3.31.2021

[film] Stray (2020)

3月26日、金曜日の晩、BFI Playerで見ました。Dogwoofによるトルコの野良ドキュメンタリー。

トルコの街の猫のドキュメンタリーとしては“Kedi” (2016) – だいすき - があったが、これは犬とストリートに関するエッセイのような作品。Elizabeth Loさんがひとりで撮影して作っている。

冒頭に字幕で「人間は人為的に偽善的に生きているので、犬に学ぶのがよいよ」っていうディオゲネス(犬儒学派)の紀元前のお言葉がでて、この後も章の変わり目ごとに彼とかテミスティオスとかの引用が出てくる。

同様に字幕で、トルコでは1909年以降野良犬を全滅させるべく大量殺戮を行ったが、その後の抵抗運動により野良犬を捕獲したり安楽死させることは違法行為となった、と(へんなの)。なので街には野良犬も野良猫もそこらじゅうにいて、犬が猫を追っかけて猫が木に登るとそこには別の猫が、みたいなショットもあったりする。

カメラはイスタンブールの街中で暮らす – という3匹の野良犬 – 少し足を引き摺っていて気高いかんじのZeytin、ちょっとやさしいかんじのNazar、まだ子供でみんなに好かれるKartalに密着して – どうやって撮っているのか、ものすごい近くのようなのに犬たちがほぼ気にしていないところがすごい - 野良といってもそれぞれの目から見た町やヒトの社会を追っていく。

そんなふうに野放し状態を野放しにしているせいか、ヒトはほぼ彼らが一匹でいようが群れていようが特に構おうとしないし、彼らも構ってもらおうとしない。どちらかというと犬同士の吠え合い、小競り合いの方がやかましくて、そうやって定住することもなく日々の食べ物を求めていろんな場所を転々としていく。(ノマド)

やがて彼ら野良犬と同様に定宿や保護者を持たないストリートチルドレンが画面に入ってきて、シンナーをやったりしながらごろごろしている彼らと犬たちが一緒に寝たり遊んだりの絵が描かれる。でも、犬が野良であることは合法でも、子供がそうなっていることはそうみなされないようで..

こんな問題があるよって訴えたり、だからこうしなければ、って提言をするわけではなくて、野良の犬と野良のヒトはなにが違うんだろうか、仮に野良状態のヒトをいけない/よくないと言うのであれば、それはどうしてなんだろうか?  という問いを投げてくるので、うーん、て犬の頭になって考えてみたり。

街とそこに暮らす動物やヒトはどうあるべきか、みたいなことを考えた時に理想と現実みたいな話は常にあってそのありようは時代と共に変わるものだろうし、それを決める要素は政治とか経済とかいっぱいあるのだろうし、その内に住んでいる人やそれを外から眺める人の好みとか見解みたいなものも被ってくるので正解なんてない、という前提でいうと、犬もヒトも野良としてあってべつによいのでは、と思った - そこに住むすべての人の人権や生存権が脅かされない前提で、もちろん。

ホームレスはいなくなるに越したことはない、けど今の経済がそこに住む全てのひとに平等な機会と生活を保証しない - 生まれた時から自分でなんとかしろ、の仕組みで組みあげられている以上、”Nomadland”のFernのように土地を渡っていく人やホームレスにならざるを得ない人や子供たちが出てくるのはやむなし、とするのであれば、少なくとも社会は彼らの居場所まで奪うようなことをしないでほしい。NYにもロンドンにもホームレスの人たちはふつうにいるけど、例えば東京の彼らに対する仕打ちの酷さときたら恐怖しかない。 あんなことをする街や人に美しさなんてあるもんか。

もちろん、野良犬が人を襲ったら、とか犬が怖い人が襲われたら、という懸念は常にあるしなくならないものだろうけど、そのことと現実に存在する彼らを視界から追いやって存在しないように見せるのは別のことで、共存・共生できるやり方を探るのが政治がすべきことではないの、とか。 ここに出てくる野良犬たちは、そういうところにまで思いを至らせてくれる。 あんなふうに野良として生きられたらどんなにかー。

ディオゲネスたちの言葉が続いた後、最後に突然オルハン・パムクの2003年の言葉 - 「それでも犬は自由に歩き回るのだ」に至るの。

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