21日土曜日の午後、「光陰的故事」に続けて見ました。当然みるわよ。
英語題は”The Terrorizers”。
80年代の台湾のどこか、窓から銃を持った手がすっと伸びて、銃声が響き、道路に人が倒れていて、その様子をカメラに収める若者がいた。そのカメラに怪我をして逃亡する姿を撮られた混血の少女、彼女の母親がいて不良仲間がいて、そこから全く関係ないところに上司の死で昇進のチャンスが降ってきたまじめな医師と、なかなか新作を書けずに苛立ち苦悶している小説家の妻がいる。
カメラマンの青年は同棲している彼女のところを離れて事件の起こった部屋を借り、暗室を設けて暮らし始めて、怪我をした少女は昼間することもないのでいたずら電話を掛けたりして、全く関係のない、互いに名前も知らない人と人の間に線ができて、その線が思いもよらなかった何かを登場人物たちに運んでくる。
それらは本当に思いもよらなかった何か、関係ないはずだった何か、なのか。それを持ちこんだのはいったい何で、どこのどういう力なのか。
すべてが繋がってしまうかもしれないことが、そのさまの予測がつかないことがおそろしいのではなく、それらすべてのことがわかっていながらも突然に、あらゆる場所でことが起こってしまう、そういう後ろ頭の恐怖がある。『ヤンヤン 夏の想い出』(2000) で、わかっていないことを、見えていないことを、なんでわかっているように言えるのか? とヤンヤンは問い、自分には見えていない半分を見せてあげる、と人のうしろ頭をカメラに撮っていたヤンヤン、「光陰的故事」で、自転車に乗れるようにはなったけど... とぼやいていた眼鏡っ子の中間で、昇進目前の医者でも、賞を貰った小説家でも、金持ちぼんぼんのカメラマンでも、行き先と後ろ頭には気をつけないと、起こることは起こるし、防御しようのないものだ、と。
それにしても、どんな画面でも - それが犯行現場であっても医師のお宅であっても、構成として端正というか、揺るがずに美しいことのすごさ。 遍在して光のなかに居据わり、散っていく「分子」のありようを慌てず騒がず丸ごと捕らえること、エドワードヤンの恐ろしさはそこにあって、それは「ラルジャン」のような即物的な根を持たずに苔や黴の胞子のように空中を漂い、いつの間にかそこらじゅうに拡がっている。そして「彼ら」はホラー映画のようなわかりやすさで変わったりキレたりするわけではない、頻繁に手を洗ったりする普段の挙動はそのままに、その声音、目つき、がほんの少し、でも突然。 とにかくおっかないし、逃げようないし。
これって、昨今のIoT/EoTの世界になったら、例えば、デイブ・エガーズ「ザ・サークル」のサークルが完全化したら防げるのかというと、違うかんじがする。むしろ、環境の数値化/可視化が進めば進むほど後ろ頭に忍びよる恐怖の深度、噴出しようとする暴力の強度は大きく抗いようのないものになっていく、気がする。 そういうもんじゃろ、程度だけど。
できればもう何回か見たい。 そして「牯嶺街少年殺人事件」ももういっかい。 なんとしても。
3.29.2015
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