8日の火曜日の晩、CurzonのMayfairで見ました。上映後に原作・脚本のIan McEwan, 主演のSaoirse RonanとBilly Howle, 監督のDominic CookeとプロデューサーのQ&Aがあった。
この日、裏番組としてBFIで”Maydays” (1968)の上映 + 監督 William KleinとのQ&Aもあって、どちらもぱんぱんのSold Outで、先にチケット取れたほうから見よう、と思っていたら当日の午後になってこっちが取れた。ので行った。
原作はIan McEwanの2007年の小説で、翻訳は『初夜』- 新潮クレストブックスから出ているのを知った。くらいなので読んでいない。 浜辺で何が起こるのかしら? こないだのホン・サンスのみたいなのかしら? とか無邪気に思っていたらなかなかとんでもなかった。
62年の英国、浜辺を仲良さそうに歩いていくふたり - Florence (Saoirse Ronan)、Edward (Billy Howle) がいて、ふたりは結婚したばかりで、浜辺のそばのホテルに宿を取っていて、これから…という状態で、ひとつひとつの出来事や動作のぜんぶが躓いたりすれ違ったりぶつかったりどきどきが渦巻いてて、音楽をかけて、部屋にディナーが運ばれて、サーブされて、食事して、食事が下げられて、そして。
それぞれのちょっとした動作や会話の端っこから過去にあった出来事とか家族のこと、仕事のこと、とかにジャンプして戻ってくる、リンクされた過去のいろんなのはその直前のシークエンスとたぶん何等かの関係があって(原作者はQ&Aで明確にあるのじゃ、と言ってた)行って戻ってくるのだが、そういうのを繰り返しながら1ミリ1ミリじわじわと、戻ることはなく前に進む。 望もうが嫌がろうが時間も含めて否応なく進んで、いいからとにかく落ち着け、と全員が固唾をのんで見守るなか、その瞬間はやってくる。 それをものすごいミクロな単位でスローに追っていくので新種の生物の神秘ではないか、とか思ってしまったりもする。
じゃあふたりが互いに嫌がっているかというとそうではなくて、ものすごく真剣に好きで愛おしく思っているが故に、の貴重な一瞬なわけだし、そんなの一生に一度しかないわけだし、そんなに好きなら一生やっとれ、とか言わない。そういう真剣さを茶化したりバカにしたりしてはいけない、それは愛の当事者である彼らだけのもので、当事者ですらあれだけのことになってしまうような、一生を揺るがすようなすさまじいことなのだから、死んだことのない奴が死について偉そうに語るな、ていうのとおなじく、わあわあ言うべきことではないと思う。
で、このまま110分ぶち抜いていったらすごいかも、と怖くなってくるのだが、それはなかった。
けど、やはりこのアプローチをするであれば、文章や言葉でイメージを膨らませることができたり1秒を1時間にでも自在に敷延したり(或いはページを戻ったりも)できる小説のほうが適しているのではないか、とは思った。映画にすることで失われてしまったものがあったとしたら(ある気がする)それはなにか、は原作を読んでみるしかないのだろうか。
Edward役はあんなもんだろうが、Saoirse Ronanに関しては(今度のもまた)すばらしいと言う他ない。”Atonement” (2007)の頃からこないだの”Lady Bird” (2017)に至るまで、無垢さと一途さが - 本人の意図する意図しないに関わらず - 盛大にぶち壊してしまう親愛なる何かに対して全くぶれずにぎりぎりの表面張力を保ちつつ、これこそが自分なのだと大見栄を切る、同時にそれを見るひとにとってこれあたしのことだわ、と確信させる、そんな曲芸みたいなことをさらりとやっている。
上映後のQ&Aは人数が多かったこともあり、舞台に駆け上ってSaoirse Ronanにハグしようとして連れ出される奴がいたり、ややとっ散らかってしまったのだが、自ら脚本化した原作者は自信たっぷりで、とにかく見てほしい、ということだった。 確かに原作を知っているひとも、読んでいなかったひとも、他人事とは思えないどきどきを体験して、人生まるごとを左右することになる一瞬の闇について思いを巡らしてみることになると思うよ。(と他人事ぽく言ってみる)
5.16.2018
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