13日、日曜日の晩、Curzon Homeで見ました。Martin Margielaのドキュメンタリー映画。
ファッションに関してはまったく詳しくないし「追っかける」というのもしたことはないのだが、きれいでかっこいいものは好きだし映画でも美術でも音楽でも重要な要素だし主には美術館とか見れる範囲で見てへーとかひゅーとか唸ったり言ったりはする。
Martin Margielaは20周年のときの2010年にLondonのSommerset Houseでの展示を見ていて、2018年、パリのPalais Gallieraでのレトロスペクティブ(この映画にも出てくる)は混んでいたので諦めた(カタログだけ買った – どこにいるのか出てきてくれない)。
顔は見せないものの、本人がクリアに快活に喋りながら当時の映像を見ながら振り返り、シーズン毎のコレクションの変遷を追っていく。なんであんなシェイプに、生地に、ランウェイにしたのか、なんで突然エルメスと組んだのか、なんで突然やめちゃったのか、等々。どのコメントも煙に巻いたり謎を残したりするようなことはなく、アーティストというよりは経営者がビジョンを語っているかのような。でも何度か登場する彼の師 - Jean-Paul Gaultierのご機嫌な愛想のよさはない。
でもMartin Margielaはパンクで、アジテーターだからこれでいいのだ、って。ファッションを素朴に熱狂的に好きであるが故にそれが今のような形である/あらされていることに対する疑義をまっすぐ、全方位で示して仕上げて撒き散らす。 川久保 玲のアプローチと近いけど、ブランドとモードと業界至上の目線がもたらしたあれこれに対する壊し方、壊す対象とそこに向けられた眼差しが違う - 攻撃型のパンクと内省型のパンクの違い、なのかな。
なので語りっぷりもかっこよくて、常に注目しているのは肩と足先。肩はAttitudeを、足先はMovementを表わすから、とか。 細部まで拘るというより、細部なんてそもそもの初めからある全体で、ぜんぶ繋がっているのだから、とにかく見ろ、つまんないこと聞くな(とまでは言わないけど)。
Antwerp Six(Post Punk)がRoyal Academy of Fine Artsを卒業したのが1980-81年、Martin Margielaが1979年。どうでもいいけど、Factory Recordsの設立が1978年、Les Disques du Crépusculeが1980年。
彼自身はもう「業界」からさっぱり抜けてしまっているのかも知れないが、言葉としてはちっとも古くないし活きているし、ここに今の世界的な状況を受けてのアルマーニの極めてまっとうな発言とかを重ねると、あのタイミングで身を引いたのはなにかを見越していたのだろうな、って。
ここ数年のファッション界隈って、金持ちと貧乏人の両方向に「戦略的に」分化した業界が自身の経済のサイクルをまわして維持するためだけに「シーズン」をこさえて、そこに提灯メディアが乗っかって.. 互助・癒着の構造も含めていまのしょうもない政治のありようとそっくりになっていないか。 広告貰えなくなるから誰もなんも言わない。いろんなクズだらけなのに。
ファッション界だけの話ではないけど、衣食住ぜんぱん、まじでコロナ以降に変わらないとだめよね、立て直しとか再興とかじゃなくて。作っていくプロセスも含めてみんな死ななくてすむ服、とか。
BBCでRick Steinていうおじいさんが世界各地の食べ物をその土地を旅しながら紹介したり自分で作って食べたりする番組があって、たまに見るのだが、今日はSan Franciscoだった。Tartine Bakeryとかが出てきて泣きたくなる。ロンドンのsourdoughもおいしいけど、西海岸のとは違う。 西海岸ってここからいちばん遠くて狂おしくて恋しいかも。 あとドーナツも ...
4.24.2020
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