4.30.2020

[film] A Guide to Second Date Sex (2019)

22日、水曜日の晩、BFI Playerで見ました。この前の晩に見たのが怖くて震えるやつだったので軽く笑えるのを見たくて。 自宅で映画を見始めた頃はずっとこういうのばかり見たいと思っていた、はず、なんだけど。

監督はこれが長編デビューとなるRachel Hironsさん。こてこてのBritish Comedy。大好き。

Laura (Alexandra Roach)とRyan (George MacKay)のふたりがクラブのバーカウンター(立って飲み物を注文するとこ。こっちから捕まえないと待たされる)で隣あって、Lauraは約束していた女友達が来なくて、Ryanと一緒にきた男友達はひとり踊りまくっててどうでもよいので、ぎこちなく会話を始めて、どちらもものすごくぎこちないのだが何かが引っかかっているようで必死で会話を繋いで仲良くなろうと、仲良くなる糸口を探そうとしている。

で、なんとか次のデート(Second Date)の約束をして、場所はRyanが友人とシェアしているフラットで、その準備とか心構えでそれぞれ友達にいろいろ聞きまくったり考えたりで必死なの。なんでそんなにSecond Date Sexが重要なのか? 例えば10回のデートを重ねてSexしてそれが最悪だったらダメージ大きいけど、2回目で失敗したら、ま、そういうもんかって諦められるし、うまくいったら続くかもだし、とか。いろんな考え方があるものね。

とにかく二人とも服装からメイクから部屋の調度から必死で繕って細工して、Lauraはなんとかきちきちのパンツ姿で彼の部屋に現れて、ぎこちない会話が始まり、でもすぐネタが尽きて、Ryanはどうする映画でも見ようかって、”The Godfather Part III” (1990)と”Cruel Intentions” (1999)と(なぜこの2本?)どっちがいい? とか聞いて、”Cruel..”の方を見始めるのだが、Lauraはこれ見たことあった..  とか。

で、やっぱりふたりとも想定・夢想していたことでもあるし、とベッドに入ってみるのだが誰もが容易に想像できるような自爆誤爆事案が上になっても下になっても起こってあーめん。 で、彼は彼女を帰りのバス停まで送って、でもやっぱりまだぎこちなくて未練もあって、しかしながら物語はここから驚くべき展開を見せるの。(書くのはここまで)

前に付き合っていた彼や彼女との間にあったいろんな(だいたい辛い)ことが次の出会いを必要以上にびりびりの神経症まみれにしてしまう、というところから生まれる当人たちの悲喜劇を極めて具体的に描いてそこから一回転して着地する、ていう曲芸Rom-Comで、振っても叩いても”A Guide”にはならんかもだけど、おもしろいからいいの。

最小の登場人物と背景なので演劇にも向いているネタなのかもしれないけど、ネタがやや下の方を向いているので近くに寄ってじーっと表情とか顔色を見ることができる映画の方がおもしろいのかも。

これと同じようなドラマはアメリカでも成立するだろうか? わかんないけど、英国人のどこをどうしたいのかよくわかんない几帳面さの重ね塗りでずるずるになっていく気性 – “Bridget Jones's Diary”とかにも割と出てくるかんじ – がそうさせている気がする。

Ryan役のGeorge MacKayさんは”1917” (2019)のふたりの兵隊の顔の長いほう。この顔ってぜったいコメディ向きだわと思っていたらやっぱり。(出演作としてはこちらの方が先みたい)


四月が行ってしまう。 世界中の誰もがこんな四月はかつてなかった、こんな四月になるとは思いもしなかった、と言うのだろうし、そうやってこれからも残っていく30日なのだろう。 でもここからもう過ぎ去ることのない、永遠の四月のまま止まってしまった沢山の人たち、その傍で悲しみに暮れている人たちのことを想いたい。 四月怪談の季節を..

4.29.2020

[film] Répertoire des villes disparues (2019)

21日、火曜日の晩、MUBIで見ました。カナダ映画。英語題 は ”Ghost Town Anthology”。
MUBIでぽこっと落ちてきたので軽いかんじで見てみたらとっても怖かった。怖いやつは夜に見たら怖くなるから見ちゃだめって、決めていたのに。

ケベックの奥の方の雪に覆われた小さな村 - Irénée-les-Neigesで、車がどこかに突っ込んで若者Simon Dubéが亡くなった。自殺なのか事故なのかはっきりしないが、兄弟も含めDubé家は皆悲しんで、精神科のドクターでもあるらしい市長 (Diane Lavallée)もお悔やみの言葉を述べて、ここは215人しかいない小さな町なのでみんなで乗り越えましょう、って前向きなのだが、その頃から住民が変なものを見たり気配を感じたりするようになる。 それだけなの。真相を探ったりとか流血の惨事とか悪魔祓いとか過去の呪われたなにか(少しだけ出るけど)とかが物語をかき混ぜたりひとりパワフルな誰かがなんとかするような話でもないの。

こんなふうにばらけててなんにも起こらないからこそ怖い。家には誰もいないはずなのに床板の軋む音がするとか、ドアの向こうに誰かが立っているかんじがするとか、窓から外を見た時に木の陰でなにかが動いた気がするとか、密閉型のヘッドフォンで音をでっかくして聞いていると画面は雪とか暗がりのぼんやりばっかりなのに音のうねりがすごくて、たんにxxxの気がする、だけとは思えないなにかを掻き立ててきて、逃げ出したくなる(どこに?)。

廃屋になっている家を買えないかと見にきたカップルとか一人で暮らしている女性とかが見よう/見たいと思っていないのに見てしまうなにか、変な仮面をした子供(こわいの)とかがぽつぽつ出てきて、その向こう側で力強く立ちあがる主人公(たち)がいるわけではない。なにかを知っているような市長はそこらの市長が言うようなことしか言わないし。

オチは別にどうってことない、その町で亡くなった人たちはその町ではふつうに通りとか野原に湧いたり彷徨ったりしているのだ、と聞けばああそういうことね、って思う(思っていいよね?)のだが、それって視覚的にはこんなふうなんだけど、と見せてくれる光景が怖いの。よく怖い夢にでてくるぼやっとしているだけでどこまでいってもクリアにならない不気味な情景。 
”Midsommar” (2019)は華やかな初夏のお祭りホラーで見どころたっぷりだったが、これは凍てつく冬の、地味すぎて普段は見たいとも思わない窓の外にはこんなに… っていうのは怖い。

でもよくよく考えてみると、本当に怖いのかしら? って。そこにいるもの、そこにいるべくしている、映っていておかしくないものが画面に映っているだけなんだからそんなに怖がることはないんじゃないか?
それに例えば今の、夜間外出禁止の、人がいてはいけない世界だってまさにそんなふうだし。
って、こんなふうにこれは怖くない怖くないの理由とか言い訳を考えるのに必死になる、っていうのはやっぱり怖いからだよね?

幽霊が出そうなくらい閑散とした町のことを言うGhost Townもあれば、ふつうに人々と幽霊が共存している町としてのGhost Townもあるし、あってもおかしくないんだ、とか。

映画とは関係ないのだが、これを見ていて後半になったころにアパートの天井についている火災報知器が数十秒間隔で高音のピッっていう音(ヘッドフォンしていてもわかるくらいの)を出し始めて、それが火災報知器の電池が切れたときの警報音であることを知るまでに数十分、天井からそいつを剥がす(剥がれないったら)までに数十分、電池を外しても暫くのあいだ鳴っているので気持ち悪くてしぬかと思ったの。


在宅勤務も一ヶ月を越えて、普段頻繁にTV会議をしているわけでもなく、微妙に距離が離れてしまったかんじの人たちから「お元気ですか」メールを貰ったりするようになった。はい元気ですよ、って返すのだが、みんな仕事をしてても、あんますることないんだろうな、それにしても偉いな、仕事相手のことを考えるなんてしたことないもんな、って。 日本のTVはこうすれば見ることができますよ、とか詳しく教えてくれたり。 でもいま一番見たくないのが日本のTVなんだけどー。

4.28.2020

[film] Transit (2018)

20日、月曜日の晩、Curzon Home Cinemaで見ました。見逃していたやつ。

Christian Petzoldによるドイツ映画。原作はAnna Seghersの同名小説(1944年刊行)。邦題は『未来を乗り換えた男』??? 
冒頭に「Harun Farockiに捧げる」と出る。

ドイツ占領下のフランスのお話し、原作の時代設定は二次大戦時だが映画の方のは不明(でも現代に近いかんじ)。

ドイツから逃れてパリにいるGeorg (Franz Rogowski)は仲間からホテルに滞在している作家Franz Weidel宛の手紙を届けるように頼まれてホテルに行くとWeidelは自殺していて、彼の原稿とID一式、メキシコ政府からの招待状を受け取り、怪我をしている彼の友人Heinzとマルセイユに向かうのだが、その途中でHeinzは亡くなり、マルセイユでHeinzの妻Melissaと男の子Dirissと会ってそのことを伝える。マルセイユの領事館にWeidelの書類を届けにいくとWeidelと間違えられて彼と彼の妻の分のメキシコのVISAを貰ってしまう(つまり、アメリカ経由でメキシコに脱出できることになった)。

Drissが喘息の発作を起こしたので医者を呼びにいくと、医者のフラットにいたMarie (Paula Beer)がWeidelの妻で、彼女は夫が来ることを信じて待っていて..

始めはメッセージの配達を頼まれただけだったのにそこから知らない人の荷物とか書類を抱えて土地と人を渡り歩くことになり、さらに間違えられてなりすましまですることになって、自分とは関係ないところで自分を含めたいろんな人々がTransitしていく、あるいは可能となるはずのTransitを目指して動き回る、という状態の不可思議なこと。そしてそんな自分は不法移民として、そもそもここにいてはいけない存在としてある。いつ消されてしまっても誰も困らないし悲しまないし。

Transitしなければ捕まって殺されてしまう、そうならないように絶対必要となるTransitのための書類はラグビーのボールのように人から人にまわされ疑われ、絶対に晒されてはまずいIDは隠さなければならず、敵も味方もわからない目隠しされた状態で綱渡りのゲームが続いていく。これは戦時下・占領下のお話しとして、或いは、カフカ的な世界の不条理として片づけてしまってよいのかどうか。

Transitしたら死んでしまう(Stay!)というのがまさに今の世界(and にっぽん)で、その掟に従わないものはIDを晒されて袋叩きにあうかウィルスにやられるかで殺されて、従っても食住の保障がないものだからそのうち死んじゃう、という地獄がみんなの目の前にあるんですけど。(そして政治家は見事になにもしない。なんなのあれ?)

ある人の滞在/存在を国が認める・認めないっていうその境界線上で人が棄てられるようにして死んでいく、という点は戦時下もいまも大して変わらない、という諦めも含めた地続きの空気感はまさに今の時代のもので、すばらしいと思った。

Marie役のPaula Beerさんは”Frantz” (2016)と”Never Look Away” (2018)の彼女、いいよね。

エンドロールでTalking Headsの”Road to Nowhere”が流れてきて、質感が違うので変なかんじなのだが、詞をみれば納得するしかない。この道はどこにも行かない道だよ〜   って。


久しぶりに雨が来て寒くなった。 すっかり忘れていたけどこれが普通(の朝)でこの中を地下鉄に乗って通っていたんだねえ、と思い出す。こういういろんなパターンを繰り返して内側に定着させて会社に通うのはなんてしょうもないことか、って浸み込ませて元に戻れない身体にしておくんだ、って意気込んでいるのだが、そんなことしてもなんにもならん仕事しろ、って真面目なほうの自分が。

LAのAmoebaもなくなっちゃうのかー。 あーあ。 あそこの大量のレコード、在庫処分とかしないのかなあ?

4.27.2020

[film] La Prisonnière (1968)

19日、日曜日の昼間にMUBIで見ました。日曜の昼に見るやつじゃなかったかも。
Henri-Georges Clouzotの唯一のカラー作品で遺作。英語題は“Woman in Chains”、邦題は『囚われの女』。

冒頭、Stanislas (Laurent Terzieff)がひとり、ゴムでできた小さな女性のフィギュアをぐにゃぐにゃ弄んでいるところが映される。裕福な彼はギャラリーのオーナーで、そこで開催されるオプティカル・アート系の展示に参加する前衛アーティストのGilbert (Bernard Fresson) とその妻でTV局で編集の仕事をしているJosé (Élisabeth Wiener)がばたばたとオープニングパーティーにやってくる。 野心たっぷりのGilbertは影響力の大きい女性の批評家にべったりなので、ふくれて帰ろうとするJoséにStanislasが声をかけて、自宅にきて作品を見ないか、って誘う。ついていって彼の豪邸でスライドで作品を見ていくのだが、中に一枚やばい緊縛写真が紛れていて、気まずくなって別れてからもJoséの頭からそのイメージが離れてくれなくなる。

相手に虐められたりいたぶられたりしている(更にそれがなんか中毒になっている)女性たちのインタビュー映像を仕事場で繰り返し見ているJoséは、我慢できなくなってStanislasにああいうのを撮影する現場にいさせてほしい、ってびくびくしながら言うとStanislasは爬虫類の顔でいいよ(しめしめ)、って、でも実際にモデルが来て撮影が始まるとJoséはいたたまれなくなって出て行っちゃって、でもその後でごめんなさいやっぱり..  (以下すり鉢)。

ふとしたことで一瞬見てしまったなにかが妄想と練りあわさってこびりついて「あたしとしたことが..」の葛藤を抱えたままずるずる、ていう地獄と紙一重の快楽が前衛オプティカルアートのぐるぐるの錯視効果と絡まって大変だねえ、って。 これって自由とは何か、っていうテーマと微妙な位置関係にある(気がする)生理的な快楽とか、そういうところも含めて「束縛」が愛とか生のありようにどう影響するのか、っていうお話し、って書くと高尚な何かに見えたりする?

時代的なところだとMichelangelo Antonioniの“Blowup” (1966)も同様のテーマだったような。視覚の隅のちょっとした亀裂が呼びこんだ縛り拘りが生の根幹を揺らしてしまうのはなんでなのか? このテーマが80年代以降なんとなく消えてしまったような気がするのはなんでなのか? マルチメディア(死語)から最近のVR/ARまで、胡散臭いのは山ほどあるのに。あまりに胡散臭すぎてどうでもよくなった、のか、巷に溢れまくるいろんなヴィジュアルが欲望の消費に直結するようになっちゃったからか。

この後の展開を言うとJoséとStanislasは急速に親密になって、ふたりで海沿いのホテルにいって牡蠣3ダースとロブスターとドンペリを注文して盛りあがろうとするのだが、なにかに目覚めたのか怖くなったのかそこから逃げ出したJoséがGilbertにすべてを話して、GilbertがStanislasのとこに殴り込みにいって、なかなかの修羅場展開になるの。 Stanislas、部屋でひとりでフィギュアと遊んでいればよかったのにねえ、とかJosé はStanislasと一緒になった方が幸せになれたのでは、とか。こういう場合、囚われてしまうのはやはり「女」の方なのか、とか。 Jeanne Dielmanだったらどうしただろうか?

これをアメリカ的に明るく軽薄にしたのが”Fifty Shades of Grey” (2015)、っていうのはだめ?


月曜日になって、Boris Johnsonが復帰した。とっても元気そうだ。あそこまで元気なっちゃうとやっぱこいつうざいな、って。

4.26.2020

[film] My Blueberry Nights (2007)

18日、土曜日の昼、MUBIで見ました。
(もう見たやつぜんぶ順番に書いていくのは不可能 - 1週間過ぎると忘れる - になったのでつまんでいきます)
MUBIに入ってきて、あーWong Kar-waiなつかしいかも見たいかも、くらい。これは見ていなかった。カメラはChristopher Doyleじゃないのね(Darius Khondji)。

NYの外れ(高架の地下鉄があるから中心じゃない)でビストロカフェをやっているJeremy (Jude Law)のお店の閉店まぎわにElizabeth (Norah Jones)が現れて彼とのごたごたで取り乱して大変そうだったのでJeremyが閉店後も相手をしてあげて、いつもなぜか最後まで売れ残ってしまう(本当なの?)というブルーベリーパイ&ヴァニラアイスクリームを食べて、いろんな話をするとElizabethは少し落ち着いて、彼が店に現れたら渡しといて、って鍵を置いていく。彼のお店にはそんなふうに店に置いていかれたり預けられたりした鍵がいっぱいあって、ボウルに貯められたそれらひとつひとつのストーリーをJeremyはぜんぶ憶えているの。

次にLizzie、と名乗っているElizabethはメンフィスにいて、バーのウェイトレスとハウスメイドのバイト掛け持ちでお金を貯めようとしている。 妻のSue (Rachel Weisz)が別の男のとこに行っちゃって荒れて呑んだくれている警官のArnie (David Strathairn)の話を聞いたりしながらJeremyに絵葉書を出しまくり、彼女の連絡先がわからないJeremyは彼方のレストランに電話をしまくって消息をつかもうとしている。 結局Arnieは酔っ払った状態で車で電柱に激突して死んじゃうの。

次にBeth、と名乗っているElizabethはネヴァダのカジノでウェイトレスのバイトをしてて、ポーカーですってんてんになったLeslie (Natalie Portman)から次の勝負に掛けたいので$2200貸して、勝ったら取り分の1/3あげる、負けたら車あげる、と言われて乗ったらLeslieはあっさり負けやがって、車あげるけどヴェガスの父親のところにお金借りにいくのでそこまで乗せていって、とヴェガスに向かうと彼は病院で亡くなっていて..

最後にNYに戻ってきたElizabethは、Ex-彼がようやく出ていったことを確認して、Jeremyのカフェに行くと彼は彼女の席を用意して待っていてくれて、ブルーベリーパイを食べたら彼女はカウンターでそのまま寝ちゃって、Jeremyはその唇にキスするの。

移動していくことがテーマのロードムービーとはちょっと違って、ここでのテーマは土地は変わるけど/変わってもdistancingで、自分もいろいろあったけど、いろんな人たちの修羅場の外側で、ブルーベリーパイのまわりをぐるりと回って戻ってきました、って。
だから(ていうか、だからもくそもなくたまらずにしてしまう)ラストのJeremyのキスはほんとに素敵ですばらしくて、それにむにゃむにゃと返すElizabethもたまんない。

ちょっとあれこれ甘すぎやしないか、って突っ込みたくてたまらない人がいるところにはいるのだろうが、そういう人はそうやって(自称)「真剣に」生きていればいいんだから寄ってこないで、こっちも寄らないから、でいいの。Distancingなんだから、もう。

ブルーベリーパイとヴァニラアイスクリームの組み合わせって魔法のかんじがあって、アップルパイとヴァニラは(ピーチパイとヴァニラも)わかりやすいし盤石なのだが、こっちはブルーベリーの出来によるところもあって難易度が高い。でもそのぶん、当たるとすごいってこと。

Norah Jonesの演技も素敵。彼女の歌の世界そのまま、のようでもあるし。もうひとり、少しだけ登場するCat Power - Chan Marshallさんも。  音楽は、すごく地味だけどRy Cooderなのね。

昨日書いたPruneて、ここに出てくるカフェみたいなかんじもあったの。Jude Lawはいないけど。 いつもお腹が破裂しそうになるまで食べて、世の中なんてしらねえ勝手にまわってろ、になるの。(ちがうか..)


日々のお買い物は北のほうに向かうか南のほうに向かうかで傾向と対策が異なる。 北の方だとKensington Gardenのリスとかと遊んで、でっかいWhole FoodsとかM&Sのようなスーパーでのまとめ買いが中心になり、南の方だとフランス系とかイタリア系の小さめの店が多くて、食材のおもしろさだと圧倒的にこっちのが勉強になる。あたりまえだけど旬のものしか置いていないの(白アスパラが入り始めた今日この頃)。 あと、こっちのルートは途中の道でたまに猫が現れるとこが3箇所あって、うち2箇所が黒猫なの。(それがどうした)

[film] The Navigator: A Medieval Odyssey (1988)

17日、金曜日の晩、BFI Playerで見ました。
オーストラリア - ニュージーランド映画で、1988年のカンヌのコンペティション部門に出品され、受賞は逃したものの5分間のスタンディングオベーションを受けて、他にもいろんな賞を受賞している。 知らない作品だったけど、とってもおもしろいパンデミック対応中世歴史ロマン。

14世紀のカンブリア(Cumbria - 英国の北西)の山間の小さな村で、ヨーロッパ全土を黒死病の恐怖が覆っていて、うちにもそろそろ来るのをなんとかせねば、と幻視者の少年Griffin (Hamish McFarlane) と勇敢な青年Connor (Bruce Lyons)を中心としたグループが組まれる。使命は次の満月の晩までに銅鉱石から銅の十字架を作って、それをいちばんでっかいキリスト教会の尖塔の天辺に取り付けて神のご加護を得るのじゃ、って、彼らは洞窟の奥深くに分け入っていく。

と、丁度満月が高く昇ったところでみんなどこかに滑り落ちて、梯子があったのでわけもわからずそれを昇ってみると、20世紀のニュージーランドのどこかの幹線道路の脇、に出てしまう。 もちろん村人たちにはそんなことは一切わからないからなんなのこれ?  になる。 そして画面はモノクロからカラーになるの。

道路は車がびゅんびゅんで、簡単には渡れそうになくて渡ろうとするとなんか鳴らしてきたりおっかないし、彷徨っていると救ってくれたのはなんと精錬所の人たちで、彼らもなんだこいつら、とか怪しみつつ銅の十字架も鋳型から作ってくれて、でもこれをどこに..  って探していたら大教会あったー、って。

ふつうこういう旧い時代から新しいところにやってくる時間旅行モノって、新しい方で遭遇するモノとか技術とかいろんなギャップにびっくりあたふたがポイントになる気がするのだが、彼らにとってそんなのはどうでもよくて、自分たちはどうやって戻れるのか戻れないのか、戻って自分らの村を救うにはどうしたらよいのか、どうすべきなのかそれしかなくて、全てはGriffinの予知というのか幻視というのかにかかっているのだが、そのビジョンはどこまで行っても晴れない - モノクロのままダークなで不可解な情景がずっと浮かんでくるのはなんで..?

パンデミックの世界で、頼れるのは科学とか医療技術ではなく、信仰とか呪術しかない、そういう時代の人々がどう考えて行動をしていくのか - まさに”A Medieval Odyssey” - を具体的に描いてみたとても考えさせてくれる時代劇で、さらに主人公を真摯な眼差しの少年とすることで切なさ切実さもたっぷりで。

Covid-19のパンデミックに苦しむ我々が同じように穴に落ちて700年後の未来に抜けてしまったら…  Distancingが超徹底していて即座に全員引き離されて遺伝子クレンジングされてさようなら、とか。 いや、とっくにさよなら人類になっているか… 


NYのPruneのCloseが本当だとしたら、こんなに悲しいことはない。
こないだの“Other Music”の映画の感想で、一軒のレコード屋がなくなっても次はあるのだ、と書いたが、レストランはこういうのとは別なの。レストランはおいしいお食事をした時間とお皿の記憶がそのまま維持・保存されている特別な、血の通った人格と歴史をもった生き物で、それは「他」とか「次」で代替できるなにかではないの。あそこで供されるラディッシュもはっぱもパスタもオムレツも牛も豚も兎もタコもブランジーノもデザートもラストのチョコ塊も、あそこでしか味わうことのできないものであったが故にそのすべてを愛していた。 一皿一皿の上で起こる一回きりの特別で劇的な変化と同じようなことがレストランとそこを訪れる我々の間でも起こっていて、こういう出会いって一生にそうあるもんではないわ、って断言できるくらいの素敵なやつだったのに。

穴に落ちて時間旅行できるなら、(どこの年に行くべきか5時間くらいかけて悩むだろうが例えば)10年くらい前のNYでレコードと本買いまくってPruneで食べまくりたい。ところで向こう側で買ったレコードとか本は時間旅行で戻るときも一緒についてきてくれるのだろうか ?

最後に行ったのは3月7日になってしまった..   次にNY行くときはどこに行ったらよいのか..  途方に暮れるってこういうこと。 落ち着いたらまたなにか書くかも。

4.24.2020

[film] Martin Margiela: In His Own Words (2019)

13日、日曜日の晩、Curzon Homeで見ました。Martin Margielaのドキュメンタリー映画。

ファッションに関してはまったく詳しくないし「追っかける」というのもしたことはないのだが、きれいでかっこいいものは好きだし映画でも美術でも音楽でも重要な要素だし主には美術館とか見れる範囲で見てへーとかひゅーとか唸ったり言ったりはする。

Martin Margielaは20周年のときの2010年にLondonのSommerset Houseでの展示を見ていて、2018年、パリのPalais Gallieraでのレトロスペクティブ(この映画にも出てくる)は混んでいたので諦めた(カタログだけ買った – どこにいるのか出てきてくれない)。

顔は見せないものの、本人がクリアに快活に喋りながら当時の映像を見ながら振り返り、シーズン毎のコレクションの変遷を追っていく。なんであんなシェイプに、生地に、ランウェイにしたのか、なんで突然エルメスと組んだのか、なんで突然やめちゃったのか、等々。どのコメントも煙に巻いたり謎を残したりするようなことはなく、アーティストというよりは経営者がビジョンを語っているかのような。でも何度か登場する彼の師 - Jean-Paul Gaultierのご機嫌な愛想のよさはない。

でもMartin Margielaはパンクで、アジテーターだからこれでいいのだ、って。ファッションを素朴に熱狂的に好きであるが故にそれが今のような形である/あらされていることに対する疑義をまっすぐ、全方位で示して仕上げて撒き散らす。 川久保 玲のアプローチと近いけど、ブランドとモードと業界至上の目線がもたらしたあれこれに対する壊し方、壊す対象とそこに向けられた眼差しが違う - 攻撃型のパンクと内省型のパンクの違い、なのかな。

なので語りっぷりもかっこよくて、常に注目しているのは肩と足先。肩はAttitudeを、足先はMovementを表わすから、とか。 細部まで拘るというより、細部なんてそもそもの初めからある全体で、ぜんぶ繋がっているのだから、とにかく見ろ、つまんないこと聞くな(とまでは言わないけど)。

Antwerp Six(Post Punk)がRoyal Academy of Fine Artsを卒業したのが1980-81年、Martin Margielaが1979年。どうでもいいけど、Factory Recordsの設立が1978年、Les Disques du Crépusculeが1980年。

彼自身はもう「業界」からさっぱり抜けてしまっているのかも知れないが、言葉としてはちっとも古くないし活きているし、ここに今の世界的な状況を受けてのアルマーニの極めてまっとうな発言とかを重ねると、あのタイミングで身を引いたのはなにかを見越していたのだろうな、って。

ここ数年のファッション界隈って、金持ちと貧乏人の両方向に「戦略的に」分化した業界が自身の経済のサイクルをまわして維持するためだけに「シーズン」をこさえて、そこに提灯メディアが乗っかって..  互助・癒着の構造も含めていまのしょうもない政治のありようとそっくりになっていないか。 広告貰えなくなるから誰もなんも言わない。いろんなクズだらけなのに。

ファッション界だけの話ではないけど、衣食住ぜんぱん、まじでコロナ以降に変わらないとだめよね、立て直しとか再興とかじゃなくて。作っていくプロセスも含めてみんな死ななくてすむ服、とか。


BBCでRick Steinていうおじいさんが世界各地の食べ物をその土地を旅しながら紹介したり自分で作って食べたりする番組があって、たまに見るのだが、今日はSan Franciscoだった。Tartine Bakeryとかが出てきて泣きたくなる。ロンドンのsourdoughもおいしいけど、西海岸のとは違う。 西海岸ってここからいちばん遠くて狂おしくて恋しいかも。 あとドーナツも ...

4.23.2020

[film] Radio On (1979)

13日、月曜日 – 四連休の最後 – の昼、BFI Playerで見ました。

Time Out誌のFilm EditorだったChristopher Petitの初監督作で、Wim Wendersがassociate producerに入っていて、撮影もWenders組のMartin Schäfer。日本でも82年に公開されているのね。憶えてないわ。

英国のロードムービー。いっぽん道を延々進んでいく(しかない)アメリカのロードムービーとも入り組んだ国境に多様な人たちが交錯する(しかない)ヨーロッパのロードムービーとも当然違って、天気は曇天、風景はだいたい同じような原っぱと羊とぱっとしない街並みしかなくて、「ロードムービー」からイメージされる「遠くに行く」、「知らない土地に行く・抜ける」かんじがない。単に風景を撮って映すだけなら紀行もののビデオと同じで、ロードムービーって、旅の行程のなかで登場人物が変わったり変わらなかったり消えちゃったりするその様を撮ったものだと思っていて(違っていたらごめん)、そういう点では、どこまで行っても変わらない - モノクロの画面も含めてとっても袋小路で同じところを延々回遊しているようなどん詰まり感がある。

ロンドンでラジオのDJをしているRobert (David Beames)がいて、弟の自殺の原因を探るべく車でブリストルに向かう途中で出会う風景とか人とか。ロンドンの映画館(あれどこだろ)では大島渚の『愛の亡霊』(1978) - “Empire of Passion”がかかっている。 ドイツから離れ離れになっている娘に会いにきたIngrid (Lisa Kreuzer) – “Alice in the Cities” (1974)のAliceの母。ここで探している娘の名もAlice – とか、道中のスタンドにいるどさまわりミュージシャンのSting – Eddie Cochranの“Three Steps To Heaven”のギターリフを延々弾いてる – とかと会っても、床屋に行っても、安ホテルに泊まっても、パブに入るのを断られても、それが劇的ななにかをもたらすというより、それぞれは風景のひとつとしてぽつんとある。そこから話が転がっていくかんじはまったくないの。

そんなののどこがよいのかというと – いやよくないか自殺した人がいるのに - それが英国の風景だから、としか言いようがない。ロンドンからブリストル、車でせいぜい2時間半くらいの距離なのに(だから)ぜんぜん前に進んでいる感もなにかが開けたり変わっりするかんじもしない。何度か聞こえてくるKraftwerkとかRobert Frippの”Urban Landscape”のように出口なしのぽよーんとしたトーンが反復されて空間を埋めていく。車窓を流れていく風景に被さるこれらの音風景がどこまでもついてくるの。 自殺の原因が明かされることはなくても、生と死の分岐が明確にあるわけではない閉塞感は見ているこちらにもやってくる。

79年、パンクは既にあったはずだが流れてくるのは、Bowieの”Heroes/Helden”であり”Always Crashing in the Same Car”であり、Kraftwerkの*Radioactivity*や”Uranium”であり、工場でBGMのように流れるIan Duryの”Sweet Gene Vincent”であり、Wreckless Eric(お願い、がんばって回復して!)の”Whole Wide World”であり”Veronica”であり、The Rumourの”Frozen Years”であり、ずたずたにされたDevoの”Satisfaction”であり、つまり、抵抗したり逆らったり風景を無理やり変えてしまうような音ではない。当時ラジオやパブで流れていたであろう音、カーステで流れていたであろう音が並べられている。 ここに79年の英国の公道の上にあった政治的な抑圧 - 周到に意図されたそれ - を見ることができる。

すごくよくて、ずっと見ていたかったのだが、これは映画館の暗闇で、フィルムで見たかったねえ。


ここのところ、雲ひとつないありえないような晴天が続いていて、夕方の遅い時間になるとスーパーが混むので、会議がなければ16時くらいにお買い物に外に出る。そんな毎日買い物するものもないのだが、ものすごく気持ちよくて、お花や緑を眺めたりしつつ外をてけてけ歩いているとなんでこれがふだんの日常じゃなかったのだろうね? って。 やればできたはずなのでできなかったことが今、災厄の最中であるとはいえ、できることに気づいてしまった。 ここから前の状態 - スーツを着たり通勤の電車に乗ったり深夜まで詰めたり - に戻す/戻るのは難しい、ってみんな思い始めている。 革命はこうやってじりじりくるのよ。

4.22.2020

[film] Mysterious Skin (2004)

12日、日曜日の昼、BFI Playerで見ました。
原作はScott Heimによる同名小説。Gregg Arakiの作品て、痛そうできついのも多いのだが80-90年代のアメリカ – 特にインディペンデント系の流れを考えるのに必要ななにかだという気がしているので、見る。

81年の夏、カンザスの郊外で、リトルリーグの少年ふたりが経験したこと – ひとりにとっては欠損した記憶 - とそれが青年に成長した彼らにどんな影響や傷を残したのか。

リトルリーグで活躍していたNeil (Chase Ellison)は、コーチの家に連れていかれて優しくされてゲームもやり放題だしお菓子も好きなだけ食べていい、って言われるままに夢のような時間を..   他方でBrian (George Webster)は雨の日の晩にクローゼットの中で鼻血を流しているのが見つかり、なんでそうなっていたのかの記憶がない。

成長したNeil (Joseph Gordon-Levitt)は友達とつるんで明るく快活な青春を送っている、かに見えて裏では車で拾われるクールな男娼として好きにやってて、Brian (Brady Corbet)はあのときの触覚や夢から自分はエイリアンにさらわれていたに違いないと思いこみ、そちら方面の情報を探るナードになっていく。

Neilは女友達が出ていったNYに向かい、でもそこは余りに異世界でワイルドだしAIDSの危険もあるので男娼とは別のバイトを始めて、Brianは同じくエイリアンにさらわれたという女性に会いにいって思っていたのとは別の方にさそわれて、どちらもあまりぱっとしないのだが、Brianが頻繁に見る夢を手繰っていくと…

当時はそうでもなかったり遮断したりしていた記憶を追って蘇らせることに伴う目の奥の痛みと、いまここにはっきりとある・見える痛み(Neilの乱暴な客にぼこぼこにされる痛み、Brianの信じていた女性にくらった痛み)、それらのひりひりした痛覚と夢を経由して訪れる出会い・再会。 そしてそれ自体が夢のような、悪夢のような、安っぽい駄菓子のようにぼろぼろだけど、それでもここまで生きてきてよかった、とか言ってよいの? という弱々しい態度表明。 痛みを通してかろうじて生の輪郭に触れることができる、そんなありさまなんだけど?

これが00年代の子供たち、になるといきなり“We Need to Talk About Kevin” (2011)のように豹変して人を殺し始める、という..

わたしの痛みはあなたのそれとは違う、伝わらない。でもひょっとしたら、それが映しだす夢だけは一緒に寝転んで見れるなにかかもしれないね、という淡い希望。 そういうのを、わけのわかんねえこと言ってんじゃねえよ、ってざーって掃き出してしまったブッシュ政権以降の野蛮。

音楽はHarold BuddとRobin Guthrie。彼らのオリジナル以外だとSlowdiveにCurveにRideにCocteau Twinsに、といった当時のバンドの音が見事な親和性を見せる。穏やかなようで実は凶暴な雲のなかを漂って、でも同じところをえんえん回り続ける。 Gregg Arakiの映画で流れる音って、他のもそうだけど、サントラだけで一枚の完結した作品として聴けるの。

今だと、子供に対する性的虐待というテーマをこんなふうに甘く - 加害者はただのやさしいおじさんで気がつくと消えている -  描いてしまっていることに疑義がでてもいい、くらいこの辺の事情は陰惨な許されないものになってきているのではないか。


水曜日。週の真ん中で、まだ半分しかきてない/あと半分もあるって絶望して、なので水曜の午後ってなにも考えずに脳死状態に浸けておくことが多いのだが、雲がまったくない晴天なのでお買い物に外にでる(夕方になるとスーパーとか混むし)。これってサボりとはちがうんだよね、って思いつつ、そのままどこかに逃げてしまいたくなる。 でもそうやって逃げてもやがて感染して死んじゃうので、「逃亡」のありようが変わってしまうねえ。

4.21.2020

[film] L'empire de la perfection (2018)

11日、土曜日の晩、Curzon Home Cinemaで見ました。見逃していたドキュメンタリー。

英語題は”John McEnroe: In the Realm of Perfection”。スポーツはドラマ(けっ)だからスポーツ(選手)のドキュメンタリーも感動的な – 超人的な運動能力~輝かしいキャリア~転落と挫折~再出発とか - おもしろいもの(棒)になるであろうことは容易に想像がついて、でもそんなの巷のTVにいくらでも溢れているじゃん – 視聴者がコーチとかの目線になって見て満たされるやらしいやつ。

これはそういうのではなかった。テニスの教則ビデオ(当時はフィルム)を作っていたGil de Kermadecが自演でガイドするのがあほらしくなって、教材にするために選手の試合をRoland Garrosのコート脇で撮り始めて、そうやって撮り貯めた膨大な16mmフィルムの最後にJohn McEnroeの試合を捉えたものがいっぱいあって、それを監督のJulien Farautが「完璧さとはなにか」という観点からピックアップして編集して掘り下げていったもの。

なのでJohn McEnroe自身はアーカイブ映像の中にしか出てこなくて、これらの映像についてとか当時のことを振り返る本人のインタビューもない。 他の関係者やスポーツ評論家のコメントもない。画面に登場するMcEnroeは当時最強だった(それを裏付けるデータは少しでてくる)ので、それについて第三者が何を語ることができようか、見ろ! って。

なので画面は彼の試合のいろんな場面でのしなやかな勝ちっぷりと、審判のジャッジに対して納得がいくまで食い下がったり、観客のおしゃべりやメディアの機材がたてる音に文句したりする場面を映して、勝負への執着とそこを貫く完璧さへの志向を並べていく。 凡庸なスポーツ評論家なら審判のジャッジに文句をつけてはいけませんね、とか、客のことを気にするようでは一流とは言えない、とか偉そうにコメントしそうだが、彼はそういう次元にはいない – 彼がいるのは”The Realm of Perfection”なの。

替わりに監督が参照・引用するのが映画批評家のSerge Daneyの数々の言葉で、確かにパーフェクトなショットへの探求、という点からここに映画批評家の視点が導入されるのはそんなに間違っていないのかも。アクション映画でありえない事態が起こって手を叩きたくなる瞬間とMcEnroeが相手をぎゃふんと言わせる局面の痛快さって、似ていないこともない。

という観点から見たり唸ったりするのもありなのだが、なによりもねちっこいパワーテニス(苦手)の反対側にあるJohn McEnroeの軽妙なプレイは見ていてシンプルに楽しい。 背景を消してシルエットだけにしたらそのままダンスになってしまいそうな。

冒頭、彼のサーブするフォームに刺さってくるのがSonic Youthの”The Sprawl”(個人的にはここだけでじゅうぶん)。エンディングはBlack Flagの”Nervous Breakdown”ががんがん。途中でモーツァルト – “Amadeus” (1984)も挟まって、要はパンクだったのだ、って。

Social Distancingの要請にぴったり応えるスポーツとしてテニスの人気は伸びていくに違いないねえ。やらないけど。


この季節にTVで"Love Actually" (2003)をやっている。こっちにきてもう50回は見ている。


NY TimesのObituariesにLe CirqueのSirio MaccioniとBalducci’sのNina Balducciの訃報が並んでいる。レストランのLe Cirqueは一度しか行けなかった(Le Cirque 2000の前のやつ)けど、食材スーパーのBalducci’sは本当によく通った。なにを手にとって食べても発見があった。 こんなのがNYの食を支えているのだとしたらあれこれ勝てるわけないわ、ってしみじみ思ったの。 ご冥福をお祈りします。

4.20.2020

[film] Other Music (2019)

こっちから先に書く。
18日、土曜日の晩、どういう上映形態なのかよくわからないのだが、主催しているサイトにリストされているレコード屋経由で申し込んだら見ることができた。この日の時点でロンドンのレコード屋はリストになくて、ずっと通っていたBrooklynのあそこでもできるのかしら? と思ってクリックしたらできた。この日はRecord Store Dayで、延期になっていなければ朝5時からRough Tradeとかに並んで、晩は全世界で一斉に上映されるはずだったこの映画をRegent Street Cinema(ロンドンでの上映はここ1軒)で見るつもりで前売りも買っていたのだが、あれ、戻ってこないだろうなー。

Other Music(以下OM)っていうのはマンハッタンのEast 4thに2016年まであったレコード屋で、ミュージシャンも含めていろんな人々に愛された小さなお店で、なんでそんなに愛されたのか、関係者のインタビューと閉店当日までの様子を綴ったドキュメンタリーで、自分もここには随分通って、ひとつのお店に使ったお金の量だと生涯のベスト5には入るくらい愛していた。ので個人的な思い出も含めて少し書いておきたい。

OMの前身はヴィレッジにあったKim’s Videoだった、というくだりが出てくるがKim’sは90年代によく通っていた。ふつうのレンタルビデオにはないようなヨーロッパとかアバンギャルド系のVHSとかLDもレンタルしていて、でもレンタルは嫌なので買おうとするとロッセリーニとかロメールのとかは高くて、そうすると隅の方にあった音楽コーナーのレコードは買えなくなるな、とか悩んで考えすぎて熱を出して外にでる、ということばかりの罪なお店だったの。OMの前はKim’sだった、と聞いてああー、映画セクションがなくなってよかった、って思ったわ。

そもそも80年代の英国・ヨーロッパ音楽で育って、正規の英国盤こそが正典、米国盤なんてぺなぺなの段ボールでできた大量生産の粗悪品、と思いこんできたモノにとって、90年代初にアメリカに行って叫びたくなったのは英国盤がない! だったの。後から少しずつそういうお店があることもわかってきたのだが、そういうお店でも米国盤がリリースされるまでの繋ぎのように売っていることが多くて、ブリットが世界で盛りあがろうとしている時にこれはきつかった(他方で、この時期はアメリカの音楽が十分おもしろくなっていたのでそっちの方に行った。なのでブリット系はわからないのが多い)。

で、OMの品揃えというのは英国盤だの米国盤だのを取っぱらって、ブラッサンスもゲンズブールもフランス・ギャルもピエール・バル―も、カエターノもムタンチスもあったし、その横に現代音楽もノイズも得体のしれないのもいっぱいあって、かといって高踏すぎてお手あげ、にもなっていなくて、その辺のバランスがよかったの。 通りの反対側にはTower Records(もうとっくにない)があって、メジャーなのはこっちに来ればより安い値段で買えたし、ここのTowerのクラシックのセクションの現代音楽の品揃えはなんでかとっても充実していた。

この時期の週末の典型的で理想的なお散歩がどんなだったかというと、Union SquareのVirgin Megastoreで動向を把握して、Strand Book Store行って、East 10thにあったAcademy Recordsで中古盤を見て、St. Mark's Bookshopでマイナー出版物とかzineを見て、OMでレコード見て、Towerも念のため見て、ここから映画を見るのならAngelikaかFilm Forumに行って、行かないのであればそこらでお茶してDean & Delucaで食材を買って帰った。(McNally Jacksonはまだなかった)  
もう見事に全滅して東の方にシフトしてしまったねえ。やだやだ。

話をOMに戻すと、ここでは棚の上の方で面出ししている中古に欲しいのが多くて、問題は高いところ(値段もな)にあるから竿を使って店員のひとに取って貰う必要があって、それをやりたくても店員さんはみんな客と話しこんだりして空いてなかったり。でも映画にあるように内容について聞いたり話しこんだりはしなかった。そんなことしてわかっちゃったらつまんないじゃん、て頑なに思っていて、これはいまだにバカなことしたかも、って。

でもここの20年間トータルのセールスベストを見ても、なんか違うの。ベルセバをずっと推していたことはわかるのだが、ここの推奨はなんか微妙にずれてて、全員が「ついで」とか「おまけ」のように買っていったのが結果的に上に行ったのではないか。 本流に転化していった”Alternative”ではなくそんな”Other Music”こそが。

これも映画のなかに出てくるが、911後のNYシーンも大きかった-  と、“Meet Me in the Bathroom”のLizzy Goodmanさんが出てきて解説してくれる。メジャーなところではThe Strokesがいて、Yeah Yeah Yeahsがいて、The Raptureがいて、Liarsがいて、TV on the Radioがいて、Radio4がいて、LCDがいて、!!!がいて、Black Diceがいて、Interpolがでてきた。どのライブに行っても、前座の方がおもしろかったりみんな外れがなくて、なるほど「シーン」というのはこういうのをいうのか、って思った。 OMが並べていた音たちって、これらのバンドが放っていた雑種のかんじにうまくはまって、こういう雑なのってルーツを掘り下げるというより際限なく散らして試して、常に”Other”としてあることが楽しい季節だったの。

お店のひとはみんな親切で日本に帰国してから半年ぶりくらいに訪ねても「久しぶりだね」って言ってくれたり、そんなお店がなくなったことについては悲しいしつまんないけど、過度に泣いたり悲しみに暮れたりはしない。レコードでも本でも映画でも、肝心なのはそれらを自分が食べて吸収することで、次にくるのはレコードやライブや映画や本の向こうに広がっている(新)世界で、レコード屋も本屋も映画館もそこに繋いでくれた橋とか渡しとしてとっても感謝はするけど、なくなったら次を探せばいいんだ、って。そして、おもしろいというかおそろしいというか、場所を変えたって探せば出てくるときたもんだ。

でも、いまのにっぽんで起こっていることは丸焦げ焼け野原になってもおかしくないようなことで、これは自然発火でもなんでもなく、はっきりとおかしいから声をあげる。本もレコードもライブも映画も今の世のなかではライフラインなんだよ。これらのために我慢して仕事してお金を貯めて旅をするのに勝手にわけわかんない線ひいて偉そうにお触れだしてんじゃねえよ、って。

こういうお店のドキュメンタリー、もっと見たい。
次に見るべきは”The Booksellers” (2019) なのだが、Film Societyでやっているやつ、こっちからは見えないや。


在宅の金曜日もちがうけど月曜日もやはりちがう。月曜日やだよう嫌いだよう、って朝の通勤の電車に乗るのって儀式みたいなものだったんだなあ。あれがないとどうなるかというと無理にでもテンションあげないとあかん、てどうでもいいメールとかにいちいち丁寧に返事したりして午後くらいにそれが雪だるまに膨れあがり月曜日からなにやっているんだばか、になるの。 どっちにしても月曜日は..

[film] Eva (1962)

11日、土曜日の昼、MUBIで見ました。Joseph Loseyの3本をやっていてそのなかの1本。
原作はJames Hadley Chaseの同名小説。 邦題は『エヴァの匂い』。
Jeanne Moreauの主演作としては、『突然炎のごとく』(1962)と『天使の入江』(1963)の間にあるやつなので、かるーくみても彼女が世界最強だった頃のやつ。

ヴェネツィアに滞在していて各方面からちやほやされて得意満面のウェールズの新進作家 - Tyvian (Stanley Baker)が大雨の日に自分の邸宅にあがりこんでレコードを聴いて寛いでいるEva (Jeanne Moreau)と出会って、そのあまりの態度のでかさになんだこいつ? とか思うのだが、社交界で彼女とデートするのは大変なのだ、と聞いて自分には婚約者のFrancesca (Virna Lisi)がいるのに、Evaの方に傾いていく。 EvaはEvaで、自分には超大金持ちの夫がいるから、あんた程度の金持ちなんてどうってことないわ、とか言いながらTyvianを弄んで、彼は弄ばれているのをわかっていながら、Francescaのそんなのやめてのお願いもふっきってEvaの方にまっすぐ墜っこちていく。

Tyvianも自身の小説を実は亡くなった兄から盗んでいたり、ウェールズ出という田舎コンプレックスがあったり、一途なFrancescaにひどいことしたり、そこそこ悪くてせこい奴で、そんな悪い男と悪い女のせめぎ合いの心理戦がおもしろいはず、なのだがじりじりした争いを描くにしてはいろいろ飛ばしている気がした(編集で削られている、ということを後で知る)。こういう関係の勝ち負けについてあれこれ横とか斜め上から言いたくなるのはわかるけど、ここに関してはEvaの圧勝で、男の方はちっともかわいそうに見えない。

こういうファム・ファタール - 悪女ものについてなんか言う時、必ず男の方が「いやあんなのは..」とかケチをつけるのをよく見るのだが、そもそも「悪女」っていう時の「悪」って男性にとって都合よくない - 自分=男性のいうことを聞いてくれない - ていう使われ方をすることが多いので気をつけた方がいいよね。 支配するか破滅するか - 愛の結末にそういうのを求めたり持ちこんだりすること自体とっても傲慢でやらしい目線だと思う。 そういうのが好きな男女は絡まってずっとやってれば、だけど。

だからとにかく「そんなにお金を貰ってどうするんだ?」って聞かれて「レコードを買うの」と即答するEvaはちっとも、一ミリだって間違っていないし、部屋に入ってすぐにアナログのBilly Holiday - “Willow Weep For Me”と“Loveless Love”が聞こえる - をプレイヤーにのっける所作のかっこいいったら。
ところどころで「ア」と「エ」の中間くらいの声を短く発するのもたまんないし、賭博場での目つきと振るまいの様になることときたら (この後、彼女は南仏の入江に向かったらしい)。

あと、かっこいいと言えば、自在に跳ね回るMichel Legrandの音楽も。『天使の入江』の音楽もそういえば彼。
ここで見ることができる約60年前のかっこよさって、もうどこを探してもないのかねえ。


#TogetherAtHomeの、英国でもBBCで、英国の分を少し足したかたちで19:30から放映された。
こっちのはNHSがんばれ! が全面に出ていて、それはそれでよいのだけど、みんなお家にいてもいろんなことやったり考えたりしててなんてえらいのかしら、って。   音楽ではEddie VedderとBillie Joe Armstrongかなあ。

公園、いろんな花が先週比: 倍の勢いで咲き出してわあーってはしゃいで嗅ぎ回っていたら花粉にやられて目が.. (なんの花粉なのか知りたい)

4.18.2020

[film] Systemsprenger (2019)

10日、金曜日 - 四連休の初日の昼間、Cursor Home Cinemaで見ました。ドイツ映画で、英語題は”System Crasher”。監督はこれまでドキュメンタリー畑にいたNora Fingscheidt(女性)。

タイトルだけみるとパンクとかハッカーの話かと思うのだが、9歳の女の子のお話。
Bernadette - “Benni” (Helena Zengel)は、一度火がついて暴れ出すと手をつけられなくなる気性で叫びまくりながら周囲の子供も大人もお構いなしにぼこぼこ血まみれにしてしまうので、家族(母親ひとりと妹弟)から離され、学校からも追い出されて施設に入れられ、それでも評判がひどくて受け入れ先がない。母親以外の手が顔を触るとぶち切れる、ことはわかっているのだが、身体や脳には異常はなく、寧ろIQは高いくらいで、幼少期のトラウマが要因ではないか、と。

施設を転々として、いろいろ手を尽くしてもだめで、これまで同様の症状の少年たちをケアしてきた無骨なMichael (Albrecht Schuch)がBenniを3週間、電気もガスも通っていない山小屋で野良生活しながら治療することを提案し、梟を見せてやるから、とか彼女と約束して連れて行く。近所の酪農家と少しトラブルを起こしたりしたもののBenniとMichaelは仲良くなって、彼女も快方に向かうかと思えたのだがー。

はい。パンクとかハッカーの話かと思ってひっかかったのは自分で(だってタイトルのロゴとか)、こういう子育てとか教育の話だとは思わなくて、そういうのは苦手なのではじめはひー、ってなったのだが、これはこれで - Benniがあまりに凶暴でめちゃくちゃなのできついところだらけだったけど - おもしろく見ることができた。

傷を負った子供を野山で自炊させたら治りました、とか教育者の熱意と絆の確かさによって救われました、みたいな話だったらやだな、だったのだが、そうではなくて、山から戻ったBenniは、Michaelのとこに生まれた赤ん坊に触れたりして、よいこになったかに見えて、実はそうじゃなかったの。

結局国内の施設でBenniクラスの凶暴な子を治療・対応できるところはなくて(12歳以上であれば受け入れ可)、他にあるとしたらケニア、と言われて、ケニア…  って。 Benniは、これは自分で自分のことを制御できなくなるどうしようもない病気のようなもので、一緒にいるよい人々に迷惑をかけてしまう、ということがわかってきているのだが、でもケニアか …  って。この辺はなんだか痛ましい。誰もわるくないのに。 

でもラストはなんかすごくて、爽快なかんじすらあるの。 “Crasher”。
ドイツのだからか、まったくべたべたしたかんじがなくて、そこの扱いかたはすごいかも。

彼女を”Crasher”と呼ぶのであれば、彼女が壊そうとしているのはなんなのか?  彼女が生きようとしているのはどこなのか? 隅に押しやって見えない/見なかったことにしてしまえばいい、ってもんじゃないよね。 っていうことを考えさせるようなことがここ数週間、起こり続けているでしょ?  どんな国籍でも階級の上下もどんな職業でも無職でも年齢が上でも下でもどんな性別でも病気もちもそうじゃないのも関係なく、全員が等しく救われなければいけない - そうでないと全員が死ぬのだ、ってみんな思い知ったでしょ? 

Beniを演じたHelena Zengelさんの暴れっぷりがあまりにすごいのでこの娘だいじょうぶかしら、って心配になるのだが、宣伝とかを見る限りごくふつうの女の子のように笑っていたので少し安心したり。


ぽかぽか〜暑いくらいの春の陽気が続いた数日間の後、冷たい風と雨の日がきて数歩後退し、今日は少しだけ晴れ間が戻る。 こうやってじりじりと夏に向かっていることをじりじり確認する(したいんだって)には外をしばらくふらふらしてみるしかないのだが、それができない… けどやっぱり… のような複雑な顔で外を歩いている人たちがいっぱいいた。 そんな土曜日。

4.17.2020

[film] Celle que vous croyez (2019)

少し前後するけど、Juliette Binoche 繋がりでこちらから書いてしまおう。12日、日曜日の晩、Curzon Home Cinemaで見ました。英語題は” Who You Think I Am”。すごくおもしろい。

大学で文学を教えている(LaclosやIbsenの講義をしているシーンが出てくる)Claire (Juliette Binoche) は夫とは別れて、ふたりの男の子を育てていて、年下の建築家のLudovic (Guillaume Gouix)となんとなく関係を持っているのだが、Ludovicに電話しても居留守を使われたりするようになったので、彼の近くにいる写真家のAlex (François Civil)を攻めてみよう、と"Clara”っていうフェイクのプロファイル(20代後半)を作ってFacebook経由でAlexに友達申請してみる。と、Alexは受け入れてくれていろいろチャットが始まり、君の写真が見たいなとかいうので姪の写真を貼って、そしたら会いたいな会いたいな、って頻繁に言ってくるので面倒になってきて、更に彼はこれから会いにいくよ、って物理的に来ようとするので実は彼がいるのごめん、て送って彼の反応を(実際に近くに寄って - 向こうはこっちがClaraだとは100%思っていない)覗いてみると本当にしょんぼりしているのでアプローチを変えて、バスの中でLudovicの友人として話しかけて、仕事用のプロファイル写真を撮ってほしいんだけど、って近寄ってみると …

ここから先は書かない方がよいかもしれない。上のような顛末をClaireが精神科医 (Nicole Garcia)に身の上を語るように喋っていくのだが、医者はうんうん話を聞いているだけアドバイスするかんじもなくて、Claireもサイコパスとかストーカーのようには見えないの。

そしてこれは、Claireだけのお話に留まることではなく、ネットを介した向こう側にいるオトコ共の間でも起こっていることなのだった.. 。  考えてみれば当たり前のことなのだが、ネットのこういう話って、どうしてもひとりで画面に向かう一人称の物語を自分のなかで組み立ててしまいがちなんだなあ、って。 そうやって組み立てて自分がそれでよければそれでよいのだろうが、現実に進行しているおはなしはそういうところにはなかったりする。 ソーシャルメディアで自分のTLばかりを追っているとある日選挙結果に愕然としたり、とか。

結果としてClaireは加害者でも被害者でもないとすると、この物語におけるClaireって誰だったのか? フェイクから始まった彼女の恋は恋とは呼べない/呼ぶべきではないなにかだったのか? そんなこと誰が断言したり裁いたりできるのか? そういったことを考えさせてくれるので、よい映画だと思った。

ここで起こったことって結局、出会いの現場で年齢とかルックスでフィルターを(意識的にも無意識的にも)かけてしまうやらしい男たちととにかく恋がしたい女たちの闘い、と言えるのかも知れないが、勝ち負けはともかく、恋の渦中にあるClaire - Juliette Binocheの輝きはすばらしいったらないので、見てほしい。
(この役をIsabelle Huppertがやったら、やっぱりサイコスリラーになってしまう気が..)

ClaireとAlexがベッドで一緒に読みあう本はリルケの詩集”The Book of Hours” - 『時祷詩集』- のなかの”The Book of Pilgrimage” (1901)からの有名な一節。 この詩をふたりで読んだって、結果はああなっちゃうんだから皮肉なもんだわ。


ロックダウンが始まってから何度めかの金曜日で、久々に野暮用(ほんとのや・ぼ・Yo!)でオフィスに行ったりしたのだが、週末って、金曜日の会社があるから週末なのかもねえ、とか思った。
思ってから、それって社畜の考え方なのかもなー、って。 この期間を通過したら月曜日や金曜日の捉え方とか、たぶん労働に対する考え方も変わってくるのよね。

4.16.2020

[film] La Vérité (2019)

9日、金曜日の晩、Curzon Home Cinemaで見ました。英語題は”The Truth”。

同じタイトルで1960年のHenri-Georges Clouzotのサスペンスがあって、これはBrigitte Bardotが出ていたのを2年くらい前にBFI で見た。こっちはCatherine Deneuveで、是枝裕和監督によるホームドラマ(かな?)。
是枝作品て、実は見たことなくて、『万引き家族』(2018)の成功を受けてBFIでも特集上映が組まれたりしていたのだが、なんとなくパスしていた。なんとなく。 

フランスを代表する大女優のFabienne (Catherine Deneuve)のパリの邸宅に彼女の娘で脚本家のLumir (Juliette Binoche)とその夫Hank (Ethan Hawke)と一人娘Charlotte (Clémentine Grenier)の一家3人がNew Yorkから訪ねてくる。Fabienneの回顧録(そのタイトルが”La Vérité”)が出て周辺はざわざわしているのだが、娘として現場での母に接してきたLumirからすると嘘ばっかりじゃねえの - 学校に迎えに来てくれたことなんてなかったじゃん - なんなのこのばばあは、ってぷんぷんになるし、来るのがほぼ初めてのHankとCharlotteからするとアメリカとはぜんぜん違う邸宅の様子とか、Fabienneの魔法ででっかい陸亀にされちゃったおじいちゃん(ほんとうらしい)とか、なんかすげえな、って興奮している。

Fabienneは彼女が撮影中の映画 – “Memories of My Mother” - 原作はKen Liuの『母の記憶に』 - の現場にLumirを連れていく。不治の病に侵された母の時間を超えた旅、というテーマがかつて母がそのキャリアを潰してしまった女優の記憶、イメージと重なると.. 

熾烈な競争と華麗なキャリアを経て意地悪なモンスターになってしまった大女優の回顧録に綴られた姿と、これから生まれるフィルムで生まれようとしている物語/イメージと、記憶のなかで掬いあげられようとするかつての母、消えた/消されてしまった女優と、その間に立つLumirと、「真実」はなにで、本当のところはどうだったのかを探る、というよりも「真実」がこんなにも淡くて脆い過去のあれこれから立ちあがってくる – どんなひとにもどんな家族にも – その様を淡々と重ねていく。

失われつつある実家を訪ねて、そこに絡まった記憶を手繰っていくお話、というと“L’Heure d'été” (2008) -『夏時間の庭』 - があってここでもJuliette Binocheは冷静に一家の過去と向き合おうとしていた、とか、あるいはJuliette Binocheが大女優で、自身の過去をなぞる役をやることになる”Clouds of Sils Maria” (2014)とか、”Doubles vies” (2018)では自分はまじめな女優だけど相手方(ここでは浮気相手)をやるのがおしゃべり不謹慎なVincent Macaigneとか、最近のOlivier Assayas映画におけるJuliette Binocheの使い方を煮詰めて漉して、みたいなとっても近いなにかをかんじた。

大きな家の当主、という位置でのCatherine Deneuveだと、昨年のLFFで見たCédric Kahnの新作”Fête de Famille” (2019) もあった。別にわるいことではなくて、いまの時代にフランスのファミリーロマンをきちんと撮ろうとすると、このふたりの大女優を使ったこういうようなものにどうしてもなっちゃうのではないか、って。 これって日本の俳優を使った日本の家族ドラマが同じように見えてしまう(ええ偏見です)のと同じなのかしら?  だからこそここではアメリカ人Ethan Hawkeにがんばってほしかったのにな。”Before” trilogyのような丁々発止のやりとりが姑を巻きこんで … みたいにはならなかったねえ。

それにしてもエンドロールで、犬を連れて遠くからこっちに向かって歩いてくるCatherine Deneuveはとにかくすばらしい。あれだけでとっても魔法使いのかんじが出てしまうのってすごいわ。

あー、パリ行きたいなー。

英国では、この状態があともう3週間延びると政府が言っている、と。うん、しょうがないか。
TVではStart Warsを延々流し続けるチャンネルと、Harry Potterを延々流し続けるチャンネルがあって、他にMarvelものを延々、ていうのもある。 いろいろ考えてしまうねえ。

4.15.2020

[film] Summer Stock (1950)

8日の水曜日の晩、BFI PlayerのMusicalの枠に置いてあったやつを見ました。
彼女のMGMでの最後の作品で、3本目となるGene Kellyとの共演もこれが最後になったテクニカラー・ミュージカル。
英国でのタイトルは“If You Feel Like Singing”、邦題は『サマー・ストック』 - 日本ではこんなのが劇場公開されてないの?

冒頭、”If You Feel Like Singing, Sing”を歌いながらシャワー浴びて着替えてご機嫌のJane (Judy Garland)がいて、彼女の農場に劇団をやっている妹のAbigail (Gloria DeHaven)が現れて、農場の納屋とかをリハーサルと劇団員の寝床として使わせてくれないか、いろいろ手伝うから、っていうのでしぶしぶOKする。 賑やかな劇団の連中と接していくうちにAbigailの婚約者で舞台監督のJoe Ross (Gene Kelly)と歌ったり踊ったりじわじわ惹かれていくのだが、JaneはJaneで4年前から婚約している町のぼんぼんのOrville (Eddie Bracken)がいて..

ストーリーはシンプルでわかりやすくて、豚も牛も鶏もカラフルにいっぱい出てきて動き回って、いいなー、って言いながらJudyとGeneの歌と踊りにうっとりしているだけで終わってしまう。とにかく問答無用なんだからこれでいいの。

この頃のJudyは既に相当調子が悪くてぼろぼろだった、と言われているのだがふたりがめくるめくタップとダンスでくるくるまわっていく“The Portland Fancy”はFancyとしか言いようがないし、Geneが暗い納屋でひとり床をぎいぎい鳴らし、床の新聞紙をかしゃかしゃか擦ったり蹴ったりしながら踊っていくのなんて – ほんとに夜中ひとりでこれやっていたらちょっと怖いけど – この世のものとは思えないとんでもなさだし、ふたりで歌う"You Wonderful You"はWonderfulの挟み撃ちで溶けるし、そしてもちろん、こないだの映画”Judy”でも流れた”Get Happy”が最後にやってくる。

農場でのどかに幸せに暮らしていたところに大勢やってきていろいろひっ掻き回してひとの縁談までぶち壊しておいて”Get Happy”もねえだろ、って思うのだが、”Pack up your troubles and just get happy” ~ “Forget your troubles and just get happy”   天才バカボンのこれでいいのだ、みたいな曲なので、 これでいいのだ、なの (か?)。

それにしても、このふたり - JudyとGene - ってどんな事態でも服でも周りに人がいようがいまいが落ち込んでいようが舞い上がっていようが、突然踊りだしても歌いだしても全く変なかんじがしない(← 自分だけかもだけど)のがすごいな、って改めて。 Fred Astaireだとたまに黄金の舞台が天から降りてくるのが見えたりするけど、彼らはそのまま、歌うこと踊ることが素なの。


もうこういうのばかり見ていたいな、って思いながら、「こういうの」ってどんなのだろう? っていうのは最近よく考える。 感染ホラーみたいなのは絶対むりだし、SFも面倒だし、コメディはモノによる、メロドラマもモノによる、ドキュメンタリーは割と見たいかも、って絞りこんでいって、そこに気分とか天気も加算されて、だんだんわかんなくなってくると、その日のお勧めみたいにメールで落ちてきたのから選んじゃったり。 でもまだ見たいのはいっぱいあるねえ。

4.14.2020

[film] Riten (1969)

7日、月曜日の晩、MUBIで見ました。
MUBIでなんか探していたら、今晩深夜にExpireするよ、ってあったので見た。MUBIって、なんでExpireしたのも載っけているのかしら?  悔しいじゃないか(川島雄三のとか)。

Ingmar Bergmanの原作/監督による69年作で、まずTV放映されて劇場公開もされた。英語題は”The Rite”、邦題は『夜の儀式』。モノクロの72分。

どこかの町の判事Abrahamson (Erik Hell)が猥褻でやばい芝居をやっているという劇団員3名の訪問を受けて、彼らと個別 or 全員揃えて取り調べのために話をしていく、という筋立て。

劇団のメンバーは、女性のThea (Ingrid Thulin)、彼女の夫で初老のボス格のHans (Gunnar Björnstrand)、若くて酒浸りで乱暴なSebastian (Anders Ek)で、SebastianはTheaの前夫を殺して、いまも(Hansの妻なのに)Theaと関係を持っている – というようなことが個別の会話や判事との会話のなかで明らかになっていって、彼らの荒っぽい挙動や言動は見るからにそれっぽく、劇団員というよりちんぴらやくざの集まりのようにも見える。

判事はこの件にぜんぜん乗り気ではなくて弱気で、途中で教会にいって告解をして、自分はもうそんんなに長くないのかも、とか言う。(この時の司祭がBergman本人 ― 一瞬映るだけだが)

そして最後に「儀式」がくる。ここでまるで演劇のように(演劇だけど)予期していない何かが現れて裁く人と裁かれる人の逆転が起こる。というか、そういう不穏で怖いなにかを呼びこんでひっくり返す作業として「儀式」があって、それがこの劇団員と判事の間で突然執り行われてしまう。裁判という形、あるいは演劇という形をとって行われる主 - 客のありようが「儀式」というそれを取りしきる主体が不明の(そこに合意も契約も存在しない、酔っ払いのようにのしかかってくる)なにかに丸めこまれたときに生まれてしまう暴力とか不条理とか。

Bergmanの50~60年代の作品て、神とか宗教とか超自然のなにか、が普段のなんてことはない生活にこんなふうな侵入や転換を強いてきて脅かす(あるいは救いなしに突き落とす)というドラマが多かったと思うのだが、それがだんだん形而下に降りてきて、70年代になると日常の、夫婦間の会話とか関係がゆっくりとホラーに変容する、というものに変わっていった気がする。

これってBergmanの場合はホラーやサスペンスという形をとるのだが、シチュエーションによってはコメディにも転がりうるやつだと思って、このテーマはそっちの方がイメージしやすい気がする。
画面はTVを意識しているのが、上半身のクローズアップが多く、窮屈そうな八方塞がり感たっぷりで、ヌードもあるし、よくこんなのTVで放映したなあ、と思ってしまう。
といったところも含めて、ここまでダークな方に追いやってしまうのって、Bergmanは60年代末のアングラ・反体制演劇になんか恨みでもあったのかしら、とか。


ニュースを見ていると、感染拡大をどう食い止めるのか、数はどこまで伸びていくのか、ていう話題から、いつロックダウンをリリースできるのか(5月初は無理か?)とか、経済的ダメージとか、少しトーンが変わってきたような。ダメージなんてどこでもあるに決まっているし、誰のせいでもないんだからここで競争とか回復の早い遅いとか、そういう方向に行っちゃだめよね。 元には戻れない/戻せない、っていう前提に立って傷ついた人たちを救うことが優先されないとー。 戻しちゃだめだ立ち止まれ、って個人的には思うの。

4.13.2020

[film] Sulphur and White (2020)

6日、月曜日の晩、Cursor Home Cinemaで見ました。
David Tait氏の実話に基づくお話で、監督は"Brideshead Revisited" (2008)とか"Kinky Boots" (2005)のJulian Jarrold。

冒頭、崖から飛び降りようとしているDavid Tait (Mark Stanley)がいて、そこに至るまでの幼年期と大人になってからのあれこれが交互に走馬灯していく。

父 (Dougray Scott)の仕事でアフリカに滞在していた子供の頃、父は高圧的で裏の暴力が横行し母(Anna Friel)は怯えていて、父のビジネス仲間の雑貨屋でバイトを始めるのだが、ある日閉店後にちょっとこいと呼び出され、繰り返し性的虐待 - 明確にそれとは示されないが - を受けるようになって。(タイトルはこの頃の記憶から来たもの)

成長してロンドンでトレーダーとなったDavidは、ばりばり熱く冷酷に働いてのし上がり、偉い人に認められて、仕事場でVanessa (Emily Beecham)と出会って、仕事も恋も押しまくってパートナーに昇進しておうちも建てて、でも老いた母が訪ねてきても冷たくて、そのうちVanessaから子供ができた、と言われるとちょっと様子が変わってしまう。

生まれてきた赤ん坊が怖くて触れなくて泣き声も耐えられなくて外に出しちゃったり、この苛立ちと嫌悪が明らかに仕事にも影響するようになってクビになり、Vanessaにも顔を合わせられなくなって.. 

"The Wolf of Wall Street" (2013)のロンドン版(の転落話)はこんなにも脆くて壊れやすいものだった - 幼少期に刺さって消えない虐待の記憶と大きくなってからの仕事やその結果に対する執着の因果関係は明確に示されることはないのだが、なんとなくわかるくらいに無理なく説明されているような。「なにもかも犠牲にして」「脇目も振らずに」のような仕事のしかたって、やっぱし無理があるし無理がでるし。いまだにすごく仕事のできるひと/するひとのところにはあまり近寄りたくない(向こうもこちらは見えないだろうし)。

最終的にはVanessaのめげない献身的な愛がDavidを救うことになるのだが、そこよりも親とか周囲の虐待がその後の生に与える傷の重さ大きさを思う。いま、”Stay Home”で同じ家にいる子供たちや女性に対する虐待への危惧が伝えられている、このタイミングでの公開は意味があったのではないか。虐待する側の人はこういうのは絶対見ないのだろうけど。

映画館で予告のとき、たまにNSPCC (National Society for the Prevention of Cruelty to Children)のCMが流れることがあって、怖いし見るのはきついのだが、この団体に貢献しているのがDavid Taitなのだそう。

主演のふたり - Mark StanleyとEmily Beechamはすばらしい。彼女の”Little Joe” (2019)、見ないと。
どうでもいいけど、ふたりがランチを一緒にするとこって、会社の近所かも。するとあのお弁当はWasabiのかitsuのか、とか。


こうして四連休が終わろうとしている。ここまで一日一回は外に出るようにしているのだが、やっぱりなーんもしなかったねえ。 うーむ。(とか言いだしたぞ)

4.12.2020

[film] Southland Tales (2006)

5日、日曜日の晩、MUBI で見ました。

この作品、MUBI では”Perfect Failures”っていうカテゴリに置かれていて、この日の21時から監督Richard Kellyも参加する上映会があるよ、というのでそれなら見よう、だったのだが、21時まで待てずに(眠くなっちゃうし)1時間くらい早めに見てしまった。

この作品がリリースされた時はもう日本にいて、ものすごく見たかったのだがDVDリリースのみになり、確か映画ブログを書いている人向けの上映会みたいのもあったと記憶しているのだが、なんだそれ、とか思ってそれきりになったままあっというまに10年以上..  今回MUBI でやっているのを見てあったねえ、って。 いま見るにしても見直すにしても丁度いいタイミングだよね。いろんな意味で。

00年代の真ん中少し前に、アメリカの真ん中で核爆弾が炸裂して第三次世界大戦が勃発、徴兵制が敷かれて政府はUS-IDentっていう組織が運営してて、化石燃料に変わる波の力を利用した永劫使える”Fluid Karma”ていうのが出てきたのだが、これは時空を歪めるかもしれんやばいやつで、そんなこんなできな臭い2008年のロス近郊(Southland)が舞台。 大統領候補の娘婿で、誘拐されて記憶を失って戻ってきたBoxer Santaros (Dwayne Johnson)、ポルノ映画スターKrysta Now (Sarah Michelle Gellar)、イラク帰還兵のRoland Taverner (Seann William Scott)、Abilene (Justin Timberlake)、反政府ゲリラたち、などなどが政界、産業界、TVメディア、カルト、闇社会、を舞台に入り乱れて暗躍して陰謀して破壊して歌って踊って、でもPimpたちは自殺しない。こういったアンサンブルを通して、「こうして世界は終わる」さま - T.S. Eliot “The Hollow Men” (1925)  - を描きだす。  で、最後には大英帝国のバンドに優しく - ”Tender” - 慰められたりするの。

おもしろいおもしろくないでいうと、とってもおもしろい。なにが起こるかどっちに転んでどこに連れていかれるのか、あいつやこいつはどこのどいつなのか、目が離せないし、結果なにがどうなってそれが.. ? なところなんて今そのものではないか、というスリルが。

原作は6章からできていて、映画化されたのは後半の3章で、prequelとなる最初の3章も映画化したいとRichard Kellyは言っているようだが、とにかく風呂敷はでっかい。このでっかさ、その混沌だけで十分にすばらしい。世界の終わりを描くのであれば、まずその世界がどんなふうかを描く必要があるから。

これが書かれて構想された時は、第二次ブッシュ政権が立ち上がろうとしていた時で、その頃のアメリカときたらついにこれで終わりだ、という怒りと厭世観に溢れかえっていて、大統領選挙の不正陰謀説からなにから、こうなっているのはなにかの間違いだ、って(少なくとも)NYの人々は思って吠えていた。 そういう空気を少なからず反映したものである、と想定するとこの近未来SFの位置が見えてくるのではないか。

ていうのと、これはSFなのか? むしろメタSFではないのか、とSNLのメンバーであるAmy PoehlerやCheri OteriやNora Dunnが引っ掻きまわしたり、唐突に挿入されるミュージカルシーンなどを見ていて思った。 このお話はどこかとどこかの現実とか地面が繋がってそこに侵食してくるようななにか、である必要があったのではないか。”Donnie Darko” (2001)がそうであったように。

そして、干支が一回転したいま、現実は限りなく彼の描いた絵に近づいてきているかのよう。トランプはブッシュを遥かに凌ぐ想像を超えたひどさで世界を壊しまくっているし、他方でテロの脅威はまったく減らず、気候変動は産業界にトランスフォーメーション/イノベーションを強いて、サイバーセキュリティを言い訳にIDや個人の挙動は監視され、その反対側で国家による隠蔽や改竄は常態化している。 この先、どんな陰謀や密約が浮上したって、宇宙がぱっくり割れてThanosが現れたって、周りの人々が突然消えたって誰も驚かない。 そして今回のコロナが現れて国境を無化し、そこにある段差と格差を露わにした。 もうどんな荒唐無稽なことが起こったって.. 

(これ以上に低レベルなところに堕ちて気持ちわるくてみんな死にそうになっているのが今のにっぽんていう国で、どれもこれもぜんぶ能なしのカルトが以下略)

そしてDwayne Johnsonひとりがこの物語以降の世界を正しく生きている。おれはPimpだから自殺しないのさ、って。 Hobbsていう名前で。


外に出ないで家で過ごせの四連休はとっても長くなるはずだ、と思っていたのにもう3日が過ぎてしまった。なんもしてない。 こんなのおかしいしずるいし、なんか返せ、って言いたくなるのだが、いったいなにを?
 

4.11.2020

[film] The Ponds (2018)

4日、土曜日の晩、Cursor Home Cinemaで見ました。見逃していたドキュメンタリーフィルム。

ロンドンの少し北のほうのHampstead Heathの池はカモとか魚だけじゃなくてヒトも泳ぐことができて - 泳ぐことができるくらい水質がよいとかそういう話ではなくて、19世紀末からここの池にはずっとヒトが泳ぎに通ってきていて、男性用のと女性用のとMixの池がある、と。 ここにずっと泳ぎに通ってきている老若男女のインタビューを繋いで、ロンドンの池スイマーの実像にせまる。というほど大げさなもんじゃないの。 こんな世界もあるのよ、っていうスケッチ。

最初は冬の終わりで、霜がおりたり雪が降ったりしている中 - 水温は早朝だと3℃とか2℃とかで、この時期が一番いいよね、とか言いながら泳ぎに来る(どちらかというと)老人たち。 銭湯の熱湯を屁でもねえ、とか、滝に打たれてうおお、とかいう江戸の頑固老人(偏見です)に近いものを感じないこともないが、とにかく水に入ったときに生きているかんじがするのがたまらないのだ、って。

女性も同じようなかんじで、ただ女性が屋外でこんなふうに泳ぐことを認められるまでにはそれなりの闘いがあって時間がかかった(suffragette!)ていう話とか、乳ガンで家族を失い自分も同様の宣告を受けたという女性とか、事故で頭がぱっくり割れて生死の境を彷徨って生き返った男性とか、いろんな境遇とか事情があって、みんな定期的に泳ぎにくる。ジムでのエクササイズとは違う - そりゃ違うじゃろ - とか言ってて、そのばらけ具合も楽しいったら。

単にエクササイズとして、自分の健康管理のために泳ぐ、というだけでなく、一世紀以上に渡って世代を超えて継がれてきたコミュニティの伝統を守る、という側面もあるようで、なんとなく田舎の自警団ぽいかんじもある。まあ昔はみんなふつうに池や湖や川で泳いでいたわけで、それがロンドンの片隅でこんなふうに残っているのだ、と。

季節が春から夏に移っていくにつれて、泳ぐ人たちの数も増えていって、夏のビーチみたいな混雑になり、ディスタンシングが主流の今日この頃からすると懐かしいったらない密集具合なのだが、でも水が循環したり塩素があるプールではなくて水鳥さんががーがー鳴いている脇であんなふうに泳ぐってちょっとねえ、とか思わないでもない。幸せそうだから止めないけど。 っていうこのみんな「幸せそう」なかんじがインタビューを通して溢れてくるので、よいドキュメンタリーかも、と思った。

あと、性別で分かれているのはヌーディストでもOKの場所があるからで、じゃあトランスのひとは? というとトランスで女性になった人は女性のプールの方に入ってよいのだ、ってフェミニストの方がまじめに応答してくれている。 当然思想的な筋も通すからな、って。

Hampstead Heathは行こうと思えばいつでも行けるし、ってこちらに来てからまだ行っていないのだが、むかし(2012年くらいか?)に滞在していたときに行った。あのときの目的はKeats Houseだったのだが、半日くらい公園の方もふらふらして、池には泳ぐときの注意とか立て札があったので変なの、と思ったことは憶えている。 

いまは当然、池は閉じているのだが、そのうち開いたら行ってみようかしら。たぶん泳がないけど。興味があるのは水鳥の方だけど。


週末だからか連休だからか、スーパーの列が長く延びてて夕方に行っても野菜とか殆ど残っていない。イースターのお菓子(チョコレートとか)は積んであるけど、やはり売れていないかんじ。 朝、やっているかしら?と土曜日にオープンするFarmers marketに行ってみたらやっていた。 けど、野菜とか直に触れないカウンター式で、魚屋は店内にひとりづつ入れているのでものすごい列ができていた。これって今日も明日も自分(たち)はだいじょうぶ、って思っている(思いたい)から買いに出るんだよねえ、明日具合悪くなって病院に運ばれちゃったらもったいないねえ。

4.10.2020

[film] 王国(あるいはその家について)(2019)

4日、土曜日の昼、MUBIで見ました。
MUBIというのがどこでどういう人たちがやっているサイトなのかよくわかんないのだが、この作品が見れるのなら、と。 MUBIでなんかを見るのだとしたらこれが最初のだ、と決めていた。

昨年の恵比寿映像祭でこの作品がかかることを知ったときは、(そのとき一時帰国で日本にいたので)戻るのを延ばせないかまじで検討したりした。
『螺旋銀河』(2014)を見てから、草野なつかという人はそれくらい自分にとって次を見たいと思わせる映画作家になっていて、その待望具合は、映画のというより音楽の新譜を待つかんじに近かったかも。  英語題は”Domains”。

冒頭、取り調べ室のようなところで取調官(龍健太)が読みあげる調書の内容をAki(澁谷麻美)が確認してサインするように求められる。 何のためにサインするのか? とAkiが聞いて- 裁判であなたを裁くために と取調官は返して - でも裁きは既に行われている - うまく言えないが時間、のようなものによって、とAkiはいう。

Akiが供述した事件の概要はこんなかんじ;
仕事を休職しているAkiが郷里に戻って、小学校から大学まで一緒だった親友のNodoka(笠島智)と再会する。 Nodokaは大学のひとつ先輩で二人とも知っていたNaoto(足立智充)と結婚して娘のHonokaがいて、彼らの新築の家に何度か通っているうちに、その家も含めてNodokaとNaotoの間にある息苦しさを感じるようになって、台風が来ていた日、Honokaを預かっていたAkiは彼女を川に突き落としてしまう。

で、普通であればこれ以降はその供述内容に沿うかたちでドラマが展開される(場合によってはその過程で供述内容と異なるなにかが... )とか思うのだが、そっちには向かわずに、その映画 or 芝居の場面ごとの台本読みからリハーサルまで、時系列も衣装、背景も異なるテイクが、繰り返されたり本番に近いものも含めてランダムに(たぶんランダムじゃないのかも)並べられていく。 繰り返される場合のバージョンも、同じダイアログだけではなく、少し先のものが追加されたりすることもある。 カメラは発話者ひとりをとらえるだけでなく、その隣や横にも動くし、主人公たちが移動していったであろう国道や「現場」の川の様子、「その家」の居間? を映しだす。実際に起こっているのかもしれない「事件」の周辺を、ドラマによる事件の再現というかたちで周回しながら、リハーサルである、という点でその核心を周到に避けているようだし、被害者であるHonokaは彼らの視線の先にいるだけで最後まで映しだされることはない。

だからといって事件の核心から離れてしまうことはなく、Akiの口から何度か語られる王国 - 小さい頃、台風の日に椅子とシーツで作った王国 - その後のふたりの間に居座り、彼らの人生を変えるほどの強さ - ふたりの間に暗号化通信網を敷いてしまうそのありようがよりくっきりと示され、その後に築かれた「その家」の対立が浮かびあがる。 この辺 - リテイクを繰り返して幾重にも重ねていくこのやり方が、リニアに流れていく物語の時間とは別の生々しさを作りだす、というか。

そして、この濃い時間を作りあげるDomainというのはもういっこ、この映画制作の現場でも起こりうるのではないか、とか、更にはそれを固唾を吞んで見つめる我々との間にも起こるなにかなのかも、とか。
もっとも多く繰り返された気がするエピソード - いまNaotoが務めているかつての不良高校での吹奏楽演奏会のこと - の一番最後のバージョンがなんかすごいの。あそこでのAkiの目。

台風の最中に椅子とシーツで作られたその王国と、その外縁に出来上がった家、Domainの内と外での間の密約と憎悪をめぐるドラマ。 監督の前作 - 『螺旋銀河』(2014)は、(これも)ふたりの女性が、コインランドリーという場から立ち上がる螺旋の銀河をみつめる映画で、とにかく世界の成り立ちをきちんと追おうとしているところがすばらしい。

あとは、ドレスリハーサルの次の、完成形を見たいな、とも少し思うのだが、なくてもぜんぜん。 今回の台本読みだけでは見えてこなかった謎が明らかになるのではないか。
それでもとにかく、デモテイクばかりが収録されたBoxを聴いて浸っているだけで十分なの。

丁度いまの時期、世界中でいろんな王国が立ち上がっていて、ここでの経験はその後の人生を変えてしまうことになるだろう。その外に出て他に侵入していくことは死にも繋がって、という点もまた −


イースター休暇の初日、見事にきらきら初夏の快晴で、ガーデンがあるひとはピクニックで寝転び、公園ではお散歩を楽しんでいた(距離を置くってルールを守りつつ、ね)。 で、こんな気持ちよい天気の時に東京からオンライン飲み会とかが入ってくる。 それもいちばん気持ちのよい13時に。しーぬーほーどーつまんなかった。 90分あれば映画いっぽん見れる。もう二度とやらない。

4.09.2020

[film] Calamity Jane (1953)

3日の晩、BFI Playerで見ました。ふだん映画館に通っている日々だと、昔の映画と最近の映画と半々くらいの比率で見ていて、だって昔の映画って本当におもしろいからなのだが、お家で見るときに気になったのが昔の映画をデジタル・コンテンツ(けっ)として見るとなると、こないだのフェリーニとかベルイマンとかアントニオーニのようにお金かけて4Kリストアされているやつは別として、映画館に行けば35mmとか16mmのプリントで見れるやつがPCの画面になっちゃうのは残念だなあ…  だった。 これに対抗するには自分の家の中に35mmの上映施設を作るしかないのだが、その最初の0.02歩くらいで寿命が来てしまうだろうから、諦めて見る。

どうせだから明るくて楽しそうなのを、とBFIの昨年のMusicals! 特集で見逃していたやつを。これ、Sold outしていて入れなかったから。というのとこの日 - 4月3日はDoris Dayの誕生日だったから。

西部開拓時代に実在した女性ガンマン - Calamity Jane (1856-1903)のお話し。でも生涯を追うというより彼女がDeadwoodにいた頃のことをミュージカルとしておもしろ楽しく脚色したもの。
テクニカラーだったので、頭のなかでここはフィルムだったらこんなふうに見えるはず、って補正しつつ見る。

Calamity Jane (Doris Day)は駅馬車の天辺に乗って荒野をびゅんびゅん飛ばしていくメッセンジャー(飛脚)でどんなことでもあたしに任しときな! って威勢がいいの。

馴染みの酒場が呼んだ歌手(女性のFrancesを読んだら男性のFrancisがやってきた)のごたごたで、あたしがなんとかしたる! ってシカゴ(シカゲ、って発音する)に行って人気歌手のAdelaid Adams (Gale Robbins)を連れていこうとするのだが彼女はヨーロッパに旅立つところで替わりにそこにいたメイドのKatie (Allyn McLerie)を連れて帰ってくる。最初はこいつだいじょうぶか? だったのだが開き直って腹を括ったKatieのステージはうまくいって、一気に人気者になるのだが、そうするとCalamityが密かに想っていたWild Bill Hickok (Howard Keel)とか中尉のDaniel Gilmartin (Philip Carey)も含めた四つ巴の恋争いに発展して、KatieはCalamityにもっと女の子っぽくすればいいのよ、って説いて - "Woman's Touch" - がんばるのだが結局は ...

元気に楽しく歌って踊るDoris Dayを見て聴いてほれぼれうっとり(オスカーを獲った"Secret Love"は名曲だねえ)できればよいので、十分なのだが、ここで展開される男らしさ - 女らしさの出し方、こうすればもてる - これだからもてない、みたいな議論  - ぜんぜん議論を呼ぶふうの出し方をしていないのだがそれ故にかえって掘りたくなる – のネタの宝庫かも、って思った。「らしさ」なんてどうでもいいじゃんどーんと行ったれ、なのだが、この「らしさ」を求めてくる土壌とか平原がありありくっきりテクニカラーで描かれているのでふうん、て唸ってしまうの。よい意味で(かな?)。 こういうのもあれば、こないだの”Harriet”みたいのもある。

こういうのにきゃーきゃー旗をふれる、って幸せなのかしら。幸せなんだろうな(棒)。
こういうのって、マキノ正博が撮ったらめちゃくちゃおもしろくて痛快なやつになったはずなんだけどなー。

ところで、”Calamity Jane”の名前を最初に知ったのはThe Fifth Avenue Bandだった。高校生くらい。アメリカのバンドなのにかっこいいじゃんか、って。


なんだよボリス、心配させやがって、ってみんなが突っ込む。 とにかくよかったね。
明日からイースターの四連休なのだがどうしろと ...

4.08.2020

[film] The Edge of Seventeen (2016)

2日の - もう曜日なんてどうでもよいのだが木曜日の晩、BFI Playerで見ました。ここ、最近の映画やクラシック以外だと、00年代とか10年代真ん中頃の、そんなに話題にはならなかったけど見たいよう、だった半端なやつもいっぱい入っているので嬉しくて、これはそういう1本。 邦題はちょっとひどすぎる。

これが長編デビューとなるKelly Fremon Craigさんの監督・脚本。
ポートランド郊外に暮らすティーンのNadine (Hailee Steinfeld)が学校の窓際教師Max (Woody Harrelson)のとこに来て、もうきめた死にたい死ぬぞ、とか吐きだすのが冒頭で、そこから幼い頃、快活でかわいくてみんなの人気者だった兄Darian (Blake Jenner)とは真反対の内気で弱気でこもりがちの彼女がいて、でも親友となるKrista (Haley Lu Richardson)が現れて救われたり、大好きな父が突然亡くなったり、という生い立ちが描かれ、いまのNadineとKristaは校内のはぐれモノポジションで、とにかく揺るがずに日々を生きている。

ある日、ママがオトコ探しの旅に出た隙に自分ちにKristaを呼んで酒呑んで羽目を外して騒いで、でもDarianも家にいるのでなんだよ、とか言っているうちにNadineはげろ吐いて潰れちゃって、気がついたらKristaとDarianがベッドでいちゃいちゃしているのでなんだよおまえらありえねえよ、になる。この後にKristaとはいくら話しても意地の張り合いになって絶交しちゃって、Darianからもママからもあきれられて、自分でも悪いって思いつつも後に引けなくなって自己嫌悪でぐしゃぐしゃの雪だるまになり、気になっていた男子に間違ってメッセージ送っちゃって、向こうが変な気になって危ないとこに行ったり、最後の砦で人生の落ちこぼれ同志と思っていたMaxのところに行けば、ホームレスどころか奥さんも子供もいるまともな奴で、あーもうだめだどうしようもない、になる。

べつにJoy Division聴かなくたってThe Smiths聴かなくたって、世界のなに見ても聞いてもやってもぜんぶだめで嫌で嫌いでなんでこんなふうに生きているんだかぜんぜんわかんないわって漆黒に膨れあがってしまう時期ってあるし、なのでコメディとして笑える仕様 - この時期を生きて通過できた大人 or こういうのとは関係ない思春期を過ごした大人が笑える仕様 – になっているもののいろんなことを思いだしてしまったり。

これって本当にThe Edge of..  だし、でもその只中にいる人にとってはEdgeかどうかなんてわかんないし、最悪のあれにならないであろうことはわかっていても、ああよかったねえ、って。最後はふつうのホームドラマみたいのに戻るのだけど、そこに着地してしまうことのしらじらしさとか居心地の悪さみたいのまでわかってしまって、そこはもうEdgeを跨いだ先にある別の場所だし .. 

Hailee Steinfeldさんは“Bumblebee” (2018)でもほぼ同じような境遇のどん詰まり娘を演じているのだが、あれは宇宙からロボットがやってきてなんかかき混ぜてくれてなんとかなるやつで、こっちはひたすら自分で自分のモグラ叩きやって止まらなくなっていくやつ。 こっちの方はそこがすばらしいし、大好きだなあ、って。


毎日午後3時とか4時になると音を消してつけっぱなしにしているBBCから昨日から今日までの死者数のUpdateが出てくる。 ここのところずっと600人とか700人とか、今日は900人までいった。 毎日それだけの数の人が同じ原因でいなくなっていく。 外はぽかぽか春の陽気で20時過ぎても明るくて気持ちよくて、みんな外のアパートの階段とかに腰掛けてタバコを吸ったりしている。いまの状態を「戦争」に例えたりすることがあるけど、「戦時下」でもこういう光景があったのよ、といちおう書き留めておきたい。 

4.07.2020

[film] The Perfect Candidate (2019)

1日、水曜日の晩、Curzon Home Cinemaで見ました。

こんなふうに外に出られなくなった状態ってぜんぜん別の世界とか別の時代のお話しを見たり読んだりする恰好の機会で – だってそうしないとつまんなくてやってられないよね -  前の日は南北戦争前のアメリカに飛んで、この映画では現在のサウジアラビアに飛んで、こんなだったのかー、って言ったり、たいして変わんないよな、って言ったり、そんなことよりいまここの、あれこれ積んであるいろんなのとか仕事とか、なんとかしろよ(永遠のいま)、とか。

“Wadjda” (2012) 、”Mary Shelley” (2017)の監督Haifaa al-Mansourさんの新作で、サウジアラビアを舞台にした映画としては”Wadjda”に続くもの。

街道沿いの緊急病院に勤めるMaryam (Mila Al Zahrani)がいて、病院前の道路が舗装されていないので病院に入る前にいつも泥だらけになるし、患者の搬送も足下がガタガタで危なくてしょうがない。そうやって運ばれてきた老人(男)を治療しようとしても「男の医者はいないのか?」「女の医者はいやだ、わしの目を覗きこむんじゃない!」とか勝手にブチ切れてくるし、ドバイで開かれるコンファレンスに出かけようとしても出国のところで許可証が切れていることがわかり、取り直そうにも父親の許可が必要とか、いろいろ面倒でしんどい。

家には結婚式のビデオ撮影とかをしている姉妹のSelma (Dae al-Hilali)とSara (Nora al-Awadh)がいて、更には妻に先立たれ、ウェディングシンガーから国営のバンドに入れるかどうかできりきりしながらツアーに出る父Abdulaziz (Khalid Abdulraheem)がいて、姉妹はともかく父はトラディショナルな音楽をやっていることもあって典型的な旧いタイプのじじいで揺るがなくて、こちらもあーあ、になる。

そういう状況でも、そういう状況だから – 特に病院の前の道路の件はシリアスでなんとかしたくて - それなら、と市の選挙に立候補して、懸命に草の根の選挙活動をしていくのだが、ここでも女性であることがネックになって、実情は”The Perfect Candidate”の真逆で、手作り集会でどれだけ女性に訴えても、それわかるけど家では投票に行く許可を貰えないから、とか、男性に訴えても、いやいやそもそもそんなの(女性の政治参加なんて)ありえないしー みたいな反応が来て、そういうのが続いてふざっけんじゃねえぞおら! って男たちの前でブチ切れるMaryamはかっこいいの。

彼女の思うようにいかないこともいろいろいっぱいあるのだが、それって僕らのと似ているのかな? 比べちゃ失礼かな。 彼女に面と向かって「女の医者は嫌だ」っていうじじいは、日本だと平気でセクハラしまくるじじいになるし、許可がないから投票できないわ、ってしれっという女性たちは、日本だと選挙とか難しくてわかんないしー、っていう女性たちになるし、メディアでの女性の扱いときたら…  どっちもたいして違わなくないか ?  とか。

でもラストの父親との和解のとこがあるからいいか、になるの。亡くなった妻のカセットテープのエピソードとかなんか素敵で。しかもなんかしみるいい曲なのよね。


ああ、Hal Willnerまでいってしまった..  これ以上もう連れていかないで、ってだれに言ったらよいのだろうか。2011年にThe Stoneで見たPhilip Glassとのデュオ - Allen Ginsbergの詩を歌うやつ - はすばらしかったの。客席でLou Reedがぱちぱち大喝采でとてもやかましかった記憶が。

4.06.2020

[film] Harriet (2019)

3月31日の晩、BFI Playerで見ました。シアターではすぐ終わっちゃって見れなかったやつ。
南北戦争前に実在した奴隷解放運動家Harriet Tubman (1822-1893)の武勇伝。すごいったら。

1840年代のメリーランドでBrodess家の奴隷のMinty (Cynthia Erivo)は結婚して45歳になったので解放奴隷(freedman)として認めてほしい、とそれを法的に認める文書付きでお願いしたのに家長のじじいはだめだ、とそれをびりびり破いて握り潰してお前は一生奴隷のままじゃ、って彼女を他の家に売ろうとするので夫も振り切ってひとり逃走する。するとBrodess家の長男のGideon (Joe Alwyn) – ストーカーっぽい – が追ってきて、わかった他の家には売らないから留まれ、といっても彼女は橋から飛び降りて、Underground Railroad - 列車ではなくて、当時の奴隷たちが使っていた秘密の逃走ルート - を伝って、まだ自由があったPhiladelphiaに逃れ、そこで活動家のWilliam Still (Leslie Odom Jr.)とMarie Buchanon (Janelle Monáe)と出会う。

乞食のようにぼろぼろのナリで逃げこんだMintyは彼らのGentleで落ち着いた物腰と眼差しに驚きつつ、いろいろ教えて貰って髪を結ってもらって名前もMintyからHarrietとなり、でも自分にはまだやることがある、ここは元いた場所とは違いすぎるし、って地元に戻ってUnderground Railroad経由で新たに仲間や家族を連れてきた(犠牲者ゼロ)ので今度は彼らの方がびっくりして、でもHarrietは そこから更に危険を顧みず数回の渡りをしてその度に大勢の仲間を連れて戻ってくる。

これに対して自分たちの財産である奴隷たちをごっそり連れていかれてしまう地主側はたまったもんではないと、夜逃げ無効の法律(Fugitive Slave Act)を通したり、それがMintyのこととは知らずに”Moses”と呼んで懸賞金をかけて、包囲網を敷いてPhiladelphiaにも乗りこんでくる。

Harriet本人のことも含めて史実をよく知らない状態で見たので、後半、何度でも地元に舞い戻って強引に奴隷たちを連れ出そうとする彼女を見て親のようにはらはらし通しで、もうやめなよStay Homeでもいいじゃん、とか思うのだが、とにかく不屈で頑固ったらないの。 一応彼女には予知夢(?)を見るような不思議な能力があることも暗示されるのだが、それにしても仏頂面の後ろに隠れて燃えあがる意思と闘志、怒りにはやられっぱなしで、最後のGideonとの対決になだれこむところは盛りあがるったらない。

西部劇なんて大抵そんなものかもだけど、差別とかマイノリティといったテーマでちゃんとした議論の俎上にあがる前、Suffragetteのはるか手前にはこんなにも熾烈な殺るか殺られるかの仁義なき戦いがあったのだ、って。 そしてそこのフロントには彼女のような女性もいた、ってなんてかっこいいことだろう。更にこの後の南北戦争でも活躍したって。 個人的には”Black Panther”よりも手に汗を握ってしまうやつだった。

Cynthia Erivoの熱演、脇を固めるJanelle Monáeらも、これを7年かけて作り上げた女性たちスタッフも見事としか言いようがない。 日本でも絶対公開されてほしい。

Harriet Tubmanさんの肖像が描かれた新しい$20札は今年リリースされるはずだったのに、延びてしまったのね。


先ほど、急に入ってきたBoris Johnsonの件は驚いている。今朝は念のために入院した、くらいのニュアンスだったから。
いまいなくなってはいけない。なんとか持ちこたえてほしい。
彼の政策には合意できないところだらけだったが、コロナの件に関して、彼の対応は見事だった - これは誰も否定しないだろう。 彼はカメラの向こうから我々をしっかり見つめ、なぜ今これが必要なのか、なぜ自分がこういう指示を出すのかをわかりやすく語り、その熱と強さから国民を守る、救うのに必死であることが十分に伝わってくるのだった。(ああ、これに比べたらどっかの国のバカは ..)
はやく元気になって、君のやりたかったBrexit - いまやほんとにどうでもいいけどな - を思う存分やってほしいよ。

4.05.2020

[film] Unrelated (2007)

30日、月曜日の晩、BFI Player - BFIがやっている配信サービスで見ました。ここ、RentalからSubscriptionまで、昔のから新しいのまでいっぱいある。 “Tilda Swinton Selects” - なかなかしぶい - とかもある。

Joanna Hoggさんの監督・脚本長編デビュー作。
40代近くの英国人Anna (Kathryn Worth)は学校の頃の友達Verena (Mary Roscoe)に招かれて彼女がタスカニーに借りたヴィラでヴァカンスを過ごすことにしたものの、合流する手前で彼女は一人車を降りて歩いてやってくる。 彼のAlexと車の中で喧嘩しちゃったらしい(この部分は出てこない)。

Verenaは子供達や夫やいとこやその子供とかも大勢連れてきていて、子供達はみんなティーンなので結構やかましく昼も夜も元気いっぱいどんちゃんスバスバ騒いでいて、大人たちは大人たちで酒飲みながらの大人の会話になり、そうするとどうしてもAlexとのことについて話さなきゃいけなくて、それはそれで嫌で面倒なので、Annaはなんとなくティーン集団の方の遊びに寄っていく - へんなおばさん、て思われてるだろうな、とか思いつつ。

タスカニーのヴァカンスなので陽光たっぷりで川で泳いでもプールで泳いでも夜になってお酒飲んでも町に出かけて散策しても楽しそうなのばっかりで、Annaもだんだん浮かれてきてみんなで羽目外しすぎて借りた車を壊しちゃったりしつつ、だんだんVerenaのいとこの息子 - Oakley (Tom Hiddleston)に惹かれていくの。 その反対側でAlexとは頻繁に電話で会話しているのになかなか噛み合わない。

中年に差しかかった女性の夏休み、というとÉric Rohmerあたりを思い浮かべて、確かに同様のきらきらした瑞々しさはあるのだが、Rohmerのほど隅々きちんと作られたかんじはなくて、どちらかというとJacques Rozierのどっちに行っちゃうのかわからない奔放さ - 楽しいほうに転ぶも残酷なほうに転ぶも自由 - があって、それがタイトルの”Unrelated” - どこにも紐づいていない自由と孤独感とあーあどうしよ、をくっきりと浮かびあがらせる。

どこともRelateできずに浮きまくるAnnaを見ていると、友人とはいえ他人の家族が集合するヴァカンスにひとりで参加ってなんかすごくしんどくないかしら、って胃が痛くなって(← 自分だったらぜったいムリ)、でもAnnaはOakleyのことを好きになって思いきって誘ってみたりするの。

夏の終わりと共にヴァカンスも終わる、っていうお決まりのラストで、みんなそれぞれの場所に散っていくのだがAnnaはひとりで帰路について、そこで何かが始まったり終わったりするわけではない、そこも含めて”Unrelated”で貫かれているようで、なんかいいの。 来年のヴァカンスはもっと素敵になるよ、って。

まだあどけなさが残るTom Hiddlestonの上半身裸もいっぱい見れるから今からでも日本公開すればいいのにな、とか。


今日は初夏の陽気で、公園は結構な人出だったので政府は外に出ちゃダメって言っているだろ、って規制を強化するかもしれない。 そして今週は金曜日からイースターの4連休のはずなのだが、だれもどこにも行けない/行かない、そんな場合じゃない。 そのうち、少しでも夏のことを考える余裕が出てきますようにー。

4.04.2020

[film] Military Wives (2019)

3月29日、日曜の晩、Cursor Home Cinemaで見ました。映画館が閉鎖されたときにまだ上映されていたやつで、今はオンデマンドでもやっているみたい。

アフガニスタンに派兵された英国軍兵士の妻たちの実話 - “The Choir: Military Wives”ていう2011年に制作されたBBCのドキュメンタリー -  がベースで、監督が”The Full Monty” (1997)のひとで、あの予告を見たら、わかりやすいこてこての英国人情喜劇であることは明白だし、泣かされることもわかっているのに、でも見る。こういうのが必要なときってある。

英国の地方にある軍の基地にアフガンへの派兵の指令が来て、それはそこで暮らしている家族全部に影響して、軍の大佐 - Richard (Greg Wise)の妻で息子を戦地で失っているKate (Kristin Scott Thomas)はまたか、ってなって、Coffee morningっていう同様の立場でしょんぼりしている妻たちのための朝会のまとめ役を頼まれたLisa (Sharon Horgan) はテンション高めでKateのとこに相談に来て、ただ集まってお茶するだけじゃつまんないからなんかやった方がいいと思う、ってまず妻たちみんなの意見を聞いてみる。編み物、とかも出たのだがやってみると結果は悲惨で、じゃあ歌 - singingは?  って。

なにを歌うか、どんなふうに練習してみんなを纏めていくかのやり方とか方針みたいなとこでKateとLisaは意地を張り合ってことごとくぶつかってどっちもどっちなのだが、それ以上にコーラス隊の方もすごく上手いひとからとんでもない音痴までいろいろで、でも馴染みの歌 - “Don’t You Want Me”とか”Time After Time”とか - だとみんな歌うし揃うし、揃っていくし、でもこれはカラオケ大会とは違うのよ、だし、隣の部屋で聴いていた軍のおじさんも耳栓状態からそれを外して楽しむようになっていく。というばらばらのピースが寄り集まって形ができあがっていく前半。

やがてまだ若い妻のところに夫の戦死の報が入りKateの夫も負傷して戻ってきて、他方でコーラス隊にはRoyal Albert HallでのFestival of Remembranceていう年に一度の大舞台 - 追悼イベント - への出演依頼がきて、でもこんな状態なので全員がかりかり不安定になり、ロンドンに向かう直前、自分達で作った曲の仕上げのところでKateとLisaは大喧嘩してKateはもう抜ける、って。

結果は書くまでもないのだけど、「すばらしい音楽はパーフェクトだからそうなるんじゃない、あたしたちがケアするからそうなるんだ」っていうあたりはじーんとしみる。今は特に。 イギリス人てふだんほんとにインギンブレーのくせにこういう事態になってスイッチが入るとなんで。

映画としては、グチとか感情を誰の前にも出すことができずに深夜のTV通販にはまっていくKateと、ティーンの一人娘の扱いに疲れていくLisaの描きかたがちゃんとしている - そして二人ともうまい - ので余程ひねくれていない限りよかったねえ、にしかならない。

早く他国への派兵によって軍人さんが亡くなるようなことがなくなればいいのに、とか、更には戦争を想定したような軍隊も兵器も必要とされなくなればいいのに、っていつも思うことは思うのだが、道は遠いのだろうなー。  って諦めてはいけない。

そのうちミュージカルになるのかな、でもミュージカル見に行くくらいなら自分達でやろう、になるかな。


久々に暖かい春の日がやってきたのだが、花粉が来ている。 日本のとは違うし、NYのとも違うけど、これはやっぱり花粉、おうちにいたってやってくる。  土曜日の昼間は、どこのスーパーの列も長い。 死者の数も更新を続けているので来週はしんどくなることを見越して、か。

4.03.2020

[film] Fin de siglo (2019)

3月29日、日曜日の午後にCurzon Home Cinemaで見ました。見逃していたやつ。よくよく考えてみると映画って、再見でもない限りはぜんぶ「見逃していたやつ」なんだよね。 英語題は訳語そのままの”End of the Century”。
監督/脚本は、これが長編デビューとなるアルゼンチンのLucio Castro。

バルセロナの町(特に表示されるわけではなく、後の方で会話で出てきてそれとわかる)に旅行者のようなOcho (Juan Barberini)がやってきて、Airbnbと思われるがらんとしたアパートの一室に入ると、特にすることもなさそうにビールを飲んだりバルコニーから町を見下ろしたりしている。

そうやって歩いているところを見かけて気になった”KISS”のTシャツを着たJavi (Ramon Pujol)を泳ぎに行ったビーチでも見かけて、声をかけてみると部屋にもやってくるので、少し会話をしてキスしてセックスをする。ここまでだとただのゲイポルノかしら、とか思う。

そのうち食べ物を買いに町に出て、戻ってからベランダで互いのことを話す。OchoはNYから休暇で来ていて、詩の雑誌の編集をしているがそれだけでは食えないのでマーケティングの仕事もしていて、20年付き合っていた恋人と最近別れた、とか。Javiはベルリンで暮らしながらミレニウムについてのドキュメンタリーを撮っていて、2年前に結婚して最近女の子を養子にした、とか。

で、突然Ochoが僕らは20年前に会っているよね? と言い、Javiもそうだ、って言うので、え? ってなるのだが、そこから99年のJaviと恋人のSonia (Mía Maestro)が暮らしているアパートをOchoが訪ねるシーンになんの切れ目もなく飛んで、暫くするとまた戻ってきて、Ochoは20年一緒にいた恋人のことも思いだすことができないのだ、と語る。

20年ぶりの偶然の再会をすごいと思うか、20年ぶりに会ってセックスまでして互いのことを忘れていたことにびっくりするか、そんなの起こるときには起こるんだからどうでもいいことなのか、そういう不思議や謎から離れたところで生起する生とか旅の様子を描いているのだと思った。

Ochoは頻繁に嘔吐をしたりしていてAIDSである可能性も漂わせているのだが、彼が本棚から手に取る一冊がDavid Wojnarowicz (1954-1992)の”Close to the Knives: A Memoir of Disintegration” (1991)で、そこからの一節が字幕で表示される;

“I’m getting closer to the coast and realize how much I hate arriving at a destination. Transition is always a relief. Destination means death to me. If I could figure out a way to remain forever in transition, in the disconnected and unfamiliar, I could remain in a state of perpetual freedom.”

彼がもう一冊、本棚から取りだして読むのはジュール・ヴェルヌの“Alrededor de la Luna” (1870) 『月世界へ行く』。

誰にもどこからもコントロールされない状態でのあてのない旅 – disintegration への希求、これって死と裏返しのもの – あるいは既に死んでいる人の – 言い草なのかもしれないけど、それが夕闇に沈もうとするバルセロナの町を背景に中年にさしかかろうとしている男二人の姿に被さるとなんだかとっても.. っていう”End of the Century”のおはなし。

David Wojnarowiczって、日本での紹介のされかたはよくわかんないけど、欧米では結構重要なアーティストでいろいろなところに現れる。有名なところではU2の”One”のシングルのジャケットに彼のバッファロー(アメリカ原住民に追い詰められて崖から落ちていく)の写真が使われている。

あと、99年のシーンでOchoとJaviがレコードをかけて踊るとこでA Flock of Seagullsの”Space Age Love Song" (1982)が流れるの。えー、って少しびっくりするのだが、この曲はかっこいいんだよ(ということを言いたい)。


こんなことになっていなければ、2日の晩は、BFIでAlessandro Cortiniのライブイベントがあるはずだったし、3日の晩は、同じくBFIでPet Shop Boysの映画 - “It Couldn’t Happen Here” (1988)のDVDリリース記念の上映会と彼らとのQ&Aがあるはずだった。 こんなことになっていなければ、Adam Schlesingerは..  ってほんとに悲しいことばっかり起こる。 4月はまだ3日しか経っていないのにな。

4.02.2020

[film] The Biggest Little Farm (2018)

28日、土曜日の夕方、Curzon Home Cinemaで見ました。見逃していたドキュメンタリー映画。
これまでもドキュメンタリーを撮ってきた監督のJohn Chesterが妻のMollyと犬のToddと2011年、Los Angelesの北、車で1時間くらいのところに20エーカーの土地を買って農場を作ろうと思いたち、これがApricot Lane Farmsになるまでの記録。

元々、ぼんやりと自分たちの農場を作りたいな、っていう夢は持っていて、それが決定的になったのは飼犬のToddが彼らが留守にする度に延々吠え続けてアパートを強制退去になったことで、それならToddのためにも! って打ち棄てられていた荒れた土地を手に入れて薬に頼らない伝統農法に詳しそうなおじさんを仲間にして若者たちを雇い入れ、水をひいたり木を植えたり家畜を連れてきたりの格闘が始まる。

素人でも漠然と思うのは土ができてて樹があって植物もあって水もあって家畜がいて四季とか気候がきちんと巡るのであれば、自然の、エコのサイクルもぐるりと回ってくれて、農場っぽくなるのでは、くらいで、実際に彼らも導師のおじさんもそれに近いことを言ったりしているので、いやいくらなんでもそんな簡単じゃないんじゃないの、と思ったら、やっぱりコヨーテが来て家畜を襲ったり、Gopher(ホリネズミ)が大発生して根っこを食べちゃったり、鳥の大群が来て果物食べちゃったり、カタツムリが大発生して葉っぱ食べちゃったり、結構ぼろぼろになる。

そこで彼らは歯を食いしばって、とか昼も夜も働き続けて、とかものすごい工夫とか発見が.. といった汗と涙の苦労話(労働ばんざい)には(実際にはあったのかもだけど)持っていかなくて、自然はある程度のところまで行けば自分(たち)でなんとかし始めるもんじゃよ、みたいなおじさん(途中で亡くなってしまうのだが)が言っていたことを素朴に信じて、映画は最初の4~5年くらいまでを順に追っていくのだが、産物を売ったりするところも含めて本当になんとかなってしまって、その辺のおおらかさがすばらしいったら。(にっぽんだとバンダナしたおっさんとかが出てきて、甘いな、とか得意に突っこんできそうなやつ)

鳥の大群には鷹みたいのがくるし、Gopherには梟がくるし、カタツムリには飼っている鴨が向かっていくし、さすがにコヨーテは人が蹴散らすけど。農場のお話しというよりは動物好きにはたまらないいろんな生き物がいっぱい出てくる(殺されるのもいっぱいだけど)のがよくて、でっかいお腹のまま連れてこられた大豚のEmmaがぶりぶり大量の子豚を生むところとか、Emmaの傍に用心棒のようにくっつくはぐれ雄鶏とか、鴨も羊も牧羊犬も、彼らがぴょんぴょん跳ねたり吠えたりする、そういう動きが生き生きと撮られているのでそれだけでいいの。それがThe Biggest Little Farm、っていうもの。

最近の西海岸の山火事がすぐ近くまで迫ってきてはらはらするシーンも出てくるのだが、なんとかなるんじゃねえの、っていうオプティミズムに貫かれていて、こういうのはよいなー、って。

東海岸の同様の農場だと、やはりStone Barnsが思い浮かんで、あそこででっかいバークシャー豚を見たときの興奮はいまだに思いだしてほっこりする。食べ物は見ただけでおいしそうだし、実際なに食べてもおいしいし、やっぱりさー、人が生きるのはデジタルとかインデックスとかじゃなくて、こっちの方だよねえ。(デジタルは、生きるというよりそれによって生かされる、ていうかんじ)

というようなことを、家の外に出ることを禁じられながらも「働け!」って勝手にキャンペーンはられて、奴隷とか家畜になったような状態で見ると、あーあ、ってなるの。


ここのとこ毎週木曜日の20:00になるとNHSの医療関係者に感謝をする拍手と歓声が町中で起こって、窓を開けているといろんなところからどんどかぱちぱちわーわー聞こえてくる。 いいことよね。感謝してもしきれない。

4.01.2020

[film] Vivarium (2019)

このサイトにある映画の感想は、ほぼすべて映画館で見たものに対して書いたものだった。たまに機内で見たのもあったりするが、少なくとも自分の家のTVのオンデマンドとか配信とかDVDとかで見たものは書いていない、というかそういうのをこれまでやったことがなかった。00年代の中頃、米国から戻ってくる時のどさくさで大量のDVDを買いこんで持ち帰ったが結局封を開かないまま日本に置いてきていて、なんでかというと落ち着きがない性分で、家にいても食事するか音楽聴くか本読むかTV見るか、くらいでそれ以外は外に出ることばかり考えているから(犬か.. )。だって外に出ればいくらでもおもしろいのがあるし、映画館の暗闇で見る35mmとか16mmのフィルムって、美しいったらないしー だったのだが、3月の後半から全てが変わってしまった。外ではなく家のなかでおもしろいのを探すしかなくなった。しかも仕事っていうおもしろくないのをやりながら(やりながら、じゃないな。避けながら、かな)。読書、っていうのもあってそれはふつうにやるのだが、読みながらも読んだあともだらだら考えたりしているので、それってここに映画の感想を書くようなのとは違う性質のなにか、という気がする。

とにかく、こういうことになったので家のPCで映画を見始めることにしたの。BFIのsubscriptionだと最初の14日間はタダだし、どれも£3 〜 4くらいだし、これでいつも行っている映画館を少しでも救うことができるのであれば、っていうのと、見逃していたやつをこの機会に押さえる、っていうのと。あとでMUBIとかCriterion Channelも試してみるつもり。とりあえず一日一本目標で、あきたらやめる。

“Vivarium”は、28日の昼、Curzon Home Cinema(っていうサービス)で見ました。見逃していたやつ。

これが長編2作目となるLorcan Finnegan監督によるアイルランド – デンマーク – ベルギー映画。
冒頭に鳥の托卵のシーンが出て、これに“Vivarium”の意味を加えるとだいたいわかってしまうのだが..

Gemma (Imogen Poots)とTom (Jesse Eisenberg)の若いカップルが仕事の後にこれから一緒に暮らす家でも探そうか、ってどこにでもありそうな町の不動産屋に入ると、なんか不気味な店員がお客さんパーフェクトな物件がありますよ、是非ご覧になってみませんか、ってあまりに押してくるので、車で現地に行ってみることにする。ここで止めときゃよかったのに。

連れていかれた先は新規分譲売り出し中、みたいな同じような一戸建てがきれいに何層も何棟も並んでいるような宅地で、雲まで同じように整列しているようで、新築の住居は新婚+子供(なぜか男子)を想定した理想的な造りだし、お二人にはぴったりでしょう、と攻めてくるのだがなんか気持ちわるいのでいいです、って断ろうとしたら店員が車ごと消えている。あのやろーって車で帰ろうとしても、その一角一帯から抜け出せなくなっていて、運転を替わってどこをどう行っても、元いた「9」っていう家の前に戻ってきてしまい、やがてガソリンがなくなって、その家で暮らさないわけにはいかなくなる。

そこの冷蔵庫には飾りのようなシャンパンとイチゴがあったのでそれでその夜はしのいだら、翌朝、家の前に段ボール箱に入った食べ物ひと揃いが届いていて、なんだこれ? と思いつつ貰って、その翌朝も箱があったので開けてみると中には赤ん坊(♂)が入っている。

捨てておくわけにもいかないので育てていくとそいつはあっという間に大きくなって喋るようになるのだが、勝手で我儘で言うこと聞いてもらえないと高音で叫びまくったりTV画面のぐるぐる回る意味なさそうな画像をずーっと見たりしててどうしようもなくて、ふたりはだんだん消耗してきて、やがてTomは何かに気付いたのか庭に穴を掘り始める…

まさに時流にのった(たまたまよ)”Stay Home”の悪夢ホラー、どこにも抜けられないので家に留まるしかなくて、留まると誰だおまえ? みたいなガキの面倒をさせられる。外にでたらZombieが、とか怪物が、ではなくて、外にはなんもなくて、家のなかによくわかんないガキが..  でも家をめぐる呪縛のありようをこんなふうに分解してみると、そんなに突飛な設定でもないのかも、普段のとたいして変わんないのかも、とか。

構造と設定がお伽噺のようにシンプルなだけにいろんなこと - 自分だったらどうするか? まずなにをすべきなのか?  とか、家の外に出ればいろんな世界が広がっているって、なんて素敵なことだろう(今は特に)、とか考えてしまうので主人公たちがあまりかわいそうに見えないところが少しだけ。Imogen PootsもJesse Eisenbergもすばらしい熱演をしているだけに。

エンドロールではあーらなつかし、XTCの"Complicated Game"が流れるの。なるほどなー。


一日一回は外に出るようにしていて、お買い物のついでに近所のこれまであまり歩いていなかった辺りをてけてけ散策しているのだが、Hitchcockの住んでいたとこを見つけたり、今日はMervyn Peakeの住んでいたとこを見つけた。「ゴーメンガースト」って、こんなふつうのお家で書かれていたの? って。