2.22.2022

[film] Flugt (2021)

2月13日、日曜日の晩、米国のYouTubeで見ました。英国では公開が始まったところ。

昨年のSundanceでドキュメンタリーのGrand Juryを獲って、もうじきのオスカーにもドキュメンタリーとアニメーションと国際長編映画賞の3部門にノミネートされているJonas Poher Rasmussen監督によるデンマーク映画。 英語題は”Flee”、原題を翻訳にかけると”逃れる”、になる。 Executive ProducerにはRiz AhmedやNikolaj Coster-Waldauの名前が。

監督のRasmussenの友人で、Aminと呼ばれている男が主人公で、でも本名や容貌は晒されると彼の身に危険が及ぶ可能性があるので伏せられている – だからアニメーションで、でも一部には実写映像 - 昔の携帯で撮られたような粗い映像と荒れた光景 - が挿入される。

物語はRasmussenによるAminへのインタビュー、というほど固くない、聞き書きのようなスタイルで、Aminがどういう経緯を経てここにいて話をすることになったのか、を今と過去を行き来しながら明かしていく。今のAminには苦しくて臥せってしまい喋れなくなるようなこともある - Rasmussenとの対話というスタイルを取ることで目の前の友人にすら語ることができない内側の辛さ、があることもわかる。

Aminは、80年代のアフガニスタンのカブールで家族と幸せな子供時代を過ごしていたのに勃発した内戦と、ムジャヒディンに連れ去られた父親の失踪によって家を追われ、母と兄とどうにかモスクワに辿り着いたものの、腐敗したロシア警察から度重なる虐待や脅迫を受けて、苦労して貯めたお金でブローカー経由でヨーロッパに密航しようとするのだが、失敗して戻されて、次の密航で家族は散り散りになって… (いまだに再会できていない)。

更に10代で自分をゲイであると自覚したAminは、当然それを世から隠す必要があって、こんなふうに世界のどこからも弾かれて家族からも切り離されなければならなくて、そんな彼がいまはコペンハーゲンにフィアンセと一緒に暮らして、アメリカの学会に参加することだってできる、どうしてここまで来ることができたのか、いったい何が起こったのか。

ポジティブに明日を信じろとか、希望を持て、なんて一言もいわない。彼が子供の頃から目にしてきたこの世の暴力、不寛容、怠慢、腐敗、戦争、絶望など、自分のセクシュアリティから家族から国籍まで追いたてるように敷きつめられてきた地獄を、どこまでも疎外されて弾かれて一所に留まることなく流されてきた彼の決して笑わない – でも沈みこんでいるわけでもないプレーンな表情と共に描く。

アニメーションのシンプルな線と色、そのちょっとした線の歪みや震え、濃淡/明暗は彼の辿ってきた複雑な逃走の線と、それがAminの生にもたらした感情の襞や揺れ、彼の目に映った壁の色、空の色、いまだに続いている畏れや迷いを面や段をうまく使って繊細に映しだしてくる。主人公の内面というより、彼を囚われの身とした世界の狭窄感が生々しく被さってくる。もっと見せるべきだし見なければ、と。

なんとか生き延びて異国に暮らすAminの後ろには彼のように逃げることの、生きることのできなかった沢山の子供達や若者の顔があって、彼らの心細い顔がAminのそれには重なっている - 彼の輪郭と表情はそういう見せ方をしているように思えた。

大昔から地獄絵巻を、過酷な現実を(もまた)描くために用いられてきたアニメーションという技法がここでもきちんと「機能」してしまうことにうんざりしなければいけない、といつも思う。子供たち - 彼ら彼女らの素の笑顔が映っているだけでよいのに。 フィクションだけど“The Breadwinner” (2017)などを思いだした。”Is it a Happy Story or Sad Story?”..  

そして今またウクライナが。 国なんてほんとどうでもいいのに。被害が広がりませんように。
 

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