美術関係で書いていなかったのをふたつ(とりあえず)。
Queer British Art 1861–1967
4月9日の日曜日の午前、Tate Britainで見ました。
イングランドおよびウェールズでの所謂ソドミー法 - 特定の性行為を犯罪とする法律 - が1967年に部分的に合法化されてから50年を記念して、1861–1967までのLGBTQ関連の(非合法)アートを集めた企画展。 3月頭に参加したNational Trustによるツアー”Queer city: London club culture 1918 - 1967”も同様の主旨によるもの。 そこでも言われていたが、ほんの50年前までホモセクシュアルは犯罪だったんですよ(信じられないよね)、って。
全体としてセンセーショナルだったりショッキングだったり、なにかを煽ったり暴いたりするような内容ではなくて、LBGTQが御法度だった100年の間に、それでも描いたり書き留めたり仲間に伝えたりせざるを得なかった静かな熱や揺れ、愛の在処は確かに感じられる。これら(を描くこと)が法に触れてしょっぴかれてしまうような何かだったなんてとても信じられない。今となっては。「今となっては」というのは今だから言えることなんだよ。
絵画以外には彫刻とか写真とかアクセサリーとか、Oscar Wildeが収監されていた監獄の扉とか、Noël Cowardのピンクのシルクのガウンとか、Joe Ortonによるブックカバー(Christieの「チムニーズ館の秘密」の猫表紙)とか。
ブルームズベリー・グループで部屋がひとつぶんあって、こないだのVanessa Bellの展示にもあったDuncan Grantの見事な男性たちの絵画、この企画展のメインビジュアルであるGluck (Hannah Gluckstein) の”Self-Portrait” (1942)もここに置いてある。 これ、大きい絵ではないけど、畏れ、不安、怒り、誇り、このポートレイトが浮かべる表情と眼差しはものすごくいろんなことを語っていて目を離すことができない。
他には、Laura Knight, Dora Carrington, Dorothy Johnstoneといった女性画家の素晴らしさも。
ずっと見ていって、そういえばあの人たちがいないよね、と思ったらDavid HockneyとFrancis Baconのふたりは別格でとってあった。 (Hockneyはすぐ上の階で回顧展をやっているので少しだけだったけど)
最後にキャプションをつけてみよう、のコーナーがあって、白紙のメモとペンが置いてある。いくつかの作品(のコピー)に自分の感想とか、自由にキャプションを書いて貼っておけるの。 じーんとする内容だったわ。
10月1日までやっています。この夏、英国に来ることがあったらぜひ。
Howard Hodgkin: Absent Friends
4月2日の日曜日の昼、National Portrait Galleryで見ました。
この展示が始まる直前の3月9日、突然亡くなって世界をびっくりさせたHoward Hodgkinのポートレートを中心とした展示(ポートレートのみの展示は初めてだって)。
展示のタイトルにもなっている“Absent Friends” (2000-2001)という作品があって、これがこの企画全体のトーンを決めている。窓を思わせる四角い枠のなかに滲んだ横の縞縞、だけなのだけど。
不在の友だち。 友だちは常に、いっつもそこにいるわけではない、という時間のことを言っているのか、友だちがいるべき場所(世界のいろんな場所)はいつも空いている、という空間のことを言っているのか、自分の頭のなかで友だちはそうなっている、と意識や記憶の状態のことを言っているのか、おそらくそのぜんぶ。「不在」という言葉や顔・貌のありようが頭のなかで反芻されて反復されて「友だち」への想いに反響していくさまや経過が画布の表面を埋めていくようで、しかしそこには寂しさも哀しみもひとりであることの決意のようなものもなく、淡々とその状態を日常の定点からスケッチしている。 そこに抽象画の不可解さや重ねられた意味の重さからくるとっつきにくさはなくて、とても親密な - そこに友だちが座っているかのような - 暖かさとエモーションがあって、不思議だった。 抽象画に相対しているかんじがなくて、まるで彼のリビングを訪れている「不在の友だち」を紹介されているかのような。それはまぎれもないひとりひとりのポートレートとして記憶を彩って後になって揺り動かしてくるのだろうな、って。
記憶のなかの友だちはいつもやさしくて、なんかかわいい - それが彼の絵の。
そして遺作となった”Portrait of the Artist Listening to Music” (2011-16)。
この作品のArtist(彼)が最後まで繰り返し聴いていた音楽はJerome Kernの”The Last Time I Saw Paris”とAnton Karasによる”The Third Man” (1949)のサントラなんだって。
この遺作の説明を含むこの展示内容全体を簡潔に説明している解説映像。
http://www.npg.org.uk/whatson/howard-hodgkin-absent-friends/explore/film
あああ4月がいってしまうよう。
4.30.2017
[film] The Fate of the Furious (2017)
17日、連休の最終日の月曜日の夕方、BFIのIMAXで見ました。
タイトル、みんな”Fast & Furious 8”って言ってるんだからそれでいいじゃんなー。
冒頭、Dom (Vin Diesel)とLetty (Michelle Rodriguez) はハバナでハネムーンをしてて(今頃かよ、ってみんなつっこむ)、そこで地元の親分とチキチキマシン猛レースみたいないつものめちゃくちゃをやって楽しんでいると、物陰からCipher (Charlize Theron) が現れて、あなた一緒に来て仕事をするのよ、とある映像を見せて誘うとDomは素直に従って、やがて伝説のハッカーである彼女が世界中で爆弾を盗んでテロを計画していることがわかって、Kurt Russell - Hobbs (Dwayne Johnson)以下いつものチームが招集されるのだが、そこにDomはいなくて、追っかけっこを始めてみれば彼は敵のほうの突撃部隊のまんなかにいることがわかって、かつての仲間がいくら呼びかけたり説得したりしても聞きやしないの。
Chipherの一派は追尾できない飛行機で移動していて、Domはどこにいるかもわからないし、彼がなにかを握られて監視されてどうすることもできない状態であることはわかって、そういうなかでDomとどうやってコンタクトをとるのか、どうやって彼がそうなっちゃったのかを探るのか、とか。
このシリーズに関しては派手などんぱちがあって車とか街が派手にぶっとんだりぶっこわれたりするのを見れればそれでよくて、それらがいかに普段なんも考えていそうにない車バカ & 筋肉バカ & ハゲ共のパワーとかブラザーフッド、みたいのの間でぶちかまされるのか、が肝心で、その点ではNYの街中での車シャワーとかはいかにもバカだし、クライマックスの氷上の原潜との対決はスケール的にじゅうぶんなのだけど、頭脳だけでなんでも冷酷にやってのし上がってきた白人Cipherみたいのが敵になっちゃうと、これってどちらかというと007向けのネタだよね、とか思ってしまう。そういうネタ的な段差をあえて楽しむ、ていうのもありだとは思うし、Cipherは過去にはFuriosaという名で肉の修羅場を生き延びてきたツワモノだったのだ、とか想像することもできるかもしれないのだが、最後はやっぱり敵のでっかくて強いのとガチの殴り合いとか肉弾をしてほしいじゃん、て思うのはこっちの勝手だろうか。
それでも最後の最後には「ファミリー」の絆、がいろんなかたちで試されたり現れることになって、とにかくHelen Mirrenはやはり頂点のてっぺんにいたのだ、と。 それだけでよかったっんじゃねえの。
Jason Stathamの赤ん坊担いで殺しまくり拳、はおもしろかったし、Michelle Rodriguezさんの暗いこんちくしょうな眼差しをたっぷり見れたので、よいか。(でもやっぱり最後、Domを思いっきりぶんなぐってほしかったなー)
あと、“Mr. Nobody”がKurt Russellで、その部下のLittle NobodyがClintの息子、ってなんか。
すでにどっかの雑誌で言われていたけど、自動運転カーをリモートでハッキングしてあんなふうにしちゃうのは、まだぜんぜん夢のはなしなので、そこだけなー。 あれがあんなふうにできちゃったらラジコンカー対決とおなじになっていっちゃうし。
タイトル、みんな”Fast & Furious 8”って言ってるんだからそれでいいじゃんなー。
冒頭、Dom (Vin Diesel)とLetty (Michelle Rodriguez) はハバナでハネムーンをしてて(今頃かよ、ってみんなつっこむ)、そこで地元の親分とチキチキマシン猛レースみたいないつものめちゃくちゃをやって楽しんでいると、物陰からCipher (Charlize Theron) が現れて、あなた一緒に来て仕事をするのよ、とある映像を見せて誘うとDomは素直に従って、やがて伝説のハッカーである彼女が世界中で爆弾を盗んでテロを計画していることがわかって、Kurt Russell - Hobbs (Dwayne Johnson)以下いつものチームが招集されるのだが、そこにDomはいなくて、追っかけっこを始めてみれば彼は敵のほうの突撃部隊のまんなかにいることがわかって、かつての仲間がいくら呼びかけたり説得したりしても聞きやしないの。
Chipherの一派は追尾できない飛行機で移動していて、Domはどこにいるかもわからないし、彼がなにかを握られて監視されてどうすることもできない状態であることはわかって、そういうなかでDomとどうやってコンタクトをとるのか、どうやって彼がそうなっちゃったのかを探るのか、とか。
このシリーズに関しては派手などんぱちがあって車とか街が派手にぶっとんだりぶっこわれたりするのを見れればそれでよくて、それらがいかに普段なんも考えていそうにない車バカ & 筋肉バカ & ハゲ共のパワーとかブラザーフッド、みたいのの間でぶちかまされるのか、が肝心で、その点ではNYの街中での車シャワーとかはいかにもバカだし、クライマックスの氷上の原潜との対決はスケール的にじゅうぶんなのだけど、頭脳だけでなんでも冷酷にやってのし上がってきた白人Cipherみたいのが敵になっちゃうと、これってどちらかというと007向けのネタだよね、とか思ってしまう。そういうネタ的な段差をあえて楽しむ、ていうのもありだとは思うし、Cipherは過去にはFuriosaという名で肉の修羅場を生き延びてきたツワモノだったのだ、とか想像することもできるかもしれないのだが、最後はやっぱり敵のでっかくて強いのとガチの殴り合いとか肉弾をしてほしいじゃん、て思うのはこっちの勝手だろうか。
それでも最後の最後には「ファミリー」の絆、がいろんなかたちで試されたり現れることになって、とにかくHelen Mirrenはやはり頂点のてっぺんにいたのだ、と。 それだけでよかったっんじゃねえの。
Jason Stathamの赤ん坊担いで殺しまくり拳、はおもしろかったし、Michelle Rodriguezさんの暗いこんちくしょうな眼差しをたっぷり見れたので、よいか。(でもやっぱり最後、Domを思いっきりぶんなぐってほしかったなー)
あと、“Mr. Nobody”がKurt Russellで、その部下のLittle NobodyがClintの息子、ってなんか。
すでにどっかの雑誌で言われていたけど、自動運転カーをリモートでハッキングしてあんなふうにしちゃうのは、まだぜんぜん夢のはなしなので、そこだけなー。 あれがあんなふうにできちゃったらラジコンカー対決とおなじになっていっちゃうし。
4.29.2017
[log] Parisそのた - April 2017
パリのお食事なんかのことを少しだけ。
今回の旅は絵とダンスを見るのが目的だったので、お食事は昼 - 晩 - 昼 - の3回だけ。迷ったり悩んだりする時間なんてないし、カフェでゆったり、なんてありえないのだった。 だからお店も3つだけ。
Buvette
NYのWest Villageのすばらしー朝ごはんスポットで、パリのも行かなきゃな、だったので問答無用で決めていた。15日のお昼、ルーブルとポンピドの間に。 でもアプリの指し示すままに向かってみたらリュクサンブール公園の真ん中に出てしまったので結構あたまにきた(お腹ぺこぺこだったの)。 お店のなかは、生野菜が無造作に転がっているとことか、椅子テーブルがきちきちのとことか、NYの雰囲気と笑っちゃうくらいそっくりだった(NYのが真似てるのか)。クロックマダムもクロワッサンも、あたりまえのようにおいしい。そりゃそうでしょうとも。
Ellsworth
オペラ座のあとに晩御飯を食べた。 バレエが終わるのは21:30くらいで、そんな時間に東洋人がひとりでお店の扉叩いても入れてくれないに決まっているので、遅くまでやっててレビューも悪くなくてオンラインで予約できるとこを事前に絞っていって、いくつかはもう予約いっぱいだったけど、ここは予約することができた。
アスパラガスとフライドチキンとパンナコッタと、ああやっぱりおいしいねえ、しかなかった。
特に野菜は明らかにおいしい。英国よか。 色まで味わうことができるような、そんなおいしさ。
食べおわったあと、真夜中はちょっと怖いかんじがしたので地下鉄ではなくてバスで帰った。
Clamato
日曜の昼、美術館をぜんぶ見終わったあとのランチ。 予約はとらないお店で、12時オープンなのでだいじょうぶではないか、と。 シーフード屋さんで、生牡蠣1ダース食べてイワシ食べてフィッシュバーガー(Clamato-O-Fishだって)食べて、デザートにメープルシロップタルト食べた。生牡蠣(ああ、憧れだったフランスの生牡蠣)、あれなら30個いけるかも。朝から。 いかん。こんなところに暮らしたら秒速でデブになってカエルみたいに破裂してしんじゃうわ。
泊まったところがサン=ジェルマン=デ=プレだったので、帰る間際にうろうろして、ドゥマゴのほんものだー、とか無邪気にチョコ買ったりジャム買ったりした。
あと、本屋は一軒だけ、土曜日の美術館ぜんぶ終わったあと、オペラ座に行く前、Shakespeare and Companyにだけ行った。聖地だし。 入り口の前に列ができてて、またかよ… て絶望的になったがとにかく並んで入った。 中に置いてある本は英米のインディペンデント系の書店にあるのとあまり変わらなかったので2階とかに昇って雰囲気だけ。 いいなー毎日きたいなー、だった。
一冊くらいお土産に、とここの歴史本 - ”A History of the Rag & Bone Shop of the Heart”をレジに持っていって、「ハンコ押す?」といわれたので「ういうい!」て押してもらった。子供か..
こんなもんかなー。 また行かなきゃなー。
TVで”Carol”やってる。胸がいたくなるけど素敵だよねえ。
今回の旅は絵とダンスを見るのが目的だったので、お食事は昼 - 晩 - 昼 - の3回だけ。迷ったり悩んだりする時間なんてないし、カフェでゆったり、なんてありえないのだった。 だからお店も3つだけ。
Buvette
NYのWest Villageのすばらしー朝ごはんスポットで、パリのも行かなきゃな、だったので問答無用で決めていた。15日のお昼、ルーブルとポンピドの間に。 でもアプリの指し示すままに向かってみたらリュクサンブール公園の真ん中に出てしまったので結構あたまにきた(お腹ぺこぺこだったの)。 お店のなかは、生野菜が無造作に転がっているとことか、椅子テーブルがきちきちのとことか、NYの雰囲気と笑っちゃうくらいそっくりだった(NYのが真似てるのか)。クロックマダムもクロワッサンも、あたりまえのようにおいしい。そりゃそうでしょうとも。
Ellsworth
オペラ座のあとに晩御飯を食べた。 バレエが終わるのは21:30くらいで、そんな時間に東洋人がひとりでお店の扉叩いても入れてくれないに決まっているので、遅くまでやっててレビューも悪くなくてオンラインで予約できるとこを事前に絞っていって、いくつかはもう予約いっぱいだったけど、ここは予約することができた。
アスパラガスとフライドチキンとパンナコッタと、ああやっぱりおいしいねえ、しかなかった。
特に野菜は明らかにおいしい。英国よか。 色まで味わうことができるような、そんなおいしさ。
食べおわったあと、真夜中はちょっと怖いかんじがしたので地下鉄ではなくてバスで帰った。
Clamato
日曜の昼、美術館をぜんぶ見終わったあとのランチ。 予約はとらないお店で、12時オープンなのでだいじょうぶではないか、と。 シーフード屋さんで、生牡蠣1ダース食べてイワシ食べてフィッシュバーガー(Clamato-O-Fishだって)食べて、デザートにメープルシロップタルト食べた。生牡蠣(ああ、憧れだったフランスの生牡蠣)、あれなら30個いけるかも。朝から。 いかん。こんなところに暮らしたら秒速でデブになってカエルみたいに破裂してしんじゃうわ。
泊まったところがサン=ジェルマン=デ=プレだったので、帰る間際にうろうろして、ドゥマゴのほんものだー、とか無邪気にチョコ買ったりジャム買ったりした。
あと、本屋は一軒だけ、土曜日の美術館ぜんぶ終わったあと、オペラ座に行く前、Shakespeare and Companyにだけ行った。聖地だし。 入り口の前に列ができてて、またかよ… て絶望的になったがとにかく並んで入った。 中に置いてある本は英米のインディペンデント系の書店にあるのとあまり変わらなかったので2階とかに昇って雰囲気だけ。 いいなー毎日きたいなー、だった。
一冊くらいお土産に、とここの歴史本 - ”A History of the Rag & Bone Shop of the Heart”をレジに持っていって、「ハンコ押す?」といわれたので「ういうい!」て押してもらった。子供か..
こんなもんかなー。 また行かなきゃなー。
TVで”Carol”やってる。胸がいたくなるけど素敵だよねえ。
[art] Vermeer and the Masters of Genre Painting
15〜16日にパリに行ったときの美術館とかを。
15日、電車でパリに着いてホテルには10時くらいにチェックインすることができて、これのチケットは11:30の枠を取っていたので余裕と思って行ったら広場ぜんぶに延々のびたすごい行列があって、並ぶしかないのか… と思って並んでみたのだがぜんぜん列は進まずに1時間が過ぎてしまい、これは見れないかもねえ、とゲートが見えてきたあたりでため息ついたら、チケットを持っているひとは別の入り口からすいすい入っていることがわかって、ばかばかばかのおーばか、って自分を罵りつつ中に入って見ることができた。
Vermeer and the Masters of Genre Painting - 「Vermeerとジャンル絵画の巨匠たち」
Vermeerは気が狂うくらいに好き、というわけでもないのだが、どこかでやっているのでれば見る(日本ではもう見たくないけど)。90年代にあったWashingtonのNational Galleryでの大回顧展を現地まで行きながら見逃した恨みもあるけど、単にきれいだから。 絵画というのは350年くらい過ぎても、こんなにもきれいに輝いているのだなあ、って。 そしてその美しさは画集とかでは無理で生の目玉でみて始めてわかるものなのだ、と。
舞踏会とか楽器とか読書とか手紙とか学問とか、そういう四角の枠で切り取られたテーマ、シチュエーションで、それぞれの役割に応じて(やや過剰な)振り・動きや表情を浮かべる人々がうじゃうじゃ出てくる。 Vermeerを含むオランダの同時代の画家達の作品が沢山並んでいて、こういう中に置いてみるとVermeerは案外ふつう… なんかではやはりないの。どう見ても他の「巨匠たち」とはぜんぜん違うのよね。
「天文学者」と「地理学者」が並んでいるところとか、たまんなかった。
カタログ、どうしようか悩んで結局買わなかった。Vermeerは直接みるのに限るし。また旅をすればいいし。
Valentin de Boulogne: Beyond Caravaggio
Vermeerの隣でやっていた企画展。こちらも17世紀の、でもフランスの画家。Caravaggioの様式やテーマを継ぐ作家、ということで明暗のくっきりしたすごい顔した人たちが蠢く大判絵画がどかどかと並んでいるのだが、ちょっと前、ほんの50m向こうのほうでジャンル絵画のややちんまい、でも居心地よい世界に浸かってしまったあとで神話に地獄に天罰におお神よ、みたいなやたらドラマチックな世界に来てみると、なんか同じ世界で起こったことを描いているものとはとても思えなくて。
でも贔屓したいのはわかるけど”Beyond”はきついかも。Caravaggioの屹立する偉大さが際立ってみえるばかりなのだった。
で、美術館の外に出てから常設のほうを見るのわすれたことに気づいた…
Cy Twombly
The Centre Pompidouに行ったのは始めてて、チケット買っていなかったのでこれも中に入るまでに1時間くらい並んだ。
没後の大回顧で、色のついた絵、線のぐるぐるぐしゃぐしゃ、写真から彫刻までなんでも。
どれも乾いてすりきれていて、かさぶたか、かさぶたが剥がれてきれいな肌がのぞく直前か、かさぶたが剥がれそうだったので引っ掻いたらぐだぐだになってしまった、みたいな絵たちだと思った。
でもそのかさぶたの裏側にあるのはとても静かな石膏の肌のように滑らかな肌理の表面で、原美術館のときにも思ったが、彼の作品を連続して見ていくと絵の向こうからそういう静謐さとか落ち着きがやってくる。 モランディの世界に近いような。
あと、彼の写真も素敵だよね。 ああいうふうに世界を切り取るひとが、ああいう絵画に向かう。
英語版のカタログかった。
Josef Koudelka: La fabrique d'Exils
Pompidouの地下の写真のところでやってた。 昨年、Koudelkaはここに"Exils"の75枚を寄贈したそうなのだが、そのうちの35枚と、あとは同時期に撮られたアウトテイクスとか、旅日記のように纏められたスナップとか、こないだ彼のドキュメンタリー映画を見ていたので、そうなんだろうなー、と。
常設展示は走り抜けた程度。 デュシャンの便器アーカイブのコーナーにはデュシャン関連の世界中の本を纏めたライブラリがあって持ってるのが4冊くらいあった。
Rodin : The Centennial Exhibition
Pompidouのなかにいるときに、通り雨の土砂降りがあって、やめてー、だったのだが外に出たらきれいにあがっていて、そのままGrand Palaisに行った。 並び始めた時点で5時少し前、これも中に入るまでに1時間くらいかかった。
ロダン(1840-1917)の没後100年を記念してロダン美術館と共同開催している展示。
200以上のロダン作品、彫刻にドローイングに、彫刻でもでっかいやつから拳よりちっちゃい生首(ほしい..)とか、いっぱいと、彼以外のアーティスト - Brancusi, Picasso, Matisse, Giacometti, Willem de Kooning, Beuysあたりまでの作品を並べて置いたりしている。
ロダンを見るといつも「かっこいい身体」とか「原型」みたいな言葉が浮かんで、とにかくかっこいいなあ、しかない。 あんなふうにポーズをとって考えたいし空を仰ぎたいし突っ立っていたいし、あんなふうに抱擁したいしキスしたいし、みたいなことを切望して、でもできないので石膏固めにされるか石膏ぶつけられるかしちまえ、みたいになる。 ロダンを見ているとそういうため息の連続のなかで酸欠になることが多いのだが、今回は他のアーティストのがうまく隣や横で適当に(無言で)つっこんでくれたりしているので、なかなか素敵だった。
カタログは買わない。立体の展示だし。
Camille Pissarro : le premier des impressionnistes
日曜日の朝最初に行ったのがMusée Marmottan Monetでのこれ。パリでPissarroの回顧展が開かれるのは40年ぶりだそうで、展示されている絵を見ていくとヨーロッパだけではなくてアメリカのピッツバーグとかミネアポリスとかデンバーとか、よくこんなとこから運んで纏めたよね、な60点がびっちり並んでいて、それらを眺めていくだけで日曜の朝の散歩としてこんなに気持ちよいもんはなかった。
前日のロダンではないけど、Pissarroが描いた田園風景とか小道とか、その光や奥へと誘う広がりとかって、その後のいろんな写真とか映画とかに緩やかに反映されて(好きな言葉ではないけど)「原風景」みたいになっているんだろうな、とか思った。
Marmottanに来たのは初めてで、Pissarro展以外で訪れた理由としては有名なMonetの常設展示のほかにBerthe Morisotのコレクションがあるからで、それもすごくよかったの。小さな落書きみたいなデッサンもいっぱいあるし、Manetの描いた有名な彼女の肖像画も。
Pissarroのカタログは買わなかった、けどMorisotのほうを買っちゃった。
Baroque during the Enlightenment: 18th Century Masterpieces in Paris Churches
Marmottanの後、地下鉄の広告で見ていたやつを見たくなってPetit Palaisに行った。
混んでいたらやめよ、だったのだがぜんぜん列もなくてがらがらだった。
18世紀のバロックの光に溢れた絵画とか彫刻とかを広々したスペースにいっぱいに並べてある。
有名な、特別な逸品みたいのはないかんじ(たぶん)なのだが、展示してある場所がとっても気持ちよく荘厳で神々しいのでありがたやありがたや、って半部懺悔しつつ参拝するかんじで通り過ぎる。 Pissarroとは別の意味で日曜日の朝向けだったかも。
From Watteau to David: The Horvitz Collection
アメリカ人コレクターJeffrey Horvitzが集めたコレクションから、フランスのデッサン画を中心にあれこれいっぱい展示していて、どれもめちゃくちゃ巧くて構図も決まっててかっこいい。BouchardonにしてもHubert RobertにしてもGreuzeもFragonard(こいつ、変だけど)も。
ここの常設展示も、てんでばらばらで油断ならなくて、おもしろかった。
パリから戻った翌日の17日にはBrightonに海を見にいって、Brighton Museum & Art Galleryていうのを見かけて、”Constable and Brighton”ていう企画展をやっていたので入ってみた。 Constableは数年前にLondonのRoyal Academy of Artで規模大きめの企画展があって、このひとの海はすごいなー、て思ったのだった。 展示点数は少なかったけど、こじんまり纏まっていてよかった。この美術館、そんなに大きくないのに絵画だけじゃなくてファッションも映画も家具も陶器も、地元の収集品を中心にほんとうにがんばっていて感動した。
次の企画展のタイトルは”Jane Austen by the Sea” だって。 がんばれ!!
学芸員のこと悪く言った日本のクソ政治家、ぜったい許さねえからな。
15日、電車でパリに着いてホテルには10時くらいにチェックインすることができて、これのチケットは11:30の枠を取っていたので余裕と思って行ったら広場ぜんぶに延々のびたすごい行列があって、並ぶしかないのか… と思って並んでみたのだがぜんぜん列は進まずに1時間が過ぎてしまい、これは見れないかもねえ、とゲートが見えてきたあたりでため息ついたら、チケットを持っているひとは別の入り口からすいすい入っていることがわかって、ばかばかばかのおーばか、って自分を罵りつつ中に入って見ることができた。
Vermeer and the Masters of Genre Painting - 「Vermeerとジャンル絵画の巨匠たち」
Vermeerは気が狂うくらいに好き、というわけでもないのだが、どこかでやっているのでれば見る(日本ではもう見たくないけど)。90年代にあったWashingtonのNational Galleryでの大回顧展を現地まで行きながら見逃した恨みもあるけど、単にきれいだから。 絵画というのは350年くらい過ぎても、こんなにもきれいに輝いているのだなあ、って。 そしてその美しさは画集とかでは無理で生の目玉でみて始めてわかるものなのだ、と。
舞踏会とか楽器とか読書とか手紙とか学問とか、そういう四角の枠で切り取られたテーマ、シチュエーションで、それぞれの役割に応じて(やや過剰な)振り・動きや表情を浮かべる人々がうじゃうじゃ出てくる。 Vermeerを含むオランダの同時代の画家達の作品が沢山並んでいて、こういう中に置いてみるとVermeerは案外ふつう… なんかではやはりないの。どう見ても他の「巨匠たち」とはぜんぜん違うのよね。
「天文学者」と「地理学者」が並んでいるところとか、たまんなかった。
カタログ、どうしようか悩んで結局買わなかった。Vermeerは直接みるのに限るし。また旅をすればいいし。
Valentin de Boulogne: Beyond Caravaggio
Vermeerの隣でやっていた企画展。こちらも17世紀の、でもフランスの画家。Caravaggioの様式やテーマを継ぐ作家、ということで明暗のくっきりしたすごい顔した人たちが蠢く大判絵画がどかどかと並んでいるのだが、ちょっと前、ほんの50m向こうのほうでジャンル絵画のややちんまい、でも居心地よい世界に浸かってしまったあとで神話に地獄に天罰におお神よ、みたいなやたらドラマチックな世界に来てみると、なんか同じ世界で起こったことを描いているものとはとても思えなくて。
でも贔屓したいのはわかるけど”Beyond”はきついかも。Caravaggioの屹立する偉大さが際立ってみえるばかりなのだった。
で、美術館の外に出てから常設のほうを見るのわすれたことに気づいた…
Cy Twombly
The Centre Pompidouに行ったのは始めてて、チケット買っていなかったのでこれも中に入るまでに1時間くらい並んだ。
没後の大回顧で、色のついた絵、線のぐるぐるぐしゃぐしゃ、写真から彫刻までなんでも。
どれも乾いてすりきれていて、かさぶたか、かさぶたが剥がれてきれいな肌がのぞく直前か、かさぶたが剥がれそうだったので引っ掻いたらぐだぐだになってしまった、みたいな絵たちだと思った。
でもそのかさぶたの裏側にあるのはとても静かな石膏の肌のように滑らかな肌理の表面で、原美術館のときにも思ったが、彼の作品を連続して見ていくと絵の向こうからそういう静謐さとか落ち着きがやってくる。 モランディの世界に近いような。
あと、彼の写真も素敵だよね。 ああいうふうに世界を切り取るひとが、ああいう絵画に向かう。
英語版のカタログかった。
Josef Koudelka: La fabrique d'Exils
Pompidouの地下の写真のところでやってた。 昨年、Koudelkaはここに"Exils"の75枚を寄贈したそうなのだが、そのうちの35枚と、あとは同時期に撮られたアウトテイクスとか、旅日記のように纏められたスナップとか、こないだ彼のドキュメンタリー映画を見ていたので、そうなんだろうなー、と。
常設展示は走り抜けた程度。 デュシャンの便器アーカイブのコーナーにはデュシャン関連の世界中の本を纏めたライブラリがあって持ってるのが4冊くらいあった。
Rodin : The Centennial Exhibition
Pompidouのなかにいるときに、通り雨の土砂降りがあって、やめてー、だったのだが外に出たらきれいにあがっていて、そのままGrand Palaisに行った。 並び始めた時点で5時少し前、これも中に入るまでに1時間くらいかかった。
ロダン(1840-1917)の没後100年を記念してロダン美術館と共同開催している展示。
200以上のロダン作品、彫刻にドローイングに、彫刻でもでっかいやつから拳よりちっちゃい生首(ほしい..)とか、いっぱいと、彼以外のアーティスト - Brancusi, Picasso, Matisse, Giacometti, Willem de Kooning, Beuysあたりまでの作品を並べて置いたりしている。
ロダンを見るといつも「かっこいい身体」とか「原型」みたいな言葉が浮かんで、とにかくかっこいいなあ、しかない。 あんなふうにポーズをとって考えたいし空を仰ぎたいし突っ立っていたいし、あんなふうに抱擁したいしキスしたいし、みたいなことを切望して、でもできないので石膏固めにされるか石膏ぶつけられるかしちまえ、みたいになる。 ロダンを見ているとそういうため息の連続のなかで酸欠になることが多いのだが、今回は他のアーティストのがうまく隣や横で適当に(無言で)つっこんでくれたりしているので、なかなか素敵だった。
カタログは買わない。立体の展示だし。
Camille Pissarro : le premier des impressionnistes
日曜日の朝最初に行ったのがMusée Marmottan Monetでのこれ。パリでPissarroの回顧展が開かれるのは40年ぶりだそうで、展示されている絵を見ていくとヨーロッパだけではなくてアメリカのピッツバーグとかミネアポリスとかデンバーとか、よくこんなとこから運んで纏めたよね、な60点がびっちり並んでいて、それらを眺めていくだけで日曜の朝の散歩としてこんなに気持ちよいもんはなかった。
前日のロダンではないけど、Pissarroが描いた田園風景とか小道とか、その光や奥へと誘う広がりとかって、その後のいろんな写真とか映画とかに緩やかに反映されて(好きな言葉ではないけど)「原風景」みたいになっているんだろうな、とか思った。
Marmottanに来たのは初めてで、Pissarro展以外で訪れた理由としては有名なMonetの常設展示のほかにBerthe Morisotのコレクションがあるからで、それもすごくよかったの。小さな落書きみたいなデッサンもいっぱいあるし、Manetの描いた有名な彼女の肖像画も。
Pissarroのカタログは買わなかった、けどMorisotのほうを買っちゃった。
Baroque during the Enlightenment: 18th Century Masterpieces in Paris Churches
Marmottanの後、地下鉄の広告で見ていたやつを見たくなってPetit Palaisに行った。
混んでいたらやめよ、だったのだがぜんぜん列もなくてがらがらだった。
18世紀のバロックの光に溢れた絵画とか彫刻とかを広々したスペースにいっぱいに並べてある。
有名な、特別な逸品みたいのはないかんじ(たぶん)なのだが、展示してある場所がとっても気持ちよく荘厳で神々しいのでありがたやありがたや、って半部懺悔しつつ参拝するかんじで通り過ぎる。 Pissarroとは別の意味で日曜日の朝向けだったかも。
From Watteau to David: The Horvitz Collection
アメリカ人コレクターJeffrey Horvitzが集めたコレクションから、フランスのデッサン画を中心にあれこれいっぱい展示していて、どれもめちゃくちゃ巧くて構図も決まっててかっこいい。BouchardonにしてもHubert RobertにしてもGreuzeもFragonard(こいつ、変だけど)も。
ここの常設展示も、てんでばらばらで油断ならなくて、おもしろかった。
パリから戻った翌日の17日にはBrightonに海を見にいって、Brighton Museum & Art Galleryていうのを見かけて、”Constable and Brighton”ていう企画展をやっていたので入ってみた。 Constableは数年前にLondonのRoyal Academy of Artで規模大きめの企画展があって、このひとの海はすごいなー、て思ったのだった。 展示点数は少なかったけど、こじんまり纏まっていてよかった。この美術館、そんなに大きくないのに絵画だけじゃなくてファッションも映画も家具も陶器も、地元の収集品を中心にほんとうにがんばっていて感動した。
次の企画展のタイトルは”Jane Austen by the Sea” だって。 がんばれ!!
学芸員のこと悪く言った日本のクソ政治家、ぜったい許さねえからな。
4.27.2017
[film] The Handmaiden (2016) - Director's cut
イースターの4連休初日の金曜日の午後、SOHOのCurzonでみました。 『お嬢さん』。
(主役はどうみても下女の珠子のほうなので、英語タイトルのほうが正しいと思うのだが、日本だと... まあいいや)
こっちでは通常の144分のと、それより20分長いDirector's Cutの2種類を上映していて、どうせなら、と長いほうにした。
英国では公開前のプロモーションは相当やっていて、こちらのポスターは日本髪・着物の秀子がまんなかにでーんといるGeisha ! なやつで、あーあ、なのだが、レビューはSarah Watersの"Fingersmith"がどう料理されたか、などを中心に割と好意的なかんじ。
日本統治下の韓国で、山奥のお屋敷にメイドとして送られてお嬢さん秀子さまのお付きになったスッキ = 珠子は、秀子と結婚して莫大な財産をぶんどろうとするエセ伯爵と詐欺師仲間で仕込みを進めていくのだが、秀子さまのお世話をしていくうちに互いに惹かれていくものがあって、でも陰謀のほうも着々と進行していって、どっちにどう転ぶのか。
人里離れた閉鎖的な場所で、何人もの下女を抱えてやりたい放題豪勢に暮らす占領する側の貴族 - その内部でもいろんなオイエのダークな事情や駆け引きがあり、占領され、奴隷として働くことを余儀なくされる側にもそれなりの事情や駆け引きがあり、その両者間の水面下のねちねちやらしい攻防を描きつつ、水槽のタコ(あれ本物?)のようにそこからばしゃばしゃ溢れて止まらなくなる欲とか業とかを掬いあげて、愛の名のもとに水槽をばしゃーんてひっくり返してみよう、とか。
迫害・騙しあいを中心にした権力抗争のドラマと見るか、その関係が集約されてくる主人(複数)と下女との愛と憎しみの相克ドラマとして見るか、それらぜんぶを過去のいろんな記憶とか仕掛け - 建築物 - とかも含めて重層的に構築しようとすると全3部、2時間半はかかってしまうのだろうし、これだけの時間をかけていろいろ散りばめたが故にラストのカタルシスも効いてくるのだとは思うのだが、やっぱり、ちょっと冗長・重厚すぎたのではないかしらん。 あと、ほんとうに重厚なドラマにするのだったら男側の叔父さんとか、ちょっと役不足だよね。 TVドラマならありかもだけど。
でも主役の女の子ふたり(あと自殺してしまう叔母)だけはとても生々しくそこにあるかんじがしたので、それで十分だとも思った。
田中登とか神代辰巳だったらもっと古い屋敷のゴスでねっとり隠微なかんじを出せたと思うし、鈴木則文だったらもっと痛快でパンクなかんじにできたと思うし、でもそういうのはないものねだりで、今の邦画にこれだけのパワーをもった怪作を作れるかんじはしない。それがどうした、ではあるのだが、ね。
あと、本をあんなふうにしちゃうのはいけないわ。 ツタヤ並みにひどいわ。
Jonathan Demmeがあまりに突然逝ってしまい、彼の新作を見れなくなるというのがどういう事態なのか、とっても悲しい、と口でいうことはいくらでもできるのだが、まだきちんと飲みこめていない。 Neil Youngの新しい映像はもう見れなくなってしまうのか。
みんなそれぞれ思い出のライブフィルムやシーンがいっぱい出てくると思うけど、最近のドラマだと”Ricki and the Flash” (2015) から”My Love Will Not Let You Down”を。
ありがとうございました。 R.I.P.
(主役はどうみても下女の珠子のほうなので、英語タイトルのほうが正しいと思うのだが、日本だと... まあいいや)
こっちでは通常の144分のと、それより20分長いDirector's Cutの2種類を上映していて、どうせなら、と長いほうにした。
英国では公開前のプロモーションは相当やっていて、こちらのポスターは日本髪・着物の秀子がまんなかにでーんといるGeisha ! なやつで、あーあ、なのだが、レビューはSarah Watersの"Fingersmith"がどう料理されたか、などを中心に割と好意的なかんじ。
日本統治下の韓国で、山奥のお屋敷にメイドとして送られてお嬢さん秀子さまのお付きになったスッキ = 珠子は、秀子と結婚して莫大な財産をぶんどろうとするエセ伯爵と詐欺師仲間で仕込みを進めていくのだが、秀子さまのお世話をしていくうちに互いに惹かれていくものがあって、でも陰謀のほうも着々と進行していって、どっちにどう転ぶのか。
人里離れた閉鎖的な場所で、何人もの下女を抱えてやりたい放題豪勢に暮らす占領する側の貴族 - その内部でもいろんなオイエのダークな事情や駆け引きがあり、占領され、奴隷として働くことを余儀なくされる側にもそれなりの事情や駆け引きがあり、その両者間の水面下のねちねちやらしい攻防を描きつつ、水槽のタコ(あれ本物?)のようにそこからばしゃばしゃ溢れて止まらなくなる欲とか業とかを掬いあげて、愛の名のもとに水槽をばしゃーんてひっくり返してみよう、とか。
迫害・騙しあいを中心にした権力抗争のドラマと見るか、その関係が集約されてくる主人(複数)と下女との愛と憎しみの相克ドラマとして見るか、それらぜんぶを過去のいろんな記憶とか仕掛け - 建築物 - とかも含めて重層的に構築しようとすると全3部、2時間半はかかってしまうのだろうし、これだけの時間をかけていろいろ散りばめたが故にラストのカタルシスも効いてくるのだとは思うのだが、やっぱり、ちょっと冗長・重厚すぎたのではないかしらん。 あと、ほんとうに重厚なドラマにするのだったら男側の叔父さんとか、ちょっと役不足だよね。 TVドラマならありかもだけど。
でも主役の女の子ふたり(あと自殺してしまう叔母)だけはとても生々しくそこにあるかんじがしたので、それで十分だとも思った。
田中登とか神代辰巳だったらもっと古い屋敷のゴスでねっとり隠微なかんじを出せたと思うし、鈴木則文だったらもっと痛快でパンクなかんじにできたと思うし、でもそういうのはないものねだりで、今の邦画にこれだけのパワーをもった怪作を作れるかんじはしない。それがどうした、ではあるのだが、ね。
あと、本をあんなふうにしちゃうのはいけないわ。 ツタヤ並みにひどいわ。
Jonathan Demmeがあまりに突然逝ってしまい、彼の新作を見れなくなるというのがどういう事態なのか、とっても悲しい、と口でいうことはいくらでもできるのだが、まだきちんと飲みこめていない。 Neil Youngの新しい映像はもう見れなくなってしまうのか。
みんなそれぞれ思い出のライブフィルムやシーンがいっぱい出てくると思うけど、最近のドラマだと”Ricki and the Flash” (2015) から”My Love Will Not Let You Down”を。
ありがとうございました。 R.I.P.
4.26.2017
[music] Caetano Veloso & Teresa Cristina
21日、金曜日の晩、ふたたびBarbicanに行ってライブ。チケットを取ったとき、引越し前日であることはわかっていた気がする。 でも引越し当日だったとしてもたぶん行ったのだとおもう。
もういっこ、同じ日でぶつかっていた少し悩んだライブがあって、Southbankでの"An Ambient Evening with The Orb & Friends Electrical"ていうアンビエントの人たちがいっぱい出るやつで、アンビエントってライブでちゃんと聴いたことがないしな、だったのだがこれ4時間やる、って書いてあったので諦めた。 引越し前夜に4時間もライブで遊んでいるわけにはいかない - でも結局どっちみちなーんもやらなかったよね、きみ。
これ、昨年10月の恵比寿のモントルーのに行けなかった復讐でもあって、Caetanoのライブってどれくらいぶりなのか、を掘ってみると、最後に見たのは2004年、Carnegie HallのDavid Byrneと一緒にやったやつだった。13年ぶり … やーねー。
もう四半世紀以上前(1990?)、考えたくもないくらいおお昔の日本青年館での初来日のライブで - 英国音楽の衰退とグランジの台頭で路頭に迷いかけていた自分の - 音楽観をひっくり返してくれたのが彼のライブで、以降NYでは結構通ったりしたのだが、ここんところはぜんぜんで、でも行きたいなー行かなきゃなー、だったの。
最初にCaetanoがひとりで出てきて、丁寧に会場に少しだけいる(笑)English Speakerのために英語でお話します、と(ぱちぱち)。
このコンサートでは、ギターとシンガー、3人くらいの最小構成でサンバのエッセンスを表現する、というのをやってみたかったのです、と。 うんうん。
最初にTeresa Cristinaさんとギター(7弦?)のCarlinhos Sete Cordasさんによるデュオ。
ギターとは思えない音域を自在に上下する分厚い伴奏にTeresaさんのゆったりどっしりとした歌唱が絡んで、びくともしない重心の低さと強さで吹きあげてくる。
一緒に歌えるような技術レベルではないので鼻歌でふんふんするひと多数。 MCでおもしろかったのはEscola de SambaのMangueiraの歌を歌うとき、あたしはずっとPortela(別の名門Escolaね)の歌い手だったんだ、これってどういうことかというと、マンチェスターのサポーターがチェルシーの応援歌を歌うようなもんなんだ、わかるか? って。 (場内爆笑)
40分弱のTeresaさんの歌のあと、間をおかずにCaetanoがギターいっぽん抱えて登場してさくさく歌いだす。
ああこれ、この声だわ。で、それだけでぜんぶ満たされて、音で満たされる、音が満ちてくるというのはこういうことなのだ、ということを思い出してうっとり。
6曲目くらいに"O Leãozinho”(小ライオンさん)を、それに続けて"Menino do Rio"を歌ってくれて、もうこれでいつしんでもいい引越しなんてどうなったっていい、になって、それからだれも「あの"Moonlight"の」なんて言わなくたってよい絶対の名曲"Cucurrucucú Paloma"をやって、英語のアカペラでCole Porterの”Love for Sale"をやって、最後は3人で"Desde que o Samba é Samba"をやって"Odara"をやって、2時間びっちり。 サンバがどう、ボッサがどう、という以前になんでこんなに不思議に響いてくるのか、なんでこんなに揺さぶられてしまうのだろう、てそればかり思っていた。思ったところでどうなるもんでもない、かきむしられてぼうっとして、それで終わりなんだ。
恋とはそういうもの。たとえばね。
それにしてもロンドンの人たちは、一緒に歌う歌う。 NYのライブではここまでみんなが歌うってなかったよねえ。ロンドンは60年代末、CaetanoとGilが亡命していた先でもあって、Caetanoのほうにも思い入れいっぱいあるようだった。
Caetanoはもう74歳で、それにしてはありえない声で、ずうっと、何度でも聴いていたい。
そして翌日の引越しのあいだは、小ライオンさんが足元にえんえんまとわりついてくるのだった。
もういっこ、同じ日でぶつかっていた少し悩んだライブがあって、Southbankでの"An Ambient Evening with The Orb & Friends Electrical"ていうアンビエントの人たちがいっぱい出るやつで、アンビエントってライブでちゃんと聴いたことがないしな、だったのだがこれ4時間やる、って書いてあったので諦めた。 引越し前夜に4時間もライブで遊んでいるわけにはいかない - でも結局どっちみちなーんもやらなかったよね、きみ。
これ、昨年10月の恵比寿のモントルーのに行けなかった復讐でもあって、Caetanoのライブってどれくらいぶりなのか、を掘ってみると、最後に見たのは2004年、Carnegie HallのDavid Byrneと一緒にやったやつだった。13年ぶり … やーねー。
もう四半世紀以上前(1990?)、考えたくもないくらいおお昔の日本青年館での初来日のライブで - 英国音楽の衰退とグランジの台頭で路頭に迷いかけていた自分の - 音楽観をひっくり返してくれたのが彼のライブで、以降NYでは結構通ったりしたのだが、ここんところはぜんぜんで、でも行きたいなー行かなきゃなー、だったの。
最初にCaetanoがひとりで出てきて、丁寧に会場に少しだけいる(笑)English Speakerのために英語でお話します、と(ぱちぱち)。
このコンサートでは、ギターとシンガー、3人くらいの最小構成でサンバのエッセンスを表現する、というのをやってみたかったのです、と。 うんうん。
最初にTeresa Cristinaさんとギター(7弦?)のCarlinhos Sete Cordasさんによるデュオ。
ギターとは思えない音域を自在に上下する分厚い伴奏にTeresaさんのゆったりどっしりとした歌唱が絡んで、びくともしない重心の低さと強さで吹きあげてくる。
一緒に歌えるような技術レベルではないので鼻歌でふんふんするひと多数。 MCでおもしろかったのはEscola de SambaのMangueiraの歌を歌うとき、あたしはずっとPortela(別の名門Escolaね)の歌い手だったんだ、これってどういうことかというと、マンチェスターのサポーターがチェルシーの応援歌を歌うようなもんなんだ、わかるか? って。 (場内爆笑)
40分弱のTeresaさんの歌のあと、間をおかずにCaetanoがギターいっぽん抱えて登場してさくさく歌いだす。
ああこれ、この声だわ。で、それだけでぜんぶ満たされて、音で満たされる、音が満ちてくるというのはこういうことなのだ、ということを思い出してうっとり。
6曲目くらいに"O Leãozinho”(小ライオンさん)を、それに続けて"Menino do Rio"を歌ってくれて、もうこれでいつしんでもいい引越しなんてどうなったっていい、になって、それからだれも「あの"Moonlight"の」なんて言わなくたってよい絶対の名曲"Cucurrucucú Paloma"をやって、英語のアカペラでCole Porterの”Love for Sale"をやって、最後は3人で"Desde que o Samba é Samba"をやって"Odara"をやって、2時間びっちり。 サンバがどう、ボッサがどう、という以前になんでこんなに不思議に響いてくるのか、なんでこんなに揺さぶられてしまうのだろう、てそればかり思っていた。思ったところでどうなるもんでもない、かきむしられてぼうっとして、それで終わりなんだ。
恋とはそういうもの。たとえばね。
それにしてもロンドンの人たちは、一緒に歌う歌う。 NYのライブではここまでみんなが歌うってなかったよねえ。ロンドンは60年代末、CaetanoとGilが亡命していた先でもあって、Caetanoのほうにも思い入れいっぱいあるようだった。
Caetanoはもう74歳で、それにしてはありえない声で、ずうっと、何度でも聴いていたい。
そして翌日の引越しのあいだは、小ライオンさんが足元にえんえんまとわりついてくるのだった。
4.25.2017
[theater] Obsession
からだじゅうがいたいよう。
18日の火曜日から20日の木曜日までのドイツ〜オランダ出張は、団体行動で言われるままに右に左に動いていたのでぜーんぜんおもしろいことないままに終わってしまった。
ひとつだけ、Essenで泊まったホテルの隣にMuseum Folkwangていうのがあって、そこでGerhard Richterの展覧会 - “Die Editionen.” - をやっていたことか。 あんなのやっているのを見てしまった以上、しれっと突入しないわけにはいかなくなって、次の会議までの合間の15分くらいで中に入ってざーっと見て、小さなカタログも買った。 “Die Editionen.”ていうのは「エディション」、つまりは「版」ということで、彼のプリントワークを中心に彼にとってのバージョンとか複製、といった考え方を提示している - メインのイメージはSonic Youthの”Daydream Nation” (1988)にも使われた”Kerze” - ようだったが、そういう主旨のものであるから数だけはいっぱい並んでいて、きちんと見きれなかったのが残念だったよう。
あとは、帰りにロッテルダムからアムステルダムの空港に向かう電車 - ひとりで乗った - 早とちりして直行ではなく遠回りの各駅に乗ってしまい少しびっくりしたが、デルフトとかハーグを通ったので、ああこれがデルフトかあー、と思ったこととか。 アムステルダムの空港内のチューリップ屋さんとかチーズが… とか。(チーズ、買っちゃうよねあんなの)
ふだんチケットを買っておいてもこういう出張が入って諦めざるを得なくなるのはこれまで何十回もあって、これもあーあしょうがないかー、だったのだが、チケットをようく見てみると開始は19:45とあって、空港に着く予定は18:25で、こういう短距離の飛行機は遅れたりするので期待はしないけどひょっとしたら.. とかじわじわ思うようになって、そうしたらほんとに時間通りに着いちゃったので、待っていた運転手のひとに自宅ではなくbarbicanのほうに行ってください、とお願いして、とりあえず直行して、クロークに荷物預けて、見ました。
“Obsession” - ヴィスコンティによる1942年の映画『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(原作:ジェームズ・M・ケイン)をIvo van Hoveが舞台化したもの。休憩なしの一幕、1時間50分。
舞台の真ん中には上から自動車と思われるエンジンのついた機械(ボタンを押すと轟音でエンジンがかかって煙があがる)が吊り下がっていて、開演前からGiuseppe (Gijs Scholten van Aschat)はその下に横たわってなんか作業をしている。
この自動車は最後までそこに垂れていて、不機嫌かつ冷徹な機械として命令されるままに「機能」したり「作動」したりする。
そこにハーモニカを吹きながら野卑で自由なGino (Jude Law)が流れてきて、つまんなそうに座っていたGiuseppeの若い妻Giovanna (Halina Reijn) と一瞬で、衝動的に恋におちて、やがてGiuseppeに雇われたGinoと3人で暮らし始めるのだが、なんか違うとGinoは再び旅にでて、偶然再会したらやっぱり燃えあがってしまったふたりはうざいGiuseppeを殺してしまって…
(映画とは結末が少しちがうかも)
常になにかに飢えてて満たされないまま日々を過ごしているGino、年の離れた夫に同じく満たされず、といって他に行きようのないまま囚われの日々を過ごしているGiovanna、Giuseppeだけがほぼすべてを握って満たされていて、そのように振る舞って許されるエゴとパワーを持っている。
欲望や衝動のダイナミックな動きとそれが必然的にぶつかってしまう障壁と、同じくそこに必然的に現れる亀裂と訪れる悲劇と、それらのもどかしさはこれまでNTLなどで見てきたIvo van Hoveの舞台とおなじかんじなのだが、今回のはとっても官能的で生生しいかんじがした。 NTLでみた"A View from the Bridge"のMark Strong、NYで舞台をみた"The Crucible"のBen Whishawと同じようにJude Lawもするするあっというまに上半身裸になってしまうのだが、前のふたりの裸には立ちはだかる制度や偏見に衝突した果てに現れる生身の身体の切迫感があったのに対し、Jude Lawのは欲望の赴くままの剥き出しに自由を求めていて、それをきっかけにいろんな困難や問題がなだれ込んでくる、そんなふう。 それに正面から応えて飛沫をあげるGiovanna役のHalina Reijnも堂々と力強くてエロい。
Jude Law自身がそもそも持っているワイルドな力強さを改めてすごーいと再認識した。ヴィスコンティの映画にいかにも登場しそうな、端正だけどぎらぎらした野生を抱えこんだ貌をじゅうぶん堪能できる。
シンプルな舞台にプロジェクションしたりとてつもない音を被せたり、は今回も同様で、ラブシーンの際はふたりの重なり合う顔面がでっかく映し出されたり、えんえん走り続ける(しかない)Jude Lawの顔とか。音だとエンジンの爆音と野良猫撃ちの鉄砲の音がものすごかった。
終わって、ガラガラを転がしながら地下鉄で帰るのがしんどかったが、こんなの、その二日後に控えた引っ越しに比べたら屁でもないのだった。
18日の火曜日から20日の木曜日までのドイツ〜オランダ出張は、団体行動で言われるままに右に左に動いていたのでぜーんぜんおもしろいことないままに終わってしまった。
ひとつだけ、Essenで泊まったホテルの隣にMuseum Folkwangていうのがあって、そこでGerhard Richterの展覧会 - “Die Editionen.” - をやっていたことか。 あんなのやっているのを見てしまった以上、しれっと突入しないわけにはいかなくなって、次の会議までの合間の15分くらいで中に入ってざーっと見て、小さなカタログも買った。 “Die Editionen.”ていうのは「エディション」、つまりは「版」ということで、彼のプリントワークを中心に彼にとってのバージョンとか複製、といった考え方を提示している - メインのイメージはSonic Youthの”Daydream Nation” (1988)にも使われた”Kerze” - ようだったが、そういう主旨のものであるから数だけはいっぱい並んでいて、きちんと見きれなかったのが残念だったよう。
あとは、帰りにロッテルダムからアムステルダムの空港に向かう電車 - ひとりで乗った - 早とちりして直行ではなく遠回りの各駅に乗ってしまい少しびっくりしたが、デルフトとかハーグを通ったので、ああこれがデルフトかあー、と思ったこととか。 アムステルダムの空港内のチューリップ屋さんとかチーズが… とか。(チーズ、買っちゃうよねあんなの)
ふだんチケットを買っておいてもこういう出張が入って諦めざるを得なくなるのはこれまで何十回もあって、これもあーあしょうがないかー、だったのだが、チケットをようく見てみると開始は19:45とあって、空港に着く予定は18:25で、こういう短距離の飛行機は遅れたりするので期待はしないけどひょっとしたら.. とかじわじわ思うようになって、そうしたらほんとに時間通りに着いちゃったので、待っていた運転手のひとに自宅ではなくbarbicanのほうに行ってください、とお願いして、とりあえず直行して、クロークに荷物預けて、見ました。
“Obsession” - ヴィスコンティによる1942年の映画『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(原作:ジェームズ・M・ケイン)をIvo van Hoveが舞台化したもの。休憩なしの一幕、1時間50分。
舞台の真ん中には上から自動車と思われるエンジンのついた機械(ボタンを押すと轟音でエンジンがかかって煙があがる)が吊り下がっていて、開演前からGiuseppe (Gijs Scholten van Aschat)はその下に横たわってなんか作業をしている。
この自動車は最後までそこに垂れていて、不機嫌かつ冷徹な機械として命令されるままに「機能」したり「作動」したりする。
そこにハーモニカを吹きながら野卑で自由なGino (Jude Law)が流れてきて、つまんなそうに座っていたGiuseppeの若い妻Giovanna (Halina Reijn) と一瞬で、衝動的に恋におちて、やがてGiuseppeに雇われたGinoと3人で暮らし始めるのだが、なんか違うとGinoは再び旅にでて、偶然再会したらやっぱり燃えあがってしまったふたりはうざいGiuseppeを殺してしまって…
(映画とは結末が少しちがうかも)
常になにかに飢えてて満たされないまま日々を過ごしているGino、年の離れた夫に同じく満たされず、といって他に行きようのないまま囚われの日々を過ごしているGiovanna、Giuseppeだけがほぼすべてを握って満たされていて、そのように振る舞って許されるエゴとパワーを持っている。
欲望や衝動のダイナミックな動きとそれが必然的にぶつかってしまう障壁と、同じくそこに必然的に現れる亀裂と訪れる悲劇と、それらのもどかしさはこれまでNTLなどで見てきたIvo van Hoveの舞台とおなじかんじなのだが、今回のはとっても官能的で生生しいかんじがした。 NTLでみた"A View from the Bridge"のMark Strong、NYで舞台をみた"The Crucible"のBen Whishawと同じようにJude Lawもするするあっというまに上半身裸になってしまうのだが、前のふたりの裸には立ちはだかる制度や偏見に衝突した果てに現れる生身の身体の切迫感があったのに対し、Jude Lawのは欲望の赴くままの剥き出しに自由を求めていて、それをきっかけにいろんな困難や問題がなだれ込んでくる、そんなふう。 それに正面から応えて飛沫をあげるGiovanna役のHalina Reijnも堂々と力強くてエロい。
Jude Law自身がそもそも持っているワイルドな力強さを改めてすごーいと再認識した。ヴィスコンティの映画にいかにも登場しそうな、端正だけどぎらぎらした野生を抱えこんだ貌をじゅうぶん堪能できる。
シンプルな舞台にプロジェクションしたりとてつもない音を被せたり、は今回も同様で、ラブシーンの際はふたりの重なり合う顔面がでっかく映し出されたり、えんえん走り続ける(しかない)Jude Lawの顔とか。音だとエンジンの爆音と野良猫撃ちの鉄砲の音がものすごかった。
終わって、ガラガラを転がしながら地下鉄で帰るのがしんどかったが、こんなの、その二日後に控えた引っ越しに比べたら屁でもないのだった。
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