってきて - 戻ってくるんだ? - 彼女の親や子供や子供の父親とも会うようになったりする。
やがてJuliは妊娠した、とJanに告げて、Janは機嫌わるく誰の子だ? とか、堕ろせば? とかいうのだが彼女は動じない。そのうち勉強していた大学の試験にもパスして、お腹が大きくなった彼女は病院に向かって。
男女の恋愛が描かれているのではない。ふたりの間に恋愛感情はあったかもしれないけど、それがどう進展して(あるいは壊れて)が描かれているのでもない。Juliは彼女のやりかたでずっと生きてきて、その流れのどこかでJanにぶつかって、彼が寄ってきていろいろ関わろうとしてくるので相手をしたりしているうちに子供ができた、それだけ。その塊りが出てくるまでに9カ月が過ぎたよ - それだけのお話。Janにしてみれば、ある時点から恋愛関係にあると思われたふたり - 自分はそう思った - なのでああしてほしいこうしてほしい、って告げたりしたのにぜんぶ無視しやがった、かも知れないけど、そんなのほんとにぜんぶあんたの都合にすぎないので。 Juliは彼の方になんも、一切頼んだり託したりしてないんだから。
…かっこいい。 のと、やはりJanの動きってちょっと気持ちわるー、のと。
ラストはリアル出産シーンで、(本作がR15+ 指定なのはひょっとしてそのため? だとしたらちょっと頭おかしいんじゃないの映倫?)子供が出てきた後の彼女の表情 - 改めてなにかを掴んだような - をストップモーションで捕らえて終わる。今回、これまでに見たMészáros Mártaの映画(3本)では、どれもEndマークなしに、画面が停止して暗転しておわるところがすごくよいと思った。
[film] Baby Face Nelson (1957)
5月27日、土曜日の昼、シネマヴェーラでフォード特集の後に始まった『初期ドン・シーゲルと修業時代』 - こんなのもちろんぜんぶ見たい! - で見ました。 邦題は『殺し屋ネルソン』。 1930年代のシカゴに実在したギャングの一代記。
おとなしく服役していたLester Gillis (Mickey Rooney)は、シカゴのRocca (Ted de Corsia)の口添えで出所することができて、でも組合のボス殺しの依頼を断ったら殺し屋を送ってきたので蹴散らして、かつての情婦だったSue Nelson(Carolyn Jones)と再会して最強になって、その勢いでRoccaもやっつけて、怪我してかかった酔っ払い医者(Cedric Hardwicke)のとこでPublic Enemy No.1のDillinger (Leo Gordon)と出会って、やがて彼が倒されると”Baby Face Nelson”の看板名とともにNo.2からNo.1に格上げされて包囲網が敷かれて…
こんなふうに半自動くらいの不気味としか言いようのない勢いでのし上がる、というよりとにかく目の前に塞がって邪魔で面倒なのをひたすら蹴散らしていくBaby Face Nelsonの兇状旅を、その道行きと同じくらい手が付けられないざっくりした粗暴さで切り取っていく。なにを考えているのかどう動いていくのかわからない奴の挙動を画面に収める必要があるので、野良の動物を追っていく – 彼が何を見て、何に反応して、どっちの方に動く - 殺すのか逃がすのか – そして最後はどう終わるのか、などを捕らえようと、現像なんかしていたら逃げちゃうので端から撮って切って貼ってを繰り返していって、結果としてすごくかっこよくおもしろいのが連なっていく。このおもしろさ、痛快さというのはフォードの『投げること』で示された即物的な快楽に近いものがあり、ここだと『殺すこと』のようにひたすら殺しまくる、というか。
だから彼個人の、いちギャングとしての強がりとか見栄とか苦悩とか狂おしさとか痛し痒しとかは一切ないし見せないし – ドラマになりそうなとこは一切省いて”Baby Face”の裏に袋詰めしてとにかく動いていく、そのリズムとスピード感が気持ちよい。ノワール、かも知れないが、シンプルのっぺりとぶちまけたような黒のみ。 時間と予算の制約でそうなっただけ、かも知れないが、それにしたってこのかっこよさと痛快さってなんなのか。
The Big Steal (1949)
上のに続けて同じ特集で見ました。邦題は『仮面の報酬』。
原作はRichard Wormserによる短編 - "The Road to Carmichael's"。
冒頭、メキシコに停まっている船の中で、どこのどういう職業なのか不明のDuke Halliday (Robert Mitchum)と彼を追っているらしいVincent Blake (William Bendix)が殴り合いをして、DukeがBlakeを倒して彼のIDを奪って外に出て、次はJoan Graham (Jane Greer)がJim Fiske (Patric Knowles)に貸した金(結婚詐欺っぽい)を返せ、って言い合いで迫った後に逃げられて、そこでぶつかったJoanとDukeは互いのことを警戒しつつも一緒に共通の敵らしいFiskeを追うことにして、そんなふたりを怪しいと思った現地警察のOrtega (Ramon Novarro) - 英語学習中 - が彼らを泳がせつつ追っかけて、さらにそれを根性で追っかけるややうざくてどんくさいBlakeがいて、出てくる全員が互いのことを妨害したり注視したりざまあー、って言ったりしつつメキシコ各地を追いかけっこしていって、最後に辿りついた隠れ家ぽいところで…
なーんとなくの善玉悪玉はわかるものの全員の身分と正体がはっきりしない/させないまま最後まで行って、ぼかすかやりあって… 明らかになった彼らの正体にそんなに驚きはなくて、でもずっと広い原野をドライブしてきた果てに、あんな狭いとこの殴り合いで決着つけちゃうのか、そんなもんよね、って。
いつも半端ににまにまして余裕ありそうな顔の裏になにを隠しているのかさっぱりのRobert Mitchumが絶妙で、それを追っかけていくのは裏も表もなさそうな木偶の坊っぽいおっさんたち、この外面の対比は”Baby Face Nelson”にもあった気がするが、とにかく主人公たちを追っかける中間管理職ぽい男たちの愚鈍さ – みんな同じような顔と図体と行動原理 – が匂い立ってきてたまんない。 これJoanの視点でスクリューボール(巻きこまれ)にしても面白くなっただろうなー、とか。
なんにせよ、ものすごく快調で、John Fordの後がいなくなった後にこれなら、6月はなんとかできるかも(映画は)。
6.01.2023
[film] ジョン・フォードと『投げること』完結編 (2022)
今回のシネマヴェーラのジョン・フォード特集の3つめで見たやつらもこれで終わり。
They Were Expendable (1945)
5月17日、水曜日の晩に見ました。上映前に蓮實重彥さんのトーク付きの。
邦題は『コレヒドール戦記』、昨年の10月のここの特集でも見ているのだが、これは蓮實さんが力強く断言されたようにJohn Fordのトーキー以降の傑作のひとつだと思う。
ただその内容は「戦記」というほどのものではない - 「彼らは消耗品だった」という原題が示すように米軍がアジアの海岸域で敗走していく様 - 中心のボート2隻はそれなりに活躍するが全体としては激しく焼けだされてしまう - を描いていて、『帝国の逆襲』みたいなかんじを受けるのはPTボートの形状とかもあったりするからだろうか。
Rusty (John Wayne)とSandy (Donna Reed)が離れ離れのそれきりになってしまうところも、偉い人たちとその家族をお忍びで避難させるとか、飛び立とうとする機にぎりぎりで乗りこむところとか、誰もがもう二度と会えない、帰れない、生き延びられるのかわからない、そんな茫洋とした不安を抱え、それでも互いに感謝したり笑って別れようとする様がリアルでやかましい爆撃シーンの脇にあったりするのがなんかよいの。次は『ジェダイの帰還』になる、と。
RustyとSandyが別れるときに彼女が帽子を投げるシーンも含めて、先生が言われたように何度か拍手しようとしたのに誰もしない、みんなまじめなのねー。
Just Pals (1920)
5月20日、土曜日の夕方に見ました。邦題は『野人の勇』。こういう昔に付けられた変な邦題、見直したりしないのかしら? 新訳本のタイトルだと直すことあるけど、映画は難しいのかな。
サイレントで、John Fordにとって最初のFoxからのリリース作品。
町衆から野良猫みたいに見られている浮浪者のBim (Buck Jones)が列車から放り出された子供のBill (Georgie Stone)と仲良くなって、遠くから眺めてぽーっとなっていた教師のMary (Helen Ferguston)が悪い男に騙されて困っているところを助けたり、その流れで町を銀行強盗たちから救ったり、を周囲から鼻つまみ状態のまま、たまに袋叩きにあったりしつつも負けるもんか、って片付けていって、最後には行方不明少年発見の棚ぼたで大金まで貰っちゃう痛快なやつ。
Buck Jonesが相変わらずよいかんじなのだが、浮浪者=野人じゃないし、BimとBillがふたり並んで歩いていくところは「Just Pals = ただの友達」のあったかいかんじがたっぷりですごくよいの。
Hangman's House (1928)
5月21日、日曜日の夕方に見ました。邦題は『血涙の志士』- この邦題もわけわかんないかも。
アルジェリアで戦争に参加していたDenis Hogan (Victor McLaglen)は故郷アイルランドから手紙を受け取ると、ちょっと国に戻るからって戦線から離れる。アイルランドでは何人もの囚人を絞首刑台に送った男爵(Hobart Bosworth)が娘のConn (June Collyer)といかにも悪そうな実業家のD'Arcy (Earle Fox)を無理やり結婚させようとしていて、でも式だけあげたら父は無責任にころりと死んじゃって、Connと結婚するつもりだったDermot McDermot(おもしろい名前 - Larry Kent)が競馬で大活躍したりしつつD'Arcyの腹黒で性悪なのを暴いていくのと、そこに妹を殺されてD'Arcyへの復讐に燃えるDenis Hoganが加わって、最後には脱走劇 ~ 銃撃戦 ~ お屋敷大火事 ~ 崩落と劇的な展開を迎える。タイトルや特殊効果も含めて全体に表現主義っぽいのだが、そんなんじゃねえよ! っていろんな動物たちを呼びこんでわざと軽快なアクション活劇に仕上げているような。
Salute (1929)
5月21日、日曜日の晩に見ました。 邦題は『最敬礼』。サイレント、ではなかった。
名家のJohn Randall (George O'Brien)は陸軍士官学校の士官候補生のエリートで、弟の Paul (William Janney)はこれから海軍兵学校の方に行こうとして、家族からは励まされるのだが華奢な体型への負い目とかもあってぱっとしなくて、学校で修練の日々が始まっても女性(Nancy)を巡ってもあちこちで兄の影がちらついて、やがて陸軍 vs. 海軍のフットボールの試合で兄と向き合う日がやってくる。
こんな頃から既に存在したアメリカ学園もの、と言ってよいのかキャラクターはヤギまで含めて一揃いあって、こんなのまであるのかー、って。
ジョン・フォードと『投げること』完結編 (2022)
5月31日、水曜日の晩に映画美学校試写室で見ました。今回の特集で半券は20枚あったので2回いけるか、と思ったら券の配布が終わってしまっていた。
監督は蓮實重彥+三宅唱。英語題は”Throwing in John Ford’s Movie: Definitive Edition”(たしか)。59分58秒。
このバージョンに対して「非完結編」というのもあって、それは青山真治監督と作っていた48分37秒(たしか)のものだったという。また、2005年1月に同タイトル(完結編)の講演をアテネでやっていて(Webで読める)、その時のは間に合わずに「非完結編」となった、と言われている。
フォードの映画に次々に出てくる「投げる」シーンをキャプションも解説もなしにざーっと繋いでいくだけなのだが、これがもうめちゃくちゃおもしろいの。知っているの(ついこないだ見たの)も知らないのもあるけど、そんなの関係なく1時間あっという間に、これ自体がほいってこちらに投げられているような。
なにを投げるのか、誰が投げるのか、どうして投げるのか、それを誰が/なにが受けとめるのか、投げる前に何があって、投げた後に何が起こるのか、いろんな角度での整理ができるのだろうが、そんなのなしに、単純にコレオグラフとしてシンプルにおもしろくて美しい。スポーツや喧嘩や戦争の先を見越した筋の通った動きとは違って、いろんなのが噴きあがったりこみ上げたり諦めたりする瞬間がその動作には凝縮されている、というかその動作のキャプチャーを通してそれらの情動を引っぱりだそうとしている、というか。
ずーっと、フォード映画の問答無用のおもしろさ、ってなんなのだろう、ってずっと思っていたのだが、実はこの辺なのかも。これを見るとまた見返したくなってしまったので4回めの支度を。
[film] Freaks Out (2021)
5月24日、水曜日の晩、ヒューマントラストシネマ渋谷で見ました。
ヴェネツィアやロッテルダムでいくつか賞を受賞したGabriele Mainettiの監督2作め。
1943年、ローマの郊外でユダヤ人のIsrael (Giorgio Tirabassi)のやっているサーカスの呼び込みで4人のフリークスが紹介される - 全身毛で覆われた怪力の野人Fulvio (Claudio Santamaria)、アルビノで虫(ただし蜂をのぞく)をコントロールできるCencio (Pietro Castellitto)、小人で金属を体にくっつけたり動かしたりできるMario (Giancarlo Martini)、体が電気を帯びてて触れた電球を点灯したり感電させたりできるMatilde (Aurora Giovinazzo)で、みんなぼちぼち楽しくやっていたものの戦争がひどくなりそうなのでIsraelの提案でアメリカに渡ろうよ、と、各自が渡航許可に必要な金を持ちよってIsraelに託すのだが、彼は出ていったきりそのまま姿を消して、Israelを父のように慕うMatildeは彼を探しにでるが、残りの3人はベルリンサーカスに行けば拾って貰えるし、ってそっちに行くことにする。
ベルリンサーカスは6本指のピアニストのFranz (Franz Rogowski) - 彼の弾く”Creep”や” Sweet Child O' Mine”とかが評判らしい - が仕切っていて、未来を予知する能力がある彼はTVゲーム機やiPhoneの絵も描いていたり、ヒトラーの自殺も既に予測してて、でも4人の異能者が現れるというのも見えているので彼らをナチスの幹部である兄に献上しよう、と狂おしく探したり待ちわびたりしている(そんな彼自身も奇形の者として自分の家族から蔑まれている)。
Israelを探すべく仲間と別れたMatildeはひとりで歩いていたところをナチスの兵隊に襲われて、電撃でやっつけたものの動けなくなり、そこを拾って介抱してくれたのがせむし男の率いるパルチザンの部隊で、ナチスと野良でゲリラ戦をしたりしているのだが、どうしても敵というか人を殺すことができないMatildeはやっぱり無理、とそこから抜けて3人のいるところに向かう。
Franzのところで拷問を受けていた3人にMatildeが合流して4人になり、こいつらがあの4人に違いない、と確信したFranzは彼らをメインに据えたショーを賓客を招いて華々しく開くのだが当たり前のように大失敗して逃げられて、4人はちょうどやってきた収容所に向かうユダヤ人を乗せた列車にいるIsraelを助けようとしたところで追ってきたFranzたちナチスの軍隊とぶつかり、それを横からパルチザンが狙い撃ちして、結構陰惨な戦争絵巻が…
お話はキャラクター設定も展開も含めて結構雑にあれこれぶちこんで、殴り書きの勢いで一気に撮ってしまったような感があり、でもその勢いがどうして、なんのためなのかがあんましよくわからないのがやや残念かも。例えば、Guillermo del Toroの映画が丁寧に滲ませようとする異なるものへの愛や哀しみがあまり感じられない、というか。
ヨーロッパに昔からある異形(フリークス)のアイコンを並べて、それを見世物にするサーカス小屋を置き、そのありようを揺さぶってユダヤ人を含めて排除し、クリーンな世界征服を目論むナチスドイツを反対側に置いて、その衝突のなかで放たれたフリークスたちのパワー。というとX-Menのシリーズにあった、よいミュータントとわるいミュータント(Magneto)と人類の戦いを思い起こすのだが、この映画には「ふつうの人類」、みたいなのがほぼ出てこない – Israelくらいか。そういえばMagnetoの起源も収容所だったので、欧米におけるミュータント問題はナチス起源、と見てよいのかしら?
それぞれの能力や表象をきちんと追っていけば割といろんなものも見えてきそうな気がするのだが、なんかどうしても簡単にX-Menのあれらが思い浮かんでしまったのはちょっと残念だったかも。特に最後に爆発するMatildeのパワーのとこなんて、Jean Greyのにそっくりで、ああいう娘は怒らせたらこわいぞ ... ってミソジニーの連中がいう典型みたいな描き方だし。
Franz = Franz Rogowskiの狂いようもいかにもなドイツのパラノイアックなそれで、最近のいろんなドイツ映画 – “Undine” (2020)とか”Transit” (2018)とか - に登場するFranz Rogowskiさんがあんなふうに - 芸達者なのはわかったけど - カリカチュアライズされてしまうのは、ちょっと勿体ないかもー、とか。