10.30.2022

[film] Larger Than Life: The Kevyn Aucoin Story (2017)

10月15日、土曜日の午後、新宿武蔵野館で見ました。『国道20号線』の直後で世界の段差に少しくらくらした。『メイクアップ・アーティスト:ケヴィン・オークイン・ストーリー』

2017年のドキュメンタリーをなんで今頃? というのはあるがKevyn Aucoinの名前で見る。90年代のルックを作ったメイクアップ・アーティスト、メイクアップをアートの領域に持っていった人。

ルイジアナのラファイエットで養子として育てられ、早くから自分をゲイとして自覚して、学校ではその辺を理由に虐めにあってドロップアウトし、姉と一緒に遊びで楽しんでいたメイクアップをほぼ独学でマスターして、顔を光を使って彫刻のように見せるその造形技術と美学でスーパーモデルの時代を裏で引っ張り、写真集もいくつかだして、2002年に亡くなった。顔をつくる、ということがファッションの、ビジュアルの領域でどれだけ大きなパワーを持ちうるものなのか、ひとつの価値基準とかスタンダードを作ったひと。それぞれのブランドの意匠、それぞれのモデルのスタイルを貫いて、かっこよく美しいビジュアルってこういうもん、っていうのを人の頭部を起点として改めて定義しようとした。もちろんそこには優れた写真家もいたしHouse of Styleだってあったわけだが、でもKevynの功績ははっきりとある。

などなどを思いつつ、メイクアップにおける例えば「ナチュラル」の扱いが、すっぴんとか「変じゃない」かんじのと、LGBTQIのありようを表すものに二分化していっている気がして、それらを受けてフォトショップどころかAIも加えた補正矯正が当たり前になってきている顔の表象を巡るこんにちの状況を前にすると、眉をぜんぶ抜いてもその人にとっての美を追求しようとしたKevynて偉かったよなー、って。

というのとは別に、90年代のNYのファッションあれこれが懐かしくて。Isaac Mizrahiがいて、Todd Oldhamがいて、Cynthia Rowleyがいた、彼らのオフィスやブティックがあった頃のSOHOにはまだ本屋もレコ屋も怪しげな雑貨屋もあって楽しかったなー、00年代になってChanelとFerragamoが来てから、ぜんぶ変わっちゃったよねえー、などと懐かしんだのだった。


Creation Stories (2021)

10月27日、木曜日の夕方、シネマカリテで見ました。『クリエイション・ストーリーズ ~ 世界の音楽シーンを塗り替えた男』。 これも自分の中では懐古カテゴリなので。

まだ英国にいた頃、これは何度かTVで放映されてて横目でてきとーに眺めていたらTelevision Personalitiesえらい! ってやってて、それは間違いなく揺るがぬ史実なので見たほうがよいのかも、とか思っているうちに消えて見ないままになっていたのをようやく見る。

Alan McGeeの評伝を中心にしたCreation Recordsの成功物語で、Irvine Welshが脚本にいたりDanny Boyleが制作にいたり、Brexitがぼろかすで経済も文化もぜんぜんいけてない風になってきた最近の英国どうしたがんばれ、っていうものにしたかったのかも。

わたしはできた頃のFactoryとRough TradeとCherry Redで育てられてきたので、Creationていうのは音楽を諦めた田舎者が立ち上げたださいベンチャーで、Alan McGeeは単なる成金ビジネス野郎としか見ていない。確かにこのレーベルの成功がマーケットとしての「英国音楽」を確立してくれたのかも知れんが、ジザメリもプライマルも、当時の騒がれ方からしてぜーんぜん乗れない、なにが新しくて画期的なのかちっともわかんないやつ(個人の感想ね)で、この辺から英国の音楽への興味を急速に失っていった。OASISについても同様で、映画にも出てくるようにブリット復興に向けて仕掛けられたなんかだったのでは、くらいのことを思ったりする。(The Stone Rosesの方が現象としてはすごかった気もするのに映画の中では完全に無視、とか)

映画を見ると、Alan McGee自身の生い立ちや家庭などからそういうことだったのね、というのがわかったりするものの、それがどーした? でしかなくて、あのレーベルで本当に聴くに値したの(という言い方はよくないね)ってMy Bloody ValentineとRideくらいじゃないか、とか。(そもそも時代だのシーンだのを作ったり塗り替えたりする音とか男とかまったく信用していないし)

もちろんこんなの個人的なアレとして、100人100通りの見解があってよくて、そういう糞玉を投げ合う丁度よいネタとして、一晩でも二晩でも語りあってほしいな(って言いながら自分は逃げる)。

こういうお勉強というより懐古に近いネタのって、年寄りぽいので割と避けてきたのだが、実際に年寄りになってしまったので好きにやっていいや、と思うことにした。

10.28.2022

[film] Avec amour et acharnement (2022)

10月21日、金曜日の夕方、ユーロスペースの「第四回映画批評月間」で見ました。
邦題は『愛と激しさをもって』、英語題は”Both Sides of the Blade”(最後に流れるTindersticksの同名曲から取られたそう。かっこいい)。

Claire Denisの新作で、共同脚本のChristine Angot – “Let the Sunshine In” (2017)でもDenisと共同 - の小説”Un tournant de la vie” (2018)が原作で、元のタイトルは”Fire”と呼ばれていたそう。撮影はEric Gautier、音楽はTindersticksで、ここに主演のJuliette Binocheが加わると王道のClaire Denisチューン、というかんじになる。

冒頭、メインビジュアルにもなっている絵 - 海の上でSara (Juliette Binoche)とJean (Vincent Lindon)のふたりが気持ちよさそうに浮かんで漂ってキスしたりしている – “Fire”なのに”Water”で始まる – のだが、この時点ではっきりと「愛」だけではない何かも漂っている – つまり海から出たその先には.. ということを思わせるぎりぎりの至福感がどこか切ない。

愛に満ちた休暇から都会に戻ってきてふたりのアパートで普段の暮らしを始めるなかで、Saraはラジオ番組でパーソナリティ(戦争や人権問題等を扱うジャーナリスティックな方面の)をやっていること、Jeanは職安で仕事を探しながら、かつての仕事仲間だったFrançois (Grégoire Colin)から再び声を掛けられて、でもJeanはその前職の始末をひっかぶって刑務所に入っていたこと、SaraとFrançoisは恋人同士だったことが – JeanがFrançoisからの電話を受けるたびの、出勤途中にFrançoisの姿を見たときのSaraの表情と揺れ具合でわかる。

もうひとつ、Jeanには前妻との間に17歳の息子Marcus (Issa Perica)がいて、Jeanの母Nelly (Bulle Ogier)と二人で暮らしていて、こちらも電話で連絡を取り合っているのだがNellyのカードが勝手に使われていたりMarcusが将来の進路も含めて不安定でふらふらしていること、Nellyからは孫と一緒に暮していくことへの不安を伝えられていて、こちらもなんとかしなければ、と気にかかる。

やがてJeanとFrançoisの新会社設立の話が動きだし、JeanがFrançoisからの電話を取ったり、Françoisに頻繁に会いにいくようになる度にSaraははっきりと表情のトーンを変えてそわそわするようになる。 JeanはもちろんSaraとFrançoisの過去も知っているのだが、もう自分と一緒に暮しているのでそこまでは、と軽く思ってパーティに来てFrançoisと会えば、と誘ってみたりする。こうしてFrançoisと再会してしまったSaraは…

満ち足りていたふたりの関係から始まって、そこに入り込んできた過去の – Saraにとっては恋愛の、Jeanにとっては仕事の、傷とか瘡蓋のような男 - François。彼はふたりのどちらに対しても過去からのギャップなんてまるでなかったかのように振る舞って近寄ってきて、Jeanの仕事の方は仕方ないにしても、Saraの方には相当大きな波、まるで毒とか麻酔のように襲いかかってきて、というありきたりの中年の三角関係をアパートの中と外 - 外ではマスクをしている人が多い – を出たり入ったりしながら追っていって、最後にそれぞれが溢れかえるアパートでのシーンがものすごい。

ホラーすれすれの距離感と怖さで、アパートから突き落とす、アパートから落っこちる、台所の鍋で包丁でグラスで、握りしめたスマホで、アップの切り返しがめくられるごとに、どんなことが起こるのかどっちがどうなるのか、目を離せなくて、この状態があと10分続いていたら心臓が潰れていたかも。

Juliette Binocheの宇宙空間にいたってなにひとつブレずにつーんと感情を漲らせてそこに立ってキスしてむき出しになる強さと、Vincent Lindonの力強くて頼もしそうだけど、よく目をみるとどこか遠くのなにかに拠り所を求めているような目つきの覚束なさが垣間見える不安定さ(→怖い)の衝突。もちろん勝ち負けなんてないし、勝ち負けになる話ではなくて、両方に付いている刃はどちらも鋭く、自分と相手の双方に向けられたまま、どちらの手にあって、どう使われようとしているのか。

あの、あんまりのラストは賛否かもだけど、あれでよいと思うの。

唯一あるとしたら、SaraとJeanのボンドがどのくらいの強さを保つものなのか、最初の海のシーンだけで充分に説明しきれていないように(後から思えば)感じてしまうことだろうか。メロドラマとして見るならそこがちょっと弱いかも。女性映画として見れば、どうか?

Claire Denisさんは、今年もう1本、Denis Johnson原作の“Stars at Noon”をA24からリリースしていて、そちらの方も早く見たいー。


しかしなんで、同じ週末にArt Book Fairと古本まつりと映画祭を固めてくる? 文系なんてこんなもんでいいと思ってるだろ東京都?

10.27.2022

[film] Crash (1996)

10月19日、水曜日の晩、菊川のStrangerで見ました。4K無修正版。
David CronenbergがJ. G. Ballardの同名小説 (1973)を映画化したもので、カンヌで審査員特別賞を受賞している。

基本、血とか暴力とかおっかないのは見れないのでここまで見ないままで来たのだが、Cronenberg作品は”A History of Violence” (2005)のあたりから見ることができるようになっていて、こないだの”Crimes of the Future”だって見れたし、遠い親戚ぽい”Titane” (2021)だって見れたのだから、だいじょうぶではないか、と。耐えられなくなったら目を瞑れば、って。

James Ballard (James Spader)と妻のCatherine (Deborah Kara Unger)は仲は悪くないもののふつうのやりかた(って?)ではどちらも性的に興奮できなくなっていて、冒頭、Catherineはプロペラ機の機体表面に欲情したりしている。ある晩、車で帰宅中のJamesが正面衝突の事故にあって、相手の運転席の男は即死で、助手席にいたDr. Helen Remington (Holly Hunter)は傷を負って朦朧とした状態でJamesに乳房を見せてみたりする。

Helenと共に入院したJamesは病院で興奮しながら傷口の写真を撮ったりしているDr. Robert Vaughan (Elias Koteas)と出会い、彼を通して交通事故写真やダミーを使った車の安全性テストのビデオを見たり、事故の様子を話したりして興奮して悶えまくる交通事故フェチのグループに加わり、Vaughanが主宰するJames Deanの交通事故をリアル再現するイベントを見たりして、段々とその世界にはまっていく。

車と事故とセックスがクラッシュしたその先にある未開拓の快楽に目覚めてからは、それを追求すべく走行中に事故を起こそうとしたり起こしたり、事故に遭遇したり - グループで話していたJayne Mansfieldの事故再現(犬込み)をやられてしまって大惨事で死人も出る – とにかく快楽の追求とか実行後の興奮にまみれるようになり、そうなると相手が誰であろうと車と傷と相手がいれば相手が誰でも同性でも絡みあう。まるで機械に巻きこまれて抜けなくなっていくかのようで、当然リスクはものすごく高いので次々に死人も出るし、でもそういう事態の只中で最後にようやく - 意識朦朧の状態でJamesとCatherineは結ばれる(たぶん)。

フェチの世界の話なので、なんでそこにそんなに惹かれてしまうのかについてはあまり説明されない。ただそれの虜になって命を削って追い求めるようになって、実際に簡単に命がとんでいくような危険なやつなので、亡くなっていく人もいっぱいで、それだけのことよ、と。 そういう人々の視野に寄っていくことで、彼らが快楽として求めているもののイメージとか、それってそんなにかけ離れた変態の域の話でもないかもとか、この磁場に絡めとられていく過程などがわかってきて、そこにあまり違和感はない – ように見えてしまうところが実は劇薬で、カンヌでも物議を醸したところなのだろう。たんに人を斬ったり殴られたりして血がでて痛い、のではなく、車という自分たちが利便性を求めて開発した金属の機器によって自分たちの身体の自由が奪われたり傷つけられたり歪められたりする、そこには直截的な意思のようなものも善悪の倫理もなく、メカニカルに物理的に金属の部品や塊が駆動した結果としてそれは起こって、あとはそこにぱっくりと現れるであろう肉の傷口とか痛みとか朦朧とした感覚をどう見るか。痛覚については、それが自分のものである(他者に飛ばしたり広げたりしない)限りにおいて快とするか不快とするかは好きに勝手でよろしいので、やってれば、と。

そしてこれが同好者たちの間で閉じた世界の話なら別によいのだが、でっかい事故における痛覚って自分だけのものにはならずに周囲にいた人たちも痛かったりすることも多いので、この辺だけは取り扱い注意なのかも、って。

自動車が登場した頃、高速で滑るように突っ走る快楽に多くの人が痺れて車を手に入れたのと同じように、車が飽和状態になった社会において、クラッシュによりばらばらに砕け散る車体や身体に興奮や快楽を求める人たちが出てきたっておかしくない。車は壊れたら新しいのを生産すればよいだけなので、どっちに行ったってこれはwin-winなのではないか、っていうSF – これはたぶんSFなのだが、なんだかとっても身の回りの近いところでいろいろ考えることができるやつだった。「死とエクスタシー」なんて言うまでもなく、もっとシンプルに「死にたい」「死んじまえ」っていう意識の過剰な発露とか投げ合いであるとか。

あとは、(おそらく問題として)ヴィジュアルとしてなんか異様に美しすぎるところとか、ルックスも端正な白人層ばかりであることとか、これらは意図的なものであろうが、とっても20世紀末だねえ、とか。

10.26.2022

[film] Un soupçon d'amour (2020)

10月16日、日曜日の夕方、ユーロスペースの第4回映画批評月間で見ました。
Paul Vecchialiによる『愛の疑問』 - これには「ほんの少しの愛」という意味もあるそう。
冒頭、ダグラス・サークに捧ぐ、と出る。

有名な舞台女優のGeneviève Garland (Marianne Basler)と夫でやはり俳優のAndré (Jean-Philippe Puymartin)がラシーヌの悲劇『アンドロマック』のリハーサルをしていて、でもなにか気にかかって集中できないようなので、途中でGenevièveは役を降りて、友人の俳優でAndréの愛人であるIsabelle (Fabienne Babe)に役を譲ってしまう。

いきなり大役を振られたIsabelleはAndréとのこともあるし、演出家ともいろいろあったようなので当てつけじゃないか、とかあなたと比べられたらレビューは散々になる、とかいろいろ取り乱すのだが、Genevièveは割りとあっさり落ち着いて割り切って、病弱な息子のJérôme (Ferdinand Leclère)を連れて自分の生まれ育った田舎の家に行く、と言って夫からも離れてしまう。

田舎にやってきたGenevièveはJérômeの薬を探していくうち地元の薬剤師と知り合ったり、自分の家の墓を探して司祭のところに行ったり、昔の同窓生と会ったり、いろんな出会いがあるのだが、それらが最後の最後に..

演劇(古典悲劇)の世界に生きてきた女優が役のなかの会話や受難で受けてきたあれこれを経由して(どんなふうにその世界を受けとめてきたのか、は示されない)、そこから更に自分の生を生きようとしたときに、どんなことが待ち構えていたりするのか、それは別の新たな生になったりするのか、生きなおしだったりするのか、など。

『愛の疑問』、というときの「愛」がいったいどこにどんなふうにあったものなのか、等も含めて、その切り口はなにが飛び出してくるのかわからない新鮮さと共に謎めいてあって、それが最後に鮮やかに、一瞬で反転する。 こないだの『彼女のいない部屋』にも繋がるような苦悩を、愛を語っていたのは誰なのか?

そういえば、ジャック・リヴェットの『狂気の愛』(1969)でも、『アンドロマック』のリハーサル現場を中心に置いて物語が動いていった。「リハーサル」ってそもそもなんなのかしら? とか。


Don Juan (2022)

10月18日、火曜日の夕方、ユーロスペースの第4回映画批評月間で見ました。
Serge Bozonの監督作品で、今年のカンヌにも出品されている。

へなちょこ系のミュージカル – そんなに歌が強く真ん中に割り込んでくるわけではないけど、突然歌いだしたりする - で、↑のにもそういうところはあって、エモが極まって歌になって溢れる、というよりエモが転調したりしないとやってられない(→ ごまかす)かんじになるとか、それを握っている運命か何かに押されて歌がでる - というか。

俳優のLaurent (Tahar Rahim)は市庁舎での結婚の披露宴の席で、花嫁のJulie (Virginie Efira)に逃げられて(待っても現れない) - ドレス姿の彼女は近くのバーに入って「歌を聴かせて」と呟いたまま立ち尽くす - がーん、てなって、ようやく、なんとか傷も癒えて回復した頃、グランヴィルの海辺の劇場で行われるモリエールの”Dom Juan ou le Festin de Pierre” -『ドン・ジュアン、またの名を石像の宴』のリハーサルに入る。芝居の演出家は(なんと!)Jehnny Bethさんで、Laurentには手慣れた役だったのだが、相手役の新人ぽい女性には難しかったのかがたがたに崩れていって降板して、そこで新たにキャスティングされたのがよりによってJulieだった…

基本は、Don Juan気取りと態度であんま深く考えずに次々に軽く女性に声を掛けていくLaurent – でもちっともかっこよく見えないの - が始めから終わりまで相手からふられて痛い目に遭い続けてぼこぼこにされていく – でもちっともかわいそうに見えないいい気味よー、なところが何故か素敵で、それはどうしてなのかと考える。

あと、バーでピアノを弾いて歌う老人 - Alain Chamfort – “L’homme tranquille”という役柄 – がいて、彼はLaurentを見つけてピアノを弾き、歌を唄いながら傍に寄ってきて、自分は彼に失恋して自殺した娘の父である、と告げる。

声をかける宿命にある(と思われる)Don Juanの恋が実ることは決してないように世界はできていて、痣だらけで血だらけになってどんより苦しんで恋なんて碌なもんじゃないな、って言いつつ、それでもなんで人は出会って恋を語って歌おうとするのか – わからんわ - って(見ているこっちも)

海辺のステージとか光景がすばらしくどっしりかっこよく撮られていて、えせミュージカルっぽく見えないところも素敵なの。

この2本て、バックステージものと言えるのか。バックステージにこそ人生がある、とかいうのではなく、メインのステージとか劇のありようがはっきりと登場人物たちの人生を操って粉々にしにきているような。なにもかもすばらしいとは言えなくなっているのかも知れないが、太古から演劇が日々の会話とかベソとかビンタにもたらしてきた何かって確かにあって、その意味とか効能って変わってきているのかいないのか。サークやギトリのメロドラマやコメディとの間でならどうなのか。こんなドラマが成立して通用するのはフランス人だけではないのか、などなど。

でもおもしろいったらない、ことは確か。

10.25.2022

[film] 国道20号線 (2007)

10月15日、土曜日の昼、K’s cinemaの「ロードサイド・フィルム・フィスティバル」で見ました。

16mmで撮られた『国道20号線』を2Kスキャンして5.1chに整音したデジタルリマスター版の公開にあわせて、関連しそうな路上映画3本 – どれもみたい。けどみれず – を上映するもの。 英語題は”Off Highway 20”。

山梨のほう(というのは後で知った)の国道20号線沿い。大型のモールみたいの、ドンキとかのでっかいチェーン、ファストフード、駐車場、消費者金融、ゲーム屋パチンコ屋などが並んで、昼は殺伐としていて、夜はとても中に踏みこんで抜けられる気がしない。普段車で出かけることがないので、15年前からなにがどう変わって今どんなふうなのか、それって前世紀末からどう変わっていったのか、興味深くはあるのだが、とにかく日本の郊外にそういう世界が並んでいてそこに出入りしたり潜ったりして生活している人たちがいた、ということはわかる。

元暴走族のヒサシ(伊藤仁)と元やんきーのジュンコ(りみ)は同棲していて、ふたりとも定職は持たずにパチスロ(っていうの?)に入り浸ったりシンナー吸ったり喧嘩したり友達とふらふら遊んだり毎日てきとーに過ごしていて、別にそれでよいと思っている。そろそろまじめにやってみたらどうか、って高校の同窓で中古ゴルフクラブの取引とかをやっている闇金屋の小澤(鷹野毅)に声を掛けられて、ヒサシは彼の手伝いみたいなことをやり始めて。

彼らがどんなふうに遊んだり小競り合いを起こしたりするのか、どんなふうにシンナーを吸うのか、どんなふうに日銭を稼いだり借りたりそれを使ったり返したり、を繰り返しているのか、そういう日々の暮らしや活動(っていうのか?)を描きつつ、道の向こうや対岸から大きな影響をもたらす人とか波とか出来事が起こったりやってきたりすることはなく、道の向こうに走っていったら何かが見つかるわけでもなく、そういうのが決して起こりそうにない地点で、そういうのないかなーつまんねーなー、って言い続ける(しかない)若者たちの日々とは。

別に好きでやってるわけじゃないし、どっかに飛べるもんなら行きてーし、という鬱憤も含めて、ここに描かれている彼らの像はたぶん正しくて、それは2007年のにっぽんの地方、だけでなく15年経っている今だって、ひょっとしたら80年代、90年代の頃からずっと変わっていない地方と若者のありよう、というのは地方の空洞化とか若者離れ、都会(渋谷とか)の田舎化、にっぽん全体のヤンキー化、などを見ているとなんとなく、なにひとつ間違っていないように思える。でもそんな「正しさ」って一体なにになるというのか?

どうせなにやってもつまんねーし、日々てきとーにごろごろ遊んでお金が入ってくれば、それでまた遊んで楽しくやっていければ、それでいいんじゃねーの? なにがわるいの? という問いに対して、他の人とか地域とか社会とか世界に貢献できる仕事を地道にやっていった方がよいのだ、というのを社会が社会的に正しい答えとかありようを示すことができない(「勝ち組」のザマを見ろよ)ので、こんなことになってしまったのだ、なんて妄執を軽く蹴っ飛ばす痛快さはある。青春映画って、こういうもんよね。

シンナーやると世界が変わるよ、とかそういう話ではなくて、いまの世界で日々を暮らしたり生きたりすることは例えばこういうこと – よいのもわるいのも含めて - なのだ、というのを「国道」をひとつの基準線のようにして示してみること。ここで引かれた線から「近所」のアジアの人たちやブラジルの人たちのありようについて目を向けていくことは、ごくあったりまえだし痛快だし、もっとやれー、しかない。

「ロードサイド」の感じとしては” Two-Lane Blacktop” (1971) - 『断絶』のにっぽん版、くらいの不敵さと不穏さが覆っている。覆ってほしい。

上映後のトークではデジタル化にあたって背後の音は結構足したり整えたりした、って。確かに虫の音とか夜の通り沿いの音がすごくなっているようだったので爆音でもう一度。

自分の子供の頃、近所には国道14号線があって、国道だから間違いあるまい、って何かを信じこんでいて、そこを3時間くらいひとりで歩いて船橋の映画館で公開されたばかりの「ゴジラ対ガイガン」を見にいった。小学2年生くらいだったのに映画館もよく入れてくれたものだと思うが映画見て、とっても満足してまた歩いて帰ったらいろいろ怒られた思い出がある。いまもやっていることはそんなに変わっていないかも。

[film] Garde à vue (1981)

10月10日、休日の午前、シネマカリテのクロード・ミレール特集で見ました。これがこの特集の最後の1本。

邦題は『勾留』、英語題は”The Grilling”。こんなのが劇場初公開だったなんて信じられない(くらいすてき)。 以前にソフト化されていた時の邦題は『検察官 レイプ殺人事件』だって..
原作はJohn Wainwrightの”Brainwash”、映画は1982年のセザール賞のBest Writing, Best Actorなどいろいろを受賞している。音楽はGeorges Delerue。

冷たい雨ざあざあの大晦日の晩、ガラスや仕切りが収容所のように見える警察署の尋問部屋に裕福な公証人のJérôme Martinaud (Michel Serrault)がパーティの装いのまま呼びだされて、密室で少女2人の暴行殺人事件の取り調べ尋問が行われる。任意同行なら大晦日だし帰りたいのだが、とJérômeは言うものの、取り調べにあたる刑事のAntoine Gallien (Lino Ventura)とMarcel Belmont (Guy Marchand)はそんなの知らんというかんじで淡々と、犯行当時、犯行現場近くにいたことを認めるか、いたのであれば理由はなにか、なぜどうやって遺体を発見したのか、などを辛抱強く、強い恫喝などせずに聞いていく。明らかに言い訳みたいなその場限りの嘘っぽい供述が出ても深く突っこまずに辛抱しながらじりじりと詰めていって、Belmontの方は我慢できずに苛立ってGallienが席を外した隙に殴る蹴るをやったりしてしまうのだが、Jérômeの方は取り乱したり正気を失うこともなく落ち着いていて、同様に無表情にどっしり構えて少しづつ距離を狭めていくGallienとの睨みあい勝負になっていく。

その時、犯行現場の近所にいたからと言って、それが決定的な証拠に繋がるわけではもちろんなく、なんでその時間に彼がそこにいて何をしていたのかを明らかにしなければいけない、最後のぎりぎりのところで、Jérômeははぐらかしを続けていて、難しいけど長期勾留して吐いてもらうしかないか、となってきたところで、Jérômeの妻のChantal (Romy Schneider)が別室にやってきた、と。

Chantalは冷静を装いつつも張りつめていて、でももう我慢できないと、彼女の8歳の姪CamilleとJérômeの間に彼女の実家で起こったことについて苦痛と共に吐きだすように語って、それを受けたGallienはこれでもう決まりで終わりかも、とJérômeのところに戻ってそのことを告げると彼も諦めたようになって、年の終わりの長い夜が明けた、って外にでると..

攻防の始めからこれはどう見ても白黒の先が割と見えているやつ、向こう側とこちら側がはっきりしていて、あとは細部や動機を掘ったり固めたりするために時間を要するだろうが、少なくともJérômeはこの件についてなにかを知っていそうだし、GallienはJérômeのそういう防御の素振りから時間が経てば必ず崩れる/崩せると踏んでいて、「勾留」された状況下でのやりとりを見つめる我々はその攻防をチェスとかスポーツのゲーム(or 金網デスマッチみたいなやつ?)を見るように見る、のだと思っていた、わけだが、ゲームがその通りに推移してくれる保証なんて実はどこにもなかったのだ、ということが最後に明らかになる。そのものすごい残酷さと悲惨、それがもたらす絶望ときたら。

夜の闇はいったいいくつあるのか? 打ち捨てられて横たわる体はいくつあるのか? ひとつ開ければ必ず誰かのー。

最後までトーンの揺るぎがない鉄面のMichel Serraultの演技もすごいが、砂のようなその表面を辛うじて保ちながら言葉を紡いで吐き出していくRomy Schneiderもすばらしい。この夫婦の間にはあと数千の秘密が眠っていそうで、ずっと勾留状態にあったのはそれらの砂のなかに埋められてきた彼女の方だったのではないか。登場シーンは短いのに、最後にぜんぶ持っていってしまう。

そしてそれらの鉱物らを前に一切表情を変えず/見せず、目の前のあれこれを「処理」していくLino Venturaの冷徹さ、おっかなさ- “L'armée des ombres” (1969) - 『影の軍隊』の頃からの揺るがない組織の要というかとにかく一番怖くてもっとも敵にまわしたくないやつ。勾留された先に彼みたいのが立っていたら、その時点で白旗あげるしかないわ。

Lino Venturaは、先月からMOMAのフィルム部門でマチネーでずっと特集がかかっている。クロード・ミレールは、他のもぜんぶ出してほしい。

10.23.2022

[film] The Justice of Bunny King (2021)

10月9日、日曜日の昼、”Tre piano” (2021)に続けてヒューマントラストの有楽町で見ました。
邦題は『ドライビング・バニー』。ニュージーランド映画で、監督はこれが長篇デビューとなるGaysorn Thavat。

車で混雑している交差点で車のフロントガラスを拭いて小銭を稼いでいるBunny King (Essie Davis)がいて、きびきび愛想よく働いて、そんな大きな稼ぎにはならないけど稼いだお金を大切に瓶に入れてクローゼットにしまって着替えるときにブラのワイヤが飛び出ていて痛いことに気づくのだが、新しいのを買うお金もなさそう。姉の家の隅に居候させて貰ってひとりでそういうことをしている日々の描写を通して、なんでBunnyがそんなことになってしまったのか、の過去などが明らかになっていく。

Bunnyには里子に出されて彼女との面会を制限されている子供たち - 少しずつ大人の事情をわかりはじめている男の子Ruben (Angus Stevens) とまだ幼くてママが大好きでたまらないShannon (Amelie Baynes) - がいて、彼らと一緒に暮らせるようになるためには安定した収入とちゃんとした自分の住処があることが条件で、それらを手にする日を夢みてああして日銭を稼いで、姉の夫のBevan (Erroll Shand)の好意に甘えて家の片隅で寝る日々を送っているのだった。

でもそんなBunnyと子供たちを見てきた保護観察局の職員はBunnyの懸命の努力は認めながらも当分の間は一緒にさせることは難しいかも、って見ているよう、だけどBunnyの生きる望みはそこにしかないので負けない。そんなある日、Beavanが姉の連れ子のTonya (Thomasin McKenzie)に車のなかでやらしく迫っているのを見てしまい、ぶち切れてTonyaを手をひいてBeavanの車をかっさらって..

なんでBunnyがあんなにブチ切れたのか、そもそもなんで彼女は保護観察下にあるのか、彼女が子供たちを虐待していた夫を殺してしまったから、というのがわかると、あー、ってなって、ルールを破って子供たちに(監察官立会なしで)直接会いにいってしまったり、追い詰められて減点まみれになった彼女が子供たちと一緒に暮らすのは無理としても(ずっと約束していた)Shannonの誕生日だけはせめて..

こうして最後の賭け、ソーシャルワーカーの事務所に向かって応対してくれた職員(Tanea Heke - よい人)を人質にとって立てこもり、子供たちをここに連れてこい! って要求してTonyaと人質とでオフィス内に娘の誕生日の飾り付けを始めるの。みんな黙って静かに…

Bunny、あんたやりすぎ、めちゃくちゃだよ、って誰もが言うに違いないけど、家も子供も名誉も奪われて社会のどん底に落とされた「母」であるBunnyにできることってあと何が残されているというのか? 真面目におとなしく働いてがんばればどうにかなる話だと思う? Beavanとか前夫とか虐待する側は野放しのやりたい放題なのに? これがBunnyにとってのぎりぎりの選択で”The Justice”で、その切実さははっきりと伝わってくるし監督が描きたかったのもその辺りなのだろう、って思った。

救いの部分もほんの少しは描かれて、家を出た彼女をガラス拭き仲間の家族みんなが歓待してステイさせてくれたり、ソーシャルワーカーの人もがんばってアドバイスをくれる、けどそれはBunnyのドライブに応えるような形 - ニッポンでいう自助の延長 - でしかなくて、明日の保証も安定も、そんなのどこにもありやしないという絶望が。

これを”The Babadook” (2014)で命懸けで坊やを守ろうとしたEssie Davisと、”Leave No Trace” (2018)でしがらみFreeになるにつれて輝きが増していくThomasin McKenzieが真ん中で演じているのだから、なんだか拳を握ってしまう - 割と隙だらけのところも含めて。ひとつあるとしたら、叔母と姪の”絆”という程には強くはない、けどやっぱり互いに好きなので信頼しあっているふたり、をもう少し前に出してくれたら、かなあ。

あと、ラストはBunnyをもうちょっとかっこよく見せてあげてもよかったのではないか。

英国のKen Loachが主に男の目線で描いてきた這いあがれないどん底で、それでも生きる彼ら(男)、とはちょっと違う、前科者のシングルマザーはどうやって生きろっていうのか、っていう悲鳴に近い嘆きがそこにはあって、見られるべきだと思った。

10.21.2022

[film] Tre piani (2021)

10月9日、日曜日の午前、ヒューマントラストシネマ有楽町で見ました。

英語題は”Three Floors” - 邦題は『三つの鍵』 - 話の内容からすると鍵って四つなんじゃないの? と思っていたら英語題で理解した。

イスラエルのEshkol Nevoのベストセラー小説”Shalosh Qomot” - Three Floors Up - (2017)をベースにして舞台をテルアビブからローマに移したもの。 監督のNanni Morettiにとって、自分のではない作品を原作として取りあげるのは初めてだという。

冒頭、夜中にアパートの上の方の部屋に明かりが灯り、荷物を抱えてしんどそうな妊婦のMonica (Alba Rohrwacher)が降りてきて、(おそらく病院に向かう)タクシーを捕まえようとやってきた車に手を挙げたら、その車が突然暴走して少し先に立っていた女性を轢いた後、アパートのガレージに突っこんで止まる。

車を運転していたのは若いAndrea (Alessandro Sperdute)で、明らかに酒に酔っていて、そのアパートに暮らす彼の父で裁判官のVittorio (Nanni Moretti)と母Dora (Margherita Buy)は、反省もせずに親のコネでなんとか刑を軽くしてもらおうとするAndreaに冷たく罪 - 轢かれた女性は亡くなった - を受けるようにするのだが、Doraだけはちょっと複雑な顔をしている。

Andreaの車がアパートに突っこんできた時、間一髪で事故を免れた – でも主人の仕事場はぐじゃぐじゃになってしまった一家 - Lucio (Riccardo Scamarcio)とSara (Elena Lietti)の夫婦は娘のベビーシッターが捕まらないことも多いので、隣の部屋に暮らすRenato (Paolo Graziosi)とGiovanna (Anna Bonauito)の老夫婦に彼女を預けたりしているのだが、ここのところやや痴呆が進んでいるように見えるRenatoの挙動がやや気にかかる。

冒頭に出てきたMonicaは無事出産はできたものの、夫は長期出張で不在なのでたったひとりで産後鬱になってしんどくて、義兄が出産祝いを持ってきてくれたりするものの、彼は投資関係の詐欺で訴えられたりして逃げたりしているので、夫からはあいつとは絶対に会うな、と言われたりしていて..

それとか、ある夕方にRenatoと彼に預けていたLucioの娘が行方不明になり、理由はRenatoが道に迷ったからだったのだが、発見された公園で娘になにかあった/されたのではないか、とLucioは疑念の塊になって入院中のRenatoを厳しく問い詰める(けど彼は思いだすことができない)のと、Renatoの孫娘Charlotte (Denise Tantucci)がパリから戻ってきて以前からずっと憧れていたというLucioに迫って関係を持ってしまうお話 – LucioはRenatoの病院に向かって娘のことで問い詰めて騒ぎを起こすが、彼はCharlotteの方からレイプの訴訟を起こされてしまって散々になったりの。

5年~10年くらいのスパンで3つのフロアに暮らしていた家族が、ひとつの事故から、というよりその前からあった小さな問題や痛みを表に出したり抱えたり結んだり開いたりをしつつ、ばらばらに壊れそうになりつつ、でもかろうじて保ったりなんとかして生きて(死んで)いくさまを重層的 – ではない、軽めの絡みあい、編み物を編むようにして描いている。ぶっといストーリーやイベントの力や過酷な時の流れなどでぐいぐい押して引いて巻きこむ、というより、ひとつの建物に暮らすそれぞれの家族に必ずやってくる死とか別れとか老いとか引っ越しとか、ドラマの節目に起こりそうないろんな点とか結び目とかを繋いで、でも簡単に共感とか感動の方には持ち込まずにああそうなるのかー/なるかもなー、に持っていくところが絶妙にうまい。ぜんぜんだれずに最後まで一気に見ることができる。余韻があまりなくてあっさり味なのは賛否あるところかも。

エピソードとしては、夫Vittorioが亡くなった後、ひとりになったDoraが家に寄りつかなくなったAndreaを探して、いまは家族と山奥に越して養蜂をしているらしい彼のところを訪ねていく話がなんかよかった。反省はしないし変われないかもしれないけど、赦すことはできる、できた - のだろうか? – 時間が経てば? - とか。

エピソードの重ね方とか隣り合わせる手つきとか、なんとなくタヴィアーニ兄弟の”Kaos” - 『カオス・シチリア物語』(1984) を思い出したり。また見たいな。

[film] Spencer (2021)

10月14日、金曜日の晩、109シネマズの二子玉川で見ました。
邦題は『スペンサー ダイアナの決意』 - 「決意」はあったのかなかったのか。

監督は“Jackie” (2016)をつくったチリのPablo Larraín、撮影はCéline Sciammaの最近の数作を撮っているフランスのClaire Mathon、音楽はJonny Greenwood。

1991年の冬、ノーフォークのサンドリンガム・ハウスの厨房に紋章入り軍用のケースに厳重に収められた食材(この時期のカニ!)が運びこまれて、クリスマス・イブからBoxing Dayまでの3日間、王室の面々がそこで過ごすための準備が始まって、王室メンバーが個別にやってきて、入り口では尊大なAlistair Gregory (Timothy Spall)による体重測定 - 分銅式の古い秤で - が行われたりしている。(慣わしらしい)。

でもDiana (Kristen Stewart) - タイトルが名字の”Spencer”であるのはとても象徴的 – はひとり車を運転して道に迷って苛立ったりしていて、目的地に辿り着く意欲があるとは思えない – 挙動だけを見ればちょっと病んでいるように見えないこともなくて、丘の上に立つ案山子にかけられたジャケット - 彼女の父Spencer伯爵のだという - を拾ってから厨房のシェフDarren (Sean Harris)に発見され、体重を測られて中に入れられる。招きいれられるというより、どう見ても収監される、というかんじに近い。

この3日間、ほんとうに実際に、この屋敷の中でどんなことが起こったのか、知る由もないわけだが、いくらでも想像することはできる。女王は毎年ここから恒例の王室のクリスマスメッセージを発信するし、それ用の写真も撮られるし、でも公式のそれらとは別にDianaはどうだったのだろう? 楽しんでいたか悲しんでいたか – たぶん、いやぜったいに悲しんでいた – どれくらい? どんなふうに? という問いに対する例えば、がこの映画で、傍にいて話を聞いてくれるのは子供たち - WilliamとHenryと、シェフのDarrenと衣装係のMaggie (Sally Hawkins)と、それくらい、あとは全員彼女を監視して苦々しく思っていてどう扱ったらよいものかと持て余している。彼女ははっきりとそれを感じて、それが自傷や過食を加速させる – のかもしれない。ものすごくおいしそうな料理がいくら運ばれてきても、本棚に読めそうな本がいっぱい詰まっていても、きれいなドレスがいっぱい掛かっていても、悲しいものは悲しくてやりきれない、ここは牢獄であとは断頭台に送られるのを待つばかり、とAnne Boleynの本を読んで(Camilla Parker BowlesはJane Seymourか)、でもやっぱりどうにもならないの。

誰もが羨む王家に嫁いで祝福されて、よいこの子供たちにも恵まれて、朗らかに過ごしてよいはずの年の瀬の3日間は、こんなにも腐った地獄の底で、それは配偶者の実家に送られて家父長のためにおせちを作らされたりクソくだんないTVを見せられてよく知らない親戚の相手をさせられたりする地獄と同じなのか違うのか。同じでよいのかも。自分は生きていない、監視され値踏みされている、尊厳も未来もない、とにかくつまんなくて悲しい。なんでこんななのか? いつまで続くのか? などを延々並べていく。並べちゃえ。

なかでもCharles (Jack Farthing)は子供たちをやめてほしいキジ撃ちに連れだし、Maggieを送り返し、自分と同じ真珠のネックレスをCamillaに与え、とにかくひどいことばかりする - ありえない – そういう出口なしの状態が延々と続いていって、そんなの見ていてなにが楽しいのか? というとべつに楽しくはないけど、Kristen Stewartがものすごいから見た方がいい、ってそこだけはたしか。

監督がKristen Stewartに演技の参考として見るように、といったのがCassavetesの”A Woman Under the Influence” (1974) - 『こわれゆく女』のGena Rowlandsだったって。なるほど。

Dianaのことをよく知らなくても、ひとは悲しいと、愛や家を失うと、こんなふうになってしまうものだ、というのがお屋敷のなかで、ホラーとは異なるスタイルで描かれていてなんかよくて、そこから解放された彼女は“All I need is a Miracle”を車で流して思いっきり歌い、子供たちとKFCを食べてすっきりするの。

“Jackie”ではMica Leviだったが、今作のJonny Greenwoodの音楽は弦楽からフリージャズから現代音楽まで、隙間も含めた空間の埋めかた、というか擦りかたがすばらしい。ひとつ前の”The Power of the Dog” (2021)もその前の”Phantom Thread” (2017)もすごかったけど。


The Princess (2022)

10月8日、土曜日の午後、ル・シネマで見ました。 邦題は『プリンセス・ダイアナ』。
冒頭は、パリのあの晩、リッツの前でパパラッチが追いかけていった - すげえなー、という声。

こちらはニュースや記録映像を繋いでいくドキュメンタリーで、ナレーションも説明字幕もなく、でもだいたいいつどこのなにを報道しているのかはわかる。(当時のことをよく知らない人たちにはどう見えるのだろう? というのは少し)

どちらかというとDiana本人や関係者の悲しみや悲劇、というよりも彼女の離婚前後から死に至るまでの(死に至らしめた)ニュース・メディアの明らかに狂った騒ぎようとかやりたい放題を、こんなにも、いくらでもあるよ、って繋いでいって、それは変わらずに今でも。

見ていると – NYは夜中だった – 亡くなった時のニュースのあの瞬間が蘇って、もし彼女が亡くならなかったらなー、って改めて思う。彼女が生きていたら どんなふうに歳を重ねてどんなことをしていったかしら.. などなどをつい考えてしまうのだった。

最後に流れる日本版の主題歌みたいなのには相変わらずうんざりしかない。
ある人や時代の記憶の集積のようなドキュメンタリーに横から「自分たち」の記憶を上被せして、それをビジネスにして喜んでいる醜悪さ。こういう体質、ぜんぜん変わらないけど文句は言い続けるから。ほんとに嫌だし最低だし。

10.19.2022

[film] 化粧雪 (1940)

10月6日、木曜日の晩、国立映画アーカイブの東宝映画の90年パート2で見ました。
パート1での『花散りぬ』(1938)や『夜の鳩』(1937)がとっても印象的だった石田民三の監督作。

原作は成瀨巳喜男で、脚色は岸松雄、成瀬が病気で降板したので石田民三が監督となった、と。ものすごく暗い話であるが、ものすごくよい、『花散りぬ』や『夜の鳩』にも連なる、痺れるように冷たい夜の映画であり、女性映画だと思う。

場末の寄席 - 喜楽亭を切り盛りする勝子(山田五十鈴)がいて、夜の寄席はがらーんとしていて、その反対側の路頭で鳴らしている街頭ラジオでは漫才が大音量で流れていて、そちらの方が賑やかだったりして、なんだかとってもやなかんじ。

勝子の父の利三郎(汐見洋)は病でずっと床に寝たきりで、兄の金之助(大川平八郎)は遊び人で外に出たまま殆ど家に寄り付かず、借金取りにも追われているようで、弟の幸次(伊東薫)は進学したいけど家がこの状態では、と工場勤めで腐っていて、勝子が父の生きがいの寄席をなんとかまわしているのだが、父の思いはいちいちダメ長男である金之助の方に寄っていってしまうので(病気だよね。病気だけど)家父長制の不条理を姉弟がひっかぶってかわいそうなの。

でも、勝子は日々ぶつぶつ言いながらもそんなに動じてもいないようで、下足番の善さん(藤原釜足)や彼の女房の清川虹子と一緒に土間の延長のような吹きっさらしの寄席を行ったり来たりしている。寄席の客席って、椅子席ではなくて、靴を脱いで土間みたいなところに勝手に座るだけなので、暇そうな人がそのまま寝転がっていたり、なかなかアナーキーなかんじがたまんない。(昔の名画座もそんなふうだったような)

でもやはり全体としてはお先真っ暗で、そういうところでカメラを正面に見据えて三味線を抱えて唄う山田五十鈴の姿がすばらしいの。演技とかパフォーマンスとか、そういうのを超えた、路地路頭に突っ立つ明日のないブルースシンガーの凄みがあって、じっと見つめて聴くしかない。

いよいよ寒さで商売も父親もどうしようもなくなってきたところで、かつて寄席で世話になったという人気講談師 - 一竜斎貞山が一晩限りのライブをやりましょうって、節分の晩にやってきて、そのときばかりは大盛況になって – 脱いだ草履とか靴のぐちゃぐちゃが – やんやの歓声と拍手を聞きながら父親はなにも言わずに静かに亡くなり、それを看取る勝子たちも少し涙を見せるくらいで慟哭することもなく、しょんぼりと終わるだけ。そこに節分の「鬼は外~ 福は内~」が被さってくる皮肉。父の死で鬼は外に出ていったのか、でも内だっていずれどうせなくなるではないか、って。

この辺のストーリーの冷たさ残酷さって成瀬の基本トーンだと思うのだが、石田民三の演出とぺたんとした街頭に置かれたようなカメラによって、表面を白くするだけの化粧雪によって、より殺伐とした救いようのないものになっている気がした。(それがよいのかも。なんでよいのか?)


釣鐘草 (1940)

10月9日、日曜日の午後、同じ特集での石田民三作品。59分。『三尺左吾平』(1944)との二本立て。
特集のパート1でかかった『花つみ日記』(1939)と同様、高峰秀子主演による吉屋信子原作の作品。少女小説「花物語」のなかの一篇。

小学6年生の弓子(高峰 秀子)と弟の雄吉(小高たかし)のなかよし姉弟は村医者のおじさんおばさんの家に住んでいて、彼らの実の父親は博打三昧で家を潰していなくなり、母親(沢村貞子)は自分の実家に引き取られて別々に暮らしている。弓子の学校の先生は、彼女はものすごく成績優秀なので女学校に進学させるべき、っておじさんに言いに来て、おじさんは自分のとこの子供(3人)だっているのに、いいよ、女学校どころか大学だって、と返すので弓子は有頂天になるのだが、実家にいる母の再婚話 – このままいられても - を聞いて、自分が早く自活できるようになって親子3人で暮らせるようにならねば、と女学校を諦めて授業料が免除される師範学校の寮に入ることにする。

でも寮で暮らしてがんばっていたある日、雄吉の具合が悪いと聞いて.. (急展開)

釣鐘草っていうのは、弓子が押し花にして大切にとっておいたやつで、雄吉はそれをこっそり貰ってこの花をお姉ちゃんだと思って大切に持っていた、とか、弟へのお土産に買っておいた木馬(結構大きい)を抱えて必死で家に走っていくところとか、切なくてやりきれなくて。 弓子が淡々と唄う挿入歌もよいの。この歌と『化粧雪』で山田五十鈴の唄うあの歌(のありよう)は同じものなのか違うのか。

『化粧雪』も『釣鐘草』も、戦争の頃にはふつうにあったであろうなんの捻りもない話としてごく簡単に想像することができて、とにかく男ってなんもしないで勝手なことしていい気なもんだよな、ばっかりになる。怒りを込めて、というよりそのぽつんとひとり残されてしまう女性の姿、石田民三ってそういう女性ばかり描いているなあ、って。 ここに”Wanda” (1970)の”I'm no good, I'm useless, I can't do anything..”がなんとなく聞こえてきたり。

10.18.2022

[film] Un secret (2007)

10月8日、土曜日の昼、シネマカリテのクロード・ミレール映画祭で見ました。

邦題は『ある秘密』、英語題は”A Secret”。原作はPhilippe Grimbertによる2004年の同名小説(米国版のタイトルは”Memory: A Novel”)で、彼自身の家族に起こったことをベースにしているという。

第二次世界大戦後(50年代)のフランスに暮らす少年François (Valentin Vigourt)がいて、母Tania (Cécile De France)は飛び込み台から華麗に飛び込んでみんなに惚れぼれ見上げられるかっこよく美しい人で、父Maxime (Patrick Bruel)はやはりスポーツ万能のマッチョな体操教師で、そんなふたりの間にできた自分はひょろひょろ病弱のガリ勉で、近所に住む家族の友人Louise (Julie Depardieu)に身体を見て貰っていろいろ話しているうちに、健康でスポーツ好きで快活な - 自分とは正反対の兄の存在について夢想したりするようになり、そこから更に、両親には隠そうとしている過去があること、自分にはそうやって消されてしまった兄がいたのではないか、という考えが根付きはじめる。

そんなある日、古いタンスの引出しから古びた犬のぬいぐるみを見つけて、そのぬいぐるみを手にした父親の反応を見ると..  ここで時間は80年代 - François (Mathieu Amalric)は中年になっていて、突然姿が見えなくなった老父を近所で探していると、道端で轢かれてしまったらしい犬の傍らで嘆き悲しんでいて、そこから彼がHannahからかき集めたりした断片と共に父の、一家の秘密が明らかになっていく。隠されていたひとつのものを暴く、というより、それは複数折り重なるように丁寧に重ねられていて、ぬいぐるみに幾重にも積もった塵ほこりを丁寧に掃っていくように、行ったり来たりを繰り返しながら注意深く捲られていく。

Maximeはユダヤ人の家に生まれて、同じくユダヤ人のHannah (Ludivine Sagnier)という女性と結婚しようとしている式の晩、花嫁の兄の妻であるTaniaと出会って、Hannahとは幸せな家庭を築いて息子Simon (Orlando Nicoletti) - 元気いっぱいでFrançoisの逆 - にも恵まれるのだが、戦争に向かってユダヤ人への迫害とかいろいろ物騒で不安定になっていくなか、Maximeは水泳選手としてパーフェクトな肉体美を誇る – 『意志の勝利』(1935)の映像が挟まれる – Taniaに引き寄せられていって彼女の夫が兵役で不在となっている間に。 それをすぐ横で肌で感じていたHannahはゆっくりと萎えて壊れていって、迫害から逃れるべく近隣一族でユダヤ人ではないパスポートを用意して国を越えて疎開することになった時、国境の検問所でHannahとSimonは…

直接的・表面的にはアウシュビッツの悲劇、として括られる出来事なのかもしれないが、そうとも言い切れない、例えば結婚をきっかけとして家族や出自、血を継ぐこと、それらがいろんな皮肉や迫害や妄想のなかで記憶や想像を圧していって、時間をかけてなにかがなにかを押しやるようにして、崩落が起こる(止められない)。 – それが起こるのはHannahだけではなく、MaximeにもTaniaにも、Françoisにも。 となったとき、そもそもの「秘密」とは誰から誰を、なにからなにを守るためにあるものなのだろう、そもそもなんのためのもの「だった」のか…  って。

Mathieu Amalricがとぼとぼと歩いていく現代のパートはモノクロで、過去(30年代、40年代、50年代いくつか)のパートはカラーで映しだされて、でもカラーだからと言ってなにかが鮮明になるわけではないの。どれだけ鮮明になっても、過去の記録映像を証拠のように重ねられても、埋まらないものは埋まらない。まずはFrançoisとMaximeの痛ましいやりとり、そしてなによりもHannah とMaximeの間の。

Mathieu Amalricと言えば、こないだの彼の『彼女のいない部屋』も、こんなふうにもう抱きしめることができない向こう側に向けた「どうして?」と問う詩だったような。

nobodyのサイトに梅本洋一『見えない距離を踏破する クロード・ミレールについて』が掲載されていて、二人の人物の間の距離を詰めていくミレールに関する、すばらしい論考があるので読んでみてほしい。
この作品とか、François Ozonあたりが好きそうなネタだと思うけど、彼はこういう「距離」を描くことができないんだよなー、とか。

10.17.2022

[film] Les amours d'Anaïs (2021)

10月5日、水曜日の晩、ユーロスペースの『第4回映画批評月間 〜フランス映画の現在をめぐって〜』で見ました。
邦題は『恋するアナイス』、英語題は”Anaïs in Love”。

冒頭、ものすごい勢いでじたばた街角を駆け抜けていくAnaïs (Anaïs Demoustier)がいて、自分の部屋で家主と会ってずっと滞納している家賃の文句をやんわり言われてもAnaïsにはちっとも応えてなくて、そのまま外に出て自転車で友人宅のパーティに向かうのだが、閉所恐怖症でエレベーターには乗れなくて、通りがかった中年編集者のDaniel (Denis Podalydès)に助けてもらい、でもやっぱりエレベーターは無理だから、と階段で駆けあがることにしたり、万事がこの調子で数秒後には背中を見せてひとりで遠くに走り去ってしまう。これがAnaïs。

この調子で付き合ってきたらしい彼にはあなたの子供ができたけど中絶するから、って告げてあっさり去ろうとするので、だからな・ん・で・い・つ・も・君は! って呆れられてそれきりになり、そのうちDanielのアパートに通うようになってなんとなく彼と付き合い始めるのだが、彼の妻で作家のEmilie (Valeria Bruni Tedeschi)はいつ聞いてもどこかに行っていて不在で、壁に貼ってあるEmilieの後ろ姿のポートレートがなんとなく気になったりしている。

映画の真ん中くらいまで、後先考えずに落ち着きなく動きまわって、ずっとそんなでもなにをどうとも思わない、自分がいいんだからいいのよ、の彼女のせわしないことをとにかくこんななんです、って描いて、そこにはよいこわるいこの区分もなくて、彼女はずっとそれでやってきたのだから、ってべつに反省もしないしバチも当たっていないし当たってもひっかぶるのは自分、博論 – 17世紀における情熱、だって - をやらなきゃいけないのはわかっている、恋愛もお金もなんとかしなきゃなのもわかっている、それがなにか? 程度。

そんなある日、実家の母のガンが7年ぶりに再発したことを知って、母は気丈なのだがAnaïsにはショックで辛くて、なぜなら母が亡くなってしまうとAnaïsのなかにいた彼女も止まって消えてしまうような気がするから、それってどうにも耐えられない。

それと同じようにDanielのアパートで断片のように見えてくるEmilie - 彼女の口紅、香水、ドレス、もちろん彼女の書いた小説、などなどがはっきりした理由もわからない見えないまま彼女の傍に留まって迫ってくるので、とうとう我慢できなくなったのか院の教授から仰せつかっていたでっかいセミナーのアレンジ仕事をすっぽかして、Emilieのいる作家のワークショップの方に飛んでいってしまう(彼女の通常動作として)。

こうして、Durasの初版本とか、Cassavetesの“Opening Night” (1977)上映とか、”Bette Davis Eyes” (1981)で一緒にダンスしてうっとりしたりしながら、AnaïsはEmilieと出会って、ああこれだ、ってなり、それはDanielや元カレと一緒にいた時間や場所とはぜんぜん異なる、背を向けて突っ走らなくてよい、スローモーションで動いていく、官能的としか言いようのない時間のなかに共にある感覚と経験 – まさに「恋するアナイス」が生きる時間で、Anaïsはずっとそこにいよう/いたいと思うのだが、Emilieは..

やはりなんとなく、ノルウェー産の”The Worst Person in the World” (2021)を思い起こして、あそこでも走っていく時間とすべてが止まる瞬間があり、亡くなって後ろに遠ざかっていく大切な人のことがあり、恋によって燃えあがるいろんなことが描かれる点では似ている気もするのだが、こっちはあの映画のJulieのお話しではなく、なんとしてもAnaïsとEmilieのふたりの場所と時間に持っていこうとする – だってこれは恋のお話しだから、というのがとても強くある気がした。

あと、『満月の夜』(1984)は少しあっただろうか? こっちは夜ではなくて昼間の、浜辺の映画だけど。

ラスト、さんざん引っ搔きまわしておいて、閉所に囚われることから逃げ続けたAnaïsがエレベーターの箱にゆっくりと入っていく。その瞬間の素敵なことったらない。

Valeria Bruni Tedeschi、素敵ったらない。あのやわらかいかんじ。

Anaïsの兄はなんでキツネザルを飼っているのか?

10.16.2022

[film] Je vous salue, Marie (1985)

10月4日、火曜日の晩、Strangerのゴダール特集で見ました。 日曜日にマリコを見て、火曜日にはマリアを見る。

“Passion”のあと、間に”Prénom Carmen” (1983) - 『カルメンという名の女』を挟んでから、(さらに資金集めのための小品を挟んで)この作品。だから『カルメン…』も見たかったのになー。

Le livre de Marie (1985)

Anne-Marie Miévilleによる28分の短編。邦題は『マリアの本』、英語題は”The Book of Mary”。カメラはCaroline Champetierの他に2名(この2名は『こんにちは、マリア』の方でも撮影担当)、サウンドはFrançois Musy。音楽はショパンとマーラー。

湖畔に暮らす11歳のMarie (Rebecca Hampton)が離婚協議を進めるパパ(Bruno Cremer)とママ(Aurore Clément)の間でぬいぐるみをぶん回し、卵を割ったりマーラーで爆踊りしたりしながら、欧州統合なんてやらなくていいのはくっつくくせに、くっついていてほしいパパとママは離れていくっておかしいだろ! って日々の不条理に直面している。 そんなMarieにとって本というのはだなー。

Je vous salue, Marie (1985)

こちらがゴダールの監督による72分の中編。この作品でAnne-Marie Miévilleは編集を担当している。英語題は”Hail Mary”、邦題は『こんにちは、マリア』で、日本ではこの2本を括って『ゴダールのマリア』というタイトルで売っている(のにはずっと違和感を感じている)。

父親のガソリンスタンドでバイトをしながら高校でバスケをやったりしているMarie (Myriem Roussel)がいて、タクシー運転手のJoseph (Thierry Rode)は彼女に惹かれてふらふら近寄っていき、でもJosephには彼を想うJuliette (Juliette Binoche)がいて、そんな時、なぞの大天使Gabriel (Philippe Lacoste)ともう一匹(すてきなコンビ)が現れてMarieに君は懐妊している - やがて生まれる、と告げる。で、そんなバカな、って医者に診てもらっても処女だけど確かに妊娠している、と言われ、実際にMarieのお腹はだんだん丸く大きくなっていくので、魂に肉体が宿ったのだ、などど思うことにして、やがて男の子が生まれる。初めはMarieの妊娠に狂ったようになっていたJosephも受けいれて彼女を見守って一緒に育てていくようになる。その子こそがー。

これと並行してもうひとつ、妻子のある教師 (Johan Leysen)とEva (Anne Gautier)の半ばやけくその恋も描かれて、こんなふうにいろんな魂とか肉とかもあるよ、念のため、と。

『勝手に逃げろ/人生』(1980)で愛と労働と家族の間や周りで散ったり寄ったり轢かれたりしていく人々を描いて、続く”Passion” では男と女、それぞれの愛と労働が「革命」の方に突っ走っていくさまを描いて、これらにおける運命とか宿命って、あるいは「聖なるもの」ってどんな形なのか? と「カルメン」にフォーカスしてから、そういえば聖母マリアってのがいたな、と。 あの辺を起点として形成された信仰とか規範などがどうやって宗教改革を経由して「資本主義の精神」にまで行き着いていったのか、(そして今だに)とか。

あるいは、”Passion”の活人画制作の現場でMyriem Rousselの身体の尋常ではない曲線とそこに当たる光の肌理にやられてしまったゴダール氏がオトコの妄想とかフェチとかをフル回転させてその起源やモティーフを探し求めていくうちに肉 → 魂 → マリアに行き着いてしまった、とか。これが彼の最後の恋となったのだとしたらできすぎ、というかおもしろすぎる。

ゴダールの映画って、こんなふうに脇でいくらでも繋いだり剥がしたり当てつけたり誤読したり誤植したり、それをコラージュして転写して複写しても、どんなことしてもびくともしない伸び縮みの強さと自由があって、とにかくどれを何回見ても、いつも新しい。そんななにかを発見すべく、ビデオやデジタルの方に向かって、そのなかで「映画(史)」まで書いて、要はなんでも、ぜんぶある。そのうちきっと誰かが”AI Godard”とかやりだすのではないか。

丁度、Sight and Sound誌のGodard追悼特集が届いてぱらぱら見ているのだが、Kent Jones氏による長めの追悼文のほかは映画人の短めの弔辞がある程度だった。 同誌は2020年の6月に結構盛りだくさんのGodard特集を出しているのでそっちを見てね、ということかしら。


広報とか運営とかインフラとか、世界一のれない映画祭の季節が今年もやってきて、それでも何本かの映画は見たいのでチケット発売日に少しはがんばる。『アクセスが混雑しています』というよくわかんないメッセージを百回くらい見せられつつ、ほしいチケットはなんとか取れたけど、毎年文句言われて指摘されて、これだけ改善しないのも相当なあれだよね。「アジア最大」って、スポンサーが周囲にばらまいている金の総額でしかないでしょ。こんなのもうやめて円安で悪化する洋画の調達コストを支援するファンドに変えたら?

10.13.2022

[film] マイ・ブロークン・マリコ (2022)

10月2日、日曜日の午後、Tohoシネマズの日比谷で見ました。

原作の漫画を読んで知っているわけでもなく、キャストやスタッフをよく知るわけでもなく、タイトルが好きなのと、ポスター(ふたりの面構え)とかがよいのと、などなどでなんとなく。85分。

ブラック企業で日々ケツを叩かれてうんざりのシイノ (永野芽郁)が、昼間にラーメン屋でラーメンをすすっていると、店のTVにマンションから転落死した女性のニュースが流れてきて、そこに親友の(だった)マリコ(奈緒)の名前があったので驚いて混乱して、いてもたってもいられなくなる。

「なんで?」というのがでっかい吹き出しとして目の前にあって、なんで勝手に飛びおりたのか、なんで置いていったのか、なんで止められなかったのか、どうすれば悼むこと弔うことができるだろう、いまの自分になにができるのか、など、驚きと怒りと後悔と悲しみでぐじゃぐじゃになりながら、小さい頃からの彼女とのやりとり – よいのもむかつくのも - が次々と浮かんできて、それらはぜんぶ「会いたいよう」「なんでもう会えない?」に撚りあわされていく。

彼女の暮らした部屋に行ってみてももうほぼ片付けられていて、仕方なく彼女の実家に行って、白い骨壺になっちゃったマリコを見ると、小さい頃から虐待されたり性加害を受けてきた彼女の痣だらけの顔が浮かんであったまにきて、そこにいた父親をぶん殴り倒して骨壺を抱えて窓から飛び降り、裸足になっちゃったよどうしよう、って自分のアパートに戻ってカビだらけのDr. Martinを引っ張り出して、骨壺とマリコから昔貰った手紙一式を詰めこんで、昔マリコが一緒に行きたいな、って言っていた気がした「まりがおか岬」(という場所は実在しないらしいが)に行ってみよう、と。ここまでの後先考えないつんのめり感がすばらしいったらない。

「あたしには正直、あんたしかいなかった」
あんたしかいない、そんなあんたがいなくなったらあんたしかいないあたしはあたしじゃなくなっちゃうだろうが、見ろこれ、って。

バスに乗ってその岬のある青森の方に着いてもとりあえずご飯、とかどうしようか.. って途方に暮れていると後ろから来たバイクにカバンをひったくられてますますなにやってるんだ自分、になる。地元で釣りをしているマキオ(窪田正孝) - 蜻蛉のように薄い、どうでもいい存在感がすてき – に声をかけて貰ったりするものの、全てが宙に浮いたようになったところで、第二の飛びおり、というか墜落が。

わたしのぶっ壊れたマリコは飛び降りて亡くなって、彼女を弔おうとやってきた(他人が見たら後追いかと思う)シイノもそれにつられるように2回の飛び降りを実行することになるのだが、それをやってもマリコに再び会うことはできなかった or 生きのびたことでほんの少しは近づくことができたのだろうか?

これを例えば、マリコの受けた虐待や彼女の直面していた生きづらさをしっかり描いて、その上でマリコの死に向かう動機のようなところに接近していって、届かなくてごめんね.. のようなアプローチを取るのだったらべたべたで見ていられないものになったと思う。

でもこの作品は怒りと悲しみでコントロールを失ってやけくそのぼろぼろになったシイノが、ぼろぼろの自分のなかにマリコが抱えていたにちがいないなにかを見た気がして、そうやってマリコを抱きしめることができた、のかな? みたいになるまでを、感傷が入り込む余地のないやけっぱちのスピード感でもって描いている。 マリコがまだその辺を漂っているうちに、はやく! って。

もちろん死んだマリコはなにも応えてくれない。
ハッピーエンディングではぜんぜんない、でも地獄におちているわけでもなさそう(ちっ)。

物語としての落ち着きを持たせるためか、最後に手紙が読まれたりもするのだが、やけっぱちの疾走感がとだえることはなくて、会社のクソ上司からも.. (あの後どうしたのかな)

で、その状態になったところでエンディング - Theピーズの「生きのばし」(2003 – 約20年前の曲なのね)がバトンを繋ぐかのように - なんも保証できない明日を抱えてやけくそで走りだすのがたまんない。「くたばる自由に生きのばす自由」 ほんと半端に生きのばされてきちゃったもんだぜ、って - これは自分のこととして思ったわ。

10.12.2022

[film] They Were Expendable (1945)

10月1日、土曜日の夕方、シネマヴェーラのジョン・フォード特集で見ました。
この日3本目のジョン・フォード。結局これがジョン・フォード特集の終わりになった。邦題は『コレヒドール戦記』。

真珠湾攻撃の後の日本軍がもってきたフィリピンの戦い(1941-42) をベースにしたWilliam Lindsay Whiteによる同名の本(1942)が原作で、中心のふたりの軍人にはモデルがいる。タイトルをそのまま訳すと「彼らは消耗品だった」で、邦題はよくわからない - コレヒドールが主な戦地になっているわけでもないし。

冒頭、米海軍のPTボート部隊を指揮するBrick (Robert Montgomery)が提督にボートの機動力や俊敏さをデモする(まだ実戦経験なし)のだが、あまりアピールしなかったらしく、Brickの仲間のRusty (John Wayne)は戦闘に参加したいのにつまんないから転属願いを書いていたら真珠湾攻撃が起こって、続けて日本軍がフィリピンに侵攻してきたのでそれどころではなくなる。

PTボート部隊での出撃以前に右手の怪我をなんとかしないとやばい、となったRustyは病院に入って、そこでSandy (Donna Reed)と知り合って仲良くなったりしている脇で、PTボートは犠牲者を出しながらも戦績をあげて認められるようになっていって、でも戦局はどんどんひどくなって撤退したりマッカーサーとかの幹部をオーストラリアに移送したりする必要が出てきて、各地を転々と敗走していくなか、PTボートもBrickのとRustyのの最後の二梃になっていって…

一応最初にマッカーサーの米軍を讃える言葉も入って、明らかに米国/軍の戦意高揚映画として作られてはいるものの、ここで描かれている戦争は米軍がどんより敗走していく様を描いてあんまりかっこよいものではない(かっこよい戦争なんてないけど) – はっきりとロクなものではなくて、死んでいく兵士もいっぱいいるし、RustyとSandyの恋も電話線頼りになって切れたままになるし、BrickもRustyもPTボートを使ってそこそこの手柄をたてるけど、全体から見ればそんなにすごいことでもなさそうで、タイトル通り”They Were Expendable”として使われたりたらい回しにされたりしていくばかりのような。 最後だってPTボートが使えそうながわかったので米国に戻って量産のラインに入ってほしい、って言われて飛行機で帰国できることになったのに、直前にやーめた、って前線に戻ろうとするし、そんなんでいいのか?

誇張したってしょうがないのでやけくそのようにそのままを描いたらなんだかざらっとかっこよいふうになった – これってボグダノヴィッチがフォードから聞きだそうとした『敗北における栄光』のようなものかというとやっぱりそうでもないような。人は死ぬし離れ離れになるし船は必ず壊れれるし戦争が止むことはないし – この限りにおいて勝ちも負けもあるとは思えないし、それらが意味を持つようにもみえないし – つまりはみんな消耗品なんだよ、それだけ、って。

そういうなかでぽつんと描かれるRustyとSandyのやりとりとかふたりのダンスがすばらしいの。ほんとに一夜の、あの時だけだったにしても、あの場にいたふたりは消耗品ではなくて、あそこで生きて恋のなかにいた。

戦闘の場面は軍の協力もありお金をかけているせいか、結構ダイナミックですごい - 構図とか『地獄の黙示録』(1979)なんかで見たようなのが既にあったり(ヘリコプターの空撮はないけど)、海の飛沫とか火の粉とかどこから飛んでくるかわからない銃弾 - 『肉弾鬼中隊』のあれ - などに囲まれて翻弄されていく中で、John WayneもRobert Montgomeryも他の男たちも、泣き叫んだり慟哭したりすることもなく極めてプレーンな表情で言われたからやるだけ – どうせ消耗品ですから、みたいに戦地に向かっていく。喜劇でも悲劇でもないし善だの正義だのもしらん – そこには”Mary of Scotland” (1936)のMaryのようなつーんと突っぱねる何かがあって、なんかいいなー、って。

自分が戦争ドラマに求めているのはたぶんこういう平熱だったり冴えなかったりのいろんな顔が出てきて淡々と吹っ飛ばしたり吹っ飛ばされたりするやつで、それは名前が少し似ている「娯楽大作」 - “The Expendables” (2010 - )の楽天さともぜんぜん違って、今だったら”Andor” (2022 - )あたりにありそうなやつ。そういえばこれも”Rogue One” (2016)も、人の間でドロイドが印象的な動きをするよね。

10.11.2022

[film] Mary of Scotland (1936)

10月1日、土曜日の午後、シネマヴェーラのジョン・フォード特集で見ました。

個人的にはこの特集パート2の目玉で、なんとしても見たかったやつ。『メアリー・オブ・スコットランド』

Maxwell Andersonによる1933年の同名戯曲をDudley Nicholsが脚色しているのだが、16世紀のスコットランドの史劇をJohn Fordが監督して、これにKatharine Hepburnが主演する(もとはGinger Rogersがやりたがったものらしい)、ものすごく変なかんじのする1本だが、エリザベス二世の死がついこないだで、”Downton Abbey”の新しいのを見た翌日に見るのにはちょうどよいようなー。

Queen Elizabeth I (Florence Eldridge)によるイングランドの治世下、幼い頃にフランス国王の元に送られていたQueen of Scots - Mary (Katharine Hepburn)がフランス国王の死によってスコットランドに戻ってくることになり、Elizabeth Iはあいつはやばいのでなんとかしろ、と周囲に命じて、彼女を迎いいれた家臣たちもほぼそっぽを向いて、頼りになるのはフランスから連れてきた秘書のRizzio (John Carradine)くらい、宗教の方ではJohn Knox (Moroni Olsen)がやかましく吠えて彼女を糾弾したところでBothwell伯(Fredric March)がバグパイプの音色と共に勇ましくやってきて力強い味方になってくれるのだが、結婚相手はちっとも素敵に見えないなよなよのDarnley卿(Douglas Walton)を有無を言わさず押しつけられて、息子は生まれたものの愛を誓ったBothwellからは引き離され、なにもかも監視され縛られ弾かれて最後には屈辱的な裁判にまでかけられて、お家も位もぜんぶ捨てるのであれば助けてやる、って言われるのだがふざけんな、って自らギロチン台に向かう。

同じMaryを主人公にした映画だと、最近の“Mary Queen of Scots” (2018) - 原作などはまったく別 - が記憶に新しく、こっちのQueen Elizabeth I (Margot Robbie) vs. Mary (Saoirse Ronan)はとってもウェットでエモかった記憶がある(あ、Max Richterの音楽はすばらしかった)が、今作でKatharine Hepburnが持ちこんでくる際立った暗さと絶望感、救いようのなさの深さなどを見てしまうと、とっても大人と子供なかんじはする。

最後に対面して会話をするElizabeth IとMaryの、その静けさと冷たさと背後の暗がり、そして勝利する(としか言いようがない)Maryの崇高さというか誇りというか。ここの場面にAnne Bancroftの、あの”So long, ya bastard!”が被さる。

そう、同様のどん詰まり感でいうと、フォードの”7 Women” (1966) - 『荒野の女たち』の辺境に女医としてやってきて、仲間の命と引き換えに自死を選ぶAnne Bancroftを思い起こして、なんでこういう威勢のよい女性主人公の最期に(毅然とかっこよくではあるが、やっぱり悲劇的な)死を選ばせてしまうのか、というのは少し気になる。それを強いる - 強いてきた - のはどこのどいつなのか、について。

興行的にはコケて、Katharine Hepburnでは当たらない説が補強され、それは”The Philadelphia Story” (1940)まで続いた - という通説があるのだが、その間には、”Bringing Up Baby” (1938)だって、”Holiday” (1938)だってあるんだから、そんなのはMaryを陥れたイングランドと同じくらいひどい話ではないか、と思う。でもこの作品撮影中のジョン・フォードとケイティーが喧嘩したエピソードは、なんかいいな。

あと、ほぼコメディでしか知らなかったFredric Marchがこの作品ではかっこよくて少しびっくり。バグパイプがわんわん鳴るなか、登場するところは意味なく盛りあがるねえ。


Doctor Bull (1933)

10月1日、↑ に続けてシネマヴェーラで見ました。『ドクター・ブル』

Will Rogers主演による「スモールタウン」三部作の一作目で、ここまで『プリースト判事』(1934) - 『周遊する蒸気船』(1935)と見てきて、Will Rogersってよいなー(好き)って思ったので見た。でも、ストーリーとしては(一作目なのに)一番陰気でしょんぼりだったのが意外。

町医者のDr. George "Doc" Bull (Will Rogers)はいつも住民に電話で呼ばれたり声かけられたり慌ただしく走り回って、動物でも赤ん坊でもなんでも見ていくのだが、一部の住民からはなんでか反感を買って、未亡人との仲を疑われたりして裁判で弾劾されて町を出ていくことになる - でも最後にはチフス流行の件とか彼が下していた判断が正しかったことがわかる。

“Mary of Scotland” (1936)からの流れでこの作品に来るのって、ぜんぜん関連ないように思われたのだが、蓮實 重彦の『ジョン・フォード論』には「囚われること」というテーマで噂話や偏見に基づく排除の力学という観点からこの二作が論じられていて、そういうことかー、って。そしてたぶんDocは、この後に旅を重ねて女性となって『荒野の女たち』に改めて登場するのだと思った。

10.10.2022

[film] Downton Abbey: A New Era (2022)

9月30日、金曜日の晩、109シネマズの二子玉川で見ました。
邦題は『ダウントン・アビー/新たなる時代へ』。以下、ふつうにネタばれはしてます。

Downton Abbeyの世界は、日本で放映していた頃は横目で眺めていた程度だったのだが、英国にいた頃、特にパンデミックでロックダウンしていた頃にずっと流れていた再放送になんとなく嵌って見ていた。どのシーズンのどのエピソードから見てもよいの、時間が止まってて人殺しも革命も破壊工作も起こらずに、ただいろんな人たちがなんのためにだれのために奉仕したり愛したり議論しているのかもわかんないような/ように見える振る舞いを繰り広げながら、あのお屋敷の壁の内側と外側を貫いて、それでも日々の時間は支障なく流れていく、それを日向の猫になって眺めているかんじというか。

冒頭はお屋敷で行われたTom (Allen Leech)とLucy (Tuppence Middleton)の結婚式で、あのテーマ曲にのって忙しなく流麗に登場人物たちの隙間を動き回るカメラが式やパーティーでのあれこれを満遍なく写しとるイントロ - みんな元気そうで - 1928年? それがなにか? になる。ここだけで終わっちゃってもよいくらい。

今回の騒動はViolet (Maggie Smith)が若い頃(1860年代)に付き合っていたらしい(細かいことは語らず)フランスの貴族 - Montmirail侯爵から譲り受けたという別荘の譲渡が彼の遺言どおり執行されるのだが遺族側の抵抗も予想されるようなので、現地に行ってみてみよう、ってRobert (Hugh Bonneville)とCora (Elizabeth McGovern)と、なにかあったらどうするのだ、と執事のCarson (Jim Carter)が付いていく話と、お屋敷内で映画の撮影をしたいという話が来て、映画会社から一連隊が乗り込んで1ヶ月くらい居座る、とか言うので最初はそんなのダメって返すものの、撮影で入ってくる収入でボロくなった屋根の修繕ができる、というのでしぶしぶOKして、その間Robertたちは南仏に逃れていればよいから丁度よいでしょ、って。

当主たちが不在の間、Lady Mary (Michelle Dockery)が仕切るお屋敷にはBritish Lion Filmsていう映画会社から監督のJack Barber (Hugh Dancy)とか主演男優のGuy (Dominic West)とか主演女優のMyrna (Laura Haddock)とかがやってきて、厨房のみんなは映画スターだわ! ってそわそわするのだが、俳優たちにはそれぞれの事情があるのと、監督には上からいきなりトーキー対応しろ、って指令が来て音声部門がやってきて、でも令嬢役のMyrnaの喋りが甲高いコックニー訛りだったりするのでどうしよう.. とか。 (当時の撮影の様子が実際にこんなふうだったのかについては、いろいろ言われている。英国映画アーカイブ部門をなめんな、ってことか)

南仏対応チームは当たり前に不満顔でぶつかってくる侯爵の未亡人Nathalie Baye(すてきー)の相手をしつつ、侯爵が本当にVilotを愛していたらしいことが明らかになり、それどころかVioletが英国に帰ってからRobertが生まれた日を計算してみると、彼の父ってひょっとして… とか。

撮影の方は声を当てるのとか、音声が入るために必要となる脚本の直しについてはMolesley (Kevin Doyle)氏がやっつけたり、自分の訛りで落ち込んだMyrnaを元気づけるのに厨房チームが活躍したり、トーキーになって底をついた製作費をカバーすべくDowntonのみんながエキストラで出演することになったり、現執事のThomas (Robert James-Collier)はGuyに乞われて彼のマネージャーとなるべくハリウッドに渡ることになったり、いつものかんじ。

こんなかんじできて、でも最後には悲しいVioletの旅立ちがある。偶然であっても英国女王の死と重ね合わせないわけにはいかない。みんなの支えで柔らかに包みこんでくれる砦で、どこまでもずっと続いていくことを誰ひとり疑いもしなかった彼女がー。

Maggie Smithさんは自身の出ているドキュメンタリー映画でも壇上のトークでも、これとハリーポッターシリーズについて、あまりに長すぎて何がどうなっているのか、自分が何をしているのかもうわからなくなっている - おそろしすぎる.. って何度も語っていたので、もうやめどき、やめたかったのだろうな、って思いつつも、やっぱり寂しいよう。

海外への領土延伸/流出、近代の仕事や技術への対応、女王の死、これらがもたらすのが”A New Era”なのだとしたら、それはそうなのかもしれないけど、肝心なこと - そうなってもDownton AbbeyをDownton Abbeyたらしめているのは一体なんなのかについて、改めて考えさせられてしまうのだった。彼らはいつのどんなことをきっかけとして、消えてしまったのだろう? まだ世界のどこかにあったりするのだろうか? とか。(あったらあったでそれは問題だろうが)

次をやるのかどうかわかんないけど、やるなら世界恐慌から大戦に向かっていろいろきつくなるに違いないので、もういいかなー、くらい。

撮影でやってきたのが、Hitchcockのクルーとかだったりしたらもっと大騒ぎになっておもしろくなったかも。 実際に殺人が起こったりして、Molesleyが探偵になるの...

10.07.2022

[film] L'accompagnatrice (1992)

9月29日、木曜日の晩、シネマカリテのクロード・ミレール特集で見ました。
邦題は『伴奏者』、英語題は”The Accompanist”。原作はロシアに生まれて西ヨーロッパを経由して1950年にアメリカに移住したNina Berberovaの同名小説 (1935)、脚色はLuc BéraudとClaude Miller。

ナチスドイツの占領下にあった40年代のパリ、ステージでスポットライトを浴びてソロで歌って輝いているIrène Brice (Yelena Safonova)を見つめるSophie (Romane Bohringer) がいて、その後にSophieはIrèneの伴奏者となるべく会いにいって弾いてみて、採用される。

どこに行っても人を惹きつけるオーラと笑顔と歌声を放つIrèneとは対照的に客には背を向け、彼女の歌声に寄り添って音楽に集中し、ステージ上で彼女の歌の魅力を最大限に引き出すことがSophieの使命で、Irèneが夫や周囲の人たちに注ぐ目線と彼女に対するそれは明らかに違う(どちらかというと家政婦に対するそれ)のだが、音楽の伴奏については信頼してくれるので、それでいいか、くらいで、母と暮らしていたアパートを出て、Irèneの邸宅に越して、伴奏だけでなく身の回りの世話もしていくようになる。

Irèneの夫のCharles (Richard Bohringer)はヴィシー政権に近いドイツ関係者と商売をしているので生活には困らないものの世間の目に曝されてぶち切れたりしてて、Irèneには夫以外の恋人がいることもSophieは知ってしまうのだが、もちろん誰に言うこともない。戦争が来ようが家が荒れようがIrèneの歌に寄り添って弾いていくだけ。

戦局が厳しくなればなるほどドイツ寄りフランス人に対する風当たりは増して、商売への影響も出てきたのでCharlesとIrèneとSophieはポルトガル経由で英国に渡ることにするのだが、英国側の入管でCharlesとIrèneは対独協力者として拘束されて、英語もできないSophieは取り残されてどうしよう、になったところで拘束直前にIrèneのかけた1本の電話(たぶんパリで会っていたIrèneの彼への)であっさり釈放されて、3人はロンドンに向かって、新たな生活を始めて…

戦時下のドラマ、というのもあるが、戦時の波にもまれていく(本来であれば)ヒロイン(Irène)、の方ではなく、「伴奏者」として彼女のレールに並走していくことを選んだ女性の成長と目覚めを描く、というか。 もうひとつは、SophieがIrèneを見つめ、IrèneがSophieを見つめ返す、そこに愛はあったのかなかったのか、それは「伴奏」によって満たされるなにかだったのだろうか?

“L'effrontée” (1985) - 『なまいきシャルロット』で主人公のCharlotteが少女ピアニストClara Baumanに憧れて彼女についていきたい! と思うようになるのと同様の少女ドラマ、のようでいて、こちらのSophieはCharlotteよりもずっと静かで、自分の考えや思いを外に出そう、自分を彼女の目線に絡ませよう、とする意思は(ラストを除けば)なくて、それって時代とか自分の仕事をもつ前と後、の違いによるものなのかというとそれだけではなくて、Sophieは自分は伴奏者 - 歌曲の伴奏をすることが使命 - で、伴奏というのは楽譜と歌手(歌唱)の間に立って、双方からのインストラクションや制約の間をぬって渡っていくものなので、そういうところに縛られて生きる人なのだ、という内側の厳格な掟と、そのありようが戦時下のドイツとフランス、Irèneの夫と恋人、の対立の構図によってさらに複雑な縛りや絡みをもたらすようになり、全てを振りほどくかのようにいいかげんにしなさいよあんた!(Sophieの内の声)になってしまう様が描かれている。

前半の伴奏者として仕事を始めた頃のSophieの歓びが、Irèneの恋人 - 彼の目を見たこと、彼女の夫との距離を知ってしまったこと、自分もすれ違った男性に言い寄られたこと、などによって微妙に変化し、それでも「伴奏者」としてあることで何かを保とうとする、劇中、殆ど何かを吐きだそうとしない彼女は内側に何を抱えこんでいたのか。そしてラストの、船で出会った彼との再会した後の表情 ー 。

主演がCharlotte GainsbourgではなくRomane Bohringerだったのは、これでよかったのかも。

あと、Irèneの家にいたすごくかわいい猫はどうなったのか、誰か教えてほしい。

10.06.2022

[theatre] The Glass Menagerie

9月30日の昼、新国立劇場で見ました。Tennessee Williamsの最初にヒットした劇『ガラスの動物園』(1944)。

これの舞台だと、2005年にBroadwayのEthel Barrymore TheatreでAmanda - Jessica Lange、Laura - Sarah Paulson、Tom - Christian Slater、Jim - Josh Lucas というキャストのを見ていて、これもすばらしかった。

今回のは、Internationaal Theater Amsterdam/Théâtre de l'Odéonで上演されてきたIvo van Hove演出、Jan Versweyveld舞台デザイン、Isabelle Huppert主演による舞台劇。

ロンドンでは、2年くらい前にBarbicanで上演される予定だったのの、ものすごくよい席のチケット – Isabelle様のトーク付き - が取れていたのに、コロナ禍でたしか2回延期されて、泣きながら諦めて帰国したのが漸く来るって。いろいろつのるものもあり、こんなの当然会社やすんで行く。

始めにTom Wingfield (Antoine Reinartz)が舞台の縁、客席の前のほうに歩いてきて、客の手を借りて棒に紐とスカーフをぐるぐる絡ませたのを、えいっ、って一瞬で解いてみせる。こんがらかった糸も布もすらりと。すべてはマジックのように。(バナナブレッドのプディング、か..)

1930年代のセントルイスの下町、うっすら光っているようにも見える茶色-黄金色の壁に囲われた半地下のような穴倉のような住居にAmanda (Isabelle Huppert)と娘のLaura (Justine Bachelet)がいて、そこにTomが戻ってきて、その会話を通してこの家族が紹介されていく。Lauraははっきりそうは見えないけど足が不自由で、それを気にして学校にも行かなくなっていて、家の隅に転がって蹲り、本を読んだり音楽を聴いたり、壁に埋め込まれた戸棚の奥に自分だけのガラスの動物たちが暮らす動物園を隠している。

Amandaはそんな娘の日々のことをすごく心配してあれこれかまってしまうのだが、彼女もまた追憶のなか - 華やかで楽しかった過去の記憶の向こう側に生きている。そんな彼女たちを避けるかのようにあまり家に近寄ってこない語り部のTomは、配送会社で仕事をしながら詩を諳んじたり - 「シェイクスピア」って呼ばれる - ここからいつか出ていくことを夢見つつ、なかなか進めなくて燻っている。

Tomの高校の頃の友人で同じ配送会社に勤める – Tomより少しだけ収入はよい - アイリッシュのJim (Cyril Gueï)を家に呼んだから来るよ、と聞いたAmandaは(Lauraによい話だと思って)狂喜して、でもLauraにとっては卒業アルバムで見たりしていた憧れの人でもあったのでパニックでぐんにゃり転がってしまい、Amandaはフリルの、Lauraはややぴっちりめの衣装(by An D'Huys)でおめかしして、やってきたJimは気さくでLauraと高校の頃の思い出話をして盛りあがって、Amandaとも彼女の昔話とか料理で盛りあがって、Lauraは自分のガラスの動物園を見せてあげたり、踊ろうよ! ってArcade Fire “Neighborhood #1”に合わせてダンスをする – すばらしい高揚と解放 - のだが、そんなパーフェクトなJimには婚約者がいることがあっさりわかってしまい …

お話しの向かう先やそにに待っているであろう悲痛なトーン - ユニコーンの角は折れてただの馬になる – については十分に予測がつくのだが、それでも落ちぶれた敗者のかわいそうなドラマ、になることは断固拒否して、マジックではない、ガラスの動物園だっていい、そこにある生を抱きしめてとにかく生きようとする。同情なんていらない。

Tennessee Williamsどまんなかのエモまるだしの登場人物たちをIvo van Hoveがものすごくシンプルに清らかに造形して演出していて、彼が権力や欲望や悪徳を扱うドラマに見られるマシーン・歯車・筒抜け・ミラー、などの大仰な仕掛けから遠く離れた舞台セットも色味とか穴倉のどん詰まり感がよくて、どん詰まりなのに爽やかなかんじすら漂って、これが「愛」というものだったりするのか、とか。

そして、どこか壊れていて半分夢の世界に足を漬けてぺらぺらすごいスピードで喋って、おもしろい身振り手振りで相手の周りを飛び回って痺れさせるIsabelle Huppertの軽妙さと怖さの紙一重な演技のすばらしさ。どこかにいそうで、でも絶対いない気もする、でも彼女は間違いなくそこに生きている。そんなふうに脚や肘をつっぱって立つその姿。改めてライブで見れてよかった。

音楽だと遠く彼方で鳴っているものの他では、ダンスシーンでかかったArcade Fireのと、Barbaraの”L' aigle noir”が希望と絶望の狭間をブルースのように流れていく。

終演後のトーク - Ivo van HoveさんとJan Versweyveldさん – は時間が短すぎて、そこに通訳が入るので、ものすごく浅いものにならざるを得なかった – のはしょうがないのかー。


New York Film Festivalは佳境で、London Film Festivalも始まった。あーあーあー、しかない。なんだこの天気。

10.05.2022

[film] Passion (1982)

9月25日、日曜日の午後、映画館Strangerのゴダール80/90年代セレクションで見ました。
どうでもいいけど、「Passion 映画」でぐぐると、濱口竜介の『PASSION』がまずくるのね。

『勝手に逃げろ/人生』(1980)に続く、ゴダールの商業映画復帰第二弾。最初に見たのは日本公開時のシネヴィヴァン六本木で、この時点で見ていたゴダール作品というと『気狂いピエロ』くらい – 確か自由が丘で見た – で、あれは変なの.. 程度の感想しかなかったのだが、こちらは震えるくらいにびっくりした。 なにこのかっこいいのは! って震えた。ゴダールで戦慄した最初の1本。 撮影はRaoul Coutard。音響にはFrançois Musy。

冒頭の上に向かって線を描いて伸びていく飛行機雲にラヴェルの『左手のためのピアノ協奏曲 ニ長調』が被さっていくとこ、これだけでおおー、ってなる。ロンドンに暮らしてみてなにが素敵だったってああいう雲とか光をいくらでも見ることができることだったの。

スイスの湖のほとりの村に近い町にポーランド人の監督Jerzy (Jerzy Radziwilowicz)がやかましいプロデューサーLászló (László Szabó)と言い合いながらTV用のフィルムシリーズで活人画(tableaux vivants)を制作していく(でもうまくいかない)のと、そのJerzyの恋人で工場を解雇されたIsabelle (Isabelle Huppert)が工場主のMichel (Michel Piccoli)相手に抗議行動を起こしていくのと、制作スタッフが滞在するホテルのオーナーで工場主の妻のHanna (Hanna Schygulla)がJerzyと近くなっていくのと。 そんな4人の仕事と愛をめぐる四角関係が古典絵画の再構築の試行錯誤 - シリーズのタイトルが”Passion” – のなかで火花を散らして、そこに彼方からポーランドの連帯と戒厳令が聞こえてきて..

制作の現場で再構成されようとしている名画は、レンブラントの『夜警』とかゴヤとかアングルとかドラクロアとか、誰もが知っているような古典ので、これは現代社会のあれこれからすれば、隔絶されたひとつの世界とその像を形成している - そうやって対照される、例えば、絵画のなかに射す光と工場や周囲の山の中にある光、絵画で描かれた女性の形象と現場で浮かびあがらせようとする女性のヌード - 絵画のなかのモティーフとIsabelleやHannaの像が微かに重なっていったり、そしてなによりも「現場」がさらけ出してしまうongoingの現場感と、画家のアトリエの密室感との、そもそものギャップ等。『勝手に逃げろ/人生』における「地獄」の反対側に置かれているかのように永遠に静止している絵画の世界と。

『勝手に逃げろ/人生』との対比でいうと、はっきりと主人公Paul Godardから勝手に逃げたり散ったりしようとしていた女性たち、に比べるとこちらはまだ少しだけ愛したり見つめたり歩み寄ろうとしている – でもまだ後ろ向きで – かのような。それでもそれは(絵画の世界との対比においてなのか)”Passion” – 「受難」と呼ばれてしまうのだが。

絵画作品 – 特に主に西欧絵画 - への言及や参照はゴダールの映画のなかで常にあったもので、それは色彩であったり光であったり常に自分の作っている(いま作っている)映画との対比のなかで(or もっと大きな対象のとらえ方のようなところで)語られてきた気がするのだが、この作品ではもっとストレートに絵画作品のなかに入ってなにかを捕まえようとして、それはうまくいっているようで(悪くないし完成形が見たい - Myriem Rousselが出ているところとか)、でもここを通過して、やはり映画と絵画とは違うものだ、ということがよりはっきりしたのではないか。(この後のゴダールのデジタルへの寄り方を見ていると、なんとなく)

大好きなシーンでいうと、Isabelleが木の枝に片腕をひっかけてゆらーんてしているとこ。ここと冒頭の雲だけでー。 あとHanna、かっこよすぎてやや浮いてる。

『勝手に逃げろ/人生』のPaul Godardは車に轢かれて、今作のJerzy (JLG)は革命に身を投じるべく彼方に消えて、お前ら生ぬるいわ、って監督本人がゴダール本人のように登場して散逸していた光を束ねてライブ・ミュージックで固めたのがこのしばらく後の『右側に気をつけろ』(1987)で、最後に『ひとつの場所を Une place 地上に sur la terre』って、シンプルなところに落ちるの。『右側に..』も大好きなのだが今回の特集ではもう見ている時間がない…

もう始まっているNYFFの会場では、7日まで、ゴダール追悼で”The Image Book” (2018)をタダでループで流して続けているって、いいな。(『映画史』でもよかったのにな)

10.04.2022

[film] Bucking Broadway (1917)

9月27日、火曜日の晩、シネマヴェーラのジョン・フォード特集で見ました。

邦題は『鄙より都会へ』(読み:ひなよりとかいへ)。サイレントで、失われたものとされていたが2002年にフランスのアーカイブで発見されたものだそう。

ワイオミングのカウボーイ、Cheyenne Harry (Harry Carey)が牧場主の娘Helen (Molly Malone)と恋におちて、義父となる牧場主(L. M. Wells)からも認められて、彼女にお守りみたいのも渡してにぎにぎしていたら都会から馬の買い付けに現れたThornton (Vester Pegg)がHelenに近寄って、都会人が.. ってバカにしていたら暴れ馬とかも軽く乗りこなしちゃったりしたのでHelenはぽーっとなって、いきなり置手紙をして彼とNYに駆け落ちしてしまう。

あーあ、ってしょんぼりするHarryと義父のふたりだったが、ある日Helenからの手紙に渡したお守りの半欠けが同封されているのを発見し、これはヘルプを必要としているにちがいないぞ! ってひとりでNYに乗りこんでいって、これの裏で並行して馬の受け渡しにNYに向かう牧童たちがいて…

最初から展開は見え見えなのだが、パーティ会場に潜入して見るからに楽しんでいないHelenと地元に戻るなり傲慢で乱暴な本性を露わにしたThorntonを見るなりHarryの拳がうなりをあげて、でもひとりなので返り討ちのぼこぼこに… ってなったところでブロードウェイを馬で疾走してくる牧童たちの雄姿が!(弁士がいたら壇上でバシバシ引っ叩きまくって壇をこわすとこ)彼らがブロードウェイを北上してくるのを正面からとらえていてかっこいい。

で、連中が一斉に帽子をぶん投げてから始まる狂乱の乱闘シーンは遠近とかめちゃくちゃなのだが、そのダイナミックさ込みで沸騰していくかんじで、とにかく都会野郎なんてやっつけちまえ! なので異議なし。

それにしても、わかんないのはなんでHelenは見るからに怪しくて胡散臭いあんなのにぽーっとなって付いていっちゃったのか、って。そういうもんかしらー。

あと、ついていた伴奏音楽がややじゃんじゃかやかましすぎて、そこだけ。


Steamboat Round the Bend (1935)

9月27日の晩、↑ のに続けて見ました。問答無用の『周遊する蒸気船』

上映前に蓮實重彥さんのトークつき。今回の特集で彼のお話しを聞いたのはこれが初めて。チケットなんて取れないし。

Will Rogersの話、フォードにおける船の映画の話、当たり前かもだけど完成された話芸としか言いようがない面白さ。淀川長治さんと蓮實さんが最初に出会ったのはフィルムセンターでのこの作品の上映の時だったと聞いて、そういえばお二人が並んでいるのを見た最初って、シネセゾン渋谷で『生きるべきか死ぬべきか』(1942)の一回きりの上映があった時だったなー、とか懐かしく思い出した。でもそこよりも、あの晩は『生きるべきか死ぬべきか』の底抜けのすばらしさに唖然として、自分のなかで何かが変わったことははっきりと記憶している。

『周遊する蒸気船』。前にも一回見ていて、めちゃくちゃすごい(変な)ことはわかっていたので、淡々と余裕で入って、タコの足みたいに蒸気船が自分で自分を燃やしながらぶっとばし始めるあたりから前のめりになる。お酒を手放すことができないFrancis Fordが怪しげなお酒「ポカホンタス」(実際にあるのか少し調べてみたけど、なさそう)をボイラーにひゅん、て投げこんだらどかん!って爆発する一連の動作がキートンの映画みたいにおかしくて最高で、画面の向こうでもたまんねえなこれ、ってかんじでどかんどかんやりだして止まらなくなる。そもそもは、殺人の冤罪を着せられた甥を絞首台から救うために預言者のNewモーゼ(Berton Churchill)- 超うさんくさ - を探せ! ってなんだか思い出すのもどうだってよい適当でいいかげんなホラ話みたいなやつで、最後には絞首刑と結婚式が紙一重で交錯する。そこになんでぼろぼろの蒸気船(ぴーっ)で突撃してしまうのか、っていうばかばかしさ(とっても褒めてる)。

あと、出てくるのは変で狂った男(老人)とか蝋人形(燃料)とかばかりなのだが、婚約者のAnne Shirleyだけ浮きあがったように可憐で、そこの奇妙な非現実感もすてきだった。 こういうのに想像しただけで吐きそうな「国葬」の日に浸かることができてよかったなあ。

10.03.2022

[film] Peppermint Frappé (1967)

9月26日、月曜日の晩、Criterion ChannelでやっていたCarlos Saura特集で見ました。

邦題は『ペパーミント・フラッペ』。Carlos Sauraの監督デビュー作で、68年のベルリン国際映画祭の銀熊(Best Director)を受賞している(翌年のカンヌは68年のあれで、つぶれている)。見た理由はなんとなくー。

冒頭、ファッション誌を切り抜いて女性の目とかいろんなフィギュアを丁寧にスクラップをしている手があって、放射線医のJulián (José Luis López Vázquez) - 中年/独身/ハゲ - と地味で内気でおとなしそうな看護婦のAna (Geraldine Chaplin)が規模の大きそうな病院で仕事をしている。

それからJuliánはおめかしをして幼馴染で友人のPablo (Alfredo Mayo)の家に出かけて、作って貰ったお気に入りのペパーミント・フラッペを舐めながら結婚したばかりだという彼の若い妻 – Elena (Geraldine Chaplin)を紹介されると、彼女が彼の長年のオブセッションの対象だったCalandaという村のお祭りで太鼓をどんどこしていた女性(これもGeraldine Chaplin、計3役)にそっくりだったのではっとする。(そのことをElenaに確認しても、当然そんなの知らないと言われる)

いつも明るくご機嫌でやさしくて奔放そうなElenaにJuliánはやられてしまい、夫婦と会う度に裏でこそこそElenaと二人きりになれそうな機会を作って近づこう親密になろうとして、Elenaもそれに合わせて相手をしてくれるのだが、最後のところでいつもうふふ、とかはぐらかされて、そのうち彼の誘惑仕草がPabloとElenaの間で笑いのネタになっていることを知って、Elenaのことを諦める。

次に目をつけたのが自分の勤務先にいる静かで従順そうなAnaで、Juliánは彼女に自分のスクラップのコレクションを見せてモダン・ファッションに関する講釈を垂れ、つけまつげやウィッグをさせて日々の装いを変えさせたり、Elenaががんがん踊っていたちょっとガレージっぽいご機嫌なダンス曲(Los Canariosの” Peppermint Frappé”)をかけてみたりするのだが、Anaは言われるままされるがままのよいこである分、なんだかもの足りない、けどがんばってくれるのでよいか、ってじっとり調教していく - この辺、ぜんたいとしてものすごくやらしくて気持ちわるいんですけど。

で、こんなふうにAnaが傍にいてくれるのでそれなら次は、ってPabloとElenaのとこに行って彼らのペパーミント・フラッペになにかを仕込んで、へろへろの状態になったところで車に乗せて..

医者をなめたり怒らせたりしたらあかん、っていう典型的な教訓話のようであり、サイコっぽさを隠しているようで実はぜんぶ見えてしまっているサイコホラーであり、あれこれなかなかしょうもないかんじだった。ファッション雑誌やグラビア切り抜きの妄想の世界に生きてきた男が、同じような容姿の女性たちに出会って過去の記憶と実物と妄想を混濁させておかしくなっていくお話し。そして、そんなふうにおかしくなっても彼自身は痛い目にあうことなくそのままのさばっていく。

もてないさえない脂でねっちりした中年男が夢に見ていたような美しい女性と出会って、それまで培ってきたフェチとか萌えとかの嗜好妄想を爆発させて止まらなくなっていく不条理 – というほどのことでもない変態の条理の起源て、そもそもどこら辺にあったのか? などを考えさせるような内容になっているかも。一見趣味にいきる鑑賞者として人畜無害のようで、一線を越えてしまう怖さがあって、そういう猟奇もののように作ることもできただろうし、それって例えばこんなふうにもー。 そしてここに出てくるElenaもAnaも太鼓を叩く女性も、実はだれも悪くないんだけど、彼女たちがあんなふうに現れたから(自分にあんな仕打ちをしたから)に見せようとしているように見えるの、やっぱしひどくないか、って。

というようなことをクールな冷たいトーンの画面 - Peppermint Frappéもまた - のなかで淡々と捉えていて、怖かったかも。

あと、これって5月革命のあれこれの空気とは関係あったのかしら? とか。 政治と関係なさそう - あまりに関係なさそうなところがまたなんかー。

10.02.2022

[film] Sauve qui peut (la vie) (1980)

9月24日、土曜日の午後、菊川というとってもStrangerな土地に新しくできた映画館 - Strangerという - での『J=L・ゴダール 80/90年代 セレクション』という特集で見ました。

突然、ではないにしてもJean-Luc Godardが亡くなってしまったことについて、既にいろんな人々がいろんなことを書いているし、そりゃ書くだろう - 彼の映画は、それを受けて書かれたり自分が書いたり更に撮られたり撮ったりすることを狙うように、映画や映像がもたらすもの/もたらされる世界まるごとにでっかく揺さぶりをかけ続けるものだったのであり、その震源がすっかり無くなってしまったのだからー。

邦題は『勝手に逃げろ/人生』。英語題は”Every Man for Himself” - 「猫も杓子も」?。このタイトルについては邦題も英語題も、元のも(なんの括弧なの? あれ、等)よくわかんないかも。

シナリオは、Anne-Marie MiévilleとJean-Claude Carrièreのふたり。単独監督作としては13年ぶりの「商業映画」であり、Godard自身が「第二のデビュー作」と呼んだ、と。なぜこの作品はそう位置づけられるのか、を考えることが、この時代とこの作品とこの頃のGodardを語ることにそのまま直結する。自分が最初にこれを見たのは90年代のFilm Forumだった。

四部構成(1. 想像界 - 2. 不安 - 3. 商売 - 4. 音楽)で、三つの場所(「中間」 - 「かなた」 - 「地獄」、実際にはホテル、スタジオ、街中、田園地帯、など)を三人の登場人物が行ったり来たりする、悲劇でも喜劇でもない、物語のかたちをぎりぎりで維持しているかのようで実は何も語ろうとしない - 語ることを頑なに拒むかのように、なんだこれ? と、あーあー、の間を行ったり来たりとにかく落ち着かない。この落ち着きのない変則リズムが全編の音と光を統御している。

冒頭、Paul Godard (Jacques Dutronc)がホテルの一室にいてオペラ歌手(?)がオペラの練習をしている傍でヒゲを剃って電話でやりとりをしてて(歌手にうるさいーって怒鳴る)、荷物を抱えて慌しく部屋を出てホテルを抜けて車で仕事(?)に向かうまで。忙しいオトコの朝のあれこれ - ここのシーンにこの映画のモティーフがほぼ入っているような。

それから田園の緑のなかを自転車で滑るように走っていくDenise (Nathalie Baye) - ここすごく好き - がいて、彼女は妻子があるPaulと付き合っていて、彼は一緒にいたいようなのだが、彼女はそうでもなさそうなのと、娼婦の仕事を淡々としながらすべてがどうでもよさそうに見えるIsabelle (Isabelle Huppert)がいる。

TV局のディレクターかなにかでずっと忙しそうなPaulの他には、やくざっぽい大企業の幹部とかなにをしているのか不明だけど走り回って渡したり渡されたり、やはり忙しそうな男達がいて、B級犯罪映画のようなネタを散らしつつやばい方に向かっていくかに見えて、もちろんそちらには行かないし、行けないし - Sauve qui peut (la vie)。

見どころみたいなところで言えば、それはもう最初からDeniseの自転車と牛と、Isabelleの拗ねたような横顔くらいしかなくて、Paulなんてほんとどうでもよくていい気味で - 「勝手に逃げろ」/ やれるもんなら - な中で地点Aから地点Bへと向かう彼女たちの動き - Isabelleの金持ちとのホテルでの変てこ3Pとか - 感情も情動も一切排除するようにして描かれていて(それはなぜなのか?)、あと500回でも見ていられる。

これが80/90年代のGodardがやろうとしたスラップスティックなあれこれ - 映画ってやっぱしこういう音と動きの - の最初にあるやつで、物語の基本元素とかがブイヨン(二番だしとか煮凝りとか)のようにぜんぶ入っているような。でも一番、たまんなく好きなのは物語っぽさがどうしようもなく滲み出てしまっているような”Prénom Carmen” (1983) と”King Lear” (1987)、かなあ。

新しい映画館は、ぱりっと小さいけど見やすくてよかった。もし自分が富豪だったらどんな映画館をつくるか、よく夢想する - いまんとこ一番はNYのMetrographだろうか - のだが、ここはその点でも結構よいかんじかも。場所がちょっとだけ面倒だけど、通えたらよいなー。

10.01.2022

[film] Babi Yar. Context (2021)

9月24日、土曜日の昼、イメージフォーラムで見ました。初日の初回だったせいか満員だった。邦題は『バビ・ヤール』。

監督のSergey Loznitsaのドキュメンタリーはこないだまで上映していた『ドンバス』(2018)も『国葬』(2019)も見たかったのだが、とても重そうだし時間も取れなかったので、配信でなんとかして見たい。

監督がカメラを回しているわけではなく、制作チームがドイツ側、ロシア側から掘りおこしてきた当時のアーカイブ映像を全編で使用して繋いで作ったもの(音声のみ後付け)。

1941年9月29日と30日(81年前の今日か..)の2日間で、キエフに住む33,771名のユダヤ人が一箇所 - Babi Yarはその土地(”Babi”は窪地、”Yar”は女性の俗称だそう)の名前 - に集められ、一編に射殺された『バビ・ヤール大虐殺』を扱ったもの。ナレーションはなく、日付のついた簡単な事実の説明、通達などの文書、映像の中で語られる言葉、そしてアーカイブ映像が映し出されるのみ。

虐殺の事実関係や時系列を追う、それがどういう組織集団や人々の間でどのようにして起こったのかを掘り下げる、というだけでなく、タイトルに”Context”とあるように、これが起こる前からあって、現代にも続いていて、今もそこに(ひょっとしたらここにも)あるかもしれない”Context” - 文脈 - を見ようとする。 当たり前のことかもだけど、その視座に立っていろいろ置いてみて初めて、今のウクライナ「問題」にも繋がるなにか、として見えてくるものもあるはず。 アウシュビッツだって原爆だって慰安婦問題だってそうやって見る(べき)。もちろん、”Context”それ自体が「事実」の集積と歴史分析のなかで形成されていくものなのでその恣意性については注意する必要があるが、この作品に関しては”Context”的な - 今に連なるなにかは十分抽出されているように思われた。だから過去の映像や資料を破棄してはいけないの。

最初に街が爆撃されて燃えたり崩れたりしている映像。1941年6月、ナチス・ドイツ軍が独ソ不可侵条約を破棄してソ連に侵攻してウクライナ ~ キエフを占領する。同年9月、キエフの街で更に大規模な爆発と破壊があって、これはソ連側が撤退前に仕掛けたのだが、そこに現地のユダヤ人たちが関与したような証拠を意図的に残して、それを見たドイツ側はキエフに暮らす全ユダヤ人 - 大人も子供も老人もぜんぶ - の出頭を命じる。「貴重品を持参するように」という指示つきで。

ドイツに侵攻されたキエフ側は軍に花束を渡したり友好印たっぷりだし、その次にソ連側が反撃に出るとそちらの方にも声援を贈ったり、おそらくそれぞれの軍の視点からの記録映像なのだろうし、ああやって右から左から戦車で来られて建物を壊されている状態で抵抗してもしょうがないのだろうけど、そんなどちらを向いても権力と暴力やり放題の不条理としか言いようのない事態が続くところで、なにかがなにかを押しだすように想像もつかない規模の大虐殺があっさりと実行されてしまう。「あっさり」と見えてしまうのは、記録としてきちんとして残されていなかったり、残そうとする積極的な姿勢も罪や犯罪や殺された人々に対する意識も希薄だったから(としか言いようがない)。

最後の方に出てくる虐殺の現場にいて、死体の海に埋もれながら生き残った女性の証言なんて凄まじくて、それに続いて大群衆に囲まれるなかで処刑されるナチス高官たちの姿は “Voskhozhdeniye” (1977) - 『処刑の丘』での同シーンとそっくりだったりする、その恐ろしく無意味で空っぽなかんじ - 軍幹部を処刑したところで何も変わらないような - ときたら。

そして虐殺の現場となったバビ・ヤールはソ連当局によって、何事も起こらなかったかのようにきれいに埋め立てられてしまう。(保護と継承は、本作にも関わっているThe Babyn Yar Holocaust Memorial Centerが行っているようだが)

この時のこういう態度 - 「やろうと思えばどうとでもすることができるのだ」という権力者側の領土や民族に対する傲慢さ、国や領土に対する意識のありようなどは、今の、ここ数日のウクライナ情勢にもふつーに露呈しているし、うちの国のお粗末「国葬」のそれだってもろだし、要はものすごくみっともなく恥ずかしい田舎じじいのロジック(というより思いあがり)なのだが、取り巻きも含めたあの連中にどうしたら、というのはいつも思う。痛覚とか、なさそうだし。

ここから数十年が過ぎて、今作と同じようにアーカイブ映像で日本のこの十年を追ってみようとした時、先週の「国葬」がどれだけださくて恥ずかしいものだったか、思い知るのだわ。映像が消されていなければ。

もう10月だってさ...