3.31.2020

[art] Titian: Love, Desire, Death

3月に(ロンドンで)見たアート関係のをみっつ。

まずは15日、日曜日の午前にNational Portrait Galleryで見たふたつ。

Cecil Beaton’s Bright Young Things

“Bright Young Thing”っていうのは英国の、第一次大戦後の好景気を背景に出てきた貴族を中心とした若くてリッチできらきら連中を風刺してタブロイドとかが使っていた用語で、彼らを題材にしたEvelyn Waughの”Vile Bodies” (1930)もこれを元にStephen Fryが映画化した”Bright Young Things” (2003)も読んでいないし見ていない。Cecil Beatonのキャリアのなかでは初期のもので、彼はここで掴んだコネから上流とか王室さんに入りこんでいく。というか、彼がそもそも持っていた装飾おしゃれ大好きな資質がBright Young Thingsとの出会いで更に加速して花火がぶちあがった、ただしとっても上品に、というか。

始めの方では家族内で2人の妹を相手にコスプレ写真のようなのを撮っていたのが学校仲間にも及んで、そこから文壇やアーティスト、貴族に王族にまでソーシャルに花開いて華麗なる英国貴族絵巻が広がっていって、そのおしゃれでブリリアントなことときたらどれもレコードジャケットみたい(←そういうふうにしか見れないのか)で、彼の写真ばかりでなく同時代の素敵な肖像画もいっぱい(有名なEvelyn Waughのとか)あって、しかもそれらをトータルに”Cecil Beaton’s”として括ってしまってなんの違和感もないところがすごいなー。

David Hockney: Drawing from Life

これもNational Portrait Gallery、Beaton展の隣で展示していて、入り口にはお花をバックに談笑するCecil BeatonとDavid Hockneyの大きな写真がある。

David Hockneyのドローイングと肖像画はPicassoのそれと同様にいつ見てもなにを見てもおもしろくて楽しませてくれて、それはなぜかと言うと、そのタッチとか控えめな色彩、対象がHockneyを見つめる目とHockneyが対象を見つめる目がその柔らかい線の重なりのなかに溶けているような気がして、続けて見ていくとHockneyが触れて接してきた人々に過ごした時間も込みで囲まれていくようなかんじになる。

展示は50年代のThe Royal College of Artに通っていた頃の自画像、両親を描いたものから始まって、後半の親しい3人の友人たち - Celia Birtwell, Gregory Evans, Maurice Payne - を数十年に渡って描き続けた作品群のすばらしいこと。 Drawing of Life、ではなくDrawing from Lifeって。

で、これをCecil Beatonのと続けて見ると、いろんな人に囲まれたり見守られたりしつつ作られてきた20世紀アートの最良の部分がここにあるのかも、って。Beatonの後にはシュールレアリスムやモダンアートが興り、Hockneyの後にはポップアートやパフォーミングアートが興り、「パブリック」や「ソーシャル」を「コンセプチュアル」にかき混ぜる動きもあったりするわけだが、彼らはそれらからちょっと離れてガーデンでお茶を飲んだりしていて、優雅なもんだよな、って嫌味が出てしまうのはわかるけど、べつに幸せならいいんじゃないの、って。

National Portrait Galleyって、なにもなければ改装のためこの6月で閉めて2023年にリオープンの予定だったのだが、このまま閉まっちゃうのかなあ。もう一回行きたかったよう。

Titian: Love, Desire, Death

18日、水曜日の昼間 - 在宅勤務が始まっていたけど昼休みに – National Galleyで見ました。
16日に始まったばかりの展示なのに、National Galleryも19日から閉めるって言うのでわずか3日間の会期。 暫く閉まってしまう前、最後にこれぞクラシック、みたいなど真ん中の絵画を見ておきたいな、って。

1551年、スペインのPrince Philip - 後のKing Philip II(フェリペ2世)が当時世界一でぶいぶい言わせていた巨匠Titian (ティツィアーノ・ヴェチェッリオ)に委託し、1562年までかけてOvidの”Metamorphoses” - オウィディウスの『変身物語』 - を元に制作された7枚の連作「ポエジア」 - スペインとかアメリカとかイギリスとか世界中に散らばっていたやつが3世紀だか4世紀ぶりに一箇所に集まったのだという。

というわけで、部屋に入ると壁四面に『ダナエ』-『ディアナとアクタイオン』-『ディアナとカリスト』 - 『ヴィーナスとアドニス』-『ペルセウスとアンドロメダ』-『エウロペの略奪』-『アクタイオンの死』(たしかこの順番..)、の本物がどかどか並んでいて、それはそれはすごい。若冲の『動植綵絵』揃いみたいに、怪獣総進撃みたいにすごい。ぜったいみんなどこかの部分だけでも見たことあるはず。

この頃のティツィアーノはもう晩年で、若いフェリペ王子を悦ばせてやろうとエロエロ路線全開でいった、みたいなことを解説では言っていたが、女性の腰とか尻とかの肉の描き方がとにかくぶりぶりに肉してて、これ、翁はどんな顔して描いていたのじゃろうか、って。

5月4日に再オープン、てNational Galleryのサイトにはあるのだが、どうかしら?


こうして3月が行ってしまうよう。 3月の初めにはこんなことになるわけない、ってみーんなが思っていたはず。 4月は少しでもよい方に向かいますように。これだけ人が亡くなってて「よい」ってなんだよ、って既にやけくそだけど。

3.30.2020

[film] The Great Buster (2018)

18日、水曜日の晩、Curzon Bloomsburyのドキュメンタリー小屋で見ました。

17日にいろんなところがばたばた扉を閉めていった時点では、Curzonはいつ閉めるとか言っていなかったのだが、その夕方に19日から閉めるよ、って。てことは18日は開いてるってことね? って取ったのがこれ。 ここから先暫くは映画館に行けなくなっちゃうだろうし、自分が感染したら二度と..  になっちゃう可能性だってあるので、なんか映画っぽい映画がいいな、って思って。

監督のPeter Bogdanovichが自らナレーションをして、いろんな(そりゃいっぱいいるわ)映画人にインタビューして、Buster Keatonの映画からの抜粋とかアーカイブ映像もたっぷり、102分は短いんじゃないか、くらい。

どさまわり芸人の一家に生まれて家族でボードビルショーをしながらKeatonになり、Roscoe 'Fatty' Arbuckleと出会って映画の世界に入って自分で映画を作るようになって、映画史的なところも大事だとは思うけど、それらを知らなくてもKeatonの名場面を繋げて繋いで見ているだけで、これは魔法だ、なんかとんでもないものだ、って思うようになるよ。
そりゃサーカスだってマジックだって花火だって似たやつはあるだろうけど、映画の初期にこの人が成し遂げた銀幕上でミリ単位で展開していくドミノ倒しの爽快感ときたら特別ななにかで、それはフィルムがからから高速回転しつつその上をなにかが動いていく(ように見える)驚異と重なって、なんであんなこと考えつくのだろう、なんでそんなことが起こっちゃうのだろう、っていう世界の不思議に直結する。

そしてそれらを涼しい顔で跳び箱とぶみたいにこなしてしまう彼の、暗いんだか冷たいんだかよくわかんないあの(無)表情。降りかかったりでんぐり返ったり牙をむいてくるあらゆる脅威や災厄を眉一つ動かさずにかわしつつ、こんなことになっているのは自分のせいではないんだけど、なにこれ? - って世界の外側に立ってしまうクールネス。 決して道化にはなることなく世界を破壊 - ”Buster” - するKeaton。 かっこいいったら。

登場する映画人は、Carl Reiner, Mel Brooks, Werner Herzog, Quentin Tarantino, Bill Hader, Cybill Shepherd, Richard Lewis, Johnny Knoxville, などなど、なかでは特にJohnny Knoxvilleの心酔ぶりはああそうかー、彼の”Jackass”はKeatonをやりたかったのね、って。遅いか。

Peter Bogdanovichの落ち着いた語りが、Keatonのとんでもなさを更に際立たせていて、これがMartin ScorseseとかQuentin Tarantinoだったらやかましく暑苦しくなっちゃっただろうなー。 Martin ScorseseはKeatonなんて興味なさそうだけど。

作品でより深く掘り下げられたのは“The General” (1926)、“Steamboat Bill, Jr.” (1928)、“Our Hospitality” (1923)の3本くらいで、見れば見るほど、また見たくなるの。 映画館の暗闇で、みんなでわぁー、とか、ひゅー、とかざわざわしながら見れる日が早く来ますように。


今晩、東海岸の17:00 - 英国の22:00から“The National - ‘High Violet’ Live From Brooklyn Academy of Music (BAM)” がYouTubeで流された。 冒頭のBAMの入り口だけで泣きたくなる。毎日こういうの流してくれるのなら家にいるよ。

3.29.2020

[film] And Then We Danced (2019)

17日、火曜日の晩、CurzonのBloomsburyで見ました。
本来であれば、この晩はTerence FisherのRom-Com - ”Marry Me” (1949)を解説付きで見る予定だったのだが、BFIが突然閉まってしまったので、こっちを急遽取ったの。

スウェーデン - ジョージア(グルジア)合作映画(というよくわかんない連携)。
National Georgian Ensembleでジョージアン ダンスの訓練に励むMerab (Levan Gelbakhiani)とパートナーのMary (Ana Javakhishvili)がいて、コーチの指導も講評も厳しいので歯を食いしばってがんばっていると、どこからか新入りのIrakli (Bachi Valishvili)が現れて、見事にさーっと踊っていっちゃうので誰だあいつは?  になる。

Merabのお家にはダンスの練習をさぼりがちな遊び人の兄とやさしいママとおばあちゃんがいて、Merabは食堂で真面目にバイトをしながらダンサーとして自立することを目指しているのだが、ダンサーになったところで将来の保証があるわけではなし(周りから凋落のお話を見たり聞いたり)、若いが故のいろんな誘惑はあるし、そうして揺れているところにIrakliが寄ってきて会話をするとなんでかどきどきしてしょうがない。

ダンスに賭けた夢と将来と恋に揺れて荒れて悶える若者の青春一直線をいまどき珍しいくらいまっすぐに描いていて、元々そういうのは嫌いじゃないので頷いたり首を振ったりはらはらしたり、のめり込んで見てしまったのだが、ところどころで挿入されるしなやかで、でも力強いジョージアン ダンスの練習風景がその前のめりの首根っこを鷲掴みにするの。

鬼コーチの厳しい指導とか、やけを起こして怪我 → 絶体絶命とか、それでも負けずに葛藤を克服し最後の絶唱とか、スポ根ものの定番ネタが繰り出され、そこにゲイの恋物語が挟まってくるので、見たくない人にはぜんぜん見たくないものになる(実際ジョージアでは上映反対運動があった)のかも知れないが、これはびっくりするくらい爽やかでフィニッシュが鮮やかに決まって、最後のカットの後に”And Then We Danced”というタイトルがすっきりとはまる。

これがデビューとなるMerab役のLevan Gelbakhianiさんの暑苦しくさせない巧さもあると思う。ダンスが好きな人は必見。 跳び技も含めて両腕両脚を目一杯開閉したりしつつ、大地に垂直に突き刺さる力強さを求めるジョージアン ダンスのかっこよさ。ダンス映画の古典になってもおかしくないかんじ。

ジョージアのおいしそうなお料理もいっぱい出て来て、それだけでヨダレ、というのもあった(← 弱点)。
あそこのって何を戴いても本当においしいのだが、モスクワの人によると味が濃いめでカロリーも高いのであれを毎日食べているとしぬ(のであまり頻繁には食べない)のだそう。 ウォッカをあんなふうに飲みまくる連中に言われても説得力ないけど。


風が強くて晴れて曇って雹まで降って寒くて、という散々な陽気だったのだが、日曜日だったのでバスで少し街中に出て、トラファルガー広場の周辺を歩いてみる。 人の群れはないけど、やはりみんな黙々と走っているのね。

今日から夏時間になりました。 月初めにNYに行った時にも夏時間移行があったので、今年は計2時間分失っている気がする。

[film] Man to Man (1992) + Caprice (1986)

16日、月曜日の晩、BFIのTilda Swinton特集で見ました。Covid-19のために17日からBFIは閉まってしまうのだが、この晩にはそんな様子はまったくなかったの。 こんなことになるならこの後の“Michael Clayton” (2007)も見ておくんだったなあ、って後悔してからでは遅いので普段から機会を逃さずに見ておかないとねえ。

最初にTildaさんが出てきて、いつものように来てくれてありがとう、ってひと通り喋ってから、今日ここに来るはずだった”Man to Man”の監督のJohn Mayburyは例の件で来れなくなってしまったけど、とJoanna Hoggさんを紹介する。最初に上映する”Caprice”の監督として。

Caprice (1986)

ふたりは同じ60年生まれだし、なかよしなのだろうな、と思っていたら本当にそんなふうで、互いにあんたここで変なこと言ったらただじゃおかないからね、の火花を飛ばして刺しあう空気に満ちていておもしろいったら。

この”Caprice”は監督のNational Film and Television Schoolの卒業制作として作られたもので、Tildaさんの出演している映画としては最も初期のものだという。映画“The Souvenir” (2019)で、主人公のJulie (Honor Swinton Byrne - Tildaの娘さん)が卒業制作用のフィルムを準備している設定があるのだが、そのフィルムというのが実はこの”Caprice”で、あそこでJulieが着ている服というのも実は.. などの驚愕のネタも明らかになり、監督からはこの”Caprice”は、今年公開予定の”The Souvenir Part II”の内容にかなり直結してしまうので公開を禁じているのだが、今回だけは特別だから許した、って。

ロンドンの街角の雑誌スタンドで、その日発売予定のファッション誌”Caprice”を楽しみに買いにきたLucky (Tilda Swinton)が雑誌を手に取ると、その雑誌の世界に迷い込んでしまって、それは夢のワンダーランドだった ...  という27分の短篇。

プロダクションも小物もファッションも、音楽(シンセがぐいぐい盛りあげる恥ずかしいくらいの80’s音楽をオリジナルで作っている)も手作り感と工夫に溢れていて、とにかく楽しいの。客席のTildaさんも楽しんで見ている(のが見えた)。 Manolo Blahnikの名前がでっかく出たりしているのだが、協力したりしているのかしら?

いまの若い子にはわかんないかも知れないけど、ファッションが憧れで輝いていてファッション雑誌も本当にかっこよかった時代 - 金持ち階級の見せびらかしではなく、まじで先端と呼ぶにふさわしかった時代、というのがあって、それがこの頃だったのだよ、ってこれを見てもらえば説明できるの。

ファスト・ファッションなんて死んでも着たくないあんなの着るくらいならボロのがまし、ていうどうしようもないマインドと、いまの雑誌スタンドに行っても、ブランドにじゃんじゃかお金だしてもらって作られた重いばかりの紙束が並んでて、こんなのがクリエイティブとか言われるんだから安いもんだよね、って嫌味ばかり吐くようになってしまったのは、この頃のこういうのがあったからです、とも言えるの。

Man to Man (1992)

ドイツのManfred Kargeによる一人芝居で、1987年にTildaさんがまずエジンバラで、続けてロンドンのRoyal Courtsで演じたものを、映像として残せないか、と監督のJohn Maybury - Derek Jarman繋がり - のところに持ちこんで出来あがったものだという。

ぼろアパートの一室でぼろぼろの老婆 - Ella Gericke (Tilda Swinton) が、ナチス政権下のドイツで、生き残る/生き延びるために亡くなった夫になりすまし男として生きた半生 - 転々としていく職業の扮装をしながら、言葉も態度も当然男ぶりぶりになりながら振り返っていく。

Manfred Kargeが20年代の新聞記事を見て書きあげた実話が元で、ジェンダーとか性役割に関するとても政治的なテーマを含んでいる作品だと思うのだが、映画自体は目紛しく変わっていく彼/彼女の百態に釘づけで、言葉遣いもころころ変わってよくわかんないのも沢山あるのに目が離せない。
変装百態というとCate Blanchettさんのが有名だった気がするが、こちらも相当。

でも、できれば演劇の方でも見たかったかも。

こうしてTilda Swintonさんとの短かった半月は終わってしまった。それまで知らなすぎたのかも知れないけど、彼女のことを知れば知るほど自分の世界もその光を受けてぐいぐい広がっていく、こういうことってそうあるものではないから、彼女にはありがとう、って何千回でも言うしかない。


ロックダウンされた世界の死者の数はどんどん広がっている。BBCを見てうう、ってなり、CNNを見てああNYはだいじょうぶかしら、になり、Euronewsを見てがんばれイタリアとスペイン、になり、だいたいこの3局をぐるぐる回っている。 日本の対応を見ても怒りと絶望しかこない。 これらを見ていると人類はだいじょうぶだ打ち勝てるなんて、ぜったい思えないわ。

もう我慢できなくなってPCで映画を見始めました。DVDはこっちでは買っていないので、BFIとかCurzonがやっているやつ。 映画館を少しでも助けることができるのであれば。

3.28.2020

[film] The Last Tycoon (1976)

15日、日曜日の晩、BFIのElia Kazan特集 – 結局十分に見れないままだったなあ – で見ました。
原作はF. Scott Fitzgeraldの未完の遺作、脚本はHarold Pinter(完成まで2年かけたという)、Elia Kazanにとってもこれが最後の作品で、いろいろな意味で最後の大物(Tycoon)ロマンのかんじ - あくまでかんじ - が満載で、悪くなかった、どころかすばらしかった。

Monroe Stahr (Robert De Niro)は黄金期ハリウッドの若手の敏腕プロデューサーで年寄りのお偉方からも俳優たちからも信頼されていて問題が出てきてもばりばりに指示をだしててかっこいいのだが、映画の世界に完璧を求めまくっている本人はやや疲れているようにも見える。

映画は撮影の現場 - Didi (Jeanne Moreau)とRodriguez (Tony Curtis)がメロドラマかなんかを撮っている - と、Monroeの上にいるPat Brady (Robert Mitchum)の繰り出すアッパーな謀議密命対応と、俳優とかライターたちからのロウアーな愚痴お頼み対応との間を回っていくMonroeの日々が、大地震の直後に仏像の頭に乗って流れてきたKathleen (Ingrid Boulting)と出会って変わってしまう。

この俺様が誘っているのになんでぜんぜん乗ってこないのか、ナメてんのか、のKathleenをなんとか誘い出してパーフェクトなセッティングで迫っても乗ってこなくて、最後に彼が建築中 - まだ骨組みしかない - マリブの海辺の家に連れていってようやくふたりは仲良くなっていろんなことを話すのだが、彼女にはやっぱり彼がいて…

終盤は映画会社にとっては面白くない組合のBrimmer (Jack Nicholson)がこれからの交渉のためにやってきて、周囲は気をつけろ、っていうのだがKathleenのこともあってむしゃくしゃしていたMonroeは殴り合いして、結果的には映画界を追われることになって..

実在したプロデューサーのIrving Thalbergをモデルにして、スタジオの絶対王政による製作システムがゆっくりと崩壊していった過程を価値判断は別として、もう失われてしまった取り戻せないものとして郷愁たっぷりに描く。 そこにKathleenも被ってくるので、あーあ、なの。

製作側にも新旧の大物を並べてその割にはというかそれ故にというか豪華なだけで大味になってしまった(って言われているらしい)この作品自体がプロダクションシステム崩壊の残念な事例なのかもしれないが、でも、MonroeとKathleenのやりとりのとこだけは別の映画のようにすばらしいと思う。劇中の見事なものになったに決まっているJeanne MoreauとTony Curtisが撮っていたメロドラマのように。

Kathleenがこの方がいい、という最終形からはほど遠いむき出しの家屋で彼女は裸になってふたりは夜を過ごして、その夢のような余韻があのラストまでさざ波のように押し寄せていて、この恋が終わったことでMonroeには完成されたなにかなんて、に、そんなのどうでもいいや、になってしまったのだろう。 まるで学生みたいにあおい、のかも知れないけどいいじゃん。

ここでのRobert De Niroの演技は、やがてでてくるDe Niro臭みたいのがぜんぜんなくて、抑えられた透明なかんじがとてもよいの。これもKazanの演出だったのだろうか。


今日は金曜日で、金曜日って、あと3時間で週末!(だからもうなんもしないよ)とかそういうのが好きなのに自宅で仕事だとそのかんじが来なくて、つまんない(そればっかり)から夕方Kensington Gardenに行った。桜にモクレン、あと地上のいろんな花がいっぱい咲いていて、先週比でリスも大量に湧いている。春なんだねえ。
“Stay Home”なのに人もいっぱいいる。ここはHomeの延長なのだな、って改めて。 子連れ、犬連れ、ソロ、デュオ、あとベンチ(ひとりいちベンチ)で読書をしている老人たち。 プライベートの公園でもみんな読書していて、いいなー、だった。  日本の、だれのものでもない公園、みたいなのって、なんであんなんなっちゃったのだろうねえ、とか。

3.26.2020

[film] Naissance des Pieuvres (2007)

書き忘れていたやつ。11日、水曜日の晩、”The Seasons in Quincy.. ”の後にBFIで見ました。
今は映画館が閉まっているので公開されていないけどOn Demandとかでは公開中の“Portrait of a Lady on Fire” (2019)が大評判のCéline Sciammaさんの小特集がBFIでは組まれていて、これは彼女の監督・脚本デビュー作。 原題を翻訳にかけると「タコの誕生」…  英語題は”Water Lilies”。

彼女の監督・脚本作って”Tomboy” (2011)があって”Girlhood” (2014)があって、脚本だとあのすばらしいアニメーション”My Life as a Courgette” (2016) - 『ぼくの名前はズッキーニ』 - があったりするので、嫌いになれるわけがないの。

パリ郊外に暮らす3人の15歳 - Marie (Pauline Acquart), Anne (Louise Blachère), Floriane (Adèle Haenel)がいて、MarieとAnneはずっと凸凹の素敵な友達同士で、AnneとFlorianeは部活(?)でシンクロをやっていてそれを眺めていたMarieはダントツでかっこいいFlorianeにぽーっとなって、彼女にくっついていって部にいれてほしい、と言う。 なんだこの変な娘は、って見ていたFlorianeは彼女を家に呼んで、その陰で男の子とデートをする口実にしたり、てきとーにあしらうのだが、彼女があまりに素直で一途なのでだんだん傾いていく。 部に入ってもいいよ、と言われたMarieは水着でプールに入るのだが、水面下でチームが曲芸みたいな仰天技を繰り広げているのを見て度肝抜かれてやめて、でもFlorianeには犬のようにくっついていく。

男女それぞれの人気もので女王様として振るまうFlorianeにもいろいろあるし、クラブで変なおやじに連れ去られそうになった彼女をMarieが救ったり、Anneは片思いしている男の子といろいろえー、みたいなことがあるし、どいつもこいつも危なっかしいのではらはらしながら見てしまう(← 親の気分か)のだが、最後はとりあえず。

わたしは彼と/彼女と一緒にいたいんだ - 彼の/彼女の時間をひとりじめしたいよう、って、そればかりで悶々していて、そこから一線を越えるまでの切なくてやりきれない思いと、超えた後のどうしようもう戻れないや、の底のない不安があって、でも君は君なんだからだいじょうぶだよ、って。言葉にするとめちゃくちゃ蒼くて恥ずかしいことでも、この人の映像はその距離感と落ちついたフレームがとても優しく暖かい。きりきりするシーンがあっても、見たあとにどこかふわっとくるものがくるの。

このデビュー作の頃からずっと大人と子供の中間地帯を彷徨う若者とか子供の惑いを見つめてきて、それがこの間の”Portrait of a Lady on Fire”では大人の女性の恋を画面に、まっしろな画布に定着させてみようとする。それがすばらしいものになったのは、普遍的ななにかを信じているから、というよりも常に画面上で揺れるふたりのシルエットに魅せられているからではないか。

Floriane役のAdèle Haenelさんは、“Portrait of a Lady on Fire”でも火の玉お嬢様を演じていて、こないだのセザール賞授賞式のかっこいい退場劇でますます惚れてしまったのだが、それはこの頃から既にあったやつだったのかー、って。 筋金入り、としか言いようがない。

それにしても、こんなにも長い間、映画館にも本屋にも美術館にもレコ屋にも行かなかったのはここ数年間なかった。 そのうちなんかどうにかなってしまう気がして、どうなるのかしら、って少しどきどきしている。

夕方にスーパーに行くと、入り口ではだいたい入場制限をしていて、それは店内が混んでいるから、ではなくみんなが互いに距離をとれるように。 なので外で並ぶほうも1列になって、前後2m以上距離をとるように言われて、じっと待つ。 中ではとてもゆったり買い物できる。 小売のお店の場合は、そこまではしないけど、フランス系のパン屋はカウンターの前に非常線を張って、距離を置いてあのパンください、とかやるの。 現金は不可でコンタクトレスのカードで手を伸ばして。

それにしても、ほんっとに天気がよいのが腹立たしくて、それでも絶対に外に出ることができない人たちがいるし、外に出たくないのに仕事で出なければいけない人たちもいるし、それどころじゃない、病院で苦しんでいる大勢の人たちもいる。 なんだか全てがありえないところに倒立したりでんぐり返ったりしてしまう大島弓子の世界が目の前に来てしまったような。 で、あんたはどうしたいのよ? って聞いてくるの...

3.25.2020

[film] Caravaggio (1986)

15日、日曜日の夕方、BFIのTilda Swinton特集で見ました。

上映前に廊下でファンに囲まれているTildaさんを見かけたが、この上映回には現れてくれず。
やっぱりサインとか貰っておけけばよかったかなあ。

この作品、当時まわりはみんな見ていたし西武系で文系は見ておくべし、って話題になっていたし見ておけばよかったかなあ、だったのだが見ていない。ルネサンス期だけではなく現代のシンボルあれこれが出てくるって聞いてあーってなったし、Caravaggio自身のことをもっと勉強したり見たりしてからにしたい、とか思ったし、ゴダールの”Passion” (1982) みたいなやつかしら、とか思ったし。お金もあんまなかったし。

本編前に上映されたのは”Romeo I lack from Flavio” (2018)っていう6分間の短編で、監督はTildaとSandro Kopp(Tildaのパートナー)。ヘンデルのオペラ- “Flavio”からの一節をバックに水辺でばうばうはしゃぎまくる5匹のEnglish Springer Spanielが撮られていて、音楽と見事なシンクロを見せる - まあどう撮ってもそうなるのかも知れないけど、なかなかのダンス・ムーヴィーで、きれいに終わるのでぱちぱちが起こる。あんな5匹に毎日囲まれていたら楽しいだろうなー。

そして”Caravaggio”。 16世紀の、たぶんナポリで、鉛毒でぼろぼろになって死にかけているCaravaggio (Nigel Terry)が回想していく形で当時の画壇やパトロンや周辺のごろつきとのあれこれとその時々で彼が制作していた絵画が向こうに見えたりする。

人間関係では町の喧嘩野郎のRanuccio (Sean Bean)とその連れのLena (Tilda Swinton)との金と欲にまみれたべたべた生臭い三角関係とかがあったりするのだが、基本的な振る舞いは野蛮で下衆で、でも絵画のところにくるとどうも天才なのでみんながうむうー って唸る。 それは現代の我々が彼の絵を見て感じる、この闇の奥にどれだけの混乱と非情と暴力があるのだろう、って震撼するのとリンクしているようで、ロックンロールスターの物語と同じようなかんじで、そこはよいのか。でもこれ、Caravaggioのお話し、っていうのが認識されていなかったらどうなのだろうか、とか。

歴史上の人物 - でも英雄でも暴君でもなく、遺されているのは圧倒される絵画いくつか、そういう人物とその作品から背景の歴史の書割を取っ払って、痴情沙汰とか成りあがりとか闇取引とか怪しげな、でもいかにもありそうな挙動とかうす汚れた歪んだ表情のなかに浮かびあがらせる。これって芸術作品の堂々たる普遍性の反対側にある一回きりの、死んだらそれまでよの刹那の中間にあって、Derek JarmanはCaravaggioの絵画にある静謐さと野蛮の共存の向こう側にそれを見たのではないか。

絵を描いているときのCaravaggioは対象のモデルを見つめつつ、そのモデルが模している神話上のあれこれとどう関わろうとしていたのか、というのと、この映画でDerek Jarmanが現代の俳優と撮影技術、アイテムを使って再構築しようとした16世紀のCaravaggio - ローマのありようは対照をなしているような。つまりこれは現代の物語 - 86年当時のアートはどこに? - ではないのか。 こんなふうなアートに向かう態度が90年代のブリットではどう変容していったのか - この辺があの動きの下地としてあったような気がするのだが - 考え中。

Lol CoxhillとかSimon Fisher Turnerも出てくるのね。


さて、在宅勤務が始まって1週間くらい経って、もういやだ飽きた。
住んでいるところってさー、仕事がやだやだって泣きながら逃げこんだ先 - 映画館とかライブハウスとか美術館とか本屋とかレコ屋とかから拾いあげたり掬いあげたりして持ち帰ったアンチ仕事グッズが山ほど積んである場所で、広いおうちならそこからquarantineされた別の場所を設けるのだろうけどそんなのないし、そうすると仕事も現世もくそくらえのモノたちに囲まれて仕事することになって、ムリなのよ。 電話会議とかしててつまんないからちょっとよそ見して、おやこの山は?  とか、この箱って? とか掘り始めると止まらなくなって、そうすると向こうのほうで「もしもしー?」とかやってたり。

そういうわけなので、外にでないと頭がおかしくなる気がして、ロックダウンとは言っても必要最小限(basic necessities)の買い物のために外出するのは許されているので、外には出て、歩けるところまで歩いたり。 まだ風は冷たいけど年に数回あるか、っていうくらいのほんとにすばらしい陽気なのがくやしい。 ぽつぽつ外を出歩いている人達はいて、でも歩道で向かい合うとまだ遠くなのにどっちも譲って距離をとる。
スーパーは先週のような棚がらーんの物不足は解消に向かっているかんじ、ないものは変わらずないけど、なんとかなるじゃろ、な空気になってきている。

先週まで本屋もいくつかは開いていたのだが、もうみんなクローズしてしまった。本て、生活必需品じゃないんだって、さ。

3.23.2020

[film] Cunningham (2019)

15日、日曜日の昼間、CurzonのMayfairで見ました。

ここの週末昼間はもともと、ぜんぜん人がいなかったのだが、この回、ついに自分ひとりになってしまった。シネコンの小さな部屋ならともかく、ここは由緒あるシアターでスクリーンもでっかいところなのでだいじょうぶかしら? って。

2Dと3Dの上映があって、3Dの上映は遠くに出かけるか4月迄待つかしかなかったので、2Dで見る。ダンスシーンは 3Dで撮っているようだったので、3Dで見た方がよいのかも。

Merce Cunningham (1919 – 2009)のダンスのドキュメンタリー。Merce Cunninghamというダンサー/コレオグラファーの軌跡を追ったもの、というより、Cunninghamのダンスがどのような発想・着想の元で作られ、John Cage, Robert Rauschenberg, Andy Warhol, Jasper Johnsといった同時代のアーティスト達とどう協業し、独自の発展を遂げていったのかを、現代のダンサーによるパフォーマンスを絡めつつ紹介していく(演目の紹介は70年代頃 - Cageとのコラボが終わり、カンパニーの初期メンバーがいなくなる頃まで)。

音楽とかリズムとかテーマとか神話とか、コンテキストから自由になったところ - ボディいっちょうでダンスはどんなふうにあることができるのか、そういうところから可能な限り自由であろうとしたとき、ダンスは、ボディーはどんな動きをしてみせるのか、という問い。 これが音楽の領域で、絵画の領域で、同じような - これはどうしてこんなふうになきゃいけないのか?・なくていいとなったときどうなるのか? - という意識を抱えたアメリカン・モダン・アートの連中の間で炸裂したとき、例えば身体はこんな変てこな動きを見せる。それは虫のように動物のように奇怪で自在で、それが複数名の組み合わせで組み上がって更に絡まってわけわかんなくなったとき、しょうがないからそれをダンスって呼ぶけど、ものすごく変なやつだと思う。 

そして見れば見るほどわけわからず、名付けようないその特徴ゆえに、彼のダンスは好きだった。タイトルがあるから、そのタイトル周辺の意味にちかいところで踊っているはずなのにちっともそうは見えないし、音楽からはどんどん遠くに行っちゃうみたいだし、気がつけばダンスってなんだろ? ていうところに羊はおいこまれていくの。

2年くらい前に、古本で彼の”Changes: Notes on Choreography” (1968) - 最近再発された? - っていう本を手にいれて、それをめくるとものすごく精緻な楽譜のように書かれたインストラクションがびっちりで、ここまで細かいのかー、ってびっくりするのだが、身体の動きとその変化を譜に落とすっていうのはこういうことなのか、って。 で、その先に実際の動きの速さと鋭さ、更に優美さがあることに感動するわけだが、この映画はその体験を改めて眼球の裏から掻き出してくれる。おもしろいったら。

彼のダンスは90年代〜00年代になるにつれてどんどん抽象化されてわけわかんなくなっていく感があったのだが、上演会で50年代、60年代のピースが上演されるとなんかほっとしたことを思い出したり。
最後に見たのはBAMで、2003年の”Split Sides” (2003)だったなー。RadioheadとSigur Rósがライブで伴奏したんだよ。ものすごくよい意味でアングラ臭かった。

Cunninghamが独立する前に所属していたMartha Grahamのとこのこういうドキュメンタリー映画があったら見たい。これもおもしろいものになるはず。

今日(23日, 月曜日)のロンドンはさらに厳しくなって、朝から必要ないのに外に出る人はセルフィッシュだ、って政府のひとが厳しく市民を糾弾してて、晩に入るとボリスが更に外出の条件を狭めてて、気付いてみればロックダウン、なのだった。 はいはい。

[film] Toni Morrison: The Pieces I Am (2019)

平日のスーパーは22:00閉店を20:00時閉店に短縮して営業しているのだが、金曜日の18:00くらいに行っても見事になーんもなかった。BBCでナースの方が泣いている映像が繰り返し流されていて、仕事でへとへとになって帰りのスーパーがあれだとそうなるよね(これを受けて高齢者とかNHSで働く人達向けには特別対応がされている。まだ課題はあるみたいだが)。 土曜日の朝、近所のFarmers Marketは開いていて、でも係員の人が並ぶ場合でも距離を取るように指導していた。 やはり卵屋、鶏屋の前には長い行列ができてブツがどんどんなくなっていく。戦時中の配給とかこんなふうだったのかなあ。

土曜日の午後、Kensington Gardenにお散歩に行ったら、割とふつうの週末だった。犬とか飼っていると出ないわけにはいかないのだろうし。 ニュースを見ていると外には出歩かないように、という指示と篭ってばかりいないで少しは外の空気に触れたほうがいい、という勧め(?)が混在していて、どういうことかしら? と思っていたら今日になってガイドラインのようなものが出て、外に出る場合は他者との間隔を2mは空けるように(Social Distancing)、とか、人が群れているところにいかないように、とか、あとこれこれの持病をもつ人は絶対外出不可、とのこと。あと(日曜日は)母の日だけど、ママには会いに行っちゃだめ、って。 わかったよ。

でも日曜日はほんとうによい天気で、桜も咲き始めたので割と外にひとはいた。
公園では、今日(日曜)の午後に交通制限とかはじめたみたい。


14日、土曜日の晩、Curzon Bloomsburyのドキュメンタリーの小屋で見ました。
数週間前の監督とのQ&Aがあった回は全く取れず、この回もほぼ埋まっていた。

昨年8月、88歳で亡くなったToni Morrisonのドキュメンタリー。
既に死を意識していたのかどうか、本人がカメラの前に向かって静かに語っていく映像と、Ohioに生まれた時から家族のこと、等をアーカイブなどを使って紹介していく映像と、アカデミックの見地 - アフリカン・アメリカン文学史の観点から彼女の成し遂げてきたことを解説するコロンビア大学のFarah Griffinさんのガイドを中心に、スピリチュアルな角度から詩人のSonia Sanchezさん、コメントを述べていくのが、Angela Davis、Hilton Als、Russell Banks 、Random Houseでの同僚だったRobert Gottlieb、Oprah Winfrey、Fran Lebowitz、などなど。

作品として深く掘り下げられていくのが”The Bluest Eye” (1970), “Sula” (1973), “Beloved” (1987)、あとは彼女が編集に携わったアンソロジー”The Black Book” (1974)。それまでホワイトピープル(特に男性)の目線をフィルターして語られてきたアフリカン・アメリカンのキャラクターや物語の造形を、その縛りから解き放ち、登場人物個々の時間や痛みを見つめ、それを普遍的な形で遍在させる、それがどれだけアフリカン・アメリカンカルチャー、ブラックカルチャー、フェミズムの下地作りに貢献したか、そこからノーベル文学賞にまで至る大きな物語と、シングルマザーとして2人の子供を育てつつ編集者として働き、大学で教え、小説を書くというパーソナルヒストリーと上記のコメンテーターがそれぞれの立場から語るToni Morrisonと、いろんなPiecesがある - The Pieces I Am。

見ていて感じるのはPiecesのでっかい塊りとしか言いようのない圧倒的なポジティビティで、それも力こぶを入れた浪花節調のではなく、正面から堂々と淡々と受けとめて揺るがない強さ。 それがなんでそう感じられるのか、アフリカン・アメリカンの(田舎の、昔の、奴隷制の)物語なんて縁もゆかりもないもないはずの現代の日本人にどうしてああも生々しく届いて、わかってしまうのか、その驚異、その謎はやっぱりわからないのだが、例えばAretha Franklinのドキュメンタリーフィルム - ”Amazing Grace” (2018) を見るとこれと同様の感覚が襲ってくる。 自国外の映画を見たり絵画を見たり音楽を聴いたりする、それを止めることができない理由はこの辺にあるのだな、って改めて。

とにかくカメラ(の向こうの我々)を見据えて、ゆっくりと語る彼女の姿と言葉だけですごいの。
最後の言葉のあと、思わずぱちぱちしていた人がいたけど、それがよくわかるくらい、ああ、って。

コメントでは、”Beloved”を読んで興奮してToniの自宅に電話をしてしまった(どうやって電話番号を調べたか、映画みたいに痛快な)Oprah Winfreyさんと、なに喋っても落語のようにおもしろいFran Lebowitzさんが最高で。

彼女の小説を読んだことがなくてもだいじょうぶだし、読んだことがある人はぜったい再読したくなるのだが、翻訳本、日本に置いてきちゃったなー。

3.20.2020

[film] We Need to Talk About Kevin (2011)

13日、金曜日の晩の2本め、Tilda特集も2本めで、上映後にTildaさんと監督Lynne RamsayさんのQ&Aがある。

“Peter Ibbetson” (1935)が溜息連続のすばらしいクラシックだったので、これに続けて胃が痛くなりそうなサイコドラマを見るべきかどうか、少し迷ったのだが、この作品はいろいろなところで参照されたりするし、こういう機会でもなければこれからも見ないままかもしれないし、と見ることにした。

そう、この映画が公開された頃、評判がよいのはわかっていたのだが、なんかおっかなそうだったので見ないままになっていたのだった。

トラベルライターのEva (Tilda Swinton)とFranklin (John C. Reilly)が出会って結婚してKevinが生まれて、なぜか母親に敵意むきだしでくるので育児に苦労して擦り減っていくEvaの苦しみと、刑務所にいるらしいKevin (Ezra Miller)とEvaの面会を交互に、時系列をとっぱらって行き来しつつ、最後に何が起こったのかが明らかにされる。 でも何が起こったのかは明らかにされるけど、なぜ彼がそれをやったのか、Kevinは何が気にくわなかったのか、は最後まで誰にもわからない – だから”We Need to Talk About Kevin”、なの。

モンスターなんとか、なんて言うまでもなく育児という未知の動物との遭遇と格闘、説明不能なその恐怖がじわじわやってくる – Ezra Millerになる前のYoung Kevin (Jasper Newell)の不気味な「んにゃんにゃにゃにゃ」のよくわからないおぞましさときたら。

そしておそろしいのはKevin - Kevinだけではない。行き場を失った彼の憎悪がEvaに伝染・浸食していくかのようなショットと事件の後抜け殻になってしまったEvaの – “We Need to Talk About Eva” もあるはず。

冒頭のトマト祭りのトマト汁からEvaの家に投げつけられるペンキとかEvaの部屋に撒き散らされるペンキとかKevinの糞とか、飛んでくる/吹っ掛けられる飛沫のなぜ?という理不尽とその後始末のうんざりが始まりと終わりのスプリンクラーのふりかけできれいに清められる。 これらはばさー、って土砂降りのように均等に降りかかり、そんななか、Kevinは一点だけを狙う弓矢を手にする。

上映後のQ&Aはいろんな話が出たのだが、まずTildaさんは、Lionel Shriverによる原作を読んでいないのだったら是非読んでほしい、ブッシュ時代のアメリカを描いた傑作だと思うから、と。

時系列無視で過去と現在を行き来する構成は始めからスクリプトに書いてあったのか、という問いについては、書いていない、どこからどこの時期に飛ばしてどう繋ぐのかは全体の流れを見ながら決めていったが集中力のいるとてもしんどい作業だった、と。

Tildaさんが(今の上映はLynneと食事していたので見れなかったけど)是非もう一度見て、今Evaがどう見えるのか、自分はどう思うのか、そしてあなたはどう思ったのか、それはなぜなのか、について知りたいのだ、と。キャラクター作り、というのをあまり信じていないらしいことを”Conversation”の際にも言っていたが、そうやって映画のキャラクターはどこまでも生きていくのだと思った。

いま、BBC ONEで”Man Up” (2015)をやってる。だいすきなのこれ。

[film] Peter Ibbetson (1935)

13日、金曜日の晩、BFIのTilda Swinton特集で見ました。これはTildaさんが出演している作品ではなくて、これまでの彼女が出てくるイベントとはちょっと違った。

シアターに入るとTildaさんと相方のMark Cousinsさんがステージの端にちょこんと座り足をぶらぶらさせて仲良く話をしたりしている。でも誰も近寄れないかんじ。神々しくて。

時間が来ると、ふたりが立ちあがって”The State of Cinema”と大書きされた横断幕を広げて、更にステージ前方にいた人たちが立ち上がり手書きのパネルを手にしてこちら向かってアピールする。パネルには映画監督の名前 – “Akerman”とか”Ida Lupino”とか”Ozu”とか”Bresson”とか”Jarman”とかあって(自分のいた席から確認できたのはそれくらい、もっとあった)、それが終わると暗くなったステージ上でぴかぴか光るライトを手にTildaとMarkが”Tainted Love”の誰かのカバーでダンスするの。で、一連のパフォーマンスが終わると(結構長く激しく踊っていたのにちょっとしか息切れしてないのすごい)TildaとMarkのトークが始まる。

ふたりは2008年からスコットランドの田舎でBallerina Ballroom Cinema of DreamsていうFilm Festivalをやっていて、このBallroomはかつてWhoやPink Floydもライブをした素敵なところらしいのだが、そこを8 ½日間借り切って食事もみんなで持ち寄ったりの手作り上映会をしたのだと。横断幕はその際にも掲げられたもので、この”The State of Cinema”については、2006年、Tildaさん自身がSan Francisco International Film Festivalでスピーチした内容がここにある。

https://www.awardsdaily.com/2014/04/16/tilda-swinton-on-the-state-of-cinema-2006/

映画人として、今の映画産業のありようや将来を踏まえ、それでも人は、子供たちはなぜ映画を必要とするのかを自分の見てきた映画、これから見たい/見られるべき映画について、自身の使命も含めて包括的に語っている。彼女がなぜ俳優として映画界から求められるのか、なんでこの人がこんなにかっこよくて慕われるのか、これを読むとわかる。

そういう話を一通りした後で、これから上映する2本については、どちらも本当に大好きな映画なので、ここで紹介できるのが嬉しくてたまらない、と。”Peter Ibbetson”は昔パリで見て打ちのめされた(brown away)。監督のHenry Hathawayは西部劇を主に撮って“True Grit” (1969) の最初のやつが有名だけど、これはとにかくすばらしいので気に入ってもらえたら嬉しい、って自分も客席に座る。(ふつうこういう映画の紹介とかって、紹介したら会場から立ち去る人が多いけど、彼女はほぼすべて、自分が紹介した後に席に座ってみんなと一緒に見るの。すごいよね)

あと、今回彼女の相手をしたMark Cousinsさんはドキュメンタリー映画作家でもあって、彼の”The Eyes of Orson Welles” (2018)は見ていたし、間もなく公開される”Women Make Film: A New Road Movie Through Cinema”は予告見たけど必見だとおもう(Tildaさんも参加している)。

A Portrait of Ga (1952)

スコットランドのオークニー諸島のおばあさんの佇まいをおさめた5分の短編。おばあさんは監督のMargaret Taitのお母さんで、聞こえてくる素朴な笛の音も含めてほっこりしかない。あの地域って、いつもお天気予報みるとひどそうなのだけど、一度行ってみたい。

Peter Ibbetson (1935)

原作はフランスのGeorge du Maurierの同名小説(1891)。邦題は『永遠に愛せよ』。

Tildaの登場を待っている時、隣に座ったおじいさんから、君はこの映画を見たことがあるか? と聞かれて、いえ、ありません、と返すと、わたしは40年ぶりなんだよ、本当に楽しみで… と言う。かっこいいなー、いつかこんなことを言ってみたい。 

パリの郊外のおうちに暮らす少年Gogo(ごーごー)は隣に住むMimseyと喧嘩ばっかりしているのだが本当は仲良しで愛おしいと思ってて、でもGogoのママが亡くなると彼はおじさんに連れられてイギリスに渡ることになって、ふたりは悲しいお別れをするの。

時は流れて、イギリスで母の旧姓を名乗りPeter Ibbetson (Gary Cooper)となったGogoはばりばり働く建築家で、ヨークシャーのDuke of Towersの邸宅の改築を任されて図面をひいていると施主の奥方のMary (Ann Harding)がいちいち突っこんできて、なんだこのやろうは、って思う。でも互いになにかが引っ掛かってくるのでやりとりしていると、やがて恋に落ちて、ふたりはあのGogoとあのMimseyであることを知って更に盛りあがるのだが、嫉妬に狂った彼女の夫は銃を持ちだしてきて..

Peterは終身刑になって更に牢獄で寝たきりになり、Maryはどこまでもふたりの愛を信じて..
ここから先は書きませんけど、「本当に愛し合っているふたりは」のテーマを見事に映像化したすばらしく切ないファンタジーが展開される。悲しくはなくて、よかったねえ(泣くけど)、なの。

こんな美しい作品があることを教えてくれたTildaさんには感謝以上のなにがあろうか。
隣のおじいさんとは上映後、目を合わせて「その通りでした」 - 「ほらね」ってやった。

3.19.2020

[log] New York, March 2020

6日から8日までNew Yorkに行っていたのでその時のart関係のを中心に少しだけ。

ほんの10日程前のことなのにとても遠い昔のことのようで、でもこんなふうにして思いだしたことも、いつかどこかで別の昔話となってくれますように、と祈りながら書いていこう。

ところでロンドンは今日 - 19日くらいからほぼ閉鎖モードに入って、もう外には出ないように、になってきている。週初めに政府が方針をがらりと変えて、それはそれなりの調査やデータに基づいたものだったのだろうから従うけど、昨日は閉まる直前のNational GalleryでTitian(ティツィアーノ)を見たりしていた。そういうのもこれで終わり。
自分だけは大丈夫なんて思っていないし自分の動きが見えないところで事態を悪化させてしまう可能性もある、ウィルスとはそういうもので、そういうところまで来てしまったのだなと。

でも買いだめできるほどの冷蔵庫もスペースもないので、スーパーには行かざるを得なくて、朝7:30に開く近所のスーパー - Waitroseに行ってみる。朝いちだとトイレットペーパーも少しはあって、卵もあって、でもすぐなくなった。パスタはずーっとない。トマト缶は数個だけ。
水曜日の朝は20人くらいだったけど、今日 - 木曜日は更に増えて結構な列ができていた。でも誰も走らないしひとり一個は当然だし、落ち着いている。 というのが本日時点の現場でございます。

さて、6日の金曜日はお昼くらいにJFKに着地して、こういう状態なので入国できるかしら? 数年前にイランに入国歴があって1週間前はロシアにいて1か月前は日本にいたのよ。でも通してくれた。これが1週間後だったら...  入国の列で5時間、とか言われたら泣いちゃうわ。

Madame d’Ora

Neue Galerieの土日はなぜか行列になるので金曜日、着いてすぐに向かった。雨が降り始める。
ウィーンで最初の女性写真家 - Madame d’OraことDora Kallmus (1881–1963)の、米国では最大規模となるレトロスペクティブ。

06年にスタジオを開いてウィーン王家の写真家となり、20年代のパリでデザイナーやアーティストやダンサーの写真を撮りまくって、被写体もドレスもポーズも笑顔もみんな素敵なので写真も素敵で、Maurice ChevalierもCecil BeatonもColetteも、猫を掲げるFoujitaも、カメラの前ではどんなだったのかなあ、って。Alban Berg、Alma Mahler、Anna May Wong、Josephine Bakerたちのかっこいい写真。ファッション写真として撮られたJeanne Lanvinのドレスは実物が展示されていた。
他方で結構生々しい屠殺場の写真とか。その辺、オーストリア人、なのかしら。

そこを出て、あまり雨に濡れたくなかったので5th Aveをバスで下ってThe Morgan Library & Museumに行くことにしたのだが、雨のときのマンハッタンのバスがどんなふうになるか(まったく進まない。ひどい)思いだせて懐かしかった。
バスで隣に座ったおじさんにここのバスっていつもこんなにひどいのか? って聞かれて、はい。雨だとほんとにひどいのよ、って返す。ツーリストだけど。

Alfred Jarry: The Carnival of Being

アルフレッド・ジャリは大好きで、バンドのPere Ubuを好きになったのも彼経由だし、批評家で劇作家で作家で落書きみたいな変な絵もいっぱい描くし、今だったらきっとぜったいZineとかやっていそう。展示はいろんなのがあって、本人の楽しい落書きに加えてPierre Bonnardが表紙を描いているLa Revue Blanche誌、とかOctave UzanneのL'Art et l'Idée誌に載ったFélix Vallottonによる Paul Verlaineとか。 Paul Gauguin, Bonnard, Max Ernst, Picasso, MiroからWilliam Kentridgeまで。Dora Maarの”Père Ubu” (1936)ももちろん。いくら見ていてもあきないの。

Jean-Jacques Lequeu: Visionary Architect. Drawings from the Bibliothèque nationale de France

これは昨年の2月にPetit Plaisで見た展示 - ”Jean Jacques Lequeu (1757-1826)  Builder of Fantasy”の縮小版だった。この展示はびっくりするくらいすばらしかったのだが、あそこに展示されていた細密変てこエロ画たちがちょっとしかなかったのが残念だった。

The Drawings of Al Taylor

彫刻家だと思っていたのだが最初は絵画から入った人だったのか。空間を斜め奥の微妙なところまでぬるぬる入っていく太い線とか紐とか。フレームから戻ったときにやってくる目眩のような感覚がたまらない。 宙に浮く魚のぶつ切りとか、すごいねえ。

そこからはお買い物で、Strandに行って、Academy Recordsに行って、Mast Booksに行った。でもぜんぶ歩いたのでびしょびしょになった。

7日は、天気がよくなって朝ごはんの後で、11th AveのPrinted Matter, Inc. に行った。移転してからは初めて行ったかも。周りはがらんとしているのに中は結構混み合っていて、Zineて盛りあがっているいるんだねえ、と改めて。 昨年出版されたKathy Acker (1971-1975)が欲しくて、まだ2冊残っていた。為替のせいか、ものすごく高くてびっくり。

”West Side Story”の後で西側をまわってMetropolitan Museum of Artで少しだけ。入れ替え期なのか殆どなくて、でも開館150周年で新装された”The New British Galleries”をみる。 どれどれ、って。

ぴっかぴかで、17世紀のお屋敷の階段のめちゃくちゃ細かい木彫りが再構成されていたり、アメリカ人の憧れるBritishイメージがびしっとてんこ盛りで、でもちょっと綺麗で豪華すぎないかしら。 ずっとアメリカにいたら騙されるかもしれないけど、3年も暮らして地方のお城とか見てきていると、アメリカに対するのとはぜんぜん違う目線角度だけど、Britishってさあ..  ということを考えてしまったり。

In Pursuit of Fashion: The Sandy Schreier Collection

これもMET150周年記念展示で、コレクターSandy Schreierの収集品を纏めたもの。目がもう死んでいたので細かいキャプションは見ず、布の肌理とか切れ目と重なりばかり見ていて、見れば見るほどうっとりする。20世紀初めの頃の服って見ているだけでなんであんなにうっとり幸せになってしまうのか、でも服ってそもそもそういうもんなんだよねえ、って。

METを出て、もう夕方近かったが地下鉄で移転したICP (International Center of Photography)に向かう。ミッドタウンの43rdからBoweryに、そして今回のEssexに、放浪するICP。
地下鉄のDelancey Stで降りてすぐ、Essexの角にはでっかいぴかぴかのモールが出来ていて変わったんだねえ、って。 20年前には決して立ち寄ってはいけません区域だったのにねえ。

一部住居用のビルで、行った時はアラームのテストだか誤作動だかで頭が痛くなるくらいに警報が鳴り響いていた。

CONTACT HIGH: A Visual History of Hip-Hop

Hip-Hopのアーティストのいろんなプロモーション等で使われたイメージを集めたもの。同様の写真としてはRock’n RollとかPunkのとかよりぜんぜんおもしろいしかっこいいと思うんだけど。絵になる(写真になる、か)ってこういうのを言うのよね、って。

The Lower East Side - Selections from the ICP Collection

移転記念で、Lower Eastの昔を撮った写真を、Weegeeのクラシックから知らない人まで。
この地域を撮った昔の映画も大好きなのだが、なんだろうねえこの湧きあがる親しみやすさ懐かしさ。日本だと浅草とか大阪の下町の、みんな口では大好き、とか言うくせに平気でぶっ壊してきて開発してきた街の面影。もう残っていないからそんなこと言えるのかしら。

戻りは8日の晩、19:30に発つ飛行機で、ヒースローには月曜日朝の6:00くらいに着地して、地下鉄でおうちに戻って着替えて会社にいく … 予定だったのだがこの朝、ドイツへの出張が入っていたので、シャワー浴びてパッキングして慌ててまたヒースローに向かう、というばかなことをやった。 ヒースローで着替えてそのまま行けば..  と思わないでもなかったが、荷物は本でいっぱいで重くて無理だったの。 もうにどとやりません(棒)。

3.18.2020

[film] The Garden (1990)

12日、木曜日の晩、BFIのTilda Swinton特集で見ました。
(コロナのせいで彼女との逢瀬は16日のが最後になってしまった..)

事前の告知には“Introduced by Tilda Swinton and additional collaborators of Derek Jarman”とあって、そのひとりがSimon Fisher-Turner さんであることを前日の”The Seasons in Quincy… ”のトークで彼女が告げていたので、Simon Fisher-Turnerを見れるなら、と売り切れになっていたやつに割りこんで取った(念じれば取れる)。

時間が来て、紹介されて壇上にあがったのはTildaの他にSandy Powell(衣装), Annie Symons(衣装), Simon Fisher-Turner(音楽), Seamus McGarvey(撮影)、といった面々で、どこをどうしても堅気にみえない愚連隊みたいなおじさんおばさんたちで、あたしたちJarman’s Kindegartenにいたのよ! ってTildaさんは誇らしげに愛おしげに紹介していた。

今回彼らが集まったのはスクリーン上に投影されていたJarmanの庭 – Prospect Cottageへの寄付を、というメッセージをアピールするためで、”The Garden”の撮影が行われたこの場所とコテージは文化遺産として保存されるべきで、なぜかって – と、ってこの場所で制作活動をしていた頃のことをみんなで振り返って語っていく。Jermanは特にこうすべし、ということを強くは示さずにそこらで寝ているスタッフにも意見を聞いたり取り入れたりして、本当に楽しく啓発される現場だった、と。こないだのConversationの際にも言っていたが、この場所は我々にとってのでっかいToolboxのようなものだった、と。

興味があるひとは ↓ から寄付してね! と。(できれば現地に行ってみたいところ)
https://www.artfund.org/get-involved/art-happens/prospect-cottage

本編の前に短編として”Aria” (1987)からDerek Jarmanが担当したパート"Depuis le jour" – Gustave Charpentierの”Louise”より - が流れる。これ、日本で公開されたときに見たけどまったく憶えていなかった。

続いての”The Garden”はロンドンに来てからも1度見ていて、個々のイメージ – Madonna (Tilda Swinton)とか聖職者とか乞食とかグラスを擦って鳴らすおばさんとかやくざとかLGBTIQ的ななにかとか、それらが(時間や歴史は括弧で括っておいて)”The Garden”としか言いようのない平面上でわあわあ電子っぽく繰り広げる絵巻物。 当時は彼が沢山制作していたMusic Videoの延長のように見ていたかも。上の”Aria”の短編もそうだけど、夢を映像化してみる、かのような果てのない作業。

こういうの、当時のVideoの技術が可能にした何かだったのかも。いまのデジタルのデスクトップ上でぜんぶ賄えてしまうような創作環境だったら、Tilda達が寄り集まるようなことってあっただろうか? これって規模のでっかい映画制作とも違うVideoカメラの機動性とあの粒度だから可能になったなにかではないのかなあ、って。

この辺がDerek Jarmanの作品を見る時に気になるところで、ふだんBFIで見ているような「映画」とは違う気がして、だからといって見ないかというと、見るの。美しい瞬間はいっぱいあって、それが持続したり消滅したり、回転するその瞬きを見せてくれて、それって4Kとか8Kとかとはきっと無縁の何かではないだろうか。

いまDerek Jarman作品で見たいのは、今回はかからなかったけど、”Wittgenstein” (1993)と”Blue” (1993)なんだよなー。

[film] Misbehaviour (2020)

Tildaさんネタはまだ続くのだが、他のも少し書いていこう。

14日、土曜日の昼間、CurzonのMayfairで見ました。公開直後なのに5人くらいしか入っていない。おもしろいのになー。

1970年、ロンドンでのミス・ワールドコンペティションの本番の会場で起こった感動のくそったれ実話の映画化。

はじめは子連れのSally (Keira Knightley)がUniversity of Londonの歴史のクラスに編入するために面接を受けてそのやらしい男共目線にうんざりして、街角で落書き抗議をしているJo (Jessie Buckley)たちと出会うとこから。

ミス・ワールドは51年から英国でEric Morley (Rhys Ifans)が始めたやつで、水着の着用とかはその頃からあって、最終選考をホストのBob Hope(Greg Kinnear)はその優勝者をベトナムの前線の慰問に連れていったり西海岸で囲ったりそれなりの栄誉が与えられるのだが、SallyもJoもそんなのくそくらえ、って思っている。

ミス・ワールドも社会のいろんな圧を受けて初めてアフリカ系から参加者を加えることになり、こうしてコンペティションに参加することになったグラナダのJennifer Hosten (Gugu Mbatha-Raw)とか、アフリカ・サウス – アパルトヘイトが非難を浴びていた南アフリカはサウス・アフリカから白人候補を、アフリカ・サウスからアフリカ系候補を送ったり –の候補とか、そんなのなんだかとってもあほらし、って思っているミス・スウェーデンとか内側にもいろいろある。

お話はロンドンのフラットの一室でWomen's Liberation Movementを組織してこんなコンペティションをぶっ潰したろうぜって企むSallyやJoたちの活動と、本番に向けてリハーサルや準備に楽しそうな上流貴族の主催者側と、はしゃぎつつもこんなことまでやらされるんだ、ってやや戸惑っている候補者たちを巡りながら、コンペティション当日を迎える。

ネタもくそもない史実なのでいうと、会場内に潜入したSallyやJoたちの抗議活動は成功してセレモニーは一時騒然、中断になって、でも結局コンペティションはー。

基本は男が勝手に考えて妄想するあれこれの結晶としてのコンペティションに女性たちがおええぇって怒りつつそれが当日に首尾よく爆発するSallyとJoのしてやったりーのお話なので、爽快だし群像コメディとしてもおもしろいし。とにかく壇上のBob Hopeにひとり突進して水鉄砲を構えるKeira Knightleyのかっこよさに痺れるの。

それにしても見ているとコンペティションて本当にアホらしくてうええ、ばっかりなのだが、でもまだ70年くらい世界中で続いているままなんだよねこれ。 これだけ続いているんだから.. は正当化の理由になんてならないんだけどね。

おとつい月曜日の晩にBBC Twoで”Miss World 1970: Beauty Queens and Bedlam”っていうドキュメンタリー番組をやっていて、当時の実際の映像を流しながらSallyやJoたち本人が証言をしていておもしろかった。会場はRoyal Albert Hallだったのね。(映画ではPiccadillyのあたりになっていた)
日本でも公開されるなら(ぜったいされなきゃだめこれ)、このドキュメンタリーもおまけで流してほしいな。

Keira Knightleyさんはこないだの”Official Secrets” (2019)でも、正義のために愛する家族をふっきって牢屋に入っていく役だったのだが、ここのところすばらしいねえ。

あと、Women's Liberation Movementの面々も英国のマイナー映画にちょこちょこ出ている印象的な人たちばかりでとても好感がもてた。Jo役のJessie Buckleyさんは”Judy”のロンドンでのマネージャーだった彼女ね。あと、Bob Hopeの奥さん役で出てくるLesley Manville – なんとなくミヤコ蝶々っぽいの。

3.17.2020

[film] The Seasons in Quincy: Four Portraits of John Berger (2016)

11日、水曜日の晩、BFIのTilda Swinton特集で見ました。
これも2017年に(確かDVD化された際に)Curzon SOHOで見ているのだが、今回また見たくなった。本当に美しい映画だから。
そしてなんの告知もされていなかったのに、やっぱりTildaは現れる。どこまでかっこいいんだ。

そもそもはColin MacCabeとTildaが80年代の終わりから90年代初にかけて行ったDerek Jarmanにいろんなことを聞いて纏める作業が充実していたので、これをJohn Bergerにもやったらおもしろいのでは、って92年頃から数年間に渡り彼の住むフランスのQuincyに通って集中的な対話と撮影をしていったのを、Colin MacCabeがいたUniversity of Pittsburghと彼が立ち上げたThe Derek Jarman Labが纏めて編集したもの。

全体は四季を通して4つのエピソードから成っていて、今回上映されたのは最初の冬 - ”Way of Listening”と最後の晩秋 - ”Harvest”のふたつ。前者はColin MacCabeが監督して、後者はTilda Swintonが監督している。”Way of Listening”はJohnの元を訪れたTildaがリンゴの皮を剥いたりしながらいろんな話をしたり、JohnがTildaの肖像をスケッチしたり、それくらい。

ふたりは誕生日が同じ(11月5日) – たまたま同じ駅で降りた旅人のようなもの – で、どちらも軍人を父に、そしてどちらも戦場で起こったことを決して口にしないような人で、そんなふたりが絵を描くこととか記憶とかリンゴの皮の剥き方とか、とりとめない、ようでなにげに世界の本質を貫いている気がするやりとりを繰り広げていく。インタビューのようにどちらが主であるとか、終着点とか引き出すなにかがあるわけではない、どこまでも分岐して反射してアイデアがアイデアを生んで転がって止まらなくなっていく対話。 暖かいランプの光に浮かびあがるJohnの彫りの深い顔、切り返してそれを見つめるTildaのまっすぐ(としか言いようがない)真摯な顔。

タイトルは勿論Bergerの著書”Way of Seeing” – 邦訳『イメージ――視覚とメディア』 - にひっかけたものだが、”.. Seeing”よりも少し漠とした手探りの、互いの語ることに耳を傾けることで広がったり繋がったりしていく世界、絵を描く・描かれる関係にも似た - そうやって暗がりから生成されていく世界の驚異がそのまま映像になっているかんじ。 上映後のQ&Aで客席から、この映画のペースがすばらしくよかったんですけど、というコメントがあったように、ここで流れている時間の緩やかさ、豊かさってなんなのだろう、と。

続いてのHarvestは晩秋で、”Way of Seeing”からここまでの間にJohnは長く連れ添った妻を亡くしていて、登場人物はTildaの息子と娘 – “Will We Wake” (1998)の時は赤子だったふたりが小学生?中学生?くらいになったのと、Johnの息子さん(もう大人)とのやり取りや一緒に創作する姿が中心で、移ろっていくのは季節だけではなくて次の世代もなんだなー、って。

エンディングでJohnがTildaの娘のHonorにバイクの乗り方を教えてあげよう、って彼女を荷台に乗っけてさーっと走り去ってしまうところが映画みたいでかっこいいの。映画なんだけど。

Colin MacCabeって自分にとっては『ジョイスと言語革命』の人(あと、日本の部屋のどこかで積んだままになっている『ゴダール伝』)なのだが、Tildaは彼のことを”one of my professor”と言っていた。

Derek Jarmanから映画のつくり方を学び、John Bergerから世界を呼吸するその作法を学んだTilda、最強としか言いようがないし、上映後、Derek Jarman Labからのふたりと一緒にQ&Aの席に座った彼女は、上に書いたような経緯やエピソードを思い出しつつ喋っていったのだが、その語り口ときたら学者さんというか考える人表現する人のそれで、かっこいいったらなかったの。

あと、Johnは晩年、フランスで農夫として暮らしていた、最後まで作る人であることを止めなかったのだ、と。 そうだよねー、そうありたいよねえ、って。


ところで今日はほんとうに悲しい一日だった。

午前中にBFIからしばらくのあいだ閉めます、とメールが入る。これで今月のやるきをぜんぶ失ってゴミ箱にあたま突っこもうとしたところで、Tateが、Southbankが、Picturehouseが、Institut françaisが、Royal Academyが、Royal Opera Houseが、どいつもこいつもみんな閉めますよ、っていじめのようにメールを落としてくる。(ボリスのやろう..) そして本屋もまた同様に…
逃げ道をすべて断たれていく絶体絶命のネズミみたいだとおもった。
Curzonはまだだ..  と思って今晩のチケットを取ったら19日から閉めると、そしてNational Galleryも..

会社からはおうちで仕事をしろだと。こんな状態で仕事ができるとおもうのか。
お片付け?  そこらじゅうに積んで山脈になっている本をどうしろってんだ? 読んじゃうじゃないか。

そしてスーパーに行ってみればトイペもティッシュもキッチンペーパーもない。卵もパスタもトマト缶もぜーんぜんない。
死ねってーのか(← おそすぎ)

というわけで当面はぐちぐちやけくそモードに突入します。
映画館と美術館とライブハウスと本屋とレコ屋に依存して生きてきた人がどこまでこの状態に耐えられるのか、じっけん。

3.16.2020

[film] Bacurau (2019)

8日、日曜日の昼間、NYのIFC Centerで見ました。いつものように帰る前になんか映画も1本くらい見たいな、て思っていて、適当な軽めのコメディがなくて、これかKelly Reichardtの”First Cow”かで、Kelly Reichardtのはちゃんと腰を据えて見たいかんじだったので、こっちにした。
午後の上映回だとSônia Bragaさんの挨拶とQ&Aもあったようなのだがしょうがないわ。

監督のKleber Mendonça Filhoは、前作の”Aquarius” (2016)がすごくよかったので、今回も(評判よいし)、素敵かも、と思った。そう思っていたのと相当ちがうかんじだったのでびっくりしたけど、そういうとこも含めておもしろかった。昨年のカンヌでは審査員賞を受賞している。
最初は、タイトルをBacalhau - 鱈と間違えていて、鱈をどうする映画なのか? とか。

数年後の近未来のお話。Teresa (Bárbara Colen)は祖母が亡くなったという報を受けて自分の生まれ育った村 – Bacurauに戻って、村の医者らしいDomingas (Sônia Braga)とか家族と再会して、確かに祖母は亡くなってしまったのだが、葬儀のところからなんか様子が変で、それがそもそも変な人達のいる村だからそう見えるのか、変な状況になってしまっている - そういう雰囲気があるからそう見えるのか不明で、とにかくなんとも言えず異様で、そのうち市長選の候補者が来ても誰も相手にしないし、やがてUFOみたいなドローンが現れて村の場所と名前がネットの検索に引っ掛からなくなり、電波も来なくなり、そのうち怪しいバイクの2人組とかが現れて..(あんまり書かない方がいいのか)

メディアとかでの紹介のされ方としては変てこ西部劇、みたいに書かれていて、確かに舞台設定は敵味方がはっきりしている西部劇ぽくて、敵味方は確かにそうなのだが、善悪、のところに来るとなかなか難しいかも。村には歴史博物館があって、それが後の方でそういうことか、とかわかるのだがそれにしてもおそろしいのはどっちの方なのかなあ、って。
この手の抗争って大昔からあったし、「アメリカ」人と「原住民」の戦いもこういうのだったのかも知れないけど、近未来ともなればこういうのを土地ごとなかったこととして「処理」してしまうことも可能そうだし、実際に東方のどっかの国はそうしたくてたまらないみたいなのだが、そういう状況に対するなめんなよおら、として見るのが正しいのではないか。

もういっこ、タランティーノ的な(理にかなった)抗争や復讐の物語から逸脱して、どこに行っちゃうのそこまでやっちゃうの、的な野卑なめちゃくちゃさに溢れているところ、これはブラジル北部だから、とか説明してしまっていいのか、べつにいいかんじがする。気になる登場人物の誰ひとり、どういう人なのかきちんと説明されなくて、だいじょうぶかなあ、どうするのかなあ、とか思っていると素っ裸でショットガンをぶっ放したりしているの。なぜそこで裸なのか? とか。

あと前作の”Aquarius” (2016)にもあった、家はなぜなにがなんでも護られなければならないのか、戦うことになったとしても、というテーマも。

たぶん他に参照可能な映画はいっぱいあるのだろうが、”Bacurau”で検索してもなにも引っかからない、どこにも行けない、そういうところを目指している気がした。


とうとう木曜日から始まる予定だったBFI Flare - LGBTIQ映画祭 - が中止になってしまい、National Galleryの”Artemisia”もリスケとなり、Second Shelfはオンラインのみになり、ボリスはパブとかには行かないように、とか言い出した。文句いってもしょうがないけど、最後まであきらめないで行けるとこ行くから。

[film] Dark Waters (2019)

4日、水曜日の晩、Picturehouse Centralで見ました。ひどい雨で地下鉄の駅に人が溢れて閉鎖され、間に合わなくなるところだった。
Todd Haynesの新作で、2016年にNew York Times Magazine に掲載された"The Lawyer Who Became DuPont's Worst Nightmare"をベースとした実話もの。

90年代の終わり、企業対策弁護士のRobert Bilott (Mark Ruffalo)が法律事務所のパートナーに昇進したところから始まり、West Virginiaの畜産農家のWilbur Tennant (Bill Camp)が大量のVideoを持ちこんできて、Robertのおばあちゃんから紹介されてきた、彼のところの家畜 190頭が変な死に方をしているのにどこの誰も取りあってくれない、と言う。自分は企業側の弁護士なんだけど、って言いつつも気になったので地元に帰って現場を見てみると明らかに牛さんたちの様子がおかしいし、彼に見せられた牛の臓器なんか ..

DuPont 側とは仕事で勿論深い関わりがあるので偉い人に問合せを入れつつ 自分でも調べていく(担当している企業なので資料はいくらでもある)とよくわからない単語とか腑に落ちない点が出てきたので更に掘り進めていくと..

DuPontが自分の会社にとっては顧客企業であること、地元ではここが長年雇用のコアになっているのでそう簡単に潰せるものではないこと、それが環境やヒトを含む動物に本当に有害であるかどうか、因果関係を含めて科学的に立証するのは相当に時間も掛かるし難しいこと、といったことは簡単に思い浮かぶので、これは大変かも、と思っていると映画の時間軸は約20年(つい最近まで)にも及んで、まだ続いているというのだからびっくりするし、これらにほぼひとりで立ち向かい裁判で勝ち続けているRobertには敬意しかない。

自分も00年代初のテフロン訴訟でDuPontが問題になった件はよく覚えているけど、その背後にはこんなどろどろがあったのかー、っていうのと、今も昔も大企業ってやつは .. っていうのは思う。こういうのがある度に規制だの監査だのの仕組みが強化されてそのためにものすごいお金と工数が掛けられて、でもそんなの苦しんだ人たちや家族の痛みに比べたらたかが.. なんだよね。

こういう大企業がもたらす災厄みたいなのって、これから来るに決まっている気候変動の件も含めるとかつての戦争以上にひどいやつだと思うし、格差の件も含めてなんとかしないとねえ。日本は昔のチッソといい今の東電といい、国とムラとが一体になって陰湿に執拗に攻めてくるのであーあ、って更に絶望的になるけど、こんなドラマとして表に出していくしかないのか。

Todd Haynesがこんなに政治的なドラマを、って言うひとは言うのかもしれないけど、わたしは彼のドラマはどんなメロドラマでも – “Carol” (2015)だって - 政治のドラマだと思ってきたので違和感はないし、むしろここまでストレートに出してきたのはすごいな、って。

所謂正義漢的な振る舞いからは遠く、重そうな移動を続けて最後までひたすらしんどそうな顔色のMark Ruffaloの演技、彼の妻のAnne Hathawayも、彼の上司のTim Robbinsも地味だけどよいの。最後の方でAnne HathawayとTim Robbinsが喧嘩するところなんてすごい迫力だし。

あと、今のコロナのもそうだけど、科学的にどう、っていところの解析は勿論大事だし必要だけど、それ以前に苦しんでいる人たちを(だれであろうと)救う、そういうベースができないとだめで、その点でにっぽんはほんとにだめな国になってしまったねえ(と、そこにばかり考えがいってしまう)。

3.14.2020

[talk] Conversation with Tilda Swinton

3日、火曜日の晩、BFIで見て聞いた。今回のTilda Swinton特集のキモ。彼女と一緒にキャリア全体を振り返って存分に語ってもらいましょうの90分。

開始前の会場にはDavid Bowieの”Low”(のA面の終わり)が流れていた。

聞き手はBBCで映画評をやったりBFIで月いちのトーク(いつもSold Outしているのでまだ見たことがない)をやっているMark Kermode氏。彼女の出演作からのクリップを上映しつつそれについてQ&Aしていく形で進められた。

最初は当然彼女のデビュー作であるDerek Jarmanの”Caravaggio” (1986)で、これ以降の彼女のトークでも頻繁にJarmanの名前が出てくることからも、Tildaにとって単に映画だけでなくアート全般、アートを作るという観点でその多くを彼に負っていることは明らかで、特に彼から教わったことについて“service to the sensibility”というものなのだと。アーティストはsensibility(どう訳したらよいのか)に奉仕するものなのだ、って。”Caravaggio”の制作時のエピソードではCanary Wharfのスタジオで撮っていて、周囲の工事のノイズがうるさくて音が入ってしまうのでどうしよう、ってみんな頭を抱えていたら映画のスコアなんてやったこともなかったSimon Fisher Turnerがそのノイズを丸めこむような音楽を作ってきた – そんなふうにみんなが自発的に工夫してやっていて、我々はJarmanの学校(Kindergarten)にいたのだと。

次はこの前の晩に上映された”Orlando” (1992)から、彼女が女性に変わる瞬間のクリップを。
その次が、彼女がオスカー助演女優賞を受賞した”Michael Clayton” (2007)から。George Clooneyとのやり取りのクリップの後、カメラの前に立ったとき何を意識するか?という質問に、全てはフレーム、と即答していた。どこにフレームがあってその間にはなにがあってフレームから近いのか遠いのか寄ってくるのか、そこだけ見て考えている、と。

続いて”We Need to Talk About Kevin” (2011) で、キャラクター作りについて聞かれて、いろんな考え方があると思うけど、と前置きして、アイデンティティってのをあまり信じていないのよね、と。

そこからBong Joon-hoの”Snowpiercer” (2013) - 未見 - での変な役(あれ、サッチャーだって)のシーンが出て(今回、行けなかったけどBong Joon-hoと彼女がこれを紹介する回もあったの)、Bong Joon-hoの聡明さを讃え、そこからこないだ一緒に仕事をしたApichatpong Weerasethakulのことにも話は及んで、とにかくexcitingだった、って。

あと、どんなハリウッドのブロックバスターフィルムの依頼を受けても必ずどこかexperimentalなことをやるようにしているのだ、わかんないかもだけど、って。えらいなー。

最後は映画ではなくPV -  David Bowieの”The Stars (Are Out Tonight)” (2013) -をフルで流し、初めてBowieと出会ったのはLondonのSOHOのバーで、Bowieの方から声をかけてきたんだって(あなたそれがどんなすごいことかわかる? うん、しぬほどわかるよ)。Bowieについて1時間くらい語れそうな勢いだったのでそのうちにやってほしい。

この先、少しだけ客席からのQ&Aになったのだが、客席から「xxをやっているxxxというものですが..  」って質問が来ると、彼女は必ず「ありがとうxx、あなたはきっとすばらしい仕事をしているにちがいないわ、あなたの質問、とても大事なところを突いているの」みたいに返すの。みんなに必ず。 個々の質問のよりもそっちの方でわあぁ、ってみんな目がハートになっていた。

気にいった映画作家と長くつきあってやっていく彼女のやり方が明らかになったのだが、今回は例えばJim JarmuschとWes Andersonが出てこなかった。JJの方の理由は不明だが、Wes Andersonの方は同じ場所でこの後にふたりのおしゃべり – “Magical Tour of Cinema”っていうのがあって、そっちはどれだけ粘ってもぜんぜんチケット取れなかったの。くやしかった。 そのうちどこかで見られますように。

1週間前の今頃はNYにいてとっても幸せだったのだが、1週間で完全に様変わりしてしまった。
先ほどついにBFIからメールが来て、今のところは営業を続けるつもりだけど何がどうなるかわからないので注意してね、って。(ほぼ同時にBAMからも来て、ライブ関係は中止、映画は50%の客席でやるからって)

いまのところはTildaさんも毎晩のように来てくれるようなので、ここはがんばって通うしかない。

3.12.2020

[film] Orlando (1992) + Will We Wake (1998)

2日、月曜日の晩、BFIで見ました。

みんなこの3月はいろいろ大変だと思うが、BFIではTilda Swintonさんの特集が組まれていて、彼女が作品の上映に合わせてちょこちょこやってきてイントロしたりQ&Aしたりしてくれる。既に3回くらい行って彼女のおしゃべりを聞いた。BFIに行けば彼女に会える(かも)って、それだけで明日も生きてみようか、ってなる。 というくらいにすばらしい人だというのがわかったの。

Londonに来てこの映画を見るのは2度目で、前回は2018年の夏にCurzonで見て、この時は作家のDeborah Levyさんと丁度“Free Woman: Life, Liberation and Doris Lessing”という本を出したばかりだったLara Feigelさんの対話があった。話の中心はフェミニズム観点からのあれこれだった気がする。

今回の上映はイントロで監督のSally PotterさんとTilda Swintonさんが登場する。BFIの売店では(他でもあると思うけど)女性映画人Tシャツ - 白地に黒字でGreta GerwigとかAgnes VardaとかClaire Denisとか名前がプリントしてあるだけの – をいっぱい売っていて、そこの”Sally Potter”シャツをTildaさんが着て、”Tilda Swinton”シャツをSallyさんが着て、Sallyさんが小さいのかTildaさんが大きいのか身長差がありすぎるコンビで、はしゃぎまくりの仲良し漫談みたいになっていた。

5年くらいふたりで構想を練っていたけど予算がなくてお金を出してくれたのがソ連のLenfilmでこれが彼らにとって最初の海外プロジェクトだったのでいろいろおもしろかった、とか、映画作りの基本がわからなかったので手作りの手探りが続いて、コスチューム担当のSandy Powellさんはやはりお金がないのでShoreditch近辺で布地や古着を漁っていたとか、それら記念品の数々は展示スペース(今回の特集に合わせてなんかやっているらしい – 行かなきゃ)にあるから見てねー、って。

本編上映前にTildaさんの初監督作品である“Will We Wake”(1998)が上映された。9分間の短編で、彼女の双子の赤ん坊 - XavierとHonorが食べ物をむしゃむしゃしながら微睡んでそのまま落ちていく寝顔を一人づつ、ゆっくりクローズアップして引いて、ただそれだけなのだが赤ん坊の寝顔ってなんでこんなに... としか言いようがない。 このうちのひとり - Honorさんが昨年”The Souvenir”で見事な女優さんになったこととこのタイトルを被せるとなんかたまらず..

改めて見た“Orlando”は、初めから終わりまで見る快楽・聴く快楽が全方位で襲ってきて、たまんなかった。所謂「名画」(評論家が選ぶランキングに入るようなの)とは違う種類のやつだと思うのだが、先の赤ん坊の映画と同じようにOrlandoの頬っぺたを眺めていられればそれで幸せ– ルーベンスの頬っぺたにじーんとするのと同じように。

時間を超え、性を越え、国を跨いだ500年に渡るOrlandoの移動と変容の軌跡。宇宙人と戦ったり悪魔をやっつけたり革命を起こしたりするわけではなく、ただそこにいて人と交わり、数百年のレンジでその美しさが変わらないというのは常に自分が変わり続けているからだ、ということ、その驚異をTilda Swintonはこちらを見つめるだけで – その時その場にいた人も、我々観客も瞬時に納得させてしまう。 Virginia WoolfがVita Sackville-Westを見つめた目もこんなふうだったのではないか。恋の魔法ってこういうもの。

そして、彼女はひょっとしたらひょっとして本当にOrlandoなのかも、ってここ数日、彼女の話を聞けば聞くほど思うようになった。

3.11.2020

[film] AMeRiCA AMeRiCA (1963)

1日、日曜日の晩、BFIのElia Kazan特集で見ました。この日、60年代初からの彼の作品3本立ての3本目。 168分。それまでのがおもしろかったので頭はとっても覚めているのだが翌日からがこわい。 モノクロの35mmプリントはUCLA Film & Television Archiveから持ってきたもの。

19世紀末、Kazanの家族(特に叔父)から聞いた話を元にKazan自身が自分のルーツを確かめるかのように書いた小説がベースで、脚本も製作も自分でやっている、そういう点ではとてもパーソナルな映画。 先に見た2本とはトーンもテンポもテーマもぜんぜん違う。

まだオスマン帝国(トルコ)があった頃、ギリシャ系移民の若者Stavros (Giallelis)がいて、一緒に仕事をしているアルメニア人の男から「アメリカはいいぞー、いつか行こうな」って言われていて、でも彼は国から迫害を受けて殺されてしまい、ギリシャ系の彼も彼の家族も同様に迫害を受け続けているので危なくて、家族からコンスタンティノープルにいる父のいとこのカーペット屋のところで働くように言われたので、胸の奥に「アメリカ」を秘めつつ、旅に出る。

コンスタンティノープルへの道中は悪い男に絡まれて無一文になったり(ブチ切れてそいつを殺してしまったり)散々で、ようやくアメリカ行きの船が出ている波止場の町で下働きをしながらようやく金持ち一家に潜りこんで将来を見込まれて、そこの娘との結婚、というところまで漕ぎつけて、それで十分じゃないか、なのだが彼はやっぱり「アメリカ」に行きたくて、彼女を残してひとり船に乗りこんで。

書いていくと地味でシリアスなかんじになるけど、全体は手に汗握る冒険譚で、一難去ってまた一難、彼の運命や如何に(ででん!)っていうのが紙芝居調、というかサイレント映画のような画面構成(撮影はHaskell Wexler)とクローズアップの嵐で転がっていくのがたまんない。そして主人公のStavrosのどこまでも暗い(笑わない・笑えない)顔とその周りの一筋縄ではいかなそうな強烈な人相の人々。 なにも知らない人に音をいれずに見せたらとても63年の映画には見えない、っていうのではないか。

このお話を通して見えてくるのはStavrosが若者の情熱と一途さで求めた理想郷としての「アメリカ」の当時のありようと、彼だけじゃなくてイタリアからもアイルランドからも同様に(逃げるにせよ目指すにせよ)渡っていった人々は大勢いたのだろうな、ということ。そして「アメリカ」のある部分はそういう志をもった人々によって形作らていったのだわかってるよな、って。

なので、船のなかで(またしても)散々な目に遭いつつもようやく彼の地にたどり着いて、入管で名前を貰って中に入った時の解放感と達成感はよくわかるし、そんな彼らの次の世代が”Wild River” (1960)や”Splendor in the Grass” (1961)のアメリカを作っていった、というのもなんとなくわかる。いや、そんな簡単にわかってしまうようなものではないことは百も承知の上で、だからこそKazanはこれをなんとしても作りたかったのではないか。

というKazanの振り返りと、この後にScorseseやCassavetesのようなよりパーソナルな、新しいアメリカ映画を目指す若者たちが出てきたことは無縁ではない気がする。

そして自分もまた、いまの政権がどうしようもないしぜんぜん見通しよくないことを十分承知のうえで、“America America”って呟き続けている。もう30年くらい。なんかの呪文なのかあたまの病気なのか。

[theatre] West Side Story

7日、BroadwayにあるThe Broadway Theatreで見ました。土曜日のマチネで。 

久々のNYだしなんか見たいな、ってでもその「なんか」は軽く500個くらい出てくるし、でもこの辺が賛否含めて話題らしいし、Ivo Van Hove演出のはロンドンに来たのはそれなりの数見てきているし、振り付けのAnne Teresa de KeersmaekerのはBAMでずっと見てきたから、見ても.. いいよね、とかおことわりしたくなるようなメジャーなやつ。

チケットはほぼ売り切れみたいだったが数日前から辛抱強く公式サイトを漁って、これかな、くらいのを拾いあげた。クリックしたら2階の真ん中くらいでこの値段かよ?って少し引いたのだが、$1= £1で換算しているからよね。(この、1$ = 1£ = 100円換算って、やっちゃだめよねもう)

オリジナルの舞台は1957年のプロダクション、演出と振付けはJerome Robbins、音楽はStephen Sondheim - Leonard Bernstein。Shakespeareの”Romeo and Juliet”をベースとした若者たちの悲劇。New York、Upper-Upper West Sideの18:00から次の日の26:30まで、32.5時間のおはなし。休憩なしの1時間45分。よいライブを見たあとのかんじがくる。

敵対するJets団とShark団のTony (Jordan Dobson - understudyの人だった) とMaria (Shereen Pimentel)が出会って一瞬で恋に落ちて、でもなのに(泣).. のお話はいいよね。

50年代、アメリカにやってきた移民達のこてこてメロドラマを移民問題がいろんな角度から顕在化している現代ヨーロッパのふたり - Ivo Van Hove(IVH)とAnne Teresa de Keersmaeker(ATK)がリバイバル、というより再解釈する。

IVHの演劇は舞台上にカメラマンを置いて、そこで撮られた現場の微視映像もプロジェクションし、舞台袖の装置設定まで含めて骨格を晒して、ここで演技され客席に向けて提示されているすべてが演出と舞台デザインによるものであることを、すべてはお膳立てされたお芝居の世界なのだということを込みで、くどいくらいにびろびろ提示して、それでもなんか残るものがあるとしたらそれは何なのだろう? って考えさせる。
 
ATKのダンスはストーリーやテーマによって縛られがちなコレオグラフをエモや自然(光とか雨とか)の流れの中に解き放ち、それが新たに(爆発的な)うねりや復活(再生)のイメージを生みだす、ということを見つけたひとり、だと思っている。

このふたりのベルギー人がやってきたことって既定のなにかをバラそうとする、という点では似ているのだが、アプローチはやや異なる – 近視 vs. 遠視 -  な気がしていて、その辺はどうなのかしら、って。

冒頭、舞台上にそれぞれの団の全員がおらおら寄っていってやばい空気が立ちこめるのだが、そこで流れてくるのがLeonard Bernsteinのあの音楽なの。耳が痛くなるようなベースがどうどう鳴るヒップホップとかプエルトリカンパレードでじゃんじゃか鳴っているようなやつじゃないのか、って誰もが思うと思うのだが、ここをどう見るか。

プロジェクションは背景全体にでっかく投影されて、場面によってその壁の一部が切り取られて、それぞれの集団のたまり場での議論とか小競合いの様子が映しだされる。映像はデリに設置されているような監視カメラのそれであり、誰かのスマホが撮っているやつであり、臨場感とやばいことが行われている感は十分、あとはどこかのストリートをゆっくり移動していくイメージと。ここで晒されているような出来事はたぶん誰もがもう知っていることでオリジナルの抱えていたWest Sideの片隅 – 辺境の物語のかんじはない。

で、そこにBernsteinのあの音楽と"One Hand, One Heart"みたいなStephen Sondheimの歌詞が絡まるとどうなるか。 ノスタルジックななにかとしてまるごと強引にパッケージされてしまうか、これもひとつの段差とかノイズに近いなにかとして生地に織り込まれてしまうか、どっちもありのように見えて、それはそれでいいのかな、って。どうせなら音楽もMax Richterとかにして汎ヨーロッパにしてしまうか、The Rootsあたりに舞台上でライブ演奏してもらうとかもあったのではないか。

演出とダンスの絡みでいうと、まずIVHの舞台は視点や視界がひとつのシーンでもめまぐるしく変わっていくところがあるので、その視点の変容とATKのダンスの、流れをとらえてそこに乗る、ような目線の動きとがやや乖離してしまうかんじがあって、ここもどう見るか、なのよね。

人が寄っていって集団として群れてぐるぐるして離れて数人が残って、という動きに背景として投影された映像もモザイクとしてミックスされて、というところはとてもよく計算されていたのではないか。そしてそこから二人の悲恋にどう寄っていくのか… 

ただ、50年代のアメリカが彼らの移民コミュニティを見ていた見方と今のヨーロッパはもちろん、日本から来たような我々も含めて彼らを見る見方はたぶん既に、相当に違う。そのギャップを意識してもなお、”Romeo and Juliet”の物語に乗れるかどうか、ていうことを問うているだけでもよかったのか。もっとぼうぼうに抱きあって泣きたいようなひとからするとどうだろうか。

全体としては、元がそんな複雑な事情や構造を抱えこんたドラマではないので、IVHやATKからするとやや食い足らなくて、なので1時間45分で疾走してみた。その走りっぷりは見事。そんなところ?

ほんとうはこれ、Pina Bauschがやらないかしら、と思ってみたりする。無理だけど。

IVHの舞台は近寄りすぎるとプロジェクションも含めて全体が見えなく(見難く)なる難点があって、自分のいたあたりが丁度よかったかも。

次のIVHは、6月のIsabelle Huppertさま。

3.10.2020

[music] Marika Hackman

いろいろ溜まっていますが、くさりやすい生ものから先に。

5日、木曜日の晩、O2 Forum Kentish Town、ていう、ライブハウスというよりはホールに近いとこで見ました。

本筋とは関係ないけど今回のにっぽんのライブハウスを巡る報道はしみじみと(いまさら)頭きたし、政府なのかメディアなのかその両方なのか(両方だな)国が腐るっていうのはこういうことか、って(いまさらだけど)絶望する。壁に囲まれた空間にxxx人以上が集まるケースはぜんぶ御法度、って言うならまだわかるけど不要不急はとか言いながら明らかに恣意的により分けて御用銘柄つくって追い立てたり晒しものにしようとしてるでしょ。 スポーツなんて今世界でいちばんいらねえもんなのに。ばっかじゃなかろか。
こんな扱いされてもまだ「政治のことは..」なんて言ってる奴、音楽聴くのも演るのもとっととやめちまえ。

ていうか、ぜんぜん悪くないそこに行く人とか特定の場所を元凶のように仕立てて晒しものにする反対側でデータの隠蔽とか改竄とかって、伝統的なにっぽんムラのいじめ構造そのものじゃないか。恥をしれ、だわ。

BFIなんて高齢者だらけだけど貼り紙ひとつもなしで毎日毎晩いろんなの絶賛上映中だよ。こういう時こそ世界ってのがどういうもんなのか、映画を通して学ぶよい機会なんだよ。(あそこで上映中止なんてやろうもんなら暴動が起こると思う)
(今って本読んで音楽聴いて映画見る、格好の機会だから。 それらは世界がどうなろうが関係なくあるところにはあるのだ、っていうのを知るでっかい窓になったり吹いてくる風になったり)

さて、Marikaさんの”Any Human Friend”は2019年にとても頻繁に聴いた1枚で、まずは白パンツいっちょうで仔豚を抱いて突っ立つ彼女、のジャケットに一目惚れして買って、中身も80年代ぽいメロの自在な展開にしびれて、でも昨年リリース直後のツアー2 daysはあっという間に売り切れだったの。
客層はやや女の子の方が多いかな、くらい。"Booksmart“ふうに一緒に笑って歌って踊っている子達がとても素敵。

バンドはg & keyだけ男性の4ピースで 、彼女はエレクトリックギター1台を交換もせずにずっと抱えてかき鳴らしつつ歌う。やはり”Any Human Friend”からの曲がさらさらしつつも強く活きてて、放った声がそのまますーっと届いてくる。
「この曲はデートの前に聴くとぜったい効くから」って”All Night”を演って、失恋の歌なの、って”Send My Love”を演って、さらっと”Sing it!”って放ってからみんなで歌う"I'm Not Where You Are”とか。圧倒的ななにかを見せる訳でも突拍子もないことを始める訳でもないのだが、とにかく気持ちよさそうに歌うのでこちらも気持ちよく歌って揺れて。で、部屋に帰れば仔豚を抱えて隅に立っていたりする、そんな像が浮かんで来るのでたまんなかった。

アンコールの1曲め、カバーをやります、というのでなんだろ? と思ったらElliott Smithの”Between the Bars”を演って、しかもその声の肌理と揺らぎときたらとってもElliottで、ああなんてすてきなのかしらこの娘は! だった。

こんな和やかなよいライブだって感染するかもしれないししないかもしれない、そんなの気にするの野暮でしかないしあーくそくだらねえだし。

って、帰ってから翌朝からのNY行きのパッキングとかをした。

3.05.2020

[film] Splendor in the Grass (1961)

1日、日曜日の午後、BFIのElia Kazan特集からの2本め。『草原の輝き』。永遠の名作って言われているやつ。
前の”Wild River”はデジタルだったが、これは35mm上映だった。

大恐慌の少し前、とても潤っていた1928年の Kansasで、ハイスクールの人気者Bud (Warren Beatty)とDeanie (Natalie Wood)は評判のカップルで、昼も夜もところ構わずいちゃいちゃしているのだが、Deanieはママから結婚するまではやってはだめよ、と言われているのでBudはいつもちぇ、って不満そうで、でも基本は愛しあっているので問題ない。Deanieのママはあれこれどうでもいいことにうるさいし、地元の石油掘り商売で成功しているBudの父Ace (Pat Hingle)も息子をパーフェクトだと信じていて、他方で娘でBudの姉のGinny (Barbara Loden)はフラッパーでいつもぐでんぐでんに酔っ払っていて煙たがられててしょうもなくて。

アクの強い親たちから期待という名の抑圧を受けまくってきたふたりが、大学とか互いの将来のことを考えはじめた時にちょっと窮屈に感じて、軽いかんじで別の女の子に手をだし始めたBudとそれを許すことができないDeanieの間に溝ができ、それを一途ゆえの意地が掘って広げて、そこに(余計なお世話の)親がぐるりと一巡してきて悪化させ、なにがなんだかわからなくなったDeanieは糸が切れて秋津温泉みたいな方に行ってしまう。

やがて病院に入ったDeanieは少し落ち着いてそこでそこそこよい人を見つけて、Yaleに進んだBudは悶々としながらピザ屋の女の子と仲良くなって、それって自分らの期待とはぜんぜん違うんだけど、って戸惑い始めた親たちを大恐慌という津波が襲う。

前作の“Wild River” (1960)もそうだったが大きな変化を前にした世界のありようが世代の縦線と男女の横線を揺らしてどうした/どうなった、ていう様が描かれる。こんなふうに60年代の頭に20年代末~30年代初のアメリカを捕らえる、というのにはどんな意味があったのだろうか。  アメリカが最も豊かで、大恐慌で突然急降下して、そのうち戦争に向かっていく、そんな時期の家族の風景って今のそれとどれくらい違うのか違わないのか。

ていうのと、タイトルの元になったワーズワースの詩で詠われる、典型的なハイスクールラブ顛末の普遍性。永遠の絆を信じて疑わないところに親がうざくプレスしてきて、危うくバランスを取りながらもちょっとしたことで崩れるともう元に戻れない、戻れると強く信じているのに戻れないまま時間が過ぎて、誰のせいにもしないできないうちに壁に貼ってあった写真の跡だけが残る。あれって何だったのか、インフルエンザみたいなもの? 誰にでも残るインフルエンザの記憶。 割と最近見たやつだと”On Chesil Beach” (2017)もそんなかんじのだったかも。

それは甘いでも苦いでもなくて、そんなふうに言えるものではなくぜんぶあって、しかも確かにあって、そこで生きていたのだとしか言えない、そういう時間。 “A Streetcar Named Desire” (1951)から10年でここまで来る、そういう旅、でもある。

撮影のBoris Kaufmanの色彩とか遠近とかすごくて、まったく古くなくて生々しい。
そこに生えるWarren Beatty(これが映画デビュー)とNatalie Woodのアメリカの若者の貌。

3.04.2020

[film] Wild River (1960)

1日、日曜日の午後、BFIのElia Kazan特集で見ました。 この午後は彼の60年代初の3本を続けて見て(110分 – 124分– 168分)、へとへとになったけどどれもすばらしかったので書いておきたい。邦題は『荒れ狂う河』。

30年代のテネシー州で、毎年洪水による被害がひどくみんな大変な思いをしています、っていうモノクロのニュース映像の後、治水ダムを作るべくTVA (Tennessee Valley Authority)から若いChuck (Montgomery Clift)が派遣されてくる。

彼の使命は洪水の季節が始まる前にダムで沈む地域の住民にどいて貰うこと、中でも河の中洲の真ん中の家からひとり断固立ち退こうとしない老婆Ella (Jo Van Fleet)を説得して動いてもらうことなのだが、Chuckが中州に渡ってひとり説得に赴いてもまったく歯がたたないし誰も助けてくれない。でもとにかく話をしていかなきゃ、とEllaの孫娘で子供がいる未亡人のCarol (Lee Remick) と目があって話を始めると親密になっていくの。(Ellaと、ではなくCarolと)

今これをドラマにするとしたらChris Evansあたりがきりっと現地に降りたって、様々な困難に直面しながらも実直に対応してだんだん周囲に認められて、最後はなにをもってそういうのかわかんないけど勝利する、みたいなかんじになる気がするのだが、ここのChuckは外見はそこそこで真面目そうなのにちっとも強そうに見えなくて、町の荒くれが来ても喧嘩は弱くてやられてばかりであんたまだいるの? みたいに見られて、他方でCarolとはずるずる仲良くなってそのままなんとなく結婚してしまったり。

ここで一番強いのは大地に根を張ってすべてを見つめてきたEllaで、ChuckはEllaの力強い言葉に尤もだよね、ってならざるを得なくて、一応周囲の農夫たちを対岸に移したりするものの、自分はCarol のところに入り浸ったりしてあんま仕事しない、それにしてもこのCarolの家でのふたりのやりとりがすばらしくて、窓の外を見て内を振り返り、ぜんぜん緊張感のない、というかそこから逃げるように怯えるように一緒にいて見つめ合ったりしているだけなのだが、ここに(水害の脅威とかこれからのこととかに対する)いろんな弱さとか儚さがむき出しで現れている。西部劇のような爽快な活劇シーンなんてこれぽっちもなくて、TVAの役人が欺瞞たっぷりに語る安全な未来の反対側で、こんなふうにしんみりと描かれるアメリカの30年代っていいな、って。

Ellaの家とか向こう岸にあるCarolの家の縁側を中心としたぼろぼろの造形もよくて、最後にEllaが家を出て振り返るところで庭にあった大きな木が切り倒されて、それが遠ざかっていくところが残る。こんなふうに追われて移動してから一帯は大きな河の下に沈められて、っていう大きな物語に対置される未亡人と仕事人のちいさな恋と、ひっそりと消えていく老婆と。

TVAのオフィスの事務員役でBarbara Lodenが出てくる。これが彼女の映画デビュー作なのね。

3.03.2020

[film] The Invisible Man (2020)

29日、土曜日の晩、Picturehouse Centralで見ました。 この週末はStorm Jorge(ほるへ)っていうのが来ていたの。

予告を見たらなんか怖そうで、でもElizabeth Mossだからきっと…  くらい。
1933年の同名映画(見てない)のリメイク、というのは見てから知った。
最初は大コケした”The Mummy” (2017)に続くDark Universeのフランチャイズだったそう。でもこっちは当たりそうでよかった。

Cecilia (Elisabeth Moss) が夜中に夫Adrian (Oliver Jackson-Cohen)と暮らす邸宅からこっそり抜け出して妹のEmily (Harriet Dyer)の車にピックアップして貰って必死で脱出するところが冒頭。Adrianは走って車のところまで追いかけてきてガラスをぶち破ったりして怖いのだが、Ceciliaの怯えっぷりとAdrianの執拗さから彼女は彼のDVから逃れようとしたのだな、というのがわかる。

友人で警官のJames (Aldis Hodge)とその娘のSydney (Storm Reid)の家に匿ってもらい、それでも見つかるのではないかってびくびくしているとある日呼ばれてAdrianの弟のLawyerからAdrianが自殺したこと、Ceciliaが彼 - 光学の権威だった - の莫大な遺産の相続人とされていることを告げられる。

あーとうとう解放されたんだ、とほっとしていると誰もいないはずの部屋になんだか彼の気配を感じるようになる。 はじめはトラウマとか疲労による妄執、って周囲も思ってなだめているのだが、どう考えてもこれは.. の物証も出てきて、やがて彼女がパニック起こして騒げば騒ぐほど周囲から孤立して、それと共に見えない彼からの嫌がらせ - こんなことをするのはAdrianしか考えられない - も執拗にあからさまになって、やがて..

結局Ceciliaは刑事事件の犯人として拘束されて病練行きになってしまうのだが、そこにもやはり彼が現れ …

敵は透明なので、ぎりぎりまで「彼」がほんとうに「彼」なのかが見えないわからない、でもそこに気配あるし、というあたりがうまくて怖くて、Ceciliaはこんなことをやる/できるのは「彼」しかいないから、って腹を括って立ち向かうしかない。どうせ何をどう抵抗しても騒いでもぜんぶ自分のせいになっちゃうのだから。

見えない男 - 透明人間が引き起こすサスペンスホラー、というよりDVからの逃走・対決劇というトーンに持っていったのがこの映画では当たっていて、ぼろぼろにされても狂気すれすれまで追い詰められても隈をつくって歯を食いしばって立ち向かっていくElizabeth Mossがすごいの。
(他方で、誰からも見えなくできるすごい技術を手にしているのに、それを逃げた女を虐めるのにしか使わないしょうもない男..)

TVシリーズの”Mad Men”も”The Handmaid's Tale”も見ていないのだが、映画だと“Listen Up Philip” (2014)とか”The One I Love” (2014)あたりから彼女を見てきて、親密な仲にある相手の変な挙動にぶつかったときの彼女の葛藤とおぇぇー(吐)みたいな表情と、その先でそれがぶっ殺したろかこの..  に変貌していく強さったらたまらない。

そうそう、“Us” (2019)で唯一不満だったのか彼女があっさり殺られちゃったことなのよ。

もし続編ができるのだったらすごいわ(希望)。

3.02.2020

[film] 8½ (1963)

2月23日の日曜日、”Lourdes”に続けてBFIのFellini特集で見ました。2ヶ月続いた彼の特集で最後になった1本。
こんな映画史上の名作と呼ばれている作品でも見たことなかったの。

成功してきた中年の映画監督Guido Anselmi (Marcello Mastroianni)がいろんな危機(創作上の、ミドルエイジの、これらのごちゃごちゃ)に直面して、既に動き出している新作プロジェクトと、いまの逃げたくて実際に逃げまくっている現実と、ここまでに積みあがって来ている過去のあれこれと、それぞれに適度に挟まってくる実際と夢と理想と後悔が内面から外面から毛玉になって襲いかかってきて死にそうなの。

具体的にはこれまで関係してきた女優とか女性とか離れていた妻とか、幼年期の思い出したくない記憶とか、そこで抑圧的に働いていると思われるキリスト教に関わるあれこれとか、彼の目を醒まさせるなにかだったり、過去に引き戻すなにかだったり、でも全体が逃走のモードにあるなか、いくつかは救いでいくつかは災厄とかトラウマとして彼を直撃して果てのない逃走を加速させて、結果的には自分にも周りにも混乱をもたらすばかり。

主人公であるGuidoがいまの現実から目を逸らしたいと思っている以上、混沌を収束させることは難しくて、じゃあそれをどうするのか、というのが「クリエイティブ」な映画創作のプロセスと絡めて語られる。昨今のコンサルなら得意になってチャートと図解を駆使してこういうことですね! なのでソリューションはアプローチは … とかやりそうなネタなのだが、Felliniはそれを律儀に強引に自身の映画のなかで映画として展開しようとする。

これに対してそんなの知ったことかよ! とするか、これこそが映画について描いた映画の究極の姿では! とするかで評価は分かれて、その語りのスタイルの一貫性(or 支離滅裂さ)とそれを支えて成り立たせているであろう彼の(or 男性映画監督の)女性観とか宗教観を含めてどう見るか、それにどこまで乗れるか、ていうことなのかしら。

ここでの現実 - 冥界巡りって”La Dolce Vita” (1960)で世界の縁に立っていたジャーナリストのMarcello (Marcello Mastroianni)がやってきたことを映画製作の内側に適用してみただけ(あるいは「生活」から「お仕事」へ?)のような気もして、他にも今回の特集で見てきた彼の作品を振り返ってみると、そんなに突飛でぶっとんだことをやっているとも思えなくて、でもコトが「映画」とか「映画製作」に及ぶとなにぃっ! って偉そうなひとことを言いたくなる人(オトコ)がいっぱいいるらしいことはなんかわかる。そんなこと言ってなんになるんだろ、も含めて。

冒頭の渋滞のところ(あれ、R.E.M.の”Everybody Hurts” (1992) のPVの元ネタ?)とか、空中で糸が切れて落下とか、ばかでかいセットとか、みんな手を繋いでとか、いろんな顔や姿態でやってくる人たち、なにかのイメージとして、どこかで見た夢のなかに現れたことがありそうで、これこれ! ってあったようななかったような、その辺の微妙さ絶妙さって、モッツアレラとトマトとオリーブオイルだけでおいしい宇宙を現出してしまうイタリアンの魔法に近いなにかのような。

あとは2018年に先にCentennialを迎えたIngmar Bergmanのイメージの使い方 – 例えば”The Seventh Seal” (1957)あたりとの対比で、北欧と南欧の女性や神・悪魔の捉え方の違い、とか。

“8½” って、彼がそれまでに作った監督作の数、っていうのもあるけど、8がメビウスの輪なんだよね。内側と外側をぐるぐるまわって終わりがないフィルムの回転。そしてひとは常にそのどちらか側にしかいられない/しか見られない、という”½” 。最初のタイトルは”La bella confusion” -  “The Beautiful Confusion” だったって。

それか一日8½時間は寝たほうがいいよ、とか。

[film] Midnight Family (2019)

25日、火曜日の晩、Picturehouse Centralで見たドキュメンタリー映画。
この晩、本当は昨年延期になったJohn Prineさんのライブがある予定だったのだが、改めてキャンセルされてしまったの。よくなりますように。

Mexico Cityでプライベートの救急車をぶんまわしているOchoa familyの日々の奮闘を描いたもの。
え? プライベートってどういうこと? とか思うのだが、Mexico Cityでは人口9百万人に対して45台しかパブリックの救急車が用意されていなくて、それだとみんな死んじゃうのでプライベート救急車の仕組みが発達したのだと。(ちなみにロンドンのNHSでは人口8.6百万に対して1100台だって)

主人公のOchoa一家は、顔色があまりよくない(糖尿病の治療中らしい)お父ちゃんとその兄弟(?)のおじさんと、元気のいい10代のお兄ちゃんと小学生のやや肥満のガキで、一応家に帰れば娘とかもいるようなのだが、ほぼ夜間の仕事なのでみんな救急車の中とかそこらの路上でごろごろ寝たりしている。だいじょうぶ?

そんな彼らがどこからどうやってお金をとるのか資格をとったのか、一家がなんでそういう稼業を始めたのか、なんの説明もないのだが、警察の無線とかで緊急のコードを聞きつけるやものすごい勢いで車をぶっとばして車載スピーカーでそこの車どいてー、自転車じゃまだよー、とかやりながら対抗の救急車がいるとおれらのもんだぜ、とか燃えたりして、救急車というより魚群を見るとそこに向かって突進していく漁船とかトラック野郎みたいなの。どうみてもその瞬間に命かけてます、みたいな。

でも救命ももちろん大事で、恋人に殴られて鼻折られた女性とか、DVのケースとか、ビルの上から落ちた女性とか(怪我や流血シーンが苦手な人でもだいじょうぶ、そういうのはほとんど映らない)、対応しても保険入ってないとか親に連絡されるのは困るとかお金ないとかそれぞれの事情を訴えられて、でも治療しないわけにはいかないし病院に連れていかないわけにはいかなくて、結果的に無償、になってしまうこともあるようで、お金ないよー、ばかり言って、デリのツナ缶を大喜びで食べたりしているの。

始めのうちは彼らなんのためにこんな仕事をやっているのだろう? って思うのだが、だんだんこの人たちすごいな、って。個別の文句やグチは言うけど、どんな人でもどんな状況でも怪我して流血したり苦しんでいたりしたらまず最優先で救う、一秒でも早く手を施すことで救えるものがあるなら救う、それができるのは自分たち(の一家、車)だけだから、って。 彼ら自身はそういう偉そうなことを一切語らないのだが、そういうことではないか。 そう簡単にできることではないよね。

巷に苦しんだり不安に思ったりしている人が溢れているのに机上でふんぞりかえって検査ひとつしようとしないどっかの自治体のくそ役人共に彼らの爪の垢をのませてやりたいわ。メキシコの救急車事情よかこっちのパブリックの方がよっぽど腐ってて深刻だと思う。メンツとかミエのためにしか動いてないんだもの。

どこの国のTVでもやっている(みんな大好き、なの?)救急24時、のような番組は撮る側 - 撮られる側の作為が見え見えでぜんぜん見る気しないのだが、これは清々しいまでにカメラなんて気にしていなくて、単純に兄ちゃんがんばれ、しかない。

メキシコって、なんか壊れてるんじゃないか、って思うくらいいい人がいっぱいいたことを思い出したり。

3.01.2020

[film] Lourdes (2009)

もう3月かあ。早すぎないか?

2月23日、日曜日の午後、BFIのJessica Hausner特集で見ました。
上映前にJessica Hausnerさんと一緒に脚本を書いたGéraldine Bajardさんのふたりが簡単なイントロをした。この映画の取材のためにルルドの泉に行ったのだが、ここは助かる見込みがあるとは思えない人たちが最後の救いを求めていっぱい来るところなので、それはそれはすごい光景があって忘れられなかった、とか。
上映後にもQ&Aがあったのだが、次の映画の時間があったのでそれはスキップした。

奇跡を起こすとされるフランスのルルドの泉に巡礼・療養ツアー(食事から治療から祈祷からいろんなアクティビティまでパッケージされている)に来ている車椅子のChristine (Sylvie Testud)がいて、付き添いで介護をするMaria (Léa Seydoux - まだぽっちゃりさん)は傍にいることはいるのだが目を離すと遊びに行って放ったらかしにしていたり、でもChristineは半ば諦めているのかツアーのいろんな行事にきちんと参加していて、そんな彼女を母のように横で見守っているおばさんとか、すこし位が高めのシスターとか、みんなにあれこれ問い詰められてばかりで大変そうな神父とか、いろんな人たちがいる。そういうのがそれぞれの患者ごとに一連隊ついていて、みんなそれはそれは真剣に切実に奇跡とか神の加護を信じて期待していて、よいこでないとそういうのは来ないから危険な惨劇みたいのは決して起こらない。 見守る人たちはみなよい人たちだし、見守られる人たちも同様。

でも何かがきっかけで奇跡みたいなことが個別に起こることはたまにあるようで、でもそれが起こっても嫉妬したりはしない(はず)。で、ツアーの終わりくらいにそれがChristineに起こったらしく、夜中に突然麻痺していた両手が動いて、車椅子から立てるようになってしまう。 周囲はざわざわして、これって奇跡として認定されるのかとか、これは一時的なものなのか恒久のものなのか、いろいろ複雑そうなのだがChristineはとりあえず嬉しそうで、お別れの会では少し憧れていた軍人さんとダンスをするところまでいくのだが…

ストーリー上(Christineが主人公ぽい、という点を除いては)、これがChristineひとりに起こる事情や理由が説明されることはないので、これが奇跡と呼ばれるものなのか彼女の身体に起こった単なる変異なのか誰にもわからないのだが、そういう場所なのでみんなでよかったねえ、になって、エモの波とか熱だまりみたいのができる。取り憑かれる/取り憑く、という程強いものではない、その場所と時間をゆるりとかき混ぜて溜まっている見えない空気のようなものを描く - デビュー作の”Lovely Rita” (2001)にもあった - のがうまいなあ、って。

これがひとりの身に起こったところで何が変わるわけではない、という点で奇跡も殺人も同じようなものかもしれない、とまでは言わないけど、幸せってなんなんだろうねー、というのはじんわりと来て、これは監督の新作 “Little Joe”でも追求されている模様。見ないと。