1.29.2017

[film] Silence (2016)

ええ、ええ、あと二日しかないわけです。 どうしろっていうのでしょう - 神様?
なんで何も言ってくださらないのでしょう? 

26日の木曜日の晩、日本橋でみました。

原作は読んでいない。学校でキリスト教とかキリスト者とかキリスト教と仏教との違いとか散々学んでいたとき、原作を含む遠藤周作の作品も散々読め読め言われたのだが当時の自分はサルトルにやられていたのだった。(かわいそうに)

オープニングがすばらしくて、虫や鳥の声がわんわん満ちて高まっていってそれらがさっと引いて静まって一拍おいてタイトルが - 。

17世紀、長崎に布教にでたイエズス会のFerreira神父 (Liam Neeson)が他の神父への拷問(温泉熱湯責め)を見せられ嘆き悲しむ様子が導入で、ポルトガルで彼の最後の手紙を受け取ったイエズス会は彼の棄教が確認された、と弟子のふたり - Rodrigues (Andrew Garfield)とGarupe (Adam Driver)に告げるのだが、若いふたりは納得せず自分達が現地に行って確かめて(救って)まいりましょう、と上が止めるのを聞かずに東の国に向かう。

マカオで日本人のキチジロー(窪塚洋介)と出会って彼の手引きで上陸はできて信者の間ではささやかに歓待され隠れ家も与えられるのだが迫害の脅威と実態は想像を超えた凄まじいもので、信者には隠れ信者の仲間を売ったら金をやる、教えを施すものには棄教すれば許してやる、でもどのみち信者は拷問の末に殺される、なので地獄としか言いようがないのだが、彼らは教えを貫けばパライソに、神のもとにいけるということを固く強く信じている - というかこの宗教の根っこはそこにこそあるのだから根絶することなんてできやしないの。

前半ではどれだけ拷問されても最期まで信仰を棄てない聖モキチ(塚本晋也 - すごい)を離れて見ているしかない二人の絶望が描かれ、後半はGarupeと離れて捕らえられたRodriguesと彼をなんとしても棄教させようとする幕府側 - イノウエさま(イッセー尾形)&通訳(浅野忠信) - との対決を軸に、こんなふうになっても人は人に赦しを与えることができるのか? なぜ神はどこまでも沈黙を貫いておられるのか? といったRodriguesの魂の逡巡が描かれる。

ここで幕府とRodriguesの間で延々続いて平行線のままで途切れる宗教と国(体)の寛容・需要、不寛容・拒否を巡るやりとりはこの映画のメインテーマではないものの、余りにアクチュアルに現在と繋がっている。 抑揚ゼロで丁寧に脅し文句を並べて体を折りたたんで縮まったりするイノウエさまと、強圧的かつ大仰にホラ(ヘイト)スピーチを並べてガマガエルのように膨らんでみせるトランプを対比してみ。

Martin Scorseseて、自分のなかでは相反する立場の間のいろんな極限状態をSとMの軸で切り返していくSM作家なのだが、この作品では静かな画面 & 音響構成のなかでそれが際立って美しく(といってよいものかどうか)出ている気がして、そのありようが作品本来のテーマに見事に重なって人の魂はどこに、どんなふうに、どこまで強く毅然とあることができるのかを静かに淡々と示している。
いわゆる「感動」とは無縁の作品を作るひとだと思っていたのに、感動してしまうことにびっくりして感動した。

あと、Spider-Manがいて、EP1のQui-Gon Jinnがいて、その曽孫弟子のKylo Renがいて、(Thorの)Hogunがいて、(鉄男の)ヤツがいて、実はDark Sideとの境界で戦ってきたものすごい強者共がひと揃いしている映画なのに、ヒエラルキーの頂点でいちばん強かったのはEmperor Hirohitoだったのね、という。

日本の自然をとらえたカメラもすてきで、樹々の間を抜けていく鳥とか一瞬で湧いて出る猫猫とか、これも新鮮だったかも。

こういう日本を描いた作品て、海の向こうで見ると違った印象を与えることもあるので、向こうで落ち着いてからまた見てみようとおもった。

1.28.2017

[film] The Accountant (2016)

ええ、もちろんまったく捗っていませんわ。

21日、土曜日の午後に六本木でみました。『ザ・コンサルタント』。

この邦題だけど。 アカウンタントと(所謂)コンサルタントは魚屋と肉屋くらいに別の職業なので、アカウンタントの人に失礼だと思うし、この作品の主人公の性質とか造型にアカウンタントていうお仕事の属性 - 数字と仕訳と記帳 - は見事にはまっているのだから、残念だとおもった。

発達障害(自閉症)を抱えて大きくなったChristian (Ben Affleck) と家族 - 軍人の父、弟Brax (Jon Bernthal)、出ていった母 - のお話し、大人になった彼がヘビメタ&フラッシュをがんがんに浴びながら身体を鍛えたり地味に相当変態な暮らしをしているお話し、帳簿がなんかおかしいので調べてほしいとJohn Lithgowの会社のCFOからの依頼でいろいろ掘って、掘れば掘るほどきな臭くなって流れ弾が飛んでくるお話し、マネーロンダリングの交渉現場を撮った写真に必ず映りこんでいる男を追う政府当局 - J.K. Simmons + Cynthia Addai-Robinson - のお話し、これらがじりじり撚りあっていってベンはなんでこんなこと(ってどんなことか)をやるようになって、そもそも悪玉なのか善玉なのか、常にどよーんとした彼の表情からは読み取れない、そもそもあんたなにもの? なにをしようとしているの? を追う。

数字にめちゃくちゃ強い発達障害の子が凄腕の会計士になる、ていうのはわかるのだが、そこに父子の体育会系根性ものを強引に練りこんで(虐められても負けないように、ていうのはなんとなくわかるけど)、最終的に闇社会の仕置人になって殺しでも会計でもなんでもやり〼、になるには相当無理がある気がしないでもないのだが、先に書いたようなChristianの不気味どんよりの能面演技がそこに妙に気持ちよく - 気持ち悪くはまってしまっている。

更にそれをただの改造人間モノみたいにしないのが、会計調査のアシスタントとして出てくるAnna Kendrickとのエピソード(いいなー、ポロック)と、最後のどんぱちでのBraxとのエピソードで、あそこではJohnnie Toみたいな切ない展開になるのかしら、と一瞬期待したのだがさすがにそれはなかった。

既に多くのひとが指摘しているように、Ben Affleckのバットマンはこっちの生い立ちと語り口で作られるべきだったのではないか、ていうのと、弟役はやはり複雑ないろんなのを抱えているCasey Affleck(@ Manchester by the Sea)がやるべきだったのではないか、ていうのと。

彼がやっていたトレーニングを毎日続けたら少しは仕事できるようになるかしらん。

1.27.2017

[film] Eye in the Sky (2015)

14日、土曜日の夕方、日比谷でみました。 『アイ・イン・ザ・スカイ 世界一安全な戦場』

ケニヤの武装勢力がひしめいているやばいエリアの一軒家に欧米が追っかけているテロリストのNo.4と5が集まっている、ていう情報を得て、英国の内閣と軍司令部とネバダの米軍基地のドローンの操縦部隊と現地の工作員がそれぞれ動いて、ぜんぶ遠隔の映像でその家にある爆弾の束とそこにいるテロリストたちが自爆テロを決行しようとしていることをつきとめて、さてどうする? になって、この状況だったらドローンの空爆で家ごと吹っとばすしかないな、となって準備をしていくのだが、ボタンを押すときになってその家の前でパンを並べて売り始めた女の子が現れて、再びさてどうする? になるの。

英国の軍服組にHelen MirrenとAlan Rickmanがいて、米国でドローンの操縦桿を握るのがAaron Paulで、彼らの関係の深さ浅さや連携の仕方がどうの、という話ではないの。 彼らはそれぞれの地域(間)で決められたポリシーとルールと役割に則ってジョイントのオペレーションをやろうとしていて、それらは全て物理的な接触を必要としない空中の、仮想のどこかで行われていて、リモートで不可視で、まあそういうもんである、と。

テーマのひとつが、こんなふうに実戦場から遠く離れた会議室で行われるようになってしまった戦争の、ぜんぜんスマートではない実情 - リアル戦争の戦場であれば基本全てのコマンドが現場の指揮官に委ねられるのに、こっちのは想定ルールブックにないもの全てに上の判断と承認が必要となるのでやたら面倒で時間かかって、けっか末端は死にそうになる - というもので、これは今やどこの職場にもあることよね、なの。

もうひとつは、テロと紙一重のようなかたちで闇の行動としてミクロに執行される現代の戦争のありようで、昔だったら戦場の隣でパンを売るなんてあり得なかったのにそういうことができる状態、起こりうる状況になってしまっている。 そして勿論、国や軍は決してそれを「戦争」とは呼ばないだろう。 どっかのアホな政府がまさにそうしているように。

もうひとつは、テロであれ戦争であれ、これは権力とテクノロジーを握った特定階層のひとによる人殺しで、このような形で執行されてしまう殺人をどう正当化できるのか、これは倫理とか論理をこねくりまわせばどうとでもなる正解のない世界(と彼らは言うのだろうね。違うと思うけど)で、でもそれよか更に怖いのは、倫理や論理を飛び越えて、テクノロジーそのものは割と簡単に手に入ってしまうし実行できてしまうのだ、ということなの。
この映画は、自らを「正義」と信じて疑わない欧米のチームによるものだったが、これって全く逆のかたち、別の「正義」のもとでも容易に起こりうることで、それが例えばシリアのとか。

ラスト、全てが終わっても誰ひとりすっきりしていなくて、Alan Rickmanは子供に買っておいたぬいぐるみを誰かにぽいってあげてしまう、そういうとこはよかった。

1.24.2017

[log] January 25 2017

このてきとーで散漫でだらしのないサイトを定期的に見にきてくださる方がこの世の中にどれくらいいるのか、たぶん5人くらいはいると想定して、その世界で5人くらいの奇特な皆さんに向けて、効く効かないでいうとべつにどうってことない話ではあるのですが、お知らせをします。

仕事の転勤で英国🇬🇧のLondonに行くことになりました。
健康診断とかビザとか当座の住まいとかいろんなのがとりあえず、漸くクリアされたので、飛行機に乗るのは2月1日で決まり、仕事なんて水モノだし地域的にはどこで何が起こっても不思議ではないご時世なので確かなことは何も言えないよ、と前置きした上で、今の状態ですべてが安泰平和に推移する(わけないけど。くどいけど)のであれば3年とか4年の滞在になることでしょう。

なので、日本で公開されている映画だのアートだのに関するしょうもない感想を探して/求めてこのサイトにやってくる方には知らないのばかりでつまんねえな、になってしまうのかもしれないし、英国や欧州で起こっているなにかを探して/求めてやってくる方には少しだけ芳しいその破片とか色味とか程度はお伝えできるかもしれない。
もちろん、そんなのに触れるヒマとか書いている時間とか体力とかがあって、書きたくなるような世の中が続いていてくれれば、の話だが、そのへんは行ってみなけりゃわかんないわ。

ひとつだけ、世によくあるビバ英国(海外)生活! みたいなものにはしたくないの。
今の渡世はどこに行ったって屑で塵でどうしようもなく辛くてきつくて、だからこそ音楽や映画やアートや文学はきゅうくつな坑道に差す一筋の光だったり喉奥に沁みるひと掬いの水だったりしたわけで(大げさだわ)、そういうふうに顕れてきた光や水、あるいは塞ぎにかかる闇や毒について書くのに、英国であること、英国にいることなんて、どれほどの意味を持つというのか、なの。

と、書いておきながら、幼年期の自分にそんなふうな思想、考え方を叩きこんでくれたのは70年代末から80年代初の英国の音楽だったり、かつてヘーレン・ハンフが「イギリス文学にあるようなイギリス」と呼んだイギリスが書かれているイギリスの文学だったりしたことは確かなので、自己反省を含めたそういう振り返りのなかで何度も地面を見つめて立ち返るようなことになるのだろうな、と、人生の黄昏を前にしてなんで再び、の底なし底ぬけお片付け地獄のなか、PIL聴いたり吉田健一読んだりブライズヘッドふたたびをふたたびしたりしながら思ったわけだ。

と、書いておきながら、英国一辺倒だった自分(80年代末の英国音楽の凋落と共に半死していた自分)を強引に引っぺがし、全く異なる位相の、思いもよらない方角から文化や生活のありようを叩きんでくれたNew Yorkという場所、あの土地が今の自分の脳内地図の大きな面積を占めてしまっていることも確かで、90年代の6年間、00年代の5年間を過ごした彼の地への想いは常に深く強く、なにがあったら遺灰はイーストリバーに、ていうのは変わっていないから。
とにかく、あそこと日帰りできる距離・位置、にあるというのはありがたいこと。

と、書いているなか、いまの日本の文化のありようにはまったく、なんの魅力も感じていないので、ここから離れられる(=見なくてすむ)ことについてはふつうに嬉しい。
ちょっとだけ未練があるのは、『PARKS パークス』とカイエ週間と『アウト・ワン』の上映プロジェクトとナビ派展くらい。
少なくとも、本当にやるのかやるんだったら相当ブラックにヘルにクソ幼稚に行くんだろうなーああ見たくないぜったい見たくない、のオリンピックが終わるまでは戻ってきたくない。

こうして、昨年の暮れくらいからお片付け/お引っ越しプロジェクトがはじまって、おうち丸ごとの引っ越しはあっさり諦めて(まだ死にたくないから。でもどっちみち死ぬよ)、無人島に持っていく本とレコードを選ぶかんじで床に平積みしてある本の山奥に分け入ってみたのだが、開始15分でこっちもさっさとあきらめたくなるのだった。

だって、つまり、まず、持っていきたい本を選り分けるには、それがどこにあるのかを見つける必要があって、見つけるためには山のひとつひとつを崩してばらして掘る必要があって、山をひとつばらすためにはそれをやるための床面積が必要なのだが、そんなのあるわきゃないので、床をどうする問題から入る必要があって、それってつまりお片付けとかお掃除そのものじゃん、で、それって例えば借金をどうする問題になったときに、いいからとっとと働け! ていう当ったり前のとこに落ちるのとおなじで、おもしろみないよね、とか思うのだが、じゃあおもしろかったらお片付けするのかというとやっぱりしないので、これはほんとに腐ってる(←あんたがな)としか言いようがない、どうしようもない。

まあ、見つかんないものは見つかんないんだわ。

あと、あなたべつに無人島に行くわけじゃないでしょ、向かう先はロンドンで、向こうに行ったらどうせ買うでしょ、アナザーマウンテン盛って積むでしょ、性懲りもなく。
なのだが、でもね、向こうでシェイクスピアとか見たいし、見たときにすぐにあそこはああだったのでは、とか確認するためにもイギリス文学(翻訳もの)の最小限はほしいじゃん、とか、あ、でも、じゃあ、その最小限てイギリスだけでいいのか、フランスだってドイツだってアイルランドだって行くだろうし掘るだろうし。 イギリスの子だけ連れてくなんて、そんな酷いことをしていいのか。

という具合に際限なく遊んでいられるうちはまだよいほうで、もういい加減ケツに火が。

あとさ、本てある時突然、熱病みたいになんか読みたくなって止まらなくなることあるし。頭痛薬を多めに持っていくような配慮もいるのよね。と、無人島本を選んでいく中で発覚したむかし買おうと思って買っていなかった本たちを纏め買いに走ったりして、とても愚かなことになっていたり。

レコードに関してはもっと身近で、ずっと流しているものだからいっときのあーあれ聴きたいわ、で選んでしまうと行ってから愕然(なんでこんなの持ってきた? なんであれを持ってこなかった?)、というのを既に2回の海外引っ越しでやっている。今度のはうまくいくことを願うのだが、相手はイギリスだからねえ。いざとなりゃなんでもあるのよね(殴)。
で、あと一週間を切ったところで、CDと7inchはまだ触れられてもいない…

こういったところも含めて、ほんとうに来週に飛行機に乗れるのかわかんなくなってきてなかなか不安なのだが(なら働け)、がんばります。 ちゃんと空港まで行けたらばんざいだわ。

[film] Bringing Up Baby (1938)

いよいよこんなの書いている時間があー。

13日の金曜日、ホークス特集の最終日の最終回、渋谷で見ました。 『赤ちゃん教育』。
この特集では大好きな『教授と美女』も見れなかったので、せめてこれくらいは、と。

博物館に勤務する超真面目な古生物学者のDavid (Cary Grant)がいて、婚約者との結婚も目前なのだがもっか最大の関心事はずっと組み上げてきた恐竜の骨格標本の最後の1ピースとなる鎖骨と、博物館への寄付金をちゃんと貰えるかどうかで、寄付をしてくれるご婦人の代理人との接待ゴルフにいってがんばるのだが、そこで変な娘 - Susan (Katharine Hepburn)に勝手に絡まれて、彼女が兄から送られた豹のBabyをコネティカットのおばさんのとこに運ぶのを手伝って、って頼まれて、真面目すぎる彼は断りきれなくて、でも田舎についたらBabyはいなくなっちゃうし、ようやく手にいれた恐竜の鎖骨は犬のGeorgeが持って行っちゃうし、サーカスの豹は逃げちゃうし、牢獄には入れられちゃうし、いろんな取り違えに勘違いに思い込みがこんがらがって全員がお手上げで笑うしかないのだが、もちろん最後にはどうにかこうにか(除.恐竜さん)。

何度みても全員の挙動ふるまいがサーカスの曲芸やってる(でも豹も犬も使えない)としか思えない綱渡りの、ムンクの「叫び」状態できりきりしてて、何度みてもなにがどうやって着地したのかわかんなくなって、ぼんやり釈然としなくなるはずなのに、Davidにしてみればこれまでのキャリアが丸ごと台無しと言ってもおかしくない残酷なことになってしまったのに、見ている我々はとてつもなく幸せになれてしまう、こんなに軽くててきとーで天才みたいな映画はそうあるもんじゃないの。

とにかくねえ、自分が恋に落ちてることすらわかっていない、わかっているかもしれないがコントロール不能で、酔っ払っているのかヤク中なのか、絶対目を合わせたらやばい/あかんかんじで、からから上滑りしつつも万事快調で中空を高速ですっとんでいくSusanのおしゃべりが痛快でかっこよくて、キリンみたいな身体を折り曲げたり伸びたりしているだけでなんかすごくて、それに応えるDavidのどう返したらよいのかわかんないのでゼンマイ仕掛けになってしまう動きもたまんなくて、とにかく楽しいったら。

ずっと学問一筋だった男が街の手練れの女性(Barbara Stanwyck)と出会って新たな研究対象かもしれんLoveに目覚めてしまう、ていうのが『教授と美女』で、この映画も学問と恐竜の虜だった男がわけわかんないままに金持ちらしい変な娘にはめられてしまうお話で、両者の違いは Barbara StanwyckとKatharine Hepburnの違いそのままということもできて、どっちもすごいしおもしろいし、どっちも大好きすぎる。

そしてそんなお話の真ん中でふたりが合唱するのが"I Can't Give You Anything But Love"で、それはほんとうは豹のBabyを落ち着かせる歌(効かないけど)なのだが、結論から引いてみれば"I Did Lost Everything But Love"としか言いようがなくて、とんでもなく洒落ているねえ。

あの豹ほしいなー。

お片付けをしていたら『赤ちゃん教育/男装』のLDが出てきた。 こんなのどうしろっていうのか。

1.23.2017

[film] この世界の片隅に (2016)

9日の月曜日のごご、渋谷でみました。

公開されたときからユーロスペースがずっとぱんぱんなのは知ってて、インディペンデントのは基本支持するし、もういっこのメガヒットしたアニメは主題歌が気持ちわるすぎて見る気になれないし、まだキネ旬の一位は報じられてなかったし、とにかく言い訳しないこと。  原作の漫画は読んでいない。

昭和00年代、絵を描くのが大好きな広島のすずの子供時代から始まって、昭和19年に突然のお見合いで呉のおうちに嫁いで、山だか丘だかの斜面にある小さな一軒家に暮らして、夫の両親とか出戻りの義姉とか小さな姪とかとじたばた朗らかに暮らすのだが、戦況の悪化に伴い物資は不足して、空襲が頻繁に来るようになって、そのうち地中の爆弾で自身の右腕と姪を失って、もうどうにもならなくなってきたので広島に帰ろうとしていたところで原爆が。

顔もきちんと見れないくらいよく知らない相手のところに嫁いだ先でのいろんなストレスに戦時の物資・食糧難が加わって、ほんとにきりきりしんどいだろうにすずはいっつも笑っていて、それをとりたて偉いふうには描いていなくて、それは皆が総動員で大変でそうだったのだとか、あの時分の日本人はとか、そんな変なほうには行かないの。 よくある日々のスケッチとして軽く流している。
空に浮かんだ爆弾の煙雲を見てああ絵に描きたいと思ってしまうのとおなじことで、それは不謹慎、とかそういうのではないの。そういうふうに流れていった当時のいろんな人たちの意識のありようとかその流れとか、空気感をふんわり掴むのに漫画というメディアはとてもよくはまっていて、このアニメーションもおそらくそうなのだろうな、と。

一方にそういう流れを置いて、他方にそれを軽々蹂躙し、なぎ倒し、押し潰していく戦争の暴力を置いて、それは当然のようにすずの右手どころでは済まない災いをもたらして、牧歌的なアニメーションの描写とのギャップ以上に/以前に相当に残虐で過酷で、それは「野火」と同じくらいのぐじゃぐじゃの災禍、と言ってよいのではないか。(そんなの比べたってしょうがないけど)

すずが当時の町の風景や生活や人々を絵筆で活写する、そうしてそれらを描き続けようとしたところで彼女の右手は失われてしまう、その残酷さときたらものすごいし、彼女も底の底まで悲しむのだがそれでも彼女は世界の片隅でわたしを見つけてくれてありがとう、ていうの。  この流れはあっても別におかしくないのだが、ひょっとして「おしん」的な文脈 - 耐え難きを耐え - で受けとられているのだとしたらちょっと嫌かも。

この世界の片隅こそが世界のすべてであり、ここでの時間は現在にダイレクトに続いて繋がっているのだと、この絵の粒度であれば明確に突きつけることはできたはずだと思うのだが。
(Don Hertzfeldtだったらそんなの軽々と反転させてどん底に突き落としただろうな)

というわけで、昼寝しながら天井の木目を追ったりするとか、波にウサギを見たりとか、道端の草花とか、そういうのに反応したりしていた。

あと、広島はどのへんにあるのかわかるのだが、呉ってどこなんだろ? て思いながら見ていた。
けど致命的なもんだいにはならなかった。


RIP Jaki Liebezeit.
 "Mushroom" や "Halleluhwah”がなかったらさあ..  あーあ。 4月の。

1.22.2017

[play] 地点「ロミオとジュリエット」

20日の金曜日の晩に早稲田の大隈講堂でみました。
これまでの人生で早稲田といったら早稲田松竹のことで、それくらいこの大学の文化圏とか臭気とかから距離を置いてきたのだったが、それがついに。 それがどうした。

今年はシェイクスピアに取り組みたい、となんとなく思っている、というのもある。

ステージ前方に向かってけっこうな角度で傾斜しているでっかい板 - つるつる滑る があって、そのてっぺんにお立ち台のような見張り台のような証言台のようなひとり分の手すり付きのスペースがあって、板の外側の右端にギター、左端にベース、真ん中奥の板に隠れて半分見えないとこにドラムス、この3点を結んでがりがりやかましく鳴り続けるのが空間現代の音。

同じグレイと白のだんだら模様のフェルト地の服を着たのが6人(含.ロミオとジュリエット)、死んでいるのか眠っているのか板の上でごろごろ、お立ち台には異なる模様 - チェックのスカートの女性が立っていて、がたがたざくざく刻まれるベースの上で拍子を取りつつ時折雷のようにばりばり落ちるドラムスとギター、その落雷に合わせて6人の各自は素っ頓狂な声、都々逸に呪文に祈祷みたいな言葉を撒き散らし、お立ち台の女性はそれらを見下ろしつつ株の仲買人のように競りの胴元のように合いの手を入れてくる。

ギターとベースとドラムスの三角形(の音)、舞台とステージ板が形作る三角形(留まることのできない、転げ落ちるしかない世界)、神父(複数)とロミジュリと仲買人の三角形(三角の関係)、基本はこれら様々な三角形の織りなす鋭角の世界をなぞって語って尋常ではないテンションで掛け合い、駆け抜ける約70分。

本来の物語の前後関係はあまり関係ないようで、ロミオとジュリエットの出会いから死までは既に起こってしまったこととして墓場の奥までも暴かれて、その忘却の彼方からの「あなたは誰でしたっけ?  いまは月曜日でしたっけ水曜日でしたっけ? ここはどこでしたっけ?」のような問い、自問自答がが何度でも蘇るゾンビのように反復されて、そのなかで彼らの恋も何事もなかったかのように何度でも蘇って、何度でも死んだふりして、殺して、死んで、死んで、元に戻る。 そこにはモンタギュー家もロミオもくそもない、重力と共にだらしなく転がり落ちるヒトの肉しかなくて、でもだからこそそんなやつと恋におちて坂の上できゃあきゃあ飛んで跳ねて狂い咲きの大騒ぎをする。

悲劇にも喜劇にもなりうる、ロミオはロミオであって、ロミオでなかったかもしれない、手紙が届かなかったのも死体が転がっているのも、単なるラベルの貼り違いかもしれない、だいたい神も神父も群れててきとーなこと言っているばかりのろくでなしの役立たずだし、昼も夜もびゅんびゅん過ぎ去っていくし、うんきっとそうだ、だってあたしはこんなに恋してるんだし弾んでいるんだし、だから何度だって死んでみせるわ。  どんなもんだい! 

いや、ありがとう、ごきげんよう、おやすみなさい。

問答無用。あんぐり。すんばらしいったら。

1.21.2017

[film] The Criminal Code (1931)

9日の月曜日の朝、渋谷のハワード・ホークス特集で見ました。 『光に叛く者』。

いやーすばらしいったら。

酒場でトラブルがあって駆けつけてみると若者が連れの女にちょっかいを出したやつをぶん殴って相手が倒れた、という小競り合いで、殴ったのは20歳の誕生日だったGraham(Phillips Holmes)で連れの女性もたまたま誘っただけ、殴られたのは市の有力者のぼんぼんで、いろいろついてなくて、担当した検事は事情を聞いてちゃんと弁護すれば刑は軽くできるよな、とかいうのだが、選挙絡みの下心があった検事Brady(Walter Huston)は刑法(Criminal Code)を盾に、彼に懲役10年を言い渡すの。かわいそうなGraham。

刑務所で6年が過ぎてGrahamもぼろぼろに擦り切れてきた頃、刑務所長が彼をムショ送りにしたBradyに替わって、他の囚人もみんなこいつが検事の頃の裁きにはぱんぱんに恨みを抱いていて、擦り切れたGrahamを見た所長は、彼をきつい工場労働から身の回りの世話担当に変えてあげて、そうしているうちに彼も回復して所長の娘Mary(Constance Cummings)とも仲良くなったりする。

他方でいいかげん嫌になって脱獄を試みた仲間の2人は失敗して、そのわけは密通者がいたからだ、それはあいつだ、と裏切り者への復讐計画が立てられて実行される(ここがねえ、すごいの - Boris Karloff )のだが、おまえは容疑者を知っているはずだ、言わないと刑期延長に地下牢行きだぞ、人生ぜんぶ終わっちゃうぞ、てGrahamは所長とか看守から脅されて、でも断固口を割ることができないああかわいそうなGrahamの運命やいかに、なの。

刑務所内の統治構造とそれとは別にある囚人同士の掟や絆、これらの土壌に広がって渦を巻く恨みと怒り、統治者が拠り所にする刑法と、そこからいくらでもこぼれ落ちていく個別のいろんな事情とか情とか、これらのコントラストが描きだす非情さとその境界のせめぎあいが凄まじく、いったいひとは法に生きるのか掟に生きるのか、そこにおいて「正義」とは何でありうるのか、などを問いかけつつ、でも結局地下牢行きになっちゃったらさあ … とか本当にいろんなことを考えさせる。

そしてこれら多層かつ多様な境界線上のサーカス - 綱渡りが悲惨な方ではなく歓喜や狂騒のほうにくるっと反転したのがホークスのコメディなんだなあ、て改めておもった。 そこにあるのは圧倒的な生や業に対する洞察と豊かさと、そしてもちろん愛で、だからホークスの映画さえあればひとはそれだけで生きていくことができる。 どんな場所だって。

政権はとうとうあっちに行ってしまった(泣)が、そんな時代にこそ必見の一本でもあるの。

1.19.2017

[art] Apichatpong Weerasethakul: Ghosts in the Darkness

8日、ゲリンを見る前に写真美術館の地下に降りて見ました。
『アピチャッポン・ウィーラセタクン 亡霊たち』

このアピチャッポン氏も、ゲリン氏と同じようにカメラを手に特定のテーマを追って森の奥に分け入っていくひとで、彼の場合だと「幽霊」、「白昼 vs 闇」、「森」、「地べた」、みたいなのに反応するふうになっている。

そしてそれらを目を皿にして探したり掘ったりしているわけではなくて、フレームのはじっこになんだか映りこんでしまったものを、なんの因果か否応なく映りこんでしまうことを受けとめたうえで、画面の上に、あるいは地べたや壁の上に光や影として定着させることを、呼びこむことを震えながら待っているようなかんじがあって、この点では映画作家というより、アーティストに近いかんじもしていて、この展示はとてもおもしろかった。 

他方で映画作家かアーティストか、のような議論てアピチャッポンの場合はあまり意味がないような気もしていて、彼が映画のなかで提示する物語構造はとっても変に抽象化されたアートみたいなもんだし、彼がもってくるアートって「暗闇のなかの幽霊」でつまり要するに見えないものだけど、それって映画のことだよね、て思う。

インスタレーションを全部見ていくと時間がなくなってしまうので、「灰」- “Ashes” (2012) ていう約20分の作品だけみた。
(おそらく)わんわんを散歩させながらいろんな場所を水平に移ろっていくのだが、晴れているのか曇っているのか、昼なのか夕暮れ時なのか、はっきりしない風景のなか、風なのか灰なのか、なにかが向こうから執拗に吹きつけてくる圧、みたいのに曝される。 音は特定の周波域のみをオミットしたようなやつで、それなのに、それゆえに控えめだけど圧倒的な何か(つまり変なやつ)がそこにいるの。


ゲリンの後、雨ざあざあだったがNADiffまで歩いて、鷹野隆大「距離と時間」ていう展示も見た。

アピチャッポン氏がアジア的な世界観(なんて言葉きらいだけど)、幽霊観のなかで追い続けた距離(それはあの世とこの世の間のそれでもある)を、よりミニマルで「現実的」な都会の生活のなかに置きなおしてみる、マップしてみる、そういう試み。

それがどうした、ということではなくて、目に見えていること/いないこと、映りこんでいるもの/いないものの段差のなかに、我々の生はどんなふうにしてあるのか、あらされているのか、を考えさせる。 つまり生者とは、死者とは、とか。 などなど。たとえば。

1.18.2017

[film] La Academia de las Musas (2015)

8日の日曜日の午後、恵比寿のホセ・ルイス・ゲリン監督特集上映『ミューズとゲリン』でみました。
あーあ、『イニスフリー』、今回は見たかったのになあ…

「ミューズ・アカデミー」。 英語題は“The Academy of Muses”

バルセロナの大学の講堂でイタリア人のピント教授がイタリア語とかスペイン語とかを使って詩や古典の講義をしている。
カメラは講義をする教授とそれを聴く生徒たちを交互に捉えて、教授ははげででぶでDanny DeVitoみたいであまりぱっとしてなくて、俳優のオーラみたいのはゼロなので素人かと思ったら、どうもほんものの教授らしいのだった。 生徒のほうも同じでプロの俳優さんではないようで、教授との質疑もとってもほんとうぽくて、学園モノとしてのリアリティ、据わり具合はなかなかのもの。

で、ピント教授は神曲のダンテとヴェアトリーチェとかアラベールとエロイーズとか円卓の騎士ランスロットとアーサー王の王妃グィネヴィアの恋とかアポロンとダフネとか、いろんな古典や詩歌に描かれたり詠われたりしたミューズ(女神)のこと、ミューズを巡る修羅場だの悲劇だのどんづまりだのを自分が見てきたかのように知り尽くしているかのように語って、それはそのまま恋を夢見たり女神たらんとするアグレシッブな生徒たちにいろんな火をつけて、つまり教授は確信をもって生徒を恋愛の業火の方に扇動していて、実際に教室を離れて生徒Aと一緒にサルデーニャ島に旅したり生徒Bとはナポリに旅したり、楽しそうに女神教育をしているのだが、家庭では鬼のように冷たい妻にアカデミックでばっさりぐさぐさ刃物のような嫌味を言われ続けていて散々で大変で、でもぜんぜんかわいそうじゃなくて、他方で女性はみんなそれぞれの恋に悩み苦しみながらも美しく輝いていて。

教室内の一対多の光景とガラス越しの車内のふたりと自宅ないで互いにそっぽを向いたふたりが順番に映しだされて、その合間に開放的な旅先の景色が風穴を開けてくれる。 そしてラストには女神たちの笑顔が降りそそぐ。

ゲリンてほんとに女たらし、ていうか女性の美しさにやられておろおろしながらも手紙を書くようにカメラを回すしかなくなっちゃったひとなんだなあ、て改めておもった(褒めている)。 もう女性ときたらぜんぶ女神で、アカデミーになんか通わなくたって女神になるべくできあがっていて、女神は神だから問答無用で残酷で最強で男はその前で身を滅ぼしたり焼かれたり破滅したりするしかなくて、もういいんださあ殺せとっとと殺せ、て畳に転がってずーっと言ってる。 そして、実際に彼の映画に現れる女性はどれもほんとうに美しいミューズ連合なのでなにも言うことはないの。
つまり教授のアカデミーはミューズの製造に成功したということなのか? については、ううむ …   そういうことじゃないかも。


これの後で、「アナへの2通の手紙」(2010)、「サン゠ルイ大聖堂の奴隷船サフィール号」(2015)の中編2本もみました。
「アナ..」は二回目、かしら。
どちらも題材やテーマの取りあげ方は違うものの、美術の世界への扉を開いて、その中に入りこんで、その不思議や驚きについて語りかける形式で語っていて、本人は嫌がるかもしれないがゲリンて教育者としてとっても優れているよねえ - ピント教授にはなれないかもだけど - とか思った。

彼に吉田喜重の『美の美』みたいなシリーズをやってもらいたいなー。

[film] 子宝騒動 (1935)

7日土曜日の午前、初笑いとかしてないねえ、ということで新文芸坐の『絶対に観てほしい喜劇〈コメディ〉 初笑い29本』から2本みました。 池袋というのは自分にとっては完全に圏外で、文芸坐も「新」がついてからは初めて行ったかも。

子宝騒動 (1935)
サイレントで柳下美恵さんのピアノ伴奏つき。
小さいガキが5匹いるお家で、父親はぷうでだらだら呑気に子供と遊んでばかりで、母親のお腹は更に、すでにじゅうぶんでっかくて次が出てきそうで、家計はじゅうぶん困窮してガスも水道も電気もぜんぶ止められてさすがにやばいのでなんとかしてよあんた、と小競り合いをしていると産まれそうになってしまったのでとにかく産婆を呼びにいってみたら産婆もお代滞納で断られて(彼女はお金持ちのうちに入って行ってそこで豚のお産なんかをやってる)、父親とガキ共はお金と産婆を探して母ちゃんの時限爆弾をめぐる大騒ぎになっていくの。
火事の家で助けを求める子供を救ってお礼を貰ってもすぐ燃やしちゃったり、終わりのほうでは大家も家賃は許してやるか、になるのだが、最後は逃げたお豚さま - 懸賞金つき - を巡って田んぼの中での大捕物になる。

なにをどうがんばってもうまくいかずしっちゃかめっちゃかに暴走していく(でも涼しい顔の)スラップスティックで、こういうのに弾んで弾けて併走していくピアノの鍵はほんとにしっくりはまる。 これ以外の表現形式ってそうはないよね、くらいに。
もちろん最後はなんとかどうにかなって、子供も産まれるし仕事もみつかるしめでたしめでたし、なのだが、でも田んぼの泥のなかを寄ってたかって延々追い回された子豚さんがちょっとかわいそうだった。そこだけ。
最初のタイトルは「産児無制限」だったんだって。 産めよ増やせよの時代でした、と...

吃七捕物帖 一番手柄 (1951)

江戸時代、そこらの川で金を掬っている人たちがいて(つまり金がどこかから流れてくる、と)、吃り(でもお酒飲むとなおる)の目明し又七(高田浩吉)がいて、彼の家を訪ねてきた両替屋の娘が何かを告げようとしていたのに殺されてしまう。いろいろ怪しいところがあって又七自身も殺害の容疑者として疑われたりしていると第二の殺しが起こり、ていう真面目な推理ものの要素と悪組織追い詰めの要素と又七の女房のやきもちとか、両替屋の娘と丁稚の恋とか、又七の女房の父親探しとか人情ものの要素もあって、最後にはキリシタン屋敷での贋金作りの一味との大戦争みたいになっていって、あんま時代劇のかんじもしない豪快てんこもりの一本だった。 でもようく考えてみればものすごく、ありえないくらい軽くいいかげんなかんじなのだった。 いいけど。

こうして初笑いはへらへら、って終わって、厄介ごとのまんなかに再び潜る。

それにしても、何度でも書くけど久々の池袋、かつてととても違ってみえた。なんかハーレム(125th st以北)みたいだったかも。

1.13.2017

[film] Smoke (1995)

2016年の映画の締め、12月30日の午後、恵比寿で見ました。
Paul Austerの原作は読んでいない。 読んでいないけど、なんか90年代だよねえ、って。

1990年のBrooklyn(場所は16th Street and Prospect Park Westだって)で街角の小さいタバコ屋をやっているAuggie(Harvey Keitel)とそこに寄り集まってくる近所の人たちの過去とかしがらみとかいろんなのをタバコの煙がたゆたうように、それを放っておくように繋いでいく - 転がしたりひっくり返したり返ったり、感動の大波が寄せてきたり、ていうのはあんまなくて、それがどうした? て言いたくなるようなどうってことない景色とその構成が逆に不思議な風味を醸していて、その辺はPaul Austerの小説のかんじに近いかも。 「この世界の片隅に」?

登場人物の名前がついた5章 - “Paul” - “Rashid” - “Ruby”  - “Cyrus” - “Auggie” からできてて、それは妻を事故で失ってから書けなくなってしまった作家のPaul (William Hurt) のこととか、ぼーっと歩いていて轢かれそうだったPaulを救ったお礼で彼のアパートに居候することになるRashid (Harold Perrineau Jr.)が強盗の落とした大金を拾って、とか、昔Auggieを捨てて別の男に走ったRuby (Stockard Channing) がやってきて彼の娘だという女の子(Ashley Judd … わー)に会う、とか、昔Rashidの元から蒸発して山奥で自動車整備をしているCyrus (Forest Whitaker)とか、そしてAuggieは14年間毎日、交差点の同じ角、同じ時間にカメラのシャッターを押し続けていて、それはなんで?どういうことなの? とか。

人物のルックスだけを並べると地方の、アンダーグラウンドのギャング映画みたいなのだが、ずけずけがーがーしたやかましい人、むっきり強い人はひとりも出てこなくて、みんな何かしらどこかで傷ついたり弱ったりひねくれたりしていて、でも互いに支えあうから「人」、みたいな方にはいかずに、闇のなかで決して相容れない者同士が恐々 or だらだら横に並んでいるようなさまがよい、というかいとをかし、なの。 そういう意味で、ラストのAuggieの章 - 彼がカメラを手にすることになった盲目のおばあさんとのエピソードが全ての糸を掘り返して、そこに淡い光が当たって、そこにTom Waitsの”Innocent when you dream”が被さってくるの。

そして、きらきらゴミゴミしたManhattanではない、Brooklynローカルの通りの幅とか少しささくれた建物の並びとか騒音とかがまさにそういうドラマ - ていうか小噺の撚りあわせみたいの - に見事にはまっている。 しかもさらにデリでもダイナーでもない、あってもなくても誰も困らないようなタバコ屋、ていうところもまたよいかんじで。

この映画が最初に公開された当時のことは覚えているのだが、当時のBrooklynていうのは川向こうのほぼ外国だったのでぜんぜん興味の外だった。 BAM (Brooklyn Academy of Music)への行き帰りだって地下鉄なんて無理でBAMが手配した有料バスに揺られていったんだから、変わるもんだよねえ。

あんま関係ないけど、Forest Whitakerって義手とか義足が似合うな。そしてすーごく強いかすごく弱いかのどっちか。

1.10.2017

[film] Twentieth Century (1934)

映画初めのほうも書かねば。
毎年の映画初めはここ数年、シネマヴェーラで洋画クラシック、ということになっているのだが、先に書いたように2日は低気圧(?)頭痛でしんでたのと、年明けにいきなり『暗黒街の顔役』〜『三つ数えろ』はあまりに猛烈すぎやしないだろうか、ということで3日、お片づけをとっとと投げだして『特急二十世紀』を見ました。

スクリュボール・コメディ初期の傑作、とか言われることが多くて、ではスクリューボール・コメディってなにさ、ていうと変なひとが変なカーブを投げたらその横にいた更に狂った変なひとが別の回転を加えてとんでもない悪玉変化豪速球になってみんなきりきり舞いの大迷惑になるのだが結果はど真ん中でミットに収まってとりあえずめでたしめでたしになるの。 ちゃんと調べてないけどそんなもんよ、たぶん。

ブロードウェイのやかまし演出家のOscar Jaffe (John Barrymore) はそこらに落ちていたようなへたくそ(ってみんなが匙を投げてた)新人女優のLily Garland (Carole Lombard) を手とり足とりしゃかりきになって育てて、彼女はそれに応えてスターになるのだが、互いが互いを束縛しすぎてうっとおしくなったので別れましょ、ってLilyはハリウッドに飛んで大スターになって、Oscarはブロードウェイを追われてシカゴで落ちるとこまで落ちて。 ここまでなら成瀬あたりがしっとり描くバックステージものになってもおかしくないのだが、スクリューがひゅんひゅん回り出すのはここから、がっかりでシカゴからNYに向かう特急二十世紀号にLilyが乗っていることを知ったOscar(& アホな部下たち)の動機も意味もよくわかんない最後の賭け - 奪回作戦が始まって、Lilyは冗談じゃねえわって逃げ回るのだが、そんなことお構いなしに電車は爆走してUnstoppableでどうすることもできやしない。

筋はそんなもんなのだが、見るべきは髪振り乱してぶち切れまくって明らかに変で危ないひとなのにちっともそうは見えない(見えないよね?)John Barrymoreの貫禄の演技のぶっとさと、それを真っ正面から受けて見据えて1ミリも揺るがずにつーんとしてるCarole Lombardの女神っぷりなの。
「生きるべきか死ぬべきか」にしてもCarole Lombardのバックステージものって、ほんとにたまんなくて、熱狂と興奮と陶酔とそれがどーしたのよ、って醒めきった目を交互にへーきな顔でスイッチさせて敵を持てあそぶあの神業、その間合いのとんでもなさ、そりゃJohn Barrymoreだってすごいんだけど、彼女ときたら目と口元の数センチだけで軽々撥ね返してしまう。 白旗あげてお手あげで、さらに黙って轢き殺されるしかない。

とにかくおもしろくてさー、「二十世紀」でこれなんだよ。 これぽっちも進化してないわよ。

あー時間がない。こんなことしている場合では - -

1.08.2017

[music] toddle

7日、土曜日の晩、渋谷でみました。 当日券で。

toddleはずーっと好きで愛していて、記録によると2009年にEarlimartの、2013年にWedding Presentの、2014年にQuasiの前座で見て以来、そして初めての前座じゃないワンマン、しかも2017の新年最初、というこんなめでたいことがあろうか、のライブだった。(なら前売り買えよ..)

すんごーくよかった。 すばらしかった。 ほかになにを言うことがあろうか。

すさまじい演奏力と爆裂のテンションで天上に吹き飛ばしてくれる わけでもないし、たっぷりの元気と勇気と愛を盛って泣かせてくれる わけでもないし、唯一無二の奇天烈なオリジナリティで金縛り釘付けにしてくれる わけでもないし、むせかえるようなカリスマのオーラでうっとり幻惑してくれる わけでもない(ないないないばっかし…)。 どういう形容をすれば、どういう言葉をもってくればこのバンドの魅力を正しく世界の人々にわかりやすく伝えることができるのか、それが実は世界最大の難易度かつ難所の謎で不思議で、昨日もライブの最中ずっとぶつぶつ考えていたのだが、ライブが進めば進むほどそんなのどーでもよくなってきて、空っぽになって音を流しこむのが楽しくて、結局わかんないまま、ああこんなことだからこのバンドの素晴らしさがみんなに認知されないままで、彼らはいつまでもo-nestのままなんだわなんとかしなければ(どうにもできないけど)、ておもった。

3~4曲やってはおしゃべりと水分補給とチューニング、を数回繰り返してだいたい2時間、アンコール2回。 濃いのだか薄いのだかよくわからないが、とにかく楽しくうっとりしたまま気づいたら終わっていたような。
なんといっても田渕ひさ子と小林 愛、この女の子ふたりのギターとコーラスだとおもうのだが、このアンサンブルの魅力と驚異については前に書いたように謎謎で形容すべき言葉がなくて、クールネスとかシャープネスとかバランスとかエッジーとか、なにをいくら言ってもどこか違う、でもなにをどれだけ聴いてもその豊かさとみずみずしさに自分はこれまでなにを聴いてきたのだろう、て途方にくれる。そして、それこそがライブってもんだろ、だから通うんだろ、とか当たりめえのことを。えんえん。

印象みたいなとこでいうと、Blake Babiesの”Earwig” (1989)をはじめて聴いたときのかんじ、Liz Phairの”Exile in Guyville” (1993)をはじめて聴いたときのかんじとか、ライブで同様の至福をもたらしてくれるバンドだと、こないだ年末年始ライブをやったRainer Mariaとか、現役のガーリーでいうとSleater-Kinney …  でもあそこまでRiotでGrrrlでもないし、でもとにかくおきゃんでキュートでスカしててかっこいいったら。

2月の+/-との共演は本当に楽しみなのだが、そのときはこの国にいない可能性があるのでほんとうに噛み締めて聴いたの。
そのうちまたきっと。

[film] Stonewall (2015)

12月25日、日曜日の午後、新宿でみました。

“Stonewall riots”と呼ばれるNYのGreenwich VillageにあったStonewall Innで69年に起こったゲイ達による暴動 - 後のゲイ解放やLBGT運動の突端となったこの出来事を題材にしたフィクションもの。

インディアナに暮らす高校生のDanny (Jeremy Irvine)はアメフトも勉強もできた優等生だったのに幼馴染の彼とキスしているところを見られて噂が広まり、家族からも疎まれて - まだ同性愛は心の病と思われていた時代 - NYのChristopher Stに流れてくる。そこには小汚いはぐれ者っぽい若者たちがいっぱい群れて暮らしていて最初は戸惑うのだが、だんだん彼らのなかに馴染んでいって自分の場所を見つけられた気がしていて、他にもいろんなよい大人わるい大人たちと出会って擦られて磨かれてなにかを掴んでいく、物語はそんな彼の成長を軸に進んでいくの。

Stonewall InnはDannyがゲイ解放運動を非暴力で進めていたマタシン協会のTrevor (Jonathan Rhys Meyers)と出会って恋仲になる場所で、もちろん6月28日の暴動の際もDannyはそこにいるわけだが、彼がどういう経緯を経てあの発火点にいることになったのか、のあたりはちょっと弱いかも。

この騒動は当時の警察とマフィアの癒着とか市長選の趨勢とかJudy Garlandの死とか日頃裏で表で彼らが受けていた迫害とか複数の伏線があったこともあり、池田屋騒動みたいに状況見解や説明がそれぞれの当事者の側で適度に異なっているのでいろんな伝説や異聞が生まれがちで、要するにそれぞれの立場の人たちが自分たちの都合良いふうに語ることができてしまう。良くも悪くも。
だから、このフィクションを見るわれわれが期待するのは、暴力を嫌って人生を楽しむ(はずの)ゲイの人たちをあそこまでの憤怒の、怒涛の暴力や破壊行為に追い詰め追い込んでいった導火線とその起爆装置、そこに手を振りおろした(させた)エモの奔流、それらをどんなふうに表現するか、にあったはずなのだし、そこにはものすごいいろんな可能性やバリエーションがあったはず、なのだが。

そこがねえ、Dannyの成長物語、としてしまったが故になんかすっきりしない、ボヤけたものになってしまった。 別にきちんと説明されなくてもいいんだけど、なんかあんま納得いかないかんじなの。
例えば、John Cameron Mitchellとか、例えば、Gus Van Santが”Elephant” (2003)で描いたようなやり方もあったはずだし。
やっぱりRoland Emmerichではなあ、ていうのはあるかも。

でも俳優の皆さんはみんな本当に一生懸命に映画のなかに入っていて、そこはよかった。
Dannyの妹(Joey King)とのエピソードとかも。

前の会社にいた、もうリタイアしたゲイのおじいちゃん(Village在住、Judy狂)にもし再び会うことがあったらStonewallのことをちゃんと聞いておかなきゃ、と改めて思った。

あと、邦題は変にいじられなくてよかった。”Suffragette” (2015)みたいなことをされたら(未だに劇場で予告がかかるたびにムカついている)ほんとに暴動を起こしたろか、になるとこだったわ。

1.05.2017

[film] Das große Museum (2014)

12月23日の昼間、有楽町でみました。 なんとなく。
『グレート・ミュージアム ハプスブルク家からの招待状」

19世紀末にハプスブルク家の収蔵品を中心に創設されたウィーン美術史美術館が内容や展示方法も含めて抜本的なリニューアル/リノヴェーションする際のいろんな出来事を描いたドキュメンタリー。

こういう美術館の裏方・裏事情を追ったドキュメンタリーが多いのはなんでかしら? と考えてみると、ものすごい多くの人や組織が絡む/お金をいっぱい使うのでいろんなドラマが生まれる他方で、その美術館の成り立ち - 美術品を集めた/が集められたそもそもの事情や歴史や背景 - を見つめ直すことが必須になるので、台所のごちゃごちゃとは別のドラマが - それはやがて、そもそも美術品てなんなの? 美術史てなんなの? 美術館てなんなの? 美ってなんなの? ていう大風呂敷問題に向かわざるを得なくなって、割とみんなお手上げ(でも潰すわけにもいかないのでがんばってなんとかなる)ていう筋書きをたどることが多い。

(こういう普遍の諸事情と「歴史」を絶妙にクロスさせてみせたのがソクーロフの『フランコフォニア ルーヴルの記憶』だった。)

このドキュメンタリーもまさにそんなふうで、当時のハプスブルク王朝が自分たちのために作った収蔵庫みたいな館を今の時代の世界中からやってくる観光客のために再構築してぜんぜん別の国 - オーストリアの収益に貢献する、みたいなことをするにはどうすればよいのか、ていう困難な課題に美術館スタッフ全員が取り組んでいく。 偉い人は偉い人なりに国側と交渉したりオークションで戦ったり(惨敗)、下っ端はそれぞれの持ち分を整理したり修復したり片付けていくの。 個々の担当者が担当している領域は閉じてばらけていて殆どハプスブルク家がどうの、とは関係なくて、淡々と職人さんとして仕事を進めていく。

こうして絵画担当、工芸担当、からくり担当、古貨幣担当、武器担当、とかいかにも - でも鼻ピアスしてたり、キックボードで移動したり - な人たちが地道にがんばっていくのだが、ぜんぜんハプスブルク家ばんざい、なかんじがしないのがよいの。 カエルの決闘の置物(ほしい)に取り組んでいるひとも、なんかこんがらかって動かない船の小細工に取り組んでいるひとも、どうすんだよこれ、みたいな顔をしていて、たぶんそれって最初に収蔵品として納めたひとも同じ顔で見つめていたに違いなくて、そういうふうに美というものは現れて継がれていく。

そのたのポイント;
・冒頭、つるつるの床に思いっきりツルハシ打ち込むとこ、やりたいー。
・あんなおいしそうなチーズやクルミをカラスにあげちゃうなんて。
・そのカラスが運んできたかもしれない虫問題はもうちょっとなんとかすれば。
・唯一モダンな要素を取り入れてみたというオラファー・エリアソンの照明、あれいらない。
・やっぱりあのカエルのやつほしい。

ウィーン美術史美術館、まってろ。

音楽は地味だけどBrian Enoさんでした。


ぜんぜん関係ないけど、4日にうまれて初めて内視鏡検査ってやつをやってクローネンバーグよろしくマシンと管に繋がれて自分のリアル腸内映像をみました。 一番奥まで行って、そこから戻ってくる途中、目とか牙とかのついた黒ヌメリするやつが腹の奥から食い破ってくることを期待したのだが、それはなかった。 お医者さんが自分の目の上で手を動かすとそれに応じて腹の中から外向かってにつんつん金具が出っぱったり突っぱったりおもしろかったでした。

1.03.2017

[film] はるねこ (2016)

29日、年末休みに入った日の晩、渋谷でみました。

トンネルを抜けて森のなかを進む白い車があって、運転しているのはその先のお店で店長と呼ばれている若い男(山本圭祐)で、そこには他に椅子に座ったおばあさん(りりィ)がいて、車に乗って運ばれてくるのは吃音のやくざだったり姉と弟だったり家族を殺した男だったりいろいろ、みんな既に死んでいるようなその覚悟したような人たちで、連れて来られた先では猫や被り物の人達とかが月夜の幻燈会をやったり演奏会をしたりじゃかじゃかやっていて、それでなにがどうなるわけでもなく、ひとはどこかからそこにやってきてそこからどこかに、すうっと消える。それだけ。

生と死、生きているひとは必ず死ぬことになっていて、その境目がどこからどう、とか、なんで? というのはあまり問題ではなくて、それぞれにいろんな状態とかありようがあって、それぞれがいろんな経緯変遷を経て彷徨いながら意識無意識のうちにトンネルを探したりその向こうを目指したりしているのだ、ということ、そんな右往左往したり留まったり舞ったりする生魂だの霊魂だのがあの山のあの辺りには大昔から吹き溜まっているんだ、ということ。

そういう設定そのものは宮沢賢治の昔から不思議でもなんでもないやつで、むしろみんななにかしらどこかで知っている。 その世界をまるごと、「がっしゃん、ドン。」(なにかとなにかがぶつかって、おちる)という音やネコのヒゲのちりちりした震えまで含めて音と映像の遠近や明暗に落としていく、そのなんでもぶっ込もうとする強い意思とそれに応えて森の奥からわーわー吹いてくる死者たちの声がぐじゃぐじゃに入り乱れてわけのわかんないものになっているかも知れないけど、これがすばらしい。
4トラックのカセットのデモ、ライブテープかもしれない、でもそこにぜんぶ詰まっててそれぞれの粒がみんな生きて鳴っている。

見てて思い起こしたのはダニエル・シュミットの『書かれた顔』 -  “Das geschriebene Gesicht” (1995) で、どこがどう似ているというのではないのだが、見た時の奥底を揺さぶられるかんじが。あの映画の大野一雄とこの映画の田中泯が踏みしめているものはとても近いところにあるなにかなのだと思った。

もうひとつはこういう生と死の相克のなかに「戦争」はどう位置づけられるのか、位置づけてしまってよいものなのか、でもほれ、死体はごろごろ転がってるんだよ既に、今も、至る所によ、わかってんのかおら、ていう店長の強い眼差し。

上映後に監督とプロデューサーによるバンド - Himalayan Spring Cats - のミニライブがあった。
監督自身による歌が素敵で、あー音楽のひとが作った映画なんだなー、というかんじが改めてきた。
そして青山プロデューサーが「聴いたことある人いるかも」と言って始めたのがBO GUMBOSの「最後にひとつ」で、思い出すのに時間かかったが、ああそうかー、どんとがいたら間違いなくこの映画のなかにいたよね、って。(ひょっとしたらどこかに映っているのかも)

でも、また会いたいよう、なひとがいっぱい映っていてほしい映画、ていうのとは違うかも。

1.02.2017

[film] Hitchcock/Truffaut (2015)

12月10日の昼、 “Évolution”に続けて同じシアターの同じ座席でみました。
とっても混んでいたのでびっくりした。

翻訳版の「映画術 ヒッチコック/トリュフォー」が出た時、これはヒッチコックの映画をちゃんと見た上で買って読まないといかんよね、と思って気づいたら30数年が過ぎてて、映像版が出てしまった。その間ヒッチコックの映画はちゃんと見れたのかというと、実はあんま見れていない。 
このままだと見れないままで自分が死んじゃう可能性のほうが高くなってきたので、これを見たうえで改めてヒッチコックの映画を見て、本を読んで、いなくならないといかんか、と。

Hitchcock / Truffautの本の元になった対話の映像記録や音源を挿入しつつ、10人の映画監督にHitchcock映画の魅力をそれぞれの角度から語ってもらう。 その語りが面白くて、ひとつはTruffautが62年の対話で掘り下げたテーマをそれぞれが継いで、例えばHitchcock / Fincher、Hitchcock / Scorsese、Hitchcock / Gray、Hitchcock / Linklater のようなものになっていること、もうひとつは10人それぞれの語りの掘り下げかたとか視野視角が、各監督の映画に対する攻め筋みたいなのをわかりやすく現していることで、こんなふうにHitchcock / Truffautが巻き物にした映画の「術」は伝承されて編み目になっていくんだなあ、て。少なくとも「秘伝」みたいな閉じたものにはなっていない。

Hitchcockを語るときに必ず言われる観客の目線 - 観客がそれをどう見てどうびっくりするかが肝心、ていうのは当然のように認識された上で経由してくるのでとにかくわかりやすいし、優れた作品ガイドがそうであるように、まず作品を見たい気にさせてくれる。

で、見たいのは映画館で、なんだよね。Film ForumとかでHitchcockがかかると当然のようにSold Outしてて憮然とすることがあるのだが、とにかくHitchcockは親子(特に父子が多い)とかで見て「わぉ」とか「オーマイガー」とか(口を押さえて)「(!!!)」とか暗闇のなかでじたばたしながら見るのが楽しくて、それって今の日本の映画をみる環境(親子連れはアニメ)だと不可能に近くて、だからまずこういうのからでもHitchcock見る下地を作っていかないと。

ひとつフォーカスするとしたらやっぱり男の変態性(少しの幼児性)、ていうとこだろうか。出てくる監督連中の作品も割とそういうとこあるけど、男がこんなにも嵌って60〜70年くらい続いている西欧の男の変態のしぶとい普遍性、その象徴としてのあのぶよぶよデブ、ていうのを「映画術」とは別の、フェミニズムの観点からぼこぼこに掘ってみたらおもしろいと思うのだが。

登場する監督10人があまりにFilm Comment誌寄り、NYFF寄りで唸ってしまうのだが、全く異議はなくて、ここにいない人だとBrian De PalmaとNoah Baumbachくらいかなあ、て思って、でもこの二人は、”De Palma” (2015)のほうで忙しかったのかも。こっちも見たいなー。


2日は頭痛がひどくて、映画始めもお片付けもあきらめた。4日に病院の検査があるのでいつもの薬を飲めなくてうんざりで、とんだ年始でございました。 がんばります。

[film] Évolution (2015)

お片付けばっかりでもつまんないので、昔みたやつの感想を書いていく。
12月10日、土曜日の朝、新宿でみました。

Nicolas(Max Brebant)が 岩場のある海辺を泳いでいると底の岩場に遺体を見つけて慌てて家に走るところから始まって、でも母親と思われる女性は顔色変えなくてなんかおかしなかんじなの。
そこは海辺に白い箱みたいな家が並んでいる島のようなとこ、住んでいるのは女性と小学校まんなかくらいの男の子しかいないようで、その女性は緑の糊みたいな食事を作ったり男の子に薬を与えたりしていて、とても静かで医療施設のようにも宗教施設のようにも見える。

やがてNicolasとその仲間の男の子たちは病院で集団で検診のようなものを受けたり注射されたり入院させられたりしていて、なんか医療行為というか実験みたいなことをしているようで、だんだん母親みたいな女性たちがそこにどう関わっているのかも含めて、なんともいえず怪しいぞ、になっていく過程が中心で、他には夜の海で、とか、荒れたしょっぱそうな海で、とか、エコでオーガニックななんかに沿うやつか抗うやつか、台詞も少ないし場所や時間経過や役割の説明も一切ないので、ひたすらなぞなぞで、それが潮が満ちるんだか引くんだかのようにだんだん気持ち悪いほうに傾いていく、その海の軟体ななんかがぬるぬる表面を滑っていくかんじがなんとも言えずに皮膚をなぞって。

(別に気持ち悪いぬめぬめモンスターが出てくるわけではないの。変な生き物の死骸とかヒトデとかが象徴的に使われる程度なんだけど。 あと吸盤。)

テーマとか雰囲気としてはエモを一切抜いた”Never Let Me Go” (2010) - 『わたしを離さないで』かなあ。 目的も使命も明かされない(想像はできる)ので「運命」という言葉すら遠のいていく海と風の吹きすさぶ強さと冷たさ、どうしろっていうのか、なにができるってのか、の血と力を抜かれていくようなイメージの連鎖がたまんなくて、唯一ほんわかしそうな看護婦とNicolasのエピソードもぜんぜん効かない。

そして、それでもタイトルは “Évolution”であると。 おお神よ(だから神よ)、としか言いようがないの。

ラストの工業地帯の夜景はアサイヤスの映画のようだった。 ベクトルは全くちがうけど。

1.01.2017

[log] Best before 2016

新年あけましておめでとうございます。

2016年最後に見た映画は、恵比寿でのリストア版”Smoke” でした。”Innocent when you dream”♪

2017年最初に聴いた音楽は(昨年ちょっとネガティヴだったので)、Robert Wyattさんの"I'm a Believer"(1974) -  Brian Wilson "Love and Mercy" (1988) - Kirsty MacColl "A New England" (1984) といって、The Sundaysの”Reading, Writing and Arithmetic” (1990)を流した。
こんなかんじの一年にしたいな、と。

2015年最後に買った本は紀伊国屋で、たまったポイントでロザリー・L・コリーの『シェイクスピアの生ける芸術』を買った。えいえいおー。
元旦はいつものようにお片づけしながら、お片づけで発掘されたあんなのこんなのを落ち着きなく拾い読みして選り分けて。

というわけで2016年のベストあれこれ。

[film]

去年まで新作と旧作を分けていたが、面倒なので分けずにだいたい40本くらい、で。
(順番は見た順。下のほうが古い)

■ はるねこ (2016)
■ ParaNorman (2012)
■ Manchester by the Sea (2016)
■ Louder Than Bombs (2015) 『母の残像』
■ Julieta (2016)
■ Caught (1949) 『魅せられて』
■ Everybody Wants Some!! (2016)
■ Trouble Every Day (2001) 『ガーゴイル』
■ Me Before You (2016)
■ 11 Minutes (2015)
■ La Batalla de Chile: La lucha de un pueblo sin armas (1975 - 79)  『チリの闘い』
■ Song of the Sea (2014)
■ We Are the Best ! (2013)
■ Pete's Dragon (2016)
■ Maggie's Plan (2015)
■ Love & Friendship (2016)
■ Man Up (2015)
■ The Women (1939)
■ 3 cœurs (2014) 『3つのこころ』
■ Peindre ou faire l'amour (2005) 『描くべきか愛を交わすべきか』, Vingt et une nuits avec Pattie (2015) 『パティーとの二十一夜』
■ 10 Cloverfield Lane (2016)
■ Ex Machina (2015)
■ アンスティチュのサッシャ・ギトリ特集  「夢を見ましょう」 - 「デジレ」
■ La Planette Lumière (1995)『リュミエールの惑星(リュミエール28作品による世界旅行)』
   *上映後、Dominique Païni氏による講義:『リュミエール兄弟とフランスの芸術:印象派と映画の発明』
■ Omar (2013)  『オマールの壁』
■ Cemetery of Splendour (2015) 『光の墓』
■ SHARING (2014)
■ ジョギング渡り鳥 (2015)
■ 古都憂愁 姉いもうと (1967)
■ Saul fia (2015) 『サウルの息子』
■ How to Be Single (2016)
■ Carol (2015)
■ World of Tomorrow (2015)
■ It Follows (2014)
■ News from Home (1976) *シャンタル・アケルマン追悼特集、どれもぜんぶ。
■ La Fleur du Mal (2003)『悪の華』〜 La fille coupée en deux (2007) 『引き裂かれた女』
   *上映後にRichard Peña氏のトーク。
■ 婦系図 (1962)

シャンタル・アケルマンの追悼特集、サッシャ・ギトリ特集がすてきで、でもそれ以外はなー。
もう映画館で映画を見るのは諦めてダウンロードに寄っていくしかないのかなあ、て思い始めた年。
御用批評家達ははいまのこの国の映画興行のありようになんの文句もないようだし、政治とおなじで絶望的としか言いようがない。
それでも邦画のほんの一部は『ジョギング渡り鳥』あたりから、時空が歪んだような世界の(への?)侵食が始まっていて、なんかおもしろいかも。

[art]

■ Kai Althoff: and then leave me to the common swifts  @MoMA
■ Klimt and the Women of Vienna’s Golden Age, 1900 - 1918  @Neue Galerie
■ Thomas Ruff @MOMAT
■ Edgar Degas: A Strange New Beauty  @MoMA
■ diane arbus : in the beginning   @MET Breuer
■ 巡回展「波のした、土のうえ」in 東京 小森はるか+瀬尾夏美 @Gallery蔵 
■ ジョルジョ・モランディ―終わりなき変奏  @東京ステーションギャラリー
■ Coney Island: Visions of an American Dreamland, 1861–2008  @Brooklyn Museum
■ Munch and Expressionism @Neue Galerie
■ Grayson Perry – My Pretty Little Art Career @Museum of Contemporary Art Australia

ここも映画とおなじで、海外のほうがよっぽど落ち着いて見たいものを見ることができる。
これがすごいあれがすごい見なきゃ損損! ていう田舎者マーケティングがどれだけ美術鑑賞から遠いものであることか、でもそれで儲かっているのだとしたら変わんないよね。


[music]

■ Ryan Adams  - 12/9
■ Panorama NYC  - 7/23 - 24
■ Bon Iver - 2/29
■ METZ - 1/29
■ Joanna Newsom - 1/27

今年はいっぱいライブ行くから。ぜったい。 覚えとけ。

録音もの。

■ David Bowie / Blackstar
■ Lucinda Williams / The Ghosts of Highway 20
■ Iggy Pop / Post Pop Depression
■ Sam Beam and Jesca Hoop / Love Letter for Fire
■ Whitney / Light Upon the Lake
■ Scott Walker / The Childhood of a Leader (OST)
■ Lambchop / Flotus

Reissueもの。

■ Big Star / Complete Third

“Complete Third”、まだアナログで出た分しか聴いていないが、なんなんだ。
デモのほうが音が生きてておもしろいという -


[theater]

■ Letter to a Man @BAM Harvey Theater
■ The CRUCIBLE @Walter Kerr Theatre
■ A View from the Bridge NTL

これも今年はライブでいっぱい見る。

[book]

ここも時間がなくてねえ。
ゼイディー・スミス「美について」、トーマス・ベルンハルト「消去」、スーザン・ソンタグ 「イン・アメリカ」、ゴーゴリ「死せる魂」、メイ・サートン「独り居の日記」〜「70歳の日記」、リチャード・マグワイア「HERE ヒア」 くらい。

リチャード・マグワイアさんは、”White Lines (Don't Don't Do It)” (1983)のベースラインを作ったひとで、2003年のLiquid Liquidのライブでも彼を見ているので、あのコミックの形式を借りると彼は30年以上前から自分の枠のどこかはじっこを横切っていたんだなー、って。


今年もたくさんのよいものに出会うことができますようにー。
出会うことができるくらいの時間が取れますように。