30日の晩、Barbicanの、いつも行っているホールの方ではない、Barbican敷地内の音楽演劇学校内にあるホールで見ました。学校内のホールとは思えないくらい椅子もちゃんとしていて2階もあって、音もよい。 チケットは油断していたらSold Outがついてぜんぜん入れてくれなくて、当日の昼にようやく1枚取れた。
前座はカナダのSarah Davachiさんで、ステージ左手のコンソールで冒頭から圧迫感たっぷりの電子音が鼓膜をぶいぶい押してきて、あー耳栓持ってくるんだったと思ったが、その分厚い圧の壁がだんだんに下から突きあげてくるノイズの放射で食い破られて決壊して噴水が溢れて洪水になっていくさまが目に見えるような展開で、最後の方の快感ときたらなかなかだった。
休憩を挟んでAlessandro CortiniさんによるAVANTIi。日本でもやってたやつよね?
前方のスクリーンに彼のおじいさんが撮って自宅から発掘されたSuper8の映像が映しだされて、彼はステージ右手の机上の機械を、ほとんど映像を見あげつつ操作していた。
映像は服装のかんじでは60~70年代だろうか、今でいうホームビデオ映像で、土地はイタリア、ビーチの映像、雪の日、駅や建物や公園、男たちの集まり、女たちの集まり、じいちゃんが撮る孫(?)、等々、誰もがあーこういうの、と分かるようなもので、他人の、プライベートなものではあるのだろうが実際の映像から伝わってくるものは不思議とその印象からは遠い、例えばMOMAの映画部門で見てきたようなこの時代の実験映画とかフィルムアート(カメラを手軽に持ち運べるようになったことで可能となった「プライベート」を題材とした作品の数々とか)を思い起こさせるものだった。被写体が纏う柔らかな輪郭と滲んだような色彩、これらのぼわんとしたかんじがもたらす暖かさ、親密さ、のようなもの。
わかんないけどね。これがVHSやBetaのビデオ映像や最近の4Kデジタルで撮られたものだったらどういう印象を引き起こすのか、そこに見る側の世代的なものがあったりするのかどうか、とか。
そしてそこに被さる音はというと、映像に入っていたものをコラージュしたかのような会話音声に導かれるようにカセット特有の音の丸みとヒスノイズ(おおむかし、自分のバンドの音をカセットで録っていたのでわかるの)が映像をまるごと包んで映像の揺らぎと共振しながら不思議な立体感をもってひとりでに動きだす – 過去のある時間と空間がカセットの箱のなかで幻灯機のように浮かびあがり、新たな物語を語り始めるかのような錯覚を引きおこす。ノスタルジックななにかだけではない、それはホラーかもしれないしロマンかもしれないし。 イタリアン・バロックの情動と豊饒さと。
エレクトロの、シンセの音は知り尽くしているはずの - Atticus Rossまでいる - Nine Inch Nailsになぜ彼が必要とされるのか、少しわかった気がした。樹を見る、建物を見る、あるいは今回のように過去の映像を見る、そこから新たな音、異なるイメージを引っ張りだして練りあげる力がものすごく強いのだと思う。それがヨーロッパの、イタリア人だからとかそういうとこはわからない。 線を引くつもりはまったくないのだが、例えば身近な公園とか、普段の食べ物とか、そういうのが違うだけで違ってくるものがある気がなんとなく - ヨーロッパの町をうろうろ見ていくと - してきた今日この頃。(少なくともアメリカの西の方とはものすごくちがう。牛と豚くらいちがう)
で、今年の夏はどうするのか、そろそろ決めないと。
5.04.2018
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿
注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。