あんましないかもだけど、NYでのその他のあれこれを。
行きの飛行機内でみた映画ふたつ。
Keeping Up with the Joneses (2016)
昨年オースティンに行ったとき、見たかったけどぎりぎり見れなかったやつ。
企業の人事課(HR)のマネージャーのZach GalifianakisとIsla Fisherが夫婦で、近所の一軒家にJon HammとGal Gadotの夫婦(?)が越してくる。
こんな郊外のこんな家を現金で買ったというし、外見も行動もぎんぎらとんがってかっこよすぎて親しげに寄ってきてもぜんぜん周囲に溶けこむかんじがしないので、これはぜったい自分たちを狙ってきたなんかのスパイか犯罪者の一味だ、と思いこみやられるならその前に、と近づいたり嗅ぎまわったりぶつかって、やがて明らかになる彼らの正体と目的は?
Zach Galifianakisの穴熊みたいな夫婦もおかしいが、John Hamm & Wonder Womanの夫婦もものすごく怪しくて、両方向の変な火花がスパークして大混乱でおもしろかった。
ひとつ難をいうと、John Hammって彼自身がそもそも微妙になんか臭いのでZach Galifianakisと絡んでもあんまおもしろみが出ないのよね。Robert Downey Jrとか Bradley Cooperとかとのほうがギャップが際立っておもしろくなるんだなーって。
あと、アメリカのHRって従業員個別の相談なんでも持ちこまれるのでほんとに大変よねっていつも思ってて、その大変さがわかんないとあんまおもしろくないお話かも、とか。
“Wonder Woman”、早くみたくなった。
A Street Cat Named Bob (2016)
少し寝て目覚めたらまだ時間があったのでなんとなく見てみた猫映画。
ロンドンであった実話で、それを本にしたのが世界的ベストセラーになって、それが映画になったと。
James (Luke Treadaway)は宿無しでCovent Gardenの駅前とかでバスキングしながら暮らしてて、メタドンの中毒から更生中なのだがうまくいかなくて、更生プログラムで与えられた家で死にかけていたらどこからかジンジャー猫が現れてくっついてくる。 それがBobで、彼を肩にのっけてバスキングしていると人が寄ってきてお金もたまって中毒も克服できて、それでも周囲とはいろいろあるのだが、猫はだまって一緒にいてくれていいなあー、ていうお話。 たまにカメラがいきなり猫目線になって、ネズミやカエルと戦ったりする。
ここのBobはよい猫だし、ふたりは幸せになれてよかったねえ、のお話だし、とは思うものの、実際の路上で犬や猫を抱えて一緒に寝ているひととか見るとちょっと複雑なかんじになる。犬猫をつきあわせないで、彼らには辛い思いをさせないであげてよう、と。
小汚いほうのロンドンの町中がでてくるのであーここは/あそこは、と楽しく勉強にもなった。 そのうちどこかでBobにも会えるのかしら。
あと、VeganのJamesの彼女がトーフを食べさせたときのBobの表情がとってもおもしろかった。
帰りの便では哀れかーんぜんに死んでた。
本は展覧会のカタログ2つ、+前買ってなかったカタログひとつ、買えてなかったNew York Magazineとか、本屋はMast Books, McNally Jackson, Strandだけ。
古雑誌で62/63 winter号のFilm Culture誌を買った。巻末の星取りに参加しているのはPeter Bogdanovich, Jonas Mekas, Amos Vogelとかで、62年の10月で一番点数が高いのはWellesの”Mr. Arkadin”、11月だとAldrichの”What Ever Happened to Baby Jane”だったりする。
レコードは12stのAcademyとWilliamsburgのRough Trade NYCにいった(だけ)。 The Magnetic Fieldsの新譜5枚組とかいろいろ買ったのだが、米国だから特に安いってわけでもないことがわかった。 (日曜日の朝にロンドン戻って、午後にRough TradeのEastに行って少しえっへん、だった)
Williamsburg (Bedford)の駅前にユニクロができてて、あーあ、て思った。
食べ物関係は、まだロンドンの探索と掘りおこしで割とあたまがいっぱいなので、NYでは定番ばっかしを噛みしめてた。
Pruneで、すばらしいぴらぴらパスタ & Poached Egg、かたつむり、ラム、とか。
土曜日の朝はLe CoucouでFrench Pancakeたべた。 ロンドンのパンケーキとドーナツ事情はまだじゅうぶんフォローできていない。
土曜日の夕方は、ロンドンで食べてないアメリカの.. て考えてちゃんとしたFried Chickenがなんだか食べたくなり、LES (Ludrow)のSweet Chickていうとこ行った。
まだほんもんのDinnerが始まる前の時間だったので、メニューはチキンふた切れとワッフルが殆どで、ワッフルは5種類くらいから選べる。
チキンはちょっと小さかったけど(そうかChickだからか)カリカリばりばりでおいしくて、どちらかというとびっくりしたのはワッフルのほうだった。
麩菓子みたいに軽くさくさくしてていくらでも食べられそうで(とってもやばい)。
まだあった気がするが、もう3月は行ってしまうよう。
April Come She Will -
3.31.2017
3.29.2017
[art] Georgia O’Keeffe: Living Modern
NY滞在中のアート関係をまとめて。
今回、時間があいているのは土曜の朝から夕方までで、なんとしても行きたかったのはBrooklyn MuseumとNeue Galerieで、このふたつを日中両方行くとそれだけで終わってしまうので困って呻いていたのだが、Brooklynのほうは木曜日だけ晩の10時までやっているというので、木曜日に行った。
入口のホールでは、"Brooklyn Comedy Marathon: Fierce, Funny, and Feminist"ていう寄席イベントをやってて、女性がいっぱいでわーわー楽しそうだった。
以下、Brooklyn Museum内の見た順番で。
Iggy Pop Life Class by Jeremy Deller
すっぱだかでポーズをとるIggy先生が絵のモデルになって、NYの、18歳から80歳まで22人のアーチストを含む人たちによって描かれた彼の裸体のドローイングが並んでて、それに加えて美術館のコレクションのなかから男の裸に関係した絵とか彫刻とかオブジェとかも一緒に展示している。
そういえば彼の裸って現代のポップカルチャーにおいて、もっともポピュラーなかたちで、犬系ロックミュージックの象徴のように認知されてきた(...そうかも、と少し考えてなっとく)のだから、それをデッサンていうRaw Powerでもって寄ってたかって描きたおす、ていうのはおもしろい試みよね。 デッサンもそれぞれに味があってよいかんじ。
そしてそれらに博物館ぽく古代からの陳列物を並べてみるとなんとも言えずおもしろくて。きんたまの神話性というか。
Marilyn Minter: Pretty/Dirty
ボードにエナメルのべったりねっちょりびろびろ系のエロ画とか、大きめの絵がいっぱい。
でもあんなふうに間隔置いて並んでいるとあんましこないかも。
粘液がだらだらびろーーってだらしなく際限なく繋がっていくみたいなかんじが間隔やフレームによって分断されてしまう、よりガラスの向こう側に行ってしまうからだろうか。
というようなことを考えたり。
Pretty / Dirtyというのは反対語だろうか、くそみそってことだろうか、後者だよね?
というようなことを考えたり。
Georgia O’Keeffe: Living Modern
これが見たくてきたの。
Georgia O’Keeffeのファッションまで含めて、つまりは彼女が生きた時代とそこにあったスタイル、彼女が選びとったスタイルまでひっくるめて彼女のアートを整理して捉えなおしてみましょう、という試み。
「アメリカの近代絵画」みたいなザル展覧会に行くと必ず彼女の絵が女性アーティスト代表みたいに、添え物みたいに置いてあることが多いが、それってなんかおかしいよね、といつも思っていて、ひとつにはなんでいつもそういう「とりあえず」みたいな扱いなのか、というのと、もうひとつは彼女の絵そのものがアメリカの他の近代画家たち - Edward HopperでもJackson Pollock でもなんでもいいけど - となんか、本質的に違う気がしていて、その違和の根っこが、ファッション - 具体的には服とか雑貨とか - という別の光を当ててみることで明らかになっているのではないかと。
展示はテーマ別に彼女の絵以外には彼女が愛用していた洋服とか和服(に下駄まであった - 男モノの)とか靴とか”Living Modern”としかいいようのないいろんなモノたち。
(”Modern Living”ではなく”Living Modern”なの、進行形)
あとはAlfred Stieglitzによる彼女のポートレートもたくさんあって、彼女はそれを自分の鏡のように使ったし、そのクールな肖像が彼女をミューズにしていったし、ということもあったのだろうな、と。
彼女のアートを画家、美術家としてのそれではなくファッションを含めた角度から切り取ることがいけないとはぜんぜん思わない。 (じゃあウォーホルはどうなのよ、とか)
むしろ、ファッションも含めてアートを全方位のものに - PopやChicやCoolな方に - ドライブした、それをウォーホルよかぜんぜん前倒しでやっていたのが彼女だったのはないか。
なので、お花や牛骨の絵ばかりが雑巾とか納屋みたいなアメリカン「モダン」アートのなかに小綺麗なインテリア雑貨みたいにぽつんとあると、微妙なかんじになっちゃったのではないか、と。
で、そうやって全体として眺め渡してみると、とても気持ちよくてかっこいいのだった。 砂漠の風をかんじるというか。
Alexei Jawlensky
25日の朝11:00、開館と同時にNeue Galerieに入って見ました。
抽象手前のカンディンスキーなんかと交流のあったロシア人画家、くらいのことしか知らず、纏めて俯瞰するのはこれが初めて。
初期のロシアで勉強していた頃の絵はとても上手できれいで、それが西のほうに向かうについて抽象化されただんだら模様に変貌していって、それはゴッホだったりマティスだったり表現主義だったり印象派(セザンヌ)だったりいろいろなのだが、全体としてみればJawlenskyとしか言いようのない力強さに溢れていて - この時代のひとはみなそんなふうだけど - 絵の一枚一枚から漂ってくる臭気みたいのが濃い。
後半、有名な”Savior’s Face” (1919) から30年代の”Meditation”まで、延々並ぶ瞑想顔の連なりは圧巻で、それはひたすらの祈りというよりはなんでもかんでも取りこみすぎて考えすぎてどんどん顔色が青黒く赤黒く身動きとれなくなっていく、そんなふうで痛々しく、それが展示の最後の小部屋で、体の自由が利かなくなった状態のところまでいくと更にすごくて、消えてしまうことを承知のうえで、でもそこにあろうとする燃えかすが最後の光を放っていたのだった。
Raymond Pettibon: A Pen of All Work
25日の朝寝床で、もっとなんかないかなー、とあさっていたらこんなのをやっていたので行った。
午前にNeue Galerie、午後にNew Museum。
個人的には2014年のMike Kelly, 2015年のJim Shawに続く(便所の)落書き系(ほめてるの)。
若めの子にはSonic Youthの”Goo” (1990) のジャケットで、年寄りにはBlack Flagのロゴで有名よね。
先のふたりの展覧会も、今回のにも共通してびっくりするのはその物量で、New Museumの3フロアびっちり。割とちゃんとした絵みたいの(失礼な)からノートの端の落書きみたいのまで、とにかくいっぱい。 書きたいことがいっぱい、というよりは、隙間をごちゃごちゃ埋めていくうちに溜まってしまいました、のようなかんじ。 筆というよりはペンのひとで、ペンでカリカリ引っ掻いている忙しない音が聞こえてくる。
Black Flagの初期の7inchのジャケットとかも並んでいて、たまに中古盤屋で2nd editionとか3rd Editionとかいって売っているその全貌が明らかになったのだった。
あと、Mike KellyもJim Shawもそうだったが、げろげろの絵の合間にすんごくかわいいのが挟んであったりして悶絶するの。
まったく油断ならないの。
今回のGeorgia O’Keeffe → Alexei Jawlensky → Raymond Pettibon ていうのはてんでばらばらでとってもおもしろかったが、目とあたまはとっても疲れたらしく、帰りの飛行機では水のボトル貰ったらすぐに落ちてんの。
今回、時間があいているのは土曜の朝から夕方までで、なんとしても行きたかったのはBrooklyn MuseumとNeue Galerieで、このふたつを日中両方行くとそれだけで終わってしまうので困って呻いていたのだが、Brooklynのほうは木曜日だけ晩の10時までやっているというので、木曜日に行った。
入口のホールでは、"Brooklyn Comedy Marathon: Fierce, Funny, and Feminist"ていう寄席イベントをやってて、女性がいっぱいでわーわー楽しそうだった。
以下、Brooklyn Museum内の見た順番で。
Iggy Pop Life Class by Jeremy Deller
すっぱだかでポーズをとるIggy先生が絵のモデルになって、NYの、18歳から80歳まで22人のアーチストを含む人たちによって描かれた彼の裸体のドローイングが並んでて、それに加えて美術館のコレクションのなかから男の裸に関係した絵とか彫刻とかオブジェとかも一緒に展示している。
そういえば彼の裸って現代のポップカルチャーにおいて、もっともポピュラーなかたちで、犬系ロックミュージックの象徴のように認知されてきた(...そうかも、と少し考えてなっとく)のだから、それをデッサンていうRaw Powerでもって寄ってたかって描きたおす、ていうのはおもしろい試みよね。 デッサンもそれぞれに味があってよいかんじ。
そしてそれらに博物館ぽく古代からの陳列物を並べてみるとなんとも言えずおもしろくて。きんたまの神話性というか。
Marilyn Minter: Pretty/Dirty
ボードにエナメルのべったりねっちょりびろびろ系のエロ画とか、大きめの絵がいっぱい。
でもあんなふうに間隔置いて並んでいるとあんましこないかも。
粘液がだらだらびろーーってだらしなく際限なく繋がっていくみたいなかんじが間隔やフレームによって分断されてしまう、よりガラスの向こう側に行ってしまうからだろうか。
というようなことを考えたり。
Pretty / Dirtyというのは反対語だろうか、くそみそってことだろうか、後者だよね?
というようなことを考えたり。
Georgia O’Keeffe: Living Modern
これが見たくてきたの。
Georgia O’Keeffeのファッションまで含めて、つまりは彼女が生きた時代とそこにあったスタイル、彼女が選びとったスタイルまでひっくるめて彼女のアートを整理して捉えなおしてみましょう、という試み。
「アメリカの近代絵画」みたいなザル展覧会に行くと必ず彼女の絵が女性アーティスト代表みたいに、添え物みたいに置いてあることが多いが、それってなんかおかしいよね、といつも思っていて、ひとつにはなんでいつもそういう「とりあえず」みたいな扱いなのか、というのと、もうひとつは彼女の絵そのものがアメリカの他の近代画家たち - Edward HopperでもJackson Pollock でもなんでもいいけど - となんか、本質的に違う気がしていて、その違和の根っこが、ファッション - 具体的には服とか雑貨とか - という別の光を当ててみることで明らかになっているのではないかと。
展示はテーマ別に彼女の絵以外には彼女が愛用していた洋服とか和服(に下駄まであった - 男モノの)とか靴とか”Living Modern”としかいいようのないいろんなモノたち。
(”Modern Living”ではなく”Living Modern”なの、進行形)
あとはAlfred Stieglitzによる彼女のポートレートもたくさんあって、彼女はそれを自分の鏡のように使ったし、そのクールな肖像が彼女をミューズにしていったし、ということもあったのだろうな、と。
彼女のアートを画家、美術家としてのそれではなくファッションを含めた角度から切り取ることがいけないとはぜんぜん思わない。 (じゃあウォーホルはどうなのよ、とか)
むしろ、ファッションも含めてアートを全方位のものに - PopやChicやCoolな方に - ドライブした、それをウォーホルよかぜんぜん前倒しでやっていたのが彼女だったのはないか。
なので、お花や牛骨の絵ばかりが雑巾とか納屋みたいなアメリカン「モダン」アートのなかに小綺麗なインテリア雑貨みたいにぽつんとあると、微妙なかんじになっちゃったのではないか、と。
で、そうやって全体として眺め渡してみると、とても気持ちよくてかっこいいのだった。 砂漠の風をかんじるというか。
Alexei Jawlensky
25日の朝11:00、開館と同時にNeue Galerieに入って見ました。
抽象手前のカンディンスキーなんかと交流のあったロシア人画家、くらいのことしか知らず、纏めて俯瞰するのはこれが初めて。
初期のロシアで勉強していた頃の絵はとても上手できれいで、それが西のほうに向かうについて抽象化されただんだら模様に変貌していって、それはゴッホだったりマティスだったり表現主義だったり印象派(セザンヌ)だったりいろいろなのだが、全体としてみればJawlenskyとしか言いようのない力強さに溢れていて - この時代のひとはみなそんなふうだけど - 絵の一枚一枚から漂ってくる臭気みたいのが濃い。
後半、有名な”Savior’s Face” (1919) から30年代の”Meditation”まで、延々並ぶ瞑想顔の連なりは圧巻で、それはひたすらの祈りというよりはなんでもかんでも取りこみすぎて考えすぎてどんどん顔色が青黒く赤黒く身動きとれなくなっていく、そんなふうで痛々しく、それが展示の最後の小部屋で、体の自由が利かなくなった状態のところまでいくと更にすごくて、消えてしまうことを承知のうえで、でもそこにあろうとする燃えかすが最後の光を放っていたのだった。
Raymond Pettibon: A Pen of All Work
25日の朝寝床で、もっとなんかないかなー、とあさっていたらこんなのをやっていたので行った。
午前にNeue Galerie、午後にNew Museum。
個人的には2014年のMike Kelly, 2015年のJim Shawに続く(便所の)落書き系(ほめてるの)。
若めの子にはSonic Youthの”Goo” (1990) のジャケットで、年寄りにはBlack Flagのロゴで有名よね。
先のふたりの展覧会も、今回のにも共通してびっくりするのはその物量で、New Museumの3フロアびっちり。割とちゃんとした絵みたいの(失礼な)からノートの端の落書きみたいのまで、とにかくいっぱい。 書きたいことがいっぱい、というよりは、隙間をごちゃごちゃ埋めていくうちに溜まってしまいました、のようなかんじ。 筆というよりはペンのひとで、ペンでカリカリ引っ掻いている忙しない音が聞こえてくる。
Black Flagの初期の7inchのジャケットとかも並んでいて、たまに中古盤屋で2nd editionとか3rd Editionとかいって売っているその全貌が明らかになったのだった。
あと、Mike KellyもJim Shawもそうだったが、げろげろの絵の合間にすんごくかわいいのが挟んであったりして悶絶するの。
まったく油断ならないの。
今回のGeorgia O’Keeffe → Alexei Jawlensky → Raymond Pettibon ていうのはてんでばらばらでとってもおもしろかったが、目とあたまはとっても疲れたらしく、帰りの飛行機では水のボトル貰ったらすぐに落ちてんの。
3.27.2017
[film] Kedi (2016)
今回のNY滞在は3泊だけで、うち2夜分くらいはソーシャルななんかで埋められていたので、可能なかぎり早めに終わらせてすたこら仕事の場から逃げたいのだが、それでも映画1本見られればいいか、くらいで、ではその1本とは、となると今回は問答無用でこれしかなかった。 トルコ・イスタンブールを舞台に"Logan"並に爪とRoarが炸裂する猫ドキュメンタリー映画。
昨年に行くことができたMetrographで予告を見て一目惚れして、なんでこんなのが単館なんだよう、と憤慨しつつもお願いだから終わっちゃいませんように、とお祈りしていたやつ。 米国の配給はOscilloscope。
"Kedi"はトルコ語で「猫」ね。 もちろん。
筋はあってないようなもんで、イスタンブールの町中で暮らすいろんな(ノラ)猫を個々に紹介していって、そこにそれを見守ったりして暮らしている(ノラみたいな)ヒトの声が被さる。個々の猫に危機が迫ったり悲しいこととか奇跡とかが起こったりすることも、猫がしゃべったり助けあったり、感動を運んでくれたりすることもなく、ただ猫は猫として市場で魚を拾ったりのしのし歩いていったり好き勝手に群れているだけで、ヒトの声もものすごく適当にこのこはーあのこはー、と適当なこと呟いているだけ。 かわいらしい音楽や効果音をわざとらしく被せることも、音がぴーん、とかマイナーになって悲劇が訪れたりすることもない - あのやりかた、すごくバカみたいでやなんだけど。
といわけで、ノラ.. というほどノラではない、魚市場があったりする町のなかで適度な距離を置いて猫っぽく暮らす猫と人同士の繋がりよりは猫の方に少し寄っている人との関係がやや猫よりの目線で描かれていて、猫の動画をみるとあたまのなかで、にゃー、とか言ってしまう人が見ると、ずうっとにゃーにゃーうるさくて困るのだが、全体はものすごくあっさりめ、でも地に足のついた素敵な猫映画だとおもった。
あたりまえだけどノラといっても一括りではなくて、いろんな毛並みのいろんな性格のやつがいて、それぞれに固有の行動パターンのなかで周りに少しづつ認知されたり怒られたりつつサバイブしている、それってヒトと同じで肝心なのはやっぱり支えあい助けあい - みたいなとこにはいかない。 わかるだろ、くらいのかんじ、そんなのべつに猫は知ったこっちゃないけど、くらいの緩い距離のとりかた。 その距離感にだけは細心の注意を払っているような。 ここは「かわいい〜」なんてまったく通用しない世界なんだと。
世界から猫が消えたなら? 勝手に夢みて泣いてろヒマ人。
我々はもちろん、今のトルコの情勢がよくないことも、あれだけ猫がいれば日々悲しいことが起こるであろうこともわかっている。 わかっていてあそこまで淡々と猫と人を切りとれるのってよいなー、って。 そして、これはこれでひとつの抵抗のかたちにはなりうるのかもと思った。甘いのかもしれないけど。
そしてこういうのを見たあと、最大の溜息と共にでてくる感想はひとつだけ、猫になりてえ、しかないの。
終わって、上の階の本屋で、”Suite for ”Barbara Loden” (by Nathalie Léger)ていう小さな本を買った。
本屋の横にあるダイニングは11時過ぎてもわいわい賑やか(でも大人ふう)で、ああ近所にこんな映画館があったら、はこの前も思ったことだわ。
ロンドンでは町中であんまり猫みないなー。 と思って歩いていたらこないだ大英博物館の横でキツネ(ナマの、きつね色の)にぶつかって、少しうれしかった。
昨年に行くことができたMetrographで予告を見て一目惚れして、なんでこんなのが単館なんだよう、と憤慨しつつもお願いだから終わっちゃいませんように、とお祈りしていたやつ。 米国の配給はOscilloscope。
"Kedi"はトルコ語で「猫」ね。 もちろん。
筋はあってないようなもんで、イスタンブールの町中で暮らすいろんな(ノラ)猫を個々に紹介していって、そこにそれを見守ったりして暮らしている(ノラみたいな)ヒトの声が被さる。個々の猫に危機が迫ったり悲しいこととか奇跡とかが起こったりすることも、猫がしゃべったり助けあったり、感動を運んでくれたりすることもなく、ただ猫は猫として市場で魚を拾ったりのしのし歩いていったり好き勝手に群れているだけで、ヒトの声もものすごく適当にこのこはーあのこはー、と適当なこと呟いているだけ。 かわいらしい音楽や効果音をわざとらしく被せることも、音がぴーん、とかマイナーになって悲劇が訪れたりすることもない - あのやりかた、すごくバカみたいでやなんだけど。
といわけで、ノラ.. というほどノラではない、魚市場があったりする町のなかで適度な距離を置いて猫っぽく暮らす猫と人同士の繋がりよりは猫の方に少し寄っている人との関係がやや猫よりの目線で描かれていて、猫の動画をみるとあたまのなかで、にゃー、とか言ってしまう人が見ると、ずうっとにゃーにゃーうるさくて困るのだが、全体はものすごくあっさりめ、でも地に足のついた素敵な猫映画だとおもった。
あたりまえだけどノラといっても一括りではなくて、いろんな毛並みのいろんな性格のやつがいて、それぞれに固有の行動パターンのなかで周りに少しづつ認知されたり怒られたりつつサバイブしている、それってヒトと同じで肝心なのはやっぱり支えあい助けあい - みたいなとこにはいかない。 わかるだろ、くらいのかんじ、そんなのべつに猫は知ったこっちゃないけど、くらいの緩い距離のとりかた。 その距離感にだけは細心の注意を払っているような。 ここは「かわいい〜」なんてまったく通用しない世界なんだと。
世界から猫が消えたなら? 勝手に夢みて泣いてろヒマ人。
我々はもちろん、今のトルコの情勢がよくないことも、あれだけ猫がいれば日々悲しいことが起こるであろうこともわかっている。 わかっていてあそこまで淡々と猫と人を切りとれるのってよいなー、って。 そして、これはこれでひとつの抵抗のかたちにはなりうるのかもと思った。甘いのかもしれないけど。
そしてこういうのを見たあと、最大の溜息と共にでてくる感想はひとつだけ、猫になりてえ、しかないの。
終わって、上の階の本屋で、”Suite for ”Barbara Loden” (by Nathalie Léger)ていう小さな本を買った。
本屋の横にあるダイニングは11時過ぎてもわいわい賑やか(でも大人ふう)で、ああ近所にこんな映画館があったら、はこの前も思ったことだわ。
ロンドンでは町中であんまり猫みないなー。 と思って歩いていたらこないだ大英博物館の横でキツネ(ナマの、きつね色の)にぶつかって、少しうれしかった。
[music] Sunn O))) + Hildur Guðnadóttir
21日、火曜日の晩、barbicanで見ました。
彼らがライブやることに気づいたときにはチケットはsold outしてて、でもここはちょこちょこ覗きにいくとたまにフラグが変わって買えることがあって、そうやって取った。
ので米国出張が入ったときにはすこし焦ったがだいじょうぶだった。
Sunn O)))を最後に見たのは2010年、Brooklyn Masonic Templeで"Sunn O))) & Boris present Altar"ていういろんな人(The CultのIan Astburyとか)が出るやつで、真っ暗なお堂(フリーメーソンのお寺だし)のようなとこでいろんな轟音がわんわん鳴ってて、Sunn O)))のところにきたら電源がぶっとんだらしく音がなくなって、暗闇のなかじーっと待ったのだがあまり進展がなくて、そのうちなんでか警察がいっぱい現れたりしたので諦めて帰った。 そういうやばいかんじのだったの。
barbicanはクラシックのコンサートとかもやっている着席で見るホールなのでそういうふうにはならないと思うのだが、とホールに入ってみれば堤防のように防護壁のようにびっちり並べられたアンプが既にじゅうぶん異様な殺気を放っているので、どうしましょうせんせい? くらいのかんじにはなるのだが、もちろん帰るわけにはいかない。
前座のHildur Guðnadóttir(どう発音するのかいまだわからず)さんは電気チェロ、ということだったがほとんどがヴォイスお経がゴッシーにうねりまくるかんじで終わって、彼女はこの後のSunn O)))のほうにも参加していた。 休憩時間、まさかSunn O)))の観客はアイスクリームには行くまい、と思っていたのに割とみんなぺろぺろしているので、ふん俗物どもめが、とか思いつつ自分もマンゴーのを買って食べる。
Sunn O)))のライブは、べつにいいよね。 オレンジの煙もうもうのなかStar WarsのJawaの恰好のでっかいひとがひとり仁王立ちで祈祷みたいなのをごにょごにょ始めて気がつくと同じ恰好のメンバー4名が周りで蠢いていて、煙がオレンジから青に変わって更にけたたましくなり、そのうちお腹へって眩暈がしてきたので入口でもらった耳栓をしてみたのだがあまり効果はなくて、やがて祈祷のひとが消えて替わりになんかのお化けみたいなでっかいのが出てきて怪獣のように暴れはじめて、と思ったらとつぜんぷつんと終わる。
客席は総立ちで喝采していたが、なんかわかんねえけどすげえ、としか言いようがない拍手だった、よね。
彼らのあいだでいろんな教義だの戒律だのイデオロギーだのあるのかもしれないしそういう教義だの戒律だのが世界を創ったのかもしれんしこれから創るのかもしれないけど、どっちにしても世界がたち現れたときに鳴っていた音、生物がいない世界で響いていた音はたぶんこんなふうじゃ、とそこらの世界観、宇宙観、なんとか「観」的ななにかをふっとばすくらいに彼らの音は強固に分厚く鼓膜をぶち抜いてあたまぜんぶを圧してくる。 こんな雑音、という以前のところでこんなふうに鳴っている音がある、ヒト(かどうかわかんないけどねあの連中)によって再現しうる音がある、ということは知っておいたほうがいい。 見るべし聴くべしとか声高にいうつもりはないしそういう類のものでないことはわかっているけど、音楽は、アートは、ただ気持ちよくなったり元気をもらったりするだけのもんでは断じてない、ひとを殺すことだって戦争を起こすことだってできる、そういう制御不能なおそろしいなにかにもなりうる、てこと。 だからこそ我々はこんなふうに世界の奥底に降りてその地鳴りや地熱にじかに接しておく必要があるのだと思う。
アートを学ぶっていうのはそういうことで、Sunn O)))とかのライブに来るとそういうことを考えたりもする、し、花火大会のめちゃくちゃ盛大でやかましいやつ、わーい、みたいに思ったりもする。 ライブで接しなければまったく、なーんの意味もない、というあたりも含めて。
なんか撮影していたので、そのうち映像としてリリースされるかもしれません。
物販(お札とか絵馬とか)はやはりすごい行列だった。
彼らがライブやることに気づいたときにはチケットはsold outしてて、でもここはちょこちょこ覗きにいくとたまにフラグが変わって買えることがあって、そうやって取った。
ので米国出張が入ったときにはすこし焦ったがだいじょうぶだった。
Sunn O)))を最後に見たのは2010年、Brooklyn Masonic Templeで"Sunn O))) & Boris present Altar"ていういろんな人(The CultのIan Astburyとか)が出るやつで、真っ暗なお堂(フリーメーソンのお寺だし)のようなとこでいろんな轟音がわんわん鳴ってて、Sunn O)))のところにきたら電源がぶっとんだらしく音がなくなって、暗闇のなかじーっと待ったのだがあまり進展がなくて、そのうちなんでか警察がいっぱい現れたりしたので諦めて帰った。 そういうやばいかんじのだったの。
barbicanはクラシックのコンサートとかもやっている着席で見るホールなのでそういうふうにはならないと思うのだが、とホールに入ってみれば堤防のように防護壁のようにびっちり並べられたアンプが既にじゅうぶん異様な殺気を放っているので、どうしましょうせんせい? くらいのかんじにはなるのだが、もちろん帰るわけにはいかない。
前座のHildur Guðnadóttir(どう発音するのかいまだわからず)さんは電気チェロ、ということだったがほとんどがヴォイスお経がゴッシーにうねりまくるかんじで終わって、彼女はこの後のSunn O)))のほうにも参加していた。 休憩時間、まさかSunn O)))の観客はアイスクリームには行くまい、と思っていたのに割とみんなぺろぺろしているので、ふん俗物どもめが、とか思いつつ自分もマンゴーのを買って食べる。
Sunn O)))のライブは、べつにいいよね。 オレンジの煙もうもうのなかStar WarsのJawaの恰好のでっかいひとがひとり仁王立ちで祈祷みたいなのをごにょごにょ始めて気がつくと同じ恰好のメンバー4名が周りで蠢いていて、煙がオレンジから青に変わって更にけたたましくなり、そのうちお腹へって眩暈がしてきたので入口でもらった耳栓をしてみたのだがあまり効果はなくて、やがて祈祷のひとが消えて替わりになんかのお化けみたいなでっかいのが出てきて怪獣のように暴れはじめて、と思ったらとつぜんぷつんと終わる。
客席は総立ちで喝采していたが、なんかわかんねえけどすげえ、としか言いようがない拍手だった、よね。
彼らのあいだでいろんな教義だの戒律だのイデオロギーだのあるのかもしれないしそういう教義だの戒律だのが世界を創ったのかもしれんしこれから創るのかもしれないけど、どっちにしても世界がたち現れたときに鳴っていた音、生物がいない世界で響いていた音はたぶんこんなふうじゃ、とそこらの世界観、宇宙観、なんとか「観」的ななにかをふっとばすくらいに彼らの音は強固に分厚く鼓膜をぶち抜いてあたまぜんぶを圧してくる。 こんな雑音、という以前のところでこんなふうに鳴っている音がある、ヒト(かどうかわかんないけどねあの連中)によって再現しうる音がある、ということは知っておいたほうがいい。 見るべし聴くべしとか声高にいうつもりはないしそういう類のものでないことはわかっているけど、音楽は、アートは、ただ気持ちよくなったり元気をもらったりするだけのもんでは断じてない、ひとを殺すことだって戦争を起こすことだってできる、そういう制御不能なおそろしいなにかにもなりうる、てこと。 だからこそ我々はこんなふうに世界の奥底に降りてその地鳴りや地熱にじかに接しておく必要があるのだと思う。
アートを学ぶっていうのはそういうことで、Sunn O)))とかのライブに来るとそういうことを考えたりもする、し、花火大会のめちゃくちゃ盛大でやかましいやつ、わーい、みたいに思ったりもする。 ライブで接しなければまったく、なーんの意味もない、というあたりも含めて。
なんか撮影していたので、そのうち映像としてリリースされるかもしれません。
物販(お札とか絵馬とか)はやはりすごい行列だった。
3.25.2017
[log] March 25 2017
土曜日夕方、JFKまで車で久々に1時間超えでやっとこ着いて、チェックインカウンターのお母さんみたいにがっしりしたおばさんにラウンジにはあんた用にディナーが用意してあるから、この便の機内ではあんまりでないからしっかりお食べ、とか説教みたいに言われて、でも夕方にLESのフライドチキンのお店で唐揚げふたつと異様に軽くておいしいワッフル - 今日はNational Waffle Dayだよ! - をいただいてお腹いっぱいでひたすら眠いのでたぶん食べなくてもなんとかなる気がする。
とにかく帰りのJFKに来て、トニックウォーターだけ飲んでいて、これまでNew York - London間て片道ばかりで往復はなかったと思うので、少しうれしい。 3泊くらいで来るとこんなかんじになる、というのも体でわかったし。
20:15の出発まで好きなだけ思いっきり動き回れるはずの土曜日で、でも体力の消耗とはしゃぎすぎて買いすぎての心配と、そういう気疲れ防衛で動けなくなってしまう心配とかいろいろ交錯したのだったが、結果はこんなもんじゃろうか。
全体としては、寒かった。 まだ先週のスノーストームの雪があちこちに残っていて着いた日の晩はマイナス4℃だったし、翌朝はそのままマイナス6℃だったし。 でもなんだかとっても嬉かったことも白状しよう。
美術館3, 映画1, レコ屋はRough Trade NYも含めて3, 本屋3, 手荷物が肩に食いこんで痛い、くらいには買ってしまった。 想定外、とは言わせないけど、ロンドンになさそうなもの、を手に取り始めてしまうとしょーもないことになること、はようくわかった。 ロンドンとNYはちがう。 ちがうって散々言ってたしわかってたよね? なんでそれなのに手をだすのか、なんかのびょうきなのか。
しかもこれらを買って運ぶ先は定住先ではなくて、仮の宿なんだよ、あと1ヶ月したら出ていかなきゃいけないんだよ、どういうことか、どうなっちゃうかわかっているよね? ねえ。 とこんなふうに頭のなかでやりとりをするのに疲れちゃって、そこになんか読みたいのとか聴きたいのが転がっていたんだもの。 ついふらふらと(殴)。
3日くらいの滞在なのでメトロカードは$20のやつを買えば十分だろうって、でもそれはすぐになくなって$10足して、それもすぐになくなって$10たした。 それくらい全開で動いていたようで、でも全く疲れず、この場所は.. とか意識せずにぐいぐい動くことができて、ここもロンドンとは違うなあ、だった。 あそこではまだアプリとか標識の助けがないと行きたいところには行けない。 早くNYみたいになったらいいな。
22日の昼間、JFKに着いたら空港内のTVではウィンチェスターのテロで大騒ぎになっていた。
その前の日におうち探しで散策していた近所だった。 いまは祈ることしかできないし、その資格すら十分ないのかもしれないけど、でも待ってろ、なかんじはある。
着いたら日曜の朝8時くらいで、夏時間になっているはず。 もう冬がいなくなっていますように。
ではまた。
とにかく帰りのJFKに来て、トニックウォーターだけ飲んでいて、これまでNew York - London間て片道ばかりで往復はなかったと思うので、少しうれしい。 3泊くらいで来るとこんなかんじになる、というのも体でわかったし。
20:15の出発まで好きなだけ思いっきり動き回れるはずの土曜日で、でも体力の消耗とはしゃぎすぎて買いすぎての心配と、そういう気疲れ防衛で動けなくなってしまう心配とかいろいろ交錯したのだったが、結果はこんなもんじゃろうか。
全体としては、寒かった。 まだ先週のスノーストームの雪があちこちに残っていて着いた日の晩はマイナス4℃だったし、翌朝はそのままマイナス6℃だったし。 でもなんだかとっても嬉かったことも白状しよう。
美術館3, 映画1, レコ屋はRough Trade NYも含めて3, 本屋3, 手荷物が肩に食いこんで痛い、くらいには買ってしまった。 想定外、とは言わせないけど、ロンドンになさそうなもの、を手に取り始めてしまうとしょーもないことになること、はようくわかった。 ロンドンとNYはちがう。 ちがうって散々言ってたしわかってたよね? なんでそれなのに手をだすのか、なんかのびょうきなのか。
しかもこれらを買って運ぶ先は定住先ではなくて、仮の宿なんだよ、あと1ヶ月したら出ていかなきゃいけないんだよ、どういうことか、どうなっちゃうかわかっているよね? ねえ。 とこんなふうに頭のなかでやりとりをするのに疲れちゃって、そこになんか読みたいのとか聴きたいのが転がっていたんだもの。 ついふらふらと(殴)。
3日くらいの滞在なのでメトロカードは$20のやつを買えば十分だろうって、でもそれはすぐになくなって$10足して、それもすぐになくなって$10たした。 それくらい全開で動いていたようで、でも全く疲れず、この場所は.. とか意識せずにぐいぐい動くことができて、ここもロンドンとは違うなあ、だった。 あそこではまだアプリとか標識の助けがないと行きたいところには行けない。 早くNYみたいになったらいいな。
22日の昼間、JFKに着いたら空港内のTVではウィンチェスターのテロで大騒ぎになっていた。
その前の日におうち探しで散策していた近所だった。 いまは祈ることしかできないし、その資格すら十分ないのかもしれないけど、でも待ってろ、なかんじはある。
着いたら日曜の朝8時くらいで、夏時間になっているはず。 もう冬がいなくなっていますように。
ではまた。
3.22.2017
[log] March 22 2017
自分がどう動いているのかもよくわからないくらい、なんだか慌しくて、でもそれは100%自分のせいなのでなにをどうすることもできない。 とにかくずうっと眠い。
昨日は会社を早めにでて部屋を4つ見てから、近所のイタリアンデリでラザニア買って帰って、洗濯の合間にそれを食べてお掃除して洗濯もの干してからBarbicanにSunn O)))のライブを見にいって、戻ってきてからまたお片付けしてパッキングして、結局TVの”Hot Tub Time Machine”を最後まで見ちゃって、少しだけ寝て起きてさっき朝焼けのヒースローに着いて、これからNYに向かうの。
ヒースロー、朝で空いていたせいか車で30分かからなかった。
なああああんで、駐ロンドンになったのに最初の出張がNYなんだよおかしいだろ、ていう声とかつぶてとかがわんわん飛んでくるが、そんなことをまず考えてしまう君らのアタマをなんとかすべく、こうやって動いているのよ、ていうとよけいにわーわー言われる。
ただしばらくの間、おうちを見つけたりいろいろあるし、あんま動くつもりはなかったのでいろいろ予定も入れかけていて、昨晩のSunn O)))をやったライブのシリーズ(Convergence 2017ていうイベント)では、今晩、Manuel Göttsching performs E2-E4 + The Ash Ra Tempel Experienceとかあって、あとちょっとでチケットを買うところだった。 他には金曜日にTim Kasherさんのライブもあるし、BFIでもいろいろやっているし。
NYは土曜日の晩に発って日曜日の朝に戻ってくるので、土曜日の夕方くらいまでは自由に動けるはず、なのだがそういう状態での「自由」がどの程度のもんになるのか、これは体力も含めた実験みたいなもんで、なんのための実験かというと何回も行ったり来たりするための、だよね。(石ころ)
もうレコード屋も本屋も毎週通って欲しいの買ったりするようになっているので、東京にいたときほど、海の向こうの本とかレコードに対する飢えや渇きはないはずだよね、だからこれまでの出張のときみたいにそんなに買うものはないはずだよね、て自分のなかの真面目なパーツがいうのだが、ふしだらで不真面目なほうはイギリスとアメリカはぜんぜん違うのだから比べたってしょうがない、とか言ってる。
でもとにかくおうち決めないとほんとにやばい状態になりつつあるし、いくらレコード買ったって再生するオーディオすらないでしょ、置けないでしょ。 だから、そこは戻り次第あらためてちゃんとしましょうね、と。
ではまた。
昨日は会社を早めにでて部屋を4つ見てから、近所のイタリアンデリでラザニア買って帰って、洗濯の合間にそれを食べてお掃除して洗濯もの干してからBarbicanにSunn O)))のライブを見にいって、戻ってきてからまたお片付けしてパッキングして、結局TVの”Hot Tub Time Machine”を最後まで見ちゃって、少しだけ寝て起きてさっき朝焼けのヒースローに着いて、これからNYに向かうの。
ヒースロー、朝で空いていたせいか車で30分かからなかった。
なああああんで、駐ロンドンになったのに最初の出張がNYなんだよおかしいだろ、ていう声とかつぶてとかがわんわん飛んでくるが、そんなことをまず考えてしまう君らのアタマをなんとかすべく、こうやって動いているのよ、ていうとよけいにわーわー言われる。
ただしばらくの間、おうちを見つけたりいろいろあるし、あんま動くつもりはなかったのでいろいろ予定も入れかけていて、昨晩のSunn O)))をやったライブのシリーズ(Convergence 2017ていうイベント)では、今晩、Manuel Göttsching performs E2-E4 + The Ash Ra Tempel Experienceとかあって、あとちょっとでチケットを買うところだった。 他には金曜日にTim Kasherさんのライブもあるし、BFIでもいろいろやっているし。
NYは土曜日の晩に発って日曜日の朝に戻ってくるので、土曜日の夕方くらいまでは自由に動けるはず、なのだがそういう状態での「自由」がどの程度のもんになるのか、これは体力も含めた実験みたいなもんで、なんのための実験かというと何回も行ったり来たりするための、だよね。(石ころ)
もうレコード屋も本屋も毎週通って欲しいの買ったりするようになっているので、東京にいたときほど、海の向こうの本とかレコードに対する飢えや渇きはないはずだよね、だからこれまでの出張のときみたいにそんなに買うものはないはずだよね、て自分のなかの真面目なパーツがいうのだが、ふしだらで不真面目なほうはイギリスとアメリカはぜんぜん違うのだから比べたってしょうがない、とか言ってる。
でもとにかくおうち決めないとほんとにやばい状態になりつつあるし、いくらレコード買ったって再生するオーディオすらないでしょ、置けないでしょ。 だから、そこは戻り次第あらためてちゃんとしましょうね、と。
ではまた。
[film] Singles (1992)
3月20日、月曜日の晩、Prince Charles Cinemaでみました。
Prince Charles CinemaていうのはLeicester Squereの裏手にあるぼろそうな映画館で、ふたつのスクリーンで新しいのと名画座系のをごった煮で流していて、プログラムは毎日変わる。 今晩は”Ghost World” (2001)の35mm上映でメンバーだと£1で見れているし、今週の金曜の晩には”The Breakfast Club" (1985) をやると思ったら、成瀬の「浮雲」の35mm上映なんかがぽつんと入っていたりする。 油断ならない。 70mmとか35mmフィルムでの上映をいっぱいやってて - 昨晩の予告は"Interstellar” (2014)の70mm上映一本だけ - 気になってはいたのだが、ついに足を踏みいれることになってしまった。
先月の"Dirty Dancing"の30周年記念上映だと、あーあ、なのだが、"Singles"が25周年で、とか聞くとちょっとまてふざけんな、くらいのかんじにはなるよね。
で、この晩は,"Singles"の35mm版上映に続けて、"Almost Famous"も35mm、ということでこの並びで、どっちも35mmで見れることなんてもう死ぬまでないかも、と思ったので見てきた。 そんなひま、1ミリだってないのに。
シアターは、昔からたぶん映画館か劇場だったところで、椅子とかぼろぼろで深くて、あんま傾斜がないのがちょっと、なのだが、天井高くて音もすばらしかった。
Singles (1992)
これ、当時劇場では見ていなくて、これが公開された年は自分が米国に渡った年でもあって、当時のシアトル - グランジシーンに対するうんざり、ていうのもあったし、同様にMTVで始まっていたリアリティTV - "Real World"にもうんざりで、おまえらリアルリアルって、ばっかじゃねーの、そんな雑巾みたいに小汚い自分さらして何が楽しいの? ていう典型的な80's vs 90'sのくだんない諍いのまんなかでぶつぶつ言ってて、見る気にならなかったの。 見たのはその数年後にTVで、印象はずいぶん変わって悪くないじゃん、くらいで、そしてようやく昨日の。
この25年で、自分のなかのグランジに対する評価は180度ひっくりかえったし、シアトルにも結構行ってシアトルのひとがなんであんななのかもなんとなくわかってきたし、人って変わるもんよね。 納得できない(したくない)のは25年、てとこだけよね。
という状態で見たので、ああもうこれってすごいいいじゃん、しかなかった。 いくつかのカップル、いくつかのシングルス(空間のことでもある)のくっついたり離れたりのスケッチ、それだけなのだが、Matt Dillonのバンド野郎から彼に惚れちゃった Bridget Fondaから、会社員まで - そして、ああ、Bill Pullman.. - いろんなかっこ、いろんな髪型の人たちがふつうに隣同士で共存してカフェ(まだスタバはない)やライブハウスで会ったりだべったりしていたんだねえ、と。 みんな、孤独を極端におそれるわけでもなにがなんでも結婚を、でもなくて小汚さもそこそこあるけど、あれはただ無頓着なだけで、そこらの猫みたいにスペースが空いたらそこに座る、そんなもんなんだよね、って。
で、それらの雑多な愛すべき人たちとかいろんな音たちを天使のように包んでくれるのがPaul Westerbergの音楽なの。 彼の音だからこそできた芸当、かもしれない。
なにが流れてきてもどれもこれも名曲にしか聴こえないの。
なんかね、この頃、この映画で描かれたような(ある意味)理想郷って、いまはどこにあるのか、誰が描くことができるんだろうか、って。 それくらい遠くに来てしまったかも感があって考えさせられた。 それが25年ていうことだ、なら黙る... か、でも黙っちゃいけないよねこれ。 なんで右向いても左向いてもディストピアとか格差とか壁とか、そんなふうになっちゃったのか。 テクノロジーを使ったソーシャルななんか、が出てきたあたりからだろうか。 ここでのテクノロジーなんて、テープ使った留守電とか、車庫のリモコンとかそんなもんで、それでじゅうぶんだったのにね。
Richard Linklater の”Slacker” (1991)との違いについて考えることに意味はあるだろうか。
たぶんある。
終わったとこで、まばらな拍手。 そうかここはロンドンだった、と。
Almost Famous (2000)
これは2回めに米国に渡る直前くらいに劇場でみた。 この頃のCameron Croweは既に自分のなかでは巨匠だったのでなんの問題もなかった。
ロックライターとしてそのキャリアを始めたCrowe自身の自伝的な作品、というだけでなく、大人になる、ということと子供の音楽としてのロックがいかにして大人のそれになる/なりうるのか、という成長のはなしと、そこに産業としてのロックの興隆も絡めてダイナミックに描いている。 たしかにこうだったんだろうな、としか言いようのない説得力があるという以上に、はっきりとあの時代に向けた彼のラブレターでもあって、それがだらしない自己撞着にぶつかることなく真正面からロックの普遍性と可能性を語っていて、ぜんぜん異議なしである、と。 嫌だったのは邦題だけで、いまだにクソだとおもうわ。
35mmだとほんとにカラーが美しくて溜息ばかりだったのだが、その溜息すらも止まってしまったのがPenny Lane - Kate Hudsonの尋常じゃない美しさで、眩しすぎてとんでもないとおもった。 Emma StoneもJennifer LawrenceもここでのPennyにはかなわないだろう、くらいのすごさ。 番外編でモロッコに渡ったPenny Laneのその後、とかやってくれないかなー。
あと、Cameron Crowがその後も地味に追い続けているアメリカの家族の姿、の最初のかたち、がここにはあるの。(パパが弱かったりいなかったりママが強かったりいなかったり、いろいろパターンはあるけど、でも娘だけは不思議とぜったいかわいいの)
あと、Billy Crudupは、63年の”Jackie” 〜 73年のこれ 〜 79年の”20th Century Women”でいちおう筋の通った生き方をしている気がする。
終わったとこで、こっちは大拍手だった。
エンドロールで流れる”Feel Flows”がまた泣けるのよね。
ライブから帰ってきたところでふらふらなのだが、いまFilm4のチャンネルで”Boyhood” (2014)の最後のとこをやっていて、ううむ、て思った。ぜんぜんあたまが回っていないのだが。
とかぼーっとしていたら”Boyhood”は終わって”Hot Tub Time Machine” (2010)が始まってしまった。やばい。作業にかからねば。
Prince Charles CinemaていうのはLeicester Squereの裏手にあるぼろそうな映画館で、ふたつのスクリーンで新しいのと名画座系のをごった煮で流していて、プログラムは毎日変わる。 今晩は”Ghost World” (2001)の35mm上映でメンバーだと£1で見れているし、今週の金曜の晩には”The Breakfast Club" (1985) をやると思ったら、成瀬の「浮雲」の35mm上映なんかがぽつんと入っていたりする。 油断ならない。 70mmとか35mmフィルムでの上映をいっぱいやってて - 昨晩の予告は"Interstellar” (2014)の70mm上映一本だけ - 気になってはいたのだが、ついに足を踏みいれることになってしまった。
先月の"Dirty Dancing"の30周年記念上映だと、あーあ、なのだが、"Singles"が25周年で、とか聞くとちょっとまてふざけんな、くらいのかんじにはなるよね。
で、この晩は,"Singles"の35mm版上映に続けて、"Almost Famous"も35mm、ということでこの並びで、どっちも35mmで見れることなんてもう死ぬまでないかも、と思ったので見てきた。 そんなひま、1ミリだってないのに。
シアターは、昔からたぶん映画館か劇場だったところで、椅子とかぼろぼろで深くて、あんま傾斜がないのがちょっと、なのだが、天井高くて音もすばらしかった。
Singles (1992)
これ、当時劇場では見ていなくて、これが公開された年は自分が米国に渡った年でもあって、当時のシアトル - グランジシーンに対するうんざり、ていうのもあったし、同様にMTVで始まっていたリアリティTV - "Real World"にもうんざりで、おまえらリアルリアルって、ばっかじゃねーの、そんな雑巾みたいに小汚い自分さらして何が楽しいの? ていう典型的な80's vs 90'sのくだんない諍いのまんなかでぶつぶつ言ってて、見る気にならなかったの。 見たのはその数年後にTVで、印象はずいぶん変わって悪くないじゃん、くらいで、そしてようやく昨日の。
この25年で、自分のなかのグランジに対する評価は180度ひっくりかえったし、シアトルにも結構行ってシアトルのひとがなんであんななのかもなんとなくわかってきたし、人って変わるもんよね。 納得できない(したくない)のは25年、てとこだけよね。
という状態で見たので、ああもうこれってすごいいいじゃん、しかなかった。 いくつかのカップル、いくつかのシングルス(空間のことでもある)のくっついたり離れたりのスケッチ、それだけなのだが、Matt Dillonのバンド野郎から彼に惚れちゃった Bridget Fondaから、会社員まで - そして、ああ、Bill Pullman.. - いろんなかっこ、いろんな髪型の人たちがふつうに隣同士で共存してカフェ(まだスタバはない)やライブハウスで会ったりだべったりしていたんだねえ、と。 みんな、孤独を極端におそれるわけでもなにがなんでも結婚を、でもなくて小汚さもそこそこあるけど、あれはただ無頓着なだけで、そこらの猫みたいにスペースが空いたらそこに座る、そんなもんなんだよね、って。
で、それらの雑多な愛すべき人たちとかいろんな音たちを天使のように包んでくれるのがPaul Westerbergの音楽なの。 彼の音だからこそできた芸当、かもしれない。
なにが流れてきてもどれもこれも名曲にしか聴こえないの。
なんかね、この頃、この映画で描かれたような(ある意味)理想郷って、いまはどこにあるのか、誰が描くことができるんだろうか、って。 それくらい遠くに来てしまったかも感があって考えさせられた。 それが25年ていうことだ、なら黙る... か、でも黙っちゃいけないよねこれ。 なんで右向いても左向いてもディストピアとか格差とか壁とか、そんなふうになっちゃったのか。 テクノロジーを使ったソーシャルななんか、が出てきたあたりからだろうか。 ここでのテクノロジーなんて、テープ使った留守電とか、車庫のリモコンとかそんなもんで、それでじゅうぶんだったのにね。
Richard Linklater の”Slacker” (1991)との違いについて考えることに意味はあるだろうか。
たぶんある。
終わったとこで、まばらな拍手。 そうかここはロンドンだった、と。
Almost Famous (2000)
これは2回めに米国に渡る直前くらいに劇場でみた。 この頃のCameron Croweは既に自分のなかでは巨匠だったのでなんの問題もなかった。
ロックライターとしてそのキャリアを始めたCrowe自身の自伝的な作品、というだけでなく、大人になる、ということと子供の音楽としてのロックがいかにして大人のそれになる/なりうるのか、という成長のはなしと、そこに産業としてのロックの興隆も絡めてダイナミックに描いている。 たしかにこうだったんだろうな、としか言いようのない説得力があるという以上に、はっきりとあの時代に向けた彼のラブレターでもあって、それがだらしない自己撞着にぶつかることなく真正面からロックの普遍性と可能性を語っていて、ぜんぜん異議なしである、と。 嫌だったのは邦題だけで、いまだにクソだとおもうわ。
35mmだとほんとにカラーが美しくて溜息ばかりだったのだが、その溜息すらも止まってしまったのがPenny Lane - Kate Hudsonの尋常じゃない美しさで、眩しすぎてとんでもないとおもった。 Emma StoneもJennifer LawrenceもここでのPennyにはかなわないだろう、くらいのすごさ。 番外編でモロッコに渡ったPenny Laneのその後、とかやってくれないかなー。
あと、Cameron Crowがその後も地味に追い続けているアメリカの家族の姿、の最初のかたち、がここにはあるの。(パパが弱かったりいなかったりママが強かったりいなかったり、いろいろパターンはあるけど、でも娘だけは不思議とぜったいかわいいの)
あと、Billy Crudupは、63年の”Jackie” 〜 73年のこれ 〜 79年の”20th Century Women”でいちおう筋の通った生き方をしている気がする。
終わったとこで、こっちは大拍手だった。
エンドロールで流れる”Feel Flows”がまた泣けるのよね。
ライブから帰ってきたところでふらふらなのだが、いまFilm4のチャンネルで”Boyhood” (2014)の最後のとこをやっていて、ううむ、て思った。ぜんぜんあたまが回っていないのだが。
とかぼーっとしていたら”Boyhood”は終わって”Hot Tub Time Machine” (2010)が始まってしまった。やばい。作業にかからねば。
3.21.2017
[music] Stick in The Wheel present FROM HERE: English Folk Field Recordings
19日の日曜日の晩、Cafe OTOでみました。
British Folkのいろんな人たち、バンドが寄席みたいに次々出てきて2〜3曲やって次に替わっていく形式の週末の二日間。
20:00くらいに始まって、休憩一回挟んで23:00過ぎに終わった。 椅子に座れたからよかったけど、Slapp Happyのときみたいな立ち見だったらもたなかった。
告知によると次のような方々が出ていたはずなのだが、自己も他己も紹介なんて殆どしないで勝手に始めては去っていくので誰が誰だかわかりゃしない。
Martin Carthy + Peta Webb + Ken Hall + Eliza Carthy + Jack Sharp + Men Diamler + Fran Foote + Nicola Kearey + Stew Simpson + Laura Smyth & Ted Kemp + Cunning Folk
見たいと思ったわけはMartin Carthy翁が出ていたからで、ものすごく失礼なことだがもうとっくに死んじゃったひとだと思っていたのに生きていた - なら見なきゃ、ていうのと、こないだShirley Collinsのライブを聴いて英国のフォークにいろいろ興味が湧いてきた、ていうのと。
イベントはFrom Here RecordsをたちあげたフォークバンドStick In The Wheel - 昨晩もメンバーは出ていたはずだが先に書いたように誰が誰やら - が企画したその場の一発録りで製作したレコードのライブバージョン - ややこしいな、要するに昔のフォークの人たちがカフェとかで普通にやっていたようなライブをライブでやるから、と。
なのでセッティングも音合わせもほとんどなく - 唯一ギターのチューニングくらいで、やあやあって出てくると、今からやるのはこういう歌 - どこそこの地域で歌われていたやつを誰それがアレンジしたバージョンで、みんなも知ってたら一緒に歌おう - とか例えば、そんなふうに紹介してそのまま大きく息を吸っていきなり歌いだす。 ギターを抱えたひともいるが、ほとんどはアカペラでマイクもいらないくらいのでっかい声で浪々と。 でさらにびっくりするのは客席側(年齢層はそりゃ高めよ)も歌うんだよ、よいかんじで。
なんか、いろんなことについていけてない転校生みたいだとおもった。ついていけるわきゃないのだが。
すばらしい歌声を聞かせてくれた若者(君の名前なに?)が言っていたのが、子供の頃から周りにはいろんな歌が溢れていて、はじめはなんの意味だかわからずに、でも好きだからなんとなく歌っていて、そうして歳をとっていくうちにだんだん意味がわかっておもしろくなって、そうやってますますその歌が好きになって、と。 そんなふうに歌いこまれてきた歌たちだからわるいわけがあろうか。
Jeff Buckleyや二階堂和美の声に初めて出会ったときの驚き、がごろごろふつうに転がっている、というか。
Martin Carthyさんはフィドルと歌担当の娘のEliza Carthyさんとのデュオで、延々チューニングしながら親子漫談をやってて楽しいのだが、音楽に入るとなんかとぐろの巻き具合というかギターも含めた重量感がものすごくて、さすが人間国宝だわ、"Scarborough Fair"の元ネタのひとだわ、と改めておもった。 一曲だけNick Drakeのママの歌です、ってあのアルバムの一曲目の"Happiness"をやって、全体を通しても知っていたのはこの曲くらいだった。
これらは英国やアイルランドのいろんな地方で歌い継がれてきた歌で、もちろんそういうのはここだけではなくてこんなの世界中どこにだってあるしあったし。でもそのことが疎かにされて、みんなで同じひとつの歌を歌っていればいいじゃん、みたいな、しかもその「みんな」の括りはなんでか「国」だったりという、とても危険な兆候を感じていて、なのでこれは決して単純なノスタルジアへの回帰とか疲れたからローカル、なんかではなく、地味な、それこそ60年代からずっと続いている戦い、戦いの作法でもあるのよね、と。
買って帰ったFrom Hereのレコードの裏にはこう書いてあった。 なんかよいの。
"From a stone cottage in Edale, a London bank vault, a Bristol back room, to a Robin Hood's Bay garden at dusk, a Bedford kitchen - each artist was asked to think about what From Here meant to them - by way of place or geography, as a way of looking back to musical origins, or simply where they are at this very moment in time: 'here's what I am, this is where I'm from' - Then we just recorded them live, in situ, two stereo mics, no overdubs. Exactly as if you were right there."
帰り、日曜の23時過ぎだし、小屋の最寄の駅から2回乗り換えねばならなくて終電が心配だったのだが、ぎりぎりでなんとかなった。
British Folkのいろんな人たち、バンドが寄席みたいに次々出てきて2〜3曲やって次に替わっていく形式の週末の二日間。
20:00くらいに始まって、休憩一回挟んで23:00過ぎに終わった。 椅子に座れたからよかったけど、Slapp Happyのときみたいな立ち見だったらもたなかった。
告知によると次のような方々が出ていたはずなのだが、自己も他己も紹介なんて殆どしないで勝手に始めては去っていくので誰が誰だかわかりゃしない。
Martin Carthy + Peta Webb + Ken Hall + Eliza Carthy + Jack Sharp + Men Diamler + Fran Foote + Nicola Kearey + Stew Simpson + Laura Smyth & Ted Kemp + Cunning Folk
見たいと思ったわけはMartin Carthy翁が出ていたからで、ものすごく失礼なことだがもうとっくに死んじゃったひとだと思っていたのに生きていた - なら見なきゃ、ていうのと、こないだShirley Collinsのライブを聴いて英国のフォークにいろいろ興味が湧いてきた、ていうのと。
イベントはFrom Here RecordsをたちあげたフォークバンドStick In The Wheel - 昨晩もメンバーは出ていたはずだが先に書いたように誰が誰やら - が企画したその場の一発録りで製作したレコードのライブバージョン - ややこしいな、要するに昔のフォークの人たちがカフェとかで普通にやっていたようなライブをライブでやるから、と。
なのでセッティングも音合わせもほとんどなく - 唯一ギターのチューニングくらいで、やあやあって出てくると、今からやるのはこういう歌 - どこそこの地域で歌われていたやつを誰それがアレンジしたバージョンで、みんなも知ってたら一緒に歌おう - とか例えば、そんなふうに紹介してそのまま大きく息を吸っていきなり歌いだす。 ギターを抱えたひともいるが、ほとんどはアカペラでマイクもいらないくらいのでっかい声で浪々と。 でさらにびっくりするのは客席側(年齢層はそりゃ高めよ)も歌うんだよ、よいかんじで。
なんか、いろんなことについていけてない転校生みたいだとおもった。ついていけるわきゃないのだが。
すばらしい歌声を聞かせてくれた若者(君の名前なに?)が言っていたのが、子供の頃から周りにはいろんな歌が溢れていて、はじめはなんの意味だかわからずに、でも好きだからなんとなく歌っていて、そうして歳をとっていくうちにだんだん意味がわかっておもしろくなって、そうやってますますその歌が好きになって、と。 そんなふうに歌いこまれてきた歌たちだからわるいわけがあろうか。
Jeff Buckleyや二階堂和美の声に初めて出会ったときの驚き、がごろごろふつうに転がっている、というか。
Martin Carthyさんはフィドルと歌担当の娘のEliza Carthyさんとのデュオで、延々チューニングしながら親子漫談をやってて楽しいのだが、音楽に入るとなんかとぐろの巻き具合というかギターも含めた重量感がものすごくて、さすが人間国宝だわ、"Scarborough Fair"の元ネタのひとだわ、と改めておもった。 一曲だけNick Drakeのママの歌です、ってあのアルバムの一曲目の"Happiness"をやって、全体を通しても知っていたのはこの曲くらいだった。
これらは英国やアイルランドのいろんな地方で歌い継がれてきた歌で、もちろんそういうのはここだけではなくてこんなの世界中どこにだってあるしあったし。でもそのことが疎かにされて、みんなで同じひとつの歌を歌っていればいいじゃん、みたいな、しかもその「みんな」の括りはなんでか「国」だったりという、とても危険な兆候を感じていて、なのでこれは決して単純なノスタルジアへの回帰とか疲れたからローカル、なんかではなく、地味な、それこそ60年代からずっと続いている戦い、戦いの作法でもあるのよね、と。
買って帰ったFrom Hereのレコードの裏にはこう書いてあった。 なんかよいの。
"From a stone cottage in Edale, a London bank vault, a Bristol back room, to a Robin Hood's Bay garden at dusk, a Bedford kitchen - each artist was asked to think about what From Here meant to them - by way of place or geography, as a way of looking back to musical origins, or simply where they are at this very moment in time: 'here's what I am, this is where I'm from' - Then we just recorded them live, in situ, two stereo mics, no overdubs. Exactly as if you were right there."
帰り、日曜の23時過ぎだし、小屋の最寄の駅から2回乗り換えねばならなくて終電が心配だったのだが、ぎりぎりでなんとかなった。
[film] Night Moves (2013)
少し戻って、13日の月曜日の晩、BFIで見ました。 ここで続いていたKelly Reichardt特集の最後の一本で、”Meek’s Cutoff” (2010)と最新作の”Certain Women” (2016) の間にリリースされたやつなので、見ないわけにはいかない。
西の田舎でやや過激な環境保護活動のグループに入っているJosh (Jesse Eisenberg)とDena (Dakota Fanning)はずっと練っていた大企業のダムを爆破する計画を実行すべく、周到に計画を立ててボートとか爆薬(農薬から加工・調合する)とかを調達してそういう活動のベテランのHarmon (Peter Sarsgaard)と落ち合い、3人で夜中にキャンプ場の奥にあるダムまで漕いでいって爆薬を仕掛けて実行する。 爆破工作自体はうまくいって、現場から遠ざかって身を隠すことにも成功するのだが、キャンプ客のなかにまったく予期していなかった犠牲者がでて愕然として、だんだん時間が経つにつれてどんよりしていくの。
タイトルの”Night Moves”は計画実行のために買ったボートに付いていた名前なのだが、それだけでなくて夜中にいろいろ考えたり悩んだりするうちにゆっくりと頭のなかで進行・浸食していくいろんな想念とか逡巡とか罪の意識とか、ていうのもある。
これまでに見たKelly Reichardtの作品がなにか決定的な手を下す直前までの主人公の沸騰していく強い想い - 主に女性の - を刻々と描いていたのに対して、この作品は手を下してしまった後の彷徨い、落ち着きのなさを - 主に男性のJoshの目で描いている。 より正確には事件の後に引き篭もって肌もぼろぼろになってしまったDenaのことを心配しているうちに彼女のなんてことを… という罪の意識がJoshに感染して思考や視界を縛り奪っていく、というか。
そして、これがあなただったらどうする? というのを常に聞いてくる。というか監督の自問自答する声が向こうから聞こえてくる。
それにしても、ここでのJesse Eisenbergの孤独とおそろしさ、これまでの彼が演じてきたキャラクター - ナードでおどおどしているけど根はそんなに悪いひとではなさそう - の普段はふつうに真面目に働いている農家の青年がやがて底なしの闇とその暗さをひっかぶって何を考えているのかわからない犯罪者の容貌に変わっていく、その生々しさがとても怖くておそろしくて、ああすごい俳優さんだねえ、て今更ながらに思った。 本人は否定するかもしれないが、タイプとしてはKristen Stewartの得体の知れない暗さと同質のものを感じる。 内面が、皮膚の向こう側がまったく見えない一貫性を欠いたような演技をして、その不可視なかんじが画面全体を支配してしまう。 とにかく犯罪者の顔に変わってしまう瞬間がすごくて。
彼女の作品はずっとTodd Haynesが製作に関わっているのだが、その観点からも日本でもっと紹介されてもいいのにー。
西の田舎でやや過激な環境保護活動のグループに入っているJosh (Jesse Eisenberg)とDena (Dakota Fanning)はずっと練っていた大企業のダムを爆破する計画を実行すべく、周到に計画を立ててボートとか爆薬(農薬から加工・調合する)とかを調達してそういう活動のベテランのHarmon (Peter Sarsgaard)と落ち合い、3人で夜中にキャンプ場の奥にあるダムまで漕いでいって爆薬を仕掛けて実行する。 爆破工作自体はうまくいって、現場から遠ざかって身を隠すことにも成功するのだが、キャンプ客のなかにまったく予期していなかった犠牲者がでて愕然として、だんだん時間が経つにつれてどんよりしていくの。
タイトルの”Night Moves”は計画実行のために買ったボートに付いていた名前なのだが、それだけでなくて夜中にいろいろ考えたり悩んだりするうちにゆっくりと頭のなかで進行・浸食していくいろんな想念とか逡巡とか罪の意識とか、ていうのもある。
これまでに見たKelly Reichardtの作品がなにか決定的な手を下す直前までの主人公の沸騰していく強い想い - 主に女性の - を刻々と描いていたのに対して、この作品は手を下してしまった後の彷徨い、落ち着きのなさを - 主に男性のJoshの目で描いている。 より正確には事件の後に引き篭もって肌もぼろぼろになってしまったDenaのことを心配しているうちに彼女のなんてことを… という罪の意識がJoshに感染して思考や視界を縛り奪っていく、というか。
そして、これがあなただったらどうする? というのを常に聞いてくる。というか監督の自問自答する声が向こうから聞こえてくる。
それにしても、ここでのJesse Eisenbergの孤独とおそろしさ、これまでの彼が演じてきたキャラクター - ナードでおどおどしているけど根はそんなに悪いひとではなさそう - の普段はふつうに真面目に働いている農家の青年がやがて底なしの闇とその暗さをひっかぶって何を考えているのかわからない犯罪者の容貌に変わっていく、その生々しさがとても怖くておそろしくて、ああすごい俳優さんだねえ、て今更ながらに思った。 本人は否定するかもしれないが、タイプとしてはKristen Stewartの得体の知れない暗さと同質のものを感じる。 内面が、皮膚の向こう側がまったく見えない一貫性を欠いたような演技をして、その不可視なかんじが画面全体を支配してしまう。 とにかく犯罪者の顔に変わってしまう瞬間がすごくて。
彼女の作品はずっとTodd Haynesが製作に関わっているのだが、その観点からも日本でもっと紹介されてもいいのにー。
[dance] Flight Pattern
18日の土曜日の晩、Royal Opera Houseでみました。
金曜日、週末なんかないかなー、と探していたら、たまたま一枚だけ、悪くない席(オーケストラのまんなかのまんなか)のチケット(£50)があったので買って、見た。
前にみた"Woolf Works"と同じくRoyal Balletのモダンで、たぶんシーズンオフということなのかもしれないが、若手のコレオグラファー3人の作品を纏めて見ることができる。 モダンダンスに関しては、いつまでWilliam Forsythe, Pina Bausch, Anne Teresa De Keersmaeker, Trisha Brown などの周辺をぐるぐるまわっているのかと、それは自分がだめなだけなのだが、モダンに関してはここ10年くらいのひとの身体のありようの変化(があったと思っている)、をなんとか反映しようと試みる若いひとたちの作品を見ておきたい、とずっと思っていたのだった。
(音楽に関してもおなじでしょ? と20年前 - 30年前のばかりに籠るようになってしまった気がする自分を反省したりもするのだが、だってつまんないの多いんだも殴)
ただし、伝統と格式(たぶん)のRoyal Opera House、であるからめちゃくちゃハイパーで尖がってて見にきた大多数のお年寄りが泡吹いて倒れちゃっうようなやつだとまずいので、動きとしてはあくまでもクラシックのフレームを少し広げて敷延、といったかんじものものが多い。この辺はABTのモダンとも似ていて、NHK教育TV(てもうないけど)ぽい、というか。
The Human Seasons
振付はDavid Dawson, 音楽はGreg Haines
タイトルはキーツの同名の詩から取られていて、一年に4つの季節があるように人の心にも4つの季節があってさ、とふたり組のダンサー x 4(+とりまきの花とか虫とか- たぶん)がそれぞれの季節のダイナミズムとかエモとかパッションをストレートにわかりやすく表現している。 冬の枯れ木の固く絡まったかんじとか、なかなかすてき。 あと少しだけ、季節の移ろいとか諸行無常なかんじが出せたらなー、とか。
After the Rain
振付はChristopher Wheeldon, 音楽はArvo Pärt
2パートからできていて最初のが3組の青灰色のコスチュームによるアンサンブル、背景にはロスコ的な爛れた青灰色の四角の枠がふたつあって、その面積がゆったり変わっていって、後半のパートは薄桃色のコスチュームのふたりのpas de deuxで、After the Rainのかんじがとてもよくでていてよいの。
振付のひとは93年にNY City Balletに入ったそうで、だとしたら、どこかできっと見ているはず。 振付もBalanchineぽくちゃかちゃか華やかでわかりやすい。
Flight Pattern
振付はカナダのCrystal Pite, 音楽はHenryk Mikołaj Górecki
これが一番見たくて、一番おもしろかったかも。
薄暗い照明のなかで、薄暗い色のコートを羽織って列をつくり固まって移動している or 連れ去られようとしている or 蠢いている集団があって、時にその隊列が乱れたり割れたり部分的に崩れたり諍いがあったり、やがて集団は分断されて -。
"Flight Pattern”というのが集団が自分たちで決めたパターンなのか、彼らではない誰かが決めたパターンなのか、どちらにしても先の見えない危機感や焦燥がその集団を支配していて、そういうなかでの亀裂や部分的な衝突や奪いあいが全体の動きになにをもたらすのか、などなど。 照明の暗さ(なにをどこまで見せたいのか)と群舞の難しさ(なにをどこまでコントロールするか)の両方をうまく克服していて、今の時代のカオスの紙一重のありようが見事に示されていると思った。
あと、全体として、音楽がオーケストラピットでのライブ、ていうのは大きいよね。PärtやGóreckiの音、ライブだとものすごく生々しく感じるし、そもそもそういう(ライブで聴かれる、踊られる)ものとしてあるのでは、くらいに思ったりした。
今回はアイスクリームはやめたけど、食べないと食べたくなるねえ。
金曜日、週末なんかないかなー、と探していたら、たまたま一枚だけ、悪くない席(オーケストラのまんなかのまんなか)のチケット(£50)があったので買って、見た。
前にみた"Woolf Works"と同じくRoyal Balletのモダンで、たぶんシーズンオフということなのかもしれないが、若手のコレオグラファー3人の作品を纏めて見ることができる。 モダンダンスに関しては、いつまでWilliam Forsythe, Pina Bausch, Anne Teresa De Keersmaeker, Trisha Brown などの周辺をぐるぐるまわっているのかと、それは自分がだめなだけなのだが、モダンに関してはここ10年くらいのひとの身体のありようの変化(があったと思っている)、をなんとか反映しようと試みる若いひとたちの作品を見ておきたい、とずっと思っていたのだった。
(音楽に関してもおなじでしょ? と20年前 - 30年前のばかりに籠るようになってしまった気がする自分を反省したりもするのだが、だってつまんないの多いんだも殴)
ただし、伝統と格式(たぶん)のRoyal Opera House、であるからめちゃくちゃハイパーで尖がってて見にきた大多数のお年寄りが泡吹いて倒れちゃっうようなやつだとまずいので、動きとしてはあくまでもクラシックのフレームを少し広げて敷延、といったかんじものものが多い。この辺はABTのモダンとも似ていて、NHK教育TV(てもうないけど)ぽい、というか。
The Human Seasons
振付はDavid Dawson, 音楽はGreg Haines
タイトルはキーツの同名の詩から取られていて、一年に4つの季節があるように人の心にも4つの季節があってさ、とふたり組のダンサー x 4(+とりまきの花とか虫とか- たぶん)がそれぞれの季節のダイナミズムとかエモとかパッションをストレートにわかりやすく表現している。 冬の枯れ木の固く絡まったかんじとか、なかなかすてき。 あと少しだけ、季節の移ろいとか諸行無常なかんじが出せたらなー、とか。
After the Rain
振付はChristopher Wheeldon, 音楽はArvo Pärt
2パートからできていて最初のが3組の青灰色のコスチュームによるアンサンブル、背景にはロスコ的な爛れた青灰色の四角の枠がふたつあって、その面積がゆったり変わっていって、後半のパートは薄桃色のコスチュームのふたりのpas de deuxで、After the Rainのかんじがとてもよくでていてよいの。
振付のひとは93年にNY City Balletに入ったそうで、だとしたら、どこかできっと見ているはず。 振付もBalanchineぽくちゃかちゃか華やかでわかりやすい。
Flight Pattern
振付はカナダのCrystal Pite, 音楽はHenryk Mikołaj Górecki
これが一番見たくて、一番おもしろかったかも。
薄暗い照明のなかで、薄暗い色のコートを羽織って列をつくり固まって移動している or 連れ去られようとしている or 蠢いている集団があって、時にその隊列が乱れたり割れたり部分的に崩れたり諍いがあったり、やがて集団は分断されて -。
"Flight Pattern”というのが集団が自分たちで決めたパターンなのか、彼らではない誰かが決めたパターンなのか、どちらにしても先の見えない危機感や焦燥がその集団を支配していて、そういうなかでの亀裂や部分的な衝突や奪いあいが全体の動きになにをもたらすのか、などなど。 照明の暗さ(なにをどこまで見せたいのか)と群舞の難しさ(なにをどこまでコントロールするか)の両方をうまく克服していて、今の時代のカオスの紙一重のありようが見事に示されていると思った。
あと、全体として、音楽がオーケストラピットでのライブ、ていうのは大きいよね。PärtやGóreckiの音、ライブだとものすごく生々しく感じるし、そもそもそういう(ライブで聴かれる、踊られる)ものとしてあるのでは、くらいに思ったりした。
今回はアイスクリームはやめたけど、食べないと食べたくなるねえ。
3.18.2017
[film] The Lost City of Z (2016)
15日の晩、BFIで見ました。 毎夕毎晩CurzonとBFIを行ったりきたりしているようで、実際そうなのだが、そういうこともあるのよ。 毎日毎日おなじ会社のおなじ机に通うのとおなじようなもんなのよ。
正式公開は来週の、これもプレビューで、35mmによる上映で、上映前に原作者のDavid Grann氏による紹介つき。
オープニングでBFIのおばさんが、35mmで見れるのは本当にラッキーよ、とおおおっても美しいから、と震えながら話していたが、嘘じゃなかった。 本当に美しかった。
原作者のGrann氏は、Brad Pittのプロダクションから映画化権の電話があったのが2008年で、これは自分にとって最初の本だったのでえらく興奮していよいよ映画産業界入りだ、と喜んだものの、1年たっても2年たってもちっとも進んでいるようには見えなくて、気がついたらここまで来ていた、映画って大変なんだねえ、って。 でもそれだけ待った甲斐はじゅうぶんあった、と。
個人的にはJames Grayの待望の新作 - 昨年のNYFFのクロージング作品で、これの上映タイミングに合わせていろいろ画策したけど(1 - 2日ちがいだったんだよちきしょう)無理だったのがようやく。そしてこれをもって昨年のNYFF上映作品で見たいよう、って呻いたやつはぜんぶ見れた、はず。
原作は20世紀初に実在した英国の探検家Percy Fawcett (Charlie Hunnam) - 当時まだぜんぜん未知の未開の地だったアマゾン川流域を探検して西欧人からすると想像を超える、でも発達した文明の痕跡がある遺跡、のようななにかを見つけてそれを"City of Z"と呼び、それに憑りつかれて旅を続ける彼と探検の相棒(Robert Pattinson)英国に置かれた妻 (Sienna Miller)と子供たちのお話。
Indiana JonesものとかこないだのKongのような、密林・秘境に分けいるただのアドベンチャーものかと思っていたらぜんぜんちがうの。
立派な軍人として英国地理協会から南米ボリビア周辺の国境の線引きを依頼されて、現地に行ってから死の界を彷徨うような苦労して戻って国の英雄になって、もう一回行って、戻ってきたら今度はメンバーの一人を見捨てたとかいろいろ言われて、その後に第一次大戦に従軍して負傷して、ふたたび息子(Tom Holland)と共にアマゾンに赴く。
時間軸が長くて地理的な移動距離も相当なのだが、これは紛れもなく自身が帰属する場所・土地・社会や家族との歓びや摩擦や葛藤を通して自身の生を掘り下げ探り続ける人たちの像を描いてきたJames Grayの映画に他ならないの。 前作の"The Immigrant” (2013)で約束の地New Yorkに着いても離ればなれにされ痛めつけられ、それでも踏みとどまろうとした移民たちの思いは、存在しないかもしれないCity of Zと、夫であり父であるPercyを待ち続ける英国の家族との間で引き裂かれていて、でもそれでも人は移動をやめない。 旅をし、移動することでのみ、ひとは自分が繋ぎとめられるべき土地を、亡骸が葬られるべき地面を自分のものにすることができるのだ、と言っているみたい。
で、そこにもちろん答えはないの。City of Zが存在するかなんて誰にも言えないしわからないのだが、でもPercyはかの地に向かわないわけにはいかない。
そしてそれが男のしょーもないロマンとか野望とか、そういう自己愛/実現系のなんかとしてではなく、闇の奥のLost Cityに魂を持っていかれて抗うことができなくなった男の悲劇(でもないか)のように描かれる。
そしてこの物語が、NYへの移民の物語に続き、世界中に国や街を失ってしまった人々が溢れてしまった今の時代にリリースされたことは決して偶然ではないと思うの。
ジャングルのなかのとてつもない緊張感(びゅんびゅん飛んでくる矢とか虫とか病気とか)、英国に戻ったときの安息と落ち着き、戦場のどうしようもない閉塞と絶望、そしてラストの …
場面場面のスペクタクルとアップダウンがめちゃくちゃ激しいのだが、死の恐怖はどこに行っても延々ついてきて、それなのに"The Immigrant"にもあった屋外・屋内の光の柔らかさと美しさはどの画面にも満ちていているのでうわー、て溜息をついているうちに終わってしまう。
前日の”Personal Shopper”もそうだったが、とてつもなくおっかなくて泣きそうなことが立て続けに起こっているのに画面が美しすぎるので釘付けで、なんかしょうもなかった。
音楽は何度かラヴェルの「ダフニスとクロエ」が流れてきて、これも盛りあがってのー。
日本にも35mmの缶からが行きますように。
ジャングルもLost Cityもいいけど、Lost House状態の今の自分をなんとかしろ。
そろそろ住むとこみつけないと、ほんとしんないからな。
正式公開は来週の、これもプレビューで、35mmによる上映で、上映前に原作者のDavid Grann氏による紹介つき。
オープニングでBFIのおばさんが、35mmで見れるのは本当にラッキーよ、とおおおっても美しいから、と震えながら話していたが、嘘じゃなかった。 本当に美しかった。
原作者のGrann氏は、Brad Pittのプロダクションから映画化権の電話があったのが2008年で、これは自分にとって最初の本だったのでえらく興奮していよいよ映画産業界入りだ、と喜んだものの、1年たっても2年たってもちっとも進んでいるようには見えなくて、気がついたらここまで来ていた、映画って大変なんだねえ、って。 でもそれだけ待った甲斐はじゅうぶんあった、と。
個人的にはJames Grayの待望の新作 - 昨年のNYFFのクロージング作品で、これの上映タイミングに合わせていろいろ画策したけど(1 - 2日ちがいだったんだよちきしょう)無理だったのがようやく。そしてこれをもって昨年のNYFF上映作品で見たいよう、って呻いたやつはぜんぶ見れた、はず。
原作は20世紀初に実在した英国の探検家Percy Fawcett (Charlie Hunnam) - 当時まだぜんぜん未知の未開の地だったアマゾン川流域を探検して西欧人からすると想像を超える、でも発達した文明の痕跡がある遺跡、のようななにかを見つけてそれを"City of Z"と呼び、それに憑りつかれて旅を続ける彼と探検の相棒(Robert Pattinson)英国に置かれた妻 (Sienna Miller)と子供たちのお話。
Indiana JonesものとかこないだのKongのような、密林・秘境に分けいるただのアドベンチャーものかと思っていたらぜんぜんちがうの。
立派な軍人として英国地理協会から南米ボリビア周辺の国境の線引きを依頼されて、現地に行ってから死の界を彷徨うような苦労して戻って国の英雄になって、もう一回行って、戻ってきたら今度はメンバーの一人を見捨てたとかいろいろ言われて、その後に第一次大戦に従軍して負傷して、ふたたび息子(Tom Holland)と共にアマゾンに赴く。
時間軸が長くて地理的な移動距離も相当なのだが、これは紛れもなく自身が帰属する場所・土地・社会や家族との歓びや摩擦や葛藤を通して自身の生を掘り下げ探り続ける人たちの像を描いてきたJames Grayの映画に他ならないの。 前作の"The Immigrant” (2013)で約束の地New Yorkに着いても離ればなれにされ痛めつけられ、それでも踏みとどまろうとした移民たちの思いは、存在しないかもしれないCity of Zと、夫であり父であるPercyを待ち続ける英国の家族との間で引き裂かれていて、でもそれでも人は移動をやめない。 旅をし、移動することでのみ、ひとは自分が繋ぎとめられるべき土地を、亡骸が葬られるべき地面を自分のものにすることができるのだ、と言っているみたい。
で、そこにもちろん答えはないの。City of Zが存在するかなんて誰にも言えないしわからないのだが、でもPercyはかの地に向かわないわけにはいかない。
そしてそれが男のしょーもないロマンとか野望とか、そういう自己愛/実現系のなんかとしてではなく、闇の奥のLost Cityに魂を持っていかれて抗うことができなくなった男の悲劇(でもないか)のように描かれる。
そしてこの物語が、NYへの移民の物語に続き、世界中に国や街を失ってしまった人々が溢れてしまった今の時代にリリースされたことは決して偶然ではないと思うの。
ジャングルのなかのとてつもない緊張感(びゅんびゅん飛んでくる矢とか虫とか病気とか)、英国に戻ったときの安息と落ち着き、戦場のどうしようもない閉塞と絶望、そしてラストの …
場面場面のスペクタクルとアップダウンがめちゃくちゃ激しいのだが、死の恐怖はどこに行っても延々ついてきて、それなのに"The Immigrant"にもあった屋外・屋内の光の柔らかさと美しさはどの画面にも満ちていているのでうわー、て溜息をついているうちに終わってしまう。
前日の”Personal Shopper”もそうだったが、とてつもなくおっかなくて泣きそうなことが立て続けに起こっているのに画面が美しすぎるので釘付けで、なんかしょうもなかった。
音楽は何度かラヴェルの「ダフニスとクロエ」が流れてきて、これも盛りあがってのー。
日本にも35mmの缶からが行きますように。
ジャングルもLost Cityもいいけど、Lost House状態の今の自分をなんとかしろ。
そろそろ住むとこみつけないと、ほんとしんないからな。
3.17.2017
[film] Personal Shopper (2016)
少しだけ順番は前後するがこっちから書く。
14日の晩、CurzonのSOHOで、英国の公開は17日からなのだが、Previewで Olivier AssayasとのQ&Aつき。 監督はつい先週、NYのMetrographでGreta Gerwigさんとトークをしていたはずで、とっても忙しそう。
イントロの監督の挨拶では、この映画は Kristen Stewartというすばらしい女優と一緒に旅をするように書いていったもので、彼女なしにはありえない、共同作品のようなものだ、と。
映画は始めのうちはいろいろ錯綜していて筋がよく見えてこない。なにか明確な目的があって動いているわけではないようで、セレブのPersonal ShopperをしているMaureen(Kristen Stewart)が廃屋となっている屋敷で幽霊がでたでない/見える見えない、をする話、スウェーデンの抽象画家Hilma af Klintと神秘主義の話、心臓発作で亡くなった彼女の双子の弟の話、仕事でのパリ - ロンドン間の移動中にiPhoneに頻繁に送られてくるインスタントメッセージの話、などが絡んでいって、やがて殺人が起こって、でもそれもただ起こった、というだけの話のように見える。
最後のほうに来てああそういうことだったのか、というのが見えてくる。
謎解きでもなんでもなく、ひとりの女の子の物語なの。
そういえば"Boading Gate" (2007) も”Clean" (2004)も女の子のおはなしではあった、けど、後のQ&Aで監督も言っていたがパリに来たアメリカの女の子、を意識したのだと。
前作の"Clouds of Sils Maria” (2014) は割と正調のヨーロッパ的なドラマ、というかんじで Juliette Binocheがいて割と堂々としていたが、今度のはあちこちぎこちなくたどたどしく手作り実験しながら作っている感がいっぱいで、このあたり賛否分かれるのかもしれないが、わたしはとっても好きだ。
ちょっと変な女の子の映画をつくる、というのと、辺境・マイナーぽいホラー映画をつくる、とてもエモーショナルなかたちでそれらを実現・両立させている、というか。
2010年のNYFF - "Carlos"が公開された年の - のイベントでOlivier Assayasによる"The Cinema inside me"と題したレクチャーがあって、そこで彼が語っていたJohn Carpenter, David Cronenberg, Wes Cravenといったホラー映画作家に対する偏愛と(今回のQ&Aの中でもまったく同じ名前が同じ順番で語られた)、優れた映画っていうのは意識下/無意識下にあるもの、知覚できるもの/できないものとの間の境界やその線上にある未知のものへの入口までガイドしてくれるもの - その際に引用されたのがDario Argentoの"Inferno" (1980)の女性が地下への扉を開けて奥に入ったら鍵を落として死体がぶわー - ていうシーン、というあたりのことがようやく自身の映画で(Kristen Stewartの身体を借りて)具現化されたのだな、と思った。
自分に憑りついているもの、夢のようななにかとコネクトしつつ常になにかが起こっているような感覚、それらに引きずりまわされている感覚、が全体を覆っていて、Maureenはくすりとも笑わずずっと不愉快で不機嫌で、でもそこに立ち向わざるを得ない孤独な女の子を、静かに(泣き叫んだり大騒ぎせずに)演じている。
で、アメリカのホラー映画にあるように、そこにEvilななにかを持ち込まずに鳥肌をもたらす、ということ、かわりに先のHilma af Klintの絵とか降霊の話とかが入ってきて、論理的なところを飛び越えて、皮膚感覚に近いところを突いてくるような。(あのレクチャーで、ホラー映画のすごさは客のフィジカルなリアクションを引き出せることにある、と明確に言っていた)
というわけで画面はとてもきれいで - Maureenがパリの街をスクーターで走り回っているだけでなんかよいの - 音響はものすごい(最後のほう、小さい音ではぜったいだめ)。
“Certain Women”を見てこれを見ると、いま、Kristen Stewartが必要とされている理由がなんかわかる。
そのほかにOlivier AssayasがQ&Aで言っていたこと;
・意識下/無意識下、それらの境界に横たわる言いようのないなにかを知覚する/させようとする際に現代のテクノロジーが侵入・介入してくる(よくもわるくも、そうなってしまっている)。
例えば今回のだとiPhoneのIMが重要な役割を果たしたりするのだが、そういうのを編集も含めて画面上でどう見せるか、のあたりはものすごく苦労した、と。
・この映画のKristen Stewartを語る際に引き合いにだされたのが、"The Innocents" (1961) - 「回転」- のDeborah Kerr (未見)。
・ファスビンダーに関する質問が出て、”Clouds of Sils Maria"は「ペトラ・フォン・カントの苦い涙」なんだって。 そうかー。
まだなんかあった気が …
丁度いま、Film4のチャンネルで”Après mai” (2004) - 『5月の後』- やってる … 寝ないといかんのにー。
14日の晩、CurzonのSOHOで、英国の公開は17日からなのだが、Previewで Olivier AssayasとのQ&Aつき。 監督はつい先週、NYのMetrographでGreta Gerwigさんとトークをしていたはずで、とっても忙しそう。
イントロの監督の挨拶では、この映画は Kristen Stewartというすばらしい女優と一緒に旅をするように書いていったもので、彼女なしにはありえない、共同作品のようなものだ、と。
映画は始めのうちはいろいろ錯綜していて筋がよく見えてこない。なにか明確な目的があって動いているわけではないようで、セレブのPersonal ShopperをしているMaureen(Kristen Stewart)が廃屋となっている屋敷で幽霊がでたでない/見える見えない、をする話、スウェーデンの抽象画家Hilma af Klintと神秘主義の話、心臓発作で亡くなった彼女の双子の弟の話、仕事でのパリ - ロンドン間の移動中にiPhoneに頻繁に送られてくるインスタントメッセージの話、などが絡んでいって、やがて殺人が起こって、でもそれもただ起こった、というだけの話のように見える。
最後のほうに来てああそういうことだったのか、というのが見えてくる。
謎解きでもなんでもなく、ひとりの女の子の物語なの。
そういえば"Boading Gate" (2007) も”Clean" (2004)も女の子のおはなしではあった、けど、後のQ&Aで監督も言っていたがパリに来たアメリカの女の子、を意識したのだと。
前作の"Clouds of Sils Maria” (2014) は割と正調のヨーロッパ的なドラマ、というかんじで Juliette Binocheがいて割と堂々としていたが、今度のはあちこちぎこちなくたどたどしく手作り実験しながら作っている感がいっぱいで、このあたり賛否分かれるのかもしれないが、わたしはとっても好きだ。
ちょっと変な女の子の映画をつくる、というのと、辺境・マイナーぽいホラー映画をつくる、とてもエモーショナルなかたちでそれらを実現・両立させている、というか。
2010年のNYFF - "Carlos"が公開された年の - のイベントでOlivier Assayasによる"The Cinema inside me"と題したレクチャーがあって、そこで彼が語っていたJohn Carpenter, David Cronenberg, Wes Cravenといったホラー映画作家に対する偏愛と(今回のQ&Aの中でもまったく同じ名前が同じ順番で語られた)、優れた映画っていうのは意識下/無意識下にあるもの、知覚できるもの/できないものとの間の境界やその線上にある未知のものへの入口までガイドしてくれるもの - その際に引用されたのがDario Argentoの"Inferno" (1980)の女性が地下への扉を開けて奥に入ったら鍵を落として死体がぶわー - ていうシーン、というあたりのことがようやく自身の映画で(Kristen Stewartの身体を借りて)具現化されたのだな、と思った。
自分に憑りついているもの、夢のようななにかとコネクトしつつ常になにかが起こっているような感覚、それらに引きずりまわされている感覚、が全体を覆っていて、Maureenはくすりとも笑わずずっと不愉快で不機嫌で、でもそこに立ち向わざるを得ない孤独な女の子を、静かに(泣き叫んだり大騒ぎせずに)演じている。
で、アメリカのホラー映画にあるように、そこにEvilななにかを持ち込まずに鳥肌をもたらす、ということ、かわりに先のHilma af Klintの絵とか降霊の話とかが入ってきて、論理的なところを飛び越えて、皮膚感覚に近いところを突いてくるような。(あのレクチャーで、ホラー映画のすごさは客のフィジカルなリアクションを引き出せることにある、と明確に言っていた)
というわけで画面はとてもきれいで - Maureenがパリの街をスクーターで走り回っているだけでなんかよいの - 音響はものすごい(最後のほう、小さい音ではぜったいだめ)。
“Certain Women”を見てこれを見ると、いま、Kristen Stewartが必要とされている理由がなんかわかる。
そのほかにOlivier AssayasがQ&Aで言っていたこと;
・意識下/無意識下、それらの境界に横たわる言いようのないなにかを知覚する/させようとする際に現代のテクノロジーが侵入・介入してくる(よくもわるくも、そうなってしまっている)。
例えば今回のだとiPhoneのIMが重要な役割を果たしたりするのだが、そういうのを編集も含めて画面上でどう見せるか、のあたりはものすごく苦労した、と。
・この映画のKristen Stewartを語る際に引き合いにだされたのが、"The Innocents" (1961) - 「回転」- のDeborah Kerr (未見)。
・ファスビンダーに関する質問が出て、”Clouds of Sils Maria"は「ペトラ・フォン・カントの苦い涙」なんだって。 そうかー。
まだなんかあった気が …
丁度いま、Film4のチャンネルで”Après mai” (2004) - 『5月の後』- やってる … 寝ないといかんのにー。
[film] Casque d'Or (1952)
12日の夕方、Kongのあとに少しだけ歩いた先にあるBFIのSouthbankでみました。
Southbankぜんたいは先週からWomen of the World Festivalの真っ只中で、いろんなトークとかマーケットが出てたり、日曜が最終日のせいか、人手がすごくてごった返していた。
最終日、ABBAのビョルンがゲストで登場したんだって。 来年はちゃんとチケット買って参加したい。
BFIでは追っかけ中のKelly Reichardt特集の他にJacques Beckerの特集もやっていて、そういうふうに小特集を乱発するのやめてほしいのだが、とりあえずそこでやってるこれだけ見る。 Kongとの食べ合わせはものすごく変なかんじなのだが、ここしかやっていないのでしょうがないの。
タイトルはそのまま翻訳にかけると「黄金のヘルメット」で邦題だと「肉体の冠」で、英語題は”Golden Marie”で、それはMarie (Simone Signoret) の輝ける髪のこと、と配布されていたプログラムノート - Lindsay Andersonが52年にSight and Sound誌に書いた論評 - にはある。
やくざでヒモのRolandの情婦のMarieはRaymondから親友の大工のManda (Serge Reggiani)を紹介されて互いに電撃が走って、ヒモのRolandはそれが気にいらなくて小競り合いになって、MandaはRolandを刺し殺しちゃって、MarieとMandaはふたりでしばらく逃げるのだが、Marieを気に入って奥から狙っているやくざの大ボスLéca がふたりを陥れようとして、更に悪いほうに転がっていくの。
話の骨格は宿命の女の奪いあいとやくざ社会の非情さと、MarieとMandaの純愛が絡みあってなす術もなく転がりおちていくので、ノワールと呼んでもおかしくないのだが、逃げた二人が田舎の隠れ家で愛しあうところが驚異的に美しくて力強く輝いているので、それはそれはとーってもかわいそうなんだけど、そんなに真っ暗にしなくても間にあってしまうかんじもある。
印象派画家の偉大なるルノワールの世界を映画で表現したのって映画作家ルノワールの「ピクニック」(1936)とか「草の上の昼食」(1959)あたりかと思っていたのだが、風景は別として女性のモデルでいうとこの作品のSimone Signoretがだんとつでとんでもないの(それか「黄金の馬車」のAnna Magnani で、どっちにしても最強の黄金なの)。 ほんとにルノワールの絵そのままの体の線で表情で目の流れで髪の毛で光に包まれているんだよ。 で、彼女が黄金の冠をほぐしたときに現れる世界まるごとはらはらとほぐれてしまうような衝撃って、なんなんだよあれ、って。 こういうのを見てしまうとまだまだ見れていないものがこんなにもねえ、 と反省してしまうのだった。
フランスの闇社会で本当にあったお話がベースだそうで、だとしらた最後のほうの即物的、というか血も涙もないかんじの転がり方がどうしようもなくすごいのと、であるが故にふたりの - とくにSimone Signoretの湛えるイメージの豊かさとのギャップに圧倒させられて悶絶するしかない。
Simone Signoretってすごいんだねえ。”Army of Shadows” (1969) -「影の軍隊」しか知らなかったので相当にびっくりした。あの映画の凄味はこの頃からだったんだねえ。
Southbankぜんたいは先週からWomen of the World Festivalの真っ只中で、いろんなトークとかマーケットが出てたり、日曜が最終日のせいか、人手がすごくてごった返していた。
最終日、ABBAのビョルンがゲストで登場したんだって。 来年はちゃんとチケット買って参加したい。
BFIでは追っかけ中のKelly Reichardt特集の他にJacques Beckerの特集もやっていて、そういうふうに小特集を乱発するのやめてほしいのだが、とりあえずそこでやってるこれだけ見る。 Kongとの食べ合わせはものすごく変なかんじなのだが、ここしかやっていないのでしょうがないの。
タイトルはそのまま翻訳にかけると「黄金のヘルメット」で邦題だと「肉体の冠」で、英語題は”Golden Marie”で、それはMarie (Simone Signoret) の輝ける髪のこと、と配布されていたプログラムノート - Lindsay Andersonが52年にSight and Sound誌に書いた論評 - にはある。
やくざでヒモのRolandの情婦のMarieはRaymondから親友の大工のManda (Serge Reggiani)を紹介されて互いに電撃が走って、ヒモのRolandはそれが気にいらなくて小競り合いになって、MandaはRolandを刺し殺しちゃって、MarieとMandaはふたりでしばらく逃げるのだが、Marieを気に入って奥から狙っているやくざの大ボスLéca がふたりを陥れようとして、更に悪いほうに転がっていくの。
話の骨格は宿命の女の奪いあいとやくざ社会の非情さと、MarieとMandaの純愛が絡みあってなす術もなく転がりおちていくので、ノワールと呼んでもおかしくないのだが、逃げた二人が田舎の隠れ家で愛しあうところが驚異的に美しくて力強く輝いているので、それはそれはとーってもかわいそうなんだけど、そんなに真っ暗にしなくても間にあってしまうかんじもある。
印象派画家の偉大なるルノワールの世界を映画で表現したのって映画作家ルノワールの「ピクニック」(1936)とか「草の上の昼食」(1959)あたりかと思っていたのだが、風景は別として女性のモデルでいうとこの作品のSimone Signoretがだんとつでとんでもないの(それか「黄金の馬車」のAnna Magnani で、どっちにしても最強の黄金なの)。 ほんとにルノワールの絵そのままの体の線で表情で目の流れで髪の毛で光に包まれているんだよ。 で、彼女が黄金の冠をほぐしたときに現れる世界まるごとはらはらとほぐれてしまうような衝撃って、なんなんだよあれ、って。 こういうのを見てしまうとまだまだ見れていないものがこんなにもねえ、 と反省してしまうのだった。
フランスの闇社会で本当にあったお話がベースだそうで、だとしらた最後のほうの即物的、というか血も涙もないかんじの転がり方がどうしようもなくすごいのと、であるが故にふたりの - とくにSimone Signoretの湛えるイメージの豊かさとのギャップに圧倒させられて悶絶するしかない。
Simone Signoretってすごいんだねえ。”Army of Shadows” (1969) -「影の軍隊」しか知らなかったので相当にびっくりした。あの映画の凄味はこの頃からだったんだねえ。
3.16.2017
[film] Kong: Skull Island (2017)
12日の日曜日の午後、BFIのIMAXでみました。
ここのIMAXは英国でいちばんでっかいやつで、建物からそれ専用の円筒型で音も画質も極上で、これを見てしまうと日本のシネコンのって団地サイズだねえ、ておもう。
こっちきて最初のIMAXはこれしかないな、と決めていた。でっかい猿のやつ。
太平洋戦争の終わり頃に島に降りたった日米の飛行機乗りふたりが地面で取っ組み合いをしているとそいつが突然現れて、ていうのが導入で、そこから時代は1973年にとんで、怪しげなJohn Goodmanがある島に調査に行かせてくれって政治家のとこに陳情に来ていて、なんとか許可を得るとついでに軍のエスコートもお願い、ていう。
ベトナム戦争からの撤退がはじまっているアジアで軍のヘリとかカメラマンとかを一式調達して、分厚い壁をつくっている悪天候の雲をなんとか抜けてみると奥からいきなり大猿が出てきて、ヘリの何台かを叩き落として消えて、ここから先は戻りのピックアップの場所に向かって、敵意めらめらのSamuel L. Jackson組と大猿に少しの理解を示す組と、そこに加わった現地組のJohn C. Reillyも含めた絶海の孤島の大冒険、になる。
タイトルも主人公も”Kong”、なのだがまんなかにいるのは巨大生物の島で右往左往する戦争で疲れてうんざりしていた兵士たちの恐怖だったり絶望だったりやけくそだったりのほう、ていう気がした。 こういう映画ではお決まりの怪物ぽい痕跡や気配を少しづつちらちらぞわぞわ見せて、だんだんに恐怖を増幅させてさいごにどーん、ていうアプローチはなくて、みんなただの生物がでっかい状態でわらわらいるだけで、その原理生態のもとで動いているだけなので、なんでもいきなりぐさー、とか、ばしゃー、とか降ったり襲ったりしてくる。 これはこれでおもしろいかも。
かんじとしてはJurassic Parkに大猿が加わったような、というか。
ではなんで大猿なのか、というと伝統的なKing Kongの物語の線上にある、美女にはやさしい、というか猿でも善い悪いの判断がすこしくらいはできるよね(希望)、みたいなあたりだろうか。
で、物語の重点はやはり悪いほう - SLJとKongとの睨み合い対決 - なめんじゃねえぞこのサル - に向かうわけだが、これってKongからしてみれば向こうが突然現れたからちょっとイラついて叩き落としただけで因縁つけてくるんだからほんといい迷惑なのよね。 ていうのと、これはとうぜんベトナム戦争に突っこんできたアメリカ、の鏡像としてもあるのだろう、たぶん。
このへん、怪獣映画だとおもって見にきたら巨大生物をめぐるアドベンチャー映画だったのでふうむ、になった人たちにどう見えるのかしら。 ただがんがん鳴っている音楽(とっても気持ちよい)も含めて全体が70年代のあぶら臭いので、あの時代の映画が好きだったり懐かしいと思ったりするガキっぽい男子には丁度よいのかも。
ほんとうはBrie LarsonにSamuel L. Jacksonのきんたま撃ち抜いてほしかったんだけど。
Tom Hiddlestonはかっこつけて走っているばかりで、ほとんどなんもしない。 あれならLokiの恰好して薄ら笑い浮かべている兵士の役、とかでじゅうぶんだったのに。
で、いちばん偉いのは太平洋戦争をサバイブしてコングと米兵の両方を助けてあっぱれ本国に帰ることができたJohn C. Reillyなんだろうな。 戻ったら妻は別の男と幸せになってて … はさすがになかった。
こっちのポスターで「地獄の黙示録」そっくりのやつがあって、John C. Reillyをカーツ大佐にする、っていうのもあったか、とか思って、そんなふうに遊べる間口の広さみたいのはいいかも、って。
それにしてもBrie Larson、ジャングル行くのにあのタンクトップはないよね。
ここのIMAXは英国でいちばんでっかいやつで、建物からそれ専用の円筒型で音も画質も極上で、これを見てしまうと日本のシネコンのって団地サイズだねえ、ておもう。
こっちきて最初のIMAXはこれしかないな、と決めていた。でっかい猿のやつ。
太平洋戦争の終わり頃に島に降りたった日米の飛行機乗りふたりが地面で取っ組み合いをしているとそいつが突然現れて、ていうのが導入で、そこから時代は1973年にとんで、怪しげなJohn Goodmanがある島に調査に行かせてくれって政治家のとこに陳情に来ていて、なんとか許可を得るとついでに軍のエスコートもお願い、ていう。
ベトナム戦争からの撤退がはじまっているアジアで軍のヘリとかカメラマンとかを一式調達して、分厚い壁をつくっている悪天候の雲をなんとか抜けてみると奥からいきなり大猿が出てきて、ヘリの何台かを叩き落として消えて、ここから先は戻りのピックアップの場所に向かって、敵意めらめらのSamuel L. Jackson組と大猿に少しの理解を示す組と、そこに加わった現地組のJohn C. Reillyも含めた絶海の孤島の大冒険、になる。
タイトルも主人公も”Kong”、なのだがまんなかにいるのは巨大生物の島で右往左往する戦争で疲れてうんざりしていた兵士たちの恐怖だったり絶望だったりやけくそだったりのほう、ていう気がした。 こういう映画ではお決まりの怪物ぽい痕跡や気配を少しづつちらちらぞわぞわ見せて、だんだんに恐怖を増幅させてさいごにどーん、ていうアプローチはなくて、みんなただの生物がでっかい状態でわらわらいるだけで、その原理生態のもとで動いているだけなので、なんでもいきなりぐさー、とか、ばしゃー、とか降ったり襲ったりしてくる。 これはこれでおもしろいかも。
かんじとしてはJurassic Parkに大猿が加わったような、というか。
ではなんで大猿なのか、というと伝統的なKing Kongの物語の線上にある、美女にはやさしい、というか猿でも善い悪いの判断がすこしくらいはできるよね(希望)、みたいなあたりだろうか。
で、物語の重点はやはり悪いほう - SLJとKongとの睨み合い対決 - なめんじゃねえぞこのサル - に向かうわけだが、これってKongからしてみれば向こうが突然現れたからちょっとイラついて叩き落としただけで因縁つけてくるんだからほんといい迷惑なのよね。 ていうのと、これはとうぜんベトナム戦争に突っこんできたアメリカ、の鏡像としてもあるのだろう、たぶん。
このへん、怪獣映画だとおもって見にきたら巨大生物をめぐるアドベンチャー映画だったのでふうむ、になった人たちにどう見えるのかしら。 ただがんがん鳴っている音楽(とっても気持ちよい)も含めて全体が70年代のあぶら臭いので、あの時代の映画が好きだったり懐かしいと思ったりするガキっぽい男子には丁度よいのかも。
ほんとうはBrie LarsonにSamuel L. Jacksonのきんたま撃ち抜いてほしかったんだけど。
Tom Hiddlestonはかっこつけて走っているばかりで、ほとんどなんもしない。 あれならLokiの恰好して薄ら笑い浮かべている兵士の役、とかでじゅうぶんだったのに。
で、いちばん偉いのは太平洋戦争をサバイブしてコングと米兵の両方を助けてあっぱれ本国に帰ることができたJohn C. Reillyなんだろうな。 戻ったら妻は別の男と幸せになってて … はさすがになかった。
こっちのポスターで「地獄の黙示録」そっくりのやつがあって、John C. Reillyをカーツ大佐にする、っていうのもあったか、とか思って、そんなふうに遊べる間口の広さみたいのはいいかも、って。
それにしてもBrie Larson、ジャングル行くのにあのタンクトップはないよね。
3.15.2017
[film] Opening Night (1977)
11日の土曜日の晩、Fashion in Film FestivalのOpeningでやってて、どういうフェスだかよくわかんないけど、これの35mmを見れるのなら、と見にいった。
http://www.fashioninfilm.com/
10年目となる今年のテーマは”Wearing Time: Past, Present, Future, Dream”だそうで、うん、まだよくわかんないけど、いいや。 見たいのもいくつかあるけど、いいや。そうとう無理っぽいし。
“Opening Night”と”Love Streams” (1984)は死ぬまでにあと何回見れるかしらんが、とにかくどこかでやっているのであれば、見る、というのを心の掟にしている。 “Opening Night”はいつ見てもオープニングだし、”Love Streams”はずっと流れて続けているので、何回見てもいつ見ても新しいの。
上映前にフェスのプログラマーらしい女性が挨拶して、この映画のテーマはエイジングなんです、いろんなことがいろんなふうに被さっているんです、などと言い、ふうん、て聞いた。
ストーリーはべつにいいよね。 激しい雨の晩、ベテラン女優のGena Rowlandsが目の前で自分のファンの若い娘が車に轢かれてしまったのを見てから共演者(John Cassavetes)、演出家(Ben Gazzara)、原作者(Joan Blondell)などとの間で/前でだんだんおかしくなっていく - おかしくなるのは実生活上のいろんな関係だけでなく、実生活と舞台上でのやりとりのあれこれもで、こうあるべきなのに、あるべきだったのに、なぜそれがうまくWorkしないのか、時間は限られているのに、とみんながいらいらして、それがプロダクション全体に伝播してなす術もなく崩れていく。 劇のオープニングの晩、我々の生はどん詰まりのどん底で終わりそうだというのに、いったい何が開かれる/始まるというのか。
他者になりきる、他者の生を生きることを求められてきた女優が、それでキャリアを築いてきた女性が、では果たして、自分は自分の生を生きることができているのか、こんなに歳を重ねて先も見えてきているのに、台本が用意された舞台の上での他者とすらきちんと関わることができないではないか、という彼女のいらだちはいろんなレイヤーのいろんな関係者と重なってなにがなんだかわからないし、昔の状態に戻すこともできない。 なんども振りあげられる手は頬の手前を空振りするばかりで楔を打ちこむことはできずに横に滑っていく。
単なるエイジングの危機を描いただけのドラマなのだろうか? ちがうよね。たぶん。
愛と孤独をいっぺんに求めて彷徨って床を這いまわる”Faces” (1968)からずっと続いているコメディで、それもまた劇の一幕にすぎない(というのが最後のほうで描かれるとてつもない舞台上のやりとり)。
そしてこの先にある”Love Streams” (1984)では、流れていくのは時間じゃない、愛なんだ、だから騒ぐな落ち着け、横になってろ、っていうの。 なんてすばらしいことでしょうか。
John CassavetesもBen Gazzaraもとてつもない艶気とゴージャスなオーラぷんぷんで、逆立ちしてもあんなふうにはなれないのだが、Gena Rowlandsはその遥か上に立っている。
彼女はEdward Hopperの絵のなかの女性にしか見えない。 永遠にあのフレームのなかで、窓の外を眺めているの。
そして、”Love Streams” (1984)もまた見たくてたまらなくなっている。
http://www.fashioninfilm.com/
10年目となる今年のテーマは”Wearing Time: Past, Present, Future, Dream”だそうで、うん、まだよくわかんないけど、いいや。 見たいのもいくつかあるけど、いいや。そうとう無理っぽいし。
“Opening Night”と”Love Streams” (1984)は死ぬまでにあと何回見れるかしらんが、とにかくどこかでやっているのであれば、見る、というのを心の掟にしている。 “Opening Night”はいつ見てもオープニングだし、”Love Streams”はずっと流れて続けているので、何回見てもいつ見ても新しいの。
上映前にフェスのプログラマーらしい女性が挨拶して、この映画のテーマはエイジングなんです、いろんなことがいろんなふうに被さっているんです、などと言い、ふうん、て聞いた。
ストーリーはべつにいいよね。 激しい雨の晩、ベテラン女優のGena Rowlandsが目の前で自分のファンの若い娘が車に轢かれてしまったのを見てから共演者(John Cassavetes)、演出家(Ben Gazzara)、原作者(Joan Blondell)などとの間で/前でだんだんおかしくなっていく - おかしくなるのは実生活上のいろんな関係だけでなく、実生活と舞台上でのやりとりのあれこれもで、こうあるべきなのに、あるべきだったのに、なぜそれがうまくWorkしないのか、時間は限られているのに、とみんながいらいらして、それがプロダクション全体に伝播してなす術もなく崩れていく。 劇のオープニングの晩、我々の生はどん詰まりのどん底で終わりそうだというのに、いったい何が開かれる/始まるというのか。
他者になりきる、他者の生を生きることを求められてきた女優が、それでキャリアを築いてきた女性が、では果たして、自分は自分の生を生きることができているのか、こんなに歳を重ねて先も見えてきているのに、台本が用意された舞台の上での他者とすらきちんと関わることができないではないか、という彼女のいらだちはいろんなレイヤーのいろんな関係者と重なってなにがなんだかわからないし、昔の状態に戻すこともできない。 なんども振りあげられる手は頬の手前を空振りするばかりで楔を打ちこむことはできずに横に滑っていく。
単なるエイジングの危機を描いただけのドラマなのだろうか? ちがうよね。たぶん。
愛と孤独をいっぺんに求めて彷徨って床を這いまわる”Faces” (1968)からずっと続いているコメディで、それもまた劇の一幕にすぎない(というのが最後のほうで描かれるとてつもない舞台上のやりとり)。
そしてこの先にある”Love Streams” (1984)では、流れていくのは時間じゃない、愛なんだ、だから騒ぐな落ち着け、横になってろ、っていうの。 なんてすばらしいことでしょうか。
John CassavetesもBen Gazzaraもとてつもない艶気とゴージャスなオーラぷんぷんで、逆立ちしてもあんなふうにはなれないのだが、Gena Rowlandsはその遥か上に立っている。
彼女はEdward Hopperの絵のなかの女性にしか見えない。 永遠にあのフレームのなかで、窓の外を眺めているの。
そして、”Love Streams” (1984)もまた見たくてたまらなくなっている。
3.14.2017
[film] The Love Witch (2016)
10日の金曜日の晩、AldgateのCurzonでみました。
Curzonのチェーンのうち、やっているのはここの一館のみ、上映も一日一回だけで、監督も主演女優も知らない、なんとなく自主制作ぽいかんじなのだが、60'sのTechnicolorのサスペンスとかRuss Meyerのsexploitation映画へのオマージュとか言われてて、予告を見てなんとなくおもしろいかも、程度で。 あと、制作はOscilloscopeだし。
Elaine (Samantha Robinson)は過去に突然死んでしまった彼の思い出を抱えつつ西海岸を移動していて、やがて一軒のお屋敷みたいな家を借りて、そこからまた別の男 - フランス文学の教授とかとつきあい始めて、やがてその彼もめろめろの狂ったみたいになって死んじゃって、その裏でElaineはいろんな薬とかタロットとか小水ボトルとか魔女みたいなことをやっているようで、その後も恋におちて(おとして)は相手は狂ったように破滅して自殺しちゃったりして、やがて警察も動きはじめるのだが、彼女のとこにやってきた刑事も同じようにひっかかるの。
Elaineの部屋にはいろんな薬品とか薬草の瓶とか道具一式があって、怪しげなエロ画も描いてて、魔術のサークルにいって半裸で呪いや儀式に参加して - 全員でぐるぐるまわりながら「エコエコアザラク」とかやってる - のだが鼻をぴくぴくさせて明示的に魔法を使ったり超自然的ななんかが顕現したりするわけではないので、彼女が明確に魔女、としての属性や役割を与えられて動いているというより、彼女は魔女的な小道具とか所作とかを使って男を自分の虜にして破滅させる、そういう魔女みたいな女(or ワナビー)ということもできる。 過去になにがあったか知らんが、愛とかああいうファンタジーがないと生きていられない、それだけのことかもしれない。
というのがばりばりのメイクに衣装、匂いたつような台詞にオーバーアクト気味のいろんな振る舞いでコテコテと飾られてて、相手の男もいかにもな脳たりんぽくて、画面も音楽もそれなりにびっちり加工されてて、わかんなくはないのだがこれで2時間はきついかも、とじりじりし始めた最後のほうに来てあらあらとひっくり返ってこれいいかも、になった。
この手の現代の魔女 - 実はシリアルキラー ものってやがてしっぽを捕まれて魔女狩り or 自滅、ていうのが定石の展開だと思うし、実際に警察が動き出してからそんな風向きになっていくのだが、最後のどんでん(というのかしら)は心地よくて、ああこれをやりたかったんだなー、となんかすっきりした。
たぶんDavid Lynchあたりが同様のことをやりそう(もうやっているのか)なのだが、女性的なものに対するミステリアスで神秘的な陰影のフィルターを一切とっぱらって(あの彩色やエフェクトはそういう効果を狙ったのかも。あるいはFemme fataleぽいオーラのあまりない女優さんを使うとか)、あそこであんなふうにしちゃうのは痛快かも。 今の時代だと特に。
上映後に拍手をしていた何人かは、女性だった気がする。
LAのAmoebaでは、明日14日の夕方、これのDVD発売を記念してサイン会があるよ! (しーん)
Curzonのチェーンのうち、やっているのはここの一館のみ、上映も一日一回だけで、監督も主演女優も知らない、なんとなく自主制作ぽいかんじなのだが、60'sのTechnicolorのサスペンスとかRuss Meyerのsexploitation映画へのオマージュとか言われてて、予告を見てなんとなくおもしろいかも、程度で。 あと、制作はOscilloscopeだし。
Elaine (Samantha Robinson)は過去に突然死んでしまった彼の思い出を抱えつつ西海岸を移動していて、やがて一軒のお屋敷みたいな家を借りて、そこからまた別の男 - フランス文学の教授とかとつきあい始めて、やがてその彼もめろめろの狂ったみたいになって死んじゃって、その裏でElaineはいろんな薬とかタロットとか小水ボトルとか魔女みたいなことをやっているようで、その後も恋におちて(おとして)は相手は狂ったように破滅して自殺しちゃったりして、やがて警察も動きはじめるのだが、彼女のとこにやってきた刑事も同じようにひっかかるの。
Elaineの部屋にはいろんな薬品とか薬草の瓶とか道具一式があって、怪しげなエロ画も描いてて、魔術のサークルにいって半裸で呪いや儀式に参加して - 全員でぐるぐるまわりながら「エコエコアザラク」とかやってる - のだが鼻をぴくぴくさせて明示的に魔法を使ったり超自然的ななんかが顕現したりするわけではないので、彼女が明確に魔女、としての属性や役割を与えられて動いているというより、彼女は魔女的な小道具とか所作とかを使って男を自分の虜にして破滅させる、そういう魔女みたいな女(or ワナビー)ということもできる。 過去になにがあったか知らんが、愛とかああいうファンタジーがないと生きていられない、それだけのことかもしれない。
というのがばりばりのメイクに衣装、匂いたつような台詞にオーバーアクト気味のいろんな振る舞いでコテコテと飾られてて、相手の男もいかにもな脳たりんぽくて、画面も音楽もそれなりにびっちり加工されてて、わかんなくはないのだがこれで2時間はきついかも、とじりじりし始めた最後のほうに来てあらあらとひっくり返ってこれいいかも、になった。
この手の現代の魔女 - 実はシリアルキラー ものってやがてしっぽを捕まれて魔女狩り or 自滅、ていうのが定石の展開だと思うし、実際に警察が動き出してからそんな風向きになっていくのだが、最後のどんでん(というのかしら)は心地よくて、ああこれをやりたかったんだなー、となんかすっきりした。
たぶんDavid Lynchあたりが同様のことをやりそう(もうやっているのか)なのだが、女性的なものに対するミステリアスで神秘的な陰影のフィルターを一切とっぱらって(あの彩色やエフェクトはそういう効果を狙ったのかも。あるいはFemme fataleぽいオーラのあまりない女優さんを使うとか)、あそこであんなふうにしちゃうのは痛快かも。 今の時代だと特に。
上映後に拍手をしていた何人かは、女性だった気がする。
LAのAmoebaでは、明日14日の夕方、これのDVD発売を記念してサイン会があるよ! (しーん)
3.13.2017
[film] Meek's Cutoff (2010)
9日の木曜日の晩、BFIのKelly Reichardt監督特集 - “Edge of America” - で見ました。
2010年に公開されたとき、Michelle Williamsが銃を構えているポスターに惹かれてずっと見たかったのをついに、ようやく見ることができた。
1845年、西の肥沃な土地を求めて移動する開拓者たちの幌馬車のルート - Oregon Trail上で起こった史実を元にしたもの。 もちろん史実を知らなくても楽しめる、そんなに楽しくない史実ではあるが。
Stephen Meek (Bruce Greenwood)をガイドに3組の家族が西への旅を続けていて、最初は牛が川をゆったり渡っていく絵がすばらしかったりするのだが、だんだん大地からは草が消えていって砂漠とか岩場だらけのきつい旅になっていく。水の枯渇への恐怖と襲ってくるかもしれないインディアンへの恐怖がじわじわと満ちてきて、家族たちは偉ぶってばかりで傲慢なMeekのことを疑い始めるのだが、引き返せないところまで来てしまった感があるし他に頼るひともいないので彼の言うことを聞くしかない。
そこにインディアンがいた、というので、Meekたちは周囲を捜索してやがて一人のインディアンを捕まえてくるのだが、全く言葉が通じなくて、こいつを殺すか、生かして使うかの議論のあとで、生かして水のある場所まで案内させようとする。のだがいつまでどこまで歩いてもそんな場所はなくて、痛めつけられても不遜な笑みを浮かべてたまにわけのわからないことを言ったり歌ったりするばかりのこいつも実はなにも知らないのではないか、という疑念が生まれ始めてきて、どうする/どうなる、なの。
三組の夫婦というのはTetherow (Michelle Williams & Will Patton)、White (Shirley Henderson & Neal Huff - 彼らにだけ男の子がいる) 、Gately (Zoe Kazan & Paul Dano) で、みんな寡黙で、女たちのやることは食事を作ったり編み物をしたりの家事全般で、それぞれの夫に添いつつも互いに助けあいながら割と同じなにかを見たり感じたりしている。 インディアンをどうするか、ルートをどっちにとるか、などの決定事項は男たちが遠くでなにか言い合っているのの欠片が聞えてくる程度。
Emily (Michelle Williams)は言葉が通じないながらもインディアンの靴を直してあげたり彼の興味が向いたルーペを持たせたり、無愛想に相手をしたりしている。 これまでの西部劇の役割構造 - 特にジェンダー観点で何か新しい視野を持ちこんだとか光を当てたとか、そこまでのものではなくて、彼女たちはやれることをやりながらそこにいた、ということを淡々と示そうとしている。 だがそれでも、Emilyはなぜ銃を取ったのか、その銃口はどこを向いていたのか、それらがMichelle Williamsの強烈な仏頂面と共に何の無理も誇張もなく叩きつけられていて、それがあのラストに繋がっていくことに感動してしまう。 どこまでいってもお茶の間の小言小競り合いレベルで結局はおにぎり作りを強いられてしまう日本の時代劇とは比べないように。
タイトルロールとエンドロールの刺繍がかわいくて素敵で。
あと、Zoe KazanとPaul Danoのふたりが”Ruby Sparks” (2012)でスパークしてしまうのはこの後なのだが、ふたりがじゅうぶん絵として輝いていることはここで誰が見たって明らかなのだった。
ああ週末がぁ …
2010年に公開されたとき、Michelle Williamsが銃を構えているポスターに惹かれてずっと見たかったのをついに、ようやく見ることができた。
1845年、西の肥沃な土地を求めて移動する開拓者たちの幌馬車のルート - Oregon Trail上で起こった史実を元にしたもの。 もちろん史実を知らなくても楽しめる、そんなに楽しくない史実ではあるが。
Stephen Meek (Bruce Greenwood)をガイドに3組の家族が西への旅を続けていて、最初は牛が川をゆったり渡っていく絵がすばらしかったりするのだが、だんだん大地からは草が消えていって砂漠とか岩場だらけのきつい旅になっていく。水の枯渇への恐怖と襲ってくるかもしれないインディアンへの恐怖がじわじわと満ちてきて、家族たちは偉ぶってばかりで傲慢なMeekのことを疑い始めるのだが、引き返せないところまで来てしまった感があるし他に頼るひともいないので彼の言うことを聞くしかない。
そこにインディアンがいた、というので、Meekたちは周囲を捜索してやがて一人のインディアンを捕まえてくるのだが、全く言葉が通じなくて、こいつを殺すか、生かして使うかの議論のあとで、生かして水のある場所まで案内させようとする。のだがいつまでどこまで歩いてもそんな場所はなくて、痛めつけられても不遜な笑みを浮かべてたまにわけのわからないことを言ったり歌ったりするばかりのこいつも実はなにも知らないのではないか、という疑念が生まれ始めてきて、どうする/どうなる、なの。
三組の夫婦というのはTetherow (Michelle Williams & Will Patton)、White (Shirley Henderson & Neal Huff - 彼らにだけ男の子がいる) 、Gately (Zoe Kazan & Paul Dano) で、みんな寡黙で、女たちのやることは食事を作ったり編み物をしたりの家事全般で、それぞれの夫に添いつつも互いに助けあいながら割と同じなにかを見たり感じたりしている。 インディアンをどうするか、ルートをどっちにとるか、などの決定事項は男たちが遠くでなにか言い合っているのの欠片が聞えてくる程度。
Emily (Michelle Williams)は言葉が通じないながらもインディアンの靴を直してあげたり彼の興味が向いたルーペを持たせたり、無愛想に相手をしたりしている。 これまでの西部劇の役割構造 - 特にジェンダー観点で何か新しい視野を持ちこんだとか光を当てたとか、そこまでのものではなくて、彼女たちはやれることをやりながらそこにいた、ということを淡々と示そうとしている。 だがそれでも、Emilyはなぜ銃を取ったのか、その銃口はどこを向いていたのか、それらがMichelle Williamsの強烈な仏頂面と共に何の無理も誇張もなく叩きつけられていて、それがあのラストに繋がっていくことに感動してしまう。 どこまでいってもお茶の間の小言小競り合いレベルで結局はおにぎり作りを強いられてしまう日本の時代劇とは比べないように。
タイトルロールとエンドロールの刺繍がかわいくて素敵で。
あと、Zoe KazanとPaul Danoのふたりが”Ruby Sparks” (2012)でスパークしてしまうのはこの後なのだが、ふたりがじゅうぶん絵として輝いていることはここで誰が見たって明らかなのだった。
ああ週末がぁ …
3.11.2017
[film] The LEGO Batman Movie (2017)
7日の火曜日の晩、時間があいたしもうじき終わっちゃいそうなのでCurzonのVictoriaでみました。
メンバーシップ使ってタダで。デジタル4Kの2Dで。ガキはまったくいなくて、近所の老人みたいな人たちが数名いるだけ。
前の"The LOGO Movie" (2014)からのスピンオフで、というかメインとなるお話なんてないようなもん(あったんだっけ?)て気もするので、お菓子の新しいおまけとかフレーバーが増えた、とかそういうノリでよいのだとおもう。
ぜんぶレゴでできた世界 - CGだと8-Bit Graphicsだし、音楽だとリズムボックスとシーケンサーだけ、プレ=デジタルの抽象化、戯画化されたパーツで世界を再構成する。それはまじで、エモから法に掟、思考から思想まで含めての翻案、というより再構築・再構成で、大切なのはそれについてこれるのかこれないのか/のれるかのれないか。 なんでLEGOなのか、とか考えてはいけないの。
で、そこを受け入れることができたとして、次には以下のことを(改めて)肝に銘じておく必要があるだろう。
・LEGOは世界そのものになりうる、ということ
・LEGOを操るひとは世界をつくる・動かすことができるのだ、ということ
・LEGOは神であると同時に最小構成単位でもありクリナメンでもあって、とにかくぜんぶなんだって
・LEGOはとにかくぜんぶで、ぜんぶが等価にいろんなことをわーわーいう、ということ
といったことを踏まえた上で、今度の主人公はバットマンとその仲間と、ジョーカーとその仲間で、バットマンはいろんな世代交代を経ながらも正義の味方でヒーローであることは決まっていて、ジョーカーも同様に悪の権化で破壊活動を繰り返すことが代代定められていて、ふたりが永遠の宿敵同士であることも同様なのだが、バットマンがおいらはそもそも孤高のヒーローじゃんか、ということをぶつぶつ言いだしてからいろんなことがおかしくなって、どーすんだこれ、の大混乱になるの。
LEGOは孤高の、単独のピースでLEGOたりうるのか? そういう世界は成り立つのか、あっていいのか、LEGO的に単純化するとそういうテーマなのだが、べつに単なる漫画として見てもまったく問題ないしおもしろいとおもう。
漫画でいちばん近い感触かもと思ったのは - これが通じるかどうかなのだが - 「シニカル・ヒステリー・アワー」あたりなんだけど。
前作のLEGO Movieではまだ実写の人間が出てきて、世界における「人」の関与介在という視点というか意識があったけど、今度のはまったくなくて、はじまりの黒画面からおわりの白画面まで、ヒーロー映画そのものをメタメタの8-bit化しようとしていて、その試みはうまくいっているのではないか。
なんでか? それが世界平和への道だからじゃよ。
これが中国で当たらなかったというのはなんとなくわかるかも。
“Transformers”のシリーズがだんだんつまんなくなってきたのもなんとなくわかるかも。
ヒーローものの次は怪獣ものをやってほしいのだが、むりだろうな。
ぜんぜん関係ないのだが、週末になるとBBC FourていうチャンネルでTop of the Popsのベストみたいのをやっていて、82年のとか83年のとか、いくら見ていても飽きないのだが、さっきつけたら90年代のをやってて、これらが悶絶するくらいに懐しいのだった。
Blur, Menswear, Echobelly (Sonyaだあ), PULP (Jarvisがぴちぴち), Gene, bluetones ...などなどー。
週末だあー
メンバーシップ使ってタダで。デジタル4Kの2Dで。ガキはまったくいなくて、近所の老人みたいな人たちが数名いるだけ。
前の"The LOGO Movie" (2014)からのスピンオフで、というかメインとなるお話なんてないようなもん(あったんだっけ?)て気もするので、お菓子の新しいおまけとかフレーバーが増えた、とかそういうノリでよいのだとおもう。
ぜんぶレゴでできた世界 - CGだと8-Bit Graphicsだし、音楽だとリズムボックスとシーケンサーだけ、プレ=デジタルの抽象化、戯画化されたパーツで世界を再構成する。それはまじで、エモから法に掟、思考から思想まで含めての翻案、というより再構築・再構成で、大切なのはそれについてこれるのかこれないのか/のれるかのれないか。 なんでLEGOなのか、とか考えてはいけないの。
で、そこを受け入れることができたとして、次には以下のことを(改めて)肝に銘じておく必要があるだろう。
・LEGOは世界そのものになりうる、ということ
・LEGOを操るひとは世界をつくる・動かすことができるのだ、ということ
・LEGOは神であると同時に最小構成単位でもありクリナメンでもあって、とにかくぜんぶなんだって
・LEGOはとにかくぜんぶで、ぜんぶが等価にいろんなことをわーわーいう、ということ
といったことを踏まえた上で、今度の主人公はバットマンとその仲間と、ジョーカーとその仲間で、バットマンはいろんな世代交代を経ながらも正義の味方でヒーローであることは決まっていて、ジョーカーも同様に悪の権化で破壊活動を繰り返すことが代代定められていて、ふたりが永遠の宿敵同士であることも同様なのだが、バットマンがおいらはそもそも孤高のヒーローじゃんか、ということをぶつぶつ言いだしてからいろんなことがおかしくなって、どーすんだこれ、の大混乱になるの。
LEGOは孤高の、単独のピースでLEGOたりうるのか? そういう世界は成り立つのか、あっていいのか、LEGO的に単純化するとそういうテーマなのだが、べつに単なる漫画として見てもまったく問題ないしおもしろいとおもう。
漫画でいちばん近い感触かもと思ったのは - これが通じるかどうかなのだが - 「シニカル・ヒステリー・アワー」あたりなんだけど。
前作のLEGO Movieではまだ実写の人間が出てきて、世界における「人」の関与介在という視点というか意識があったけど、今度のはまったくなくて、はじまりの黒画面からおわりの白画面まで、ヒーロー映画そのものをメタメタの8-bit化しようとしていて、その試みはうまくいっているのではないか。
なんでか? それが世界平和への道だからじゃよ。
これが中国で当たらなかったというのはなんとなくわかるかも。
“Transformers”のシリーズがだんだんつまんなくなってきたのもなんとなくわかるかも。
ヒーローものの次は怪獣ものをやってほしいのだが、むりだろうな。
ぜんぜん関係ないのだが、週末になるとBBC FourていうチャンネルでTop of the Popsのベストみたいのをやっていて、82年のとか83年のとか、いくら見ていても飽きないのだが、さっきつけたら90年代のをやってて、これらが悶絶するくらいに懐しいのだった。
Blur, Menswear, Echobelly (Sonyaだあ), PULP (Jarvisがぴちぴち), Gene, bluetones ...などなどー。
週末だあー
3.10.2017
[art] Queer city: London club culture 1918 - 1967
5日の日曜日の昼、お散歩がてら観光ツアーに参加してみる。
https://www.nationaltrust.org.uk/queer-city-london
英国のNational Trust - 正式名称は"National Trust for Places of Historic Interest or Natural Beauty"とNational Archives - イギリス国立公文書館 - が主催の、要するにちゃんとした団体がやっているやつ。 朝まで雨が降っててものすごく寒かったがツアーの間の90分、雨はこなかった。
集合場所を間違ってツアーの終点ポイントに行ってしまったら、丁度ガイドのおじさんがこれから起点ポイントまで歩いていくので一緒に行こうと連れてってくれた。
起点の集合場所は、最強の鼻歌 - Kirsty MacCollのタイトルでもある"SOHO Square"で、あああの歌の場所に行くんだわ、とどきどきしていたら本屋にいくときにいつも通っているただの公園 - 公園にはこの歌のベンチがあるって、今度見なきゃ - なのだった。 よくある。 16世紀まではふつうの農園だったそうな。 New YorkのSOHOとは関係あるの? て無邪気に聞いたら「まったくないね」と即座にばっさり。
参加者は12名、大人数になるといろいろ面倒 - 公園で説明している横で酔っ払いがわあわあくだまいてたし - になる可能性もあるのでこの数にしているそう、で、ここからSOHOのいろんなLGBTQ+ に関わる歴史上の建物、路地、痕跡などなどを辿り、そこで起こった数々の、多くは警察などによる痛ましい弾圧と迫害の歴史を追っていく、というツアー。 自分にとってのこのエリアは本屋のFoylesと映画館のCurzon SOHOで、映画のあと - 多くは22時過ぎ - の晩ご飯を求めてひとり彷徨う土地なのだが、ものすごくおいしそうなお店がいっぱいあるのでいつも途方に暮れる、そういうとこ。 NYでいうとChristopher street界隈、というかんじなのだろうが、あそこまで露骨に表に出しているわけではなく、表面上はふつうの飲食店街のようになっている。このへんを単純にお国柄、みたいに言ってしまってよのか、あるいはそんなに隠れなければならないほどやばかった、ということなのか。
というわけで普段頻繁に右往左往している場所をいったりきたりして、その多くはドアの奥/壁の向こう闇の酒場だったり出会いの場だったり警察が踏みこんで事件になったところ、爆破されて事件になったところ、闇の女王や大王が潜んでいたところ、などなど。 いろんな言葉も教えてくれてとっても勉強になる。CottageとかShim Shamとか。
いっこだけ少しびっくりしたのは、2月の終わり、映画の帰りにいろんなレストランが閉まりかけて泣きそうになっていたとき、たまたま入ってカウンターで食事させてくれたDucksoupていう萎びたお店 - 入口にレコードプレイヤーがあってアナログが放置状態で回っていて、豚バラのローストとラディッキオとルバーブのガレットがすんばらしかった - ここが実は、1948年にMuriel BelcherがオープンしてFrancis Baconが根城にし、Peter O'TooleやLucian Freudが頻繁に訪れ、90年代にはLisa Stansfieldなんかも歌ったりしていた伝説の - 伝説っていうのは正しくこういうやつよ- The Colony Roomがあったところなんだって聞いて。 ああ、きっとなんかが呼んだんだわ。 £1,000で出ているFrancis Bacon: Catalogue Raisonne、買うべきなのだろうか(ずっと悩みちゅう)。
あとはしょっちゅう警察のガサ入れがあったのでいろいろ隠れる/隠す仕組みとか、隠れキリシタンじゃないけど、ついこないだまで大変な時代があったんだねえ、ていうのとか、女性のレスビアンは割と表に出てこなかったとか、そういうのもおもしろかった。 街頭のポールに刻まれたシャネルのマークの秘密とか。
そういうのをめぐりながら終点のFreud Café-Barに着いて、ここには30年代、The Caravanていう伝説のクラブがあって、それをNational Archiveが当時の記録や図面、写真を元にインテリアに茶器や燭台まできちんと再現・復元していて、勝手に座ったり見たり寛いだりしてよいの。 机の上には当時の警察の調書とか記録がいっぱいあって、あと突然のガサ入れのときの裏口とか。 壁際のソファの座り心地とか光が射しこんでカーテンにはねるかんじとか - 夜はぜんぜん違うのだろうが、どれくらい騒がしかったのか、どんな音楽が流れていたのか、誰が泣いて誰が笑ったのか、ここは愛の天国で地獄で終着駅だったんだねえ、とかいろんなことをおもった。
90分で50年間の抑圧と血と涙の歴史をてんてんで辿りつつ、しみじみ愛というのは変でいびつで、でもこんなふうにくっきりと痕を残すのよね、それを別のかたちの愛が40年くらいかけて掬いあげて救いだすんだわ、とか。 これこそが政治と愛のリアルな戦いの歴史で、それは間違いなくまだ続いているのだからこういうツアーで歴史を知っとくのは本当に大事なことなの。
このツアーの夜中篇で、ここでお酒を飲んだりするのもあるのだが、こっちは大人気らしくもう売り切れている。
あと、相当とろいのかもしれないが、今回少し歩いてみて、SOHOを中心にCovent GardenとかTottenham Court RoadとかLeicester SquareとかHolbornとか地下鉄駅の点でしかなかったそれぞれの場所が結ばれて自分のあたまのなかでいちまいの地図として広がりはじめた。 気がする。
この過程がいちばん楽しくて気持ちよいの。トンネルの向こう側とこっち側がつながっていくかんじが。
あと、4日の夕方、This is Not This Heatの前、Whitechapel Galleryで見た展覧会。
Eduardo Paolozzi
英国(スコットランド)を代表する彫刻家、ポップアートのひとの回顧展。
Paul McCartney and Wingsの“Red Rose Speedway”のジャケットとかで有名ね。
まわっていて、それなりに面白いのだが、アメリカのポップアートに慣れ親しんできた目からすると「ポップ」の定義もいろいろで違うもんだねえ、と。 抽象芸術全般に言えるのかもしれないけど、アメリカのそれと日本のとイギリスのとは、それぞれぜんぶ違う。例えば「国」という単位で括れてしまうものなのか? たぶんイエスで、ポップでも抽象でも概念的には地域性を超えうるもののように思いがちだけど、逆なのだなあ、と英国的な弾力感に包まれつつ、思ったりした。
Terrains of the Body: Photography from the National Museum of Women in the Arts
17名の(女性? たぶん)アーティストは写真の平面や陰影や肌理を介してBodyの地勢、地形、地域性をどう表現するのか/しようとしてきたのか。 参加しているのは知っているとこだと、Marina Abramović, Rineke Dijkstra, Anna Gaskell, Nan Goldin, Candida Höfer, Kirsten Justesenなどなど。 どれもとっても清々しいかんじ(よい意味で)がするのは気のせい?
Guerrilla Girls: Is it even worse in Europe?
Guerrilla Girlsがヨーロッパのアート関係の施設・機関の383人のディレクター達に収蔵している作品や展覧会企画などについての質問票を送って、フェミニズムの観点からどれくらいジェンダーレスのほうに歩んでいるのかを見てみた、その結果が回答の実物ペーパーとあわせてべたべた展示されてて、それがつまり”Is it even worse in Europe?” てことなの。 あるいみ痛快なんだけど、日本で同じのやってみてよ。きっと唖然呆然だよ。
Whitechapel GalleryからRough Trade EastまでのBrick Laneの通りのお散歩がとっても好きになりつつあるとこ。
https://www.nationaltrust.org.uk/queer-city-london
英国のNational Trust - 正式名称は"National Trust for Places of Historic Interest or Natural Beauty"とNational Archives - イギリス国立公文書館 - が主催の、要するにちゃんとした団体がやっているやつ。 朝まで雨が降っててものすごく寒かったがツアーの間の90分、雨はこなかった。
集合場所を間違ってツアーの終点ポイントに行ってしまったら、丁度ガイドのおじさんがこれから起点ポイントまで歩いていくので一緒に行こうと連れてってくれた。
起点の集合場所は、最強の鼻歌 - Kirsty MacCollのタイトルでもある"SOHO Square"で、あああの歌の場所に行くんだわ、とどきどきしていたら本屋にいくときにいつも通っているただの公園 - 公園にはこの歌のベンチがあるって、今度見なきゃ - なのだった。 よくある。 16世紀まではふつうの農園だったそうな。 New YorkのSOHOとは関係あるの? て無邪気に聞いたら「まったくないね」と即座にばっさり。
参加者は12名、大人数になるといろいろ面倒 - 公園で説明している横で酔っ払いがわあわあくだまいてたし - になる可能性もあるのでこの数にしているそう、で、ここからSOHOのいろんなLGBTQ+ に関わる歴史上の建物、路地、痕跡などなどを辿り、そこで起こった数々の、多くは警察などによる痛ましい弾圧と迫害の歴史を追っていく、というツアー。 自分にとってのこのエリアは本屋のFoylesと映画館のCurzon SOHOで、映画のあと - 多くは22時過ぎ - の晩ご飯を求めてひとり彷徨う土地なのだが、ものすごくおいしそうなお店がいっぱいあるのでいつも途方に暮れる、そういうとこ。 NYでいうとChristopher street界隈、というかんじなのだろうが、あそこまで露骨に表に出しているわけではなく、表面上はふつうの飲食店街のようになっている。このへんを単純にお国柄、みたいに言ってしまってよのか、あるいはそんなに隠れなければならないほどやばかった、ということなのか。
というわけで普段頻繁に右往左往している場所をいったりきたりして、その多くはドアの奥/壁の向こう闇の酒場だったり出会いの場だったり警察が踏みこんで事件になったところ、爆破されて事件になったところ、闇の女王や大王が潜んでいたところ、などなど。 いろんな言葉も教えてくれてとっても勉強になる。CottageとかShim Shamとか。
いっこだけ少しびっくりしたのは、2月の終わり、映画の帰りにいろんなレストランが閉まりかけて泣きそうになっていたとき、たまたま入ってカウンターで食事させてくれたDucksoupていう萎びたお店 - 入口にレコードプレイヤーがあってアナログが放置状態で回っていて、豚バラのローストとラディッキオとルバーブのガレットがすんばらしかった - ここが実は、1948年にMuriel BelcherがオープンしてFrancis Baconが根城にし、Peter O'TooleやLucian Freudが頻繁に訪れ、90年代にはLisa Stansfieldなんかも歌ったりしていた伝説の - 伝説っていうのは正しくこういうやつよ- The Colony Roomがあったところなんだって聞いて。 ああ、きっとなんかが呼んだんだわ。 £1,000で出ているFrancis Bacon: Catalogue Raisonne、買うべきなのだろうか(ずっと悩みちゅう)。
あとはしょっちゅう警察のガサ入れがあったのでいろいろ隠れる/隠す仕組みとか、隠れキリシタンじゃないけど、ついこないだまで大変な時代があったんだねえ、ていうのとか、女性のレスビアンは割と表に出てこなかったとか、そういうのもおもしろかった。 街頭のポールに刻まれたシャネルのマークの秘密とか。
そういうのをめぐりながら終点のFreud Café-Barに着いて、ここには30年代、The Caravanていう伝説のクラブがあって、それをNational Archiveが当時の記録や図面、写真を元にインテリアに茶器や燭台まできちんと再現・復元していて、勝手に座ったり見たり寛いだりしてよいの。 机の上には当時の警察の調書とか記録がいっぱいあって、あと突然のガサ入れのときの裏口とか。 壁際のソファの座り心地とか光が射しこんでカーテンにはねるかんじとか - 夜はぜんぜん違うのだろうが、どれくらい騒がしかったのか、どんな音楽が流れていたのか、誰が泣いて誰が笑ったのか、ここは愛の天国で地獄で終着駅だったんだねえ、とかいろんなことをおもった。
90分で50年間の抑圧と血と涙の歴史をてんてんで辿りつつ、しみじみ愛というのは変でいびつで、でもこんなふうにくっきりと痕を残すのよね、それを別のかたちの愛が40年くらいかけて掬いあげて救いだすんだわ、とか。 これこそが政治と愛のリアルな戦いの歴史で、それは間違いなくまだ続いているのだからこういうツアーで歴史を知っとくのは本当に大事なことなの。
このツアーの夜中篇で、ここでお酒を飲んだりするのもあるのだが、こっちは大人気らしくもう売り切れている。
あと、相当とろいのかもしれないが、今回少し歩いてみて、SOHOを中心にCovent GardenとかTottenham Court RoadとかLeicester SquareとかHolbornとか地下鉄駅の点でしかなかったそれぞれの場所が結ばれて自分のあたまのなかでいちまいの地図として広がりはじめた。 気がする。
この過程がいちばん楽しくて気持ちよいの。トンネルの向こう側とこっち側がつながっていくかんじが。
あと、4日の夕方、This is Not This Heatの前、Whitechapel Galleryで見た展覧会。
Eduardo Paolozzi
英国(スコットランド)を代表する彫刻家、ポップアートのひとの回顧展。
Paul McCartney and Wingsの“Red Rose Speedway”のジャケットとかで有名ね。
まわっていて、それなりに面白いのだが、アメリカのポップアートに慣れ親しんできた目からすると「ポップ」の定義もいろいろで違うもんだねえ、と。 抽象芸術全般に言えるのかもしれないけど、アメリカのそれと日本のとイギリスのとは、それぞれぜんぶ違う。例えば「国」という単位で括れてしまうものなのか? たぶんイエスで、ポップでも抽象でも概念的には地域性を超えうるもののように思いがちだけど、逆なのだなあ、と英国的な弾力感に包まれつつ、思ったりした。
Terrains of the Body: Photography from the National Museum of Women in the Arts
17名の(女性? たぶん)アーティストは写真の平面や陰影や肌理を介してBodyの地勢、地形、地域性をどう表現するのか/しようとしてきたのか。 参加しているのは知っているとこだと、Marina Abramović, Rineke Dijkstra, Anna Gaskell, Nan Goldin, Candida Höfer, Kirsten Justesenなどなど。 どれもとっても清々しいかんじ(よい意味で)がするのは気のせい?
Guerrilla Girls: Is it even worse in Europe?
Guerrilla Girlsがヨーロッパのアート関係の施設・機関の383人のディレクター達に収蔵している作品や展覧会企画などについての質問票を送って、フェミニズムの観点からどれくらいジェンダーレスのほうに歩んでいるのかを見てみた、その結果が回答の実物ペーパーとあわせてべたべた展示されてて、それがつまり”Is it even worse in Europe?” てことなの。 あるいみ痛快なんだけど、日本で同じのやってみてよ。きっと唖然呆然だよ。
Whitechapel GalleryからRough Trade EastまでのBrick Laneの通りのお散歩がとっても好きになりつつあるとこ。
3.07.2017
[film] John Wick: Chapter 2 (2017)
3日金曜日の晩、めちゃくちゃだるかったので(帰れよ)、Leicester Squareのシネコンでみました。
2日に"Wendy and Lucy"を見て、3日にこれを見て、5日に"Certain Women"を見たのだが、この3本はどれもわんわんがいなければ成立しない犬映画なの。 (と思っていたひとが他にもいたらしく、Bloomsburyの"Certain Women"のQ&Aで監督に直接聞いていたのがおかしかった)
冒頭のなにがなんだかよくわからない追っかけっこで、追われているほうがJohn Wickの犬と車のことを怖々語るので、そうかまだめそめそが続いているのね、って思うのだが、彼は実際におうちに帰ると亡き妻の写真をみながらしおしおしていて(必ず外は雨がふってる)、要は傷ついたまま立ち直れていないのだが、そういうときに限ってドアを叩いて仕事の依頼をしてくるやつがいて、あっさり断ったら直後に家をふっとばされて (シンプルでいいよね)、仕事に戻らざるを得なくなる。
依頼はローマにいる依頼主の姉を殺してくれというもので、しょうがないのでローマに飛んで、スーツとか銃とかナイフとか一式ばりばりに揃えて、小気味よく遂行しちゃったもんだから、やくざ世界のパワーバランスが崩れて、こんどはJohn Wickにものすごい賞金がかけられて、NYに戻った彼にはNYじゅうの殺し屋 - あんなにいっぱいそこらじゅうにいるんだ - が襲いかかってくることになる。
筋はこんなもので、昔のやくざ映画みたいな、書いても書かなくてもどうでもよいかんじで、要はふつうに人がいっぱいいるところに自分を殺しにゾンビとかエイリアンみたいに次々に襲いかかってくる殺し屋やくざたちにどう立ち向かってやり返していくのか - ややこしくなるので警察もFBIも一切関わってこない - それだけで、それだけなのにとにかくおもしろいったらないの。
ものすごく要約すると、
Chapter 1: 犬を殺されたから追いまわしてやっつけた。
Chapter 2: 仕事断ったら絡んできたのでやっつけて、そしたら追いまわされた。
Chapter 1は引退したのに無理やり引っ張り出された彼の怒りと悲しみがアクションをモノトーンの、やや思慮深げなものにしていた気がするが、今度のは止まったら、躊躇したら負け、のようなかんじのアンストッパブルなので、思いっきり動く動く。 VRを駆使した漫画としか思えなかった"Matrix"でのアクションが冗談ではなくなっているようなかんじで - つまり実際にとても痛そうできつそうで - 路地とか通路とか壁とか床とか重力とか地上の物理法則が支配する世界で - 乗り物といったら冒頭の車と地下鉄くらい - めくるめく展開していく。 モーフィアス(Laurence Fishburne)が来てくれて嬉しくてはりきっちゃったのかもしれんが、キアヌってこんなに動けるひとだったのね、というのを改めて確認した。
これでいいのよね。背後には山のように黒幕とか闇とか掟とか裏切りとか暗闘があるのかもしれんが、見たいのはどんなふうに銃弾が放たれて向こうにどんなふうに命中したのか、ナイフの切っ先がどんなふうに食いこんだのか、そいつにとどめはさされたのかまだ動いてるのか、それで終わりなのかまだあとに続いているのか、そんなもんで、ここのカメラはJohn Wickの飼い犬の目となってそいつらを嬉々として追っかけまわしている。 Johnny Toから一切の闇をとっぱらってやばい薬かなんかを盛ったようなかんじ、というか。
Chapter 3も楽しみだなー。 John Leguizamoのとこから車が戻ってきて、わんわんも戻ってきて、Civil Warみたいな大戦争になって更なる死体の山が。
でもあれだけ殺し屋がいるってことはそれだけ需要があるってことでしょ。 すごいなー。
既に誰かが書いているかもだけど、Jack Reacher(IDを持たない男)、Jason Bourne(IDを探している男)と、John Wick(IDをなくしたい男)で三つ巴の殺し合い合戦映画をやってくれないかしらん。 “Jack, Jason & John”とかいうの …
あと、John Wickはあれだけの言葉に手話まで使えるので、犬の言葉も操れるにちがいないわって。
2日に"Wendy and Lucy"を見て、3日にこれを見て、5日に"Certain Women"を見たのだが、この3本はどれもわんわんがいなければ成立しない犬映画なの。 (と思っていたひとが他にもいたらしく、Bloomsburyの"Certain Women"のQ&Aで監督に直接聞いていたのがおかしかった)
冒頭のなにがなんだかよくわからない追っかけっこで、追われているほうがJohn Wickの犬と車のことを怖々語るので、そうかまだめそめそが続いているのね、って思うのだが、彼は実際におうちに帰ると亡き妻の写真をみながらしおしおしていて(必ず外は雨がふってる)、要は傷ついたまま立ち直れていないのだが、そういうときに限ってドアを叩いて仕事の依頼をしてくるやつがいて、あっさり断ったら直後に家をふっとばされて (シンプルでいいよね)、仕事に戻らざるを得なくなる。
依頼はローマにいる依頼主の姉を殺してくれというもので、しょうがないのでローマに飛んで、スーツとか銃とかナイフとか一式ばりばりに揃えて、小気味よく遂行しちゃったもんだから、やくざ世界のパワーバランスが崩れて、こんどはJohn Wickにものすごい賞金がかけられて、NYに戻った彼にはNYじゅうの殺し屋 - あんなにいっぱいそこらじゅうにいるんだ - が襲いかかってくることになる。
筋はこんなもので、昔のやくざ映画みたいな、書いても書かなくてもどうでもよいかんじで、要はふつうに人がいっぱいいるところに自分を殺しにゾンビとかエイリアンみたいに次々に襲いかかってくる殺し屋やくざたちにどう立ち向かってやり返していくのか - ややこしくなるので警察もFBIも一切関わってこない - それだけで、それだけなのにとにかくおもしろいったらないの。
ものすごく要約すると、
Chapter 1: 犬を殺されたから追いまわしてやっつけた。
Chapter 2: 仕事断ったら絡んできたのでやっつけて、そしたら追いまわされた。
Chapter 1は引退したのに無理やり引っ張り出された彼の怒りと悲しみがアクションをモノトーンの、やや思慮深げなものにしていた気がするが、今度のは止まったら、躊躇したら負け、のようなかんじのアンストッパブルなので、思いっきり動く動く。 VRを駆使した漫画としか思えなかった"Matrix"でのアクションが冗談ではなくなっているようなかんじで - つまり実際にとても痛そうできつそうで - 路地とか通路とか壁とか床とか重力とか地上の物理法則が支配する世界で - 乗り物といったら冒頭の車と地下鉄くらい - めくるめく展開していく。 モーフィアス(Laurence Fishburne)が来てくれて嬉しくてはりきっちゃったのかもしれんが、キアヌってこんなに動けるひとだったのね、というのを改めて確認した。
これでいいのよね。背後には山のように黒幕とか闇とか掟とか裏切りとか暗闘があるのかもしれんが、見たいのはどんなふうに銃弾が放たれて向こうにどんなふうに命中したのか、ナイフの切っ先がどんなふうに食いこんだのか、そいつにとどめはさされたのかまだ動いてるのか、それで終わりなのかまだあとに続いているのか、そんなもんで、ここのカメラはJohn Wickの飼い犬の目となってそいつらを嬉々として追っかけまわしている。 Johnny Toから一切の闇をとっぱらってやばい薬かなんかを盛ったようなかんじ、というか。
Chapter 3も楽しみだなー。 John Leguizamoのとこから車が戻ってきて、わんわんも戻ってきて、Civil Warみたいな大戦争になって更なる死体の山が。
でもあれだけ殺し屋がいるってことはそれだけ需要があるってことでしょ。 すごいなー。
既に誰かが書いているかもだけど、Jack Reacher(IDを持たない男)、Jason Bourne(IDを探している男)と、John Wick(IDをなくしたい男)で三つ巴の殺し合い合戦映画をやってくれないかしらん。 “Jack, Jason & John”とかいうの …
あと、John Wickはあれだけの言葉に手話まで使えるので、犬の言葉も操れるにちがいないわって。
3.06.2017
[film] Certain Women (2016)
5日の日曜日の午後、BloomsburyのCurzonで見ました。 向かう途中、Russell Squareを歩いていたら突然雹が降ってきて、すぐにからりと晴れて、またしばらくしたらどしゃ降りがきた。
ここのはショッピングモールのなかにあって、地下のRenoirていうでっかいスクリーンで、上映後に監督のKelly ReichardtさんとのQ&Aつき。
2月はどこの映画館に行ってもこの予告が流れていて、出演者はなんか豪華なのだが、どういう筋なのかちっともわからない、そういう不思議な印象があった。
原作はMaile Meloyの短編小説3つ(未読)を脚色したもので、エピソードも3つ、出演者はエピソード間でほとんど交錯しない。舞台はモンタナ州で、ここは3つに共通している。
最初のエピソード; Laura (Laura Dern)は地元の法律事務所に勤める弁護士で、面倒そうなおじさんの案件で彼にはこれ以上もうどうすることもできないていう裁定をくらい、あーやばいひと悶着あるかもと覚悟したけど彼は静かに聞いてくれたので安心して寝てたら真夜中に叩き起こされ、おじさんがオフィスでたてこもりをしているので説得に来てほしい、と。現場に着いたら防弾チョッキ着せられて... Laura Dern特有の「えええなんであたしが.. とほほ」のひん曲がった顔が全面で炸裂する。
ふたつめのエピソード; ここのMichelle Williams - Ginaは成功した女性経営者ふう(Wendyとは違いすぎる)で、夫と娘の3人で自分らが購入した土地を見に行って、やっぱりあれが必要、と老人がひとりで住む家の前に積んである石灰岩の瓦礫をお金払うから譲って貰えないかとネゴをするの。 老人は彼女があまりに真剣でなんかおっかないので譲ってあげることにする。
みっちめのエピソード; 農場で兄と馬と犬と暮らすLily Gladstoneが初めて町の夜学に行ってみる。 教えているのは法律事務所から来たというElizabeth (Kristen Stewart)で、授業のあとダイナーで食事して、ElizabethはLivingstonの町から車で4時間かけて教えにきていることを知る。 授業のあとで何回か食事をして仲良くなっていくのだが、ある日行ってみると新しい男の先生に替わっていて、なんかたまらなくなったLily GladstoneはLivingstonに行ってみることにして ー。
うっすら雪に覆われたモンタナの大地、そこで交錯する4人の女たちの運命は.. のように謎解き、サスペンスふうに転がっていくわけではなくて、それぞれいろいろあるけど生きてます、みたいなそんなお話。 例えば、”20th Century Women"がどちらかというと男性の視点で世代・年代の異なる女性像を切り取って見せたのに対し、"Certain Women"はある地域・地帯に根をはってそこでなんとか踏み留まったり踏みしめたりしている女性たちのお話、のようにも見える。 どちらにも言えるのは、彼女たちはそこにいる、と。 楽ではないかもしれないけどいるよね? と。
エピソードでいうと3番目のが圧倒的に素敵で、それはKristen StewartとLily Gladstoneの演技によるところが大きいのだが、Kristen Stewartのやつれてふてくされた凄味にぜんぜん負けないLily Gladstoneの丸っこいかんじもすごいなあ、って。 この映画への出演はKristen Stewartが監督の熱烈なファンで熱望したんだって。
モンタナで(女性が、なにかに頼らずに)暮らすというのはどういうことか、普段あまり考えたことがないようなことを教えてくれる。それがどうした? になりがちかもだけど、これって日本の歴史だの領土だのを見直すことよか、今はずっとずっと大切なことなんだよ。 海外の小説読んだり映画を見たり、っていうのはこういうことでもあるはず、と淡々と教えてくれる。
この作品は"Wendy and Lucy"のLucyに捧げられていて、3つめのエピソードに出てきて雪の中、ぶいぶいトラクターを追い回してばかりいるでっぷりコーギーの雄姿がたまんない犬映画でもあるの。
上映後のQ&Aは「編集はどうやってやっているんですか?」とか「Shootingはどうやってやっているんですか?」といった監督が空を仰ぐような大ナタ質問ばかりで楽しかったが、最後のほうで彼女はChantal Akermanの本をいつもバッグに入れていて、Chantalだったらここをどう撮っただろう、ていうのをいつも考える、というのを自白するかのように呟いて、ああああーてなんか納得した。
作品から受ける印象とまったくギャップのない、とてもチャーミングな方でしたわ。
Film4チャンネルでとつぜん”This is 40” (2010)が始まってしまう。 月曜の夜23時過ぎからやらないでほしいわ。
ここのはショッピングモールのなかにあって、地下のRenoirていうでっかいスクリーンで、上映後に監督のKelly ReichardtさんとのQ&Aつき。
2月はどこの映画館に行ってもこの予告が流れていて、出演者はなんか豪華なのだが、どういう筋なのかちっともわからない、そういう不思議な印象があった。
原作はMaile Meloyの短編小説3つ(未読)を脚色したもので、エピソードも3つ、出演者はエピソード間でほとんど交錯しない。舞台はモンタナ州で、ここは3つに共通している。
最初のエピソード; Laura (Laura Dern)は地元の法律事務所に勤める弁護士で、面倒そうなおじさんの案件で彼にはこれ以上もうどうすることもできないていう裁定をくらい、あーやばいひと悶着あるかもと覚悟したけど彼は静かに聞いてくれたので安心して寝てたら真夜中に叩き起こされ、おじさんがオフィスでたてこもりをしているので説得に来てほしい、と。現場に着いたら防弾チョッキ着せられて... Laura Dern特有の「えええなんであたしが.. とほほ」のひん曲がった顔が全面で炸裂する。
ふたつめのエピソード; ここのMichelle Williams - Ginaは成功した女性経営者ふう(Wendyとは違いすぎる)で、夫と娘の3人で自分らが購入した土地を見に行って、やっぱりあれが必要、と老人がひとりで住む家の前に積んである石灰岩の瓦礫をお金払うから譲って貰えないかとネゴをするの。 老人は彼女があまりに真剣でなんかおっかないので譲ってあげることにする。
みっちめのエピソード; 農場で兄と馬と犬と暮らすLily Gladstoneが初めて町の夜学に行ってみる。 教えているのは法律事務所から来たというElizabeth (Kristen Stewart)で、授業のあとダイナーで食事して、ElizabethはLivingstonの町から車で4時間かけて教えにきていることを知る。 授業のあとで何回か食事をして仲良くなっていくのだが、ある日行ってみると新しい男の先生に替わっていて、なんかたまらなくなったLily GladstoneはLivingstonに行ってみることにして ー。
うっすら雪に覆われたモンタナの大地、そこで交錯する4人の女たちの運命は.. のように謎解き、サスペンスふうに転がっていくわけではなくて、それぞれいろいろあるけど生きてます、みたいなそんなお話。 例えば、”20th Century Women"がどちらかというと男性の視点で世代・年代の異なる女性像を切り取って見せたのに対し、"Certain Women"はある地域・地帯に根をはってそこでなんとか踏み留まったり踏みしめたりしている女性たちのお話、のようにも見える。 どちらにも言えるのは、彼女たちはそこにいる、と。 楽ではないかもしれないけどいるよね? と。
エピソードでいうと3番目のが圧倒的に素敵で、それはKristen StewartとLily Gladstoneの演技によるところが大きいのだが、Kristen Stewartのやつれてふてくされた凄味にぜんぜん負けないLily Gladstoneの丸っこいかんじもすごいなあ、って。 この映画への出演はKristen Stewartが監督の熱烈なファンで熱望したんだって。
モンタナで(女性が、なにかに頼らずに)暮らすというのはどういうことか、普段あまり考えたことがないようなことを教えてくれる。それがどうした? になりがちかもだけど、これって日本の歴史だの領土だのを見直すことよか、今はずっとずっと大切なことなんだよ。 海外の小説読んだり映画を見たり、っていうのはこういうことでもあるはず、と淡々と教えてくれる。
この作品は"Wendy and Lucy"のLucyに捧げられていて、3つめのエピソードに出てきて雪の中、ぶいぶいトラクターを追い回してばかりいるでっぷりコーギーの雄姿がたまんない犬映画でもあるの。
上映後のQ&Aは「編集はどうやってやっているんですか?」とか「Shootingはどうやってやっているんですか?」といった監督が空を仰ぐような大ナタ質問ばかりで楽しかったが、最後のほうで彼女はChantal Akermanの本をいつもバッグに入れていて、Chantalだったらここをどう撮っただろう、ていうのをいつも考える、というのを自白するかのように呟いて、ああああーてなんか納得した。
作品から受ける印象とまったくギャップのない、とてもチャーミングな方でしたわ。
Film4チャンネルでとつぜん”This is 40” (2010)が始まってしまう。 月曜の夜23時過ぎからやらないでほしいわ。
[film] Wendy and Lucy (2008)
2日の晩、BFIでみました。 Wendy and Lisa、ではないよ念のため。
新作"Certain Women"の英国公開を記念してBFIではKelly Reichardt監督の小特集が組まれていて、これはそのなかのひとつ。
上映以外に彼女とのトークやシンポジウムやQ&AもBFIとCurzonであれこれ行われている。
"Meek's Cutoff" (2010) 見たいよう、今週見れますように... と祈りつつ。
Wendy (Michelle Williams)はわんわんのLucy(監督の飼い犬だって。芝となんかの雑種。賢そう)とふたりで事情はよくわからないが車でアラスカのほうに向かって旅をしている。
鼻歌を歌いながらの散歩の途中で焚火をしてふらふらたむろしている怪しげな地元の連中と会って、その夜もいつものように車のなかで寝ていたら朝に警備員のようなおじいさんにここに停めてはいかんよと言われて、移動しようとしたら車が変な音をたてて動かない。 とりあえず人力で少し先に動かして、なんとかしなきゃ、なのだがLucyのご飯がほとんどなくなっていることに気づき、お金を節約するために散歩しながら空き缶を拾って換金の機械のとこに行ったらすごい列だったので諦めて、しょうがないとスーパーマーケットに入って、ごめんなさいごめんなさいと思いつつ犬缶とかを万引きして出ようとしたら出口で捕まって、切羽詰まっていただけなのでお金は払うからと謝ったのに対応した店員の若者がすごい陰険で性悪(いそうなかんじ)で、彼女は警察に送られて写真と指紋とられてうんざりで、なによりも心配なのはスーパーの入口に繋いだまま置いてこざるを得なかったLucyのことで、リリースされて大急ぎで戻ってみるとLucyはいなくなっていたので目の前が真っ暗になる。
シェルターに探しにいってもいなくて、車も直さなきゃと修理工のとこに行ってもありえない値段を言ってくるので全てが嫌になって、こんなふうについてないことばかりが重なって、そんなことよりお腹をすかせたLucyのことを思うと胸が張り裂けそうになるWendyのきつい彷徨いと、果たしてWendyとLucyの運命やいかに、なの。
ずっとしかめっ面で仏頂面のWendyの痛さ辛さがものすごく伝わってきて、一緒に探してあげたくなる。 インディペンデント犬映画としてはほんとうに素敵で、少しだけネタバレすると、最悪のことにはならないから。 だからLucyを見にいってあげて。
とにかくMichelle Williamsがすごすぎる。ずっと手入れしてないおかっぱ頭のすっぴんで、スーパーのトイレで顔を洗って着替えして- 撮影中は実際にそうしていたらしいが - そんな表づら以上に、Lucyのことしか考えられなくなってしまった女の子の世界を敵に回す/背負って立つぎりぎりの目つき、眼差しと挙動がどこまでも生々しくこちらに迫ってくる。
そして、だからこそ彼女のアラスカを目指す決断は正しいのだろうなと思うし、彼女だったら這ってでも約束の地には行き着くだろう、と。
アメリカを旅するのってこういうことなんだろうな、というのも思った。 よくないことがどんどん勝手にスタッキングされて自分から動いたり言ったりしないと誰も助けてくれなくて、列車は気ままに汽笛を鳴らして出ていってしまう。そして気がつくと元に戻っていたりする。 こんなだからこそWendyにはLucyが必要だったんだよね、ていうこともとってもよくわかるの。
撮影はSam Levy。 女の子の動いて遷ろっていく表情を切り取らせたらこんなすごいひとはいない。
音楽はWill Oldhamさん(浮浪者みたいな役で一瞬でてくる)。 スーパーで掛かっている音楽はSmokey Hormelさんによるもの。
5日の監督とのQ&Aで、この作品が本当に本当に好きなんですけど.. ていう女の子がいて、そういうのがなんかとってもよくわかる、そういう作品です。
猫じゃ無理だよね?
新作"Certain Women"の英国公開を記念してBFIではKelly Reichardt監督の小特集が組まれていて、これはそのなかのひとつ。
上映以外に彼女とのトークやシンポジウムやQ&AもBFIとCurzonであれこれ行われている。
"Meek's Cutoff" (2010) 見たいよう、今週見れますように... と祈りつつ。
Wendy (Michelle Williams)はわんわんのLucy(監督の飼い犬だって。芝となんかの雑種。賢そう)とふたりで事情はよくわからないが車でアラスカのほうに向かって旅をしている。
鼻歌を歌いながらの散歩の途中で焚火をしてふらふらたむろしている怪しげな地元の連中と会って、その夜もいつものように車のなかで寝ていたら朝に警備員のようなおじいさんにここに停めてはいかんよと言われて、移動しようとしたら車が変な音をたてて動かない。 とりあえず人力で少し先に動かして、なんとかしなきゃ、なのだがLucyのご飯がほとんどなくなっていることに気づき、お金を節約するために散歩しながら空き缶を拾って換金の機械のとこに行ったらすごい列だったので諦めて、しょうがないとスーパーマーケットに入って、ごめんなさいごめんなさいと思いつつ犬缶とかを万引きして出ようとしたら出口で捕まって、切羽詰まっていただけなのでお金は払うからと謝ったのに対応した店員の若者がすごい陰険で性悪(いそうなかんじ)で、彼女は警察に送られて写真と指紋とられてうんざりで、なによりも心配なのはスーパーの入口に繋いだまま置いてこざるを得なかったLucyのことで、リリースされて大急ぎで戻ってみるとLucyはいなくなっていたので目の前が真っ暗になる。
シェルターに探しにいってもいなくて、車も直さなきゃと修理工のとこに行ってもありえない値段を言ってくるので全てが嫌になって、こんなふうについてないことばかりが重なって、そんなことよりお腹をすかせたLucyのことを思うと胸が張り裂けそうになるWendyのきつい彷徨いと、果たしてWendyとLucyの運命やいかに、なの。
ずっとしかめっ面で仏頂面のWendyの痛さ辛さがものすごく伝わってきて、一緒に探してあげたくなる。 インディペンデント犬映画としてはほんとうに素敵で、少しだけネタバレすると、最悪のことにはならないから。 だからLucyを見にいってあげて。
とにかくMichelle Williamsがすごすぎる。ずっと手入れしてないおかっぱ頭のすっぴんで、スーパーのトイレで顔を洗って着替えして- 撮影中は実際にそうしていたらしいが - そんな表づら以上に、Lucyのことしか考えられなくなってしまった女の子の世界を敵に回す/背負って立つぎりぎりの目つき、眼差しと挙動がどこまでも生々しくこちらに迫ってくる。
そして、だからこそ彼女のアラスカを目指す決断は正しいのだろうなと思うし、彼女だったら這ってでも約束の地には行き着くだろう、と。
アメリカを旅するのってこういうことなんだろうな、というのも思った。 よくないことがどんどん勝手にスタッキングされて自分から動いたり言ったりしないと誰も助けてくれなくて、列車は気ままに汽笛を鳴らして出ていってしまう。そして気がつくと元に戻っていたりする。 こんなだからこそWendyにはLucyが必要だったんだよね、ていうこともとってもよくわかるの。
撮影はSam Levy。 女の子の動いて遷ろっていく表情を切り取らせたらこんなすごいひとはいない。
音楽はWill Oldhamさん(浮浪者みたいな役で一瞬でてくる)。 スーパーで掛かっている音楽はSmokey Hormelさんによるもの。
5日の監督とのQ&Aで、この作品が本当に本当に好きなんですけど.. ていう女の子がいて、そういうのがなんかとってもよくわかる、そういう作品です。
猫じゃ無理だよね?
[music] This is Not This Heat
4日の土曜日の晩、Barbicanで見て聴いた。 「これはThis Heatではない」 を。
昨年の2月に結成40周年でCafe OTO - こないだSlapp Happy + Faustをやった小屋で、このライブの裏ではPeter Hammillの3days residencyの最終日をやってた - で行われたライブの拡大版。
昨年6月に予定されていたのが延期になって(延期ばんざい)、この日についに。
開始は19:30で、今後は先月のようなミスをしないように行ったら時間ぴったりに始まって、まずCharles Haywardのソロ。 真っ赤のパンツで登場した御大はピアノに向かって割とふつうに聴こえる歌を歌いあげて、どうしたんだどうするんだと不安たっぷりの客席に次は缶からをじゃらじゃら鳴らすガラガラ蛇の歌、とかベビーカーから何かが詰まった缶からを取り出して転がすのとかパフォーマンスをかまして、余裕たっぷりだった。
続いて70年代のThis Heatでのライブでヴィジュアルを担当していたというJohn Smithの実験短編”The Black Tower” (1987) - 24分の上映 - 気を失っていましたごめんなさい。
更に続いてはCharles Bullenのプリペアドギター(だよね、あれ?)によるソロ。ぴろぴろちゃかぽこ。
これの後に約20分の休憩があって、オレンジと生姜のアイスクリームを食べて - なんでみんな休憩時間にアイスクリームを食べるのか? なんかの呪いなのか? - 9時から本編の開始。
このバンドがThis Heatでないことはステージを見ればすぐわかって、ドラムセットは2つあるし、いろんな楽器だらけで女性コーラス3名を含む総勢14名。どうしたのかスモークまで焚かれてるし。
追加メンバーの有名なとこだけいうと、Thurston Mooreとか、Alexis Taylor(Hot Chip)とかChris CutlerとかDaniel O'Sullivan (Sunn O)))他)とか。 ちなみにChris Cutler先生はドラムキットには座らずにパーカッション台に向かって慌ただしく動き回っていた。
メンバー登場前から”Testcard”のちりちりしたノイズが空中を漂っていて、ドラムスの前に座ったHeyward先生がうううおれはもう我慢できないふうに数回体を揺すってから思いっきり左腕を振り下ろすと”Horizontal Hold”がなにかの衝突事故のように誤爆した不発弾のようにHorizontalな衝撃波を送ってくる。 もう歳が歳だし鳥肌がたつような若いお肌ではないはずなのでこれは鳥肌ではない病気のようななにかなのかもしれないが、なんというやかましさ、なんという極上のジャンクでありノイズだろうか、と同調して震える。
This Heat特有のベースの横揺れ・うねりが3名のドラムス、パーカッションとウッドベースを含むベース2名で更に増幅・増強され、近年言われるところの「グルーヴ」とは全く異なる痙攣の波を呼び覚ます。 この痙攣こそがが70年代末のパンクに実験音楽(プログレ)をかけあわせて後にPost Punkと呼ばれる肉と神経と脳髄に一番近いところで鳴る音の原型となって、The RaincoatsもPILも、更にはSonic YouthもLCD Soundsystemだってここからうまれた。
びっくりして感心したのはテープ等を駆使していたとはいえ、3人のDIYで作られていたThis Heatの音の感触が14名のオーケストラになっても劣化も進化もせずそのままに - “mixing improvisation with composition and high complexity with great simplicity”と開演前に配られたproduction noteでChris Cutlerは言っている - 見事な均衡(という言葉が正しいのかどうか)をもって保たれていたこと。 あとはヴォーカリゼーション - Charles Heywardの朗々と道を外れて響く歌声はそういうもんだと知っていたが、Charles Bullenの暗く内に籠って不機嫌に引きずられるあの声があまりにあのままで、こういう声のひとは最近いないよねえ、としみじみした。
先のnoteでCutler先生も言うように、これはリバイバルでもノスタルジアでもなく、まったく新しい何かへの試みで、だからこの熱は、あの熱、あのThis Heatではないのだった。
最後はもちろん”"Health & Efficiency”をやって、”24 Track Loop”をやった。 どちらも大編成が見事に決まって脳内鑢が気持ちよすぎてなにがどうなってもいい、になるのだった。 これが週末でほんとによかった。
どうでもよいことだが、2階席から下、さらに周囲を眺めるとつるっぱげが異様に多かった。 なんじゃろか。
終わって地下鉄に向かうと11時前なのにメンテナンスで駅がクローズしていた。 今度からあの線はFラインて呼ぶことにする。
昨年の2月に結成40周年でCafe OTO - こないだSlapp Happy + Faustをやった小屋で、このライブの裏ではPeter Hammillの3days residencyの最終日をやってた - で行われたライブの拡大版。
昨年6月に予定されていたのが延期になって(延期ばんざい)、この日についに。
開始は19:30で、今後は先月のようなミスをしないように行ったら時間ぴったりに始まって、まずCharles Haywardのソロ。 真っ赤のパンツで登場した御大はピアノに向かって割とふつうに聴こえる歌を歌いあげて、どうしたんだどうするんだと不安たっぷりの客席に次は缶からをじゃらじゃら鳴らすガラガラ蛇の歌、とかベビーカーから何かが詰まった缶からを取り出して転がすのとかパフォーマンスをかまして、余裕たっぷりだった。
続いて70年代のThis Heatでのライブでヴィジュアルを担当していたというJohn Smithの実験短編”The Black Tower” (1987) - 24分の上映 - 気を失っていましたごめんなさい。
更に続いてはCharles Bullenのプリペアドギター(だよね、あれ?)によるソロ。ぴろぴろちゃかぽこ。
これの後に約20分の休憩があって、オレンジと生姜のアイスクリームを食べて - なんでみんな休憩時間にアイスクリームを食べるのか? なんかの呪いなのか? - 9時から本編の開始。
このバンドがThis Heatでないことはステージを見ればすぐわかって、ドラムセットは2つあるし、いろんな楽器だらけで女性コーラス3名を含む総勢14名。どうしたのかスモークまで焚かれてるし。
追加メンバーの有名なとこだけいうと、Thurston Mooreとか、Alexis Taylor(Hot Chip)とかChris CutlerとかDaniel O'Sullivan (Sunn O)))他)とか。 ちなみにChris Cutler先生はドラムキットには座らずにパーカッション台に向かって慌ただしく動き回っていた。
メンバー登場前から”Testcard”のちりちりしたノイズが空中を漂っていて、ドラムスの前に座ったHeyward先生がうううおれはもう我慢できないふうに数回体を揺すってから思いっきり左腕を振り下ろすと”Horizontal Hold”がなにかの衝突事故のように誤爆した不発弾のようにHorizontalな衝撃波を送ってくる。 もう歳が歳だし鳥肌がたつような若いお肌ではないはずなのでこれは鳥肌ではない病気のようななにかなのかもしれないが、なんというやかましさ、なんという極上のジャンクでありノイズだろうか、と同調して震える。
This Heat特有のベースの横揺れ・うねりが3名のドラムス、パーカッションとウッドベースを含むベース2名で更に増幅・増強され、近年言われるところの「グルーヴ」とは全く異なる痙攣の波を呼び覚ます。 この痙攣こそがが70年代末のパンクに実験音楽(プログレ)をかけあわせて後にPost Punkと呼ばれる肉と神経と脳髄に一番近いところで鳴る音の原型となって、The RaincoatsもPILも、更にはSonic YouthもLCD Soundsystemだってここからうまれた。
びっくりして感心したのはテープ等を駆使していたとはいえ、3人のDIYで作られていたThis Heatの音の感触が14名のオーケストラになっても劣化も進化もせずそのままに - “mixing improvisation with composition and high complexity with great simplicity”と開演前に配られたproduction noteでChris Cutlerは言っている - 見事な均衡(という言葉が正しいのかどうか)をもって保たれていたこと。 あとはヴォーカリゼーション - Charles Heywardの朗々と道を外れて響く歌声はそういうもんだと知っていたが、Charles Bullenの暗く内に籠って不機嫌に引きずられるあの声があまりにあのままで、こういう声のひとは最近いないよねえ、としみじみした。
先のnoteでCutler先生も言うように、これはリバイバルでもノスタルジアでもなく、まったく新しい何かへの試みで、だからこの熱は、あの熱、あのThis Heatではないのだった。
最後はもちろん”"Health & Efficiency”をやって、”24 Track Loop”をやった。 どちらも大編成が見事に決まって脳内鑢が気持ちよすぎてなにがどうなってもいい、になるのだった。 これが週末でほんとによかった。
どうでもよいことだが、2階席から下、さらに周囲を眺めるとつるっぱげが異様に多かった。 なんじゃろか。
終わって地下鉄に向かうと11時前なのにメンテナンスで駅がクローズしていた。 今度からあの線はFラインて呼ぶことにする。
3.03.2017
[film] Logan (2017)
1日、水曜日の晩、こっちの公開初日にLeicester Squareのでっかい、爆音のとこで見ました。 IMAX上映もあったがこれはちょっと違う気がした。ぺたんこの横にでっかい画面が◎。
X-Menの最初のを前の晩にFilm4のチャンネルでやってて、改めて自分がこのシリーズを(Avengersよかずっと)愛していることを噛みしめつつ見る。
James Mangoldによる前作の"The Wolverine” (2013)は、やくざ映画の枠を借りて「外様」「外道」としての彼の外皮 - "The Wolverine"を際立たせるものだったが、今作はミュータントとしての"Wolverine"ではなくて、本名の"Logan"で、"3:10 to Yuma” (2007)に"Walk the Line" (2005)のMangoldがばりばりどまんなか、激渋の西部劇に仕立てている。
Johnny Cashの"Hurt"が流れる予告だけでこれはぜったいくる、と思っていたが、やはりきた。
もちろんすごく痛いしきついし辛いし、ざくざく血まみれのR指定だし、でもそれでもすごい、すばらしいとしか言いようがない。
冒頭からLogan (Hugh Jackman)はよれよれがたがたで、タイヤ泥棒達に襲われてももうかつてのようなキレはなくて、何人かやっつけて追い払うのがやっと、メキシコの国境付近でリモの運転手をしながらおなじく老いてほぼ寝たきりで隠遁するチャールズの薬の世話をしている。 つききりで世話をするのは明るい場所に出ることができないミュータントのCalibanで、かつての仲間たちはもうどこにもいない。
で、懸命なメキシコ人の女からLaura (Dafne Keen)ていう少女をある場所に運んでほしい、と札束を渡され、その女は殺されてしまったので仕方なくLauraをCharles (Patrick Stewart)のところに連れていく。
Lauraも同様に組織から狙われていて、やがてねぐらを襲撃されたCharlesとLauraとLoganの3人は逃亡と放浪の旅にでる。老人と少女は打ち解けるが、LoganとLauraは喧嘩ばかりしている。 英語をほとんどしゃべれないLauraは目的地としてノースダコタの国境付近の住所を指さして、彼女がずっと握りしめて信じこんでいるお伽話は大昔のX-Menのコミックだったりする。
筋はシンプルにこれだけで、3人はえんえん追われ襲われては逃げるを繰り返し、途中で匿ってくれる家族がいたり、どんどんやつれて萎れていく車椅子の老人と足を引き摺って浮浪者みたいなLoganと異様な目つきの少女の子連れ狼で、とにかく、これがミュータントのお話だなんて誰が信じられようか。 傷者・除け者たちが悪い追っ手たちから懸命に逃れつつ、最後に砦で迎え撃つ - これって西部劇だよね。 そして優れた西部劇がそうであるように、正義とはなにか、ヒーローとはどういうものか(どういうふうに去るのか、終わるのか)、をしみじみ考えさせるものになっていて、そこに"Logan"という名前が("Shane"とおなじように)被さるのだから、ああなんという、なの。 2000年に始まった"X-Men"がこんなふうに終わりを迎える(別のかたちでシリーズは続くのだろうが)なんて、誰が想像しただろうか。
3人のトライアングルがすばらしい。 今後もうこのシリーズには関わらないと明言しているHugh JackmanもPatrick Stewartも、ここまで凄まじいものを見せてくれたのだから、ありがとう以外に言うことはない。 そして、どこから見つけてきたのかLaura役の娘の狂犬ぶりとあの目つきと。
音楽は"Hurt"がそのまま流れることはないのだが、あの音やコードの断片が基調音として全編にずーっと流れて鼓膜を圧してくる。
最後のほうでのLoganとLauraの会話 - "I hurt people" - "People hurt me"という切り返しの辛さと切なさ。
Logan - Wolverineのシリーズのテーマのひとつに彼がこれまでに受けた痛み - どれだけ痛めつけられても元に戻ってしまう痛み - は他者に共有できるのか、わかるわけないだろうが(怒)というのがあった。 今作ではそこにほんのりした光があたって、それは痛みを超えてミュータントであることの哀しみをも包みこむ。
そしてエンドクレジットで流れるのはあのひとのあんな曲だったりするところがまた。
唯一文句が出そうなところがあるとしたら、これ、ミュータントの話じゃなくても、老いぼれて壊れかけたかつての凄腕ガンマンふたり+拾われ少女の物語としても十分に通用してしまうことか。 それもまた見たいなー。
それにしてもあのラストはなんというか。 あの娘ときたら…
X-Menの最初のを前の晩にFilm4のチャンネルでやってて、改めて自分がこのシリーズを(Avengersよかずっと)愛していることを噛みしめつつ見る。
James Mangoldによる前作の"The Wolverine” (2013)は、やくざ映画の枠を借りて「外様」「外道」としての彼の外皮 - "The Wolverine"を際立たせるものだったが、今作はミュータントとしての"Wolverine"ではなくて、本名の"Logan"で、"3:10 to Yuma” (2007)に"Walk the Line" (2005)のMangoldがばりばりどまんなか、激渋の西部劇に仕立てている。
Johnny Cashの"Hurt"が流れる予告だけでこれはぜったいくる、と思っていたが、やはりきた。
もちろんすごく痛いしきついし辛いし、ざくざく血まみれのR指定だし、でもそれでもすごい、すばらしいとしか言いようがない。
冒頭からLogan (Hugh Jackman)はよれよれがたがたで、タイヤ泥棒達に襲われてももうかつてのようなキレはなくて、何人かやっつけて追い払うのがやっと、メキシコの国境付近でリモの運転手をしながらおなじく老いてほぼ寝たきりで隠遁するチャールズの薬の世話をしている。 つききりで世話をするのは明るい場所に出ることができないミュータントのCalibanで、かつての仲間たちはもうどこにもいない。
で、懸命なメキシコ人の女からLaura (Dafne Keen)ていう少女をある場所に運んでほしい、と札束を渡され、その女は殺されてしまったので仕方なくLauraをCharles (Patrick Stewart)のところに連れていく。
Lauraも同様に組織から狙われていて、やがてねぐらを襲撃されたCharlesとLauraとLoganの3人は逃亡と放浪の旅にでる。老人と少女は打ち解けるが、LoganとLauraは喧嘩ばかりしている。 英語をほとんどしゃべれないLauraは目的地としてノースダコタの国境付近の住所を指さして、彼女がずっと握りしめて信じこんでいるお伽話は大昔のX-Menのコミックだったりする。
筋はシンプルにこれだけで、3人はえんえん追われ襲われては逃げるを繰り返し、途中で匿ってくれる家族がいたり、どんどんやつれて萎れていく車椅子の老人と足を引き摺って浮浪者みたいなLoganと異様な目つきの少女の子連れ狼で、とにかく、これがミュータントのお話だなんて誰が信じられようか。 傷者・除け者たちが悪い追っ手たちから懸命に逃れつつ、最後に砦で迎え撃つ - これって西部劇だよね。 そして優れた西部劇がそうであるように、正義とはなにか、ヒーローとはどういうものか(どういうふうに去るのか、終わるのか)、をしみじみ考えさせるものになっていて、そこに"Logan"という名前が("Shane"とおなじように)被さるのだから、ああなんという、なの。 2000年に始まった"X-Men"がこんなふうに終わりを迎える(別のかたちでシリーズは続くのだろうが)なんて、誰が想像しただろうか。
3人のトライアングルがすばらしい。 今後もうこのシリーズには関わらないと明言しているHugh JackmanもPatrick Stewartも、ここまで凄まじいものを見せてくれたのだから、ありがとう以外に言うことはない。 そして、どこから見つけてきたのかLaura役の娘の狂犬ぶりとあの目つきと。
音楽は"Hurt"がそのまま流れることはないのだが、あの音やコードの断片が基調音として全編にずーっと流れて鼓膜を圧してくる。
最後のほうでのLoganとLauraの会話 - "I hurt people" - "People hurt me"という切り返しの辛さと切なさ。
Logan - Wolverineのシリーズのテーマのひとつに彼がこれまでに受けた痛み - どれだけ痛めつけられても元に戻ってしまう痛み - は他者に共有できるのか、わかるわけないだろうが(怒)というのがあった。 今作ではそこにほんのりした光があたって、それは痛みを超えてミュータントであることの哀しみをも包みこむ。
そしてエンドクレジットで流れるのはあのひとのあんな曲だったりするところがまた。
唯一文句が出そうなところがあるとしたら、これ、ミュータントの話じゃなくても、老いぼれて壊れかけたかつての凄腕ガンマンふたり+拾われ少女の物語としても十分に通用してしまうことか。 それもまた見たいなー。
それにしてもあのラストはなんというか。 あの娘ときたら…
3.02.2017
[film] Jackie (2016)
2月26日、日曜日の昼、Dulwichに行ったあと、Central Londonに戻ってCurzonのVictoriaでみました。 ロンドン中のCurzonを制覇してやる予定。 これもこっちではもう終わっちゃいそうだったし、オスカー絡みで、なにかの賞を獲ることはなさそうだけど、ねんのため程度。でも。
ケネディ暗殺のあと、マサチューセッツで隠遁しているJackie (Natalie Portman)のところにジャーナリスト (Billy Crudup)が訪ねてくるところから始まって、夫を失いホワイトハウスからも追われてしまった彼女がジャーナリストに自分のことをどう書いてほしいのか、どう書かれるべきなのか、それはなぜなのか、などを淡々と語る。
その語りを通して彼女の頭に去来する過去から事件当日のこと、その後のいろんなことが時系列はあまり関係なしに綴られていく。
華々しいパレードの最中、目の前で最愛のひとの脳みそが吹っ飛んで自身も血まみれにされ、夫はそのまま静かに隠れるように逝ってしまい、夫の後任は機械的に即座に決まって宣誓がなされ、住んでいたホワイトハウス - TVで宮殿のような調度の数々を誇らしげに紹介したばかり- も出ていかなければいけないし、葬儀だのなんだのいろんな手続きも自分の意思とは関係なく自動で決まって動いていってしまう、こんな異常で不条理な経験のどまんなかにたったひとりで置かれ、同時にその様が世界中に曝されてしまった彼女のサイコドラマのように展開する。
彼女のそもそものキャラクターや人格、ファーストレディーになるまでの経緯や大統領との絆やどんなふうに立ち直っていったのか、といったふつうの人物評伝のかたちを取らず、カメラマンの脳と目に彼女が憑依してしまったかのような異様なクローズアップにいろんな明暗・肌理の不安定な映像等、こんがらがった隘路に入りこんで抜けられなくなった/囚われてしまった彼女のエモの彷徨いがまずあって、そこに空気穴を空けるかのように、夢から覚ましてあげるかのようにプリースト(ああJohn Hurt... )が扉をたたき、ジャーナリストがメモを走らせる。
たぶん、Sofia Coppolaが"Marie Antoinette” (2006)でやったような方法に近い、気がしないでもないのだが、いろいろ忘れているところも多いので確かめようがないわ。
このサイコドラマの根幹を構成するのはなんといってもMica Leviの音楽で、最初のほうのむっちり鰻のように艶やかにしなる変なストリングスから、決して豪華絢爛なほうにいかないオーケストレーションまで、それはJackieのあたまの中でわんわん鳴り続けている悲鳴に近い音そのもののように聞こえてくる。 画面とは別に音楽が後から届いた、というのがちょっと信じられないくらい。
そして最終的には(祈りをこめて)甘い"Camelot"の楽曲に総括され象徴されるふたりの愛の神話 - でもそれもまたなんと砂糖菓子のように儚いものであったことか、と。
このときJohn F. が亡くならなかったら、99年にJr. の飛行機が落ちなかったら … というのはいまだに考えてしまうことなのだが、これを見ると改めて思ってしまうのだった。 歴史ってさー。
63年にあんなにかっちり貴族のようななりをしていたGreta GerwigとBilly Crudupが、79年(”20th Century Women”)にはあんなによれよれのぐだぐだになってしまう。 これも「アメリカ」の恐ろしいところだねえ。
ケネディ暗殺のあと、マサチューセッツで隠遁しているJackie (Natalie Portman)のところにジャーナリスト (Billy Crudup)が訪ねてくるところから始まって、夫を失いホワイトハウスからも追われてしまった彼女がジャーナリストに自分のことをどう書いてほしいのか、どう書かれるべきなのか、それはなぜなのか、などを淡々と語る。
その語りを通して彼女の頭に去来する過去から事件当日のこと、その後のいろんなことが時系列はあまり関係なしに綴られていく。
華々しいパレードの最中、目の前で最愛のひとの脳みそが吹っ飛んで自身も血まみれにされ、夫はそのまま静かに隠れるように逝ってしまい、夫の後任は機械的に即座に決まって宣誓がなされ、住んでいたホワイトハウス - TVで宮殿のような調度の数々を誇らしげに紹介したばかり- も出ていかなければいけないし、葬儀だのなんだのいろんな手続きも自分の意思とは関係なく自動で決まって動いていってしまう、こんな異常で不条理な経験のどまんなかにたったひとりで置かれ、同時にその様が世界中に曝されてしまった彼女のサイコドラマのように展開する。
彼女のそもそものキャラクターや人格、ファーストレディーになるまでの経緯や大統領との絆やどんなふうに立ち直っていったのか、といったふつうの人物評伝のかたちを取らず、カメラマンの脳と目に彼女が憑依してしまったかのような異様なクローズアップにいろんな明暗・肌理の不安定な映像等、こんがらがった隘路に入りこんで抜けられなくなった/囚われてしまった彼女のエモの彷徨いがまずあって、そこに空気穴を空けるかのように、夢から覚ましてあげるかのようにプリースト(ああJohn Hurt... )が扉をたたき、ジャーナリストがメモを走らせる。
たぶん、Sofia Coppolaが"Marie Antoinette” (2006)でやったような方法に近い、気がしないでもないのだが、いろいろ忘れているところも多いので確かめようがないわ。
このサイコドラマの根幹を構成するのはなんといってもMica Leviの音楽で、最初のほうのむっちり鰻のように艶やかにしなる変なストリングスから、決して豪華絢爛なほうにいかないオーケストレーションまで、それはJackieのあたまの中でわんわん鳴り続けている悲鳴に近い音そのもののように聞こえてくる。 画面とは別に音楽が後から届いた、というのがちょっと信じられないくらい。
そして最終的には(祈りをこめて)甘い"Camelot"の楽曲に総括され象徴されるふたりの愛の神話 - でもそれもまたなんと砂糖菓子のように儚いものであったことか、と。
このときJohn F. が亡くならなかったら、99年にJr. の飛行機が落ちなかったら … というのはいまだに考えてしまうことなのだが、これを見ると改めて思ってしまうのだった。 歴史ってさー。
63年にあんなにかっちり貴族のようななりをしていたGreta GerwigとBilly Crudupが、79年(”20th Century Women”)にはあんなによれよれのぐだぐだになってしまう。 これも「アメリカ」の恐ろしいところだねえ。
[art] Vanessa Bell
渡英して最初の一ヶ月が過ぎてしまった。 この調子で過ぎていってしまうのだとしたらやばすぎる。
週末の美術館関係。 あんまり行けていないかも。
お家探しがある(決めらんない)し、洗濯したりクリーニングだしたりゴミだしたり日用品の買い物いったり少しは休んだりしないとさすがに、だし。 あと、まだまだ寒いし。
Hair by Sam McKnight
25日の土曜日の昼、Somerset Houseでみました。
地下鉄エスカレーターでTilda Swintonさんのいろんな髪型の広告が素敵で気になったので行ってみたら、なかなかすばらしかった。 ただの髪結い屋じゃん、というかもしれないがこれ見るとひっくり返るよ。ほんとうにすごいひとだよ。
https://www.somersethouse.org.uk/whats-on/hair-sam-mcknight
入ってすぐのところに彼の使っている旅行用のガラガラとそこにぱんぱんに格納されている大量の道具とかスプレーとか飛び道具まるごと一式。
その物量に圧倒されると、それに続いてビデオ映像による彼のコレクションでのメイク風景とその机上に実際にどんなふうに機材とか道具とかが配置されて作業をしていくのかがびらーっと。
(これがミュージシャンだったらエフェクターとモニターとコンソールと、録音機材一式みたいになもんだし、料理人だと … 以下略)
次のコーナーでVivienne Westwood女史の賛辞の言葉と彼女のコレクションを彩ってきた鳥の巣・竹箒頭のマネキンさんが森のように。
そこから階段を昇った中二階の廊下からデザイナー(Karl Lagerfeld)との、写真家(Nick Knight, Patrick Demarchelier, Mario Testino, Tim Walker)との、モデル(それはそれはいっぱい)との、アーティスト(Gaga, Bjork)との、彼のいろんな歴史が並んでいて、特に2000年のVogue Gold Issueの表紙を飾ったKate Mossの横顔のパーフェクトなシルエットとか、1990年のDiana妃がショートにしたときの衝撃(写真: Patrick Demarchelier)とか、懐かしいのがいっぱいで、これらぜんぶを相手にしてきて - とくになまものであるところの髪の毛をどうにかする/できるってなんてすごいことなんでしょう、と - 一ケ月過ぎて髪質 x 陽気湿気 x 水質で毎日お手あげで死にそうになっているものとして - おもった。
髪の毛って、顔の一部だし突端の嘴とか角みたいなもんだから、それを作って見せる、新しいものとして見せるってどんなに大変で大切なことか、って。
自分のは ...もう丸刈りでもするか。(追いつめられている)
あと、ここに出店していたオンライン本屋のBeaux Booksって、なかなかすてきかも。
Vanessa Bell (1879-1961)
26日の日曜日の午前、Dulwich Picture Galleryていうとこで見ました。
これも地下鉄の広告(一箇所だけ、剥がし忘れか?)で見かけて、Dulwichていうのはちょっとロンドンの真ん中から少し遠い村(Village)なのだが行ってみようと。 電車とバスを乗り継いで50分くらいか。
Vanessa BellはVirginia Woolfの4人の兄弟(異母異父も含めるともっと、なのだが)の一番上のお姉さんで、ここの家族友人関係を書き出していくとサザエさん一家、というよりムーミン谷みたいになってめんどうなので、とにかく絵を描く女性だった、と。
展示のメインのイメージになっているSelf Portrait (1915)の絵が見事にお姉ちゃん、てかんじで素敵で、だいたいの印象は室内を描いていた頃のマティスとかムンクとか、肖像画だとセザンヌ、風景はところどころ印象派とかゴッホとか、びっくりするのは抽象のコンポジションのシャープなかっこよさで、それらぜんぶでVanessa Bellなのだが、こんなによかったのかー、とこれまでちゃんと見ていなかったことを反省した。
肖像画に材料はVirginia WoolfにLytton Stracheyはもちろん、長男のJulian Bellにやがて『ヴァージニア・ウルフ伝』を書くことになる次男のQuentin Bell、夫とは別に関係のあったRoger FryにDuncan Grant、そのDuncanの愛人のDavid Garnettとか、あーだからめんどうだねえ、なのだが、画面から受ける印象は家族でも愛人でも愛人の愛人でもどれも同様の平穏さと暖かさとほんのりユーモアに溢れて座っていて、こういう横並びもまたイギリス的、と呼んでいいなにかなのだろうか、とか。
この展示とは別の無料のところではもういっこ別の展示があった。
"Legacy: Photographs by Vanessa Bell and Patti Smith"
中央のガラス棚のなかにVanessa Bellの持っていたファミリーアルバムが広げてあって、取り囲む壁にPatti Smithの写真 - シルバーゼラチンプリントの - が並んでいる。
なにが撮られているのかというと、Vanessa Bellのベッドとか部屋とか画材、Virginia Woolf関係のあれこれ、Blakeのお墓、W.B.Yatesのお墓、Dylan Thomasのお墓、Sylbia Plathのお墓、などなど。 彼女がBlakeが好きなのはしょっちゅう朗読しているので知っていたが、なんか/やっぱし英文学だいすきなのね。
Patti SmithのVanessa Bell関連の写真は展覧会カタログにも入っていたので、これ買うしかないかー、と買った。
仮住まいで本が増えるのはやばいといいつつすでに。(だって洋書がやすいんだもん - あたりまえだけど)
週末の美術館関係。 あんまり行けていないかも。
お家探しがある(決めらんない)し、洗濯したりクリーニングだしたりゴミだしたり日用品の買い物いったり少しは休んだりしないとさすがに、だし。 あと、まだまだ寒いし。
Hair by Sam McKnight
25日の土曜日の昼、Somerset Houseでみました。
地下鉄エスカレーターでTilda Swintonさんのいろんな髪型の広告が素敵で気になったので行ってみたら、なかなかすばらしかった。 ただの髪結い屋じゃん、というかもしれないがこれ見るとひっくり返るよ。ほんとうにすごいひとだよ。
https://www.somersethouse.org.uk/whats-on/hair-sam-mcknight
入ってすぐのところに彼の使っている旅行用のガラガラとそこにぱんぱんに格納されている大量の道具とかスプレーとか飛び道具まるごと一式。
その物量に圧倒されると、それに続いてビデオ映像による彼のコレクションでのメイク風景とその机上に実際にどんなふうに機材とか道具とかが配置されて作業をしていくのかがびらーっと。
(これがミュージシャンだったらエフェクターとモニターとコンソールと、録音機材一式みたいになもんだし、料理人だと … 以下略)
次のコーナーでVivienne Westwood女史の賛辞の言葉と彼女のコレクションを彩ってきた鳥の巣・竹箒頭のマネキンさんが森のように。
そこから階段を昇った中二階の廊下からデザイナー(Karl Lagerfeld)との、写真家(Nick Knight, Patrick Demarchelier, Mario Testino, Tim Walker)との、モデル(それはそれはいっぱい)との、アーティスト(Gaga, Bjork)との、彼のいろんな歴史が並んでいて、特に2000年のVogue Gold Issueの表紙を飾ったKate Mossの横顔のパーフェクトなシルエットとか、1990年のDiana妃がショートにしたときの衝撃(写真: Patrick Demarchelier)とか、懐かしいのがいっぱいで、これらぜんぶを相手にしてきて - とくになまものであるところの髪の毛をどうにかする/できるってなんてすごいことなんでしょう、と - 一ケ月過ぎて髪質 x 陽気湿気 x 水質で毎日お手あげで死にそうになっているものとして - おもった。
髪の毛って、顔の一部だし突端の嘴とか角みたいなもんだから、それを作って見せる、新しいものとして見せるってどんなに大変で大切なことか、って。
自分のは ...もう丸刈りでもするか。(追いつめられている)
あと、ここに出店していたオンライン本屋のBeaux Booksって、なかなかすてきかも。
Vanessa Bell (1879-1961)
26日の日曜日の午前、Dulwich Picture Galleryていうとこで見ました。
これも地下鉄の広告(一箇所だけ、剥がし忘れか?)で見かけて、Dulwichていうのはちょっとロンドンの真ん中から少し遠い村(Village)なのだが行ってみようと。 電車とバスを乗り継いで50分くらいか。
Vanessa BellはVirginia Woolfの4人の兄弟(異母異父も含めるともっと、なのだが)の一番上のお姉さんで、ここの家族友人関係を書き出していくとサザエさん一家、というよりムーミン谷みたいになってめんどうなので、とにかく絵を描く女性だった、と。
展示のメインのイメージになっているSelf Portrait (1915)の絵が見事にお姉ちゃん、てかんじで素敵で、だいたいの印象は室内を描いていた頃のマティスとかムンクとか、肖像画だとセザンヌ、風景はところどころ印象派とかゴッホとか、びっくりするのは抽象のコンポジションのシャープなかっこよさで、それらぜんぶでVanessa Bellなのだが、こんなによかったのかー、とこれまでちゃんと見ていなかったことを反省した。
肖像画に材料はVirginia WoolfにLytton Stracheyはもちろん、長男のJulian Bellにやがて『ヴァージニア・ウルフ伝』を書くことになる次男のQuentin Bell、夫とは別に関係のあったRoger FryにDuncan Grant、そのDuncanの愛人のDavid Garnettとか、あーだからめんどうだねえ、なのだが、画面から受ける印象は家族でも愛人でも愛人の愛人でもどれも同様の平穏さと暖かさとほんのりユーモアに溢れて座っていて、こういう横並びもまたイギリス的、と呼んでいいなにかなのだろうか、とか。
この展示とは別の無料のところではもういっこ別の展示があった。
"Legacy: Photographs by Vanessa Bell and Patti Smith"
中央のガラス棚のなかにVanessa Bellの持っていたファミリーアルバムが広げてあって、取り囲む壁にPatti Smithの写真 - シルバーゼラチンプリントの - が並んでいる。
なにが撮られているのかというと、Vanessa Bellのベッドとか部屋とか画材、Virginia Woolf関係のあれこれ、Blakeのお墓、W.B.Yatesのお墓、Dylan Thomasのお墓、Sylbia Plathのお墓、などなど。 彼女がBlakeが好きなのはしょっちゅう朗読しているので知っていたが、なんか/やっぱし英文学だいすきなのね。
Patti SmithのVanessa Bell関連の写真は展覧会カタログにも入っていたので、これ買うしかないかー、と買った。
仮住まいで本が増えるのはやばいといいつつすでに。(だって洋書がやすいんだもん - あたりまえだけど)
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