15日の日曜日のごご、新宿で見ました。やっと見れた。 でっかいスクリーンでよかった。
「さらば、愛の言語よ」。なにが/どこが「愛の言語」なんだか最後までわかんないしわかりたくもないけど。
Jean-Luc Godardの新しいやつ。 ゴダールの新しいのはふつう最低2回見ないと入ってこないところもあるし、見ているうちに今度のは2Dも見ないといけないことがわかったので、今の段階であんまし書くことが出てくるとは思えないのだが、なんか書いてみる。
新作が3Dになる、と聞いたときはそんなに驚かなくて、前作の”Film Socialisme" (2010)の制御を失って画面の外に爛れて流れ出してくる毒液みたいなデジタル映像 - それは映像の冒険や実験というより、これでも喰らえ、とこちらに放り投げているようにも見えて、その流れでそんなに3Dだ4Kだ言うならこんなんでも見とけ、ほれ立体じゃろ、とでも言うのだろうか、とか。
表面に見えてくる3Dはやはり「ちゃち」で、昔よくあったぎざぎざしたシールの見る角度を変えると浮きあがって見えたりするあれ、を思い起こしたりもしたのだが、なんか目がおかしくなったかも、と思って右目を閉じて左目を開けて、右目を開けて左目を閉じて、をやってみたら右目左目でぜんぜん別の映像が動いていったりしたのでびっくらして、これってなんかの修行か眼科検診かなにか? とおもった。 つまり、そういうレベルで「見る」ことについて考えろ、ということを言っている。 これがひとつ。
前作の”Film Socialisme”は、”Social”の”ism”を”Film”としてこちらに投げていた。
クルーズ客船とかゲームとか子供とか参政とかをネタにそれらが織り成す社会の構造や基底(そしてそれ自体もまた…)をフィルムの上に再構成しようとした、というか。 今度のはそのレイヤーをもう一段降ろして言語/言語化とか犬とか糞とか裸とか男女とか血とか、そういうロー(Raw)な断片ばかりが転がっていて、しかもそれを(フィルムというより)3Dで見ろ、という。音声は、銃声とか犬鳴きとか赤ん坊泣きとか、エッジがとんがって鮮烈で、これまでのように設計されたかんじはなく、ただそこで生起した音の生々しさのみを捕まえようと。 こういった認識や思考の突端にある要素をかき集めて何をつぎはぎしようとしたのか。 主人公のひとりの女性(頬につぎはぎあり)の名前は”Mary Shelley”なの - 「フランケンシュタイン」 - “Frankenstein: or The Modern Prometheus”を書いた女性ね。
こうして映画はさんざん犬の目のつぎはぎを3Dで練りあげた筋も論理もくそもない代物、のようでいて、でもなんか、獣道のような線とか側溝のようなものが見えないこともない。 それらに筋道をつけて、たぶんこのあたりに向かっているなんか、などと言葉で表せるようになるにはさいてーでもリルケとデリダとアガンベンくらいはちゃんと(日本語だけど)読まないといけないのね、ということはわかった。 なんで猫じゃなくて犬なのか、とかも。
でも花粉にやられたところに風邪ひいて更に寝挫いて死んだ犬並みにひどいありさまなので、当分はむりなの。
ゴダールの過去の作品でいうと、”Prénom Carmen” みたいなへんなB級の勢いがあって好き。これでもうちょっとエロがあったらなあ、とか言わないこと。
3.23.2015
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