3月27日、土曜日の晩、Sky TVで見ました。レビューはあんまよくないけど、見ないわけにはいかない。
犬のドキュメンタリーについて書いたので次は猫とネズミのコミックを。
アメリカでは1940年から始まっているHanna and Barberaの、Looney Tunesのショートアニメーションは、子供の頃にTVでいっぱい見て(なんか普通にやっていたのであたり前のように見ていた、TV欄なんて知りもしなくても)、あのスピードとか滑らかな動きとかぐにゃぐにゃ自在な体とかありえないしどうやって作っているのかわからなくても大好きだったしものすごく影響を受けたし、いまだに「アニメーション」と言われて浮かぶのは白黒TV画面から飛びだしてきそうな彼らの姿だし。 Jerryが追い求める穴のあいた三角のやつが雪印の6Pチーズと同じチーズだと知ったときには世界が広がった気がしたものだったし。
アニメの方は”Tom and Jerry”で、映画版の方は”Tom & Jerry”なのね。
NYのセントラルパークでピアノを弾いてお金を稼いでいたネコのTomがネズミのJerryにちょっかい出されて二匹のノンストップ追いかけっこが始まり、その竜巻に職にあぶれた詐欺師で有名ホテルでのセレブの結婚式の大イベントを仕切る役職に履歴書すり替えで入ったばかりのKayla (Chloë Grace Moretz)が引っかかり、ホテルの上司にはTerence (Michael Peña)とか、厨房にはKen Jeongとかもいて、結婚式をする我儘カップルはBen (Colin Jost)とPreeta (Pallavi Sharda)で、象を連れてこいとか言うのでめちゃくちゃで、そこにホテルに住み着くことにしたJerryと、ネズミの出没を許すわけにはいかないホテルと、Jerryの存在を許さないTomが加わってぐるぐるの追っかけっこが始まるの。
実写+アニメというと過去には“Who Framed Roger Rabbit” (1988)とか“Space Jam” (1996)とかが思い浮かんで、前者はノワールで、後者はボディスナッチャー&スポーツで、それなりにシリアスなネタにアニメのキャラがどう絡むか、が見ものだった。TomとJerryのにしたって絶体絶命のシチュエーション、ていうのが不可欠のはずなのに、今回のは割とどうでもいい – どうなってもいいやつ(誰も - 結婚の当事者ですらどうでもいいと思っているような)だし、我々はTomとJerryの命がけの綱渡りや追っかけっこを見たいだけ(かわいさなんていらない)なので、ちょっと難しかったかも。ネコとネズミの異次元のスピードに実写の世界が追いつけるとは思えない - 高画質のデジタルにも馴染んでいない気がした。やっぱり白黒のブラウン管で見るのが最適なのではないか、とか。
このネタ(格式高いホテルと結婚式)って本当はPaddingtonのシリーズとかMary Poppinsのような、英国をベースにしたコメディの方が馴染む気がする – あのカップルってHarry and Meghanをおちょくっている(.. このタイミングで、って少し)ようにも見えるし。ネズミもロンドンのやつの方がちっちゃくてすばしこいし。
あとは実写パートを加えずに”Snoopy and Charlie Brown: The Peanuts Movie” (2015)でやったようなやり方 – ひたすら立体化に着目してみる - もあったのでは、とか。
Chloë Grace Moretzさんはこれを機に軽めのどたばたコメディの方 - Meg RyanやSandra Bullockがやったような – に行ってみてほしかったのだが、やや残念だったかも。脇の人たちはみんなおもしろかったのに。当初企画があったというJennifer Lawrenceさんの方がSMみがでて面白くなったのではないか、とか。
Tom and Jerryを含むLooney Tunesのショートアニメを延々流し続ける上映会があったらなー。リストアとかしてない昔の16mmフィルム上映で、音とかも割れてていいの。いつ出ても入ってもいいの。売店ではおいしいチーズとか売ってるの。
“Saint Maud” (2019)の監督 - Rose GlassさんがA24で出しているzine - “Salvation!” が届いた。
Aloïse CorbazにWilliam BlakeにAntidotesにLourdesに.. なんかすごい。こわい。
とにかくこうして3月が行ってしまう..
3.31.2021
[film] Tom & Jerry (2021)
[film] Stray (2020)
3月26日、金曜日の晩、BFI Playerで見ました。Dogwoofによるトルコの野良ドキュメンタリー。
トルコの街の猫のドキュメンタリーとしては“Kedi” (2016) – だいすき - があったが、これは犬とストリートに関するエッセイのような作品。Elizabeth Loさんがひとりで撮影して作っている。
冒頭に字幕で「人間は人為的に偽善的に生きているので、犬に学ぶのがよいよ」っていうディオゲネス(犬儒学派)の紀元前のお言葉がでて、この後も章の変わり目ごとに彼とかテミスティオスとかの引用が出てくる。
同様に字幕で、トルコでは1909年以降野良犬を全滅させるべく大量殺戮を行ったが、その後の抵抗運動により野良犬を捕獲したり安楽死させることは違法行為となった、と(へんなの)。なので街には野良犬も野良猫もそこらじゅうにいて、犬が猫を追っかけて猫が木に登るとそこには別の猫が、みたいなショットもあったりする。
カメラはイスタンブールの街中で暮らす – という3匹の野良犬 – 少し足を引き摺っていて気高いかんじのZeytin、ちょっとやさしいかんじのNazar、まだ子供でみんなに好かれるKartalに密着して – どうやって撮っているのか、ものすごい近くのようなのに犬たちがほぼ気にしていないところがすごい - 野良といってもそれぞれの目から見た町やヒトの社会を追っていく。
そんなふうに野放し状態を野放しにしているせいか、ヒトはほぼ彼らが一匹でいようが群れていようが特に構おうとしないし、彼らも構ってもらおうとしない。どちらかというと犬同士の吠え合い、小競り合いの方がやかましくて、そうやって定住することもなく日々の食べ物を求めていろんな場所を転々としていく。(ノマド)
やがて彼ら野良犬と同様に定宿や保護者を持たないストリートチルドレンが画面に入ってきて、シンナーをやったりしながらごろごろしている彼らと犬たちが一緒に寝たり遊んだりの絵が描かれる。でも、犬が野良であることは合法でも、子供がそうなっていることはそうみなされないようで..
こんな問題があるよって訴えたり、だからこうしなければ、って提言をするわけではなくて、野良の犬と野良のヒトはなにが違うんだろうか、仮に野良状態のヒトをいけない/よくないと言うのであれば、それはどうしてなんだろうか? という問いを投げてくるので、うーん、て犬の頭になって考えてみたり。
街とそこに暮らす動物やヒトはどうあるべきか、みたいなことを考えた時に理想と現実みたいな話は常にあってそのありようは時代と共に変わるものだろうし、それを決める要素は政治とか経済とかいっぱいあるのだろうし、その内に住んでいる人やそれを外から眺める人の好みとか見解みたいなものも被ってくるので正解なんてない、という前提でいうと、犬もヒトも野良としてあってべつによいのでは、と思った - そこに住むすべての人の人権や生存権が脅かされない前提で、もちろん。
ホームレスはいなくなるに越したことはない、けど今の経済がそこに住む全てのひとに平等な機会と生活を保証しない - 生まれた時から自分でなんとかしろ、の仕組みで組みあげられている以上、”Nomadland”のFernのように土地を渡っていく人やホームレスにならざるを得ない人や子供たちが出てくるのはやむなし、とするのであれば、少なくとも社会は彼らの居場所まで奪うようなことをしないでほしい。NYにもロンドンにもホームレスの人たちはふつうにいるけど、例えば東京の彼らに対する仕打ちの酷さときたら恐怖しかない。 あんなことをする街や人に美しさなんてあるもんか。
もちろん、野良犬が人を襲ったら、とか犬が怖い人が襲われたら、という懸念は常にあるしなくならないものだろうけど、そのことと現実に存在する彼らを視界から追いやって存在しないように見せるのは別のことで、共存・共生できるやり方を探るのが政治がすべきことではないの、とか。 ここに出てくる野良犬たちは、そういうところにまで思いを至らせてくれる。 あんなふうに野良として生きられたらどんなにかー。
ディオゲネスたちの言葉が続いた後、最後に突然オルハン・パムクの2003年の言葉 - 「それでも犬は自由に歩き回るのだ」に至るの。
[film] Der blaue Engel (1930)
3月21日、土曜日の午後、Criterion Channelで見ました。
ここで“Dietrich & Von Sternberg“という特集をやってて、Marlene Dietrichは昨年、2度目のロックダウンの前のBFIの特集で見始めたところだったので、あれの続きと思って見ていくことにする。
これは、見ていてあったり前の映画史上の名作と言われているのに見たことなかった。彼女の特集で見るつもりでチケット買っていたの。 英語題は“The Blue Angel“、邦題は『嘆きの天使』。
原作はハインリッヒ・マンの『ウィンラート教授』(1905)。Dietrichの名を世界的にした1本とか、主題歌の"Falling in Love Again (Can't Help It)”とか、ドイツ表現主義からナチス台頭期に向かうアートのある種の典型を見ることができるとか、いろいろ。なんで見てなかったんだろ。
ワイマール期ドイツのギムナジウムの教授のImmanuel Rath (Emil Jannings)は堅物で厳格で生徒からも嫌われているのだが、生徒から取り上げた女性の絵葉書 - ひらひらが付いてて息を吹きかけるとスカートがまくれる - を見て、学生がこんなものに入り浸っているのであれば、抗議しに行かなければ(勿論それだけではない揺らぎもある)、ってキャバレー“The Blue Angel“に乗り込んでいくのだが、見るのも聞くのも初めての世界で混乱し、そこで見つけた学生を追いかけているうち、楽屋裏で看板娘のLola Lola (Marlene Dietrich)に出会って、彼女に話しかけられたり着替えを見ちゃったりしたら動揺して、その晩は帰るのだがコートに生徒が忍ばせた彼女の下着が入っていて、うむむむって翌日にそれを返しに行った彼はLola Lolaと一晩そこで過ごすことになる。その翌日に学校に戻ると教室は教授を揶揄するしょうもない落書きでいっぱいで、彼の威厳も居場所も消え失せていた。
こうしてギムナジウムを辞めちゃったRathはキャバレーに行って、Lola Lolaにプロポーズしたら彼女はあら嬉しい、ってあっさり結婚してくれるのだが、でも結婚しても彼にドサ回り一座での居場所はなくて、テーブルを回って地味に絵葉書を売ったり、一座のピエロになって笑い者にされるくらいしかできず、それでも使えねー奴、ってみんなに言われて扱われて屈辱にまみれ、他方でLola Lolaは変わらず人気者なので嫉妬にもまみれてゆっくりと正気を失っていく。
最後はふたりが出会った”The Blue Angel”での公演で、地元の学生とかもみんなやってくるのだが、それ故にRathにはここ数年の後悔と共に蘇ってくるものがあって、更には舞台袖で筋肉男といちゃいちゃしているLola Lolaから目を離すことができずに舞台上で固まってしまい、やがてその火山が大噴火して… (そうなることは彼の目をみたらじゅうぶんわかるのでああーって)
何度見ても恐ろしくて目が離せなくて震えてしまうサイレント時代の”The Last Laugh” (1924)のEmil Janningsが、あれと同じくらい恐ろしくて怖くてかわいそうな役を演じていて、これはMarlene DietrichというよりEmil Janningsの映画だよねえ、と思った。 Marlene Dietrichもよいのだが、ファム・ファタールと言うほどの篭った毒気はなくってさばさばした気さくなお姐さんてかんじだし、なんで彼女があんな簡単にRathと結婚しちゃったのかよくわかんないし、自分で穴掘って自滅していく哀れなRathの物語と見るのが正しいのではないか。
ラスト、ギムナジウムの教壇にがっちりしがみついた状態で絶命しているRathが哀れでかわいそうなのだが、世の中の受け止め方としては、"Falling in Love Again”て歌われたくらいでぼーっと舞いあがってしまった世間知らずのおじさんの自業自得、になってしまうのだろうか。 ナチスの治世に向かう前夜の頽廃、って、絵画だと腐って捩れて破廉恥な都市の男女の姿がよく描かれているが、それを市民社会に持ってきたら例えばこんなふう - 学はいらなくて色と金 - だったのかもしれない、とか。
あと、The Blue Angelの内部のどうなっているかわからない構造がおもしろいのと、扉の開閉で音が聞こえたり聞こえなくなったり、ってサイレント以降を意識しているんだよね?
あと、"Falling in Love Again”ってずっとKevin Ayersの歌だと思っていたわ。
3.29.2021
[film] Amber and Me (2020)
3月21日、日曜日の晩、サイトから直接買ってみました。World Down Syndrome Dayのこの日に公開された作品。
https://www.amberandmefilm.com/
59分の短いドキュメンタリーだったので、書くのも少しだけ。 とってもキュートなので見て(日本からも見れるはず)。
OliviaとAmberの双子の姉妹がいて、Amberはダウン症で、彼女が初めて学校に行った日から始まって、だいたい4年間、お父さんのIan Daviesが自分でカメラをまわして撮り続けてきたもの。
お姉さんのOliviaがとてもできたよいこで、学校でのAmberのこともずっと気にかけて面倒を見てあげている。けど、Amberがダウン症だから、とかダウン症だけど、とかいう台詞は一切出てこなくて、当たり前だけどそこにはAmberが呟く声と、それに応えるOliviaやパパの声しかない。Amberは初めのうちはだいじょうぶ、と言っているものの、だんだんひとりでぽつんといることが多くなり、やっぱ学校あんま行きたくないな… になっていく。
それではそこを家族でなんとかしなきゃ、って家族みんなで力を合わせてがんばるのかというと、そういう方にはいかなくて、OliviaはAmberとおうちでいろんなことをして遊んだり、カメラを回しているパパが被写体のAmberにいろんなことを話しかけたりするだけ。 ダウン症だからって泣いて悩んで何かを克服したり家族が力を合わせたりどこかと交渉したり喧嘩したり、そういうドラマとは別の視点で、Amberがふだんなにを見てどんなことを言ったり反応したりするのか、それだけを追っている。 裏では日々いろいろあるのかも知れないけど、これだけで十分じゃないのか。
こうして、レジのおもちゃ(あれほしい)で遊んだり、イチゴを頬張ったり、姉妹でお菓子を作ったり、パパと壁登りをしたり、ままごとをしたり、そういうのをしながらいろんな表情でいろんなことを言うAmberの姿がいっぱい。 それだと家で撮ったただのホームビデオ映像じゃないの? かもしれないけど、それ - 家族の日々をきちんと編集して見せられるものにして、そこでAmberがどんなふうに生きているか、彼女がなにを辛いと思ったり嬉しいと思ったりするのか、そこを並べてわかるように伝える、これができているからー。
終わりの方で、Amberはリーディングが得意であることに周囲も自分も気づいて、これって楽しいかも、学校続けられるかも、になる。だからといって今の世の中にあるダウン症にまつわる「問題」あれこれがどうなるというものではないかも知れないが、こういう視点ややり方もあるということがわかるだけで、少しだけ楽になったりするものがあったりしないだろうか。
辛い思いをしないで、って思う。電車やバスでのベビーカーのこととか、やたらぶつかってくる男共とか、ホームレスの排除とか、学校のばかみたいな校則とか、自分の思った通りの風景や居心地にならないのが我慢できない - それを貫くことがなにかのためになると信じこんでいる愚かな連中が幅を利かせている日本だと、こういう視点も潰されてしまう気がして。 と書くとこっちだって辛いんだ、とか必ず返してくるバカがいるし。
とにかく、Amberのふだんの言うこととか、返してくる反応がおしゃまでかわいくて、とてもあんなふうに英語で受け応えできないわ、って。 あと、こっちのままごとはやはりお茶会になるのか、かなわねえな、とか。
3.28.2021
[film] 阮玲玉 (1991)
3月21日、日曜日の昼、Metrographのvirtual screeningで見ました。
英語題は、”Center Stage”、邦題は『ロアン・リンユィ/阮玲玉』。4Kリストアされたバージョン。
中国のサイレント時代の女優で、24歳で自ら命を絶ってしまった阮玲玉 - Ruan Lingyu (1910 - 1935)の伝記映画。 といっても彼女の作品の殆どは失われていて断片やスチールでしかその姿をうかがうことはできない。
香港の監督、Stanley Kwanは、失われた映画のこうだったはず、というパートをMaggie Cheung = Ruan Lingyu、Tony LeungやCarina Lauらと共に再現しつつ、そこに当時存命していた彼女のことや彼女の映画のことを知る映画関係者へのインタビューと、演技をした俳優たちやスタッフを交えた座談会を加えて、彼女の遺したものを多面的に追っていく。
ここでとりあげられている彼女の作品は以下なのだが、これらもほぼ残っていない。
故都春夢 (1930) - “Dream if the Ancient Capital”
野草門 花 (1930) - “Wild Flowers”
桃花泣血記 (1931) - “Weeping Peach Blossoms”
三個摩登女性 (1933) - “Three Modern Women”
城市之夜 (1933) - “Night in the City”
小玩意 (1933) - “Little Toys”
香雪海 (1934) - “The Sea of Fragrant Snow”
神女 (1934) - “The Goddess”
新女性 (1935) - “New Women”
かろうじて残っているカケラに当時の社会情勢 - 日本の侵攻が始まっていた -と彼女を取り巻く映画関係者や男優との恋愛も併せて、彼女はこんなふうに演技した and/or させられた、をMaggie Cheungが演じている。 といっても彼女とRuan Lingyuの演技のスタイルも演出の仕方も時代も技術も含めて違うのは当然なので、そういうところはMaggie Cheung自身が率直に語っていておもしろい。
そうやって、Ruan Lingyuにとって、当時の映画界で女優として生きるというのはどういうことだったのか、を現代の映画のキャストとスタッフが明らかにしていく。なぜそんなことをするのかと言うとやはり残された彼女のスチールやフィルムで見ることができる彼女の姿や眼差しが - 中国のGreta Garboと呼ばれた、という以上にいまの我々に強く訴えてくるものがあるからだ、としか言いようがない。
サイレントなので言葉はなくて、彼女の表情や動きですべてを決めて表現する必要があって、女優はそれをどう演技して表に出すかを考えるし、演出する側にもこう動いてほしい - こう動かないとだめだ、という思いがあるし、そこには葛藤や試行錯誤もあって、再現パートはそういう箇所 - ダメ出し - も含めて全部見せていく。 そういう葛藤や衝突が本当にあったのか、疑わしいところもあるけど、腕や指先のちょっとした動き、表情や目の硬さ、などがそれを見つめる我々の解釈に直結してくるので納得できないことはないし、サイレントの時代にはこうだっただろう、というのはとてもよくわかる。
こうして、終盤はふたりの男性に挟まれて行き場を失い感情を殺され、自ら薬を飲んで死んでしまった最後の晩と棺桶に横たわる彼女を関係者が囲むところのなぜ? に向かっていく。 スクリーンの上で動くことが全てのサイレントの女優がその動きを止めてしまう、それはどういうことだったのか? (これは、彼女はなぜそういう演技をしたのか? という ↑ の問いと対になっている)
約30本の映画に出て、それぞれの映画の中の愛や恋や生のセンターステージにいて、その約100年前の瞳や微笑みがいまだに我々を動かす、そんな彼女が24歳でその動きの一切を止めてしまう、って。これは勿論、彼女の死に限ったことではなくて、死とはそういうものであることはわかっていてもなんて辛いことだろう、って。
そしてあとは、失われた彼女の作品がひとつでも多く発見されることと、遺された作品をひとつでも多く見れますように、っていうことだねえ。そのうちどこかで見ることができますようにー。
さっきまで午前1時と思っていたら2時になっていて、ああ今日から夏時間になるのだった、と。夏時間になるのはうれしいのだが、この切り替わり直後の数時間だけ、いっつも少しもやもやする。 冬時間になるときはこの逆で1時間余分にくるのだが、こっちは冬に向かっていく辛さとで帳消しになるので、ふーん、なの。
3.27.2021
[film] In the Soup (1992)
3月20日、土曜日の昼、アメリカのMUBIで見ました。
Alexandre Rockwell監督の特集(3本)が始まろうとしていて、その最初の1本。4Kリストア版。当時の(今となってはすごく豪華な)インディー・オールスターキャストで、92年のSundanceでは”Reservoir Dogs”を抑えてGrand Jury Prizeを受賞している。へえ。
NYのぼろアパートに暮らす主人公のAdolpho Rolo (Steve Buscemi)は映画作家志望で、冒頭に「私が生まれた日に父が亡くなった。私はドストエフスキーとニーチェに育てられた」 - 自分は映画作家になる運命なのだって、500ページのスクリプト - タイトルは”Unconditional Surrender” - の束を抱えて、明日に向かって走り回っている。でも現実は家賃すら払えなくて取り立て屋(二人組で歌う奴ら)に脅されている。アパートの隣にはAngelica (Jennifer Beals)がいて、憧れているのだが彼女からは完全に無視されて、でも隣の部屋からは泣き叫ぶ声が絶えない。
$100貰えるバイトがあるというので、Jim Jarmusch(と妻とパグ)の事務所に行くと“The Naked Truth“ていうTV撮りでカメラの前で裸になって喋らされて$40しか貰えないし、どうしようもなく困ったので、”Unconditional Surrender”を売りますって広告を出したらJoe (Seymour Cassel)ていうやばそうな初老のおやじが声をかけてきて、彼のところに行くと、一緒に映画を作ろうって$1,000くれて、さらに予算はいくらだ? っていうので$250,000くらい? とか言うとわかった、って深夜2時にレストランに呼び出されて、どうみても怪しい殺し屋Skippy (Will Patton)とかも出てきて、映画をやろうぜ、って言う割にはこれまで撮ったフィルムを見せても読み聞かせてもなにひとつ前に進まずにJoeの周辺の変なやくざ連中が次々とやってくる。
夜中に突然Adolphoのベッドに入ってきて後ろから耳を噛んできたり(どんなかんじだったかしら? ってちょっと疼く)、自分は「アート」をやって何かを残したいんだ、ってがはがは笑うJoeの存在感がすごくて、彼にくっついて行動しているうちに映画からどんどん離れてお金は入ってくるもののおかしな連中の理不尽な動きに巻きこまれて取りこまれて自分でもなにをやっているのかわからなくなっていく、っていうカフカみたいな。
後半に入るとAngelicaに対する妄想と彼女につきまとうよくわかんない連中 - 髪の毛のあるStanley Tucciとかまだ子供みたいなSam Rockwellとかが絡んできて混沌が加速して、JoeもAngelicaもみんなで一緒にパーティに行こう! って盛装して出かけてもなにやら不吉な予感しかしなくて、やがて。 ここで見せてくれるSeymour Casselのダンスがとにかくすばらしいので、それだけでいいかー、にはなる。
巻きこまれ型のコメディとしては動きにとぼしいというか、変な人々がわらわら寄ってきてされるがままが過ぎるし、ほんとに映画やりたいなら最初にお金貰ったところで持ち逃げしてでもやればいいのに、とか思うのだが、Adolphoの性格のせいかJoe(悪魔)とAngelica(天使)の半径5mくらいのところに縛られて、身動きが取れない。おもしろいからいいけど、で済ませてしまってよいのか(こんなにすごい人たちを使って)、と今なら思うけど、当時はこんなもんでよかったのかな。
90年代の初めはまだバブルの残り香もあって、こういう話はわりとそこらにごろごろしていたと思うし監督自身の実話らしいし、日本人も出資してるし、今だと信じられな - くもないか。日本の政府はいまだに税金じゃぶじゃぶゴミみたいなコンテンツにいっぱいつぎ込んでるし... でも今よかまだいろんな夢があった時代のファンタジー、ということで。
ギャングでもホラーでもサスペンスでも、惑っておろおろしてパニックして引き裂かれていく - をノンストップで繰り広げるとき最高に輝くSteve Buscemiという役者を主演の、正面から目一杯堪能できるので彼のファンにはたまんないと思う。
“Desperately Seeking Susan” (1985)ではいかれた殺し屋だったし、ここでもそうだし、のWill Pattonさんは、この前日にみた”Minari”ではやつれて十字架を背負うところまでいってて、いろいろあったんだろうな、ってしんみりしたり。
撮影当時は予算がなかったのでカラーで撮られて、そのカラーバージョンが英国のレンタルビデオ化の際には出回ったそうで、そっちも見てみたい。どんなだったのかしら?
3.26.2021
[film] Minari (2020)
3月19日深夜から20日の土曜日にかけて、Film Forumから飛ばされたA24のサイトで見ました。
アメリカが夏時間になったので0:00からの開始(のみ)。英国でのストリーミングはもう暫くかかりそうだったので(4月2日かららしい)。
2020年のSandanceでU.S. Dramatic Grand Jury PrizeとU.S. Dramatic Audience Awardを受賞している。アメリカ人監督Lee Isaac Chungの子供時代を描いたものだという。 で、上映の前にDavid役の男の子が登場してかわいらしく「見てね!」とかいう。ずるいわ。
80年代のカリフォルニアに韓国からやってきたJacob (Steven Yeun)とMonica (Yeri Han)の夫婦は鶏のひよこの雌雄判別の仕事をした後で、アーカンソーに50エーカーの土地を手に入れ、韓国の野菜を育てて売るために娘Anne (Noel Kate Cho) と6歳のDavid (Alan S. Kim)の4人でやってくる。家はトレーラーハウスのようなぼろぼろで、その時点からMonicaは本当にここでやっていくつもり? という顔になっている。
心臓に病を抱えて夜尿症のDavidのことをどうするのか、もっと韓国人のコミュニティがある都市近郊に移った方がよいのでは、というMonicaに対して、ここに自分の農場を持つことは夢だったし自分はそれを成し遂げることができると固く信じているJacobは、地元の変な隣人 - 朝鮮戦争の退役軍人 - Paul (Will Patton) の力を借りて黙々と耕していって手を休めようとしない。
Davidを中心とした子供たちの世界 - 教会に行って差別的なことを言われても打ち解けたり – があり、Monicaは教会を通して社会との接点を見いだそうとし、韓国から渡ってきたMonicaの母Soonja (Yuh-Jung Youn)が子供たちとの間に巻き起こすあれこれ(やや困ったおばあちゃん)があり、水の枯渇があり、際限なくいろんなことが起こるたびにはらはらするのだが、フィルムはそういった個々の問題が大きなうねりを作って大惨事へ、というよりもゆったりとした四季のペースを維持しながら彼らの営みを見守っているかんじ – 見守っているのは誰か?
やがてなんとか収穫できた野菜をオクラホマシティに持っていって買い手がついたところで、納屋の火事が..
韓国からの移民が苦労して土地を開拓して馴染もうとするお話し、というよりはJacobの土と水をめぐる戦いにしても、Monicaや子供達の社会化や居心地をめぐるいざこざにしても、家族の病気 – Davidの病気の他におばあちゃんの手が麻痺したり – の困難にしても、韓国からの移民、に特化した語り口になっていない気がする。緩やかに自然と人工の間を渡りあって楔を打ちこんで克服する - というより緩やかな着地を試みる、そんなかつてあったようなアメリカの物語になっている。
もちろん、子供たちのためにも自宅に韓国文化を強引に持ち込もうとする - 食べもの、TVとか - 英語のできないおばあちゃんの労苦、というのもあるのだが、そこは子供たちにもあっさり無視されて潰されて、でも最後に彼女が水辺にてきとーに植えておいたMinari - セリに柔らかな光が。
そうじゃない物語もあって、十字架を背負って汗だくになって道を歩いていくPaulは間違いなく別の光を求める子羊なのだが、でもそういうのもあるよね、程度でJacobは彼の十字架の横をあっさり車で通り抜けていく。
翌日にMUBIでJean Renoirの”The Southerner” (1945) - 『南部の人』も再見した。
これもおばあちゃんを含めて一家が力を合わせて自然や病や隣人と闘っていくお話しだが、ここではしっかりひとつになった家族が土地に向かっていくのに対して、”Minari”の家族は必ずしもそうじゃなくて、Jacobがすべての決定権を持っているようで彼は孤立して話をしないし聞いてもらえないし、おばあちゃんとDavidの対立は痛ましいし - それ故に火事のあと、野道でのふたりの追いかけっこには胸が張り裂けそうになる。
韓国の家父長制的な家族のありようや韓国におけるキリスト教の受容を踏まえて見てもおもしろいのかもしれないが、それがなくても理解できるお話に見えてしまうのは、こっちの問題なのかもしれない。 数年後には、この映画では割とおとなしかった姉のAnneが『はちどり』になるのだと思う。
この映画を見て、マンハッタンの2nd Ave.の62nd辺りにあったKorean Deliを思い出した。最近は減っているのかも知れないけど、昔は野菜に果物、調味料に雑貨に、真ん中に惣菜のビュッフェコーナーがあるお店がピザスタンドと同じくらいそこらにあって、店によってよいのわるいのばらばらなのだが、62ndのお店の野菜 - 葉物のクオリティはすごかったの。でもイタリアンパセリとシャンツァイを間違えて買ったことがあったり。ここにはMinariも置いてあったのだろうか。
3.25.2021
[film] Computer Chess (2013)
3月13日、土曜日の午後、MUBIで見ました。
"godfather of mumblecore"と言われるAndrew Bujalskiの名を有名にした作品で、2013年のSandanceではAlfred Sloan Feature Film Prizeというのを受賞している。公開時に話題になっていたこともあり、一度見てみたかった。ものすごく変だけど、なんかおもしろい。
亡くなる直前のRoger Ebertが書いていたように “Here's a movie by nerds, for nerds, and about nerds”なのかもしれないが、この映画が出た2013年当時といろいろ違って、”The Queen's Gambit”が大ヒットしたり、AIや解析ツールによる「次」の提示に誰もが晒されたり動かされたりしているいま、nerdsがごにょごにょ言っているだけの変な映画、以上に見るべきところはあるのかもしれない。
画質はモノクロのアナログビデオ – TVがカラーになる前の画面のようでもやもやしていて奥行きがあまりない、その暗く曇った奥から蠢くなにか出がブラウン管を突き破ってきそうな雰囲気だけ(でもぜったい出てこない)はたっぷり。
1980年、カリフォルニアの格安ホテルにいろんな箱 - 機材を抱えた若者たちが集まってきて、これから賞金$7,500をかけたコンピューターチェスの対抗トーナメントが開かれようとしている。で、その大会の模様を横でビデオ機器で撮影している場面も描かれる。
コンピューターはまだ汎用機(大型演算機)の時代で、パソコンなんてものはまだなかった(たぶん)。通信もない。高速演算が可能な機械を自作して、プログラムは機械に直接指示をだすアセンブラのようなものだった(はず)。なので、ここで戦う人達はプログラムを書ける人、というより思ったような計算処理を実行できるように機械に機械語で指示を出せるひと、かつチェスの勝ち方を知っているひと、なのでチームになって対抗するのだが、相手の動きを見て次にこう打てば勝てるはずだから次の手はこれ、というのを当時の機械が読めるレベルの演算のロジックとして組んでアウトプットするのって、それを組む人の色みたいのがダイレクトに出ていた(はず)。こうして大会はモノクロの海に漂う変人(nerds)の博覧会みたいになる。要は、あのひと何考えてるかわかんなそうで不気味、っていう互いの会話が成立するのすら難しそうな人々のお祭りに。
こうしてホテルが予約でいっぱいで泊まれなくて幽霊のようにフロアを彷徨う男がいたり、出会い系の宗教みたいな団体がフロアで怪しい集会をやっていたり、その集会に参加していたカップルの部屋に招かれた青年が逃げだしたり、部屋が猫だらけだったり(いいなー)、ひとりしかいない女性は最後までひとりだったり、プログラムの話も少しはあるけど、「こうなっているに違いない」とかいうその言い方が余りにてきとーすぎて笑える。 それぞれ自分のマシーンとは機械語でそれなりに話せるけど隣にいる人たちと会話するプロトコルを持っていないっぽい人たちがいっぱい。
トーナメントの模様を描いた映画なのであれば、優勝したチームはなんで強かったのか、とかどうして勝てたのかに注目してもおかしくないのだが、そういうところは微塵もなくて、機械になんか打ち込んだりしながらチェスをやって一喜一憂している人々の怪しすぎるかんじと、それの鏡のようにホテル内の格子上に数日間閉じ込められた人々がチェスの駒のように、というよりそれより遥かに無軌道にてきとーに水平移動していく様を並べていて、それらは病院の廊下に置かれた監視モニターのようにも見える。そんなに解像度は高くなくていいけど、なんか動いてるぞ、って。
こんなふうに動いたり成り立ったりしている社会、というのでもコミュニティ、というのでもない人々の連なりと、そういうのをフィルム(ビデオか)に収めて、それでもなにかが動いたりドラマのようなものが生起しそうな状態を示す。コンピューターの初期に地味にこういうことをやっていた人々がいたから今のAIもネットもあるのだ、みたいなことも言わない。 自然のなかの動物たちを捕らえたBBCのドキュメンタリーの方がまだ伝わってくるものはある。
伝えるに値するものを、多数の人たちが理解しうる精度(制度)の上で伝えるのではなく、そうじゃないところでうだうだしている人々の挙動が映しだすなにかってなんなのか、そういうのがある - すべてが理解可能なプレートの上でシナリオ通りに動く人々のドラマとは異なる様相のなにかになる、それが結果としてコメディに近い笑い - HAHA - をもたらす。 というのがマンブルコアというものなのだ、というのはなんとなくわかった。
これって革命にも潮流にもならなかった(ていう総括でいいの?)けど、ここで発見されたものは小さくなかった気がしている。それを逃げ場、とか身内でうだうだ、というのはたやすいし、ホモソーシャルのやばさ危うさを抱えていることは十分承知の上で、でもなにか変なもんがあるぞ、いるぞ、って。
コンピューターチェスが、人間のプロを負かすレベルまで行ってしまった時代に、負かされてしまう愚かさや限界を晒す前に、その勝負のゲームの規則にはのらない、なんでのる必要があるのか、っていう。 そういうものなので未来も希望もゼロの後ろ向きで、で? だから? って中指をー。
3.24.2021
[film] La belle de nuit (1934)
3月13日、土曜日の晩、MoMAのVirtual Screeningで見ました。
宣伝文句を見ていたらなんか見たくなってしまったのでメンバーになった。待ってろMoMA。
MoMAのフィルム部門っていろいろすごいんだから。3日くらい漬かって過ごせるんだから。
長編を2作残しただけ(iMDBにはもう1本あるけど)というLouis Valray (1896–1972) のことはまったく知らなくて、屋外で撮影したり制作から編集まで自分でやっていた、という点でヌーヴェル・ヴァーグのの先駆(いっぱいいる先駆)であり失われた作家のひとりである、とPaul Vecchialiが言っているというのも後で知った。数年前に彼の作品に出合って魅せられたLobster FilmsのSerge Brombergが修復に着手して、昨年のMoMAの”To Save and Project” – 修復された映画のお祭り – すごく楽しいので大好き – で上映された、と。 ストリーミングで見た画質はすばらしかった。
“La belle de nuit”は米国で公開された形跡がないらしく原題のみ。翻訳にかけると”The night beauty”。
パリの劇場で人気女優となったMaryse (Vera Korène)を誇らしく見つめる劇作家のClaude (Aimé Clariond)がいて、ふたりは恋人で一緒に暮らしている。ある日彼の戦友のJean (Jacques Dumesnil)が戻ってきたのでMaryseも加えて一緒に再会の食事をして、JeanはMaryseのことが気になって近寄っていって誘惑して、やがて嘘の電話を入れて朝帰りしたMaryseの嘘が明らかになるとClaudeは絶望してひとり南の港町に旅立つ。
そこの路地裏の酒場/娼館(のようなホテル)でMaryseによく似た娼婦のMaïthé (Vera Korène – 二役)と出会ったClaudeは彼女とある取引をしてパリに戻り、Jeanに引き合わせる – とJeanは見事にはまって寄っていって、Maïthéに高価な贈り物をしたり舞いあがるのだが、Maïthéは突然姿を消してしまい...
前半の彼女がいる部屋を覗き見る目線のなんともいえないいやらしさと、そこから後半のダークなノワール風への転調がよくて、鏡をうまく使った部屋へのアプローチと港町の路地からバーに至る寂れた雰囲気がすばらしい。そしてラストに港からひとり旅立つMaïthéを見あげるようなショットがかっこいいったらないの。 つくづく男ってバカでしょうもないわねー、っていうお話し。
Escale (1935)
3月14日、日曜日の晩、同じくMoMAのVirtualで。英語題は“Thirteen Days of Love”。米国での公開時には酷評されたらしい。
海軍士官のJean (Pierre Nay)は途中下車(Escale)した町のバーでEva (Colette Darfeuil)と親しくなってそのまま恋におちて、休暇に入ったJeanはEvaを連れて南の島に向かって、ふたりは一緒に夢のような13日間(タイトルによると)を過ごすのだが、Evaにつきまとっていた港のちんぴらやくざDario (Samson Fainsilber)が黙っちゃいなくて、Jeanが軍に戻った隙になんとか彼女を見つけ出し、召使のZama (Francois “Féral” Benga)を利用して..
最後はとても哀しくかわいそうに終わってしまって、ここでも南国の陽光と儚く潰された恋の周囲をちらつく闇の交錯が生々しく、ほんの少しのすれ違いとかけ違いで離れ離れになってしまったふたりが最後の方で互いを探しまわるシーンのカメラの動きがとても切ない。
キャラクター設定はくっきりしていて、やくざなDarioのぎらりとした南方の悪い奴なかんじがよいのと、従順でなにも考えていなそうなZama役のFéral BengaはJosephine Bakerとも共演したことがあるダンサーで人気のモデルだったそう(映画の中での描写のされかたは時代もあるのだろうがなかなかひどいけど)。
どちらの映画も男性は頭からっぽかすけべか嫉妬深くて狡猾か、そういう連中になっていて、彼らにまんまと利用されつつもどうにか自分の道を見いだそうとする女性がたどる試練や悲劇へと至る道、という点は共通している気がした。どうしても女性の方に目がいってしまう、そういう描き方をしているような。
この2作を見ただけでものすごい傑作であるLouis Valrayすごい、って騒ぐほどフランス映画史に精通していないのだが、でも2作ともふつうに面白くて、こういうのがいくらでも出てくるからやめられない。小説もそうだけど自分が生まれていない時代の、異国で編まれた物語をなんでこんなにのめりこんで見てしまうのか。いや、それだからいっぱい見るし読むのだし、ってぐるぐる回っていく。いつものように。
英国では最初のロックダウン開始から今日で1年、ということでこれまでに亡くなった126,284人と600万人の遺族の方々に向けてお昼に黙祷があった。お祈りくらいしかできないのでひたすら祈る。
日本でのコロナ患者や死者の扱いを見ていると国全体での黙祷なんてしそうにないよね。
というか、ここ数日のアカデミアのハラスメントやニュース番組のCMの件で、ほんとにますます嫌になっている。なにあれ? 明確なハラスメントや差別を後ろに追いやってないことにしようとする勢力が学会とかメディアに一定数いる。学校の虐めなんてなくなるわけないわ。絶望的、まっくら。
3.23.2021
[film] Zack Snyder's Justice League (2021)
3月18日、木曜日の晩、Sky TVで見ました。この後、何度もリピートしてやっているのでなんとなくつまんで見たりしている。
“Batman v Superman: Dawn of Justice” (2016)の続編として制作された”Justice League” (2017)は、制作の最終段階にきて監督だったZack Snyderがご家族の事情によってその座を降りて、Joss Whedonに引き継がれ、Joss Whedonの映画としてリリースされた。その後、どこのだれのどういう力が働いたのか、この映画にはZack Snyderのバージョンが存在するはずという想定に基づく#ReleaseTheSnyderCut ていう運動が起こって、Zack Snyderもそれを認めて、Warnerもそのための追加の費用を出すことに合意して、それが今回(米国では)HBO Maxからリリースされた。それが4時間2分という長さになるとは思わなかったが、見せろ見せろって言っていた連中はこれで黙る(のだろうか)。
わたしはJoss Whedon版の”Justice League”を見てもそれなりに楽しんでしまって、これは本来作られるべきだったものとは違う、とも思わなかったし、言われてみれば“Watchmen” (2009) 〜 “Man of Steel” (2013) 〜 “Batman v Superman: Dawn of Justice”とZack Snyderのヒーローものを見てくると彼が自分のヒーロー観に基づいて物語を作ってきたことはなんとなくわかるものの、そこをそんなに掘りたいのかなんて思わなかったし、という程度のもの。MCUのについてもべつに同様で、スケールがでっかくて地の果てで思う存分にどかすかやってくれれば、ヒーローが何にどう悩もうが苦しもうが別にどーでも、というスタンス。
最初に気がつく画面のアスペクト比が1.33 : 1で、監督によるとこれは”First Cow”と同じでふたつの映画には同じDNAが流れている、とかインタビューで語っていてなに言っているのこのひと? とか思うのだが、”First Cow”の画面比は1.37 : 1で少し違う。あと、こういうことを語っているNY TimesによるZack Snyderインタビュー(3月21日付)はなかなかおもしろい。
ストーリーの大きな流れは変わらなくて、悪役には牛みたいなSteppenwolfの上位にいるDarkseidっていう悪坊主みたいのが出てきて、彼らが追い求めるMother Boxにも太古からの争奪と復讐の歴史があって、アマゾンとアトランティスからそれらの箱が奪われて、地球にある最後のひとつが奪われたらやばい、でも力が足らないってJustice Leagueのヒーローたち - Batman (Ben Affleck), Wonder Woman (Gal Gadot), Aquaman (Jason Momoa), Cyborg (Ray Fisher), Flash (Ezra Miller)が集結して、でもやっぱりあいつもいないと、ってSuperman (Henry Cavill)も墓を掘って蘇らせて、Steppenwolfはやっつけるのだが、Darkseidはやはりあれではだめだったか、とかいうの。
何が足されて何が引かれたかとか、あまり興味がないのだがPart 6(+エピローグ)までに分かれているのでそんなに退屈はしない、かも。ただ全体として画面は暗めで – Supermanのコスチュームも黒系で - 見せ場はスローモーションが多用されてうんと速いのか遅いのかばかりで、よく映画館でCMが流れるバトルもののゲームを延々見せられているような感じにはなる。箱が3つ繋がったら世界が破滅する、ヒーローを集めて戦うんだ!ってそれだけの。 単に画面上の情報量がすごくて(でも言葉は少なくて)年寄りにはきつい、それだけのことかもしれない。 あとこれは真剣な戦いなんだから笑うんじゃない、って笑ったり和めたりする場面は減っている。 MPAAのRatingは前のがPG13で、今度のはR。
神話世界へのこだわり、というのもあるようで、これは神々の戦いなので、政府とか軍とか市民 - Joss Whedon版にあった戦場から逃げ出す人々の姿 – は一切出てこない。神 – ここではヒーロー - はどうしてヒーローになったのか、という物語が、特にCyborgとその父 (Joe Morton)の話として長めに挿入されるのと、ヒーローだからと言ってパーフェクトではなく常に善悪の彼岸に立たされ揺れていること – これはZack Snyderが追い続けているテーマ - がエピローグで強調されていたり。でもそのへんって割とどうでもいいんだけど。 人は人だし猫は猫だし。
あの終わり方とエピローグは、これが終わりではないのだって、いろいろ盛ってきているのだが、あそこまでいくと”Kick-Ass”とか”Deadpool 2” (2018)のぽんこつ愚連隊のかんじもする。そんななか、なに言っているかよくわかんないJared LetoのThe Jokerだけがひとり生々しくてよいの。でもあの場面にHarley Quinnを入れられない、っていうのがこのシリーズの限界だと思うのよね。
あと、これが今リリースされても、昨年からの1年間で軽く200万以上の人々が亡くなっているところにJustice Leagueもくそもないよね、って。 だからこないだの“Wonder Woman 1984” (2020)は80年代だったのだし、”WandaVision”は昔のTVから魔女狩りの頃にまでに遡ったのだし、(まだわかんないけど)”The Falcon and the Winter Soldier”はもうお役ご免になっている彼らの姿を映しだす。 いやこんな時代だからこそ、ってイキりたいのもわかんなくはないけど、人類を滅ぼすのは悪漢ではなくてウィルスだし、救うのはヒーローではなく科学とワクチンなんだって。
今回のこういうやり方が成功したりすると、今後のこういう映画のつくり方も変わってきたりするのだろうか? 考えるの面倒くさいけど、ファンが望んでいるものをこういう形でリリースしていくのってどうなのかしら。 このジャンルが映画秘宝みたいなノリのあれ(ってなに?)の思うがままに動いていくって、それはそれでつまんない気がする。
あとサントラ、Nick CaveにTim BuckleyにLeonard Cohenて、やっぱし暗くないか。
CyborgのパパのJoe Mortonって、“The Brother from Another Planet” (1984)のThe Brotherだよね。だからあの箱もきっと。(そういう世代)
分離されたMother Boxが3人の老婆になるって、マクベスかよ。 3匹の子豚とかでいいのに。
映画館でリリースされたら見にいくかしら? IMAXだととってもぐったりになりそうな気が。
3.22.2021
[film] Tove (2020)
3月17日からBFIで始まったBFI Flare - 毎年やっているLGBTQ+ フィルムのお祭りで、17日、水曜日の晩に見ました。
フィンランドの画家で、誰もが知っているムーミンの作者 - Tove Janssonの伝記映画。
第二次大戦が終わる少し前くらいから50年代頃までのTove (Alma Poysti)の軌跡を追っている。
2017年の夏にSouthbank Centerであった展示(&ツアー)”Adventures in Moominland”と2018年のDulwich Picture Galleyでの彼女の絵画作品を中心とした展示 “Tove Jansson (1914-2001)”を見ていたので、ムーミン以外のToveのことも多少は知っているつもりだった。パスタ皿もずっとスナフキンだし。子供の頃の最初のムーミン経験はToveが激怒したという東京ムービーのバージョンだけど。
1944年のヘルシンキで、画家としてデビューしようとしていたToveは高名な彫刻家の父Viktor (Robert Enckell)からはまだまだだなって見下されていて、スケッチの隅に描かれた落書きみたいなスナフキンにも「そんなのはアートじゃない」、って言われたりしている。けど油絵を続けて品評会の選考から落とされても落書きはやめられないし、既婚の左寄りの政治家Atos (Shanti Roney)ともだらだらした関係を続けていて、割としょうもない。
そんなToveがパーティで市長の娘で演劇をやっているブルジョワのVivica Bandler (Krista Kosonen)と出会って電気に打たれて、Vivicaも結婚していながら「私は女性と寝るのよ」と言ってToveの家にやってきて関係を重ねていくようになる。ToveはVicicaの演出するサルトルの『恭しき娼婦』のリハーサルを見に行ったり、VicicaはToveの部屋から『ムーミン谷の彗星』をこっそり持ち出していったりする。
1947年に、VivicaはToveにムーミンの話をミュージカルすることを持ちかけて、最初は”Moomin doesn’t dance”って抵抗するのだが、やっているうちに楽しくなって、Swedish Theatreでの初演は成功して、そこから新聞連載の契約も取れたりするのだが、そんなことより彼女の目はVivicaから離れることができなくて - “Into the wild where doragon lives” - Vivicaが頻繁に誘ってくれていたパリに向かったとき、そこでふたりの愛も終わることになる。 と同時にToveが亡くなるまで関係を共にしたTuulikki Pietila (Joanna Haartti)との出会いはこの辺りから。
厳格な芸術家の家に生まれて、期待されていた油絵の方ではぱっとしなくて、ふつうに結婚することも敵わずに女性とずっと関係を持ち続けて、唯一うまくいったのはぽわぽわだったりごわごわだったりにょろにょろだったりする逸れものの変てこな生き物たちが自在に動き回る隠れ里のコミックだった.. けどぜんぜんいいじゃん、ていうお話で、これがぜんぜんひねくれ者の人生一発逆転モノみたいな臭さからは遠く離れて、そうこなくちゃね! っていう自由と爽快感に溢れているのは、Toveその人の奔放さとムーミンたちの像を彫りだして野に放った想像力の豊かさがあったから。 Toveが当時のスタンダードミュージックに合わせてひとりで楽しそうに - 本当に楽しそうに踊るシーンがすばらしくよくて、ラストにはこれとそっくり(いや、こっちがほんもの)のTove本人のダンスシーンも流れる。
Toveはなぜ、どんなふうにムーミンを描き始めたのか、については(既に描いていた時代から入るから)触れられないので、そういうのを含めてムーミンを見たいお子様を連れてくると女性の裸だらけで微妙なことになるかも。あと、Toveの戦争断固絶対反対!の側面もでてこない。 あくまでVivicaとの燃えるような恋が中心。
最後の方で、亡くなったパパの遺品の中からムーミンがいっぱいのスクラップブックを見つけるところ、いいなー。
Toveのアトリエのインテリアとか色の具合も素敵で、淡い光の射しかた、ハマスホイの絵のかんじ(これはデンマークだけど)もあったり。 この辺はフィンランドのセンス全開のようなー。
ムーミンランドも結局行けないことになるのか。でもスナフキンもムーミンも心のなかにずっといるから。
3.21.2021
[film] Christmas in July (1940)
3月11日、木曜日の晩、Criterion Channelで見ました。
今月からここにPreston Sturges作・監督作品がいっぱい入ってきて特集も組まれていて、だいたい見たことあるやつばかり(どれもハズレなしばかり)なのだが、これはとってもキュートで再見したかったやつなので。 最初に見たのは2003年にBAMのCinematekで、67分と短い作品なので併映で”Jackie Cooper's Christmas Party” (1931)がかかった。
Preston Sturgesの監督2作目。日本ではTV放映のみのようで、邦題は『七月のクリスマス』。
コーヒーメーカーの会社に勤めるとっても普通な会社員のJimmy (Dick Powell)は $25,000の賞金があたるMaxford House Coffeeのキャッチコピーのコンテストに当たったら母(Georgia Caine)に贅沢をさせて恋人のBetty (Ellen Drew)と結婚すること(当たらなくてもしなよ)を夢見ている - それくらい平凡などこにでもいるサラリーマンで、彼が考えたコピーは、”If you can't sleep at night, it's not the coffee, it's the bunk.”っていうので、得意そうに言われると微妙すぎて少し考えてちょっと困って「ふうん」って黙らざるをえなくて、Bettyですらずっと困っている - そんなやつ。
主催者側のMaxford House CoffeeのDr. Maxford (Raymond Walburn)はコンテストの優勝者をラジオで発表することになっていて、町中世界中の人たちが固唾を吞んで発表を待っているのだが審査員代表の厄介者 - Bildocker (William Demarest)にあれもこれも却下されてばかりでちっとも決まらず、土壇場で発表の日が延期されてみんながっかり、になっている。
Jimmyがあまりにコンテストに夢中で職場でもぼーっとしているので、職場の同僚3人が悪戯でコンテスト優勝を知らせる偽の電報を作ってJimmyの机に置いたら、それを見つけたJimmyが狂喜してすぐに上司(Ernest Truex)に知らせるとフロア全体が興奮で膨れあがって、上司はその場でJimmyを広告担当のエグゼクティブに昇進させ、専用のオフィスを与えてBettyを秘書にして、あまりに騒ぎが広がってしまったので首謀者3人は冗談と言えなくなってしまう。
Jimmyは偽電報を持ってMaxford House Coffeeに乗りこんで自分が優勝者である、と告げるとDr. Maxfordは、ああ発表前に彼に決まったんだと思いこんで $25,000の小切手を渡して、JimmyとBettyはその足で高級デパートに乗り込み、最初は怪しんでいたデパート側も小切手が本物であることがわかるとクレジットを与えて、ふたりは大喜びで母親のソファベッド(怪しいトランスフォーマー仕掛けがてんこ盛りの)とか婚約指輪とか近所の人たちへのプレゼントとかを買いまくる(いいなー)。
ふたりは複数台の車を贈り物でいっぱいにして自分の住む通りに戻ってきて、母親とか近所の人たちに気前よく配り始めるとご近所一帯は縁日(クリスマス)の賑わいになってみんなでわいわい楽しんでいると、電報が偽だったことがわかって…
ほんとに悪い人は出てこない人情喜劇なので結末はなにも恐れることはない。Preston Sturgesにしては割と直球の、さくっとした一篇。でもロットに当たったらなにを買うかなにをするか、って万人に共通の永遠の暇つぶしネタだし、誰もに思い当たるところはあるような。
冒頭、マンハッタンの夜景を背後にアパートの屋上でふたりが話していて、遠くのMaxford House Coffeeのビルにフォーカスしてその中に入ったり、階下のママと屋上の間で会話したり、猫やウサギ(屋上でウサギ飼ってる)を映しながらふたりが横に移動していくシーンがよいのと、ラストのぶん投げ 〜 エレベータからの必殺(としか言いようがない)猫ショットで戦慄する。あの一瞬の猫だけでもなんかすごいから見て。
贈り物が溢れかえって家と通りいっぱいが大変なことになってしまう、というクリスマス映画だと、英国の女性監督 - Wendy Toyeの“On the Twelfth Day…” (1955)っていう短編がすばらしいの。イーストマンカラーの綺麗なことったらまるごとクリスマスケーキみたいで、だいすき。
Sufjan Stevensのクリスマスソング - ”Christmas in July”はこの映画とは関係あるのかないのか。
TVで”Sweet Home Alabama” (2002)をやっていたので久々に見てしまう。やっぱし好きなのね。
3.20.2021
[theatre] Angels in America
National Theatre at Homeに来ていたので3月13日、土曜日の昼にPart Oneを、14日の昼にPart Twoを見ました。
Tony Kushnerによる93 - 94年に上演されたAIDS時代のアメリカを描いた大作で、Pulitzer Prize for DramaとかTonyとか沢山受賞していて、2003年にはHBOでMiniseries化されて(監督Mike Nichols, キャストにAl Pacino, Meryl Streep, Emma Thompson, Jeffrey Wrightなど)、National Theatreで2019年にリバイバル上演された時は見に行こうか割と悩んで結局行かなかったやつ。やはり見に行くべきだった。
Part One: Millenium Approaches(3時間11分)
85年のNY、棺を前にラビ(Susan Brown)が移民としてやってきて懸命にここで生きたすべてのユダヤ人女性をLast of the Mohicansとして、それを受けいれたアメリカも含めて讃える。
そこから裁判所の事務所にいる見習いでモルモン教で共和党員でレーガン支持のJoe (Russell Tovey)とその上で司法界では相当なパワーのあるらしいRoy (Nathan Lane)からワシントンD.C.に行ってみないか、と言われて、Joeは妻の Harper (Denise Gough)がいて置いていけないから、って断る。
ブルックリンのアパートでひとりぼっちのHarperがぶつぶつ - このままではいけない - 旅に出よう!って独り言を言うと、どこかから男の声がミレニアムは近い終わりがやってくる、って返してくる。
部屋に男がふたり - Prior (Andrew Garfield)とLouis (James McArdle) – がいて、さっきの葬儀はLouisの祖母ので、Priorは腕の痣のようになった注射痕を見せて、これがAngel of deathだ、ぼくはもうじき死ぬんだって、Priorは自分がAIDSであることを知っていて絶望の底にいる。
そこからJoeのワシントンD.C.行きの話を巡るRoyとJoeの仕事上の関係、JoeとHarperの見事に失敗した夫婦関係を巡る修羅場があり、友人を救えなくて絶望しているLouisのラビへの告解があり、そんな彼(だけじゃない他の病人ぜんぶ)をケアする元ドラァグクイーンのBelize (Nathan Stewart-Jarrett)がいて、LouisとJoeの出会いとお互いにとってありえない恋が始まり、関係の糸がぐじゃぐじゃに撚れていって、ベッドから動けないPriorと彷徨い続けるHarperが(薬のせいで?)チャネリングしたり、鯨油を売っていたPriorの先祖が現れたり、なんでもありそうなのだが、誰もが苦し紛れにここではないどこかの新たな土地とか出会いを求めて地表を這いまわる。
やがて自分が同性愛者であることを自覚したJoeがユタに住むガチのモルモン教徒の母 - Hannah (Susan Brown)に悩みを打ち明けたら彼女は家を売って腕まくりしてNYにやってきて、「正常者」としてひと騒動起こすのと、AIDSを発症して悪化していくRoyは訴訟を抱えた状態で死ぬのは嫌なのでなんとしてもJoeにワシントンD.C.に向かってほしいのだが聞いて貰えなくてがっくり崩れ落ちると、その死の床に彼がスパイ容疑で処刑したEthel Rosenberg (Susan Brown)の亡霊がじっとりと現れる。
最後に病に苦しむPriorの元にThe Angel (Amanda Lawrence)の声が聞こえてきて、おまえはLazarusだとか預言者だとかお告げをして、やがてメッセンジャーであるThe Angelの羽が天井突き破って火を噴いて”very Steven Spielberg”な顕現をする - Priorは「わぉ」しかない。
Angels in America Part Two: Perestroika(3時間48分)
1985年のクレムリンで、最古のボルシェビキが根っことなるべきセオリーの不在を嘆いているところから始まって、The Angelからのお告げでなにかに目覚めたPriorの探求の旅と南極からプロスペクトパークまで幻覚込みで彷徨って姑Hannahに保護されたHarperが交錯し、病院に入ったRoyはBelizeに看病されEthelの亡霊に悩まされながら自分の政治力を使って実験薬AZTを悪賢く入手するがJoeからも見放されて、LouisはJoeの過去の裁判記録を知って彼を見放して、Part Oneで縒り合されたいろんな糸がぷちぷち切れたり再接合されたり。みんな更に孤立したり自棄になったりしていく。
そこらじゅうにげろげろ吐きまくるThe AngelがPriorに告げた天国はSFに似ていて、でも1906年の大地震で神は人類を捨てたのだと、人類が進歩するためには動いてはならぬのだ、と。それって死ねってことかよ、って。(ここに出てくる天使はベンヤミンがクレーの「新しい天使」について書いた過去に積みあげられた瓦礫と破局ばかりを見つめている後ろ向きなやつ、よね)
こんなふうに物理的な場所はPriorのベッドとRoyのベッド、人間関係はケアする人(ドラァグクイーン、モルモン教徒、亡霊だの天使だの)とケアされる人、のように狭められていくかに見えて、彼らの歌や語りはNYを越えて南極からSFから冥界までとてつもない広がりを見せて、Royの罪と罰、JoeとLouisとPriorの三角恋模様も戦後アメリカの保守のありようの中で改めて再考を迫られる。それらの中心にあるのがAIDSという(レーガン政権が見放したことで被害が広がった)死に至る病 - アメリカの破局 - であった、ということ。
最後は格闘の末にThe Angelが開いた天国への階段を昇ったPriorが、神々との取引の果てに得たものとは..
エピローグは1990年の(アメリカだけではない)世界で、ペレストロイカを経てひょっとしたら、の世界が見えたりするのは意外だった。でもこれが1993年 - クリントン政権に移行した直後 - に発表されたことを考えると少し納得できるかも。絶望の鍋の底が抜けて突然光が射してくる意外さ。
Part Oneで民族の水平移動とそれに伴う宗教の横展開がもたらす災厄の舞台となるアメリカを描き、Part Twoで縦揺れの地震を起点とした世界の終わりを地表と天界の垂直のドラマの中で描いて救済とはなんなのか、そこにおける天使さまって? を問う。サブタイトルは多民族と宗教と病気(の歴史)、とか。
とてもおもしろかったのでHBOのシリーズの方も見てみたい。
見終わって思ったのはベンヤミンのほかにR.W. Fassbinderの『ベルリン・アレクサンダー広場』(1979) だった。なんとなく。特に終わりのほう。
これの改訂増補版がCovid-19 & パンデミック下のアメリカで描かれなくてはならないのかも。もっと暗くて陰惨で、天使なんてとうにどこかに消えてしまった世界のー。
役者さんではやはりAndrew GarfieldとNathan Laneが圧巻だった。ライブで見たかったなー。
3.19.2021
[film] Judas and the Black Messiah (2021)
3月12日、金曜日の晩、BFI Playerで見ました。
もうじきのオスカーにあれこれノミネートされていて、同じくノミネーションが多い“The Trial of the Chicago 7”とほぼ同じ時代の – ここにもFred Hamptonとその暗殺の件は出てくる – シカゴの - Based on the True Event - 映画。
60年代終わりのシカゴでWilliam “Bill” O’Neal (Lakeith Stanfield)が盗んだ車とFBIの偽のバッジでバーで呑んでいた連中に突っかかってみるが逆にぼこぼこにされて警察に突き出される。 彼の担当になったFBI捜査官のRoy Mitchell (Jesse Plemons)は車盗難はそうでもないけど、偽バッジの件は相当に罪が重い – それを軽くできる手があるけど興味はないか? と話を持ち掛ける。
こうしてシカゴのBlack Panther Party (BPP)のリーダーだったFred Hampton (Daniel Kaluuya)の運転手として、やがては彼のボディガード~ 支部のセキュリティ担当として党の内部に入りこんだBillは内通者としてRoy = FBIに内部事情を報告していくことになる。
それと並行してFredのBPPのリーダーとしての魅力やカリスマ性 – 対立するグループとの和解に向けた行動とか演説の力強さ – が運動の盛りあがる波飛沫と共に描かれて、その横で彼女となるDominique Fishback (Deborah Johnson)との出会いから妊娠に至る素敵なラブストーリーとして流れていく。
FBIは長官のJ Edgar Hoover (Martin Sheen)からRoyに至るまでどこまでもダークでえげつなく、でも盤石でもなくて、自分の娘が黒人の彼を結婚相手として家に連れてきたらどうする? という踏み絵質問にはRoyも答えに詰まってしまったり(ひどいなー)。
ドラマの軸はBPPの内部に入りこみ、Fredの傍にいて彼に接すれば接するほど、自身がFBIのスパイである(Fredを裏切り続けている)という罪の意識といつか内部から外部から正体を暴かれてしまうのではないかという恐怖と、でもこれを止めたらあっさり牢屋行き – の間で引き裂かれて孤立していくBill = Judasの煩悶と、かと言ってどうしろというのか、の生々しい日々を追って、やがて活動とFBIの武力衝突が激化していく中、Royは“more creatively”に次の手を打たねば、ということである計画を..
こうして、BillはFredの飲み物に薬を入れて彼を動けなくしたところにFBIが急襲をかけて... このシーンは史実であるにしてもあまりにも酷いし怖いし。これの裁判に12年掛かったというところも。
あと、この時点で、実際のFredは21歳でBillは17歳だったって…(まだ子供同士じゃん..)
ドキュメンタリーの”MLK/FBI” (2020)でもMLKの周囲にいたFBIのインサイダーのことが指摘されていたが、この時期のFBIはどれだけおぞましいことをしていたのか、ラストに出てくる89年のPBSでのBillのインタビュー映像を見て、彼のその後のことを知ると、その罪深さにぐったりする。
こういう裏切りのドラマが活きるのって最近のだと”The Departed” (2006)にあった警察とギャングのような正義と悪とか色分けが明確な組織の間で、という気がするが、ここのBPPは悪の組織でもなんでもない、Billからすれば自分の背筋を支えてくれるところだしFredは自分にもよくしてくれるのだし、そんな彼らをなぜ? というのはある。お金と自由を握られて挙動を見張られている - BPPの演説会場でFredの前にボディガードとして立つBillとその演説を聞きにきたRoyの切り返しにそんな彼の迷いと辛さがぜんぶ透けて見えてしまう。
という点も含めて、これは俳優の映画でもあって、主役のDaniel KaluuyaもLaKeith Stanfieldも絡み合うところを避けて常に一定の距離を保とうとする、その足の置き方がそれぞれに力強い。まさにJudasとMessiahのありようそのもの。Daniel Kaluuyaさんは、”Widows” (2018)のやくざも、”Queen & Slim” (2019)の逃亡者も見事だったが、輪郭がくっきりと残る演技をする。 あとDominique Fishbackさんの柔らかい笑顔。あのふたりだけのドラマが見たくなるくらい素敵なふたりだったのにー。
Craig HarrisとMark Ishamによるしっとりした音楽もすばらしい。
“The Trial of the Chicago 7”(は少し違うが)も、”One Night in Miami…” (2020)も、”Ma Rainey's Black Bottom” (2020)も、(もうTVでやっているのでこれから見る)“The United States vs. Billie Holiday” (2021) もアメリカの歴史のなかの人種差別をどういうふうに描くか、というテーマについてある視座を提示していると思って。どれも舞台劇にできそうな構造を持っていて、これらがここ1〜2年で出て来ているというのは興味深い - 必然。
本日公開の“Zack Snyder's Justice League”を見た。 4時間長い。
そのうちなんか書くかもしれないけど、「ペットセメタリー」も「ドフトエフスキー」もなかった。
しかしなー、ここまで違うものを作れるのならEP9もなー。
3.18.2021
[film] Woman on the Beach (2006)
3月10日、水曜日の晩、米国のMUBIで見ました。なんとなくホン・サンスを見ていくシリーズ。
原題は” 해변의 여인”で、邦題は『浜辺の女』。”Woman is the Future of Man” (2004) – “Tale of Cinema” (2005)に続く作品。ルノワールの1946年のとはたぶん関係ない。ホン・サンスにしては長めの127分。
映画監督のジュンネ(Kim Seung-woo)は友人のチャンウク(Kim Tae-woo)に行き詰っているので海の方にでも行って次作の脚本を書きたいんだけど、行かない? と聞いて、チャンウクはいいですけど自分の彼女とも約束しちゃっているので彼女も連れて行っていいか、いいよね? って ムンスク(Go Hyun-jung)を連れてきて一緒に車で(韓国の)西海岸に向かう。行きの車中、チャンウクはムンスクが作曲家でジュンネのファンであることを伝えたり、ムンスクからはチャンウクって別に彼氏でもなんでもないんだけど、あんたの「彼女」の定義ってなに? とかいう話をするとなんか微妙な雰囲気になる。
食事をしようとして入ったがらがらの食堂で店員と小競り合いしたり、ムンスクがかつて暮らしていたドイツでの現地男性との関係のことを話すと3人は更に気まずく互いにそっぽを向くようになって、でもそういうのを経て夜になるとジュンネとムンスクは浜辺にふたりでいてキスをして、そのまま宿に移動してセックスをして朝になると、そのまま車で戻る。帰りの車の中で3人がどんなかんじだったか知りたい。
その後ひとりで脚本を書くために再び同じ浜辺に戻ってきたジュンネはそこら歩いていた女性ふたりに声をかけて - ひとりでいられないのか - 脚本書きの参考にしたいから、とインタビューを申し込んで、夕刻になるとふたりのうちのひとりソンヒ(Song Seon-mi)が寄ってきたのでインタビューの続きのような会話をしつつ一緒に食事をして、その流れでそのまま寝ちゃって、そうしたら突然ぐでんぐでんに酔っ払った状態のムンスクが現れ、そこにいるのはわかってるんだ出てこいおらーって外で大騒ぎして、翌朝部屋のドアの前で潰れているムンスクを跨いで外に出る。でもその後のムンスクの追求(あのとき別の女と寝てただろ)にジュンネの返事はどんどん嘘の上塗りでおかしくなって…
これまでのホン・サンス作品にあった犬も喰わない、過去の記憶に拘泥しつつひたすら女性との関わり(呑み食いとセックス)を求めてどーでもいい痴話喧嘩にずるずる身を任せていくスタイルに加えて、これ以降の彼の作品に頻繁に出てくることになる浜辺とか、(あてのない)彷徨いとか、なにを求めているのか(男性の側からは)わからない女性とかが登場してきている気がする。
あと、まっさらな状態の出会いなんてなくて、浜辺で出会ったふたりは数日前に浜辺にいたジュンネのことを覚えているし、ジュンネはソンヒに数日前に一緒にいたムンスクの影を重ねようとする(似てるかも、なんて言いつつ)。酒杯を重ねるのもセックスするのもそういうやらしいオーバーライド合戦の延長としてあり、そういうので満たされるものがあるらしい男性に対して、女性はそんなもん夜の浜辺の寄せてくる波に流してしまえ、って(いう程単純ではないか)。
ムンスクの設定って、後の“On the Beach at Night Alone” (2017) - 『ひとり、夜の浜辺で…』でKim Min-heeが改めてなぞっている気がする。かつてドイツで暮らしていて、韓国に戻ってきて、の辺り。
あと、これもいつもの、一瞬出てきて消えてなんだったのか、の例えば、捨て犬のドーリのこととか、バイクに乗って乱暴しにくる男とか、本筋に関係ないけどあまりに本筋がぺったんこなのでその端にシミのようにひっついてくるやつ。
スクリューボールではない - 巻き込まれたり踏み外したりする段差なんてない - と思っているところでねちねちネジ巻き式のにじり寄りを実行しようとして、でも結果的になにも起こらず笑いも起こらなくて、まあこんなもんさ、って埃を払って向こうに歩いていく男たち、そういう劇をおもしろいと思えるかどうか。 まだなんかおもしろいかも、と思って見ているの。 こないだのベルリンで銀熊とったのもおもしろそうだねえ。
気がついたら在宅勤務を始めて1年経っていた。 これについては、効果だの生産性だのを巡って労使それぞれに賛否いろいろあることはわかるけど、でも少なくとも、こういう働き方がオプションとしてあって(通用して)、それを決めるのは会社ではなくて社員の側である - それは会社を選ぶのと同じ類の自由度で認められるべき、くらいに思うようになった。 なにが言いたいかというと、もう昔みたいに通勤電車でぎうぎう、っていう生活には戻れないだろう、って。
3.17.2021
[film] Les rendez-vous d'Anna (1978)
3月8日、月曜日の晩、Criterion Channelで見ました。
International Women's Dayだったこの日、同Channelに”Women Make Film”という特集が組まれて、ここにMark Cousinsの14時間の大作 - ”Women Make Film”の全エピソードが入っていた。BFIだとエピソードを束ねた全5部構成だったのに対して、ここは各1時間x全14部にばらしているのでより見やすいかも。この特集の中にはこのドキュメンタリーの中で紹介された女性監督たちの映画も入っていて、その中の1本。 この作品は、”Women Make Film”の中では3回参照されている。
英語題は”The Meetings of Anna”, 邦題は『アンナの出会い』。これ、大昔の(どれくらい昔だったか覚えていない)アテネのChantal Akerman特集で見ているのではないか、というのを最初の方のAnnaがホテルの窓辺のカーテンを引くシーン(なぜか印象に残っていた)を見て思ったのだが、ただの思い違いかもしれない。
ドイツのどこかの駅にAnna (Aurore Clément)が降りたってそのままホテルにチェックインして、ベッドに横たわったり電話で話したりして、夜になると迎えに来た人達(Annaは映画監督をやっているらしい)と外に出てイベントに参加して、終わるとHeinrich (Helmut Griem)と食事をして一緒にホテルに戻って、抱きあって、でももう愛しあっていない、と言うとHeinrichは出て行って、Annaはホテルの廊下に出ている男の靴をしゃがみこんで見たり、ルームサービスの残りを摘んで食べたり。翌日再び彼の住んでいる家の傍で会って彼の家に入って、どうしても行くのか、という彼を残して去る。
その後も駅の階段で旧友のIda (Magali Noël)と会って彼女の家庭のことを話したりしてからひとり電車に乗って、ブリュッセルに向かう電車のなかではHans (Hanns Zischler)という男と隣になってどこに住んでいる/住んでいた/どこに行く、みたいな話をして、ブリュッセルに着くとママ(Lea Massari)と会って食事してふたりでそこらのホテルの部屋に入って女性と恋におちたことある?とか会話してから一緒に寝て、翌日駅で別れる。
パリに戻ったAnnaは迎えにきたDaniel (Jean-Pierre Cassel)の車に乗って食事をしてホテルに入って、バスローブになって、Annaが彼に頼まれて歌を歌って、抱きあおうとしたら彼の具合が悪くなったのでタクシーで薬を買いに出て戻ってきて、うつ伏せのDanielに薬を塗ってあげる。
最後にAnnaは自宅と思われるアパートに戻ってきて、服を着たままベッドに横になって留守電のメッセージを順番に聞いていって、あるメッセージのところにくると少しだけ微笑む。
こんなふうに、移動をしながら人と会って話して別れて電気を消してベッドに横になる、を繰り返すAnnaの日々を固定画面とシンプルな横移動のみで追っていく。途中でパニックや事故に見舞われることはないし、誰かの腕のなかで or 酔っ払って気が付いたら目覚める、ということもない。誰と会ってもどこで一緒にいても彼女はどこまでもひとりで、自分がどこにいて、なにをしてて、次に誰と会うのか、誰に電話しなければいけないか、などについて極めて自覚的で、敷かれているレールを外れて冒険をすることなんて考えていない。 それがなにか?
この2時間強の旅を通してあなたはAnnaに出会うことができるのか、Annaは誰かと出会うことができたのか。Annaが女性ではなく男性だったら、どんな移動と出会いになっただろうか?
これが(短編とドキュメンタリーを挟んで)”Jeanne Dielman, 23, quai du commerce, 1080 Bruxelles” (1975)の次に発表された、というのはおもしろい。”Jeanne Dielman.. ”で、ひとつの家の壁のなかで延々同じ家事と情事を反復していくJeanneときれいな対照をなしているような気もするし、そんなものではなくこれはひとりの女性が置かれている日々のありようをスケッチしただけ、なのかもしれないし。 映画祭に出品するような映画を作っている彼女であれば相当いろんな人と出会っているし、出会って話をすることが仕事、のような側面もあるのかもしれないのだから孤独だとか誰かとの出会いだとか、そんなXXかもしれない、という四方からの視線に囲まれながら、彼女はカーテンを開けたり窓から列車を眺めたり部屋の灯りを消して留守電の音を聞くことの方に安らぎを求めているかのよう。
そしてこれすらも.. というところで生きているんだよ大きなお世話だほっとけ、っていう声が聞こえてきそうな。
コロナ時代のトランスポーテーションガイド、としても使えるかも(← くだんない)
3.16.2021
[film] Untitled Pizza Movie (2021)
3月1日から11日までの間に、3回に分けてMetrographで見ました。
Part1から7まで、約30分の短編が7つ並べられたドキュメンタリー、とも少し違う小説のような個人史のような体裁の映画 - 各partの最後には脚注のコーナーがあったり。各Partのサブタイトルは;
Part 1: Ice Cube Trays, Part 2: Eat to Win in the Elevator, Part 3: Pizza Purgatory,
Part 4: Zig Zag, Part 5: The Natufian Culture of 9,000 BC, Part 6: Clams, Part 7: Mars Bar。
ひとはどうしたら周りにいた人達のことや使い捨ての世界のことを記憶したり記録したりしておくことができるのか? 美しい物語や輝ける歴史のように勝手に語り継がれていくことのない隅っこのガラクタ – “A History of Fucking Up”はどうやったら遺していくことができるのだろうか? という試論/私論。
監督のDavid Shapiroは90年代の中頃、生まれ育ったLower East Sideの学校の友人Leeds Atkinsonと一緒に”Eat to Win”ていう映像プロジェクトを始める。ピザスタンドでコンテスト名目で無料のピザを食べさせて貰って、その映像をThe Wiz - 90年代にあった安売り家電チェーンの”30 Days Return Policy” - 「30日以内なら返品可能」を使って調達したビデオカメラで撮る – これのテープが発掘されたのでそれを題材に、ピザスタンドのピザに取りつかれていた自身の過去を他のアーカイブ(&ガラクタ)と共にひっぱりあげようとする。
New Yorkの街は、Lower Eastは特にひどいけど、ものすごい勢いで変わっている。我々の知っている90年代の街はもうほぼ残っていない。同様に当時読んでいた本、聴いていたレコード、遊んでいた玩具、駄菓子、そして友人たちも、残っているものもあるがどこにいったのかわからないものも沢山ある。それらって、どこにどんなふうに残っていく/残されていくのだと思う?
こんな問いと共に開始されたプロジェクトはPart2の終わりに唐突に告げられるLeedsの死と共に急転回して、Leedsの生前の様子や友人、未亡人、家族、メール等、過去と現在を行ったり来たりしながら彼の肖像を浮上させようとする。もうひとつは”Eat to Win”プロジェクトで知り合ったLombardi’s(Spring st. にあるピザ屋)のピザ職人- Andrew Bellucciについて。Bellucciは若い頃にWall st.で罪を犯して服役してピザ職人になった後、マレーシアに渡ってNYピザの店を出して、NYに自分の店を持つべく戻ってくる、そんな彼のピザをめぐる世界と人生を、これも彼の家族も含めたインタビューを通して描く。そしてそんな彼らとの関係を結んで紡いでいく監督David Shapiro自身のこともまた。
内容も構成もひとつのテーマを掘り下げて追っていく、というよりも現在のインタビューから過去のアーカイブまで自在に行ったり来たりの散文調で3人の人物像だけでなく彼らを取り囲む家族や友人、都市の過去から現在まで、ランダムに散らして転がしていくので各パートはあっという間に終わってしまう。変わっていったり失われていくものをどうサルベージして自分のガラクタ箱に並べられるのか、とか。 それはフェイクではないと、ほんものであるとどうしたら言えるのか、それらは「問題」になるのか、など。
その起点にピザがある、というのはおもしろい。ストリートフードでファストフードで、スライス$2くらいで、どこのストリートの角にもだいたいスタンドがあって遅くまでやってて、1スライスか2スライスか、頼むと窯で温め直して出してくれる。ランチでもライブの前でも映画の後でも、わたしにとってはまじでライフセーバーだった。これがハンバーガーやホットドッグと少しちがうのは、この映画にも出てくるKatz'sのサンドイッチともちがうのは、料理を仕上げるのは人ではなくて窯(ガスでも薪でも)だっていうとこで、要するに工程にヒトの介在しない世界の神秘が関与している。 ある人にとってその宇宙にあるのはバーガーかもしれないし、ラザニアかもしれないし、ラーメンかもしれないし、タコスなのかもしれない。そこは議論しなくて、ピザのサークルを中心としたときUntitledに広がる宇宙はこういうものだ、と。
Lombardi’sから(昔の)John's PizzeriaからPatsy'sからもう消えてしまった無数のお店たち、あれらのピザの記憶と共に形作られていたかつてのNYの地図はいったいどこにあるのか。なんで90年代のNYのあれこれは未だに記憶の隅に居座ってあれこれ言ってきたりするのか – これは自分でもわからない。東京の街でそういうことは起こらない。Londonもたぶん(Londonはこれとは別のかたちでとり憑いてきそうだが)ない。 NYの激しい四季、通りの汚れっぷり、Lower – Upper、East - Westのコミュニティのありようとか、いろんな要素が絡まってあのピザの様式が決まっている気がする。(だから、シカゴピザもこれと全く異なるUntitledな世界を形成するであろうことは容易に想像できる)
そして、そうやって錆びれた記憶のなかで縒りあわされた90年代のNYがCovid-19で近寄れなくなったリアルNY(ああもう1年行っていない。こんなに長く離れたのは初めて)と共にPCの画面の向こうに立ちあがる。都市は変わっていく、時間は流れていく、あたり前のことだけど今はきつい。
Metrographでのスクリーニングでは各Partの終わりに監督とのトークがあったりして、その一回目の相手はJonathan Lethemさんだった。この内容がすばらしくて、また聞きたいと思っていたらBeliever誌のサイトに採録されていた。彼の小説のファンにとってもおもしろいものだと思う。
https://believermag.com/logger/david-shapiro-makes-memories-into-objects/
ちなみにJonathanはこの映画の手法をプルースト的だって。マドレーヌ = ピザ説。
あと、Part 7の後にはNYピザ関係者が会したPizza Panelがあって、このディスカッションもおもしろかったのだが、参加者のひとりDrew Nieporent氏(Nobuのオーナー)がかつて経営していたフレンチ – Montrachetで出していたパンのことに触れたので身悶えした。ここで出していた小さな蓋のついたパンがどれだけ衝撃的においしかったか、それが当時は革命だったのだ、って。 うんうん。これを継ぐかたちでDavid BouleyはBouley Bakeryを作ったのよ – たしか。
なんか、この当時のどこのピザが、パンが、どんなふうにおいしかったかとか、そういう話だけしていたいなー。
次にNYを訪れるときはアストリアにあるBellucci Pizzaには行ってみたい。
この映画のサイトにいくとポインタがスライスピザの三角になるの。
3.15.2021
[film] Un jeu brutal (1983)
3月7日、日曜日の昼間、アメリカのMUBIで見ました。
Jean-Claude Brisseauの作品は2019年、BFIのMaurice Pialat特集でかかった“De bruit et de fureur” (1988) - “Sound and Fury”がとてもおもしろかったので。“Sound and Fury”はこの作品の後に撮られている。 英語題は”A Brutal Game”、邦題は『野蛮な遊戯』。
明るい青のタイトルバックからすでにBrisseau。それに続いて『カラマーゾフの兄弟』からの引用で、なぜ自分が子供たちのケースを取りあげるのかについて、自分はわざとヒューマニティについて語る対象を狭めたのだ、という箇所が。(どの辺だったか?)
冒頭、森のなかで水着の上をとって日光浴をしている少女の上に男が襲いかかって殺害するシーンがあって、それが主人公のChristian Tessier (Bruno Cremer)であることがわかる。(つまりミステリーでもなんでもない) 続いて研究所の建物の前で書類や写真を燃やしているTessierのところに母が心臓発作で倒れて会いたがっているすぐ来い、という電報が入って、彼は実家に向かう。
実家に入る前に年配の男が建物から出てくるのを見て、あとでその人物について、パスツール研究所の上司だったがもう辞めたので友達でもなんでもないと吐き捨てるようにいう。横になっている母を見舞うと、下半身が障害で動かない娘のIsabelle (Emmanuelle Debever)の面倒を見てあげて、そのために生家のSaulièresに帰って一緒に暮らして触れ合ってほしい、と懇願される。
次のシーンで母は棺で冷たくなっていて、葬儀には出ないのかと問われると、もうこうして石のように冷たくなっている - 出たって意味ないだろう、とどこまでも冷たい。 でも遺言通りに召使いのLucienを送って修道院にいたIsabelleを引き取ってSaulièresの家に引き取る。 その前にカフェでIsabelleに再会した父が彼女になにを考えているの? と聞くと、町の人々を見ているの - どこに爆弾を置けばいちばん多くの人を殺せるかって、ひとつめの爆弾はやっぱりマーケットかな、で逃げまどう人たちを狙って2つ目と3つ目を… とか、薄汚れた人間どもめ、とかぶつぶつ言っているのでこれは重症かも、って。
田舎に戻したIsabelleは水辺で虫をいじめたり叩き潰したり残酷で、部屋も散らかり放題で荒れているし、絵を描かせようとしても絵の具を手でこねて遊ぶだけ、ほぼ動物の野生状態なので、朝6時起床で7時朝食で7時夕食で9時就寝とか厳格なスケジュールを書いて、それに従わせるように、部屋も自分で片付けさせて、従わなかったら24時間飯抜き、とか言いつけて、Lucienの他に教育係としてAnnie (María Luisa García)を住み込みにして、傍につけさせる。
AnnieはIsabelleに呼吸法を教えたり、一緒にジャック・プレヴェールの詩を読んだり、彼女の部屋も片付いてきて人間ぽくなっていって、Annieが部屋で裸になって本を読んでいるのを覗いて自分もひとりの時に裸になってみたり。そんなある日、水辺で遊んでいたら(もう虫は殺さない)水のなかに落ちて、それを助けてくれたのがAnnieの弟のPascal (Albert Pigot)で、バイクでいろんなところに連れていってくれる彼に懐いていく。
他方で、町では子供達を狙った第2 - 第3の殺人が起こっていくのだが、犯人の動機も痕跡も不明なまま、TessierとIsabelleの関係は、強い服従を強いるという点では変わらず、ただIsabelleは人間的な分別がつけられるようにはなっていて、そこに大きな貢献をしたPascalは、部屋にGFを連れ込んでいるところをIsabelleに見られて大騒ぎの末追い出されて、単純な愛情 → 成長の物語にはなっていかない。
ある日、Isabelleが持っていた鍵を使って父親の部屋に入ってみると、並べられた知らない子供達の写真に✖️がついていたりして、ひょっとしたらこれは…
仕事で過ちを犯した、として研究所から追い出された男=父と、幼いころから家族に追い出されて隔離されて育った少女=娘がいて、一方は野蛮なふるまいに歯止めが効かなくなっていき、もう一方は徐々に野蛮状態を脱して人間性を獲得していく、というのはたまたまで、それぞれが抱える憎しみも全く別の性質のもので、両者に因果関係はない。一方は大人で他方は子供、というのもたまたまのことで、そこに物語的な必然もなにもない。 人殺しはただ人を殺すし、殺さない人は愛があるから、優しいから殺さない、というわけでもない。 という自然状態からどんな物語的な要素を引き出すことができるのか、という試み。 ここに悲劇的な(文学的な)なにかを読み取ることは難しくて、ただ怖い、ただ美しい(PascalがIsabelleを連れていく山の上とか)、そういうのしかない。 Maurice Pialatの作品に垣間見ることができる人の業みたいなのも希薄だし、これをやり出したらなんでもありになっていってしまわないだろうか、というのは少しだけ。
Bruno Cremerの尖った鼻とものすごく青い目がだんだん怖くなっていく、そのかんじがまた。
3.14.2021
[film] History is Made at Night (1937)
3月7日、土曜日の昼、Criterion Channelで見ました。題名はよく聞くクラシックだけど見たことなかったかも、って。監督はFrank Borzageだし、製作はWalter Wangerだし、撮影は(uncreditedだけど)Gregg Tolandだし、主演はJean ArthurにCharles Boyerだし、見なきゃ、って。 邦題は『歴史は夜作られる』。
アメリカの海運王で大金持ちのBruce Vail (Colin Clive)の妻Irene (Jean Arthur)は、夫があまりに性悪なので離婚を決意して置き手紙をしてパリに発つ。Vailは運転手のMichaelに命令してホテルにいるIreneといちゃついているところを写真に撮ればそれをネタに離婚成立を阻止できるから(そういうとこが嫌われるんだよ!)って、金に困っているMIchaelを脅して派遣する。 パリのホテルで夜中にIreneの悲鳴を聞いたPaul (Charles Boyer)は、彼女の部屋に入ってMichaelをぶん殴って気絶させ、写真を撮るために現れたVailたちには宝石強盗のふりをしてクローゼットに閉じ込め、Ireneを連れてそこを抜け出す。
もちろん突然拉致されたIreneは怯えきっているのだが、車のなかでPaulは宝石をぜんぶ彼女に返して、あれがあの状況では一番わかりやすい脱出方法だったろ、って説明して、もう遅いけどパリでベストのシャンパンを出す店にお連れしよう、ってお店 - Château Bleuに向かう。けどもう閉店の時間でバンドもシェフのCesare(Leo Carrillo)も帰ろうとしているところで、Cesareにはこちらのミスアメリカが君のことを知っているよっておだてて、バンドにはシャンパン奢るからって店を再開させる。
なに食べようかってIreneに聞くとスクランブルドエッグとかいうのであぁ(なめてんのか)? ってなって、PaulがまずシャンパンはPink Capの1921年、Lobster Cardinale à la Cesareと”Famous” Salade Chiffonnadeを - ドレッシングは自分が混ぜるから、ってCesareと揉めて、とにかくふたりはテーブルで自己紹介をする。Ireneはカンサスの生まれで、あなたは? って聞かれたPaulは女性と住んでる、って。すこし雰囲気が荒れてもPaulが自分の左手に落書きしたCocoを紹介すると和んで、Cocoを通して彼女のひどい結婚のこととかを話して、Cocoを通してタンゴをはじめて、彼女は靴を脱ぎ捨てて踊り続けて、バンドがひとりひとり寝落ちして最後のひとりになる朝まで続く。(お料理は..?)
こうして彼女をホテルに送り届けるまでが本当にすばらしいのだが、でもその裏でVailはMichaelを殺してPaulを強盗殺人犯にでっちあげているので、ひどいったらない。 彼女がホテルの部屋に戻るとそういう状況になっていて、VailはPaulを追っかけるのをやめるのと引き換えに自分と一緒にアメリカに戻るようにいう(さいてー)。
Ireneとお店で - Paulはここのヘッド・ウェイターだった - 夕方の5時に待ち合わせをしていたのにいつまでたっても彼女が現れないのでおかしい、って新聞をみたらNYに戻った、とあるので船上の彼女に電話して、その様子がおかしかったのでPaulとCesareは一緒にNYに向かうことにするの。ここ、船上でどこまでも鬼畜なVailのせいでPaulへの愛を再確認するIreneと、俺ら狂っているよな、って共にNYに向かうことにするPaulとCesareがとってもいいの。
NYについたふたりは、そこそこのレストランに入って、この店を乗っ取ろうぜって、ブイヤベースを頼んで、その味となんもしてないウェイターのサービスにケチをつけて(わかるー)、自分たちがやったらこんなもんさって実演して、ふたり揃ってそこに雇われて、そしたらそこは途端に予約の取れない人気の店になり(わかるー)、でもPaulはIreneが来たときのために1席だけはずっと確保している。
NYではVailと離れてモデルの仕事をしていたIreneはパリで容疑者が捕まったという連絡を受けて、確認のためVailと現地に向かうことにして、その直前にPaulの店に… ついたお店でPaulを見つけたIreneの反応 - けらけら笑いだす - が最高で、Paulはふたりが出会った晩と同じメニューを力強く勧めるの。
Vailと船に向かう車中でIreneは自分のチケットを破り棄ててPaulのところに走り、ひとり憮然としているPaulの前に再びCocoが登場してふたりを結んで、一緒にタヒチに行ってそこで暮らそう、って旅行代理店の前まで行くのだが、やっぱり自分が無実であることを証明しないと、とふたりはパリに戻ることにする。ところがやけくそのVailが濃霧のなか船に無茶な運転をさせたせいで…
最後はタイタニックみたいになるのでびっくりなのだが、とにかく出会った途端に輝いて、再会した途端にみるみる輝きを取り戻すふたりを見ているだけでいいの。あの時にあんなことが起こらなかったらの連続と連鎖がこんなことやあんなことを引き起こして、っていうスクリューボールよりもう少しまじめなやつで、氷河が船にぶちあたろうがなにしようが切れない揺るがない運命の糸についてのドラマなの。
ブイヤベースのところは頷くしかないのだが、これ、逆にアメリカ→パリのお話だったら成立しない気がする。
Mary Steenburgenさんて喋り方とかJean Arthurさんに似ているよね。
3.13.2021
[film] 一代宗師 (2013)
3月4日、木曜日の晩、BFI Playerで見ました。Wang-Kar-Waiの4Kリストア版を見ていくシリーズ。
英語題は”The Grandmaster”。英語題も邦題もほぼその通りなのだが、『グランド・マスター』って中ぽちを付けるのはいいの? 酒類の名前みたいじゃない?
これは、日本公開された時に劇場で見ていて大好きだったので、他のを飛ばして再見したかった。
南の方のIp Man (Tony Leung)は、幼いころから詠春拳の修業に励んでZhang Yongcheng (Song Hye-kyo)と結婚して子供もできて香港で幸せに暮らしていたのだが、北の八掛拳のグランドマスターGong Yutian (Wang Qingxiang)の引退に伴う跡目争いの中で、統一流派の統一後継を決めたいので南の方でも候補を出せ、と言われる。 南は当然Ip Manに決まりで、いろんな流派の候補と闘って、でも彼は圧倒的に強くて、最後はGong Yutianとの組み手ではない頓智合戦みたいのでIp Manが統一会派の後継に選ばれる。
これが気に食わなかったのがグランドマスターの娘で奥義六十四手の継承者であるGong Er (Zhang Ziyi)でIp Manに果たし状を送って遊郭「金楼」でふたりの決闘が始まって、ぎりぎりすれすれでどっちも繰り出す技が速すぎて何が起こっているのかわからないくらいすごい戦いなのだが、家具を壊したら敗け、のルールで踏みしめた床を少し壊してしまったIp Manの敗け、ということになる。
これらの戦いの前から始まっていた日本軍の侵攻で拳法どころではなくなって、Ip Manは日本軍への協力を拒んで子供を失い極貧の生活を強いられる。Gong Yutianの娘のErは医学の道を志して、息子のMa San (Zhang Jin)は日本軍に協力して勢力を広げるのだが調子にのるなって父から破門され、更には闘いに挑んで父を殺してしまう。
復讐に燃えるEr(と爺と猿)はクリスマスイブの晩に駅のホームでMa Sanと死闘を繰り広げて列車頭がりがり拳で仇をうつのだが、彼女自身も痛手を負って治療を通してアヘン漬けになってしまう。そんな彼女はIp Manとの間でずっと文通をして親交を深めていて、彼女の愛も告げられるし再会の場もあるのだが、再び拳を交えることはなく、なにがどうなるもんでもなく…
冒頭の豪雨の中の対決シーンに始まって、Ip ManとErの楼閣での空中戦まではほんとにすごくて釘づけで、でも後半はそんなでもなくなってしまうのは止められない時間の流れのなか主人公ふたりの回想が繋いでいく構成上仕方ないのかもしれない。
戦争を挟んだ苦難の時代にグランドマスターを目指す各流派の頂上決戦の行方を描くのでも、多様性に溢れた各流派が「統一」の名の元に潰しあって消えていくさまを描くのでもなく、それでも生き残っていく六十四手や八掛や剃刀といった型やステップの波動や息遣いとか、降り注ぐ雨に抗して真横に放射される熱線とその飛沫の軌跡とか、そういうのだけを追おうとしているかのような。
もちろんIp Man伝としては後にBruce Leeによって世界に紡がれ継承されていくマーシャルアーツやグランドマスターの偉大さを伝える必要があったのかもしれないが、無表情なGong Erが呟く「後悔のない人生なんて糞みたいなもんだ」とか「人生の一番幸せな時にこそ後ろ向きでいたい」といった方に強く惹かれて神経を抜かれる。勝ちも負けもない地表で壁をみつめてその向こうの誰かのことで静かに想い続ける - こういうのこそWang-Kar-Waiの作品を貫くテーマではないか。 と思うし、これってやっぱりIp Man伝というより、激動の時代を一度も負けることなく生きたひとりの女性の映画として見るのが正しいのではないか、って改めて。
わたしは昔のカンフー映画も大好きなのだが、これらをダンス映画として見ているのかも、って思ったのはこの映画あたりからだったかも。好きだけど血が噴き出るのとか人が痛がったり死んじゃったりするところは見たくない、という意識がそうさせているのだろうが、この点ではすばらしいダンス映画 - キスと抱擁の真逆で相手の骨を一瞬で砕く - だと思うし、ダンス好きな人に見てほしい。
とにかくZhang Ziyiがめちゃくちゃクールでしなやかでかっこいいのと、病に侵された晩年の能面のような凄まじい表情と、それだけでも。戦わせたら最強の彼女をAvengersにもX-MenにもJustice Leagueにも採用しなかったハリウッドの目は節穴だと思うし、ようやく、せっかくモスラと共演するっていうのにあんな役しか与えなかったのも犯罪に等しいわ、って。
3.12.2021
[film] Goodbye Charlie (1964)
3月6日、土曜日の昼間、有料のYouTubeで見ました。
前にCriterion Channelで見たVincente Minnelli監督の”The Bad and the Beautiful” (1952)がおもしろかったのと、”Two Weeks in Another Town” (1962)とこれはハリウッド内幕ものと呼べそうな3部作のようになっているとThe New Yorker誌のRichard Brodyさんが書いてて、でも”Two Weeks..” はストリーミングでは見当たらなかった。のでこれを。 邦題は『さよならチャーリー』。
George Axelrodの1959年の同名舞台劇が原作で、舞台ではLauren BacallとSydney Chaplinが主役を演じたとか、プロデューサーのDarryl F. Zanuckは最初この企画をBilly Wilderに持って行ったが蹴られたとか、主演はMarilyn Monroeのところにも行ったけど蹴られたとか、いろんなエピソードがあるみたい。
洋上で歌えや踊れやの豪勢なパーティが開かれていて(ものすごくいっぱいいる人の間をスムーズに抜けていくカメラすごい)、そこでライターのCharlie Sorrel (Harry Madden)が自分の妻といちゃいちゃ別室に行くのを見たハンガリー人映画プロデューサーSir Leopold Sartori (Walter Matthau) - パーティの主催でもある - がCharlieを撃ち殺して海に落っことす。
Charlie亡くなるの報を受けた小説家で友人のGeorge (Tony Curtis)は葬儀に参加するためにパリからCharlieの自宅があるマリブのビーチハウスに飛んでくるのだが、着いてみるとその場にいるのはいかにも義理っぽいガールフレンド2人とマネージャーくらいで(いかにCharlieの人望がなかったか)、幾重にも哀しくて、ひどいことにGeorgeは借金と滞納税金まみれのCharlieの管財人にさせられている。
そんなのもあってソファで疲れてぐったりしていたGeorgeは夜中にドアを叩くBruce (Pat Boone)と毛皮のコートに包まれて前後不覚になっている若い女性 (Debbie Reynolds)に起こされて、Bruceは全裸で彷徨っていた彼女をハイウェイで拾った - 自分は予定があるからって彼女を置いて出ていっちゃうのだが、翌朝Georgeは錯乱した彼女に起こされて、彼女は自分はCharlieである、と主張する。なに言ってんだか、っていうGeorgeに彼女はこの家のどこになにがあるかとか、Charlieしか知らないような過去のふたりの悪事あれこれについて語るので、本当に彼女は彼であるらしい。
どうしたらよいのかわからないのでとりあえず彼女を未亡人Mrs. Charlie Sorrelということにして表に連れて歩くと、あのCharlieに未亡人がいた、っていう噂が広まり、それから拾った彼女のことを忘れられなかった大金持ちでマザコンのBruceが戻ってきて、こいつと結婚できれば借金はぜんぶ.. とか、保釈されてでてきたLeopold は鼻の下をのばして自分が殺したex-男性のところに寄ってくるし、彼女のゴージャスな見栄えでいろいろ回りだしてお決まりのお色気騒動も巻き起こって、すると今度は銃を手にしたLeopoldの妻が現れて..
堕落しきった生活を送ってて、友達も恋人もひとりもいないすれっからしのハリウッド映画人が、女性に転生した途端にモテモテになって、でも同時に自分の過去も含めていろんなことを学んで、よくなってきたかも、と思ったら全く逆のパターンにはまって殺されてしまう - 殺されたのは幽霊なのかも、だけど。
というのと、翌朝Charlieはやっぱり死んじゃったのか、ってしょんぼりしていると、近所に住むという外見だけは間違いない「彼女」が扉を叩いて、そしたら彼女の連れていた犬が…
公開当時だったら因果応報かわいそうー/おもしれー、で終わってしまったのかもしれないが、いまの我々にとっては当時の先端産業におけるジェンダーのありようをかなり的確に反映しているなにかとして読むことができて、いろいろおもしろい。 それは中身がCharlieであっても外見があんなであればあんなに(表面上は)厚遇されるのか/周囲の男たちは厚遇するのか、っていうのと、そのことをこれまで女性をそんなふうに扱ってきた(中身は未だ男の)Charlieも皮膚の内側でむずむず実感する、っていうのと、でも厚遇といっても、女性的なふるまいを前提とした表面的なちやほやでしかなくて、性役割期待をひっくり返すようなところまではいかない。時間の問題、というよりも単に男性&老人支配の手強さが。
あとは、Charlieが女性の内側で感じる女性の性とか肉のかんじと、GeorgeがCharlieを包んでいる女性に魅力を感じたときに生じるなんとなくホモセクシュアルな気まずいかんじって、つまるところなんなのか、とか。
あとは、Charlieの外見のトランスフォーメーション - 男性 → 女性 → 犬 が「堕ちていく」イメージだったのだとしたら、それって… とか。 今だったら、殺された女性が男性の身体に転生して現れるほうがおもしろいよね(すでにどこかにあった気が?)
で、これらはこの作品のドラマとしての欠陥を示しているわけではなくて、「夢」の裏側で魑魅魍魎がうごめく異界ハリウッドの異様さを(「リアル」というよりも)正確に映しだしている感があってやっぱりVincente Minnelliすごい、になる。
もちろん、着せ替え人形になって無邪気にはしゃぎまくるDebbie Reynoldsのすばらしさと、それにど真ん中で応えるコスチュームの素敵なことったら。だからハリウッドすごい! になるのは思う壺なのだろうけど。
↓ の『乱れる』もこれも1964年。 同じ地球上で作られた映画とは思えない。
3.11.2021
[film] 乱れる (1964)
2月27日、土曜日の午後、Criterion Channelで見ました。だらだら成瀬を見ていくシリーズ。
英語題は”Yearning”。..「あこがれ」はちょっと違うかも。「乱れる」ことが肝心なポイントだから。
戦後、高度成長期の清水市で、地元のスーパーマーケット「しみずや」の宣伝カーが商店街をのしていて、商店街の酒屋 – 森田屋で礼子(高峰秀子)が店番をしている。東北からの勤労奉仕の後に森田屋に嫁いできた彼女は結婚して半年で夫を亡くしてから18年間、ひとり(小僧はいるけど)で店のやりくりをしてきたのだが、スーパーの安売り攻勢には頭が痛い。
そこの次男で礼子の義弟の幸司(加山雄三)は大学を出ても一回就職してすぐ辞めて酒に麻雀に女遊びにぶらぶらしてて、スーパーの従業員と喧嘩して相手の頬っぺたに噛みついて警察の世話になったりしている。この状態のままこれから店をどうするのか、というのは家の誰もが考えていて、義妹の久子(草笛光子)は彼女の夫(北村和夫)と幸司を会わせて、店をスーパーにする計画を持ちかけたりするのだが、幸司は、それをやるなら礼子を重役にすべきだと言って折り合わない。でもこのままで母が死んだら、幸司が結婚したら、とか言っているうちにもう一軒スーパーができる話が流れてきて、もうやってられない、と商店街の麻雀仲間のひとりは首を吊ってしまう。
ある日、礼子は店に来た幸司の恋人るりこ(浜美枝)と喫茶店で会って、そのことで幸司にあなたこれからどうするつもり?と問い詰めると、7つの時にうちに来たときから義姉さんのことをずっと好きだった、結婚しなかったのも東京に行かなかったのも義姉さんの傍にいたかったからだと告白され、仰天して動転して、そんなことを言うのはやめて - やめないのなら出ていきます、って返すのだが幸司の方が出て行ってしまう。
翌日お寺で待ち合わせをして、明日みんなの前でちゃんと言うから、とその翌日礼子は家族全員を集めて、好きな人ができたので出ていくことにしましたお世話になりました、と。幸司は「うそだ」って言って(うそじゃない、死んだ夫のこと、と後でいう)、自分の家族に向かってみんなで邪魔になったから追いだそうとしている、と責めて母はおろおろするのだが礼子はひとり揺るがなくて荷物を纏めて国に帰ると。
帰郷のホームで義母と別れて列車に乗ったら車内に幸司がいて送っていくという。最初は離れて座っていたのが、雑誌を交換したりみかんを食べたり(あのみかんなつかし)近寄っていくふたりの旅は悪くなくて、上野で乗り換えて駅弁を食べて、駅のホームで立ち食いそばを食べる(立ち食いそば食べたい)幸司を見ているうちになにか堪らなくなったのか礼子は次の駅で降りましょう、って降りてバスで温泉街に向かってふたりで宿をとって…
お見合いや結婚や離婚や死別や事故事件といった出来事、あるいは漫然と流れていく日々が登場人物たちの意識や行動を変えていく、そういうメロドラマではなくて、隣にいた男の突然の告白によって「乱れ」てしまった女性がどう乱れていくのか、あるいはその状態をどう収拾させようとするのか、それらの苦悶を描いたドラマ。「流れる」はある地点Aから地点Bまでの距離と時間のなかで起こることだが、「乱れる」はある瞬間の断面 - 例えば感情 - の状態を表すもので、それを「乱れている」と判定するのはその人による。本を積んでいるだけなのに「散らかしている」っていう人がいるのと同じように - ちがうか。
ここで「乱れる」を体現するのは礼子で、彼女をその状態にしてしまったのは彼女を嫁として迎え入れた家の幸司で、それを元の状態に戻すにはどうすればいいのか、幸司には単に「好きだったんだ」の話でも礼子にとっては温泉街で切々と訴えるように「堪忍してちょうだい..」でしかない。
これ、相手の顔立ちが端整な加山雄三だからこんなにしっとりしたメロドラマふうに見えるけど、そうじゃないそこらの男がやったら、成長できない男のストーカー話とか、長男の嫁虐め話にしかならない、それくらいひどく残酷な話(並置されるスーパーマーケットが地元の商店街を壊していくのと同様に)だと思う - 同じように成瀬作品における上原謙の鬼畜っぷりも参照のこと。 なので、ラストがああなるのは悪役が地獄の釜底(だから温泉)に落ちて死んじゃうのと同じ「報い」のようなものなのだと思う。(それか、幸司が宿を出た飲み屋で出会う、そこを60年出たことがないと語るおかみ浦辺粂子の呪いか)
でも、そんなのは一途でやさしい礼子には通用しないし、幸司は決して悪い子ではないので、彼女は「怒る」ことも「流す」こともできなかった。このように自身の「乱れる」状態を内側に抱えたまま遠くに身を置くことが精一杯だった。 自分は「乱れる」状態が許せなかった、でも乱れない状態がもう永遠にやってこないことを知った瞬間の彼女の顔のショットはすさまじい。高峰秀子という女優がいかにとんでもないものかを思い知った。
あの日から10年。 まさかこの国から原発がなくなっていないとは、あんなひどい東電も解体されていないとは。恥を噛みしめつつ、夢のなかで黙祷します。
3.10.2021
[film] Moxie (2021)
3月6日、土曜日の昼、熱にうなされながらNetflixで見ました。 Amy Poehlerさんが監督ならば見るしかあるまい。久々に見た気がするハイスクールもの。原作は2015年に出たJennifer Mathieuの同名YAノベル。
シングルマザーのママ(Amy Poehler)と二人暮らしの高校生のVivian (Hadley Robinson)は新学期の高校に行ってもSNS上で早速外見のランキング合戦が始まっていることにうんざりで、同じ教室の新入生Lucy (Alycia Pascual-Peña)が、スポーツ万能で弁もたつっぽい、でもみるからに嫌なやつのMitchell Wilson (Patrick Schwarzenegger)とやりあっているのを見ても自分からなにも言ってやれないことにもやもやしている。Lucyが校長室に行って校長(Marcia Gay Harden)にMitchellの件で文句をいっても"harassed"なんて言葉を使ってはいけない、とかやんわり言われたり、一部の女子から見ると学校ぜんぶがそういう空気の中にある、と。
そんな時にVivianはベッドの下のママのトランクケースにママが90年代に作ったと思われるriot grrrl周辺のzineの束を見つけてへー、って思ったので、自分でも男子なめんなとか学校ふざけんな、みたいなのを作ってそれを”Moxie”って名付けて、夜中にコピー屋に持っていってプリントした紙束を女子トイレに置いてみたら評判を呼んで、それが学園の地下で広がって、タンクトップを着てきただけで帰宅をさせられた女生徒の件や初めから男子が前提になっているようなスポーツ奨学金対象の選定の件などをめぐってもう黙るもんか、の空気が広がっていく。
VivianはMoxieを作っているのは自分だ、とは明らかにしないままLucyたちと一緒に抗議活動をするようになって、それと共に幼馴染のClaudia (Lauren Tsai) - アジア系で親が厳しい – とは距離ができてしまったり、彼女に興味を持っているらしい Seth (Nico Hiraga)が理解者となってこっそり助けてくれたり、男友達を連れてきたママなんか別に勝手にすれば、になったり、家族親友周辺に定番の摩擦や衝突を起こしながらもMoxieを中心とした女性たちの勢いは止まらない。こうして彼女たちは勝つべくして勝って、それはいいんだけど、従来の学園コメディの痛快さとはちょっと違うやつかも。
いまの米国のハイスクール事情をまったくわからない状態で、それでも昨今のSNS界隈のフェミニズムに対する揶揄や理不尽で卑怯で幼稚で低脳な攻撃を横から眺めた上で書くけど、まずAmy Poehlerさんが、この内容を今の若い女性たちに向けて伝えようとしたこと、empowerしようとしたこと = Vivianの行動はぜったい正しいし、それをひとりの娘が(ブログでもSNSでもなく)zineを通してやろうとしたのもそうだと思うし、やっちゃえ、しかない。
でも、それでもいくつか気になったところを言うとー。
90年代のriot grrrlやBikini Killが歌っていたのって、好きにするからほっとけ、だったと思っている。どんなボロ着たって、何日も風呂に入らなくたってそれはあたしの自由だ、あたしが決めるんだ、何が悪い? だった。でもここでVivianが訴えることって、自分も含めた周囲の女性たちの反抑圧、反差別とかそういうので、そこにはなんかギャップがある。riot grrrlだったらzineを作ったらこれあたしが作ったんだ読んでね、って手渡ししたと思う。Vivianが最後の最後まで自分が書いたことを明かさなかったのは(おそらく)自分の周囲にある空気みたいなものに対して個人として立ち向かうことの難しさを最初から感じていたからで、それはそれで考えさせられる - 彼女のやり方がおかしい、と言うのではなく、ああなってしまうことはよくわかるので、そこまで大変になっているのだろうなあ、って。「わたし」の戦いから「わたしたち」の戦いへの変化。「わたしたち」にならなければ戦えないくらいにやってられない手強い何かがあるのか、と。
そして、90年代にああいうzineを作っていて、今もSleater-Kinneyの猫シャツを着ているようなママがなぜ娘の活動から距離を置いて外側に突っ立っているのか? わかるところもわからないところもある。ここは国際シンポジウムでも開いて徹底的に討論してほしいところ。
繰返しになるけど、Vivianの戦いは、彼女の側とそうじゃない側の間で起こる。男子はMitchellのようにすんごく嫌なやつか、Sethのようにペットみたいなよい子かに分かれてしまう。あんな水と油みたいに分かれるもんだろうか。その境目をぶっこわす救いようのないバカとかMeanなgirlsとかが出てきて暴れてほしかったんだけど。
Moxieを作り始めた頃からBikini Killの”Rebel Girl”とか"Hey Girlfriend"ががんがん流れてきて気持ちよいのだが、Vivian自身は聴いたことあったのだろうか? ママの傍で聴いていたのだったらあんなにくよくよ悩まなかったのでは.. とか。
そういえば最近はNetflixで”Cobra Kai”も見ている(いまSeason3のまんなかくらい)のだが、あれもなんかきつい。”The Karate Kid” (1984)のシリーズをリアルタイムで見ていた時、あれは当時いっぱいあったバカ娯楽映画のひとつで、笑いながら見ていた。でも”Cobra Kai”はそれなりに成長した彼らがまじでがんばっていて(適当にやっててほしかったのに)、子供達はみんな彼らの戦いのために駆り出されているような。みんななんであんなバカな大人に乗せられて戦わなきゃいけないのか、いまの学園って、そんなに熾烈なの? とか。
でも、自分が高校のときに学園ドラマとか見てもばっかじゃねーの、しか思わなかったので、今の子達もそんなふうであってほしい。あんなの絵空事だ、っててきとーに無視しといて。
久々に外に出たら、ミモザもモクレンも桜も咲き始めていてあーあ、だった。
3.09.2021
[film] The Masque of the Red Death (1964)
3月3日、水曜日の晩、Glasgow Film Festivalで見ました。桃色の日に深紅のウィルスを。
監督Roger Cormanがイギリスに渡って制作した作品を Academy Film ArchiveとMartin ScorseseのFilm Foundation(とRoger Corman自身もお金出したと)がデジタルリストアしたバージョン。
原作はエドガー・アラン・ポーの同名短編 - 『赤死病の仮面』(1842) – Web上でSir Christopher Leeが朗読しているのを聞くことができる。この朗読版だけでも全部で18分くらいと短いので、ここに同じポーの短編”Hop-Frog” - 『跳び蛙』 (1849)をエピソード的に接ぎ木していて違和感ゼロ。ポーの原作ものはRoger Cormanにとっては”The Fall of the House of Usher” (1960)に続く2作目。
村の外れの木の下に座ってタロットをしている赤いマントを羽織った悪魔みたいなのがいて(ほぼ悪魔なんだけど)、立ち止まった老婆に白い花を渡すとそれが真っ赤に染まって → 赤死病が。
Prince Prospero (Vincent Price)が貧困に苦しむ村を訪れて、若いFrancesca (Jane Asher)を拉致して、文句を言った彼女の婚約者Gino (David Weston)と父Ludovico (Nigel Green)を死刑にするために引っ立てて、あとは赤死病の蔓延を防ぐためって村ごと焼き払ってしまう。
城に連れてこられたFrancescaは服を脱がされて風呂に入れられて(ここの箇所、英国公開版では一瞬カットが入ったんだって)、貴族を招いた舞踏会の準備のために従者のJuliana (Hazel Court)が彼女を連れて城内を案内していくのだが、黄色い部屋とか緑の部屋とか、ProsperoもJulianaも入るのを畏れている黒い部屋とかいろいろあってなんだかとっても怪しい。
舞踏会の余興の準備をしている小人のHop Toad (Skip Martin)とダンサーのEsmeralda (Verina Greenlaw)は意地悪な従者のAlfredo (Patrick Magee)に笑いものにされて恨めしやってじりじりしているし、牢獄に囚われたGinoとLudovicoは、鍵を手に入れたFrancescaの手引きで抜け出そうとするのだが見つかって..
で、いろいろ不穏な動きはあるけど、赤死病はあるけど、って晩餐が始まり、GinoとLudovicoは毒の剣で殺し合いをさせられてGinoは城の外に放り出されて赤いマントの男と出会い、その後で村人たちと合流して改めて城に向かう。Julianaは聖杯からなにかを飲んだららりらり状態でいろんな部屋を彷徨っておかしくなって鷹に殺され、Hop Toadに猿の着ぐるみを纏わされたAlfredoは着ぐるみごと火あぶりにされて、Francesca救出のために城内に入ろうとするGinoは中に入るな、って赤マントに言われる。
城内では乱痴気ダンスパーティが始まってて、でも密集したフロアに赤いマントの影がちらちら見えるようになり、やがてホールは死者のダンス場に変わっていく。Prosperoはこんなはずでは、とか言いながら赤マントと対峙して、お前は何者だ? 顔を見せろ、ってめくってみたら… (Nicolas Roegの紅が炸裂)
最後は城外に生き残った者たちといろんな色の死神たちが『第七の封印』 (1957)みたいに手を繋いで向こうに消えていくの。
死神から悪王子から陰険性悪侍従から薄幸の少女から正直農民から道化から子供まで、上から下まできちんと網羅された階層構造に、横から等しく吹き付けてくる疫病の脅威をタロットの世界観で揺り動かしながらも、悪いやつはどこまでも地獄に落ちるしかない、というホラーの原型。 これはRoger Coman自身が指摘するようにフロイトが無意識を発見するよりずっと前に物語構造のなかにこれらを浮かびあがらせたポーがすごいのだが、でもそれをどす鮮やかな色彩のホラーとして視覚化したCorman氏もすごいと思うよ。
映画祭の企画としてThe Final GirlのAnna Bogutskayaさん(わたしにとってはホラージャンルの先生)がRoger Cormanとオンラインで対話している映像が以下のリンクに。 ふたりともゆっくり喋ってくれてとてもわかりやすい英語なので是非。
https://www.youtube.com/watch?v=u_mHJ1pyZEU
ここで上のフロイトのこと、Vincent Priceのこと、撮影にNicolas Roegを選んだ経緯、低予算でセットを組む余裕がなく、撮影が終わった直後の”Becket” (1964)のセットを再利用したこと、今回のリストアのこと、ダンスシーンの振り付けはEnglish National Ballet(のJack Carter)がやったので自分では口を出していないとか、今作が今の時代に持つ意味 - もちろん、赤死病はいまのCovid-19で、それを蔓延させた悪政治家たちがいる、とはっきり指をさす - などなど。
とにかくおもしろくてちっとも古くないし色使いすごいし、日本でも公開されてほしい。
調子があんま戻ってくれないので会社休むことにしたのだが、どっちみち家にいるので事務処理は(溜まるのやだから)するし、どうせ出なきゃいけないオンラインの会議はでるし、ぜんぜんだめだった。だめだわ。
3.08.2021
[film] Truman & Tennessee: An Intimate Conversation (2021)
3月2日、火曜日の晩、Glasgow Film Festival(今日が最終日だった)で見ました。ドキュメンタリー。
監督は、”Diana Vreeland: The Eye Has to Travel” (2011), “Peggy Guggenheim: Art Addict” (2015), “Love, Cecil” (2017) を撮ったLisa Immordino Vreelandさんで、すごくおもしろいドキュメンタリーを作る、というよりとりあげる対象がいつもすばらしいと思うので見る。
Capoteといえば、昨年日本でも公開された“The Capote Tapes” (2019) - 『トルーマン・カポーティ 真実のテープ』は(ここで感想は書いていないけど)こちらでは2月に見た。 のだがあまりおもしろい発見はなかったのね。Capote自身が既にいろんなとこでいろんなことをべらべら喋っているのでそうだねえ、で終わってしまったというか。この映画で出てきたフッテージのいくつかは、この作品でもそのまま使われていたりする。
Truman CapoteとTennessee Williams、このふたりの現代アメリカを代表する作家についてきちんと並べたり比べたりして考えてみたことってなかったのだが、ふたりともゲイで、戦後の文学だけじゃなく映画とか演劇とかいろんなジャンルを横断して社交界も含めて影響を与えて、未だに与え続けている。ふたりがそれぞれに自分のこととか、社会のなにをどう見てどう考えていたのか、をインタビューの言葉起こし、同じTVショー(David FrostとDick Cavett)のフッテージから交互に光をあてていく。映像で自身が喋っている箇所以外はCapoteの声をJim Parsonsが、Williamsの声をZachary Quintoがあてている。第三者のコメンタリーもナレーションもない。ふたりの別々の発言が対話のように共鳴しながら流れを作っていく。
CapoteがWilliamsに出会ったのはCapoteが16歳で、Willamsは13歳年上だったそう。
ふたりともキャリアの初期に若くして成功した、というところは共通していて、”Other Voices, Other Rooms”が1948年、”The Glass Menagerie”が1944年、影響を受けた本はCapoteが14歳の時の”Moby Dick”でWilliamsはチェーホフ。 ふたりが親交を深めたのはNYでいつもGore Vidalが一緒だったとか、ホモセクシュアルについて - CapoteとJack Dunphyの30年続いた恋と、WilliamsとFrank Merloの14年続いた恋とか、Love or Friendshipについてとか、それぞれの答え方もトーンも違うので単純に比較してどう、というものではないのだが、それらも含めてテニスのラリーを見ているような楽しさがある。
ふたりの作品が原作の映画もいっぱい出てきて、Capoteは”Breakfast at Tiffany’s” (1958)と”In Cold Blood” (1967)くらいだが、Williamsはいっぱい - “The Glass Menagerie” (1950), “A Streetcar Named Desire” (1951), ”Baby Doll” (1956), ”Cat on a Hot Tin Roof” (1958), “Suddenly, Last Summer” (1959), “The Fugitive Kind” (1959)などなど。Williams原作の映画化で、WilliamsがMarlon BrandoとAnna Magnaniについて語るところはなるほど、だし、これらの映画って50年代のアメリカを見るときに不可欠な資料だなあ、って最近改めて思うし、彼が自身の劇作の主人公たちについて語る - みんな”Victim of rape by society of cannibalism”、ってほんとそうだと思うし。
追って見ていくと、共通点も含めてほんと似ていたり対照的だったりする。 どちらも生まれた時の姓を成長してから変えているとか、ふたりともブルを飼っていたとか、クリエイティビティについて、父親探しについて、Dr. Max Jacobson - “Dr. Feelgood”の治療への依存症のこと、名声のこと、Capoteは”All literature is gossip”と言い、Williamsは人生はUnfinished poemであると言って、どちらもdepressionとaddictionのトンネルを抜けて、Williamsは71歳にオーバードースで亡くなり、Capoteはその18ヶ月に59歳でアル中で亡くなった…
もちろん、それぞれの作品を読んでいった方が得られるものはいっぱいあるのだが、こうやってふたりを並べてみることでふたりが生きた時代のアメリカのある側面が見えてくるところがおもしろい - それって文壇セレブの視点だけじゃないのか、なのかもだけど、それでもこのふたりの(セレブの)中毒者が ... というだけでもね。
日本ではなんとなくCapoteの方が人気がある気がして、でもこれを機にWilliamsはもっと読まれてほしいし、過去の映画もいっぱい上映されてほしい、というのはずっと思っているのでー。
ワクチン接種そのご。まだずっと冷えピタ貼っているけど微熱になってきて、頭痛は通常の偏頭痛くらいになってきて、全身の痛みはいつものだるさのやや重いのに変わってきつつある。 それにしても、個人差なんだろうけどあんなにしんどいとは思わなかった。週末ぜんぶとんじゃったし(泣)。インフルエンザの予防接種の後の10倍きつい。これだけでもインフルとは全然ちがうじゃん、て。 今後これが変異株に応じて毎年の接種になったらしんどいなー。
3.07.2021
[film] The Bad and the Beautiful (1952)
2月28日、日曜日の昼、Criterion Channelで見ました。この日が監督Vincente Minnelliの誕生日であることを知ったのは見たあとだった。原作は1949年に雑誌に掲載されたGeorge Bradshawの小説 - “Of Good and Evil”。 邦題は『悪人と美女』。
ハリウッドで、映画監督のFred (Barry Sullivan)とスター女優のGeorgia Lorrison (Lana Turner)と作家のJames (Dick Powell)がそれぞれパリにいるJonathan Shields (Kirk Douglas)から電話だと言われて、彼とは話したくない、って拒んでいる。大物プロデューサーのHarry Pebbel (Walter Pidgeon)が3人を自分のオフィスに呼んで、Shieldsが君たちと一緒に映画を作りたいと言っている、君たちが過去、彼との間でいろいろあったことは知っているつもりだが.. ってひとりひとりの回想シーンにつながっていく。
やはりハリウッドの嫌われ者プロデューサーだったShieldsの父の葬儀で知りあったShieldsと監督志望のFredは、お金や後ろ盾がない中でB級映画のアイデアを懸命に練って、ようやくPebbelからそれなりの予算を調達することに成功するのだが、その映画の監督にはFredではない別の名前があったのでFredは裏切られた、って。 でもそれ以降の彼はオスカーを受賞するほどの名声を得る。
続いて彼が下積みの時代に尊敬していた有名俳優の邸宅で、彼の娘でアル中でぐでぐでだったGeorgia Lorrisonと出会って、危なっかしい彼女を励ましたりしながら主演女優として使って、スター女優にまで育てあげるのだが、彼女がShieldsを求めて彼の家を訪れたとき、別の女優と一緒にいるのを見て、彼とは縁切りして別のスタジオに出ていく。
最後に田舎の大学教授をしながら小説を書いていたJamesがShieldsの目にとまって、彼に映画の脚本を書いてもらおうと思ったShieldsは、Jamesの妻のRosemary (Gloria Grahame)ごとハリウッドに呼んで、やかましい彼女に俳優のGaucho (Gilbert Roland)をあてがって一緒に遊ばせておくと、Jamesの脚本は捗るのだが、一緒に乗った飛行機の墜落事故でRosemaryとGauchoが亡くなって、ふたりの逢瀬を仕込んでいたのがShieldsだったことがばれるとJamesは出ていく。 けど、その後にピューリッツァー賞を受賞する。
それぞれのエピソードはどれもShieldsによって強引に映画の舞台裏に引っ張りこまれた彼らの、それぞれに映画に賭けていた情熱がShieldsの裏切りによって中断されたり台無しにされたり、散々な経緯を辿って、でもその後にそれぞれはそれなりに成功したりもしている。でも、それでも最後にPebbleが改めてShieldsからの電話に出てみるつもりはないか、って聞くと、全員がNO ! なのだが…
映画製作というお金も人も必要な大博打に全身で打ち込んで入れあげて、自分のしたことに一切反省しないし謝罪しないShieldsがいかに人非人だったか、彼らに対する裏切りの仕打ちはひどいので、もう二度とあんな奴とは仕事しない、になるのは当然だよね、っていう展開なのだが、他方で映画製作のおもしろさに引き摺りこんでくれた最初に彼の仕事があったことも確かで、それぞれの回想はそれぞれがまるで映画のようにおもしろかったりする。
この当時のプロダクションシステムと今のそれは当然違うのだろうから、ここで描かれるShieldsの「裏切り」のダメージがどれくらいのものなのか、なんとも言えないのだが、その後に彼らが継続してこの仕事に携わることができたところを見ると、切り捨てて終了、のようなものでもなくて、むしろしょうもないけど映画製作ってすばらしいな、みたいに見えてしまうところは、こっちが甘いのかしら。
Shieldsのキャラクターは、David O. SelznickとOrson WellesとVal Lewtonのミックスだとか、Georgiaの父のモデルはJohn Barrymoreで、彼女はDiana Barrymore(Drewの叔母)がモデルだとか、そこに Judy Garlandの要素も少し入っているとか、いろいろあるらしい。
とにかくKirk Douglasが抱きあげたLana Turnerをプールに落っことすシーンとか、Lana Turnerが彼の邸宅を訪れてElaine Stewartとすれ違うシーンとか、ため息がでるような素敵なところがいっぱいある。全体としてはひでえお話だねえ、って思うけど、”The Bad”と”The Beautiful”だけでこれだけのものが作れてしまう驚異。
“The Last Tycoon” (1976)にしてもこないだの”Mank” (2020)にしても、この頃のハリウッドって本当に怪しい変な人たちがうようよしていたんだろうな、って改めて。
昨日ワクチン接種を受けて、12時間経ったけどべつに、とか書いていたが寝る時間になって、両腕を中心に全身に鈍痛、頭痛に微熱(体温計が電池切れ… )がぐあんぐあんにやって来て今日はいちにち死んでた。こんなことなら、接種を週のあたまにして平日に具合悪くなれば仕事もさぼれるかも(程度のことを考えるくらいには元気)。
夜にはBlack Country, New Roadのストリーミングがあったので見る。 彼らのレコードはオーダーしたものの他のリリースと合わせる事情でまだ届いていなくて、ほぼ初めて聴いた。 アンサンブルはほぼ予想していたかんじで気持ちよいったらないのだが、このバンドですばらしいのはヴォーカルではないか。
3.06.2021
[film] Quo vadis, Aida? (2020)
2月27日、土曜日の晩、Curzon Home Cinemaで見ました。
Jasmila Žbanić作/監督によるボスニア・ヘルツォゴビナ映画で今年のアカデミー国際長編映画賞に同国からエントリーされている。1995年に起きたスレブレニツァ大虐殺 - 8,000人以上のボスニアのイスラム教徒が、ムラディッチ - Mladić将軍の指揮下にあった部隊によって虐殺された悲劇を扱ったドラマ。
元教師のAida (Jasna Đuričić)はスレブレニツァに駐留する国連平和維持活動部隊 - 実質は軽装備のオランダ軍 - の通訳としてスレブレニツァに侵攻してきたMladić (Boris Isaković)の軍と市民の交渉(といっても一方的に決められるだけでなにもできない)のテーブルに同席したり、人が溢れかえっている国連軍敷地内と敷地外のそれぞれの市民にメガホンでメッセージを伝えたりしている。
敷地外の人々は安全圏のように見える敷地内に入りたくてぶうぶう沸騰しているし、敷地内に入ったとしてもこの先にどうなるのかは保証されていないのでどんより荒れている。Aidaは敷地外にいた夫と息子ふたりを自分のIDバッジを使ってフェンスの中に入れて匿うのだが、やがてMladić以下の武装した兵士たちが現れて、女性・子供と男性たちを仕分けして別々に移送を始める。 そして彼らがそのまま武器持ち込み禁止区域であるはずの敷地内にそのまま入ろうとしてきたのでAidaは直接、国連軍の司令官Karremans (Johan Heldenbergh)にそんなの許したらだめだろう、って必死で文句を言うのだが、Karremansは嫌気がさしているのか目に涙を浮かべて諦めているようでなんの手も打とうとしない。
このままではいけない、とAidaは別室に匿っていた家族3人に国連職員のIDカードを与えてほしい(一緒に脱出できるから)、と国連関係者に掛けあうのだが、誰一人としてその権限を持っているのが誰なのかわからないとか規則は規則とかたらい回しにされて、もういい! ってIDカードを作る機械のところに走っていくと今度は機会が壊れていて… で、ずけずけ押し入ってきたMladić側は当然...
決死の形相で基地内を走りまわるAidaの脳裏には平和だった時代の高校のミスコンのカラフルなダンスシーンが思いだされたりして、それは余りに映し出される今の地獄と乖離しているので夢の中のようで、見ていた時はなんでここにこんなシーンが? って思うのだが後になって重く効いてくる。
虐殺から25年が経った昨年にも9遺体の身元が判明したりしていて、十分に生々しくて、映画の最後にはスレブレニツァの女性たちと、殺された8,372人の息子、父親、夫、兄弟、いとこ、隣人たちに捧げる、と出る。
想定通りに機能せずに大量の犠牲者を出してしまった国連軍 – 国際社会の罪や限界について問題提起する、というよりも虐殺されてしまう人々をその傍らにいた人はどんなふうに見つめ、守ろうとしたのかをひとりの女性の激情と共に描きだす。 偶然だろうが、こないだ見た”Dear Comrades!” (2020)も虐殺の現場で行方不明になった娘を探してひとりで走り回る母親の映画だった。
“Quo vadis, Domine?” - 「主よ、どこへ行かれるのですか?」 - 『ヨハネによる福音書』のなかで、キリスト教徒への迫害が酷くなっていたローマを離れようとしたペトロがキリストに会い、これを問うたペトロにキリストは「私はローマに行って再び十字架にかけられよう」と答える。カメラは後半ずっと走っていくAidaの背中を追っていくのだが、彼女も何度でもかの地に戻ってひとり地面を見つめることになるのだろうか。
生き残ることができるのが、迫害を逃れてあることができるのが女性なのだとしたら、男性は相変わらず自分のマスキュリニティの虜でなんも見よう考えようとしないバカばかりなのだとしたら(たぶんそう)、彼女たちの目と背中を追っていくしかないのかも。 ほんの25年前のこと、というよりも現在進行形でウィグルやミャンマーやシリアで - 世界の至るところで、もちろん日本でも、起こっている暴力にどう立ち向かうことができるのか、我々ひとりひとりの問題として見るのが正しいのだと思う。
今日の昼、ワクチン注射を受けてきた。 英国はまずNHSに入っていることが前提で、でもまだ入っていなかったので、それの登録〜問診とかがあって、それが済んでしばらくしたらIMで接種できる2〜3日後の候補日がきて、返したらすぐに来いって。紙に書いたりは一切なくて、腕をだしてる間にコロナかかったことある? アレルギーはある? 注射で気分わるくなったことある? って聞かれて返事したら3秒後に刺されておわり。大丈夫? も聞かれずにそのまま動線に沿って外に排出されてばいばい。家畜を捌いていくようなスピード感、かっこいい。これはNHSを楽にするためにやっているので、自分らは家畜でいいの。
12時間が経過して、まだなんとか。
3.05.2021
[film] 晩菊 (1954)
2月25日、木曜日の夕方、Criterion Channelで見ました。なんとなく成瀬を見ていくシリーズ。英語題は”Late Chrysanthemums”。
『めし』(1951), 『妻』(1953)と同じく原作は林芙美子。
木造の家屋が並んでいる通りを抜けて高利貸の板谷(加東大介)が倉橋きん(杉村春子)の家の玄関を開けて犬をなでなでする。二人はお札を数えたり景気の話をしたり互いに儲かっている/儲けてるでしょう?とか探りを入れて、きんは「お金にはあんまり慌てたくない。慌てさえしなければ雪だるまみたいに膨らんでくれるから」とか、口のきけない女中を家に置いていたり現金をしまったタンスにしっかり鍵をかけたりとか、相当がっちり固めていることがわかる。板谷の帰り際にはあんた最近犬に吠えられなくなったわね、って言う。
それからノブ(沢村貞子)と仙太郎(沢村宗之助)の呑み屋への取り立てのシーンで、逃げられたら困ると思ったから裏口からきた、と言うキンに対して、ノブは今日はちゃんと用意しておいた、うちも落ち着いてきたし子供を持ってみたい - よしなさいよ、とか。後は昔の仲間のタマエ(細川ちか子)の話で、もう3ヶ月も貯めているとか、彼女いい年していつも厚化粧でお妾でもしてるんじゃとか嫌味を言って出ていく。キンが帰った後のふたりの会話で、きついねえ、昔は芸者でいろんな男を手玉にとっていたのにねえ、って。
取り立ての続きで旅館あかねにいって、タマエは休んでいていないよって水を撒かれて、今度はトミ(望月優子)のところを訪ねると、自分は年だけどあんたはつやつやしててなんかホルモン剤でも飲んでるの、とか言われて、タマエは病気って言っているけど本当かどうか聞きにきた、と。頭痛がひどくてお金がなくてホルモン焼も買えないらしいわよ、って。あんたたちは会えばグチばっかり言ってて、昔馴染みだからってずっとお金返してくれないのはひどい、って帰っていくきんに「ちっ」って舌打ちしている。
キンはようやく寝込んでいるタマエのとこにあがりこむのだが、彼女は心臓がよくなくて立ちあがると眩暈がする、息子の清(小泉博)は就職試験をしてどうなることやら 〜 借金はもう2~3日待ってくれないか、そこに清が帰ってきて、試験はだめだろ、って。キンが帰った後に清がママにお金を渡して、あいつの顔に叩きつけてやればよかったって。いつになったらママを助けてくれるのか、ってグチると実は年上の女性 – お妾 – と付きあっている、と言われてしまってがーん。
寝込んでいるタマエのところにトミがパチンコが当たったから、ってとんかつ2枚買ってきて(とんかつ食べたい)、ふたりでキンの悪口を散々いう。貯めてばかりいないで施しゃいいのよとか、キンが男と無理心中したりした過去のことが明らかになったり、清のことで文句言ったり、あんたくよくよするのはホルモン不足なのよ、っていう。
ここまでのキン、タマエ、トミの描写で中心となる3人の女性のキャラクターが明らかになる。全員元芸者で、今は連れ合いがいなくて、キンは一人で金を貯め込んで、タマエとトミはふたりで貧乏しまくりで、でもそれぞれに結婚間近の息子と娘がいて、全員が世間に悪態をついて互いの悪口を言い合って生きている。ノブだけは夫がいて比較的安定していて、彼女の呑み屋はいろんな人が立ち寄る交差点みたいな役割をしている。
で、路地でキンを探しているらしい男 - 関(見明凡太郎) - かつて無理心中した相手 - を見てキンは慌てて逃げて、彼が家に訪ねてきても冷たく追い払って、他方で戦時に追っかけて広島まで行ったりした田部(上原謙)からの手紙で彼が会いたいっていうので機嫌よくなって、昔の写真をみてにこにこするのだが、実際に彼が現れて晩酌を始めるとやってきたのは金目当て - 40万貸して20万でもいい - だったので途端にがっかり幻滅して - ここだけキンのシラけた独白が入る - あーあ、って。
娘の幸子(有馬稲子)のところに金をせびりにきたトミは、彼女から店に来るお客さんと結婚する、って言われる。騙されているんだ、まだまだ楽しんでからの方がいいよって言うのだが幸子は聞かずに出て行って、タマエのとこの清は、北海道にいいクチがあったから出稼ぎに行くことにしたので結婚はやめた、って言う。
キンが酔っ払って泊めてくれようって動かない田部にうんざりしている時に、タマエとトミは自分たちを置き去りにする子供達に乾杯!とか、あたしら子供がいるだけいいわ、とかグチまみれで呑みまくっていて、清と北海道へ行きたいよう、とか嘆いて、ぐでぐでになって一緒にねる。
ここ、ふたりで歌う、♪ 酒のむな~酒のむな~の「ご意見~なーれど~あ~よいよい」が 字幕だと”Hey Hey”だけとか。
外は土砂降りの大荒れで、そういえば『めし』(1951) でも『山の音』(1954) でも寝つけない大嵐の晩がターニングポイントのように描かれていた気がする。 そしてどの作品でも上原謙は史上最低の男を演じている。
ラストは北海道に行く清を駅で見送るタマエとトミ。温泉に向かう芸者をみてなにかを思うトミ。ママに変わったことがあっても帰ってこなくていいよ 〜 ママは死なないよ 〜 ママ手紙書いてね、でママはとっても泣きそうになる。ふたりは遠ざかる電車を橋の上から眺めて、あたしたちもしっかりしなきゃねと、トミはマリリン・モンローのまねをしてふたりで笑う。そして平常運転に戻って階段をおりていくキンの姿。
ガールフッドにもシスターフッドにも近い、なんとかフッドの、戦時中は芸者で一緒にがんばっていた3人の女性の「戦後」を描いたお話。 キンの世界観の中心にあるのはお金で、タマエとトミはお金は手に入らないし見たくなくて、自分らの息子や娘ばかりを見ていたらやがて彼らも見えなくなってしまって、でもなんとかやっていますわ、っていう。男なんていらない。 ぜんぜん明るくない話だし、親戚のおばさんのグチを延々聞かされているかんじなのだが、なんかいいの。 『流れる』(1956)にも通じるすばらしいエンディング。これで終わりだよ、って突き放すのではなく、ただこうして続いていくのだ、って。
街並みとか道路、暗い路地、明るい通り、平坦でなく高いところがあって低いところがあって、物売りが来たりチンドン屋もいて、豆腐屋もいて、ゴミ屋も巡礼とか行き来している。昔の東京とかはこういう町で、とっても素敵だったんだけどな、って。 この画面のかんじ、リストアされたらどうなるのかなあ、とか。
3.04.2021
[film] Poly Styrene: I Am A Cliché (2021)
3月1日、月曜日の晩、3月に入っちゃったし月曜日だしなにもかも嫌だよう、って泣きながらGlasgow Film Festivalのオンラインで見ました。もうじき英国全体にも公開される。
X-Ray SpexのPoly Styrene (1957-2011)のドキュメンタリー。共同監督は実娘のCeleste Bellさんで、彼女が共著者でもある2019年に出版された本 - ”Dayglo: The Poly Styrene Story: The Creative Life of Poly Styrene”をアルバムのようにめくりながらPolyの生涯を振り返っていく。
冒頭で監督自身が表明しているように、そこには娘の目から見た母Polyがどうだったのか、という目線が入っているので、単純なパンクミュージシャンとしてのPolyかっこいい!!にはなっていないし、こういうドキュメンタリーでフォーカスされがちなダークサイドのありようも従来のそれとはやや異なっている。そこは賛否あるのかも知れないが、わたしは少しはらはらしながら見て、とてもよいと思った。
スコティッシュ=アイリッシュの母とソマリア人の父の間にMarianne Joan Elliott-Saidとして生まれ、自身を常に混血として意識せざるを得なかった少女時代からSex Pistolsのライブに出会って衝撃を受け、イエローページをめくって名前を拾ったPoly Styrene(ポリスチレン)となってX-Ray Spexを結成してすばらしいアルバムを1枚作って、でも成功の後で精神を病んで、治療の過程でクリシュナの思想に寄っていって、というのが大きな流れ。
再結成以降のは別として、もっとも生きていた頃の彼女に触れることができるのは“Live at the Roxy” (1977)と“Germfree Adolescents” (1978)のほぼ2枚だけなわけだが、とにかくデビューシングルの”Oh bondage, up yours”だけでもいいから聴いて。そこにはJohnny Rottenと比べても全く遜色ない瑞々しく奔出するパンクしたパンクの棘、傷、ささくれ、カサブタ、痣、みたいな声の典型のようなのがあって、彼女がJohnny Rottenにやられたのと同じように彼女の声が耳にはいって数秒後でやられるかどうか、そういう声なのだと思う。
そして、ナリについて言うのはよくないかも知れないけど、それを思いっきり振りかぶってぶちまける彼女ときたら声と同じようにまるで子供のようで、いまならCobra Kaiに入るナードの中にいてもおかしくないかんじなのに、とにかくすごいんだわ。
Bind me, tie me, chain me to the wall ~ I wanna be a slave to you all
Oh bondage, up yours ~ Oh bondage, no more 〜 ”Oh bondage, up yours”
こんなふうなので、コメントする人達はこれにやられてしまった人々ばかりで、女性からはKathleen Hannaに、Pauline Blackに、Neneh Cherryに、Vivien GoldmanにVivienne Westwood、Ana da SilvaにGina Birch、そしてもちろんLora Logic。 男性からはDon Letts(いつもの語り部)にThurston Mooreに、Youthに。 彼女は自分にとってのAwakingであり音楽をやっているのも彼女がいたから、と語るNeneh Cherryと、彼女こそがNew toolsでありNew possibilitiesだった、というThe Raincoatsのふたりが印象的。 あと1977年のCBGBで見た彼女たちのライブがいかに衝撃だったかを語るThurston Moore。そしてすばらしい声のLola Logic - 彼女とPolyが一緒に動いているとこが見れるだけでもう …
NYでのライブを成功させた後、彼女のなかで何かが壊れて、突然頭を坊主にして、その翌日にドキュメンタリー ”White Riot” (2019)にも出てきたVictoria Parkでのライブに出演してから先は急性双極性障害を発症し、でも間違ったケアを受けてて... この辺はつらいのだが、監督のCelesteさんにとってはここからが母との関わりであったわけで、パンクがどうした、というのとは少し違う話になってくる。 でもこれもまたパンクを起点とした女性の、家族の物語であることは確かなので、みんな見るべき。(これとは関係ないけど、John LydonとNoraとAliのお話しも頭をよぎる)
パンクのドキュメンタリーとしては”Here to be Heard: The Story of The Slits” (2017)と同じくらいよくて、あれもたしかTessaが昔のスクラップブックをめくっていく構成だった。最後に残るのは本なのか映像なのか。いやもちろん音であり声に決まっている。 まずは見て聴いて。
PJ Harveyの”Stories from the City, Stories from the Sea”以降のデモ盤も含めたアナログが届いた。
“Stories from…”はCDでは持っていたのだがこっちには持ってきていなくて、久々に聴いた。 この盤のときのツアーのライブはNYのHammerstein Ballroomで見て、当然ものすごくよかったのだがその6日後に911があったので、このレコードの曲を聴くとジャケット写真も含めてあの当時のNYが蘇る。でも、だいじょうぶだったかも。
3.03.2021
[film] The Talk of the Town (1942)
2月24日、水曜日の晩、Criterion Channelで見ました。Cary Grantのコメディ特集と2月末で見れなくなるリストから。
Sidney Harmonの原作をIrwin ShawとSidney Buchmanが脚色している。邦題は『希望の降る街』..?
ニューイングランドの町の紡績工場で火災があって、そこの工場長が行方不明になり、工場で働いていて労働運動もやっていたLeopold Dilg (Cary Grant)が収監されて裁判にかけられるのだが、夜中に脱獄して挫いた足を引き摺りながら同窓生のNora (Jean Arthur)の家にやってきて匿ってほしいと頼む。ほぼ同じタイミングでそこに執筆のため長期滞在の予約を入れていた高名な法学者のMichael Lightcap (Ronald Colman)が一日早いけどいい? ってあがりこんできて、他にも警察とかいろんなのがわあわあ現れるので、慌ただしくてNoraはどれも断ることができない。
Lightcapにお尋ね者のDilgをそのまま紹介するわけにはいかないので、足を怪我した住み込みの庭師です、ということにしておくと、暇でしょうがないDilgはLightcapに法律の議論を吹っかけて、法の適用をめぐる(Lightcapが探求してきた)理想と(Dilgが直面してきた)現実みたいな議論を延々戦わせるようになって、そういうのを通してふたりの仲はよくなっていく。
Noraの家の外では極悪犯Dilgを探せ捕まえて吊るせの騒ぎが大きくなっていくのと家の中ではLightcapがNoraを好きになるのが同時進行していて、外に出るのもやばい、中に籠るのもまずい、でも包囲網も狭まって来てるしどうする、になったところでDilgが庭師ではなくライブの指名手配犯であることがばれちゃって、でもDilgとLightcapは既に親友になっていたのでLightcapもDilgの友人の警官と組んで真相究明に協力することになり、やがて行方不明になっていた工場長が生きてボストンに潜伏していることがわかって、なぜ潜伏していたのか? って .. ここから先はいいよね。
工場放火事件の真相解明とDilgの逃走劇とDilgとLightcapとNoraの恋のトライアングルがどうなっちゃうのか – いろんな流れが渦を巻くコメディ、というよりは(Dilgも含めた)巻きこまれ型犯罪サスペンス、の趣きがあって、冒頭の脱獄のシーンのDilgなんて犯罪人にしか見えないダークなかんじだったり、堅物のLighcapはDilgとの議論やNoraとの出会いを通して現実世界のいろんな動き - 報道ひとつで大衆は狂ったようになって正義や法を見失って希望なんて降らない - に目覚めていくし、それらはいいけどふたりから言い寄られるNoraはどうしようか、って。
Cary Grantには茫洋とした仮面の裏で何考えているのかわからない不気味な男(”Suspicion” (1941)とか“Notorious” (1946))を演じるのとか、そういう鉄の仮面を突っついたり穴を開けたりして何がでてくるかを笑って楽しむ(”Bringing Up Baby” (1938)とか”Arsenic and Old Lace” (1944))のとか、ただの愚鈍で空っぽでインギンブレイなだけの二枚目を演じるの(これが一番多いかも)とかいろんなパターンの出演作があるのだが、この映画のは不気味な男がだんだん悪くない奴に見えてくるような話しで、そこにさらりと絡んでくるJean Arthurがチャーミングでとってもよいの。 ここの相手役がRosalind RussellやKatharine Hepburnだったらあれこれ拗れて収拾がつかなくなっていたかも(それはそれで見てみたいけど)。
最後にLightcapは最高裁判事にまで昇りつめてよかったよかったなのだが、ラストは判事席からNoraと(彼女から離れたところにいる)Dilgをそれぞれに見つめて、そこから恋の判決がくだるラストまでの流れと最後のカットがすばらしいったらないの。 結末をどうするのかは事前のスクリーニングで投票とかもして決めたらしいが、まああれしかないかー。
ボルシチに卵が入っているのを食べるのはDilgだけだから、って彼の居場所がばれそうになるシーンがあるのだが、ボルシチに卵っておいしいから割とふつうに入れない?
これとほんのちょっと似ているので、真面目な会社員が凶悪犯と瓜二つで大変な目にあうJohn Fordの”The Whole Town's Talking” (1935) ていう超絶の傑作コメディもあって - タイトルも似てるな - Jean Arthurはここでもヒロインをやっているの。 どっちもおもしろいよ。
3.02.2021
[film] 阿飛正傳 (1990)
2月18日、木曜日の晩、BFI Playerで見ました。Wong Kar-Waiの4Kリストア版を見ていくシリーズ。
英語題は”Days of Being Wild”、邦題は『欲望の翼』。原題をそのまま訳すと「不良伝説」? - これって『理由なき反抗』(1955)の香港公開時のタイトルだという。 この後に『花様年華』(2000) ~『2046』 (2004)へと連なる三部作の最初の一篇だというのは知らなかった。
1960年、サッカー場のような施設のスタンドでひとりで売り子をしているLi-zhen (Maggie Cheung)がいて、そこにちんぴらのYuddy (Leslie Cheung)が現れて「1960年4月16日3時1分前、君は僕といた」みたいなことをぼそっと言ってたぶらかして(詐欺だよねあんなの)自分のアパートに連れていって、恋仲になるのだが彼女が親に紹介とか結婚とか言い始めたあたりでYuddyの方の糸が緩んで切れて、Li-zhenは出て行ってしまう。
続いてYuddyは、彼の養母のRebecca (Rebecca Pan)が経営するクラブでダンサーのMimi (Carina Lau)と出会って彼女がLi-zhenと入れ替わるように一緒に暮らし始めて、こっちもYuddyの方がなんとなく続かなくて、それを嘆いて泣いているMimiのところに別のちんぴらのZeb (Jacky Cheung)が近づいていって、ひとりになったLi-zhenのところには警官のTide (Andy Lau)が声をかける。
終わりの方は実の母を探してフィリピンに旅立った Yuddyが向こうで起こす騒動と、Tideが船乗りになって遠くに行ってしまうのと、まったく関係ないところで雑居ビルのなかで荷造りをしている謎の男(Tony Leung Chiu-wai)がいるのと。
Yuddyのような一匹狼(なのかな?)のちんぴらの挙動ふるまいに一貫性やストーリーを求めることほど虚しいものはなくて、その点では、ここに描かれたYuddyはちゃんとしているのではないか。適当にその時々で気の利いた言葉を撒き散らして、女を引っかけた5秒後にはそれを忘れて、去る者は追わず、突然にぶち切れて突然に姿を消して、なんの後悔も反省もない。そんな彼が探し求めたのが実の母(父ではなく)の姿だった、というのもなんかわかる。自分をこんな世界に引き摺りだしたのは誰だ、って。
こういうのを青灰色を基調としたささくれ立ったトーンでざくざく撮ってかっこよく繋いで、”Days of Being Wild”とか言われるとそうかも”Being Wild”ってこういうやつかも、って思うし、同じように赤黄色系の色調で”In the Mood for Love”って言われると”Love”のじりじり焼けていくムードは伝わってくるし。”2046”はまだ見ていないのでわかんないけど、単純かしら?
でもここでいう”Being Wild”ってあくまで男のありようのことなんだよね。Wildであることが許されているのが片方の性のみって、自然の状態って言えるのか。もちろん野放しの自然状態ていうのとは違って、みんな髭は剃ってつるっとした顔しているし。 かつてあったそういう時代のお話。
よく言われるちんぴらとかやくざの映像における「刹那」とか「美学」みたいなところからできる限り離れてあろうとすることと、主人公たちが物理的に移動できないにしても「ここではないどこか」を黙々と求め続けて画面の向こうに消えていくことと、そういうことが森林のような雑居ビルの奥地で起こること、これらが複数の登場人物達の間にいっぺんに起こる - ストーリーではないそういう断面を切り取ったドキュメンタリーのように見ることもできる – ああみんな生きているんだわ、みたいに。 ← たぶんあんま正しくない見かた…
ある場所を、そこに生きる人々を撮りながらも、彼らの像はフィルムが回っているその時間(Days)とその反映のなかにしか存在しない。頻繁に言及されたり映しだされる時間や時計のイメージと共に、ストーリーを作る場とか感情のうねりのようなところから離れて、蛍みたいに光って消えるだけの存在なので、なんかかっこいいなーになる。
こういう見方があの時代やあの場所、あそこにいた人々に対してノスタルジックななにかを求める目線と同じなのか違うのか、たぶん見る人によっていろいろ被さってくるものもあるのだろう。それとか昔のゴダールのを見て感じるかっこいい!(あるいは恥ずかしい) っていうのと同じなのか違うのか、とか。
あ、もちろん、この後にすばらしくなっていく俳優さん達が沢山、ていうのもある。くっついて離れてばかりで、できればアンサンブルとか、地獄へ道連れみたいなところで見たかったけどー。
ここからMaggie CheungとTony Chiu-Wai Leungが香港ですれ違うまでにあと2年。
3.01.2021
[film] Arsenic and Old Lace (1944)
2月21日、日曜日の晩、Criterion Channelで見ました。
いまここでは”Cary Grant Comedies”っていう特集がかかっていて、彼のコメディはBFIの特集でそれなりに見たつもりだったのだが、60年代のとか、まだ見ていないのがいくつかあった。これはそこからの1本。
監督はFrank Capra。邦題は『毒薬と老嬢』。Joseph Kesselring作の同名舞台劇がベースで、舞台の方はブロードウェイで1941年から1944年まで上演されている(当たった舞台)。
結婚なんて、って散々バカにしてきた演劇ライターのMortimer Brewster (Cary Grant)がブルックリンの実家の隣に住む幼馴染のElaine (Priscilla Lane)と結婚して、ハロウィンの日にハネムーン(ナイアガラに行く)の荷造りと挨拶のために彼の叔母たちが暮らす実家を訪ねる。 ハロウィンの一晩だけ、一軒家のなかだけで起こるどたばた劇。
そこにはAbby (Josephine Hull)とMartha (Jean Adair)のふたりの老姉妹と自分をずっとTheodore Rooseveltだと思いこんでいる兄のTeddy (John Alexander)が暮らしていて、彼はなにかを頼まれる都度「チャージ!」って叫んで階段を駆けあがって突撃するのでなかなか面倒でやかましい。
探し物をしていたMortimerはたまたま窓際の箱椅子の中に死体が転がっているのを見つけてしまってあわあわしながらAbbyとMarthaに聞いてみると、身寄りのない独り身老人にヒ素とかが入ったワインを飲ませて成仏させているのだ、って。そういう善行を施してあげたのが地下に12人程いる、Teddyにパナマ運河の建設工事で亡くなった人だっていうと彼が運んでいってくれる、などとあっさり教えてくれる。
びっくりしてほぼ死にそうになっているMortimerのところに今度は2人の男が現れて、ひとりは弟のJonathan (Raymond Massey)で、もうひとりは医者のDr. Einstein (Peter Lorre)で、彼らも姉妹と同じくらいの数を世界中で人を殺してきた凶悪犯で、ここにも死体を運んできていて、これを隠すのとしばらく匿ってもらうために来たつべこべ言うな、と。 Jonathanは顔が随分変わってBoris Karloffみたいになっている、というとDr. Einsteinがいっぱい整形したからだ、って(舞台版ではほんもののBoris KarloffがJonathanを演じたんだって)。
自分たちの聖なる死体たちに彼らの得体の知れない死体を混ぜるのは許せないって、姉妹は憤るのだが、問題はそっちじゃないだろとか、それよりElaineとのハネムーンはどうするとか、いやこんな狂人だらけの家系にいる自分なのだから結婚なんてしちゃいけないだろとか、爆発寸前のところに今度は警察がやってきて、なんとか彼らに伝えたいのだが、地下の置き場を見られたら全員逮捕だろうし、でも逮捕というよりこいつら全員施設に入れたほうがだし、どうするどうする、ってひとり悶死しそうになる。
周囲が殺人鬼だらけ、というより全員が穏やかな確信をもって人を殺していたり自分はルーズベルトって信じこんでいたりの頭のおかしい人たちで、そこでは自分ひとりだけ(たぶん)正気で、すぐ隣には結婚したばかりの更にまっとうな妻もいるのだが、彼女に(も他の誰にも)この状況を正確に伝えることなんてできやしない(状況だけに)、そういうところに置かれてしまった男のコメディ。
結婚を目前にして将来も約束されている男が変な女とか豹とかに絡まれて大変な目にあうCary Grantのコメディ、というと大傑作の“Bringing Up Baby” (1938) - 『赤ちゃん教育』があるが、今回の彼は少しひねくれた性根のライターで、絡んでくる相手はみんな肉親だったりするのでたちが悪くて、彼の狂いっぷりもブチ切れる一歩手前のやばいところに行くのでおもしろい - ただ真面目なひとが見たら不謹慎な、になる可能性はじゅうぶんにありそうな。
Frank Capraの前作は”Meet John Doe” (1941)で、これは自殺をテーマにした結構重い人間ドラマで、その次の作品がこれで、この後には第二次大戦のドキュメンタリーを沢山撮って(どれも未見)、戦争があけて作られたのが”It's a Wonderful Life” (1946)になるって、この辺の変遷というか経緯が興味深い。知りたい。
映画が公開された時にアメリカは第二次大戦に参戦していたわけで(舞台版はもっと長く終戦間際まで)、この時期のアメリカ映画についていつも思うことだけど、戦時下によくこんなの作って笑っていたもんだよねえ、って。おもしろいからいいけど(おもしろけりゃいいのか! って怒るひとがいるけど、いいんじゃないの)。
もう3月になってしまったのかー。 あーあ。(しかでない今日この頃)