12.31.2013

[film] Only Lovers Left Alive (2013)

31日 - 本日の昼間、新宿でみてきました。 お片づけはどうした。

Jim Jarmuschによる吸血鬼映画。
デトロイトに住むアダムがTom Hiddleston、その妻でタンジールに住むイブがTilda Swinton、LAに住むその妹がMia Wasikowska、タンジールに住む長老がJohn Hurt。

人目を忍んで闇夜に生きている。人は襲わずに病院から調達したO型のRHマイナスをグラスで飲み干す。武闘派ではなく、音楽とか読書とか文系の世界にしっとり暗く浸っている。
もう何百年も生きているけど絶滅危惧種で、でも自分たちで種の維持とかを考えているわけではないらしい。

別の族との抗争や共闘があったり、人間との恋愛や戦いがあったり、つらい逃避行があったりするわけではない。 冒頭のターンテーブルのシーンのように、その針(牙)が時間の溝をどこまでもぐるぐると削りながら回っていく。その様を上から俯瞰するものはおらず、その回転は永遠に続くかに見えて、曲の終り、溝の終端はやがてやってくるだろう。

その様を非情感たっぷりに描くのでも激情のエモで埋めつくすのでもなく、走っていく車とそこを流れていくデトロイトの路面(ターンテーブルのイメージ)、そこにえんえん流し込まれていく抑えこまれた憤怒を、まっかな血のしたたりと夜の光のなかに浮かびあがらせる。 木製のたった一発の銃弾と共に。

前々作"Broken Flowers" (2005)でも前作"The Limits of Control" (2009)でも、Jim Jarmuschはぶすぶすと内に向けて怒っていたが、今回はそれがより明確で、人間達を「ゾンビ」と呼んでゴミ扱いしている。そうだよねえ、彼らから見たら人間こそが肉の腐れたなれの果てだよねえ。
ゾンビが殲滅されるべきものであり吸血鬼もやがて滅びて行くものである以上、両者は永遠に相容れることはなくて、唯一言えるのは - "Only Lovers Left Alive" なのだ。 わかったか。

"Thor"でのぼんくらっぽい姿しか知らなかったTom Hiddlestonがあまりにかっこよいので驚いたが、それ以上にTilda Swintonのすばらしいこと。 あの鳥類としか思えない横顔と容姿、ふたりが変てこに絡み合って横たわる寝姿の妖艶なこと。 吸血鬼の夫婦としか言いようのないふたり。

あと、おいしい血をいただいて満足げに笑う牙付きのMia Wasikowskaがまるで猫のようでかわいい。
あと、Anton Yelchinはただのロシア人(でぶ)になりつつあるのね。

Jozef van Wissemの音楽はガレージでゴスでブルージーで、澱んだギターノイズのなかに永遠がある。 新宿武蔵野館のぜんぜんよくない音響でも、であるからこそどっしりそこに居座る、そんな質感の音。

もういっかい見たいなー。


映画を見終わって、いいかげん帰ってお片づけをしないと、なのだったがデトロイトの部屋にアナログ盤とか音楽機材一式を置いて戻らぬ旅に出てしまったアダムの潔さと力強さを見習うべく、もう一本見て帰ることにした(殴)。

シネマヴェーラの今年最後の1本。"Die Austernprinzessin (The Oyster Princess)" (1919) -『牡蠣の女王』。
2010-2011年、MOMAのワイマール映画特集 - "Weimar Cinema, 1919–1933: Daydreams and Nightmares"で見て、ほんとに大好きになった1本をふたたび見よう! ということで。

牡蠣の王様の娘の結婚のどたばた喜劇でめちゃくちゃなのだが、半裸も入浴もベッドインもあってエロくてすごいの。 リメイクするとしたら姫をLena Dunham、パパをJohn Goodmanでおねがい。

しみじみくそったれだった2013年もあと1時間をきりました。 くそったれ。
よい新年をお迎えくださいませ。

そして2013年ベストの検討に入ります。

[film] 浮城謎事 / Mystery (2010)

29日、シネマヴェーラのあと、新宿に行って見ました。 
『パリ、ただよう花』 英語題は"Mystery" とか "Love and Bruises"とか。

監督のロウ・イエの作品を見るのはこれがはじめて。

主人公の花(ホワ)がパリで、北京で知り合ったと思われるフランス人男に捨てられるところから始まり、意気消沈して歩いていると工事現場でパイプをぶつけられて、ついてないやて歩いていくとぶつけた野郎がついてきて、結局そのままその男と寝てしまう。 それがマチューで、ふたりは会ってはセックスをし、を繰り返す関係の果てに疲弊して、やっぱりあなたとは無理だわ、とホワは北京に帰って通訳として暮らすことにするのだが、マチューとの連絡が取れなくなると気になって再びパリに戻って彼と体を重ねてしまう。

セックスをしている時以外のホワとマチューの間でどんな会話がされ、どれくらいふたりは親密になっているのかいないのかまったくわからないので、画面だけを追っていくと、ふたりは会えばただ動物のように交わって、終わると辛そうに喧嘩してばかりで、マチューがホワに向かって罵倒する「あばずれ」とされてもしょうがないように見えて、映画がそういうふうに異国のパリで「ただよう花」のありようを追うことを主眼にしているのであればそうして伝わってくるきつさもわかんないことはない、と言おう。

でもそれって、例えばSMの痛みとはどうちがうのか、異国で暮らす孤独やその辛さとはどんなふうにちがうのか、このふたりの(或いはホワの)、あの部屋の空気と暗さ、あのときのふたりの声が収斂していった先にある凝り固まったなにかを示すところまで行けていたかどうか。

といってそんなものを示せたところでなんになるというのか、ということも映画は確かに言っていて、他人の不幸も痛みも快楽も知ったこっちゃないのだからほっとけ、であることも確かだから距離を置いてみたその場所に残る他人のかさぶたみたいなやつと、ホワの疲れたような諦めたような薄い笑顔の交わるところにこの映画の渡したかったものはあるのかしら、と。

そうは言ってみても落ちつきなく(たぶんわざと)至近距離で適当に動きまわるカメラとか、粗野に粗暴に振る舞いすぎるマチューを始めとする男共の傲慢さにうんざりしてこいつらの男根ぜんぶちぎり取って豚に食わしちまえ、とか思って、ようはぜんぜん好きなタイプの映画ではないのでしんどかった。

とりあえずマチューから離れたのは正解、といって北京で生きることが正解、とも思えない。
「正解」なんて、あるわけがないし、そんなものを求めることにいったいどんな意味があるというのか。

どっちも地味な女主人公ていう括りでいうと、こないだ見た「受難」のフランチェス子とは真逆のベクトルであたしの生きる道を照らしている、のかもしれない。
んでも、どっちにしても大きなお世話だろうし、どっちにしても天国は待ってくれるの。 たぶん。

12.30.2013

[film] My Man Godfrey (1936)

今年の暮れ正月も外せないシネマヴェーラの『映画史上の名作10』。
29日のお昼にまずはいっぽん、『襤褸と宝石』 -  「ぼろとほうせき」て読むの。
ほんとうにおもしろいんだから!

大恐慌の時代、マンハッタンの東の反対側のスラムに金持ち連中がやってきて、パーティの余興のscavenger huntの品物としてホームレスを拾っていく。 金持ちお嬢さんのアイリーン(Carole Lombard)が拾ったのがゴドフリー(William Powell)で、彼の物腰の柔らかさにちょっと惹かれたのと、品物扱いしてしまったお詫びと酔っ払いの勢いで彼を執事として雇うことにする。

5番街の1011というのがアイリーンのアパート(ここ、メトロポリタン美術館のまんまえだよ - 原作だと1011 Park Ave.だそう)で、家族はみんなそれぞれ身勝手なことばかりしている変人たちで、勿論お金持ちなのだが経済的に傾きかけていて、そういうおうちに入りこんだゴドフリーの奮闘とある企みと、やがて明らかにされる彼の素性と。

冷たく意地悪な姉のコーネリアと比べて、無邪気でおてんばなアイリーンはゴドフリーにめろめろになっていって、でもゴドフリーは執事でございますから、とか冷淡な調子を崩さなくて、この辺のやりとりを軸に転がっていくラブコメとして、素敵におかしい。 そしてラブコメを織りこみつつ全体が変に捩れていくファミリードラマとして、ジェーン・オースティンも少し入っているかも。

ほとんど酔っ払ってきゃーきゃー騒いでばかりのCarole Lombardがすばらしく魅力たっぷりで、彼女をアイリーン役に指名したのはつい3年前まで実際に夫をしていたWilliam Powellで、彼女との夫婦生活もあんなふうだったのだと。 ならとっても楽しそうだし、別れなくたって...(そういうもんでもないのね、きっと)

この作品、オスカーの監督、脚本、主演に助演の男優と女優、作品賞以外の主要6部門にノミネートされてて、でもいっこも取れなかったんだって。

今回の特集、他にも見たいのいっぱいあるけど、何本見れることやらー。

[film] Simon Werner A Disparu... (2010)

28日の晩、"Laurence Anyways"のあと、ユーロスペースで見ました。
『消えたシモン・ヴェルネール』。タイトル憶えられなくて、「消えたシモーヌ・ヴェイユ」とか勝手に呼んでた。

92年のパリ郊外の高校で、シモンがいなくなった、しかも教室からは彼の血痕が… と話題になるなか、シモンの周辺にいた4人 - ジェレミー、アリス、ラビエ、そしてシモンのそれぞれに絡みあった数日間の動静を追う。生徒同士のあれこれ、シモンに続けていなくなる何人か、恋人、教師、サッカーのコーチ、などなど、人々はみんなそれなりに挙動不審で怪しげで、シモンはどうなったのか、もし殺されたのだとしたら誰が…

物語のまんなかにあるのはジェレミーの誕生日の晩、彼の自宅でのパーティと彼の家の横手にある森 - そこですべてが明らかになるのだが、4人の4つのエピソードを束ねて組みあげる手つきが見事で、おもしろかった。(こういうミステリーてあんま見ないせいかしら)

郊外、森、高校、ていう微妙に不気味な舞台設定に加えて噂とか陰口とかの連鎖が生徒たちの間に疑念と猜疑の渦を生み、でもそこに警察や探偵が現れるわけでもなく、彼らは彼らのサークルでの日々を過ごしていくしかない、その身動きのとれない中途半端なかんじも含めミステリーというより学園ドラマとして見事だとおもった。
携帯もなく、音楽もまだアナログだった時代の学園に暮らした子供たちの。

音楽はSonic Youthが全面に、と宣伝文句にもあるのだが、冒頭のパーティで(更にそのあとのフラッシュバック数回で)、がんがんに響き渡るのはKilling Jokeの"Love Like Blood" (1985)で、映画全体のトーンを決めているのもこの曲の刺さるようなギターのリフのほうで、しみじみかっこいいよねえ。
この曲かけてがんがんに盛りあがるパーティ、ていうのもなんかすごいけど。
他にはTom Waitsの"Somewhere"なんかもかかる。

犯人あれじゃねえか、と思ったのが当たったのでうれしかった。


[film] Laurence Anyways (2012)

2013年のお仕事は金曜日で終わって、でも最後の最後までほんとにばたばただった。
このかんじのまま来年も行ってしまうのか、すごくやな予感がするのがいやだ。

見れていなかったあれこれを捕まえるべく、28日の夕方、Uplinkで見ました。
『わたしはロランス』。やーっと見れた。

モントリオールの作家で教師のロランス(Melvil Poupaud)は彼女のフレッド(Suzanne Clément)と仲良く同棲していて、89年、彼の30歳の誕生日の日、「女として生きたい、自分はこれまでずっと間違った体で過ごしてきた」て告白して、フレッドはなんで今更そんな... と唖然とするも彼を失いたくなかったので支えていくことにする。 それは彼の母親(Nathalie Baye)にとってもおなじで、物語はそこから10年間の彼らの魂の彷徨いを追う。

決意と宣言のあと、化粧と女装を始めた彼のそばにフレッドはずっといたのだが、彼の動揺、彼女の動揺、周囲への波紋が押しては返しでやってきて、そのストレスに耐えられなくなったフレッドは、別の男を見つけて別の場所に越していってしまう。 でもロランスにとってフレッドは"AZ" - 最初で最後のオンナ、であって、そう簡単には終わらない、終わらせることはできないの。 10年間、168分で映画は終わるが、とりあえず切ってみた、程度のものなの。

ロランスが自分のなかに見いだしたオンナ、これに対してフィジカルな事実としてあるオトコの姿、フレッドがロランスに求め続けたオトコの形、フレッドが頭では理解しようとしたオンナとしての彼、などなど、性のありようは、たったふたりの間、そこまでの2年間恋人であったふたりの間ですら複雑に多様に、当事者間ですら制御できないエモの揺れと痛みをもたらすのだが、他方でそんな程度では揺るがしえないふたりだけの魂の結託のようなものも確かにあって、この関係に、この物語にあるべき決着なんてないんだ。

ロランスの物語、というだけでなく、彼のそばにいたふたりの女性(母とフレッド)の逡巡と戦いの物語として見ることもできて、特にフレッドがカフェで給仕の応対に激怒するシーン、ママがTVばかり見ている自分の夫にぶちきれてTVをたたき壊すところは痛快だったりする。

この物語を性同一性障害の症例、事例、のように描かなかったのは正解で、それを可能にしたのは89年からの10年間、というのも大きかったのではないか。 80年代後半からの10年くらいて、普通と普通でないことの境界を絶えず自分や周囲に向かって問い続けることができた時代だったようにおもう。
最後のほうで、ロランスにインタビューする老婦人が、間もなくやってくる21世紀はだいじょうぶそう? と問うシーンがあるのだが、性同一性障害もゲイも、情報として表面に現れて均質化されるようになった反面、当事者たちのほんとうの葛藤や苦しみは蓋して隠蔽されがちな傾向が出てきているようにも思えて、きついひとにはきつくなっているのではないかしら。

そう思うとラスト、フラッシュバックされる87年のシーンがすばらしくて、ちょっと泣けるの。

映像はちょっと技巧に走り過ぎたように見えるとこもなくはなくて賛否あるかもしれないが、音楽の使い方は見事だとおもった。 Visageの"Fade to Grey"、The Cureの"The Funeral Party"、Depeche Modeの"Enjoy the Silence"、Duran Duran の"The Chauffeur"、などなどなど。

この監督、ほんとに89年生まれなの?

12.29.2013

[film] Hannah Arendt (2012)

22日の日曜日の朝、新宿で見ました。 朝早くなのに結構入っていた。 よいこと。

Film Forumでかかったときからずうーっと見たくて、岩波ホールもなかなか行けなくて、やっと行けた。 John Waters先生も2013年ベストにリストしていたし、必見なんですよ。

それにしても、前の日に同じところで見た"The Bling Ring"と続けて見ると同じ歴史ものなのに同じ地球上の出来事かよ、とかおもうわ。

アイヒマンがイスラエルに捕えられるシーンから始まり、彼の裁判がイェルサレムで行われることを知ったハンナ・アーレントが裁判を傍聴してそのレポを書くことをNew Yorker誌に申し出て現地に赴き、記事("Eichmann in Jerusalem: A Report on the Banality of Evil")を書いて掲載する。 その記事のなかの、アイヒマンは悪の権化ではなく上からの命令に従った平凡な歯車にすぎない、という箇所、更にはユダヤ人団体指導者たちが虐殺に加担していた、という箇所がユダヤ人社会を中心に凄まじい非難と悪罵を巻き起こし(今でいうところの「炎上」ね)、友人もみんな失って孤立する、ていう史実としてとっても有名な、誰でも知っていることを映画化しただけなのだが、このおもしろさはなんなの。

身内からも友人からも、どれだけ非難されても罵倒されても、彼女と彼女の思考は煙草の煙を吐きながら機関車のように力強く屈しない、パンクばばあの不屈さがあるの。特に最後の大学での講義の迫力ときたらすさまじく、これを演じているのがファスビンダーの『ベルリン・アレクサンダー広場』でミーツェを、『ローラ』でローラを、つまり戦後ドイツ男の間でやりたいようにやられてきた女たちを体現してきたバルバラ・スコヴァなんだから痛快ではないか。

みすず書房から出ているこの裁判記録『イェルサレムのアイヒマン―悪の陳腐さについての報告』は、過去3回取り組んだけど結局挫折して最後まで行けていない。寝っころがって簡単に読めるもんではなくて、みんなちゃんと読んだ上で文句言ってないだろ、と未だにおもう。

筑摩から出ている遺稿論集『責任と判断』に入っている『独裁体制のもとでの個人の責任』 - "Personal Responsibility under Dictatorship"ていうレクチャー原稿は、非難騒動を受けてラジオ向けに書かれた割とわかりやすい内容のものなので、読んでみませう。

元原稿はここにある。

http://memory.loc.gov/cgi-bin/ampage?collId=mharendt_pub&fileName=05/051950/051950page.db&recNum=1

映画を見てこれを読むと、いかにアーレントの論旨がいまの日本、2013年に劇的に腐食劣化と退行が進んでしまった日本に、経済効率だの絆だの無邪気で幼稚な旗印のもと国民性だの国益だのを徒に煽って凡庸な悪の道を進んでいる今の日本にはまってしまうか、しみじみわかって嫌になるから。
そして、考え抜くんだ、と。 「つながる」ことも「炎上」させることも何の解決にもならないんだよ。

とにかくもう今の首相がヒトラーに見えてしょうがない、ブッシュJr.の二期目のとき以上に気持ちわるい。

映画のなかで読者からの抗議電話をひっかぶっていたNew Yorker誌の編集長「ビル」は、リリアン・ロスの『「ニューヨーカー」とわたし―編集長を愛した四十年』(もう絶版なの? おもしろいのにー)に出てくる編集長ウィリアム・ショーンのことで、この本の中にも原稿の編集のためにハンナ・アーレントのアパートに通う彼の姿が出てくる。彼女は鬼婆のようにおっかなくて作業を終えて出てきた彼は顔面蒼白でぶるぶる震えていたという。 おっかなかったんだろうなー。

映画で映しだされる夜のマンハッタン全景は東側のからのものだし、彼女が米国に戻ったときにはBrooklyn Bridgeが出るし、窓の向こうに少しだけ見える川はEast Riverぽいので東岸のお話のように見えるのだが、彼女が住んでいたアパートは、370 Riverside Drive - 西の上のほうなの。

ここには(映画にも出てくる)メアリー・マッカーシーやジョナサン・シェルの他にスーザン・ソンタグも通っていたはずで、なんで彼女だけ出てこなかったんだろ。

12.28.2013

[film] The Bling Ring (2013)

21日の土曜日、髪切ってから新宿で見ました。

前作の"Somewhere"で、Sofia Coppolaの映画はもう見なくてもいいや、なかんじになっていたのだが、みんななんとなく話題にしているみたいだし、最近の若者はどんなだろうか… 程度で。

"Marie Antoinette" (2006)に続く実録モノ、 "The Virgin Suicides" (1999)に続く道を外してしまった若者群像モノ、ということでよいのかどうか。

西海岸のごく普通の、それなりにきちんとした家庭で育ったと思われる若者たち5人(だった?)が夜中、お散歩感覚でいろんなセレブのおうちに忍びこんで金銀財宝洋服靴鞄などなどをかっさらってみんなに自慢したり売り捌いたりしたあげくお縄になって裁判になって、けろけろ、ていうの。 それだけなの。

なんで彼らが? でも、彼らの将来は? でも、病めるなにか腐ったなにか切羽詰まったなにか、を引っぱりだしてくるのでもなく、告発も卑下もなく、フラッシュバックされる時々のスナップやニュース映像をはさみつつ、こんなことが ありましたとさ、というふうにぺったりさらっと、いっぽんのPVみたい、動物の挙動をのぞくみたいに描く。 彼らがなにを考えているのか全くわからないし、そんなのわからなくてもよいのだ、という造りになっている。

夜の犯罪の映画なのに、ノワールのかんじはゼロ、女の子が中心にいる窃盗団なのにファムフ・ァタール臭もゼロ。 さいきんのファッション誌の「~っぽく」の薄い誌面をぱらぱらしていくかんじ。
それはそれでてえしたもんじゃねえか、と言いたいひとは言うのかもしれない。

「ほんとうのあたしはこんなもんじゃないんだから」というのが最後のほう、釈放されたひとりの女の子がマイクの前でしれっと言うことで、ほんとうのあたしは、ほんとうのあたしがいる場所は、ほんとうのあたしがいる時代は、というのがSofia Coppolaがえんえん映画を通して言い続けていることのように思えて、でもそれ言ったからってどうなるもんでもないじゃん(だってそういうもんだから)、ていうのと、でもそんなことだれも言ったことないよね(だってそういうもんだから)、というのが投げやりがちに反響して、いつものように金持ちサークルでちやほやされてろおばさん、になってしまうのだった。

これが最後の作品となってしまった撮影のHarris Savidesさんに捧げられている。 秋口に彼の追悼特集がMOMAで組まれていて、こっちのほうは見たかったねえ。

音楽は冒頭のSleigh Bellsの鳴り方が見事だったのと、窃盗現場で流れるCANの"Halleluwah"、くらい。 あとはわかんなかった。 わかんなくていいも。

こういうのをデートで見たカップルって、この後どんな会話をするのかしら。
これもわかんなくていいけど。

[film] 受難 (2013)

20日、金曜日の晩に新宿でみました。 
クリスマスも近いことだし、いろいろ反省しておこうか、とか。 原作の小説は読んでいない。

フランチェス子(岩佐真悠子)はぜんぜんモテなくて、男からは「萎える女」とか言われていて、誕生日に片想いの彼に「セックスしてください」と言ったらあっさり断られてどんより帰宅すると股の間から男の声(だみ声)が聞こえてきて、覗いてみるとあそこのところに醜いおっさんの人面瘡ができていて、それはそれはひどく醜悪で、できているだけならいいが、おっさんは彼女に「このくされ〇〇〇」とかひどい罵詈雑言を浴びせてくる。 ひどいセクハラだとおもうが自分のセックスの中心にあるやつがそれを言ってくる。

もともと大志もやる気もなく自虐ぎみに日々を過ごしているフランチェス子さんはその運命を受け入れ、その喋る人面瘡を「コガさん」と呼び、たまにスカートをめくってきゅうりとかを食べさせたりしてやって、そいつとの共生がはじまり、過去にいろんな女にとりついてきたらしいコガさんはこんなにしょうもないやつは始めてだとか言いつつ、だんだんふたり(じゃないけど)は仲良くなっていく。 かんじとしては、ド根性ガエルみたいなふうなの。

あと、フランチェス子が男に触れると、そいつの男根が焼けただれてしまうこともわかるの。
男から疎まれ、触りにいくと相手を不能にし、あそこには変なのが取り憑いている、三重苦なの。
つまり自分は男とは触れあってはいけないようなやつなのだと。

こうしてフランチェス子はバイトしたり海岸で空き缶拾いしたり、ほんとに地味でなにを楽しみに生きているのかわからなくて、そのうち自分の家の部屋のベッドを知り合いのカップルとかに貸すようなことまで始める。 無償の愛、だけどこれもコガさんにはバカにされる。

設定が唖然とするくらいあほらしいし、コメディなのかもしれないのだが、画面も主人公の演技のトーンもどこまでも静かで真面目で「こんなわたしでもひとの役にたつにはどうすべきなのか」とか「こんなふうになってまでなんでひとに関わろうとするのか」とかそんなことばかり考えて悶々としている。 その逡巡は殆ど宗教家のようで、だいすきな『神の道化師、フランチェスコ』を思い起こさせたりもして、いや、そうなのだよね。 

なにもかもふざけんじゃねえ、になった彼女がすっ裸で夜の街中を駆け抜けるシーンは、それゆえ感動的なのだが、お話しはそれだけでは終わらず、もういっこ別の話しが接ぎ木されてくるからおもしろい。 性ってなんて変なものなのかしら。

男で逆の設定、はこの場合ありえなくて、これは女性のための映画なのだとおもった。

12.24.2013

[music] The Roots

19日の晩、さいてーの天気のなか、渋谷でみました。
この季節が素敵なのは、みんなが忘年会だなんだで早めにオフィスから消えてくれるので、こういうのに抜けやすくなることよね。

Elvis Costello and The Rootsの"Wise Up Ghost"は、最初はなんか違和感あったものの、だんだんにはまっていって、今年の愛聴盤になりつつある。 こないだのCostelloせんせいのライブでも、旧作中心のように思えて実は結構ここからの曲もマメに挟みこまれていて、ちっとも変なふうではなかった。
来日のタイミングとしてそんなにずれていなかったから、ひょっとしたらゲストで来て1曲くらい…と少しだけ期待していたのだが、さすがにそれはなかったねえ。

The Rootsを最初に見たのは、たぶん2002年の1月(もう10年以上前なのか..)、Lincoln CenterのAvery Fisher Hallでそれはそれは圧巻で、次に見たのは2003年の1月のS.O.B.'sで、EryKah BaduのライブのアンコールでQuestloveさんとかが乱入して、このときはちっちゃいライブハウスだったのでQuestloveのでっかい背中とお尻が目の前で律動してて感動した。このライブ、Commonとかも飛び入りしてたし今から思えばすごく贅沢なやつだったかも。

んなので、今回のライブだって悪いわけがない。
ほぼ時間通りに出てきて、1時間40分くらいほぼノンストップでぶっとばして止まらない。
音の豊かさ、バリエーションも自在で、ヒップホップからR&B、ジャズにファンクにレゲエまでジグザグだったりぐるぐるまわったり、音をひきつれているのか掻き回しているのかグルーヴに引っぱられているのか、どちらにしてもわれわれはじゃぶじゃぶ波に洗われて右に左に。

鍋底が抜けたように湧いたり溢れたりでどこまでも止まらない、どこに連れていかれるかわからない愉しい恐ろしさ、これって大昔のPrinceとかGeorge Clintonとかのライブのときに襲ってくるのと同じやつがきて、すごいねえ、としみじみしつつ、いまGeorge Clinton先生(72歳なんだね…)の4時間のセットとか行ったら確実に死ぬよな、とかおもった。

全体の半分くらいは各自のだらだらとめどないソロで、特にドラムスとパーカッションの乱れ打ちの緩急がすごかった。CANのようだった。 ギターのソロはいつもよか静かめかも、と思ったらGuns N' Rosesの"Sweet Child O' Mine"が鳴りだして、やがてZepの移民の歌までがんがんに流していった。(まえのときは、"Smells Like…" とかやってたの)

"Jimmy Fallon"でやっているようなお遊びネタをやってくれないかなあ、と思ったけどそれはなくて、でも終盤で"Jimmy Fallon"のエンディングのテーマをやってこれが鳴りだすと反射的に眠くなってくるなあ(ほんとは次の"Last Call with Carson Daly"のメニュー聞いてから半自動)、と思って、そこから更にもう少し続いたのだった。

Questloveさんが爆発アフロ頭でなくなっていたのがざんねんだったが、Instagramの日本紀行がおもしろすぎたから許そう。 いいなーあんなにいっぱいDisk Unionで。


今年のクリスマスソングはあんまなくて、Cat Powerさんの"Have Yourself a Merry Little Christmas"くらいかなあ、と思っていたらAppleのCM曲なのだった。

動画だったらまちがいなくこれだ。

http://www.latenightwithjimmyfallon.com/video/iron-and-wine-and-calexico-fairytale-of-new-york/n44238/

よいクリスマスをお過ごしください。

12.22.2013

[film] Behind the Candelabra (2013)

15日、日曜日の朝9:30に新宿で見ました。 日曜の朝からこんなの見ていいのかよ、だったのだが、もうこの時間しかやっていなかったし、午後は仕事だったのよ。「恋するリベラーチェ」。

Steven Soderbergh、"Side Effects"で映画つくるの止めたと言っていたのに、これはHBOのTVだから、とでも言い訳するつもりだったのか、とか最初は思ったけど、実際には映画公開するつもりで撮り始めたものの内容が"Too Gay"ていうことでHBOに払い下げられたのだと。 なんだかんだ言ってもぜんぜん、ばりばりの映画なんですけど。

米国に実在したピアノエンターテイナー、リベラーチ(映画ではそう言ってるような)の生涯を彼に拾われ、愛されて捨てられたスコットの目線で描く。題名の"Behind the Candelabra"はその暴露本のタイトルでもある(正式には"Behind the Candelabra: My Life With Liberace")。

リベラーチがMichael Douglas、スコットがMatt Damon。 田舎でドッグトレーナーをしていたスコットがゲイの友人に誘われるままにリベラーチのライブを見てぽーっとなり、彼に紹介されてその宮殿のような家で暮らすことになり、夢のような蜜月のあとにやってくる猜疑、倦怠と修羅場、そして放擲と別れと。

アメリカの田舎の子が都会の大人の世界を知って痺れてあがいてそこを出てなにかを学ぶ、そういうラインと、彼の目からみた底知れぬエンターテイメントの、エンターテイナーの光と闇、というラインとがあって、ここにはあまり新しいものはなくて、ちょうど"Magic Mike"と同じような構造だとおもうのだが、中心のふたりがゲイで、その間には絶対的な上下関係があって、まだ世間は今ほどゲイに寛容ではなかった、というあたりが違っていて、ちょっとイビツなかんじはする。
けど、ふつーに泣ける(よね?)恋愛ドラマではないかと。 延々続く痴話喧嘩とか最後の最後に訪れる赦しとか。

そうはいっても、これはなんといっても俳優の映画で、老いて怪物のようにでろでろ変貌していくMichael Douglasと10代から20代までのスコットを「それがなにか?」という厚顔無頓着な、なんともいえない西海岸的軟度で演じきってしまったMatt Damonがすごすぎる。
Michael Douglasを後ろから攻めたてるMatt Damonの図、なんてそんなもの、見たい見たくない以前のところで、ありえるとは思えなかったわ。

かんじとしては"Boogie Nights" (1997)あたりとも近いかも。
どうしようもなく猥雑でろくでなしで自分のことばっかりで、でもなんか憎めなくて切ない衣を纏ったでぶの男たちのお話し。

[art] Josef Koudelka Retrospective - 他

13日の金曜午後、竹橋 ~ 日本橋でみたやつあれこれ。

ジョセフ・クーデルカ展
Josef Koudelka Retrospective

2011年に東京都写真美術館であった「プラハ1968」に続いて、こんどはクーデルカの全キャリアを俯瞰した展覧会。
初期の実験作から始まって「ジプシーズ」、「劇場」、「エグザイルズ」といった連作を見ることができる。「プラハ~」は「侵攻」というテーマのなかに並んでいる。
「ジプシーズ」も「劇場」も映画のスチールのように劇的でシャープでかっこよい。 その一枚のなかにドラマ的な要素を込めてつくって、というよりそういう要素が垂れ流しでぼうぼうに放射され出ている対象の前にカメラを曝す、その手癖とか流しかたが野晒しで素敵なんだとおもった。 クラインほど野暮ったくない、というか。 その傾向は「エグザイルズ」のシリーズではより顕著に奇跡を呼ぶようになって、作品のタイトルはただの地名で、道端に亀が転がっているだけの写真なのに、歩いていた亀のひっくり返る瞬間がざらざらしたストップモーションで脳内に映写されるかのようなの。 小さめのサイズ、ていうのもあるのかもしれなくて、近年の「パノラマ」のシリーズの、パノラマのでかでかしたパースペクティブになるとなんかぼやけてしまう気が、した。

カイユボット展ー都市の印象派
"Gustave Caillebotte  - Impressionist in Modern Paris"

ブリジストン美術館でカイユボット(1848-1894)の日本で初めての包括的な紹介。

水平線の位置がほんのちょっと高めで揺れたり傾いたりしていて、それだけでなんか映画っぽく、タイトルのように「都市の印象派」ぽくなってしまうのだねえ、と思った。
でぶのおじさんがごろんと横たわっている、これも映画のワンカットのように見える絵の、そいつが「マグロワール親父」っていうのって、絶妙だとおもった。 絵とは関係ないけど。
あと、「ペリソワール」における水の描きかた、粘度、というか。

それと、弟マルシャル・カイユボットの写真、ルノワールの絵それぞれのモデルとなった「ジャンとジュヌヴィエーヴ」。裕福なおうちのぼんぼんとおじょうの、なんともいえない毛並みのよさ。


政岡憲三アニメーション選集

ブリジストン美術館から100% Chocolate Cafeを経由してフィルムセンターに行ってみました。

このひとの「くもとちゅうりっぷ」 (1943)も見ていないのだが、お勉強ということで。
見たのは以下の短編4本。

「難船ス物語 第壱篇 猿ヶ嶋」 (1931) - 24分
「桜(春の幻想)」 (1946) - 8分
「すて猫トラちゃん」 (1947)  - 21分
「トラちゃんのカンカン虫」 (1950)  -10分

線が細くて端正なところは昔のひさうちみちおとかを思いだした。
なんといっても「すて猫トラちゃん」の顔の中心に全部が寄り集まった、かわいいんだかかわいくないんだかよくわからないなんともいえない丸っこいたくましさがたまらず、これがそこから少し成長した「トラちゃんのカンカン虫」になるとぜんぜんかわいくなくなっていて残酷だなあとおもった。

かわいそうといえば、ネズミさん、ミシンまで回させられてほとんど奴隷。

12.17.2013

[film] Liv & Ingmar (2012)

14日、土曜日の昼間に渋谷で見ました。土日それぞれ1本くらいしか見れなくなっちゃったのはなんで?

10月のThe New Yorker Festivalで見たNoah BaumbachとGreta Gerwigのトークでは、ふたりが訪れたベルイマンの島のことをハネムーンの思い出のようにきゃあきゃあ楽しそうに語っていて、こいつらこのふたりみたいになりたいのかしら、と思ったものだったが、それを検証するのに丁度よさそうなドキュメンタリーがリリースされた。『リヴ&イングマール ある愛の風景』。 そうかこれが彼らが語っていた島か、と。

ベルイマンの映画で監督と女優として出会ったとき、彼女は25、彼は46で、ふたりにはそれぞれ家族がいたのに燃えあがる愛を止めることはできなくて、でもあまりに激しすぎてやばくなったので離れて、でもふたりの友情 - 監督と女優という関係もは彼が亡くなるまで42年間続いたんだって。

ふたりの関係の変遷は時系列で"Love" - "Loneliness" - "Rage" - "Pain" - "Longing" - "Friendship"といった章立てで表されて、ところどころでそのときどきの彼らのありようを象徴的に示すクリップがベルイマンの映画からの抜粋(当然リヴ・ウルマンが出ているやつ)で流される。 ベルイマン本人のメモや手紙にあった言葉は、本人ではない声優の声で聞こえてくる。
そこにあるのは彼女のベルイマンに対する熱くて厚い愛でありリスペクトであり、或いはふたりの関係、過ごした時間に対する感謝でもある。
でも、それがものすごくよくわかって見えてしまうが故に、こわい、かも。

そんなふたりの「ある愛の風景」を(再)構成したのはリヴ・ウルマンで、もちろんそれをできるのは当事者である彼女だけなのだから文句ねえだろ、なのだが、ベルイマンはお墓のなかでなにも言わないし言えない。 でも自分の作った映画が自身の過去(の恋愛じたばた修羅場)をサンプル投影するようなかたちで使われる、て聞いたらあたまきて墓から出てきたりしないだろうか。 そういえば亡霊がでてくる映画もあったな、とかあまりに失礼すぎ。

それくらいに彼女の彼に対する思いは強く揺るがないのだ、ということもできるし、彼の映画はそんな紙一重の向こう側で燃え広がる情念を追い続けてどこまでも深く広いものなのだからこのくらいの利用は許容範囲なの、ということもできるだろう、けどなー。なんかなー。

ぜんぜんどろどろじゃない、狂気の愛とかじゃない、彼女が最後にさらりと「これは復讐なの」と一言でも言ってくれたらかっこいいー て痺れたかもしれない、しかし実際には輝かしいキャリアとその遺産のなかでやさしく微笑んでいるおばあさんがいるだけなの。

メモや手紙は燃やしとくべきだねえ、と思ったが電子メールだと残るからやばい - でもだーれもリヴ&イングマールにはなれないからね。

これ、ベルイマンの特集と合わせてちょうど今Lincoln CenterのFilm Societyでも公開している。
でも同じとこでやってる、George Cukorのレトロスペクティブ - "The Discreet Charm of George Cukor" のほうだよねえ。
それにそれにFilm ForumのほうではBarbara Stanwyckのレトロスペクティブ - "STANWYCK"までやってるの。 あーあ。

12.15.2013

[film] Walden - Diaries Notes and Sketches (1969)

part1を2日の月曜日に見て、part2を見てから纏めて書こうと思っていたのに結局part2を見る時間はつくれなかった。 ちくしょうめ、こうなりそうな気がしていたんだよ。
まとめて上映したって3時間なんだから分けなくたっていいのにさー。

正式タイトルは"Diaries Notes and Sketches"のほうで、メカスが今も続けている日記映画のスタイル、そのおおもとが現れた作品、でもある。

ナチスから逃れてヨーロッパを彷徨い祖国を失い、米国に流れて、New Yorkに身を置いた彼、身寄りのない彼が訪れた場所、家族、そこにいた人達、集まってきた人達、などなどをカメラで記録し、繋ぎあわせていく。 それだけ。
たんなる日々の記録 - 日記の代替、ではない。 邦訳の出ている『メカスの難民日記』(おもしろいようー)とか『メカスの映画日記』(古典)とか、文章のかたちで残された日記も彼には沢山あることからも、これは映画の形式で日記を綴った、というより日記の形式を取ろうとした映画、映像の実践の記録なのだとおもう。 映画のなかに切りとられそこに流しこまれる世界、そこにおいて日々のノートやスケッチはどんなかたちを取って現れうるのか? それは例えばこんなふうな。

画面も光も絶えずせわしなく揺れ、呼吸しているかのように動きを止めない、その理由を映画は1秒間24コマの速度で記録をつづけるものだからだ、という(昨年邦訳の出た『ジョナス・メカス―ノート、対話、映画』より)。 映画は1秒に24の映像を積みあげることができる音楽のような濃度と豊かさをもったメディウムで、カメラは常に光の向かうところ、ひとの声のするところに向かい、我々はそれを見ているだけでその世界のなかに入っていくことができる。 世界のなかに入っていくこと、これが難民/移民だったメカスにとって切実かつ必要なことで、そのきりきりとした思いと対象に向かうアプローチは約半世紀前のNYを描いた今作でも、その後の"Lost, Lost, Lost" (1976)でも、最近の『メカス×ゲリン 往復書簡』(2011) でも変わらない。
生き残るための作法としての、今を生きるための映画 → Walden。

という側面のほかに、きれいな女性の前ではカメラの揺れが止まりやがるし、Tony Conrad(まだぴちぴち)とかCarl Theodor DreyerとかStan Brakhageとか伝説みたいな人たちがごくふつーに出てくるし、Velvetsのライブシーンだってある(Lou Reedだっている)。 なんかとてもふわふわ軽く流れていくのに実はすごいひとがうじゃうじゃいたりする。 それはNew Yorkだからだよ、かもしれないが。

あとは音がすばらし。冒頭から鳴り続ける地下鉄の音。これってなんでNYの地下鉄ってすぐわかるんだろう、って不思議でならない。

次はなんとしても"Lost, Lost, Lost"を。 これがメカスの映画を見た最初で、四谷にあったイメージフォーラムに入った最初だったんだよなー。 全て失われてしまったねえ。

あとは初期のショートも見たい。昔のWilliamsburgの移民コミュニティを記録したのがあって、なんだかじーんとするの。

12.14.2013

[music] Elvis Costello & The Imposters - Dec. 13

だれのせいだとは言わない、だれのせいでもないことはわかっているけどあまりにあまりのひどすぎる日々が続いてリミットを超えた。なにもかも嫌になって金曜日の午後やすんだ。
クーデルカみて、カイユボットみて、100% ChocolateCafeでチョココロネ食べて、NFCで政岡憲三みて、晩がこれ。

六本木の新しいシアターだそうだが、日本のそういうハコには一切キタイしないことにしているので、べつにふーん、だった。 入り口とか、ちょっと品なさすぎで恥ずかしいったら。

Costelloせんせいのライブは、2010年6月、London South BankのMeltdown (キュレーションはRichard Thompson ! アンコールでは共演)以来、その前だと2009年6月、NYのBeaconでのElvis Costello & The Sugarcanes、そのまえは…  80年代からだといったい何回見ているんだろ。

今回はほんとにくたくたなので助けてもらおう、とかルーレットとかあって楽しそうだし忘年会くらいにはなるかな、程度で。

ステージむかって右手に250フィートある(ほんとだよ)特大ルーレットがあって、左手にじゃらじゃらの下がったお立ち台があってダンサーのおねえさんが踊ってくれる。

バンドで出てきて突き出し、というかんじの5曲、テレキャスターが気持ちよく鳴る。2曲目に"Heart Of The City"なんかやってくれて、ふええーだった。

そのあとでMCであるNapoleon Dynamite(映画の彼とは別だからね、ねんのため)が登場し、客席から選ばれたひとがステージにあがって250フィートのルーレットをまわして演奏する曲を決める。
当たったのは、"So Like Candy"... びみょうなとこだねえ。 その曲に続けて即興でも1〜2曲やってくれる。 全曲ルーレットしてたらライブ止まっちゃうもんね。

2回めの回しで"Tokyo Storm Warning"がでて、やった! と思ったのに気にくわなかったのかもう1回まわし、そこで出た"Girl"で曲名の"Girl"が付いく3曲 - "This Year's Girl" - "Party Girl" - "Girls Talk" - ギターはジャズマスターが炸裂してるし、鼻血もんだった。 "Girls Talk"を聴けるなんて。 そこから続けて"Tokyo Storm Warning"もやってくれた。(わーい)

3回目は"She"で、こんなのルーレットに入れとくなよ、と思って憮然としてたら、いちおうこれ、Charles Aznavourの曲だからね、てせんせいは言い訳ぽく言って、フロアに降りてきて練り歩きながら朗々と歌う。(帽子のてっぺんしか見えなかった)。

4回目で"I Want You", そこから"(I Don't Want to Go to) Chelsea" - "Walk Us Uptown" - "Pump It Up"の鉄壁を流してひっこむ。 ここまででだいたい1時間半。

アンコール1回目と呼ぶべきか第2部と呼ぶべきか、まずSteve Nieveのグランドピアノで3曲 - "Shot With His Own Gun"のとんでもないこと。
そのあとはバンドで"Oliver's Army"からはじまる7曲。がんがん。
"Shipbuilding"をやり、"Bedlam"からThe Rootsとの最新作から"Tripwire"、その終りに祈るような語りかけるような"(What's So Funny 'Bout) Peace, Love And Understanding?"を繋いでみせる。
パーティのおちゃらけモードからは全く異次元のシリアスな暗さ、しかし圧倒的な強さがあって、この辺も(この辺こそが)まぎれもなくCostelloせんせいなのだった。
ライブのテンションはこの辺あたりがピークだったかも。

アンコール2回目はふたたびルーレットから始まって、"Everyday I Write the Book" (わーい)、さらに、ルーレットからぜんぜんやってくんない、という不満の声をなだめるかのように"Alison"からはじまって6曲ほど。"High Fidelity"を聴けたのがうれしくて、ラストは通常モードの"... Peace, Love And Understanding?" でぶっとばしておわり。 3時間みっちり。

いやはや。 客に皿まわしさせて遊ばせているようで、実のところ好き放題されてきりきり舞わされているのはわれわれだったという - まあね、はじめからそんなことだろうとは思っていたけどね、またしてもやられたかんじ。

あとは、Pete ThomasもSteve Nieveも、やっぱしとんでもねえなあ、だった。

12.11.2013

[film] 盲探 (2013)

8日、日曜日の昼間、六本木で見ました。  ジョニー・トーの新しいのをこんなところでしれっとやっていた。『名探偵ゴッド・アイ』

ジョンストン(アンディ・ラウ)が盲目の探偵で、元警察で、警察だったときの同僚刑事シトの部下の女刑事ホーがアシスタントでついて、ふたりしていろんな事件を追っかけることになる。 ジョンストンは頭脳明晰で、ホーは運動神経ばつぐんで、ホーはジョンストンに自分の子供の頃の親友で、突然失踪してしまった少女の捜索を依頼する。
ジョンストンは目が見えないぶん被害者の目とか立場とか状況を想像して、頭のなかでシミュレーションして推理するの。 あんたそんなの推理じゃねえよ思いこみだろ、て突っ込めないこともないのだが、実績ベースで彼は名探偵と呼ばれていて、ホーはそんな彼に憧れてぽーってなっている。

たまに座頭市みたいになるジョンストンの動き、芝居っけたっぷりのアクションとかふたりのじたばたしたコメディぽいやりとりは、あまりにちゃらちゃら適当そうでだいじょうぶかなあ、だったりするのだが、犯人とかターゲットの正体がべろんと剥がされる瞬間にぞわぞわと空気が変わり、でも目が見えない渦中の探偵にはそれが見えなかったり、という痛くて痒いかんじが伝わってくるあたりはやっぱりジョニー・トーの世界なの。

そして、中盤でジョンストンが4年間想い続けていたダンス教室の女性が同僚のシトに取られていた、という事実により失恋し、その芋づるでホーも失恋し、物語の中心が「失恋」という心身喪失状態にシフトしてくると、失踪事件の核心に横たわる闇がずるずる画面を覆いだして異様としか言いようのない世界になってしまう。
奇天烈なふくらまし方ころがし方でいうと、おなじ監督 - 脚本家による『MAD探偵 7人の容疑者』のかんじに近いけど、とっちらかったかんじ(よくもわるくも)はこっちのが上かも。
ひょっとして変な探偵シリーズで続いていくの?

テニスのスコートはいた裸人と、髑髏と銃撃のところなんか、ほんとめちゃくちゃだとおもう。
そしてラストのほのぼのは、あんなんでいいのか。 ほんとなら血まみれ呪われた子供、になるべきでしょあれ。

サイコサスペンス刑事コメディ、これを器用だねえ、というか、ごった煮だねえ、というか、わかんない。 でも変てこでおもしろいことは確かかも。
でも「毒戦」のからからに救いようのない沙漠感のほうがいいなあ。

食べもの関係は久々にてんこ盛りで、食べてばっかり。MAD探偵もそうだったかも、だけど。


映画のあとで代官山に行って久々に蔦屋をまわった。
やっぱしあそこの本の並びはぜんぜんだめだわ。性にあわない。

12.09.2013

[film] The Sessions (2012)

7日の土曜日の夕方、新宿で見ました。

昨年からずううっと見たかったのがようやく。
しかしこれをR18にするかね。まあね、秘密保護法なんかできるずっと前からこういうのの検閲とかぼかしとか、ひみつで理不尽で恥をしれ、の世界だったからね。 くそったれ。

6歳の頃にかかったポリオでほぼ全身の自由がきかず(感覚はある)ずっと横になったきり、夜の間は金属の呼吸器(Iron Lung)のなかで過ごしている38歳のマーク (John Hawkes)がセックスを経験してみたい、と神父(William H. Macy)に相談して、セラピスト経由でsex surrogateのシェリル (Helen Hunt)を紹介してもらい、6回のセッションを通して性を知っていく過程を彼自身で記事にして、とそういう実話がベースなの。

こんなことを求めるのを神様はお許しになるのか、なんとなくいけないことのような気がするし、相手は嫌がるだろうし軽蔑するかもしれないし、失敗したら - よくなかったらどうする、相手を不快にさせたら、嫌われたらどうしよう - などなど、これらって気楽に求めよう/求めたいという快楽の反対側で、ちょっとでも躓いたら深淵に落ちて、自分にも相手にも二度と立ちあがれないようなダメージを与えてしまうかもしれない、そんな畏怖や恐怖を誰にも相談できないまま、本を読んだりして悶々としている。 これって、30年以上寝たきり童貞のマークだけのものではなくて、だれだってそうなんだよね、最初は。 

映画はマークとシェリルが6回のセッション(実際には4回) - お仕事上の関係を通してそこに横たわるほんとうの「障害」はなんなのか、をほぐしていくような描きかたをしている - このへんを冗談にも露悪にも自虐にもせずにたんたんと真面目に向きあっているところがよいの。

詩人であるマークはもちろん、自身の家庭内ですこし陰りがあるシェリルの落ち着きも、4回目のセッションのあとで彼女との関係をさらりと解くところもよくて、他にシェリルの前にヘルパーだったアマンダとか、シェリルのあとで出会うスーザンとか、ヘルパーのヴェラとか、彼を囲んで登場する女性がみんな素敵で、マークの思いをそれぞれに受けとめようとした女性たちの映画として見ることもできる。

例えば、「さよならを待つふたりのために」がぜんぜん難病モノではなかったのとおなじように、この作品も障害者モノなんかではなく、愛と性が、言葉が、ふたつの、ふたりの体の間で響き合うさまをそうっと掬いあげる。 その眼差しの思慮深さ、注意深さこそみんなが見て心に刻むべきもので、だーかーらーR18なんかありえないんだって。

もうちょっとユーモアがあってもよかったかも、だけどそういうのは"The 40 Year Old Virgin"あたりに任せておけばいいの。 William H. Macyはほのぼのとおかしかったけど。

12.08.2013

[film] The Saragossa Manuscript (1965)

ああもう書くじかんも見る時間も読む時間もぜんぶ - 。

1日の日曜日の昼間に見ました。 「サラゴサの写本」 - "Rekopis znaleziony w Saragossie".
昨年のポーランド映画祭で逃してほんとうにくやしかったやつで、今回はぜったい、で、ほんとは11時のアニメーションの回から詰めるべきだったのだが、前日のHostess Club Weekenderではしゃぎすぎたのでぜんぜん起きれなかったの。

ナポレオン戦争の頃の戦場でフランス兵とスペイン兵が納屋のようなとこで鉢合わせして、そこにあった古書を見ていたスペイン兵が、これはぼくの先祖の話だ! て言って、そこからその先祖 - アルフォンソが主人公である昔昔の話になる。 アルフォンソが山を越えてマドリードに向かおうとするのだが、そこには極悪な山賊兄弟とか謎の美人姉妹とかがいて、すんなり前に進めない。 召使が消えてしまったり、旅籠にたどり着いて姉妹に振るまわれた酒を呑んで気がついたら、とか、途中から割りこんできた隠者の話の世界に入りこんだり、世界が幾重にも入れ子になっていて、夢なのか現実なのか、時間軸もどうなっているのかわかんなくて(3層か4層くらいある気がするが、ひょっとしたらぜんぶフラットかもしれない)、登場するひとたちの顔も見たような見ないようなで、でも話ぜんたいがめちゃくちゃかというとそうでもなくて、それは夢というのがそんなにめちゃくちゃではなく、夢のなかでは「わかる」のと同じ程度にはわかって、映画としてひとつの物語、ひとつが起点となったいくつかの物語を描いていることはわかるの。 夢を見ている時間とすれば、182分はぜんぜん長くない。

最初は「聖アントワーヌの誘惑」みたいな話かなあ、と思っていたのだが魑魅魍魎も宗教もあんま関係なくて、マッチョな権力とか見栄とか、女女女とかでひたすら突っ走る、そんなかんじの。

やがてそこで経験している山賊兄弟とか姉妹とかがみんな本のなかに描かれていることがわかり、更にそれは写本である以上、常に新たに書き加える、書き加えつつ読むようなことも可能であることがわかると、この果てしない物語の全貌がいつまでも超えられない山の向こうに見えてきてくらくらする。

それはめんどくさくてやたら長い、けどおもしろくて止まらなくなる本をきちきちと読み進めていく快感とおなじ心地よさをもたらしてくれて、アルフォンソも隠者も狂ったひとも寝取られ貴族も童貞小僧もみんなずーっと本だか映画だかのなかで彷徨い続けている、恋をしたり決闘をしたり追っかけたり追っかけられたりを繰り返しているのが見える。

こんなふうに映画も本も世界をまるごと包みこんでしれっと存在し続けるんだねえ、ほんとうだろうが法螺だろうが、という大風呂敷感がたまんないのだった。

この作品に魅了されたというブニュエルの法螺映画と比べるととてもかっちり、スタイリッシュなかんじはして、特に次のエピソードにジャンプする瞬間、そこから戻ってくる瞬間のつなぎは素敵だとおもった。

昔、国書刊行会から出ていたJ.ポトツキによる原作(邦訳は全訳ではないらしいが)も読みたいねえ。

12.04.2013

[music] Neutral Milk Hotel

30日の午後、Hostess Club Weekenderで恵比寿に行った。
午前は、Record Store DayのBlack Fridayでぜんぜん期待せずに新宿に行った。
まったく期待はしていなくても買わなければいけないのはあって、散財したら重くてどうしようになってしまったが、ライブは行かねばならないのだった。

着いたのは3:30くらいでDeloreanの終りのほう。
でろーりあん。 かわいいかんじ。

初日のSebadoh - Okkervile River - Neutral Mild Hotelていう並びはほんと素敵で、チケットもすぐ買ったのだが、メルボルンにいたとき、ホテルの近所のホール(The Forum)で11/15,16の2日間、Neutral Milk Hotel - Superchunk - M.Ward ていうのが出ていて、この並びでもよかったなあ、とか。

前回Sebadohを見たのは2011年の11月のWilliamsburgだった。
そのときは23時に始まってだらだらだらだら1時半過ぎまで、でも音はじゅうぶんやかましく押しまくり吹きまくりでびっくりで、今回のもおなじモードだったかも。
1時間の制約がなければ、喋りも入れて3時間くらいはやりそうな勢いだった。
彼らに90年代の、くされた壊れもの - Lo-Fi - のイメージを期待しておくのは、もうとっくに誤りなの。

Okkervil Riverを初めて見たのは、2010年5月、Webster HallでRoky Ericksonのバックバンドとしてだった。
目線が終始どこかを彷徨っている樽のような御大の横にぴったりと寄り添い、尽くしている姿、それをどっしりと支える実直な音の硬さが印象的だった。  バンド単体の音はどうか。

Sebadohなんかとは別の意味で地面を這いつくばって揺らすマイナーな音、地下の音。 Roky Ericksonの昔から鳴りつづけているアメリカの音が炸裂する。
それは炸裂、としかいいようのない痛快なものでだれもが一緒にバウンドしたくなる分厚い音の奔流、そんな出だしの痛快なこと気持ちよいこと。
どかどか力強いドラムスはCursiveのCully Symingtonさん。ベースもギターも鍵盤も、そこを軸に吹き荒れるというよりはぶあつい壁とかぶっとい幹とかをつくる。

長髪髭面メガネ、というとっても60s - 70s学園紛争ぽいヴォーカルWill Sheffの扮装を含めて、どこからこんな音が、なのだが有無を言わせぬ強さに溢れている。
特に終盤、Willのソロのエモまるだしの絶唱から時間がないからって大急ぎでどんぶり飯をかっこむ勢いで突っ走った数曲のなりふり構わず感はすばらしいものがあった。  Roky Ericksonのときにはこんなに狂うひとだとは思わなかった。
REMがなくなっても、Sonic Youthがなくなっても、Okkavile RiverとWilcoがいればこの辺の音はだいじょうぶかも、とおもった。

最初のSebadohは後ろのほうで見てて、次のOkkervile Riverは真ん中より少し前のほうに出て、NMHのときには向かって右の前の前くらいまで行った。
休憩時間、普通は座ると思ったのに外国の方々はみんなまじめに立って待っていた。 そういうもんよね。めったに見れない珍獣だもんね。

Jeff Mungumのソロを見たのは、2012年の1月のBAMの3daysのまんなかだった。 ATPのキュレーターとして「復活」はしていたものの、まだまだ伝説扱いだったから、このときもそれなりの騒ぎにはなって、その理由がようくわかる規格外のライブだった。

幕が開いたらちょうど右側にいたJeff Mungumさんだったのでうれしかった … けど、なんといういでたち、なんというバンドだろう。
Jeffはだんだらのセーターみたいのに髭ぼうぼう(Jim O'RourkeかPaddy McAloonか)、反対側の奥にはホルンとかチューバの、それ自体が管楽器としかいいようのない太鼓腹の、サンタクロースのふたり、ドラムスはとっても胡散臭く、まんなかのJulian Kosterだけ青い毛糸帽でにこにこきょろきょろ楽しそうだが、バンド全体に漂う怪しいオーラがたまんなくおかしい。

ライブの構成は"In the Aeroplane Over the Sea"を1曲目から追うかんじで、寄りみちをしたりしながら、最後もそのおわりに寄りそう。

Jeffのソロのライブとは当然のように、ぜんぜんちがった。 あのときはサイドにJulianもいたしNMHの曲も同じようにやっていたのだが、こんどのはもろNMHとしか言いようがないものだった。
ヴォーカルはリミッターかけているのでは、と思うくらいバンドの音のエッジに沿ってとんがって伸び、そうはいっても最初のうちはほんとにがたがたで、公民館でやってる市民バンドか、みたいなかんじなのだが、だんだんに驚異、としかいいようのない魔法のカーテンかじゅうたんか、みたいのがおりてくる。 それは街頭のチャルメラの音色が撚り合わさって宇宙の調べに繋がっていくような、音響的になにかすごいことをやっているとはぜんぜん思えないのに、そんなふうに聞こえる。
あの音楽ノコのぽわわわぴにょーん、とかいう音にやられてしまうのか。

で、そういうアンサンブルの魔法のほかに、やはりJeffの声、それはそれでとてつもなく、そういう意味でのピークは終盤の"Oh Comely"あたりだったかも。
それと、最後の最後に音楽ノコと一緒に宙にふんわりと浮かんだ"Engine"と。
じゃらじゃらと鳴りつづける砂のギターの上に雨のように降ってくる、鐘のように割ってはいってくるJeffの声。 その声とギターのつくるダンゴが、バンドが吹き鳴らす音とおなじでっかさなのがすごいの。

で、最後はDee Dee Dee … でおわるの。

たまに演奏に入っていたあの女性はJuana Molinaさんだよね?